山田寺と坂田寺

 わが国には 現存する最古の木造建築である法隆寺西院の建築群をはじめ、飛鳥・·奈良時代の建築が30棟ほど残っ

ています。飛鳥·藤原地域には、古代の建物 は現存していませんが、発掘調査によって寺院の伽藍配置や建物の規模

などが判明しつつありほす。

しかし、発掘調査では、具体的な建物の上部構造ぼではなかなかわかりほせん。そのなかで, 山田寺と坂田寺の発掘

調査では、建築部材がまとまって出土し、当時の建物の詳細を知ることができました。これは大変珍しい事例です。

 山田寺は金堂と回廊が7世紀中頃建てられ、塔などを含めた伽藍は7世紀終わりごろに完成しました。

1982年の発掘調査では、11世紀の土砂崩れで倒壊した回廊が発見され、一大ニュースとなりました。葺かれた状態で
下した瓦と、建築部材が組まれた狀態のまま出土したのです。現存最古の法隆寺金堂より、半世紀ほど古い寺院
建築
の「発見」でした。

 山田寺と法隆寺西院の回廊を比較すると、扉上部の回転軸を受ける部材は山田寺にしか見られません。一方、柱
部に置く部材は法隆寺にしか見られない技法が使われています。

 これまで法隆寺の建築は、飛鳥時代の代表的な様式を備えていると考えられてきました。しかし、山田寺回廊の発

見で、法隆寺の建築に見える様式や技法には、法隆寺以前にさかのぼるものがある一方、特殊なものもあることが

判明してきました。このため、法隆寺の建築様式の方が、むしろ特異であると考える研究者も出てきています。

 ほた 坂田寺の発掘調査では、8世紀後半に建てられた仏堂と回廊が10世紀後半に倒壊したことがわかりましたした。

1991年の発掘調査では、回廊の柱や連子窓の部材が出土しています。坂田寺から出土した部材のうち、回廊の柱

に注目してみると、法隆寺金堂と共通する部分もありますが、山田寺回廊には用いられていない技法もあります。同

じ回廊という建築で、外観はよく似ていますが、細部の様式や技法に特徴があることがわかってきました。具体的な

比較を通じて、古代建築の様式や技法が、単純に年代や地域では区分できないことが明らかになったのです。

 このように、出土した建築部材を現存の建築と比較検討することで、現存の建築だけからは知ることができない古

代の建築の多様性が明らかとなり、出土建築部材が現存建築の位置づけを再考するきっかけとなっています。
 なお、2007年、山田寺の出土部材のうち180点ほどが、出土部材としては初めて国の重要文化財に指定されました。
現在、回廊部材
は保存処理が施され、古代の姿に組み立てられ、奈良文化財研究所飛鳥資料館(明日香村奥山)に
展示されています。
  2014-4-18  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調査部遺構研究室研究員番光)





飛鳥浄御原宮

 古代最大の内乱、壬申の乱(672年)を制して即位した天武天皇が造営した飛鳥浄鷲宮(672~694年)で、

巨大な「正殿」がもう一つ見つかった。奈良県明日香村の飛鳥京跡での約半世紀にわたる調査の結果、
浄御原宮の主要建
物の全容がようやく明らかになった。しかし、新たな謎も生まれた。「なぜ二つの正殿
が心要だったのか」。専門家らの
間では、早くも様々な議論が起きている。

 「同じ規模の建物がもう一つ出るとは、想定外で驚いた」。千田稔·国際日本文化研究センター教授(歴史
地理学)は困
惑を隠せない。

 飛鳥京は、大王(おおきみ・天皇)が代わる度に移していた宮殿を初めて同じ場所に築いた都だ。630年
降、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮宮が造らた。

 浄御原宮の「南の正殿」は、土器の年代から、後岡本宮の時代に斉明天が建て、子の天武天皇
引き継いだ可能性が高
いとされる。59年から続く調査で、日本書紀が伝える主要な四つの建物「大安殿
(おおあんどの)」「内安殿(うちのあんどの)」「外安殿(とのあんどの)」「大極殿」とみら
れる跡が姿を現した。

 発掘担当の林部均、県立橿原考古学研究所主任研究員は、同じ規模の建物が二つもあった理由に
いて「後の時代には政
治をする正殿が大きく立派になり、北側の住居は小さくなっていく。斉明天皇の時
代は、公私の区
別が未分化だったのではないか」と説明する。

 千田教授は「以前は居間に客を招いていたが,斉明天皇は何らかの理由で客間が心要になり、同規模

の建物を二つ造ったのではないか」と話す。

 後を継いだ天武天皇は、左右対称に造られた南の正殿の西側別棟を壊し、池を設けたとみられている。
直木孝次郎・大
阪市立大名誉教授(古代史)は「天武天皇は後に、メーン建物の大極殿を離れた場所に建
てて政
治の場を外に出し、私的空間を広げた。天皇の格が上がったことを表しているのでは」と話す。

 一方、河上邦彦·神戸山手大教授(考古学)は三つの建物は併存していなかった」との説だ。

「正殿は天皇と神が対話する場。北の正殿が先にあり、伊勢神宮の式年遷宮のように、北を取り壊して南
に建て替えた」と
推理している。 

和田萃(あつむ)・京都教育大教授(古代史)の話 日本書紀では、天皇に招かれる身分が建物ごとに違った
とある。当
時は礼の仕方や衣服が階級分けされていたが、建物にも格があった。大安殿と内安殿は規模
や構造
は同じだが、飾りなどで外装はかなり違っていたかもしれない。今回見つかった内安殿とみられる

建物は、儀式や皇子たちとの食事の場だったのはないか。
  2006-3-8  朝日新聞




山田寺の部材

古代の建築の姿を語るとき、我々はまず法隆寺薬師寺などに現在も残る建物に注目します。
しかし時には、たった一つの部材が、建築の通史に疑問を投げかけることがあります。

山田寺から出土した「長い肘木(ひじき)」は、まさに古代建築の常識に一石を投じるものでした。

 山田寺は桜井市の西南に位置する、7世紀中頃に創建された寺院です。1982年の発掘調査で
は、回廊が倒壊したままの状態で出土して大きな話題となりました。出土品は、07年に国の重要
文化財に指定されています。

 「長い肘木」は山田寺の南門の南から出土しました。寺院の堂宇では、大きな屋根を支えるた
めに、柱の上に「組物」を置きます。組物は、「肘木」と「斗(ます)」を組み合わせてつくり、屋根の
重さを分散してうけることができます。古代の組物には、いくつかのパターンがあり、肘木と斗の形
にも一定の傾向がみられます。

 しかし、山田寺の「長い肘木」は、一般的な古代の肘木に比べて全長が長いという異例のプロ
ポーションをしていました。このような肘木は中世の禅宗寺院建築で普及しますが、古代にはほ
とんど例がありません。この「長い肘木」がどのように使われていたのか…。手がかりとなるのは
部材表面に残る痕跡と、法隆寺金堂や薬師寺東塔などの実在する寺院建築です。

 長い肘木は、上面と側面の痕跡から、下から三つの斗で支えられ、上には斗が両端にのってい
たことがわかります。つまり、この肘木は、下から2段目の肘木として使われていたと思われます。

 また、側面中央には縦に、帯状に幅18cmのへこみがみられ、その上部が大きく欠けています。
これにより、長い肘木は、直交する部材と組まれていたと考えられます。その組み方としては2通
りの形が考えられます。

 一つは、長い肘木に比べて、直交する部材が半段高くなる組み方。肘木の形は違うものの、
中国隋代の明器や法隆寺金堂·玉虫厨子などに同様の組み方をみることができます。しかし、この
組物では、建物の隅の柱上には、一方向にしか組物を入れられません。したがって、屋根を支える
構造は弱くなります。
                                                               

 もう一つは、長い肘木と直交する部材の高さがそろう組み方。この場合、建物の隅の柱上の組物
は、三方向に肘木を出した安定した構造をとれます。このような組物は薬師寺東塔をはじめとする
奈良時代以建物で確認できます。

