山田寺と坂田寺

 わが国には 現存する最古の木造建築である法隆寺西院の建築群をはじめ、飛鳥・·奈良時代の建築が30棟ほど残っ

ています。飛鳥·藤原地域には、古代の建物 は現存していませんが、発掘調査によって寺院の伽藍配置や建物の規模

などが判明しつつあります。

しかし、発掘調査では、具体的な建物の上部構造ぼではなかなかわかりほせん。そのなかで, 山田寺と坂田寺の発掘

調査では、建築部材がまとまって出土し、当時の建物の詳細を知ることができました。これは大変珍しい事例です。

 山田寺は金堂と回廊が7世紀中頃建てられ、塔などを含めた伽藍は7世紀終わりごろに完成しました。

1982年の発掘調査では、11世紀の土砂崩れで倒壊した回廊が発見され、一大ニュースとなりました。葺かれた状態で
下した瓦と、建築部材が組まれた狀態のまま出土したのです。現存最古の法隆寺金堂より、半世紀ほど古い寺院
建築
の「発見」でした。

 山田寺と法隆寺西院の回廊を比較すると、扉上部の回転軸を受ける部材は山田寺にしか見られません。一方、柱
部に置く部材は法隆寺にしか見られない技法が使われています。

 これまで法隆寺の建築は、飛鳥時代の代表的な様式を備えていると考えられてきました。しかし、山田寺回廊の発

見で、法隆寺の建築に見える様式や技法には、法隆寺以前にさかのぼるものがある一方、特殊なものもあることが

判明してきました。このため、法隆寺の建築様式の方が、むしろ特異であると考える研究者も出てきています。

 ほた 坂田寺の発掘調査では、8世紀後半に建てられた仏堂と回廊が10世紀後半に倒壊したことがわかりましたした。

1991年の発掘調査では、回廊の柱や連子窓の部材が出土しています。坂田寺から出土した部材のうち、回廊の柱

に注目してみると、法隆寺金堂と共通する部分もありますが、山田寺回廊には用いられていない技法もあります。同

じ回廊という建築で、外観はよく似ていますが、細部の様式や技法に特徴があることがわかってきました。具体的な

比較を通じて、古代建築の様式や技法が、単純に年代や地域では区分できないことが明らかになったのです。

 このように、出土した建築部材を現存の建築と比較検討することで、現存の建築だけからは知ることができない古

代の建築の多様性が明らかとなり、出土建築部材が現存建築の位置づけを再考するきっかけとなっています。
 なお、2007年、山田寺の出土部材のうち180点ほどが、出土部材としては初めて国の重要文化財に指定されました。
現在、回廊部材
は保存処理が施され、古代の姿に組み立てられ、奈良文化財研究所飛鳥資料館(明日香村奥山)に
展示されています。
  2014-4-18  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調査部遺構研究室研究員番光)





飛鳥浄御原宮

 古代最大の内乱、壬申の乱(672年)を制して即位した天武天皇が造営した飛鳥浄鷲宮(672~694年)で、

巨大な「正殿」がもう一つ見つかった。奈良県明日香村の飛鳥京跡での約半世紀にわたる調査の結果、
浄御原宮の主要建
物の全容がようやく明らかになった。しかし、新たな謎も生まれた。「なぜ二つの正殿
が心要だったのか」。専門家らの
間では、早くも様々な議論が起きている。

 「同じ規模の建物がもう一つ出るとは、想定外で驚いた」。千田稔·国際日本文化研究センター教授(歴史
地理学)は困
惑を隠せない。

 飛鳥京は、大王(おおきみ・天皇)が代わる度に移していた宮殿を初めて同じ場所に築いた都だ。630年
降、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮宮が造らた。

 浄御原宮の「南の正殿」は、土器の年代から、後岡本宮の時代に斉明天が建て、子の天武天皇
引き継いだ可能性が高
いとされる。59年から続く調査で、日本書紀が伝える主要な四つの建物「大安殿
(おおあんどの)」「内安殿(うちのあんどの)」「外安殿(とのあんどの)」「大極殿」とみら
れる跡が姿を現した。

 発掘担当の林部均、県立橿原考古学研究所主任研究員は、同じ規模の建物が二つもあった理由に
いて「後の時代には政
治をする正殿が大きく立派になり、北側の住居は小さくなっていく。斉明天皇の時
代は、公私の区
別が未分化だったのではないか」と説明する。

 千田教授は「以前は居間に客を招いていたが,斉明天皇は何らかの理由で客間が心要になり、同規模

の建物を二つ造ったのではないか」と話す。

 後を継いだ天武天皇は、左右対称に造られた南の正殿の西側別棟を壊し、池を設けたとみられている。
直木孝次郎・大
阪市立大名誉教授(古代史)は「天武天皇は後に、メーン建物の大極殿を離れた場所に建
てて政
治の場を外に出し、私的空間を広げた。天皇の格が上がったことを表しているのでは」と話す。

 一方、河上邦彦·神戸山手大教授(考古学)は三つの建物は併存していなかった」との説だ。

「正殿は天皇と神が対話する場。北の正殿が先にあり、伊勢神宮の式年遷宮のように、北を取り壊して南
に建て替えた」と
推理している。 

和田萃(あつむ)・京都教育大教授(古代史)の話 日本書紀では、天皇に招かれる身分が建物ごとに違った
とある。当
時は礼の仕方や衣服が階級分けされていたが、建物にも格があった。大安殿と内安殿は規模
や構造
は同じだが、飾りなどで外装はかなり違っていたかもしれない。今回見つかった内安殿とみられる

建物は、儀式や皇子たちとの食事の場だったのはないか。
  2006-3-8  朝日新聞




山田寺の部材

古代の建築の姿を語るとき、我々はまず法隆寺薬師寺などに現在も残る建物に注目します。
しかし時には、たった一つの部材が、建築の通史に疑問を投げかけることがあります。

山田寺から出土した「長い肘木(ひじき)」は、まさに古代建築の常識に一石を投じるものでした。

 山田寺は桜井市の西南に位置する、7世紀中頃に創建された寺院です。1982年の発掘調査で
は、回廊が倒壊したままの状態で出土して大きな話題となりました。出土品は、07年に国の重要
文化財に指定されています。

 「長い肘木」は山田寺の南門の南から出土しました。寺院の堂宇では、大きな屋根を支えるた
めに、柱の上に「組物」を置きます。組物は、「肘木」と「斗(ます)」を組み合わせてつくり、屋根の
重さを分散してうけることができます。古代の組物には、いくつかのパターンがあり、肘木と斗の形
にも一定の傾向がみられます。

 しかし、山田寺の「長い肘木」は、一般的な古代の肘木に比べて全長が長いという異例のプロ
ポーションをしていました。このような肘木は中世の禅宗寺院建築で普及しますが、古代にはほ
とんど例がありません。この「長い肘木」がどのように使われていたのか…。手がかりとなるのは
部材表面に残る痕跡と、法隆寺金堂や薬師寺東塔などの実在する寺院建築です。

 長い肘木は、上面と側面の痕跡から、下から三つの斗で支えられ、上には斗が両端にのってい
たことがわかります。つまり、この肘木は、下から2段目の肘木として使われていたと思われます。

 また、側面中央には縦に、帯状に幅18cmのへこみがみられ、その上部が大きく欠けています。
これにより、長い肘木は、直交する部材と組まれていたと考えられます。その組み方としては2通
りの形が考えられます。

 一つは、長い肘木に比べて、直交する部材が半段高くなる組み方。肘木の形は違うものの、
中国隋代の明器や法隆寺金堂·玉虫厨子などに同様の組み方をみることができます。しかし、この
組物では、建物の隅の柱上には、一方向にしか組物を入れられません。したがって、屋根を支える
構造は弱くなります。
                                                               

 もう一つは、長い肘木と直交する部材の高さがそろう組み方。この場合、建物の隅の柱上の組物
は、三方向に肘木を出した安定した構造をとれます。このような組物は薬師寺東塔をはじめとする
奈良時代以建物で確認できます。

 山田寺の長い肘木が使われていた建物は不明ですが、復元した組物の形式や出土地点から、

中門の可能性が高いと思われます。中門の創建年代は7世紀の中頃。法隆寺金堂の建築年代を

さかのぼります。

 その構造が、中国隋代から法隆寺金堂への系統につらなるのか、はたまた奈良時代の薬師寺

東塔に近いものなのか…。この位置づけによっては、古代の寺院建築史に新たな流れが加わる
ことになります。一つの出土部材が、謎に包まれた飛鳥寺院建築の姿を語りかけようとしています。
   2008-10-10  朝日新聞(奈良文化財研究所飛鳥資料館研究員西田紀子)




悲劇の皇子たち

 県西部を南北に縦断する国道168号は、悲劇の皇子ゆかりの道ではあるまいか。山背大兄皇子,有間皇
大津皇子長屋王,他
戸親王、大塔宮などの名が浮かんでくる。それに気づいたのは、平群町の西宮古
たずねた時である。

 西宮古墳は、平群中央公園南端にある。巨大な花崗岩の切り石の石室内に、凝灰岩をくりぬいた石棺が置

かれ、だれもが自由に内部を見学できる。

 県教委の説明板では、石棺はわざわざ兵庫県から運ばれた竜田石だとか。3段に築成された一辺36mの
墳で、南には平群谷の平野が広がり、その遠くはるかに吉野の山々が望める絶景の地にある。大化改新
時代
前後に造られたらしい。

 「日本の古代遺跡4 奈良北部」(保育社刊)に「中央権力と密接に結びついた人の墓」とあるのを知って、
考古学者たちに「被
葬者はだれ」と尋ね回った。すると、山背大兄皇子の墓説のあることが分かった。643年
蘇我入鹿
に攻められ、一族もろとも斑鳩寺で自死した聖徳太子の子どもである。それを知った時に、国道
168号は
特別な道だと思った。

 西宮古墳の北1.5kmほどには、藤原氏の陰謀で、やはり自害させられた長屋王と、その妻吉備内親王

墓がある。さらにその北5kmの生駒市壱分町は、謀反に加担したとして、有間皇子が捕縛された「市経(いちぶ)
家」があった場所である(「大和志」ほか)。皇子の屋敷跡と伝承された「御所やぶ」というものが、近年まで
あったそうだ。

 平群町から香芝市を経て南下すると、右手に仰ぎ見二上山山頂には、大津皇子の墓がある。「二上山を

弟世(いろせ)とわが見む」とうたった姉の大来皇女の万葉の秀歌がある。

 168号はその後、166号や24号と重なり、やがて金剛山系の東麓に沿って続く。葛城古道が国道の元になっ
たようだ。

 五條市の中心部を過ぎると、吉野川の支流の丹生川を渡る。カキ畑 右手丘陵上に、奈良時代末の光仁天皇
の皇太子だった他
戸親王の墓がある。

 他戸親王は暴虐、高慢などと史書にあるが、父が即位するためには、極めて重要な役割をもった人物である。
幽閉され毒殺されたの
が、168号付近のどこかである。

 さらに南に向かい天辻峠を越えると、道沿いの川は、熊野灘に注ぐ熊野川水系に変わる。新天辻トンネルを
抜けた五條市大塔町の
「大塔」は、南朝の武将護良親王(もりよし)の号にちなんだものである。

 親王は父·後醍醐天皇助けて熊野·吉野で、反北条勢力を結集、倒幕ののろしを上げ、建武中興を果たした
功績者。しかし、武家
政治の復活をたくらむ勢力の陰謀によって、殺害されてしまった。大塔町には、親王の遺を
伝える寺もあ
り、十津川村の谷瀬の釣り橋近くにある親王の黒木御所跡には、石碑も立っている。

 悲劇の皇子たちのゆかりの地が、どうしてこうも168号の道沿いに残っているのだろうか。
  2007-11-20  朝日新聞
(高橋徹)





黒塚古墳

 「三角縁神獣鏡奈良で32面」「王権誕生の地で初」。1998年1月10日、朝日新聞の1面に大きな見出しと鏡
写真が載った。

 県立橿原考古学研究所の発掘調査で、天理市柳本町の黒塚古墳の石室から、30枚を超える三角縁神獣鏡
が見つかっ
たのだ。女王·卑弥呼が、中国の魏からもらった鏡とされ、邪馬台国畿内説の追い風になると話題
になった。

 「卑弥呼の鏡」を見ようと、現地説明会には寒空の下、約3万人が訪れた。最寄りの人たちに温かいお茶をふ
るま
った。

 「子どものころチャンバラで遊んだ古墳に、あれほど多くの人が来るとは信じられなかった」。地元に住む原田
さん(82)は20年前の驚きを今

も鮮明に覚えている。

 黒塚古墳はその後、国史跡になり、整備が進んだ。2002年にはそばに黒塚古墳展示館が建てられ、石室の
模型
や鏡のレプリカが展示されている。

 天理市教育委員会文化財課の北口聡人さん( 40 )と一緒に黒塚古墳を訪れた。前方後円墳の墳丘裾をぐる
っと一周す
ると、全長約130mの大きさやくびれ部などをじっくり観察することができた。

 墳丘に上ると眺望が広がる。南側には卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳や大和三山が見え、東側には墳長
200
~300m級の巨大な陵墓がある。北口さんは「鏡の出土だけでなく、古墳の位置関係から見ても重要な人の
墓だっ
たのは間違いありません」とう。ちなみに20年前の現地説明会には、当時大学で考古学を学んでいた北口
さんも訪
れたという。

