ジヲウ古墳地図

吉野口駅は、JR和歌山線と近鉄吉野線が出合う要衝で

す。巨勢路に沿って南に行くと重阪峠(へいさか)を越えて五條、北に

行くと市尾を経て飛鳥につながります。西は葛から大口峠

を経て室や名柄へ、東は今木、下渕を経て吉野川に出ま

す。ジヲウ古墳は、その途中の大淀町今木にあります。

南に開けた丘陵斜面にへばりっくように築かれていま

す。「山寄せ」の古墳と表現することもあります。7世紀

代にみられる特徴です。航空写真では鳥居の背後の木々が

円形に茂る様子が観察できほ

「陵墓地形図」から約15mの円墳か方墳とみられます。

「陵墓録」(国立公文書館蔵)によれば、1876 (明治9)年9月に
「坂合黒彦皇
さかあいのくろひこ子墓」に決定されました。

坂合黒彦皇子は、安康天皇を刺殺した眉輪王と共に葛城

の首長の円大臣の宅に逃げ入り、大臣ともどもワカタケル

大王(雄略)に焼き殺されたと「日本書紀」に記されま

す。「葛城氏」は5世紀後半に滅亡します。
坂合黒彦皇子の屍は「新漢のツキ本(木+疑)の南の

丘」に側近者といっしょに合葬されます。「いまき」の地

名にもとづき、明治政府は今木に陵墓を求めました。

ジヲウ古墳の北西には、横穴式石室を持つ正福寺古墳と

保久良古墳があります。その立地条件や石室の特徴から、

いずれも飛鳥時代にあたる7世紀の古墳と考えられていま

す。

南に開き、主丘陵を背後にもつ立地はジヲウ古墳も同様

です。ジヲウ古墳も近い時期に造られたとみられます。そ

ろだとすれば、史料では5世紀後半の人物となる坂合愚彦

皇子を被葬者とするのは困難になります。では、被葬者は

だれか。今のところ分かりません。

一方、坂合黒彦皇子と運命を共にした円大臣の墓は、葛

城にあるのでしょうか。

史料によれば、葛城氏は、葛城ソツヒコをはじめとして

「応神以後、仁徳·履中·反正允恭など、いわゆる倭の

五王時代には大王家の外戚として繁栄を誇っていた」(「改

訂新庄町史本編」1984年)と、古代史上の大豪族と

紹介されます。

葛城の古墳をみると、中心地にある御所市の室宮山古墳

は墳長238mの大型前方後円墳ですが、ほかは墳長15

0mに満たない中型です。大王の外戚の古墳とするには見

劣りがします。

そこで、馬見古墳群の大型前方後円墳を含めて葛城氏が

造営したと考えようと提案したのが考古学者の森浩一氏で

す。1955年の提案でした。馬見古墳群の造営の盛期

が、古墳時代中期の5世紀代で、史料上の葛城氏の盛衰に

結びつくという考えです。

でも、私は見直す必要があると感じています。

研究が進み、最近では、見古墳群の南群に築かれた

墳長約220mの大和高田市の築山古墳(磐園陵墓参考

地)が、古墳時代中期前葉(5世紀前半)の室宮山古墳

より先の前期末葉から中期初葉(4世紀後半)に築かれた

ことが判明しています。

葛城氏の祖とされる葛城ソツヒコを、葛城で最大の室宮

山古墳の被葬者とする考えが定説化していますが、築山

古墳の方が古い以上、その説明では矛盾が生じます。ソ

ッヒコの実在性を含め、改めで考える必要があるでしょう。
葛城氏⇒⇒⇒


2017-9-22朝日新聞 今尾文昭