 山田寺の長い肘木が使われていた建物は不明ですが、復元した組物の形式や出土地点から、

中門の可能性が高いと思われます。中門の創建年代は7世紀の中頃。法隆寺金堂の建築年代を

さかのぼります。

 その構造が、中国隋代から法隆寺金堂への系統につらなるのか、はたまた奈良時代の薬師寺

東塔に近いものなのか…。この位置づけによっては、古代の寺院建築史に新たな流れが加わる
ことになります。一つの出土部材が、謎に包まれた飛鳥寺院建築の姿を語りかけようとしています。
   2008-10-10  朝日新聞(奈良文化財研究所飛鳥資料館研究員西田紀子)




悲劇の皇子たち

 県西部を南北に縦断する国道168号は、悲劇の皇子ゆかりの道ではあるまいか。山背大兄皇子,有間皇子、
大津皇子長屋王,他
戸親王、大塔宮などの名が浮かんでくる。それに気づいたのは、平群町の西宮古
たずねた時である。

 西宮古墳は、平群中央公園南端にある。巨大な花崗岩の切り石の石室内に、凝灰岩をくりぬいた石棺が置

かれ、だれもが自由に内部を見学できる。

 県教委の説明板では、石棺はわざわざ兵庫県から運ばれた竜田石だとか。3段に築成された一辺36mの
墳で、南には平群谷の平野が広がり、その遠くはるかに吉野の山々が望める絶景の地にある。大化改新
時代
前後に造られたらしい。

 「日本の古代遺跡4 奈良北部」(保育社刊)に「中央権力と密接に結びついた人の墓」とあるのを知って、
考古学者たちに「被
葬者はだれ」と尋ね回った。すると、山背大兄皇子の墓説のあることが分かった。643年
蘇我入鹿
に攻められ、一族もろとも斑鳩寺で自死した聖徳太子の子どもである。それを知った時に、国道
168号は
特別な道だと思った。

 西宮古墳の北1.5kmほどには、藤原氏の陰謀で、やはり自害させられた長屋王と、その妻吉備内親王の

墓がある。さらにその北5kmの生駒市壱分町は、謀反に加担したとして、有間皇子が捕縛された「市経(いちぶ)
家」があった場所である(「大和志」ほか)。皇子の屋敷跡と伝承された「御所やぶ」というものが、近年まで
あったそうだ。

 平群町から香芝市を経て南下すると、右手に仰ぎ見二上山山頂には、大津皇子の墓がある。「二上山を

弟世(いろせ)とわが見む」とうたった姉の大来皇女の万葉の秀歌がある。

 168号はその後、166号や24号と重なり、やがて金剛山系の東麓に沿って続く。葛城古道が国道の元になっ
たようだ。

 五條市の中心部を過ぎると、吉野川の支流の丹生川を渡る。カキ畑 右手丘陵上に、奈良時代末の光仁天皇
の皇太子だった他
戸親王の墓がある。

 他戸親王は暴虐、高慢などと史書にあるが、父が即位するためには、極めて重要な役割をもった人物である。
幽閉され毒殺されたの
が、168号付近のどこかである。

 さらに南に向かい天辻峠を越えると、道沿いの川は、熊野灘に注ぐ熊野川水系に変わる。新天辻トンネルを
抜けた五條市大塔町の
「大塔」は、南朝の武将護良親王(もりよし)の号にちなんだものである。

 親王は父·後醍醐天皇助けて熊野·吉野で、反北条勢力を結集、倒幕ののろしを上げ、建武中興を果たした
功績者。しかし、武家
政治の復活をたくらむ勢力の陰謀によって、殺害されてしまった。大塔町には、親王の遺を
伝える寺もあ
り、十津川村の谷瀬の釣り橋近くにある親王の黒木御所跡には、石碑も立っている。

 悲劇の皇子たちのゆかりの地が、どうしてこうも168号の道沿いに残っているのだろうか。
  2007-11-20  朝日新聞
(高橋徹)





黒塚古墳

 「三角縁神獣鏡奈良で32面」「王権誕生の地で初」。1998年1月10日、朝日新聞の1面に大きな見出しと鏡
写真が載った。

 県立橿原考古学研究所の発掘調査で、天理市柳本町の黒塚古墳の石室から、30枚を超える三角縁神獣鏡
が見つかっ
たのだ。女王·卑弥呼が、中国の魏からもらった鏡とされ、邪馬台国畿内説の追い風になると話題
になった。

 「卑弥呼の鏡」を見ようと、現地説明会には寒空の下、約3万人が訪れた。最寄りの人たちに温かいお茶をふ
るま
った。

 「子どものころチャンバラで遊んだ古墳に、あれほど多くの人が来るとは信じられなかった」。地元に住む原田
さん(82)は20年前の驚きを今

も鮮明に覚えている。

 黒塚古墳はその後、国史跡になり、整備が進んだ。2002年にはそばに黒塚古墳展示館が建てられ、石室の
模型
や鏡のレプリカが展示されている。

 天理市教育委員会文化財課の北口聡人さん( 40 )と一緒に黒塚古墳を訪れた。前方後円墳の墳丘裾をぐる
っと一周す
ると、全長約130mの大きさやくびれ部などをじっくり観察することができた。

 墳丘に上ると眺望が広がる。南側には卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳や大和三山が見え、東側には墳長
200
~300m級の巨大な陵墓がある。北口さんは「鏡の出土だけでなく、古墳の位置関係から見ても重要な人の
墓だっ
たのは間違いありません」とう。ちなみに20年前の現地説明会には、当時大学で考古学を学んでいた北口
さんも訪
れたという。

 墳丘の頂上部には、石室内の鏡の出土状況が一目で分かる原寸大写真パネルを敷いてある。だが、整備か
ら十数年
が経過した現在、写真が薄くなってしまい、よく分からなかったのが残念だ。

 古墳の近くを山の辺の道が通っていることもあり、今でも週末になると多くのハイカが黒塚古墳に立ち寄る。

 原田さんら柳本町の住民は、黒塚古墳を町おこしにつなげようと、02年に「柳本もてなしのまちづくり会」を設

立した。「古墳を守るとともに、訪れる人たちに町の魅力を感じてもらいたかった」と 話す。

 毎月、古墳を掃除し、春は桜まつり、秋は周囲をろうそくで彩る「柳灯会」などのイベントを開く。10年には柳本

町の歴史をまとめたガイド本柳本百選」を発行した。

 同会の事務局長の永田禎一さん( 82 )は言う。「柳本町が有名になり、地元の歴史や文化に関心を持っ住民
が増えた
のも、すべては黒塚古墳の発掘のおかげです」
  2018-5-11  朝日新聞
田中裕也


 築造時期は3世紀後半~41世紀初め。埋葬施設は竪穴式石室で、
鏡は木棺を囲むように出土した。鏡
は橿考研付属博物館で保管。





藤ノ木古墳

 観光客でにぎわう法隆寺(斑鳩町)の南大門から西に向かい、住宅地を抜けると小さな公園が見えてくる。真

ん中に高さ10mほどの小さな山がある。直径約50mの円藤ノ木古墳(国史跡、6世紀後半)だ。

 県立橿原考古学研究所が1988年、未盗掘だった石棺を調査した。石棺から金銅製の冠や履(くつ)、刀剣類、
ガラス玉
などの工芸品が次々と見つかった。日本中が「藤ノ木フィーバー」に沸いた。

 「大学生だった私はニュースを見て、考古学のロマンに引き込まれました」。町教育委員会で文化財を担当
する平
田政彦参事( 52 )は、懐かしそうに話す。

 藤ノ木古墳は2008年に史跡整備が完了した。石室の入り口に作られたドアの窓から、朱塗りの家形石棺を
のぞ
くことができる。

 平田さんの案内で石室の中に入った。モワッとした湿気を肌に感じた。「発掘前の状態に近づけるために100%

に近い湿度を保っています」と平田さん。約8mの羨道(通路)の先に、石棺が見えた。

 発見時より薄くなったそうだが、今も鮮やかな朱色を保っている。写真撮影のため、石棺の近くまで寄って奥壁
のわずかな間をのぞき込んだ。ここからは竜や象、鳳凰などの文様が施された鮮やかな金銅製の馬具が見つ
かった。