 墳丘の頂上部には、石室内の鏡の出土状況が一目で分かる原寸大写真パネルを敷いてある。だが、整備か
ら十数年
が経過した現在、写真が薄くなってしまい、よく分からなかったのが残念だ。

 古墳の近くを山の辺の道が通っていることもあり、今でも週末になると多くのハイカが黒塚古墳に立ち寄る。

 原田さんら柳本町の住民は、黒塚古墳を町おこしにつなげようと、02年に「柳本もてなしのまちづくり会」を設

立した。「古墳を守るとともに、訪れる人たちに町の魅力を感じてもらいたかった」と 話す。

 毎月、古墳を掃除し、春は桜まつり、秋は周囲をろうそくで彩る「柳灯会」などのイベントを開く。10年には柳本

町の歴史をまとめたガイド本柳本百選」を発行した。

 同会の事務局長の永田禎一さん( 82 )は言う。「柳本町が有名になり、地元の歴史や文化に関心を持っ住民
が増えた
のも、すべては黒塚古墳の発掘のおかげです」
  2018-5-11  朝日新聞
田中裕也


 築造時期は3世紀後半~41世紀初め。埋葬施設は竪穴式石室で、
鏡は木棺を囲むように出土した。鏡
は橿考研付属博物館で保管。





藤ノ木古墳

 観光客でにぎわう法隆寺(斑鳩町)の南大門から西に向かい、住宅地を抜けると小さな公園が見えてくる。真

ん中に高さ10mほどの小さな山がある。直径約50mの円藤ノ木古墳(国史跡、6世紀後半)だ。

 県立橿原考古学研究所が1988年、未盗掘だった石棺を調査した。石棺から金銅製の冠や履(くつ)、刀剣類、
ガラス玉
などの工芸品が次々と見つかった。日本中が「藤ノ木フィーバー」に沸いた。

 「大学生だった私はニュースを見て、考古学のロマンに引き込まれました」。町教育委員会で文化財を担当
する平
田政彦参事( 52 )は、懐かしそうに話す。

 藤ノ木古墳は2008年に史跡整備が完了した。石室の入り口に作られたドアの窓から、朱塗りの家形石棺を
のぞ
くことができる。

 平田さんの案内で石室の中に入った。モワッとした湿気を肌に感じた。「発掘前の状態に近づけるために100%

に近い湿度を保っています」と平田さん。約8mの羨道(通路)の先に、石棺が見えた。

 発見時より薄くなったそうだが、今も鮮やかな朱色を保っている。写真撮影のため、石棺の近くまで寄って奥壁
のわずかな間をのぞき込んだ。ここからはや象、鳳凰などの文様が施された鮮やかな金銅製の馬具が見つ
かった。

 高さ約4mの玄室内は、思いのほか広い。巨石の間に小さな石をはめて積み上げた様子もしっかり観察できた。

 石棺の調査から整備完了まで約20年。平田さんは「古墳の価値を後世に伝えるためには、課題を1つずつクリ
アし
ていく必要があった」と話す。

 石室内の安全を確認するため、壁石の動きを0。01 mm単位で測る装置を設置。4年かけて大地震の際に崩壊
の恐れ
がないかを調査した。石棺を照らす照明は、熱でカビが発生するのを防ぐため、あまり熱くならないLED照
明を採
用した。

 春や秋には石室を一般公開する。県外からも多くの人が訪れる。車いすの人も通りやすいように、羨道の上に
はス
テンレス製の通路を敷いた。

 石室から出てくると、平田さんが民家の屋根越しに見える小山を指さし、「あれが春日古墳ですよ」と教えてくれ

た。

 春日古墳は直径約30mの円墳。築造時期は藤ノ木古墳に近いと考えられている。未盗掘の可能性があること
から、
町は15年に発掘調査を検討する委員会を設立。発掘せずに放射線を使う調査で、石室とみられる空洞が
あることが分
かったと今年2月、発表した。

 発表以降、町には「第二の藤ノ木古墳では」「発掘はいつ」などの問い合わせが増えたという。平田さんは「古墳

にロマンを感じるのは、いつの時代も変わりませんね」と笑った。
   2018-4-6  朝日新聞
(田中祐也)


直径約50m、、高さ約9mの円墳。
出土品一式は国宝
に指定された。
石棺からは2体の人骨が見つ
たが、
被葬者は特定されていない。
古墳
近くの斑鳩文化財センターでは、
朱塗りの石棺や主な出土品
のレプリカを展示。







室宮山古墳

 大阪府の百舌鳥·古市古墳群(4世紀後半~6世紀前半)は、来年の世界文化遺産候補として注目を集めてい

る。ただ、古墳群の大山古墳(伝仁徳天皇陵)やミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)は、宮内庁が管理する陵墓の
ため
本格的な発掘調査はされておらず、墳丘の様子はよくわかっていない。

 そんな中、百舌鳥·古市古墳群と同時期の5世紀初めに御所市に築かれた室宮山古墳(国史跡、墳長238 m)

は、発掘調査され、墳丘にも上ることができる貴重な前方後円墳だ。7月上旬、御所市教育委員会文化財課の
金沢雄
太さん( 32 )と室宮山古墳に向かった。

 後円部の東側にある八幡神社の脇の階段から古墳の頂上をめざす。古墳は3段の階段状に築かれており、
途中で金
沢さんが「あそこが階段の途中の部分ですね」と教えてくれた。確かに平らになっている。「平坦部に
埴輪を巡らせ
ることが多いので、発掘調査をすると、埴輪の破片が出てくるかもしれません」と言う。

 すぐに後円部の頂上に着いた。竪穴式石室の中に置かれ長持形石棺を間近に見ることができる。権力者
の石棺に使われる兵庫県高砂市の竜山石製で、「王者の棺」や「大王の棺」と呼ばれている。石室の前のわず
かな空間に入り込むと、その石棺が間近に迫ってきた。石棺に触ることもできる。金沢さんによると石室に入っ
た状態の長持形石棺を見られるのは、室宮山古墳だけだという。

 過去の発掘調査で、石室の上を埴輪が囲むように並べられていたことが判明し、現在は靫形埴輪(ゆぎ)の
レプリカが置か
れている。また、石室の隣に別の竪穴式石室があることや、古墳前方部の北側の「張り出し部」
にも埋葬施設があ
ることがわかっている。

 金沢さんは「百舌鳥·古市古墳群の大型古墳の特徴を知る上で、室宮山古墳は参考になると考えられてい
ます」と
言う。もしかしたら、大山古の頂上にも埴輪が並べられていたのかもしれないと想像するだけでワク
ワクする。

 次に近くの條ウル神古墳(じょううるがみ・6世紀後半)に向かった。2002年に、明日香村の舞台古墳に匹敵
する規模の巨
大な石室(長さ約7.1 m)と石棺(長さ約2.8mがあることが判明し、話題になった古墳だ。
現地説明会には1
万人以上の考古学ファンが訪れ、その後も問い合わせが続いたことから、1カ月半後に再び
見学会を開いたという。
当初は円墳と思われていたが、その後の調査で墳長約70mの前方後円墳になること
わかった。いまは埋め戻された上、民有地のため、近くの道から眺めることしかできない。

 御所市教委は11年度に室宮山古墳や條ウル神古墳を含む周辺の古墳の保存活用計画を策定。
條ウル神古墳は範囲確
認調査を行い、史跡指定をめざしている。将来、巨大な石室を自由に見学できるよう
なる日を楽しみに待ちたい。   2018-7-27  朝日新聞(田中祐也)





興福寺再建

 奈良·興福寺が301年ぶりに再建を進めている中金堂が10月に落慶法要を迎える。その100日前にあたる6月29日、
再建記念の講座「天平人の祈
り」(興福寺など主催、朝日新聞社など協力)が東京都渋谷区の文化服装学院であった。
1300年前から何度も
焼失しながら、天平の姿を取り戻そうと再建を繰り返してきた歴史などにっいて、4人の講師が
語った。

 平城遷都と同じ710年に大権力者の藤原不比等が創建した興福寺は、三つの金堂を擁する寺だった。その中心の
中金堂は
714年に建てられたが、火災地震で8度失われ、その度に再建されてきた。最後の災害は、江戸時代の1717
(享保
2)年の火災で、その後は最近まで仮堂でしのいできた。

 今回301年ぶりに再建されたお堂は東西37m 、南北23m、高さ21 m。奈良市の平城宮跡復元された大極殿(東西
44m、
南北19 . 5 m、高さ27 m、とほぼ同じ規模だ。

 最初に登壇した興福寺の多川俊映貫首は「中金堂は、奈良時代に築いた基壇の上に再建され続けてきた。柱を支え
る礎石も
66個のうち64個は天平のものだ。当時の美術や建築は端正、典雅,剛勁(ごうけい)が特徴。そのように整然と
した境内を整えたい」と
話した。

 続いて、再建工事の現場指揮を執った瀧川寺社建築(奈良県桜井市)の國樹彰所長が建物の特徴を説明した。
「享保の火災前
に書かれた詳細な図面を参考に再建案を練った。しかし、巨大なお堂を支える材木は国内になく、
アフリカのケヤキやカナ
ダのヒノキも用いた」と述べた。

 3講目は、古代史の作品を多数手がけたマンガ家の里中満智子さん。不比等の妻である橘三千代や娘の光明皇后
孫にあたる称徳天皇ら、奈良時代に名を残した女性に注目し、「権威や権力を支え、当時は国立大学のような存在だっ
た寺院や仏教文化を庇護した」と説いた。

 最後は、仏教彫刻の制作技法を研究する愛知県立芸術大学の山崎隆之名誉教授が、文化服装学院の学生をモデル
に仏像の衣
装の着付けを実演した。大きめの布を体に巻き付けることで如来や菩薩の姿を再現した。
   2018-7-25   朝日新聞(夕刊)
(編集委員·小滝ちひろ)





久留倍遺跡

 740年の藤原広嗣の乱で混乱する最中、聖武天皇が突然伊勢へ旅した。そのときの宿泊所「頓宮(仮宮)」とみられる遺跡

が、三重県内で相次ぎ見つかっている。なかでも、四日市市の久留倍遺跡(くるべ)は、考古学界で注目の的。聖武の旅に
先立つ68年前、
曽祖父の天武天皇(大海人皇子)が、壬申の乱でこの場所に泊ほった可能性が出てきた。聖武は、尊敬す
る曽祖父の行程をたど
り、同じように強い支配者になろうとしたのか。 (今井邦彦)


 先月7日、津市の三重大で考古学研究会東海例会があり、同大学教授の山中章さん(考古学)は、久留倍遺跡について
こう語った。

 「聖武の旅は、広嗣の乱から逃げたのではなく、計画的だったのではないか。そんな情景が,この遺跡から見えてきそうだ」

 四日市市教委が昨秋、久留倍遺跡を調査した。すると、中庭を囲み、四角く並んだ掘っ立て柱建物の一群が見つかった。
その東側に
は大きな屋根を持つ「八脚門。奈良時代の地方政庁「郡衙(ぐんが)」跡とみられる。

 さらに、この建物を取り壊した跡地に、東西約30mある建物ができていた。周りに堀を巡らせた跡があり、奈良時代前半
の土器が
出土している。

 山中さんはこの新たな建物にっいて、「聖武の頓宮としてふさわしい規模だ」という。ここには、南向きに扉があったようだ。
天皇
が南を向いて座る当時の決まりごとにも合致している。

 この地域は奈良時代、「朝明郡」とよばれていた。「続日本」によると、聖武は740年10月末に平城京を立ち、「河口」

(現·三重県白山町) 、「赤坂」(同鈴鹿市)を経て11月下旬に朝明郡で2泊したという。

 聖武は、720年にできた「本書紀」で帝王学を学んだ。この書の最大のクライマックス、壬申の乱の記録には、
「大海人皇子が
朝明郡で伊勢神宮を遠く臨み、戦勝を祈った」という逸話がある。

聖武は、曽祖父の天武を偉大な天皇と尊敬していた。

 九州·大宰府にいた藤原広嗣の反乱。その「有事」の真っ最中に、なぜ聖武が突然、東国への旅に出たのか。壬申の乱に
勝って権
力基盤を固めた天武の行程をたどり、同じく強力な力を得ようとしたのではないか。積極的にとらえる研究者が増
えている。その意味
でも、久留倍遺跡は重要になる。

 建て替え前にも注目が集まる。古代の役所に詳しい奈良文化財研究所の遺跡調査技術研究室長、山中敏史さんは、こう
推論する。

 「門が東向きに設けられるなど、定型化した郡衙には見られない特徴がある。七世紀代の飛鳥時代にさかのぼるのではな
いか」

 ならば壬申の乱の時に大海人皇子がここに泊まったかもしれないー。四日市市教委の文化財係長、荒木昌俊さんの見方だ。

 三重県内では昨年 ほかにも聖武の頓宮らしい遺慚が発掘された。三重大の調査で 白山町の関宮遺跡からは平城宮で使
われてい
たのとそっくりな食器類が出土した。02年には大津市で「禾津頓宮(あわづ)」と見られる大側建物の跡も見つかった。

 聖武天皇の足跡は 各地で考古学的に確かめられつつある。

 久留倍遺跡は、国道バイパスの建設で一部が壊される予定だった。だが、「大切な遺跡」と研究者からの指摘が相次ぎ、国
と県、
市は対応を協議している。文化庁記念物課は史跡指定の可能性を示唆しているが、それも遺跡の保存が前提になる。
   2004-9-10  朝日新聞(夕刊)






