父…雄略天皇(第三皇子)
母…葛城韓媛
誕生…444年(允恭天皇33年)
御名・異称…白髪武広国押稚日本根子尊
皇后…━━
立太子…478年(雄略天皇22年)1.1
即位…480年(清寧天皇元年)1.15
在位年数…4年
崩御…484年(清寧天皇5年)1.16 年令…41才
皇居…磐余甕宮 年号…━━
○天皇は生まれながらにして白髪であったために御名があり、特異体質であったと推測される。「日本書紀」によると事跡もなく、結婚したかどうかも不明である。子供はなかった。
○雄略天皇は、その後の皇位継承有資格者のほとんどを殺してしまっていたために、皇位継承は難航した。皇位を簒奪しょうとする異母兄の星川皇子を焼死させ、皇位についた。
○子供のなかった天皇のため、大伴室屋大連が諸国に、御名を残そうとして、白髪部舎人、白髪部膳夫、白髪部靭負を置き、後世に伝えるよう計ったことが見える。いわゆる御名代と呼ばれるものである。
○雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の遺児が、播磨の縮見屯倉で発見された。億計王・弘計王の二人である。天皇は大いに驚いたが、億計王を皇太子に立て、弘計王を皇子にした。
○天皇が崩御、皇位について兄弟が譲り合い、姉の飯豊青尊が、忍海角刺宮にいて政治をみたが、姉がなくなり、結局弘計王が皇位についた。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
陵墓…河内坂門原陵(西浦白髪山古墳) 前方後円墳
所在地…大阪府羽曳野市西浦
○御陵はほぼ西南面する前方後円墳で、白髪山と呼ばれる。全長115m後円部径62m、高さ10.5m、前方部幅125m、高さ11mの規模で、極端に前方部が広がる平面形態を持つ。後円部径の約2倍に近く、周濠があり、東接して、墳丘長46mの小形の小白髪山の前方後円墳が陪墳として存在する。後円部は高く盛土されていることがかいま見られ、しかも後円部の平垣面が主体部は横穴式石室と思われる。6世紀を代表する前方後円墳である。上部段丘上に立地し、西から東に伸びる緩斜面を利用し、丘尾切断形式である。東・北・南側を築堤して、周濠を確保する。
○1979年(昭和54年)の外堤調査で、終末期の円筒埴輪が出土している。また、小白髪山古墳との一体的築造企画の存在が考えられる。
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