 高さ約4mの玄室内は、思いのほか広い。巨石の間に小さな石をはめて積み上げた様子もしっかり観察できた。

 石棺の調査から整備完了まで約20年。平田さんは「古墳の価値を後世に伝えるためには、課題を1つずつクリ
アし
ていく必要があった」と話す。

 石室内の安全を確認するため、壁石の動きを0。01 mm単位で測る装置を設置。4年かけて大地震の際に崩壊
の恐れ
がないかを調査した。石棺を照らす照明は、熱でカビが発生するのを防ぐため、あまり熱くならないLED照
明を採
用した。

 春や秋には石室を一般公開する。県外からも多くの人が訪れる。車いすの人も通りやすいように、羨道の上に
はス
テンレス製の通路を敷いた。

 石室から出てくると、平田さんが民家の屋根越しに見える小山を指さし、「あれが春日古墳ですよ」と教えてくれ

た。

 春日古墳は直径約30mの円墳。築造時期は藤ノ木古墳に近いと考えられている。未盗掘の可能性があること
から、
町は15年に発掘調査を検討する委員会を設立。発掘せずに放射線を使う調査で、石室とみられる空洞が
あることが分
かったと今年2月、発表した。

 発表以降、町には「第二の藤ノ木古墳では」「発掘はいつ」などの問い合わせが増えたという。平田さんは「古墳

にロマンを感じるのは、いつの時代も変わりませんね」と笑った。
   2018-4-6  朝日新聞
(田中祐也)


直径約50m、、高さ約9mの円墳。
出土品一式は国宝
に指定された。
石棺からは2体の人骨が見つ
たが、
被葬者は特定されていない。
古墳
近くの斑鳩文化財センターでは、
朱塗りの石棺や主な出土品
のレプリカを展示。







室宮山古墳

 大阪府の百舌鳥·古市古墳群(4世紀後半~6世紀前半)は、来年の世界文化遺産候補として注目を集めてい

る。ただ、古墳群の大山古墳(伝仁徳天皇陵)やミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は、宮内庁が管理する陵墓の
ため
本格的な発掘調査はされておらず、墳丘の様子はよくわかっていない。

 そんな中、百舌鳥·古市古墳群と同時期の5世紀初めに御所市に築かれた室宮山古墳(国史跡、墳長238 m)

は、発掘調査され、墳丘にも上ることができる貴重な前方後円墳だ。7月上旬、御所市教育委員会文化財課の
金沢雄
太さん( 32 )と室宮山古墳に向かった。

 後円部の東側にある八幡神社の脇の階段から古墳の頂上をめざす。古墳は3段の階段状に築かれており、
途中で金
沢さんが「あそこが階段の途中の部分ですね」と教えてくれた。確かに平らになっている。「平坦部に
埴輪を巡らせ
ることが多いので、発掘調査をすると、埴輪の破片が出てくるかもしれません」と言う。

 すぐに後円部の頂上に着いた。竪穴式石室の中に置かれ長持形石棺を間近に見ることができる。権力者
の石棺に
使われる兵庫県高砂市の竜山石製で、「王者の棺」や「大王の棺」と呼ばれている。石室の前のわず
かな空間に入り
込むと、その石棺が間近に迫ってきた。石棺に触ることもできる。金沢さんによると石室に入っ
た状態の長持形石
棺を見られるのは、室宮山古墳だけだという。

 過去の発掘調査で、石室の上を埴輪が囲むように並べられていたことが判明し、現在は靫形埴輪(ゆぎ)の
レプリカが置か
れている。また、石室の隣に別の竪穴式石室があることや、古墳前方部の北側の「張り出し部」
にも埋葬施設があ
ることがわかっている。

 金沢さんは「百舌鳥·古市古墳群の大型古墳の特徴を知る上で、室宮山古墳は参考になると考えられてい
ます」と
言う。もしかしたら、大山古墳の頂上にも埴輪が並べられていたのかもしれないと想像するだけでワク
ワクする。

 次に近くの條ウル神古墳(じょううるがみ・6世紀後半)に向かった。2002年に、明日香村の舞台古墳に匹敵
する規模の巨
大な石室(長さ約7.1 m)と石棺(長さ約2.8mがあることが判明し、話題になった古墳だ。
現地説明会には1
万人以上の考古学ファンが訪れ、その後も問い合わせが続いたことから、1カ月半後に再び
見学会を開いたという。
当初は円墳と思われていたが、その後の調査で墳長約70mの前方後円墳になること
わかった。いまは埋め戻された上、民有地のため、近くの道から眺めることしかできない。

 御所市教委は11年度に室宮山古墳や條ウル神古墳を含む周辺の古墳の保存活用計画を策定。
條ウル神古墳は範囲確
認調査を行い、史跡指定をめざしている。将来、巨大な石室を自由に見学できるよう
なる日を楽しみに待ちたい。   2018-7-27  朝日新聞(田中祐也)





興福寺再建

 奈良·興福寺が301年ぶりに再建を進めている中金堂が10月に落慶法要を迎える。その100日前にあたる6月29日、
再建記念の講座「天平人の祈
り」(興福寺など主催、朝日新聞社など協力)が東京都渋谷区の文化服装学院であった。
1300年前から何度も
焼失しながら、天平の姿を取り戻そうと再建を繰り返してきた歴史などにっいて、4人の講師が
語った。

 平城遷都と同じ710年に大権力者の藤原不比等が創建した興福寺は、三つの金堂を擁する寺だった。その中心の
中金堂は
714年に建てられたが、火災や地震で8度失われ、その度に再建されてきた。最後の災害は、江戸時代の1717
(享保
2)年の火災で、その後は最近まで仮堂でしのいできた。

 今回301年ぶりに再建されたお堂は東西37m 、南北23m、高さ21 m。奈良市の平城宮跡復元された大極殿(東西
44m、
南北19 . 5 m、高さ27 m、とほぼ同じ規模だ。

 最初に登壇した興福寺の多川俊映貫首は「中金堂は、奈良時代に築いた基壇の上に再建され続けてきた。柱を支え
る礎石も
66個のうち64個は天平のものだ。当時の美術や建築は端正、典雅,剛勁(ごうけい)が特徴。そのように整然と
した境内を整えたい」と
話した。

 続いて、再建工事の現場指揮を執った瀧川寺社建築(奈良県桜井市)の國樹彰所長が建物の特徴を説明した。
「享保の火災前
に書かれた詳細な図面を参考に再建案を練った。しかし、巨大なお堂を支える材木は国内になく、
アフリカのケヤキやカナ
ダのヒノキも用いた」と述べた。

 3講目は、古代史の作品を多数手がけたマンガ家の里中満智子さん。不比等の妻である橘三千代や娘の光明皇后
孫にあた
称徳天皇ら、奈良時代に名を残した女性に注目し、「権威や権力を支え、当時は国立大学のような存在だっ
た寺院や仏教文
化を庇護した」と説いた。

 最後は、仏教彫刻の制作技法を研究する愛知県立芸術大学の山崎隆之名誉教授が、文化服装学院の学生をモデル
に仏像の衣
装の着付けを実演した。大きめの布を体に巻き付けることで如来や菩薩の姿を再現した。
   2018-7-25   朝日新聞(夕刊)
(編集委員·小滝ちひろ)





久留倍遺跡

 740年の藤原広嗣の乱で混乱する最中、聖武天皇が突然伊勢へ旅した。そのときの宿泊所「頓宮(仮宮)」とみられる遺跡

が、三重県内で相次ぎ見つかっている。なかでも、四日市市の久留倍遺跡(くるべ)は、考古学界で注目の的。聖武の旅に
先立つ68年前、
曽祖父の天武天皇(大海人皇子)が、壬申の乱でこの場所に泊ほった可能性が出てきた。聖武は、尊敬す
る曽祖父の行程をたど
り、同じように強い支配者になろうとしたのか。 (今井邦彦)