僧寺と尼寺

 奈良県香芝市尼寺(にんじ)2丁目の飛鳥時代の二つの寺院跡、「尼寺北廃寺」と「尼寺廃寺南遺跡」

が、奈良時代に広まった「国分寺と国分尼寺」を先取りした「僧寺と尼寺」のセット寺院であることが市
教委の調査でわかった。伽藍配置は最古級の法隆寺式だったことも判明し、古代寺
院の変遷を探る
貴重な史料として注目されている。(大脇和明)


 同県斑鳩町の法隆寺から約6km南西に位置し、北廃寺と南遺跡は約200m離れている。

 調査は91年に北廃寺から始まった。中門から見て左右に塔と金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍だったことがわかり、7世紀後半の

瓦が出土。塔跡からは法隆寺の五重塔をしのぐ現存最大の心礎が見つかった。南遺跡(現·般若院境内)では01年の調査で、

焼失前の法隆寺(若草伽藍)の創建瓦(7世紀前半)と同じ型枠で作られた瓦が見つかり、02年と03年には塔と金堂の基壇(土台)
が出土。伽藍配置はや
はり法隆寺式だった。

 市教委は、両寺院がごく近い距離にあり、同じ伽藍配置であることから「僧寺·尼寺」のセットで建立されたと断定した。

 森郁夫·帝塚山大教授(歴史考古学)によると、飛鳥時代に僧寺と尼寺がセットで建立されたのは、政権中枢にあった蘇我氏が
建てた飛鳥寺·豊浦寺、聖
徳太子が建立した法隆寺·中宮(いずれも6世紀末~7世紀初め)の2例しかないという。

一般的になるのは奈良時代だ。

 聖武天皇は741 (天平13 )年、飢饉や疫病新羅との関係悪化などの相次ぐ社会不安を仏教の力で鎮め、国家を一つにま
めようと考え、詔を発して全
国60カ所余りに国分寺と国分尼寺を建立した。地方の寺院はそれぞれの豪族が建立していたが、
初めて政府直轄の寺が全国
一斉に建てられることになった。

 上原真人·京大大学院教授(考古学)は「奈良時代の国分寺と国分尼寺のセット建立の源流は、飛鳥時代にあった。聖武天皇
は、飛鳥時代に芽生えた寺
院制度を受け継いで広めた」とみる。

 セットで建立するには、相応の経済力も必要だった。塚口義信·堺女子短大学長(日本古代史)は「蘇我氏と聖徳太子のほかに
セット建立が可能だったの
は、尼寺廃寺のある葛城北部を勢力下においた敏達天皇系の茅渟(ちぬ)王一族しかない」と話す。

茅渟王は敏達天皇の孫で、茅渟王の子は孝徳·皇極両天皇、孫は天智·天武両天皇だ。聖武天は、天武天皇のひ孫にあたる。

 南遺跡の伽藍配置が最古級の法隆寺式と判明したことも研究者の関心を集めている。

 日本最古の寺院は、6世紀後半に創建された飛鳥寺(奈良県明日香村)だ。塔を中心に三つの金堂がある伽藍配置は飛鳥
式」と呼ばれる。これが7世
紀前半には中門、塔、金堂が縦に並ぶ「四天王寺式」になる。

焼失前の法隆寺はこの方式だ。その後、再建された法隆寺の「法隆寺式」が全国に広がる。

 法隆寺式では、639年創建の国家寺院·百済大寺跡との説がある吉備池廃寺跡(同県桜井市)が最古とされ、尼寺廃寺はこれ
に匹敵する。森教授は「古
代寺院の伽藍がなぜ四天王寺式から法隆寺式に大きく変わったのか。尼寺廃寺の研究からわかるか
もしれない」と期待する。
   2004-6-30  朝日新聞(夕刊)







法隆寺中門の謎

 法隆寺の南大門をくぐる。中門と回廊の向こうに金堂と五重塔が見える。1400年の歴史の重みであろう、いつ来ても外界とは

異質な空気が流れているような感覚にとらわれる。金堂と塔が回廊に囲まれた西院伽藍に入ると、「古代の空気」はいっそう濃
密とな
り、つい時間を忘れる。

 ある時、私は西院伽藍にはなぜ中軸を示すものがないのかと疑問をもった。東大寺には大仏殿の中央の前に八角灯籠が据
えられてい
る。薬師寺にも東西両塔の中心を結ぶ線と金堂の中心線が交わる場所に灯籠が置かれている。これらの灯籠は伽
藍の中軸を示すシンポ
ルにもなっている。

 西院伽藍にも大講堂の中央の前に灯籠が置かれている。だが、これは当初のものではない。今の回廊は凸字形に巡らされて
いるが、
当初は長方形で、大講堂は回廊の外にあった。

 古代寺院は東大寺薬師のように左右対称が原則である。だが、西院伽藍は長方形の回廊の中に東に金堂、西に塔があ
って、左右
対称ではない。それで中軸を示す必要がなかったのかもしれない。だが、私は中軸を示すものは必ず存在すると考え、
中門の中央の柱
が中軸を示しているのではないか、と思い付いた。

 普通は門の正面の真ん中には柱を立てない。だが、法隆寺の中門には真ん中に柱がある。哲学者の梅原猛氏が「聖徳太子
の怨霊を封
じこめるため、あえて立てた」と主張し、よく知られるようになった。

 『奈良六大寺大観』(岩波書店)の法隆寺の巻に重要な指摘があった。回廊の東端と西端からそれぞれ9本目の柱が、金堂と塔
の中
央正面にくるという。現在、金堂と塔の中央正面には礼拝石が置かれている。9本目の柱越しに見ると、礼拝石が隠れてしま
う。確
かに二つの柱とも金堂と塔の中心線上にある。

 回廊の特定の柱が金堂.塔の中心を示しているなら、中門の中央柱は伽藍の中軸を示しているのではないか。だが、予想通りに
なっていなかった。

 9本目の柱は中門の端から数えると、金堂側は4本目(約11.5m)3本目(約7.8 m)になる。金堂側が回廊の1間分(柱2本の間隔、
約3.7m)
、広くとってある。これは中門から見た時、正面が約14m大きい金堂(裳階を除いた本体部分)と、同約6.4mと小さい塔

(同)とのバランスを考えて金堂側を広くとったと考えられている。

 金堂と塔の中心からそれぞれ東側と西側はともに回廊の8間分(約29.6m)あり、等しい。この結果、伽藍の中軸は中門の中央柱

より金堂側にずれている。ずれは約1 . 9mになる。予想は成り立たなかった。

 しかし、金堂と塔の両建物の向かい合った端から真ん中に線を引くと、ここに中門の中央柱がくる。また、回廊1間の長さは金堂

と塔の正面の差の2分の1、伽藍中軸と中門中央柱とのずれは同4分の1になっている。

 回廊1間の長さ、さらに中門の中央柱と回廊の柱の位置が金堂と塔から決められているのだ。中門と回廊の造営は金堂と塔が
建った
後とされる。設計に当たっては金堂·塔と密接な関係をもつように綿密に計算されていたことがわかる。そこに何か意図が隠
れている
のではないだろうか。

 私はこう考えた。左右対称ではない西院伽藍でも「みかけ上の中軸」は必要である。現在の西院伽藍が中央柱の延長に石畳を敷

き、大講堂の中央正面の灯籠が石畳上に置かれているのも、そのラインが実質的な中軸に当たることを表そうとしたのだろう。同じ
ろに当初、あえて中門に中央柱を立てたのは、みかけ上であっても伽藍の中軸を示そうとしたのではないか。
   2009-3-24   朝日新聞
(沖真治)





法隆寺の謎

 世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されている奈良県斑鳩町の法隆寺,現在の塔や金堂は
徳太子が創建した当時のものか、670年の火災後に建て直されたものかという明治時代以来の「再建

非再建論争」はほぼ再建論で決着したが、その年代をめぐってはまだ多くの謎が残っている。4日、斑鳩
町で開かれた朝日・大学パートナシン
ポジウム「法隆寺の謎法隆寺の創建·再建年代を考える」(朝日新聞

社、帝塚山大学共催)では、パネリストらが考古学や歴史学、年輪年代測定などの成果を駆使し、謎解

きに挑んだ。 (司会は朝日新聞記者·天野幸弘)


 法隆寺が日本の正史に登場するのは606年。当時は地名にちなみ「斑鳩寺」と呼ばれた。聖徳太子が斑鳩寺を完

成させたのは607年というのが通説だが、太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」には598年の斑鳩寺についての記述が
ある。さらに法隆寺の塔
の心柱が年輪年代法で594年に伐採されたことが分かり、斑鳩地域で開発が始まった時期
はより早まる可能性が
出てきた。

 斑鳩は、対外的な玄関口だった難波津と都の飛鳥を結ぶ陸路上にある。推古天皇の前崇峻天皇の時代から、
日本
新羅に何度も派兵、「強硬外交」を展開していた。

 斑鳩寺は軍の補給基地的な性格も持つ施設として造られ、太子が斑鳩宮に移り住んだ後に本格的な寺院になった

のではないか。やはり軍事的施設だった可能性が 難波四天王寺は593年法隆寺の塔心柱の年輪はに近く、斑鳩
寺も同じ頃,造ら
れたと考えることが可能だ。1905年に関野貞が「法隆寺金堂塔婆中門非再建論」という論文を発表し、
法隆寺
の再建·非再建論争に火がついた。だが39年,現在の法隆寺酉院伽藍の東南で発桐調査があり、塔と金堂の
跡が見っかった。670年に焼失した
記録があるのはこの「若草伽藍」で、その後に今の西院伽藍が再建された、という
説が
学会の主流になった。

 しかし火災後の再建ならば、なぜ別の場所に造営したのか。また、金堂には塔よりも古い様式が見られるのはな
か。私は、西院伽藍の金堂
の建設は若草伽藍の焼失前から始まっていたのではないかと考えている。

 643年に斑鳩宮の焼き打ちを指揮した巨勢徳太が、648年に法隆寺にかなりの寄付をしたという記録が残っている。
聖徳太子の子孫を死に
追いやった罪を償うためだったと思う。慰霊のための仏堂が斑鳩寺の西北に造られ始めたが、
若草伽藍が焼失したた
め、この仏堂を金堂とした法隆寺の新しい伽藍が再建されたのではないだろうか。

 最近、金堂の天井板が670年より前に伐採されたことが年輪年代法で明らかになった。金堂の建設が670年以前に
始考ていた可能性が高
まったと考えている。


――まず、それぞれの専門分野からご意見を。

 光谷 法隆寺の塔を41 ~52年に解体修理した際、ヒノキの心柱の基部を切り取った標本が京都大学に保管されて
いる。私が00年にこ
の標本の年輪を年代測定した結果、最も外側の年輪が594年で、伐採されたのはそれに限りなく
近い年代
だとわかった。

 02~ 04年にはほかに保管されている木材の調査に加え、今も建物に使われている木材をデジタルカメラで撮影して
年輪を観察。その
結果,金堂は670年より前に着工していた可能性があり、塔は673年以降中門は690年代以降に伐
された木を使っていると
いう結果になった。この結果の評価は歴史研究者にお任せしたい。

 森 創建当時の法隆寺.つまり若草伽藍の発掘調査で見つかった軒丸瓦は、飛鳥寺造営で使われたのと同じ木型か
ら作られている。
飛鳥寺は「飛鳥大仏」が納められた606年ごろに中心伽藍が完成したと見られる。屋根瓦は早い段階
葺かれるため、飛鳥寺の瓦製作が終わったのは、それから数年さかのぼった時期だろう。その後、瓦の木型は飛鳥寺
の造営工房から豊
浦寺の工房へ運ばれ、早い段階で若草伽藍の工房に移されたのだろう。

 若草伽藍は607年に完成したと考えられているが、瓦からみると、それよりも古くから造営が進められていたと考えて
もいい。

 岩本 聖徳太子が斑鳩宮から推古天皇のいる飛鳥に日参するのに使ったという道路「太子道」は、奈良盆地の中央
を北に向かって20
度前後西に傾いている。

 法隆寺周辺には、太子道と直交ほたは並行する道路が多い。この辺りの地下遺構も同様で、たとえば若草伽藍の遺
構の塔と金堂の中
軸線は西に約22度傾いている。こうした計画地割りの設定年代は601年と考えている。法隆寺の創
建も7
世紀初頭としたい。

 現在の法隆寺西院伽藍の中軸線は約8度西に傾いているだけだ。日本書紀によると670年の火災は「一屋も余ること
なし」とい
う。天武朝以降に再建されたのだろう。

 高田 聖徳太子の息子山背大兄王の一族が643年に斑鳩宮で襲われた際、馬の骨を置いて逃げ、焼け跡で骨を見つ
けた巨勢徳太
は彼らが死んだと思って撤退したという。馬と人の骨を見間違えるはずはなく、徳太は王らを逃がしたかっ

たのだろう。鈴木さんが講演で話した、徳太が現在の金堂を建てたという説に共感する。今の西院伽藍の場所こそ、王
の一族が自害し
た場所なのではないか。

 聖徳太子の伝記の一つは、斑鳩宮を襲った軍に後の孝徳天皇も参加していたと伝える。法隆寺の鎮守である龍田新
宮は孝徳天皇
在位中に鎮座したとされ孝徳天皇が鎮魂のために設けたものかもしれない。

