馬見古墳群

奈良盆地南部·西南部の水を集めた曽我川(支流に葛城

川、高田川)は、河合町北部で大和川に合流します。合流

地点の西側にある南北7キロ、東西3キロの低い丘陵が馬見丘

陵です。

丘陵の東縁に沿って築かれた大古墳群が馬見古墳群で

す。奈良盆地西南部の勢力が築いたとみられています。古

墳群をどのような範囲でとらえるかは研究者によって少し

異なりますが、大体、河合町、広陵町、大和高田市にま

たがります。

墳長約200mの大型前方後円墳が4基、全体では前方

後円墳22基、前方後方墳2基、帆立貝形前方後円墳6

基、大型円墳3基があり、この中に陵墓の候補とされる陵

墓参考地が含まれています。

古墳時代前期後葉(4世紀中ごろ)の新山古墳、前期末葉

から中期初葉(4世紀後半)の築山古墳、中期前葉(5世

紀前半)の新木山古墳、中期末葉(5世紀末)の狐井塚古

墳の4基です。

古墳群は三つのグループに分かれほす。平地にある墳長

197mの川合大塚山古墳を中心とする北群、丘陵上にあ

る墳長220mの巣山古墳を中心に多くの古墳が集ぼる中

央群、築山古墳がある丘陵南端の南群の三つです。中央群

の主要な古墳は「馬見丘陵公園」の中にありほす。四季折

々の花や木を楽しめる場所ですから、訪れた方も多いので

はないでしょうか。

さて、古墳群は一斉に築造が開始されたわけではありません。

大まかには、南群-中央群-北群の順序で築かれてい

きました。古墳時代前期後半から中期末まで約150年間

も続きます。この間に起きた大きな出来事といえば、大阪

府の河内地域の百舌鳥·古市古墳群の登場です。馬見古墳

群を築いた勢力もこの動向と無関係のはずがありません。

関係を示すのが中央群にある帆立貝形前方後円墳の存在

です。前方部が極端に短く、平面形が二枚貝のホタテのよ

うな形になるところから、帆立貝形と呼ばれています。

堺市の大山古墳(現·仁徳天皇陵)の周囲にある十数基

の陪塚のうち半分ぐらいが帆立貝形です。同じ頃、百舌鳥

古墳群の周辺部にあたる泉南地域(大阪府南部)の王墓に

も帆立貝形が採用されました。

帆立貝形前方後円墳には、主墳となる前方後円墳の被葬

者に従属する人物の墳形としての意味合いがあると考えら

れています。

馬見古墳群の中央群にある墳長130mの乙女山古墳と

墳長92mの池上古墳は、大きな帆立貝形前方後円墳です。

墳長200mの前方後円墳新木山古墳と同じ頃に造られ

ました。でも、乙女山古墳と池上古墳は新木山古墳と離れ

た場所にあり、陪塚とは考えられぼせん。乙女山古墳と池

上古墳の被葬者は、百舌鳥古市古墳群の大王と、馬見古

墳群のリーダーとの二重の支配のもとにあったのかもしれ

ません。

「大きいことはいいことだ」とばかりに5世紀代には

墳長300mを超える超大型前方後円墳が、百舌鳥·古市古

墳群に築かれました。一方周辺部に対しては規模と墳形へ

の規制が強く働いたとみられます。規制は、時の政権によ

る「秩序立て」と 言い換えてもよいでしょう。ここに河内

の政権と深い関係にある馬見古墳群の被葬者たちの姿を見
ることができると思いほす。
2017-6-9 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)





三井岡原古墳  地図

 大和郡山市の郡山新木山古墳は富雄川左岸に築かれました。

 右岸では矢田丘陵から斑鳩地域にかけて点々と古墳が分布しています。三井岡原古墳は、
そのうちの1基です。

 斑鳩の法起寺から法輪寺に向かう道の南側、岡原と呼ばれる独立丘陵の頂上にあります。
斑鳩町三井に所在してお
り、宮内庁では「富郷陵墓参考地」として陵墓に準じた管理をしてき
ました。聖徳太子
(厩戸王)の子で、皇極2(643)年に没した山背大兄を被葬者候補と考えた
よう
です。果樹園や畑地を抜けた上にあり、古墳に沿って一周めぐることができます。地表面
よく観察すると、陵墓参考地として宮内庁が管理する外側にも墳丘裾が広がる可能性が
ります。

 直径約30mの円墳とされていぼすが、前方後円墳と考えられたこともありぼした。かって墳丘
中心部から持ち出さ
れたと伝えられる長さ約2 .2 m、幅約90cmの花崗岩製の板石が、近く
の川の橋に転用
されていました。

 三井岡原古墳を含む一帯は弥生時代の集落跡が見つかっており、三井岡原遺跡と呼ば
ます。民間開発にともな
い、1987年に県立橿原考古学研究所が丘陵の東側斜面で発掘調査
をしほした。調査
の中心は弥生時代後期の住居群でしたが、後になって掘られたとみられる落
ち込み部分
があり、なかから円筒埴輪、短甲形埴輪、盾形埴輪の破片が出土しました。

 三井岡原古墳にならんでいた埴輪類が抜かれ、落ち込みに遺棄されたのではないかと報告
されています。埴輪が示
す時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)です。

 近世·近代に地名考証による陵墓の指定が行われきた。

 地名の由来がなにか、いつの時期から使われたものか、考証の前に解決しなければなら
い課題が多い方法です。

 埴輪や副葬品、墳形や石室のかたちなどから被葬者の生前の社会的地位や背景を推測
る考古学の方法とは違いま
す。三井岡原古墳も飛鳥時代の古墳ではないので、山背大兄王を
被葬者と考えることは
できません。

 では、なぜ三井岡原古墳が陵墓参考地となったのでしょうか。それは平安時代の「喜式」が
山背大兄王の墓名を
平群郡にある「北岡墓」と記したことによります。

 古代の平群郡は額田(大和郡山市) 、飽波(安堵町)斑鳩(斑鳩町)、平群(平群町) 、生馬(生
駒市)など広
域に及びます。北岡墓の候補地はいくつか挙がりました定めないまま近代を迎え
ます。そのような中、岡本寺(法起寺の別名)の名が「北岡のふもとに由来するとして付近にある
三井岡原古墳が
1897年に北岡墓の候補となりました。

 斑鳩は、豪華な馬具が出土した古墳時代後期後半(6世紀後半)の藤ノ木古墳があることで有
名ですが、ほかにも
法隆寺から西に続く丘陵沿いの西里に春日古墳、龍田に竜田御坊山古墳、
神代古墳とい
った古墳があります。山背大兄王の北岡墓は平群郡ですから、これらの古墳ば
かりでな
く、竜田川沿いで北にある平群谷の古墳群を含めて候補をさがさなくてはなりません。
  2017-6-2 朝日新聞 (関西大非常勤講師今尾文昭)