 先月7日、津市の三重大で考古学研究会東海例会があり、同大学教授の山中章さん(考古学)は、久留倍遺跡について
こう語った。

 「聖武の旅は、広嗣の乱から逃げたのではなく、計画的だったのではないか。そんな情景が,この遺跡から見えてきそうだ」

 四日市市教委が昨秋、久留倍遺跡を調査した。すると、中庭を囲み、四角く並んだ掘っ立て柱建物の一群が見つかった。
その東側に
は大きな屋根を持つ「八脚門。奈良時代の地方政庁「郡衙(ぐんが)」跡とみられる。

 さらに、この建物を取り壊した跡地に、東西約30mある建物ができていた。周りに堀を巡らせた跡があり、奈良時代前半
の土器が
出土している。

 山中さんはこの新たな建物にっいて、「聖武の頓宮としてふさわしい規模だ」という。ここには、南向きに扉があったようだ。
天皇
が南を向いて座る当時の決まりごとにも合致している。

 この地域は奈良時代、「朝明郡」とよばれていた。「続日本紀」によると、聖武は740年10月末に平城京を立ち、「河口」

(現·三重県白山町) 、「赤坂」(同鈴鹿市)を経て11月下旬に朝明郡で2泊したという。

 聖武は、720年にできた「日本書紀」で帝王学を学んだ。この書の最大のクライマックス、壬申の乱の記録には、
「大海人皇子が
朝明郡で伊勢神宮を遠く臨み、戦勝を祈った」という逸話がある。

聖武は、曽祖父の天武を偉大な天皇と尊敬していた。

 九州·大宰府にいた藤原広嗣の反乱。その「有事」の真っ最中に、なぜ聖武が突然、東国への旅に出たのか。壬申の乱に
勝って権
力基盤を固めた天武の行程をたどり、同じく強力な力を得ようとしたのではないか。積極的にとらえる研究者が増
えている。その意味
でも、久留倍遺跡は重要になる。

 建て替え前にも注目が集まる。古代の役所に詳しい奈良文化財研究所の遺跡調査技術研究室長、山中敏史さんは、こう
推論する。

 「門が東向きに設けられるなど、定型化した郡衙には見られない特徴がある。七世紀代の飛鳥時代にさかのぼるのではな
いか」

 ならば壬申の乱の時に大海人皇子がここに泊まったかもしれないー。四日市市教委の文化財係長、荒木昌俊さんの見方だ。

 三重県内では昨年 ほかにも聖武の頓宮らしい遺慚が発掘された。三重大の調査で 白山町の関宮遺跡からは平城宮で使
われてい
たのとそっくりな食器類が出土した。02年には大津市で「禾津頓宮(あわづ)」と見られる大側建物の跡も見つかった。

 聖武天皇の足跡は 各地で考古学的に確かめられつつある。

 久留倍遺跡は、国道バイパスの建設で一部が壊される予定だった。だが、「大切な遺跡」と研究者からの指摘が相次ぎ、国
と県、
市は対応を協議している。文化庁記念物課は史跡指定の可能性を示唆しているが、それも遺跡の保存が前提になる。
   2004-9-10  朝日新聞(夕刊)






僧寺と尼寺

 奈良県香芝市尼寺(にんじ)2丁目の飛鳥時代の二つの寺院跡、「尼寺北廃寺」と「尼寺廃寺南遺跡」

が、奈良時代に広まった「国分寺と国分尼寺」を先取りした「僧寺と尼寺」のセット寺院であることが市
教委の調査でわかった。伽藍配置は最古級の法隆寺式だったことも判明し、古代寺
院の変遷を探る
貴重な史料として注目されている。(大脇和明)


 同県斑鳩町の法隆寺から約6km南西に位置し、北廃寺と南遺跡は約200m離れている。

 調査は91年に北廃寺から始まった。中門から見て左右に塔と金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍だったことがわかり、7世紀後半の

瓦が出土。塔跡からは法隆寺の五重塔をしのぐ現存最大の心礎が見つかった。南遺跡(現·般若院境内)では01年の調査で、

焼失前の法隆寺(若草伽藍)の創建瓦(7世紀前半)と同じ型枠で作られた瓦が見つかり、02年と03年には塔と金堂の基壇(土台)
が出土。伽藍配置はや
はり法隆寺式だった。

 市教委は、両寺院がごく近い距離にあり、同じ伽藍配置であることから「僧寺·尼寺」のセットで建立されたと断定した。

 森郁夫·帝塚山大教授(歴史考古学)によると、飛鳥時代に僧寺と尼寺がセットで建立されたのは、政権中枢にあった蘇我氏が
建てた飛鳥寺·豊浦寺、聖
徳太子が建立した法隆寺·中宮(いずれも6世紀末~7世紀初め)の2例しかないという。

一般的になるのは奈良時代だ。

 聖武天皇は741 (天平13 )年、飢饉や疫病、新羅との関係悪化などの相次ぐ社会不安を仏教の力で鎮め、国家を一つにま
めようと考え、詔を発して全
国60カ所余りに国分寺と国分尼寺を建立した。地方の寺院はそれぞれの豪族が建立していたが、
初めて政府直轄の寺が全国
一斉に建てられることになった。

 上原真人·京大大学院教授(考古学)は「奈良時代の国分寺と国分尼寺のセット建立の源流は、飛鳥時代にあった。聖武天皇
は、飛鳥時代に芽生えた寺
院制度を受け継いで広めた」とみる。

 セットで建立するには、相応の経済力も必要だった。塚口義信·堺女子短大学長(日本古代史)は「蘇我氏と聖徳太子のほかに
セット建立が可能だったの
は、尼寺廃寺のある葛城北部を勢力下においた敏達天皇系の茅渟(ちぬ)王一族しかない」と話す。

茅渟王は敏達天皇の孫で、茅渟王の子は孝徳·皇極両天皇、孫は天智·天武両天皇だ。聖武天は、天武天皇のひ孫にあたる。

 南遺跡の伽藍配置が最古級の法隆寺式と判明したことも研究者の関心を集めている。

 日本最古の寺院は、6世紀後半に創建された飛鳥寺(奈良県明日香村)だ。塔を中心に三つの金堂がある伽藍配置は飛鳥
式」と呼ばれる。これが7世
紀前半には中門、塔、金堂が縦に並ぶ「四天王寺式」になる。

焼失前の法隆寺はこの方式だ。その後、再建された法隆寺の「法隆寺式」が全国に広がる。

 法隆寺式では、639年創建の国家寺院·百済大寺跡との説がある吉備池廃寺跡(同県桜井市)が最古とされ、尼寺廃寺はこれ
に匹敵する。森教授は「古
代寺院の伽藍がなぜ四天王寺式から法隆寺式に大きく変わったのか。尼寺廃寺の研究からわかるか
もしれない」と期待する。
   2004-6-30  朝日新聞(夕刊)







法隆寺中門の謎

 法隆寺の南大門をくぐる。中門と回廊の向こうに金堂と五重塔が見える。1400年の歴史の重みであろう、いつ来ても外界とは

異質な空気が流れているような感覚にとらわれる。金堂と塔が回廊に囲まれた西院伽藍に入ると、「古代の空気」はいっそう濃
密とな
り、つい時間を忘れる。

 ある時、私は西院伽藍にはなぜ中軸を示すものがないのかと疑問をもった。東大寺には大仏殿の中央の前に八角灯籠が据
えられてい
る。薬師寺にも東西両塔の中心を結ぶ線と金堂の中心線が交わる場所に灯籠が置かれている。これらの灯籠は伽
藍の中軸を示すシンポ
ルにもなっている。

 西院伽藍にも大講堂の中央の前に灯籠が置かれている。だが、これは当初のものではない。今の回廊は凸字形に巡らされて
いるが、
当初は長方形で、大講堂は回廊の外にあった。