――鈴木さんの法隆寺軍事施設説については。

 森 大化の改新で蘇我入鹿を討った中大兄皇子は、すぐに飛鳥寺に入って城とした。寺には高い築地が巡らされ、防
御に適してい
る。若草伽藍でも発掘で北と西のさくが出ており、法隆寺も防御的な施設だったことは十分に考えられる。

 岩本 大津宮でも崇福寺三井寺南滋賀廃寺は宮を守るため配置されたという説がある。

 高田 斑鳩宮も囲む形で防備を固めたのならわかるが、斑鳩寺だけでというのはどうか。もちろん寺を城のように使う
伝統は、本能
寺に織田信長が泊まったようにその後も続くのだが。

――塔の心柱の年輪年代は、なぜ塔の年代より100年古いのか。

 光谷 仏教美術に詳しい松浦正昭·富山大教授は、聖徳太子の生前、すでにあの場所柱だけの塔(剎柱・せっちゅう)が
あったと考えてい
る。670年の法隆寺の火災の後、剎柱を塔の心柱に転用したのではという。私の出した年代と整合する。

 森 約100年間も倒し地面に接した部分が腐ってしまう。一方、松浦さんの莉柱説には実例がない。別の用途に使われ
ていた木材
を転用したのではないか。

 高田  92年に調査した金堂·釈迦三尊像の台座は、聖徳太子の一族が住んでいた宮殿の部材を転用したものと考えら
れている。貯木
施設があったのでは。

――西院伽藍の建設が若草伽藍の焼失前に始まったとの説については。

 森  そうは考えられない。西院伽藍の軒丸瓦は複弁蓮華文」というデザインで、660年代に飛鳥に登場する。法隆寺周
辺の
各寺院でも採用されており、7世紀後半にこの地域に広まったものだ。西院伽藍だけをさかのぼらせられない。

――7世紀初めの斑鳩の地割が西に20度前後傾いているのはなぜか。

 岩本 法隆寺の背後には丘陵が迫っている。地形に制約された結果だったのではないか。

――ほかに法隆寺におもしろい逸話はないか。

 高田 明治末から昭和初めの修理で出た古材があれば年輪年代研究も進みそうだが、今は多くが行方不明だ。昭和
10年代にある人物
から多額の寄付を受け、寺が相当量の古材を譲ったという。もし、その古材をお持ちの人がいたら、
ぜひ協
力をお願いしたい。

――今後はどんなテーマを追求するか。

 森 我が国の仏教文化の基礎が生き続けているのが法隆寺だ。若草伽藍からは軒平瓦が出土しているが、軒平瓦は
飛鳥寺にはなかっ
たもので、聖徳太子が斑鳩の各寺院を造るため数多くの新技術を導入したことがうかがわれる。当時、
この
地には「第一次斑鳩文化圏」と呼ぶべきものが生まれていた。その実態を解明していきたい。

 岩本 法隆寺には古代から近代まで、数多くの文献が残されている。こうした資料や建築,地名などの研究を総合的に
進めていく必
要があるだろう。

 光谷 現在、木材に微妙に含まれる元素の量などから産地を判定する研究を進めている。法隆寺に使われている木材
がどこから供給
されたものかを突きとめたい。

 高田 今日のシンポをきっかけに、さらに分野を広げて仏教学や美術、建築などを総合的に研究する「法隆寺学」の創設
を呼びかけ
ていきたい。学術的に軽視されがちな伝承などにも光を当てたい。
   2006-6-13  朝日新聞





山田寺 東回廊

 飛鳥時代の幹線道「山田」とされる道を、明日香村から桜井市方面に向かうと田寺跡(特別史跡)の案内板

が目に入る。

 山田寺は蘇我氏の一族の蘇我倉山田石川麿が641年に創建したが、649年に中大兄皇子(後の天智天皇)か
謀反の疑いをかけられ、造
営中の寺で自害した。

 その後、建設が再開し、7世紀末に伽藍が完成する。金堂や塔が並び、周囲を回廊が囲む豪華な伽藍だったと
考え
られている。

 今はサッカー場ぐらいの広場に、塔や金堂の基壇や礎石が復元されている。案内してくれた奈良文化財研究所
飛鳥資料館の西田紀子さん( 41 )によると、平安時代にも寺は存在し、1023年に藤原道長が訪れたという。

「堂内の豪華さに驚き、『奇偉荘厳』とたたえたという文献が残っています」

 西田さんと最初に東回廊に向かった。山田寺跡を全国的に有名にしたのは、1982年の東回廊の出土だ。奈良
化財研究所の発掘調査で、東側の回廊の建物全体が、屋根瓦もろとも倒れた状態で見つかった。11世紀に土
砂崩れ
倒壊したとみられ、瓦の下で、連子窓や壁、柱がほぼ完全な姿を保っていた。

 現在は基壇と礎石の一部が復元されている。ここで西田さんが手ぬぐいを取り出した。飛鳥資料館が手がけた
ッズで、手ぬぐいに東回廊が出土したときの遺構の実測図が描かれている。実測図と比べながら、回廊の大き
さや礎
石の位置を説明してくれた。

 西田さんの専門分野は建築史。「東回廊は現存する世界最古の木造建築の法隆寺より古い。両者の違いを比
較検討
することで、古代の建築技術の多様性を知る貴重な資料になりぼした」と言う。

 続いて中央の塔と金堂に向かう。両方とも土盛りで基壇が復元されている。塔の基壇中央では地下1mのところ
礎石がすえられ、舎利容器が納められていたそうだ。

 金堂の南側中央には、「礼拝石(らいはいせき)」という畳ぐらいの大きさの長方形の板石が置かれていた。
金堂にあった仏像を拝
むためのものだ。「石川麻呂は最期、礼拝石の上で、金堂の仏を仰ぎ見ながら自害した

かもしれませんね」と西田さん。石川麻呂の死後、謀反の疑いはすぐに晴れたが、さぞ無念だっただろう。

 山田寺跡から約500m西の飛鳥資料館に向かった。展示室に東回廊の一部を再現展示している。もっとも残存
態がよかった部材を保存処理して組み上げたものだ。

 現存する世界最古の木造建築物がよみがえり、すぐ目の前で見られる。そんな博物館はここだけだろう。山田寺
に来たら飛鳥資料館にも足を運び、他に例を見ない発掘成果と、古代に起きた悲劇に思いをはせてほしい。
  2018-8-3  朝日新聞(田中祐也)


寺域は東西118 m、南北185m。南門、中門、塔、金堂,講堂が南北に一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む
伽藍配置だったことが発掘調査で
判明した。興福寺の国宝「銅造仏頭」はもともと山田寺の本尊像だった。





送り火「い」

「五山」だけじゃない!?

「い」痕跡を発見か

 京都の夏の夜の風物詩「五山送り火」をめぐり、今は途絶えた「い」のをともした場所の可能性がある痕跡

いを発見したと、京都大が8日、発表した。"有力とされていた場所とは異なり、今後、詳細な調査が必要、とし
ている。

 五山送り火は、「大文字」、「妙法」、「」、「左大文字」、「鳥居形」が8月16日にともされる。起源ははっき
りしてい
ない。かつては「い」や「ー」などもともされていたが、明治時代までには途絶えたとされる。

 「い」は従来、詠み継がれている歌がある京都市左京区の向山(標高439m)が有力だとされていた。今回
京大霊長類研究所の正高信男教授と京大1回生8人が現地調査したところ、送り火に使うまきを置くスペース
と推
定できるような痕跡などが見当たらず、五山に共通して存在する社寺もなかったという。

 周囲を調べたところ、向山から北東に約1キロメートルの通称「安養寺山」(同391 m)の標高100m以上上が

ったところに、山肌を削ってつくられたとみられる平らな地形を3カ所発見。まきを置くスペースに似ていると
う。送り火に詳しい京都精華大の小
椋純一教授 「同じような地形はほかにも見られ、それで送り火の跡とす
には飛躍がある」と話す。
   2018-8-9  朝日新聞 (野中良祐)




雁の寺 水上勉

 天安門事件が勃発した日、水上勉さんは広場に面したホテル北京飯店七階に宿泊していた。大群衆が戦車を取り囲んでいる模様を、

水上さんは水墨で何枚も描いた。筆で描かれた人の頭は紙面を埋めつくしている。絵の下に「われ四日より眠ること能わず」との文字

が見える。前日には人が戦車に轢かれて死亡したニュースも入っている。機関銃の発射音がしきりにしている。曳光弾がしきりと空から

落ちてくる。中国の友人からのメモには「ホテルの屋上のイルミネーションは爆破されたり。屋上で取材中やられた由。飯店に自由主

義国のマスコミがいることを軍はキャッチし、砲撃を加えしものならんか。飯店での籠城は危険なり」と書かれていた。

 戦場と化した天安門広場の状況描いた墨絵は、写真以上に現場を表している。筆を走らせた紙は、水上さんが自分で漉いた竹紙

である。中国で古く経文を写した紙であったものを、水上さんはご自分で模索して竹紙を創作した。

その紙に描かれたのである。作家としての忙しい生活から、どこにそんな時間を持つことが出来るのだろうと不思議に思う。『越前竹

人形』を書かれたころ、もう竹紙を漉く思いが膨らんでいたのだろう。紙が生まれると、そこに岩絵具を用いて絵を描いた。こうした一連
の流れは、文人の趣味では
ない。生まれた若狭の村の景色に動かされているのである。

 水上さんは天安門事件の中国から帰国後すぐに、心筋梗塞を起こして入院され、九死に一生を得た。事件の緊張は水上さんの心臓

を襲撃していたのだった。入退院を繰り返している最中に、水上さんは病院から、若狭の一滴文庫(お母さんを記念して作られた館) へ
何度も電話して、竹紙にす
る竹餅の具合を心配していたと聞いた。その一滴文庫の裏山を散歩していた水上さんは、ある日、山の粘土
を発見して、陶器を作り出
した。水上勉のすべては若狭の土から生まれているのがわかる。

 「母」という短編の冒頭に、満九歳で福井県大飯郡本郷村岡田から、京都の相国寺塔頭瑞春院へ向かう。切ない別れの場が描かれ
いる。

 「昭和二年の二月十八日。この日は若狭は大雪に見まわれた。岡田村から本郷の駅までゆくのに、激しい吹雪だった。私は、母親と

村の和尚とにはさまれて雪の中を出かけた。生涯のうちでこれほどかなしかったことはない」
 このかなしみの込められた出発は、『雁の寺』を書くに至る複雑な道となった。

 「母は、改札口の棚のところに手をつき、雪まみれの蓑の下から、ひしゃげた顔を汽車の窓に向け、いつまでも、ぺこぺこと卑屈
頭を下げていた」

 水上さんは、母の卑屈な態度を「いぼでも不町解だ」と記している。が、本当のことをよく知っていたのだと思う。お母さんは、「勉」さん
の才能を見抜いて
、貧しい村から京へ押し出すための「卑屈な頭下げ」をやっていたのだと。

 「本来、実に生真面目な人で、無邪気なほど誠実で、ずるさのみじんもない人」(「勉さんと女たち)と瀬戸内寂聴さんが書かれているよ
うに、小説以外の創作に
専念する姿は少年のようであった。ご両親の元へと旅立ったけれ彼岸にあっても、ものを作り続けることだろう。
竹紙を漉くた
めの竹や筍の皮を煮る釜のそばに立つ水上さんの写真は、長靴を履き、釜の中をかきまわす棒を持っていて、背景には
自作の、六角
堂が建っている。六角堂の土壁には、水上さんの手のひらの跡がついている。
  2004-9-10  朝日新聞





三輪山を

三輪山をしかも隠すか

雲だにも情あらなむ隠さふべしや

額田王 巻一 十八番歌


 ある事柄を伝えようとする時何を伝えたいのかによって情報は取捨されます。その結果、同じ事柄で

も印象が一変することがあります。

 この歌は、歌に付された注では、山上憶良の『類聚歌林(るいじゅうかりん)』を引用しており、それに
よると近江遷都の際に
中大兄皇子が三輪山を見た時の歌と解釈されます。この歌を中大兄の作とする
説もありますが、中大兄は
形式的作者、実作者が額田王という説もあります。近江遷都によって住み慣
れた大和国を離れようという
時に、大和国の人々にとって象徴的な山である三輪山への愛惜の念が歌

われている印象的な歌です。

 この歌の注には『日本書紀』も引用され、「六年丙寅春三月辛酉の朔の己卯、都を近江に遷す」という
述が見られます。ところが、同書には『万葉集』に引用されない続きがあります。それによると、人々
は中大兄が決定した近江遷都をよく思っておらず、遠回しに諫める者や童謡(わざうた・政治や社会を
風刺する歌)も多くあり、さらには、日夜火災が発生したというのです。

 この歌に注をつけた人物は、『日本書紀』の続きの文章を意図的に引用しなかったように思われます。

もし引用したなら、大和国との別れを惜しむこの歌が中大兄のことを「遠回しに諫める」歌のように受け

取られかねません。それよりも『類聚歌林』を多く引用し、中大兄が三輪山を見た際の歌とすることで,

中大兄自身も大和国を離れることに特別の思いを持っていたと感じられるような構成になっています。

 『日本書紀』等の情報の取捨によって『万葉集』の主は近江遷都の印象をガラリと変化させているよう

に見えます。私たちの身近なことでも、情報の取捨に注意すると別のことが見えてくるのかもしれません。
  県民だより 奈良 2018 8月号
(本文万葉文化館吉原啓)




