相撲神社
どうして、こんな山上に祀ったかというと、この土地の名は、カタヤケシといいカタヤは方屋(片屋)土俵場、あるいは東西力士の控え場所という意味をもつので、ここを相撲発祥の地と定めたということらしい。
第11代垂仁天皇の代、大和の二上山の麓当麻に、蹴速(けはや)という力自慢の男がおり、鉤(かぎ)という兵器の曲がったのを、真直にのばした。つねに、自分ほどの力の強い者がいたら、命をかけて勝負をしたい、と豪語していたのが、朝廷に伝わり、出雲国の野見宿祢と試合をさせることになった。
長尾市が出雲へ派遣されて、野見宿祢は出雲国飯石郡野見から上京した。
いよいよ、天覧試合が開始された。
むかい合った二人は互いに足で相手を蹴りあった。野見宿祢の足が、当麻蹴速の肋骨を破り、腰も踏み折ったので、蹴速は血をはいて、あえなく敗死した。
殺された大麻蹴速の遺跡としては、当麻町道路わきに石碑が建っている。
勝った野見宿祢は、このため出世して朝廷に仕え、陵墓の仕事を司っていた。殉死の制度を天皇が廃止したとき、埴輪を人の代りに埋めるとよい、という野見宿祢の意見が採用され、ただちに出雲国から百人の土師部が呼ばれ、皇后日葉酢媛命の墓に用いた。こうした功により、土師の職につき、土師臣となる。土師氏の祖である。
彼が、大和と出雲を往来したとき、病気にかかって、兵庫県龍野市の日下部で死んだことが、播磨国風土記に記されている。出雲から多くの人が来て、並んで川の小石を運び、積み上げて墓をつくったという。
初瀬路の、黒崎から東へ行くと、出雲という集落がある。おそらく出雲人が移住した土地であろう。
ここに十二柱神社があり、境内に野見宿祢の墓がある。出雲人にとって、郷土の誇りというより、華やかな生涯の終幕があまりにも哀れに憶えて霊を慰めたものであろう。
ここの神社も、昭和37年、時津風理事長はじめ横綱柏戸、大鵬と幕内力士全員がこの地を訪れ、土俵入りの奉納があった。