 古代寺院は東大寺薬師のように左右対称が原則である。だが、西院伽藍は長方形の回廊の中に東に金堂、西に塔があ
って、左右
対称ではない。それで中軸を示す必要がなかったのかもしれない。だが、私は中軸を示すものは必ず存在すると考え、
中門の中央の柱
が中軸を示しているのではないか、と思い付いた。

 普通は門の正面の真ん中には柱を立てない。だが、法隆寺の中門には真ん中に柱がある。哲学者の梅原猛氏が「聖徳太子
の怨霊を封
じこめるため、あえて立てた」と主張し、よく知られるようになった。

 『奈良六大寺大観』(岩波書店)の法隆寺の巻に重要な指摘があった。回廊の東端と西端からそれぞれ9本目の柱が、金堂と塔
の中
央正面にくるという。現在、金堂と塔の中央正面には礼拝石が置かれている。9本目の柱越しに見ると、礼拝石が隠れてしま
う。確
かに二つの柱とも金堂と塔の中心線上にある。

 回廊の特定の柱が金堂.塔の中心を示しているなら、中門の中央柱は伽藍の中軸を示しているのではないか。だが、予想通りに
なっていなかった。

 9本目の柱は中門の端から数えると、金堂側は4本目(約11.5m)3本目(約7.8 m)になる。金堂側が回廊の1間分(柱2本の間隔、
約3.7m)
、広くとってある。これは中門から見た時、正面が約14m大きい金堂(裳階を除いた本体部分)と、同約6.4mと小さい塔

(同)とのバランスを考えて金堂側を広くとったと考えられている。

 金堂と塔の中心からそれぞれ東側と西側はともに回廊の8間分(約29.6m)あり、等しい。この結果、伽藍の中軸は中門の中央柱

より金堂側にずれている。ずれは約1 . 9mになる。予想は成り立たなかった。

 しかし、金堂と塔の両建物の向かい合った端から真ん中に線を引くと、ここに中門の中央柱がくる。また、回廊1間の長さは金堂

と塔の正面の差の2分の1、伽藍中軸と中門中央柱とのずれは同4分の1になっている。

 回廊1間の長さ、さらに中門の中央柱と回廊の柱の位置が金堂と塔から決められているのだ。中門と回廊の造営は金堂と塔が
建った
後とされる。設計に当たっては金堂·塔と密接な関係をもつように綿密に計算されていたことがわかる。そこに何か意図が隠
れている
のではないだろうか。

 私はこう考えた。左右対称ではない西院伽藍でも「みかけ上の中軸」は必要である。現在の西院伽藍が中央柱の延長に石畳を敷

き、大講堂の中央正面の灯籠が石畳上に置かれているのも、そのラインが実質的な中軸に当たることを表そうとしたのだろう。同じ
ろに当初、あえて中門に中央柱を立てたのは、みかけ上であっても伽藍の中軸を示そうとしたのではないか。
   2009-3-24   朝日新聞
(沖真治)





法隆寺の謎

 世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されている奈良県斑鳩町の法隆寺,現在の塔や金堂は
徳太子が創建した当時のものか、670年の火災後に建て直されたものかという明治時代以来の「再建

非再建論争」はほぼ再建論で決着したが、その年代をめぐってはまだ多くの謎が残っている。4日、斑鳩
町で開かれた朝日・大学パートナシン
ポジウム「法隆寺の謎法隆寺の創建·再建年代を考える」(朝日新聞

社、帝塚山大学共催)では、パネリストらが考古学や歴史学、年輪年代測定などの成果を駆使し、謎解

きに挑んだ。 (司会は朝日新聞記者·天野幸弘)


 法隆寺が日本の正史に登場するのは606年。当時は地名にちなみ「斑鳩寺」と呼ばれた。聖徳太子が斑鳩寺を完

成させたのは607年というのが通説だが、太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」には598年の斑鳩寺についての記述が
ある。さらに法隆寺の塔
の心柱が年輪年代法で594年に伐採されたことが分かり、斑鳩地域で開発が始まった時期
はより早まる可能性が
出てきた。

 斑鳩は、対外的な玄関口だった難波津と都の飛鳥を結ぶ陸路上にある。推古天皇の前崇峻天皇の時代から、
日本
は新羅に何度も派兵、「強硬外交」を展開していた。

 斑鳩寺は軍の補給基地的な性格も持つ施設として造られ、太子が斑鳩宮に移り住んだ後に本格的な寺院になった

のではないか。やはり軍事的施設だった可能性が 難波四天王寺は593年法隆寺の塔心柱の年輪はに近く、斑鳩
寺も同じ頃,造ら
れたと考えることが可能だ。1905年に関野貞が「法隆寺金堂塔婆中門非再建論」という論文を発表し、
法隆寺
の再建·非再建論争に火がついた。だが39年,現在の法隆寺酉院伽藍の東南で発桐調査があり、塔と金堂の
跡が見っかった。670年に焼失した
記録があるのはこの「若草伽藍」で、その後に今の西院伽藍が再建された、という
説が
学会の主流になった。

 しかし火災後の再建ならば、なぜ別の場所に造営したのか。また、金堂には塔よりも古い様式が見られるのはな
か。私は、西院伽藍の金堂
の建設は若草伽藍の焼失前から始まっていたのではないかと考えている。

 643年に斑鳩宮の焼き打ちを指揮した巨勢徳太が、648年に法隆寺にかなりの寄付をしたという記録が残っている。
聖徳太子の子孫を死に
追いやった罪を償うためだったと思う。慰霊のための仏堂が斑鳩寺の西北に造られ始めたが、
若草伽藍が焼失したた
め、この仏堂を金堂とした法隆寺の新しい伽藍が再建されたのではないだろうか。

 最近、金堂の天井板が670年より前に伐採されたことが年輪年代法で明らかになった。金堂の建設が670年以前に
始考ていた可能性が高
まったと考えている。


――まず、それぞれの専門分野からご意見を。

 光谷 法隆寺の塔を41 ~52年に解体修理した際、ヒノキの心柱の基部を切り取った標本が京都大学に保管されて
いる。私が00年にこ
の標本の年輪を年代測定した結果、最も外側の年輪が594年で、伐採されたのはそれに限りなく
近い年代
だとわかった。

 02~ 04年にはほかに保管されている木材の調査に加え、今も建物に使われている木材をデジタルカメラで撮影して
年輪を観察。その
結果,金堂は670年より前に着工していた可能性があり、塔は673年以降中門は690年代以降に伐
された木を使っていると
いう結果になった。この結果の評価は歴史研究者にお任せしたい。

 森 創建当時の法隆寺.つまり若草伽藍の発掘調査で見つかった軒丸瓦は、飛鳥寺造営で使われたのと同じ木型か
ら作られている。
飛鳥寺は「飛鳥大仏」が納められた606年ごろに中心伽藍が完成したと見られる。屋根瓦は早い段階
葺かれるため、飛鳥寺の瓦製作が終わったのは、それから数年さかのぼった時期だろう。その後、瓦の木型は飛鳥寺
の造営工房から豊
浦寺の工房へ運ばれ、早い段階で若草伽藍の工房に移されたのだろう。

 若草伽藍は607年に完成したと考えられているが、瓦からみると、それよりも古くから造営が進められていたと考えて
もいい。

 岩本 聖徳太子が斑鳩宮から推古天皇のいる飛鳥に日参するのに使ったという道路「太子道」は、奈良盆地の中央
を北に向かって20
度前後西に傾いている。

 法隆寺周辺には、太子道と直交ほたは並行する道路が多い。この辺りの地下遺構も同様で、たとえば若草伽藍の遺
構の塔と金堂の中
軸線は西に約22度傾いている。こうした計画地割りの設定年代は601年と考えている。法隆寺の創
建も7
世紀初頭としたい。

 現在の法隆寺西院伽藍の中軸線は約8度西に傾いているだけだ。日本書紀によると670年の火災は「一屋も余ること
なし」とい
う。天武朝以降に再建されたのだろう。

 高田 聖徳太子の息子山背大兄王の一族が643年に斑鳩宮で襲われた際、馬の骨を置いて逃げ、焼け跡で骨を見つ
けた巨勢徳太
は彼らが死んだと思って撤退したという。馬と人の骨を見間違えるはずはなく、徳太は王らを逃がしたかっ