くすり道

 桜井市にある大神神社は、三輪山をご神体とする日本最古の神社です。大神神社から狭井神社までの

くすり道」の両脇には、薬業関係者から奉納された薬草や薬木が植えられています。

 春の花びらが散る時期には、疫神が分散して流行病を起こすと信じられ、災難·疫病を鎮めるために、
毎年
4月18日には、鎮花祭(はなしずめのまつり)が行われます。「薬まつり」の名でも知られ、全国の製薬
業者や医療関係者が多数参
列します。




春日大社龍王社

 春日大社(奈良市)の末社の一つ「龍王社」の社殿が約140年ぶりに再建され、9日から参拝できるよ

うになった。広報担当の秋田真吾さん( 52 )は「古くから春日大社に伝わる龍神信仰の中心的なお社が、
よろ
やく再興されました」と参拝を呼びかけている。

 春日大社には四つの本殿のほか、60余りの摂社·末社がある。大社によると、春日大社は元は神仏
習合の
神社で、龍王社は興福寺僧侶がこもる参籠所の敷地内にあった。ところが、明治期の神仏分
離政策で参龍
所が取り壊され、その頃に龍王社もなくなった。水をつかさどる祭神「龍王大神」は1875年
に別
の末社に合祀されたが、8日夕に遷座祭があり、龍王社に再び移された。

 龍王社は高さ約3m。周囲は境内を流れる川に囲まれている。秋田さんは「龍神様をおまつりするのに
さわしい景観となりました」と話している。
    2018-8-10  朝日新聞
(宮崎亮)






烏土塚古墳

 高度経済成長期の1950~60年代,全国で宅地造成や道路建設が進み、遺跡の破壊が増えていた。同時に、危機

感を抱いた考古学者や市民から、遺跡の保存運動が起き始めた。

 平群町の前方後円墳の烏土塚古墳(国史跡、6世紀中ごろ~後半、墳長約60 m)は、保存運動によって開発から
られた古墳の一つだ。

 7月上旬、平群町教育委員会の葛本隆将さん( 33 )と一緒に古墳に向かった。近鉄竜田川駅から住宅街を5分ほど
くと、古墳が見えてきた。古墳のすぐ近くまで家が立ち並び、墳丘裾がブロック塀になっていることに気づく。「開
が古墳のギリギリほで及ん
でいた証しですね」と葛本さん。

 烏土塚古墳を壊して住宅地を造成するという計画が分かったのは60年代後半だった。古墳を守ろうと住民が立ち
がり、保存運動を展開。行政も発掘調査を行い、石舞台古墳(明日香村)に迫る巨大な石室を持つ古墳だったこと
判明した。71年に国の史跡に指定され、古墳は守られた。

 墳丘に上がってみると、平群の町並みを見渡すことができ、南には奈良盆地が見えた。石室に入り、奥まで進む

と組み合わせ式の家形石棺が置かれていた。葛本さんによると、石室の幅に比べて、天井が高いのが特徴だという。

 被葬者は平群氏の首長と考えられている。立地の良さや石室の規模から、相当の有力者だったに違いない。史跡
定から40年以上経った現在も、古墳を一目見ようと、年間1千人近くが訪れるのも納得だ。

 保存運動に参加した住民らは70年に「平群史蹟を守る会」を発足させた。今も古墳の清掃や講演会の開催、機関

誌の発行などを続けている。

葛本さんは言う。「保存運動をきっかけに町文化財保護条例が制定されるなど、烏土塚古墳が平群町の文化財行政
原点となりました」

 次に近くの西宮古墳(県史跡)に向かった。古墳時代の終わりごろ、7世紀中ごろから後半にかけて築造された方
で、平群を代表する終末期
古墳だ。高さは7m以上、墳丘は3段の階段状になっており、全体に貼石が施されてい
という。まるでちょっとし
たピラミッドのようだ。

 古墳の周囲をぐるっと巡ったり、石室の中に入ったりもできる。石室の石材は加工された切石が使われ、終末期古

墳の特徴がよくわかる。兵庫県高砂市の「竜山石」で作られた家形石棺が置かれている。

 平群町にはほかにも60を超える古墳が残っている。町のホームページでは地図や散策ルートを紹介しているので、

古墳巡りの参考になる。
  2018-8-10   朝日新聞
(田中祐也)






ヤマト王権

 ヤマト王権は、日本列島を広く支配した大王(天皇)を中心として、奈良盆地南東部の纒向地域で成立しまし

た。まさしく「やまとは国のまほろば(やまとは国の中でもっともすぐれている場所)」です。

 当時の権力者たちが採用した墳墓のかたちが前方後円墳で、そこでは遺体埋葬の他に祭祀も行われてい
まし
た。現在は樹木に覆われている古墳ですが、つくられた当初は、葺石が斜面に整然と並べられていまし
た。権力者
たちは、墳墓をより巨大に、立派につくることで自分の権力を示そうとしたとされています。

 三輪山麓の纒向の地にある箸墓古墳は全長276mと巨大で、この地域で最初につくられた本格的な前方後
墳です。『日本書紀』によると、箸墓古墳は大物主神の妻であった倭迹迹日百襲姫命の墓とされ、昼は人、
夜は神が造ったと記されています。三輪山周辺には崇神天皇陵景行天皇陵など、当時の天皇にゆかりのあ
る場所が残っている。





名香 蘭奢待(らんじゃたい)

 正倉院の名香.蘭奢待。歴代天皇により勅封とされてきたこの香木を、権力に任せて切り取ったのが織田信長である。
「力こそ正
義」の戦国の世を象徴する出来事だが、当時の正親町天皇の思いを伝える直筆の手紙がいま、
京都国立博物館で公開されている。「不本意ではあるが逆らえないという、やるせなさが感じられる」と、羽田聡、同館

美術室長(日本中世史)はいう。

 蘭奢待は正式には黄熟香(おうじゅこう)と呼ばれ,長さ156セン、重さ11 . 6キロの香木。ベトナム付近の産とされ、
くすべることで沈着した樹脂が優雅な香りをたたえる。香道が盛んになった室町時代以降珍重され、名前の中に「東·大·寺」
の3文字
隠されていることでも知られる

 歴代天皇によって倉外に出すことを禁じられ(勅封 )ているが、足利義満や足利義政ら室町将軍が切り取った。足利義昭を奉
じて入京した織田信長は天正2 (1574)年3月28日、多聞山城(奈良市法蓮町)でこれを拝見した。そして3セン四方の塊を
2片切り取り、1片を自らのものとし、1片は正親町天皇に献上した。

 この行為については、名だたる茶器を収集した信長らしい「名物好み」と解釈されるほか、「天皇や朝廷の権威に対する
挑戦」「足
利将軍の後継者たることを誇示した」「大和を完全に支配下に置いたことを示した」など政治的な示威行動とする
見方もある。

 勅封を解いた正親町天皇は、信長より17歳年長。政治的手腕にたけ、信長の言いなりにはならなかった。このときの思
いを伝える直
筆の手紙と注目されるのが「正親町天皇宸翰消息(しんかんしょうそく)」(国重文)で、このほど京博の所蔵と
なった。

 縦34 . 7cm、横99 . 9 cm。「散らし書き」という独特の書法で、次のように書かれている。あて先は前関白·九条稙通(たね
みち)で、献上され
た蘭奢待の一部を分け与えた際に添えた手紙だという。

 《蘭奢待の香、近き程は秘せられ候。今度ふりょ(不慮)に勅封をひらかれ候て、聖代の余薫をお

こさ 候。この一炷(いっしゅ・けむり)にて老懐(ろうかい)をのべられ候はば祝着たるべく候。 この
よしなを(使者で
ある)勧修寺大納言かじゅうじ・(晴右・はれすけ)が申候べく候》

 長らく秘蔵されてきた蘭奢待だが、勅封を解くことになった。(切り取ってくすぺその)香りで幸福に
なってもらえればいいの
だが… (大意) 。

 6月16日、京博で行われた講演で、羽田室長は「今度ふりょに」という下りに注目すべきと指摘した。「ふりょこ」は「はから
ずも」
といったほどの意味だが、そこに正親町天皇の不本意、悔しい思いが込められているというのだ。

 「実はこれとは別に、実際に信長にあてた天皇の手紙の文案が伝えられています。ほぼ同文ですが、信長に気を使い今度
”ふりよ
に"の文言はありません。心を許した前関白への手紙では、ホンネが出てしまったのでしょう」(羽田室長)

 信長は入京以降、禁裏(内裏)の修理に尽力するなど朝廷に援助を惜しまなかった。しかし元亀4(1573年7月足利義昭を
追放し
たころから、正親町天皇との関係は緊張をはらんだものとなる。

 天皇も負けてはいなかった。朝廷の領地を守り、献金を惜しまない戦国大名らに対しては、信長と敵対していても官位を与
える行為
などをやめなかった。老獪な天皇をもてあました信長は、「譲位してはいかがか」と申し入れている。若い嫡男·誠仁
親王を即位さ
せ、思うまま操ろうと企てたのである。天皇は「近ごろは譲位の例がない」と首を縦に振らなかった。

 日本最大の宗教的権威·比叡山を焼き打ちし、義昭を追って室町幕府にとどめを刺した信長には、天皇を「追放」することす
ら不可能
ではなかった、との見方もある。

 しかし結局、信長は「本能寺の変」(1582年)で倒れ、天皇は存続し続けた。「信長の最大の敵は、実は正親町天皇だった」

(「信長と天皇」講談社学術文庫)という今谷明·国際日本文化研究センター名誉教授(日本中世史)の指摘は、実に重いとい
うし
かない。
  2018-7-3  産経新聞
 渡部裕明


倭の五王

 四一三年から五〇二年の間にたびたび中国南朝の宋へ遣使しては爵号を要求した讃,・珍・済・興・武
は任那日本府の鎮将であるとか、熊襲が天皇の名をかたったものだとかいう説もあったが、大和朝廷
の天皇とみるのが通説である。ただ五王をどの天皇に比定するかは下表のとおり異見が多い。下表
以外にも武の上表文中の「祖禰(そでい)」を「祖の爾(み)」と読んで珍と同じ仁徳にあてる説、元嘉
七年(四三〇)に遣使した倭王を五王以外のもう一人の王とする説、天監元年(五O二)梁から征東将
軍号を与えられた倭王武はもう一人の武で清寧または武烈に比定する説などが存在し、倭王は五人
とは限らないわけである。次に遭使の目的について、通商説もあったが、南朝鮮における権益を
南朝に承認してもらうため、高句魔と対抗するためであるという見解は早くからあった。他方、対外的
目的だけではなく、大王が国内支配を権威づけるためとする国内的目的も働いていたともいわれる。
なお、倭王がもらった爵号が高句麗王や百済王のそれより低い事実は、実力は別にしても倭国の国

際的地位がさほど高くなかったととを物語っている。 前之園亮一 学習院大学

讃(さん)  応神仁徳履中 
珍(ちん・弥み)  仁徳、履中、反正 
済(せい) 允恭 
興(こう)  安康、木梨軽皇子、市辺押磐皇子 
武(ぶ)  雄略 

倭王「武」雄略天皇  陵墓に眠るのは誰  天皇陵古墳垂仁天皇 
稲荷山古墳  安康天皇石上穴穂宮跡  古事記の成立 
王陵はなぜ大阪に  泊瀬朝倉宮  ジヲウ古墳 
年表421年  葛城氏  ヒシャゲ古墳 
佐紀古墳群  ウワナベ古墳  今城塚古墳 
手白香皇女  仁徳天皇  佐紀古墳群  



国つ神

樋口 『古事記』を読んでみると、大穴牟遅少名毘古那と二柱の神が

この国を ”作り堅めたまひき” とあって、この大穴牟遅が大国主と同じです。この国に出

現するということでは、天照大神よりも早いですから、その意味ではいちばん古い神様と

言えましょうね。そして国を治めるのにどうしようか天地創造の神と相談して”和御魂を

三輪に残し、荒御魂を持って出雲へ去る”ことで、日本は平和に治まるわけです。この和

御魂が大物主で、荒御魂が出雲の大国主ということになりますから、天孫降臨の以前から

日本に土着していた「国つ神」の代表神でしょう。

井沢 私は、あれは先住民の王のような実際にいた人がモデルになっていると思いますが、

樋口先生はどう思われますか。

樋口 実際いた人という解釈でいいと思いますよ。先住民というのはどこの何民族のとい

うのではなく、同じ日本人だと思います。開拓者のような、出雲族とでも呼ぶべき先住者

がいた。それがやがて日本の主役を退いて、大和民族的なものが国土全体を支配するよう

になったと考えられます。

 大物主の大神神社だけではなくて、次に古い京都の賀茂神社、これは上賀茂の別雷神

社と下鴨の御祖神社(みおや)の併称なのですが、三輪氏と並んで有力な出雲族である
賀茂氏の神社です。このようにして、出雲系の神社は三輪山から出雲大社まで、ずっとつ
ながって建てられています。この事実からも、古い時代に出雲族というものが存在して、そ
の伝承を残すような人物が実在したと、 私はそういう説です。