たのだろう。鈴木さんが講演で話した、徳太が現在の金堂を建てたという説に共感する。今の西院伽藍の場所こそ、王
の一族が自害し
た場所なのではないか。

 聖徳太子の伝記の一つは、斑鳩宮を襲った軍に後の孝徳天皇も参加していたと伝える。法隆寺の鎮守である龍田新
宮は孝徳天皇
在位中に鎮座したとされ孝徳天皇が鎮魂のために設けたものかもしれない。

――鈴木さんの法隆寺軍事施設説については。

 森 大化の改新で蘇我入鹿を討った中大兄皇子は、すぐに飛鳥寺に入って城とした。寺には高い築地が巡らされ、防
御に適してい
る。若草伽藍でも発掘で北と西のさくが出ており、法隆寺も防御的な施設だったことは十分に考えられる。

 岩本 大津宮でも崇福寺三井寺南滋賀廃寺は宮を守るため配置されたという説がある。

 高田 斑鳩宮も囲む形で防備を固めたのならわかるが、斑鳩寺だけでというのはどうか。もちろん寺を城のように使う
伝統は、本能
寺に織田信長が泊まったようにその後も続くのだが。

――塔の心柱の年輪年代は、なぜ塔の年代より100年古いのか。

 光谷 仏教美術に詳しい松浦正昭·富山大教授は、聖徳太子の生前、すでにあの場所柱だけの塔(剎柱・せっちゅう)が
あったと考えてい
る。670年の法隆寺の火災の後、剎柱を塔の心柱に転用したのではという。私の出した年代と整合する。

 森 約100年間も倒し地面に接した部分が腐ってしまう。一方、松浦さんの莉柱説には実例がない。別の用途に使われ
ていた木材
を転用したのではないか。

 高田  92年に調査した金堂·釈迦三尊像の台座は、聖徳太子の一族が住んでいた宮殿の部材を転用したものと考えら
れている。貯木
施設があったのでは。

――西院伽藍の建設が若草伽藍の焼失前に始まったとの説については。

 森  そうは考えられない。西院伽藍の軒丸瓦は複弁蓮華文」というデザインで、660年代に飛鳥に登場する。法隆寺周
辺の
各寺院でも採用されており、7世紀後半にこの地域に広まったものだ。西院伽藍だけをさかのぼらせられない。

――7世紀初めの斑鳩の地割が西に20度前後傾いているのはなぜか。

 岩本 法隆寺の背後には丘陵が迫っている。地形に制約された結果だったのではないか。

――ほかに法隆寺におもしろい逸話はないか。

 高田 明治末から昭和初めの修理で出た古材があれば年輪年代研究も進みそうだが、今は多くが行方不明だ。昭和
10年代にある人物
から多額の寄付を受け、寺が相当量の古材を譲ったという。もし、その古材をお持ちの人がいたら、
ぜひ協
力をお願いしたい。

――今後はどんなテーマを追求するか。

 森 我が国の仏教文化の基礎が生き続けているのが法隆寺だ。若草伽藍からは軒平瓦が出土しているが、軒平瓦は
飛鳥寺にはなかっ
たもので、聖徳太子が斑鳩の各寺院を造るため数多くの新技術を導入したことがうかがわれる。当時、
この
地には「第一次斑鳩文化圏」と呼ぶべきものが生まれていた。その実態を解明していきたい。

 岩本 法隆寺には古代から近代まで、数多くの文献が残されている。こうした資料や建築,地名などの研究を総合的に
進めていく必
要があるだろう。

 光谷 現在、木材に微妙に含まれる元素の量などから産地を判定する研究を進めている。法隆寺に使われている木材
がどこから供給
されたものかを突きとめたい。

 高田 今日のシンポをきっかけに、さらに分野を広げて仏教学や美術、建築などを総合的に研究する「法隆寺学」の創設
を呼びかけ
ていきたい。学術的に軽視されがちな伝承などにも光を当てたい。
   2006-6-13  朝日新聞





山田寺 東回廊

 飛鳥時代の幹線道「山田」とされる道を、明日香村から桜井市方面に向かうと田寺跡(特別史跡)の案内板

が目に入る。

 山田寺は蘇我氏の一族の蘇我倉山田石川麿が641年に創建したが、649年に中大兄皇子(後の天智天皇)か
謀反の疑いをかけられ、造
営中の寺で自害した。

 その後、建設が再開し、7世紀末に伽藍が完成する。金堂や塔が並び、周囲を回廊が囲む豪華な伽藍だったと
考え
られている。

 今はサッカー場ぐらいの広場に、塔や金堂の基壇や礎石が復元されている。案内してくれた奈良文化財研究所
飛鳥資料館の西田紀子さん( 41 )によると、平安時代にも寺は存在し、1023年に藤原道長が訪れたという。

「堂内の豪華さに驚き、『奇偉荘厳』とたたえたという文献が残っています」

 西田さんと最初に東回廊に向かった。山田寺跡を全国的に有名にしたのは、1982年の東回廊の出土だ。奈良
化財研究所の発掘調査で、東側の回廊の建物全体が、屋根瓦もろとも倒れた状態で見つかった。11世紀に土
砂崩れ
倒壊したとみられ、瓦の下で、連子窓や壁、柱がほぼ完全な姿を保っていた。

 現在は基壇と礎石の一部が復元されている。ここで西田さんが手ぬぐいを取り出した。飛鳥資料館が手がけた
ッズで、手ぬぐいに東回廊が出土したときの遺構の実測図が描かれている。実測図と比べながら、回廊の大き
さや礎
石の位置を説明してくれた。

 西田さんの専門分野は建築史。「東回廊は現存する世界最古の木造建築の法隆寺より古い。両者の違いを比
較検討
することで、古代の建築技術の多様性を知る貴重な資料になりぼした」と言う。

 続いて中央の塔と金堂に向かう。両方とも土盛りで基壇が復元されている。塔の基壇中央では地下1mのところ
礎石がすえられ、舎利容器が納められていたそうだ。

 金堂の南側中央には、「礼拝石(らいはいせき)」という畳ぐらいの大きさの長方形の板石が置かれていた。
金堂にあった仏像を拝
むためのものだ。「石川麻呂は最期、礼拝石の上で、金堂の仏を仰ぎ見ながら自害した

かもしれませんね」と西田さん。石川麻呂の死後、謀反の疑いはすぐに晴れたが、さぞ無念だっただろう。

 山田寺跡から約500m西の飛鳥資料館に向かった。展示室に東回廊の一部を再現展示している。もっとも残存
態がよかった部材を保存処理して組み上げたものだ。

 現存する世界最古の木造建築物がよみがえり、すぐ目の前で見られる。そんな博物館はここだけだろう。山田寺
に来たら飛鳥資料館にも足を運び、他に例を見ない発掘成果と、古代に起きた悲劇に思いをはせてほしい。
  2018-8-3  朝日新聞(田中祐也)


寺域は東西118 m、南北185m。南門、中門、塔、金堂,講堂が南北に一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む
伽藍配置だったことが発掘調査で
判明した。興福寺の国宝「銅造仏頭」はもともと山田寺の本尊像だった。





送り火「い」

「五山」だけじゃない!?

「い」痕跡を発見か

 京都の夏の夜の風物詩「五山送り火」をめぐり、今は途絶えた「い」の字をともした場所の可能性がある痕跡

いを発見したと、京都大が8日、発表した。"有力とされていた場所とは異なり、今後、詳細な調査が必要、とし
ている。

 五山送り火は、「大文字」、「妙法」、「」、「左大文字」、「鳥居形」が8月16日にともされる。起源ははっき
りしてい
ない。かつては「い」や「ー」などもともされていたが、明治時代までには途絶えたとされる。

 「い」は従来、詠み継がれている歌がある京都市左京区の向山(標高439m)が有力だとされていた。今回
京大霊長類研究所の正高信男教授と京大1回生8人が現地調査したところ、送り火に使うまきを置くスペース
と推
定できるような痕跡などが見当たらず、五山に共通して存在する社寺もなかったという。

 周囲を調べたところ、向山から北東に約1キロメートルの通称「安養寺山」(同391 m)の標高100m以上上が

ったところに、山肌を削ってつくられたとみられる平らな地形を3カ所発見。まきを置くスペースに似ていると
う。送り火に詳しい京都精華大の小
椋純一教授 「同じような地形はほかにも見られ、それで送り火の跡とす
には飛躍がある」と話す。
   2018-8-9  朝日新聞 (野中良祐)




雁の寺 水上勉

 天安門事件が勃発した日、水上勉さんは広場に面したホテル北京飯店七階に宿泊していた。大群衆が戦車を取り囲んでいる模様を、

水上さんは水墨で何枚も描いた。筆で描かれた人の頭は紙面を埋めつくしている。絵の下に「われ四日より眠ること能わず」との文字

が見える。前日には人が戦車に轢かれて死亡したニュースも入っている。機関銃の発射音がしきりにしている。曳光弾がしきりと空から

落ちてくる。中国の友人からのメモには「ホテルの屋上のイルミネーションは爆破されたり。屋上で取材中やられた由。飯店に自由主

義国のマスコミがいることを軍はキャッチし、砲撃を加えしものならんか。飯店での籠城は危険なり」と書かれていた。

 戦場と化した天安門広場の状況描いた墨絵は、写真以上に現場を表している。筆を走らせた紙は、水上さんが自分で漉いた竹紙

である。中国で古く経文を写した紙であったものを、水上さんはご自分で模索して竹紙を創作した。

その紙に描かれたのである。作家としての忙しい生活から、どこにそんな時間を持つことが出来るのだろうと不思議に思う。『越前竹

人形』を書かれたころ、もう竹紙を漉く思いが膨らんでいたのだろう。紙が生まれると、そこに岩絵具を用いて絵を描いた。こうした一連
の流れは、文人の趣味では
ない。生まれた若狭の村の景色に動かされているのである。

 水上さんは天安門事件の中国から帰国後すぐに、心筋梗塞を起こして入院され、九死に一生を得た。事件の緊張は水上さんの心臓

を襲撃していたのだった。入退院を繰り返している最中に、水上さんは病院から、若狭の一滴文庫(お母さんを記念して作られた館) へ
何度も電話して、竹紙にす
る竹餅の具合を心配していたと聞いた。その一滴文庫の裏山を散歩していた水上さんは、ある日、山の粘土
を発見して、陶器を作り出
した。水上勉のすべては若狭の土から生まれているのがわかる。

 「母」という短編の冒頭に、満九歳で福井県大飯郡本郷村岡田から、京都の相国寺塔頭瑞春院へ向かう。切ない別れの場が描かれ
いる。

 「昭和二年の二月十八日。この日は若狭は大雪に見まわれた。岡田村から本郷の駅までゆくのに、激しい吹雪だった。私は、母親と

村の和尚とにはさまれて雪の中を出かけた。生涯のうちでこれほどかなしかったことはない」
 このかなしみの込められた出発は、『雁の寺』を書くに至る複雑な道となった。

 「母は、改札口の棚のところに手をつき、雪まみれの蓑の下から、ひしゃげた顔を汽車の窓に向け、いつまでも、ぺこぺこと卑屈
頭を下げていた」

 水上さんは、母の卑屈な態度を「いぼでも不町解だ」と記している。が、本当のことをよく知っていたのだと思う。お母さんは、「勉」さん
の才能を見抜いて
、貧しい村から京へ押し出すための「卑屈な頭下げ」をやっていたのだと。

 「本来、実に生真面目な人で、無邪気なほど誠実で、ずるさのみじんもない人」(「勉さんと女たち)と瀬戸内寂聴さんが書かれているよ
うに、小説以外の創作に
専念する姿は少年のようであった。ご両親の元へと旅立ったけれ彼岸にあっても、ものを作り続けることだろう。
竹紙を漉くた
めの竹や筍の皮を煮る釜のそばに立つ水上さんの写真は、長靴を履き、釜の中をかきまわす棒を持っていて、背景には
自作の、六角
堂が建っている。六角堂の土壁には、水上さんの手のひらの跡がついている。
  2004-9-10  朝日新聞





三輪山を

三輪山をしかも隠すか

雲だにも情あらなむ隠さふべしや

額田王 巻一 十八番歌


 ある事柄を伝えようとする時何を伝えたいのかによって情報は取捨されます。その結果、同じ事柄で

も印象が一変することがあります。

 この歌は、歌に付された注では、山上憶良の『類聚歌林(るいじゅうかりん)』を引用しており、それに
よると近江遷都の際に
中大兄皇子が三輪山を見た時の歌と解釈されます。この歌を中大兄の作とする
説もありますが、中大兄は
形式的作者、実作者が額田王という説もあります。近江遷都によって住み慣
れた大和国を離れようという
時に、大和国の人々にとって象徴的な山である三輪山への愛惜の念が歌

われている印象的な歌です。

 この歌の注には『日本書紀』も引用され、「六年丙寅春三月辛酉の朔の己卯、都を近江に遷す」という
述が見られます。ところが、同書には『万葉集』に引用されない続きがあります。それによると、人々
は中大
兄が決定した近江遷都をよく思っておらず、遠回しに諫める者や童謡(わざうた・政治や社会を
風刺する歌)も多く
あり、さらには、日夜火災が発生したというのです。

 この歌に注をつけた人物は、『日本書紀』の続きの文章を意図的に引用しなかったように思われます。

もし引用したなら、大和国との別れを惜しむこの歌が中大兄のことを「遠回しに諫める」歌のように受け

取られかねません。それよりも『類聚歌林』を多く引用し、中大兄が三輪山を見た際の歌とすることで,

中大兄自身も大和国を離れることに特別の思いを持っていたと感じられるような構成になっています。

 『日本書紀』等の情報の取捨によって『万葉集』の主は近江遷都の印象をガラリと変化させているよう

に見えます。私たちの身近なことでも、情報の取捨に注意すると別のことが見えてくるのかもしれません。
  県民だより 奈良 2018 8月号
(本文万葉文化館吉原啓)




くすり道

 桜井市にある大神神社は、三輪山をご神体とする日本最古の神社です。大神神社から狭井神社までの

くすり道」の両脇には、薬業関係者から奉納された薬草や薬木が植えられています。

 春の花びらが散る時期には、疫神が分散して流行病を起こすと信じられ、災難·疫病を鎮めるために、
毎年
4月18日には、鎮花祭(はなしずめのまつり)が行われます。「薬まつり」の名でも知られ、全国の製薬
業者や医療関係者が多数参
列します。




春日大社龍王社

 春日大社(奈良市)の末社の一つ「龍王社」の社殿が約140年ぶりに再建され、9日から参拝できるよ

うになった。広報担当の秋田真吾さん( 52 )は「古くから春日大社に伝わる龍神信仰の中心的なお社が、
よろ
やく再興されました」と参拝を呼びかけている。

 春日大社には四つの本殿のほか、60余りの摂社·末社がある。大社によると、春日大社は元は神仏
習合の
神社で、龍王社は興福寺僧侶がこもる参籠所の敷地内にあった。ところが、明治期の神仏分
離政策で参龍
所が取り壊され、その頃に龍王社もなくなった。水をつかさどる祭神「龍王大神」は1875年
に別
の末社に合祀されたが、8日夕に遷座祭があり、龍王社に再び移された。

 龍王社は高さ約3m。周囲は境内を流れる川に囲まれている。秋田さんは「龍神様をおまつりするのに
さわしい景観となりました」と話している。
    2018-8-10  朝日新聞
(宮崎亮)