井沢 そこで、神話の国譲りの話に なり ますが、実際はあんなにスムーズにいかなくて、

だから大国主は怨霊になる恐れがあったのだと思います。大ざっぱに言えば、後から来た
大和民族が先住していた出雲族を武力で滅して日本の統治権を

奪ったために、大国主の怨念が残ったということです。古事記では、最後には大国主が

”私が住む壮大な宮殿を建ててくれるなら"と言って納得させられるのですが、そんなも

のじゃない。大国主は殺されたのだと思います。

 神話の記述は、話し合いによって国譲りが行なわれたように書かれていますが、それは

そう思わせたいためでしょう。逆説的ですが、大和族は何でも話し合いで決めるのを理想

とする和の精神を尊ぶ人たちだったのに、出雲族の反抗に遭って、それが果たせなかった

いちばん大切な統治権の譲渡について、和の精神のもとで行なったと言わせるのは、それ

を果たせなかった悔恨からだと思います。壮大な宮殿、すなわち出雲大社だって、もちろ

ん大国主が望んだわけではないでしょう。大和族が怨念を恐れて建てた鎮魂の宮殿です。
  神道からみた この国の心 樋口清之 井沢元彦



日本の神話

井沢 それでは三輪山に戻って、樋口先生にゆかりの箸墓との関係なのですが、 いろいろ

な伝説が残っています。

樋口  昔、長者が住んでいて、賢沢をして箸をどんどん使い捨てたからとか、民間伝承が

ありますね。もちろんそれはウソで、箸墓の由来は土師氏の ”ハジ”です。墳墓祭祀をや

っていた土師氏の墓ということで、箸墓だと思います。

井沢日本書紀』では倭述述日百襲姫 命の墓となっているのでしょ。大物主が、この人

のところへ通っていて、その正体が蛇だと分かったものだから、倭述逃日百襲姫は陰部を 

箸で突いて死んだ。で、箸墓だ、と。墓を祀っていた土師氏の名前から箸墓になったのは

正しいと思いますが、眠っているのは倭述述日百襲姫だと考えるのもいいじゃないですか。

その倭逃述日百白襲姫が実は卑弥呼で、だから箸墓は卑弥呼の墓だという人もいます。その

あたりは、どんなお考えですか。

樋口 それが分かれば、私はもう廃業(笑い)。

井沢  三輪山や箸墓古墳というのは、本当に想像力を刺激しますよね。大物主の恋人だっ

た女性の墓が、三輪山の近くに葬られたなどというのも、ありそうなことだし。もっと言

えば、大物主のモデルになった人は、本当に三輪山に葬られているのだろうか、あるいは

ぜんぜん別の出雲のどこかなのだろうか、と、いろいろ考えられそうです。

樋口 古代人にとっては、そういう方のお墓があるところも神聖な場所だし、一般の神様

をお祀りするところも神聖な場所です。お墓だからといって穢らわしいという感覚はあり

ません。神聖な中でも、特に神聖な場所が三輪山の上ですから、そこに葬られているとい

う発想はあったでしょうね。三輪山の頂上の「奥つ岩座」というのは大きな自然石を集め

たものなのですが、あれが大物主さんの墳墓であるという意識があったのではないかと思

います。 

井沢 岩座というのは、普通は神祀りをするところなのでしょ。神様が降りて来る目印で

神祭りの対象になる。

樋口 そうそう。伊勢神宮にもありますよ。内宮さんも外宮さんもそうですが、拝殿に向

かって手を合わせると、背中のほうに岩が積み重ねてある。あれが岩座です。

井沢 じゃあ出雲のほうは、あの出雲大社には大物主の墓があるわけではないですね。他

のところにいるのかな。出雲からは、例えば荒神谷遺跡などから大量の銅剣が発掘されて、

出雲族の存在を裏づけたわけですけど、あのあたりに葬られているかもしれないし。

樋口 荒神谷遺跡というのは面白いですね。あそこから銅剣が出たことで、逆に三輪山の

ほうでは、谷を掘ってみようという声があがったんです。三輪山には八十八谷があって、

まあこの数はいいかげんですが、その中に斑糲岩(はんれいがん)がいっぱいつまった谷が
あります。私はそこに何か隠蔽されていると思うのです。大物主さんの遺体はどうか分かり
ませんが、出雲で見つかったみたいなものか、あるいは祀りの跡とか、きっと何かがあります
よ。結局三輪山は御神体だからダメということになって、残念でした。

 出雲でもね、あの遺跡が連続した谷を、もう一回掘ってもらえるといいのですが。まだ、

もっといろんなものが出てくると思いますよ。ひょっとしたら、大国主さんのモデルにな 

った人の遺体とか。まあ、それはないと思いますけどね。

井沢 大国主のことを追うのにも、もっと手がかりがあったほうがいいですしね。

 それにしても、出雲族と大和族の関係は、少し考えるだけでも面白いものだと思います。

大和族というより天孫族と言うほうが分かりやすそうですが、出雲族と天孫族は、神道的

な扱われ方をしていますよ。樋口先生が言われた、明暗、表裏、みたいな。天孫族の天照

大神は太陽神だと思うのですが、これが明。対する出雲族は太陽を遮る雲が出ずるところ

にいて、これが暗。国譲りの時に、大国主は死後の世界を支配し、天照大神の子孫がこの

世を支配していく、と取り決めますね。こちらは表裏の関係です。

 日本の神話をいまのような形に作りあげた人たちには、神道的なものの考え方が、常識

的な教養としてあったのでしょうね。
  神道からみた この国の心 樋口清之 井沢元彦



出雲系の神社

井沢 伊勢神宮は大和系の第一の神社ですが、あの遷宮の発想は、出雲系の神社にも
ありますね。
樋口  伊勢は二〇年に一回、八坂神社は四○年に一回、上賀茂神社も四○年に一回。年数

は神社によって違いますが、建て替えることによって魂が再生するという思想は共通して

いるのだと思います。諏訪大社の御 柱もそうでしょ。柱は魂が宿っているものの象徴で、

ちゃんと屋根も作り直して、新しくすることで魂が再生する。しかし、だからといって

大神神社もそうしなくてはならないという理由はありません。

井沢  三輪の魂が再生されてしまうと、大和朝廷にとっては困るでしょうしね。それに、

大神神社にはもともと社殿そのものがなかったのでしょう。

樋口 ええ、初めは社殿はなかったと思います。そして次に、社殿だけ簡単なものが作ら

れた。というのは、いまの拝殿の裏側に、礎石跡が残っているのです。それから拝殿です 

ね。これはやはり、建築技術が進んで、永久建造物がいろいろ作れるような時代になった

から、江戸時代初期にいまの拝殿を作ったのだと思いますよ。

井沢 ということは、大神神社にとっては、新しく作り変えてしまうというのは、本来の

考え方と違うということですね。

樋口 違うと思います。けれど、いまさらそうは言えない。伊勢神宮にしたって、遷宮の

おかげで何十億というお金が集まるんですよ。そうしないと集まらないですから、結局

経済的再生という意味もあると思います。たいていのお宮がそうだと言うのではないので

すが、再生のための新造営というのもあって良いと思います。社殿や拝殿などの建造物と

いうのは、信仰の発生から考えれば、ずいぶん新しい時代のものですからね。

御神体というものについて考えてみても、京都の上賀茂神社には御神体がありません。

調査しに行きましたら、社殿の扉に丸い穴があいていて、そこから中を見ても何もない

畳が敷いてあるだけです。ところがよく見ると、向こうの拝殿の裏扉にも丸い穴があいて

いて、こちらの穴から一直線に向こうが見えるようになっている。何が見えるかと言いま

すと、山なのです。ずーっと向こうに円錐形の山が見える。神山というのですが、上賀茂

神社では、結局、神山を拝んでいるんですね。 

井沢  山が御神体ということですね。三輪山と同じだ。出雲族というのは、そのように山

を御神体にしてしまうような、依代(よりしろ)にあたるものがない信仰であって、それ以後
が大和系の依代がある信仰ということですか。

樋口  と言うよりも古い信仰でしょうね。九州にある大和系の宇佐八幡宮にしてもやはり

同じで、山そのものが御神体です。上賀茂神社の社殿は、出雲への郷愁と言いますか、心

のふるさとが大国主まします出雲だから、神山を出雲の山に見たてて拝む形だとも思いま

すけど、いちおう社殿を建てて、御神体があるという形をとっています。大社造が完成す

るころには、御神体はなくていいけど、あると仮定して特にあのような空間を設定すると

いう、つまり御神体意識が生まれていたと思いますよ。

 もっとも、他の神社には御神体意識がないものもあるかもしれません。古い古い、出雲

系の信仰がそのまま残っているような、ね。
  神道からみた この国の心 樋口清之 井沢元彦


雲太 和二 京三(うんた わに きょうさん)

井沢 よく例に引くのですが、平安時代に源為憲という人が書いた『口遊(くちずさみ)』という
本に、日本の三大建築物を意味する言葉が出ています。“雲太、和二、京三”というんですが

これは子ども向けのものですから、別に秘かにそう言われていたのじゃなく、広くそう信

じられていたことだと思うんです。実際にそうだったかは別にして、そう信じられていた、

ことが重要だと思います。

 雲太は出雲太郎の略で、出雲大社。和二は大和二郎で大和すなわち奈良にある東大寺。

京三が京三郎で、京都御所の大極殿です。つまり日本で最も大きいのは出雲大社、次が東

大寺で、三番目が御所、というわけです。当時の日本人は、それを別におかしいとは感じ

ていなかったし、現代人もそうかもしれない。しかし、これ、西洋の人たちから見ると、

もう理解の外だと思います

 平安時代は天皇が支配していたわけですから、その天皇の祖先の天照大神たちに反抗し

た大国主は、彼らの感覚では悪魔でしょ。出雲大社はサタンの宮殿です。対して東大寺は

国教である仏教の、最大の教会にあたる。御所は国王の宮殿です。西洋人には納得できま

せんよ。日本ではサタンを最も大切にする、というのでは、彼らに日本人が分からなくなって
しまっても無理はないです。 

 それにしても出雲大社の九六メートルは高すぎるし、四八メートルでも無理だと思いま

す。しかも、中央を離れた出雲に建てたとなると、大変ですよね。

樋口 それについては、出雲大社にどれだけ関係してくるか分かりませんが、考古学のほ

うで、いま巨木建造物というのが発見されているんです。もちろん、下の部分、礎石にあ

たる部分だけなんですけどね。

 直径が一·三メートルから二メートルくらいの柱が、点々と並んでいたらしい遺跡です。

出雲で二カ所、福井県、それに最近、青森県でも発見されました。日本全国で八カ所あり

まして、私たちは強固建築だろうと言っているんです。上に行くほど柱の間隔がせばまっ

ていくように立てられているから、従って安定するはずだということです。

 ただ欠点があって、中には杉の木もありますが、多くは栗の木で、あれはスッと高くな

らない。栗は枝がたくさん出て、横に広がる木でしょう。だから巨木建造物と言えるよう

なものはできない、と反対説もあります

井沢  出雲大社の復元予想図がそれに近いですね。天に向かって真っすぐ伸びた柱の上に、

あの大社造の社殿がちょこんと乗っているような。東南アジアのほうに、木の上に面みた

いなものが置いてあって、鳥小屋みたいに見えるものがありますよね。 つまりそういうも  

ので、別にちゃんと人が昇って拝むというのではなく、下のほうで手を合わせるだけだっ

たというのなら、四八メートルでも可能かなと思えます。ちょうど火の見櫓の形ですよ。

樋口  出雲大社はね、あの四八メートルが本当なら、それしかないでしょうね。

巨木建造物も、そのようなものだと思っていたんです。最初に発見された七ヵ所が、す

べて海岸だったものですから、これは海の彼方を見渡すための物見櫓のようなものに違い

ない、と。ところが、困ったことに八番目が青森県の北のほうで見つかって、これは山の

中だそうです。考古学的な理解というものは発見された事実のあとを追って解釈するので

思いがけない事実が出て来て、従来の知識だけでは解釈の出来ないものが少なくありませ

ん。この日本古代の巨木建造物の存在説も今日では簡単に説明のつくものではなく、今後

の研究に侯たねばならない問題ではないかと思っています。
  神道からみた この国の心 樋口清之 井沢元彦



卑弥呼

井沢 まず、卑弥呼というのは、これは固有名詞ではないですよね。普通名詞、あるいは

一般名詞と言うよりも、称号と言ったほうが分かりやすいかもしれません。例えば総理大

臣を村山富市さんという人がおやりになっている場合、卑弥呼というのは総理大臣という

詞であって、村山富市あるいは富市という詞ではありませんね。

樋口 はい、そこから入るのがいいと思います。卑弥呼というのは「ヒメミコ」という日

本語からきているのでしょう。そこのところを誤解している方が多いと思いますよ。本名

は別にあるのだと思いますが、それは明かさない。卑弥呼の娘と言いますか、後継ぎを
トヨ、あるいはイヨと言いましょう。あれにしても、トヨというのは固有名詞ではなく、普 

通名詞です。トヨは「台与」ですが、意味としては「豊」でいいと思います。豊鋤(とよすき)
とか豊毘売とか豊姫、トヨがつく神様は古典にはたくさん出てきます。あのトヨであって、
要するに高貴な人とか、豊かなものを授ける人という称号で、個人名ではない。ヒメミコは