烏土塚古墳

 高度経済成長期の1950~60年代,全国で宅地造成や道路建設が進み、遺跡の破壊が増えていた。同時に、危機

感を抱いた考古学者や市民から、遺跡の保存運動が起き始めた。

 平群町の前方後円墳の烏土塚古墳(国史跡、6世紀中ごろ~後半、墳長約60 m)は、保存運動によって開発から
られた古墳の一つだ。

 7月上旬、平群町教育委員会の葛本隆将さん( 33 )と一緒に古墳に向かった。近鉄竜田川駅から住宅街を5分ほど
くと、古墳が見えてきた。古墳のすぐ近くまで家が立ち並び、墳丘裾がブロック塀になっていることに気づく。「開
が古墳のギリギリほで及ん
でいた証しですね」と葛本さん。

 烏土塚古墳を壊して住宅地を造成するという計画が分かったのは60年代後半だった。古墳を守ろうと住民が立ち
がり、保存運動を展開。行政も発掘調査を行い、石舞台古墳(明日香村)に迫る巨大な石室を持つ古墳だったこと
判明した。71年に国の史跡に指定され、古墳は守られた。

 墳丘に上がってみると、平群の町並みを見渡すことができ、南には奈良盆地が見えた。石室に入り、奥まで進む

と組み合わせ式の家形石棺が置かれていた。葛本さんによると、石室の幅に比べて、天井が高いのが特徴だという。

 被葬者は平群氏の首長と考えられている。立地の良さや石室の規模から、相当の有力者だったに違いない。史跡
定から40年以上経った現在も、古墳を一目見ようと、年間1千人近くが訪れるのも納得だ。

 保存運動に参加した住民らは70年に「平群史蹟を守る会」を発足させた。今も古墳の清掃や講演会の開催、機関

誌の発行などを続けている。

葛本さんは言う。「保存運動をきっかけに町文化財保護条例が制定されるなど、烏土塚古墳が平群町の文化財行政
原点となりました」

 次に近くの西宮古墳(県史跡)に向かった。古墳時代の終わりごろ、7世紀中ごろから後半にかけて築造された方
で、平群を代表する終末期
古墳だ。高さは7m以上、墳丘は3段の階段状になっており、全体に貼石が施されてい
という。まるでちょっとし
たピラミッドのようだ。

 古墳の周囲をぐるっと巡ったり、石室の中に入ったりもできる。石室の石材は加工された切石が使われ、終末期古

墳の特徴がよくわかる。兵庫県高砂市の「竜山石」で作られた家形石棺が置かれている。

 平群町にはほかにも60を超える古墳が残っている。町のホームページでは地図や散策ルートを紹介しているので、

古墳巡りの参考になる。
  2018-8-10   朝日新聞
(田中祐也)






ヤマト王権

 ヤマト王権は、日本列島を広く支配した大王(天皇)を中心として、奈良盆地南東部の纒向地域で成立しまし

た。まさしく「やまとは国のまほろば(やまとは国の中でもっともすぐれている場所)」です。

 当時の権力者たちが採用した墳墓のかたちが前方後円墳で、そこでは遺体埋葬の他に祭祀も行われてい
まし
た。現在は樹木に覆われている古墳ですが、つくられた当初は、葺石が斜面に整然と並べられていまし
た。権力者
たちは、墳墓をより巨大に、立派につくることで自分の権力を示そうとしたとされています。

 三輪山麓の纒向の地にある箸墓古墳は全長276mと巨大で、この地域で最初につくられた本格的な前方後
墳です。『日本書紀』によると、箸墓古墳は大物主神の妻であった倭迹迹日配襲姫命の墓とされ、昼は人、
夜は神
が造ったと記されています。三輪山周辺には崇神天皇陵景行天皇陵など、当時の天皇にゆかりのあ
る場所が残っている。





名香 蘭奢待(らんじゃたい)

 正倉院の名香.蘭奢待。歴代天皇により勅封とされてきたこの香木を、権力に任せて切り取ったのが織田信長である。
「力こそ正
義」の戦国の世を象徴する出来事だが、当時の正親町天皇の思いを伝える直筆の手紙がいま、
京都国立博物館で公開されている。「不本意ではあるが逆らえないという、やるせなさが感じられる」と、羽田聡、同館

美術室長(日本中世史)はいう。

 蘭奢待は正式には黄熟香(おうじゅこう)と呼ばれ,長さ156セン、重さ11 . 6キロの香木。ベトナム付近の産とされ、
くすべることで沈着した樹脂が優雅な香りをたたえる。香道が盛んになった室町時代以降珍重され、名前の中に「東·大·寺」
の3文字が
隠されていることでも知られる

 歴代天皇によって倉外に出すことを禁じられ(勅封 )ているが、足利義満や義政ら室町将軍が切り取った。足利義昭を奉
じて入京し
た織田信長は天正2 (1574)年3月28日、多聞山城(奈良市法蓮町)でこれを拝見した。そして3セン四方の塊を
2片切り取り、1
片を自らのものとし、1片は正親町天皇に献上した。

 この行為については、名だたる茶器を収集した信長らしい「名物好み」と解釈されるほか、「天皇や朝廷の権威に対する
挑戦」「足
利将軍の後継者たることを誇示した」「大和を完全に支配下に置いたことを示した」など政治的な示威行動とする
見方もある。

 勅封を解いた正親町天皇は、信長より17歳年長。政治的手腕にたけ、信長の言いなりにはならなかった。このときの思
いを伝える直
筆の手紙と注目されるのが「正親町天皇宸翰消息(しんかんしょうそく)」(国重文)で、このほど京博の所蔵と
なった。

 縦34 . 7cm、横99 . 9 cm。「散らし書き」という独特の書法で、次のように書かれている。あて先は前関白·九条稙通(たね
みち)で、献上され
た蘭奢待の一部を分け与えた際に添えた手紙だという。

 《蘭奢待の香、近き程は秘せられ候。今度ふりょ(不慮)に勅封をひらかれ候て、聖代の余薫をお

こさ 候。この一炷(いっしゅ・けむり)にて老懐(ろうかい)をのべられ候はば祝着たるべく候。 この
よしなを(使者で
ある)勧修寺大納言かじゅうじ・(晴右・はれすけ)が申候べく候》

 長らく秘蔵されてきた蘭奢待だが、勅封を解くことになった。(切り取ってくすぺその)香りで幸福に
なってもらえればいいの
だが… (大意) 。

 6月16日、京博で行われた講演で、羽田室長は「今度ふりょに」という下りに注目すべきと指摘した。「ふりょこ」は「はから
ずも」
といったほどの意味だが、そこに正親町天皇の不本意、悔しい思いが込められているというのだ。

 「実はこれとは別に、実際に信長にあてた天皇の手紙の文案が伝えられています。ほぼ同文ですが、信長に気を使い今度
”ふりよ
に"の文言はありません。心を許した前関白への手紙では、ホンネが出てしまったのでしょう」(羽田室長)

 信長は入京以降、禁裏(内裏)の修理に尽力するなど朝廷に援助を惜しまなかった。しかし元亀4(1573年7月足利義昭を
追放し
たころから、正親町天皇との関係は緊張をはらんだものとなる。

 天皇も負けてはいなかった。朝廷の領地を守り、献金を惜しまない戦国大名らに対しては、信長と敵対していても官位を与
える行為
などをやめなかった。老獪な天皇をもてあました信長は、「譲位してはいかがか」と申し入れている。若い嫡男·誠仁
親王を即位さ
せ、思うまま操ろうと企てたのである。天皇は「近ごろは譲位の例がない」と首を縦に振らなかった。

 日本最大の宗教的権威·比叡山を焼き打ちし、義昭を追って室町幕府にとどめを刺した信長には、天皇を「追放」することす
ら不可能
ではなかった、との見方もある。

 しかし結局、信長は「本能寺の変」(1582年)で倒れ、天皇は存続し続けた。「信長の最大の敵は、実は正親町天皇だった」

(「信長と天皇」講談社学術文庫)という今谷明·国際日本文化研究センター名誉教授(日本中世史)の指摘は、実に重いとい
うし
かない。
  2018-7-3  産経新聞
 渡部裕明