「姫御子」「皇女」または「姫巫女」「姫神子」のように、神聖な人に つかえる者,とい

う意味の敬語でしょうね。

井沢 要するに卑弥呼というのは、一種の巫女さんの長であると考えていいのですね。そ

うすると必ずしも一人ではないとも考えられます。魏志倭人伝の最後のほうに、台与とい

う娘がいて卑弥呼の後を継いだと書いてありますが、あれは台与から卑弥呼になった、何

代目かの卑弥呼が誕生した、と読める。

樋口 はい、そう思いますよ。巫女さんの長だとして、しかも上にヒミがつきましょう。

このヒミはたぶん、男ならキミです。何々の君という。結局、敬語にすぎないです。しか

し、貴い人という意味はこめられています。特定個人をさす名前ではなくて、やはり天皇

のような、貴い人に与えられていた称号と考えるのが当っていそうです。

井沢 個人名でも、伊勢神宮の外宮の祭神が豊受大神だし、初代の斎宮が豊鋤入姫命

それから豊玉毘売、神話や古典を見ているとたくさん出てきます。古代の日本人のことで 

すから、この豊というのはやはり農耕に関係したものでしょうね。

樋口 一般に言う豊鋤で、鋤というのは農具でしょう。おっしゃる通り農耕に関係してい

て、豊かな農耕をもたらす人、自分たちの生活を豊かにしてくれる人という祈りの気持を、

リーダーに対する敬語に込めた。それが、日本の古代の固有名詞に豊が多い理由だと思い

ます。

井沢 そうしますと、例えばいま天皇の後を継ぐ人を皇太子と呼ぶように、邪馬台国にお

いてはトップが卑弥呼、ヒメミコであり、その後を継ぐ人が台与であった、ということに

なりますか。

樋口 いいですね。でも、思い切って台与を普通名詞だと言ってしまうのは早計かもしれ

ませんよ。というのは、その台与が伝承されたという証拠がないです。もう一代続いてい

ればいいのですが、それもないということは、あの時だけの習慣かもしれないですからね。

井沢 神道からきた習慣だと思いますが、�諱(いみな)というのがありますね。樋口先生で
すと、清之が諱で、これはめったに口にしてはいけない。ただし、死んだ後はいいんですよね。

樋口 敬語をつけて言うんですね。私なら、清之命と言えばいいのです。しかし、命を

とってしまって清之とだけ言うことは、文献のみに書かれた例はありますが、たぶん習慣 

としてはなかったと思います。

井沢 台与についても、そのような諱、生きている時の本名だった可能性もありますか。

樋口 あります。もっとも私も、トヨとつく個人名が多すぎますから、トヨが固有名詞だ

と混乱してしまうわけで、やはり普通名詞だったのだろうとは思っています。
  神道からみた この国の心 樋口清之 井沢元彦



大嘗祭

樋口 いま残っている大嘗祭は、私どもも拝見しましたが、二つの御殿を建てますね。

初に御座所と呼ばれる御殿のほうで、お祓いをなさるのですが、これにはたいへん時間がか

かります。そして、それが終ると、もう一つの御殿にお移りになるわけです。二つの御殿

の間には廊下がないのですが、お祓いを終えられた天皇が、向こうの御殿にお渡りになる。

その御殿には、槽(おけ)と呼ばれる檜作りの長いプールがあって、中には微温湯が満たし
てあります。ここから先は見たわけではないのですが、着物をお脱ぎになった下帯姿の天皇
が、呪文を唱えて槽にお入りになって、水の中を歩いて回ってきて、そして上がられて着替
えられるそうです。

 それから後が本当の天皇なんですね。大嘗祭の儀式というのは、天皇が神がかりできる

能力をお持ちになる儀式なのですが、その時には水をくぐるということです。水の中の禊、

をやらない天皇は、本当の天皇ではないということなんですよ。

井沢  祓いと禊が基本なんですね、やっぱり。そういう儀式のやり方というのは、古来、ず 

っと変わらないものなのでしょうね。

樋口 いえ、変わったところも、当然ありますよ。折口信夫先生の古代研究などによれば、

その祓いが終った後の天皇は、人間ではなく神なんです。だから無限の力をお持ちになって

いる。その天皇と接触して力を貰いたいために、むかしはたくさんの異性が接触したとい

います。こういうことは、いまやありません。

 それから天皇が禊を終えられると、笹の葉にひとつまみずつのご飯を乗せたものが用意

されています。天皇はそれをご自分で一箸おあがりになる真似だけして、御前に勢揃いし

ている日本各国の代表に一人一人、笹に包んでお与えになる。各国の代表者はひざまずい

て、それを押しいただき、天皇にいただいたものとして食べます。これが、天皇の統治権

の具体的表現なのです。食べることで、自分の肉体の中に天皇の力を取り入れた、という

ことになります。いわゆる食(お)す国になったと言うことでしょうか。

 これなども、いまでは宮内庁にいる掌典という女性の神主が、日本各国の代表者の代

行をしているようです。形式だけは残しているということでしょうね。

井沢 私も折口信夫さんの本で読んだのですが、重要な儀礼として「ふすま」という着物

のようなものを着る、とか言いますね。

樋口  浴衣(ふすま)ですね。禊の後の天皇の体から湿気をとるために、用意されています。
天皇の体は拭いてはいけないんです。霊性が落ちるということで。ですから、体を浴衣でく
るんで、上から叩くんですよ。

 このことは、天皇については記録がないですが、歴代将軍が江戸城の風呂に入りますと、

女官がいて浴衣を何枚も用意していて、湿気を吸いとるんです。あれの原型でしょうか。

その時の浴衣は、天皇の場合は掌典が、将軍の場合は女官が役得として貰えます。そうい

うことを、幕末までずっとやっていたんだそうですね。

井沢 霊力、カリスマの継承について、天皇から日本各国の統治者へというのは分かった

のですが、先帝から新帝に受け継ぐということはないのですか。昔、何かの本で読んだの

では、亡くなられた先帝の横に一晩寝た、ということですが…

樋口 そういうことは知りません。ただ、最初にお祓いをする御殿で、三種の神器を引き継

ぎますから、その時に先帝に現われた霊的なカが新帝に移るということは言えます。しか

し、いちばん重要なのは、やはり禊です。

井沢 大嘗祭というのは、卑弥呼が台与に受け継がれていったようなことが起源になって

いると考えてよさそうですね。

樋口 そういうことです。卑弥呼の時代が起源かどうか、卑弥呼でなくとも、要するに天

皇家の霊的な祖先の中で生まれた習慣を、天皇がずっと引き継いで実行していらっしゃる

ということでしょうね。
  神道からみた この国の心 樋口清之 井沢元彦



志貴御県坐神社 和田萃

 出発点近くの喜多美術館を過ぎると、山辺の道沿いに志貴御県 坐 神社がある。一〇世紀初

めに編纂された『延喜式』では、大社 (「延喜式内大社」と称する)とされた神社である。祭神につ

いては大己貴神、あるいは御県の霊などとする説もあるが詳(つまび)らかではない。

 県は大化前代における地方行政の単位で、祭祀者としての性格を併せ持つ県主によって支配

された。史料にみえるところでは、県は畿内とその周辺地域、吉備·筑紫などに多い。大和王

権が四世紀代に瀬戸内海ルートを中心として西日本各地に勢力を伸長していった過程で、県が

設置されたと推定される。なかでも畿内の県は、王権の供御(くご)料地としての性格をもち、蔬菜·
薪炭·酒·氷などを内廷に貢納した。

 とりわけ奈良盆地に所在した添·山辺·志貴(磯城)·十市・高市·葛木 (葛城)の六つの県はそ

の由来が古く、「倭の六御県」と称されて、王権の直轄地の如き様相を呈していた。乙巳の変

(大化のクーデター)の後、孝徳朝に全国的に評(こおり)が置かれたが (立評・りっぴょう・という)、
かつての六御県の意識は濃厚に残っており、祈年祭の祝詞などにみ えるように、七世紀後半代
にも御県に住む人々は甘菜·辛菜(からな)を貢上していた。天武十二年 (六八三) 十月に、
高市県主と磯城県主は連(むらじ)の姓(かばね)を賜っている。六御県との繋がりが強く意識さ
れていたのだろう。
  『日本書紀』によると、磯城県主については、磯城県主出身の女性が第三代の安寧天皇、第四

代の懿徳天皇、第五代の孝昭天皇の妃に、また十市県主出身の女性が第六代の孝安天皇と第六

代の孝霊天皇の妃となったと伝える。天智·天武天皇の皇子:皇女に、山辺·磯城 (志貴):·十市:

高市など、六御県の名称が冠されているのは、それぞれの県主出身の女性が乳母として奉仕し

たことにより、皇子女の名とされたと推定されている。中大兄皇子 (後の天智天皇) も、幼名は

葛城皇子であった。

 志貴御県坐神社は志貴 (磯城)県主により祀られたとみてよい。後代のことであるが、天武元

年 (六七二) に起きた壬申の乱に際し、高市郡の大領 (郡司) であった高市県主許梅(こめ)が
にわかに神憑りして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬および種種の兵器を奉れ」と託宣した、
有名なエピソードがある。これなども乙巳の変後に、県主が評の長官 (史科には「評督」とみえる)
に任命されて行政に与かるとともに、尚も祭祀者としての側面を有していたことを示している。
  飛鳥の古社を歩く  和田萃 



小野小町坐像(卒都婆小町)

 

 年老いた女が朽ち木に腰掛けている。骨が浮き出た体にボロをまとい、

ゆがめた口元や額には深いしわが刻まれる。笑っているのか泣いている
のか判別がつかない。平安前期の歌人で「六歌仙」」の一人、「絶世の美人」
と伝承される小野小町の彫像だ。

 老いさらばえた姿は、観阿弥作と伝わる謡曲「卒都婆小町」の一場面とさ

れる。腰掛けた木は焚字や経文を記した卒都婆で、小町と知らず見とがめた  

僧を、逆に仏理で説き伏せる小町。

 像の顔かたちはその教養を忍ばせているのか。「よばよぼしていながら貧相

ではない。妙な迫力がある」と奈良国立博物館学芸部の岩井共二·技術室長

は、人物表現の巧みさを指摘する。玳瑁(たいまい)の甲羅とみられる半透明
の歯と爪、玉眼が鈍く光り、「見る者をギョッとさせるリアリティー」を生んでいる。

 「花の色はうつりにけりないたづらに…」と詠んだ小町は死後、零落し

た姿で芸能や文学の主題となった。国文学者の片桐洋一:大阪女子大名誉教

授は、著書「小野小町追跡」(笠間書院) の中で、残された小町の歌から生

まれた「美しく高慢で男を拒む」「老いて孤愁に泣く」というイメージが

後世に「栄えるものは必ず衰える」 説話として形成されていったとみる。

 江戸後期の「寛政の改革」で知られる松平定信が編纂した古宝物図録「集

古十種」(1800年)は、この像らしき木像の絵を、奈良にあった内山永久寺
として紹介している。「お坊さんが教えを説くために用いていたのかもしれない」
と岩井さん。往時を推し量るのは難しい小町の姿が、誰にも老いがくる無常を
伝えている。
  20221018 朝日新聞 夕刊(富岡万葉)

名前 小野小町坐像(卒都婆小町)

生年 16~17世紀

体格 座高20.8cm

素材 木造

生みの親 不詳

親の経歴 小野小町は「古今和歌集」の代表的歌人。小野氏の出であること
       以外、父母や身分といった来歴は不明で、在世中に小町を「絶世 

       の美人」と評した文献は見当たらないとされている。六歌仙の文屋
       康秀や僧正遍昭との贈答歌から、仁明朝(833~850年)の宮廷に
       仕えたと推測される。内山永久寺は明治初めに廃寺となるが、「小
       野小町坐像」は、1875年開催の第1回奈良博覧会の目録に登場する
       のが確認できる。

日本にいる兄弟姉妹 小野小町が晩年を過ごした地とされ、ゆかりの遺跡が残
       る随心院(京都市)にも、老いた姿をあらわした 「卒塔婆小町坐像」
       (鎌倉時代)がある。

見どころ   ① 髪は獣毛を移植したとみられる。付属品として、頭にかぶせら
          れる破れ笠がある(今回は公開なし)。
        ② 抜け落ちた歯や深いしわで老体が表されている。


古郷飛鳥よ

  飛鳥(とぶとり)の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ
     (巻一~七八)


 この歌の詞書(ことばがき)によれば、和銅三年(七一O)の春二月「藤原宮より寧楽宮
(ならのみや)に遷りましし時に、御輿を長屋の原に停(とど)めて迥(はる)かに古郷を望
みて作る歌一書に云はく、太上天皇の 御製といへり」とある。一六年間の藤原京時代が
終わり、都は平城に遷る。新都をめざして中ッ道を行く途中、長屋原で古郷飛鳥の方を
みやり、なつかしい男性の住むあたりに思いをはせる。作者はおそらく後に太上天皇とな
元明女帝であろう。彼女にとって飛鳥は、心寄せる人のいる情景であった。長屋原は
天理市永原から長柄にかけての一帯とされる。中ッ道はその近くの西井戸堂町の
山辺御県坐神社の東を通る。

 『万葉集』には中ッ道のルートを推定させる歌がある(巻一三~三二三〇)。それに

は奈良ー穂積ー坂手ー神名火山ー吉野の順に地名がよまれる。穂積を天理市前栽町付

近とする説に従えば、長屋原はすぐ南である。坂手は後述の竹田原付近とみて、この歌
から、中ッ道のいくつくところに飛鳥の神のます山があることがしられる。道のターミナル
に神をおくことは、わが国の空間における「奥」の思想に関わるものであろう。近鉄天理
前栽駅で下車して南すれば、そこが穂積から長屋原にかけての故地である。元明女帝
の情景がはるか南にある。
 飛鳥への古道 千田稔


山高み河雄大(とほしろ)し 飛鳥古京

山高み河雄大し 飛鳥古京

 飛鳥寺から南に向かうと、いわゆる伝板蓋宮遺跡に出る。板蓋宮は、大化の政変
があった現場であるが、最近では、この遺跡を天武天皇の飛鳥浄御原宮ではな

いかともいわれている。もしそうならば、壬申の乱の勝どきをあげた大海人皇子は、

六七二年九月、倭京嶋宮に帰り、岡本宮に移った後に、その南に造ったのがこの
浄御原宮である。即位は、翌年二月ここでおこなわれる。長年の発掘調査によって、石敷

遺構や井戸あるいは柱列址や、建物の遺構が検出されてきて、しだいに、宮の構造

がみえてきた。中ッ道の延長線をこの付近までもってくると、西側の柱列推定線の近

くにくる。従って、との宮も中ッ道との関連で造営されたものとも考えうる。

 奈良時代の歌人、山部赤人は、飛鳥の神奈備山に登り、かつての飛鳥の古京を偲ぶ。

とほしろ

  明日香の 旧き京師(みやこ)は 山高み 河雄大し 春の日は山し見がほし 秋の夜は 河

  し清けし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 霧に 河蝦はさはく 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ

  古思へば (巻三~三二四)

山が高く、雄大な川のあった飛鳥の旧都は、春は山が美しく、秋の夜は河が清らか。

朝雲に鶴が乱舞し、夕霧の中にかじかがなく。その景色をみるたびに、過ぎし時を思

って涙があふれると歌う。赤人のみた飛鳥の風景は、天武朝から五○年以上も経てい

る。単なる叙景歌ではあるまい。壬申の乱、大化の政変と、歴史を変える争闘があっ

た風景への鎮魂歌であろう。あたかも、人麻呂が荒れたる近江の都をよんだように。

  飛鳥への古道  千田稔



時に舎人ありき

 平城京の羅城門の南約一·五キロに

大和郡山市稗田の集落がある。環濠集落で有名だが、下ッ道の ルートは、集落の西側

の濠の部分とほぼ一致している。このことから、環湊は、下ッ道が、本来の機能を果

たさなくなった時期以降につくられたことを示すものとされた。つまり環濠集落の中

世成立説を支えることになった。集落の南に、売太神社がある。式内社で、稗田阿礼

をまつるが、本来の祭神は、その祖神の天鈿女命であろう。『古事記』の序にいう。

 「時に舎人有りき。姓は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。人と為り聡明 にして、目

に度ればロに踊み、耳に払るれば心に勒(しる)しき。即ち、阿礼に勅語して帝皇日継及

先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき」

天武天皇の舎人であった阿礼は、一見すれば、声に出して節をつけてよみ、一度聞け

ば心に刻んで忘れることがなかったので、天皇は帝紀や旧辞を誦み習わせた。それを

太安万侶が筆録し、和銅五年(七一二)に『古事記』は完成する。

 阿礼が天武天皇に仕える前であるう。壬申の乱で倭京将軍吹負は飛島から下ッ道

をとって稗田に入っている。このあと乃楽山で近江軍にやぶれ、宇陀の墨坂に逃げる。

 近年、稗田の南で、下ッ道の東沿いに奈良時代の運河状遺構と橋脚が発掘された。

との運河状遺構と平城京の関係も無視できないであろう。
  飛鳥への古道  千田稔



関蝉丸神社 地図

 小倉百人一首競技かるたの名人位とクイーン位を決める大会が開かれる大津市(近江神宮
には、いにしえの歌人の息吹が感じられる場所がいくつかある。京都の山城国と滋賀の近江国
の境にあった「逢坂の関」はその一つ。あま たの和歌に登場する。

 この地が交通の要衝だった平安期、人物像が謎に包まれている歌人・蝉丸は庵を結び、行き

交う旅人の姿に出会いと別れをみた。〈これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂

の関〉と詠んだ。琵琶の名手ともされ、没後は芸能の神としてあがめられた。

 関の近くにある「関蝉丸神社下社」は蝉丸をまつり、境内には歌碑もある。創建は平安初期

の822年とされ、今年で1200周年。江戸時代には、舞踊や曲芸の旅芸人に免許状を与え

る役割を担った。

 京阪電鉄京津線の線路がすぐ 脇を通る鳥居をくぐり、境内へ。平安時代の歌人、紀貫之

和歌で詠んだ「関の清水」の石柱が見えた。かつては湧き水をたたえていたという。裏山に

は、「絶世の美人」として有名な小野小町の塚もひっそりたたずむ。小町はこの地で晩年を過

ごしたと伝わる。

 蝉丸をまつる本殿は、回廊が囲む珍しい構造だ。しかし、槍皮葺きの屋根は腐朽し、シート

がかぶせてあった。2007年、宮司が急逝。2年に滋賀県神社庁職員の橋本匡弘さん(船)

が引き受けるまで宮司不在で、荒廃が進んだ

 いま、復興を目指した取り組みが進む。5年から「芸能の祖神を蘇らせる」を合葉に、有

志で芸能祭を開き、本殿修復の資金を集めている。窮状を聞いた能楽師や雅楽師が、快く協力

してくれているという。

 境内入り口付近に、寄付者を記した看板が立つ。滋賀県出身の芸能人の名をいくつか見つけ

た。「千年以上経っても蝉丸信仰はちゃんと残っているんですよ」。橋本さんは力を込めた。
 
 2022-2-4  朝日新聞(安藤仙一朗)

京阪上栄町駅徒歩5分、JR大津駅徒歩山10分。上社(かみしゃ)もあり、山上へさらに
徒歩5分。駐車場は無く、公共交通機関の利用がおすすめ。下社では5月29日に芸能

祭、10月30日に「御鎮座1200年記念大祭」を開く。 間い合わせは、滋賀県神社庁
(077.524.2753)へ。  



薬師寺東院堂の聖観音菩薩立像

 張りのある胸にゆるやかな腰のくびれ、青年のような肉付きは、まるで実在の

人を理想化したかのようです。奈良,薬師寺東院堂の本尊、聖観世音菩薩立像

(国宝) は古代彫刻の名作と名高い金銅仏です。

 像高188.9。黒漆の厨子の中にすっくと立っています。様々な姿に変じ

て人びとを救う観世音菩薩。変身前の姿が聖観世音菩薩と言われ、この仏像は

その姿を表しています。

 金銅仏にもかかわらず、肉体の柔らかさを感じられる特徴のほか、頭上で束ね

た髪に透かし彫りの髪飾り、大きな宝石のついた胸飾りや腰から下にも珠玉の 

ついた飾りが表現されるなど華麗な装身具の表現も目を引きます。

 両手のポーズ、左右が同じ形に広がる衣のすそなど構図が焼損した法隆寺金堂

壁画の十一面観音像と似ています。大阪大学大学院の藤岡穣教授(仏教彫刻史)

は「遣唐使が持ち帰ったいろんな図像の中から同じ物を下絵に使っているので

は」と話しす。

 東院堂は日本最古の禅堂とも言われています。生駒基達副住職(6)は「ゆった

り拝んでいかれる方が多いです」。優しい表情の聖観世音菩薩と向き合うと静か

な時間が流れていきます。 
  2022-2-4  朝日新聞(米田千佐子)



空也上人360°

 

 疫病に苦しめられた平安時代、念仏をとなえて諸国を行脚した空也上人

(903~972)。その姿を写実的に表した鎌倉時代の立像(重要文化財)。没後1050年の今年、
京都·六波羅蜜寺の 所蔵する立像が3月1日から、半世紀ぶりに東京で展示される。

 

 口から6体の仏がこぼれ出る姿は強いインパクトを与える。 でも、そこに注目するだけ
ではもったいない。どの角度、 どの距離から見ても、目の前に空也上人がいるかのような
「リアル」が息づいている。

 念仏を唱えると「南無阿弥陀仏」の6文字それぞれが阿弥陀仏となって現れたという伝承
を表現した「空也上人立像」。死後250年ほど経った、鎌倉時代初めごろに造られたと考え
られている。

 東京国立博物館平常展調整室長の皿井舞さんは「上人は当時の人々から、まちを歩き
回って民衆に寄り添った親しみやすい僧として認識されていた」と指摘する。そのイメージ
を、 仏師・ 運慶の四男の康勝が高い技術の人体表現で示したという。

 体全体は「どこから見ても歩いているように見え、骨格に無理がない」。盛り上がった頬
骨は、上人が発声する瞬間を切り取ったものだ。

 写実性は細部にも宿る。皿井さんによると、上人は絹などの織物をまとう一般的な高僧
とは異なり、庶民に寄り添う僧侶が着る皮衣を着ていた。 真後ろから見ると、横向きのし
わや縦に細かく刻まれたしわから、皮の盛が表現さにているという。

 「色んな角度から、引いて眺めることも近寄って見ることもできる。それぞれ好きなポイ

ントをさがしていただけると思う」と皿井さん。
  2022-2-23  朝日新聞 (田部愛)


壁画発見

 1972年3月日、明 日香村の高松塚古墳から、彩色が施された壁画が見つ かった
というニュースを新聞各紙が一斉に報じた。

 朝日新聞も朝刊1面でその大発見を伝えた。大阪本社版の見出しにも最大級の

言葉が躍っている。

 「法隆寺級の壁画」

 「戦後最大の発見」

 仏の世界を描いた法隆寺の金堂壁画(国重要文化財)は中国,敦煙の莫高窟、
インド・アジャンター石窟群と並び、「アジア仏教美術の至宝」と称される。紙面での
破格の扱いは、これらと肩を並べると判断されたからだ。

 壁画は石室と呼ばれる埋葬施設の壁石にあった。橿原考古学研究所の発掘調査 

で3月25日判明し、5日後に報道発表された。

 発掘調査に携わった人の目を引いたのは、壁画を彩る赤、青、黄、緑などの華

やかな極彩色だった。

 描かれていたのは、計16人の男女の人物群像。日月像。中国古代思想の方角
の守護神「四神」のうち、青竜、白虎、玄武。朱雀があったとみられる南壁は鎌倉

時代の盗掘で壊されていたという。そして天井には星宿図。西壁の4人の女子群

像は「飛鳥美人」と呼ばれ、特に名高い。

 壁に三角や丸など幾何学的な文様が描かれた「装飾古墳」は、それまでも北部

九州を中心に確認されていた。だが、人物や事物が鮮やかに色づけされた写実的

な壁画はそれまで国内で発見例はなかった。

 人物群像は、髪形や服装、所持品などの細かい描写もされていた。文献史料

だけでは読み取れない当時の様子がありありと目に浮 かんでくる。大化の改新以

降の歴史や文化を伝える第一級の史料となった。

 絵そのものは、主題などが高句麗の古墳の壁画と類似する。構成や彩色などは

中国・唐の技法が用いられたとみられ、歴史的価値だけでなく美術的価値も高い。

 極彩色壁画は古代史ブー ムを巻き起こし、教科書に掲載され、一般社会の考古

学への関心を高める牽引役となっていく。

  2022-3-1 朝日新聞(足立耕作)



當麻寺・弥勒菩薩坐像

 奈良県葛城市の当麻寺金堂には、塑像で日本最古とされる「弥靭如来坐像」

(国宝) が安置されています。制作年代は白鳳時代の681年ごろです

 粘土などの土で形を作る塑像ですが、表面に布を貼り、上から漆と金箔が

施されています。高さは2.2mで、厚みのある体やふっくらと張りのある顔が
重厚感を放っています。

 弥勅如来は、釈迦の入滅後、56億7千万年後に人間界に現れて人々を救う
未来仏のことです。「当時の人々は弥勒さまとともに仏になって、苦しみから解
放されることをここで願ったのでしょう」と当麻寺奥院の川中教正副住職(44)は
話します。

 日本最古の塑像であることと、未来の姿を形にした像であることから、初期塑

像の 「異例」 とも言われます。安置されている金堂は、南都焼き打ちの一環で

激しく破損しましたが、弥勃如来坐像は作られた当時の姿を保っています。

 木造と違い、土でできているので移動はできません。像のそばで平家の攻撃

を防ごうとしていた人々がいたことを想像させます。

像への人々の思いの強さも、他にないものだったのかもしれません。 
  2022-3-4 朝日新聞(平田英美)



忍性

 鎌倉時代(3世紀)、奈良や鎌倉などを舞台に、ハンセン病患者や貧者らの救済活

動を徹底して進めた律僧がいた。良観房忍性(1217~1303年)。真言律宗総

本山の西大寺(奈良市)に学び、病院や療養所、投薬施設、動物病院など、多くの救

済施設を開設して、社会的弱者の救援、経済的支援をしただけでなく、架橋や作道な

どの社会基盤整備、寺院の復興事業も手掛けた。西大寺を再興した師の叡尊から
「慈悲にすぎた」と評せられ、死後には「菩薩号」が贈られた忍性。仏教の「興法利生」

(仏教を盛んにして、他者を救済する) に全身全霊を傾けた生涯だった。 
 2022-1-12  産経新聞 (編集委員 上坂徹)

 

患者を背負って

 奈良の北郊、なだらかな丘陵地に南北に細長い棟割り長屋があった。十八の小

部屋と仏間からなる「北山十八間戸」。忍性が開設に関わったと伝えられる、ハ

ンセン病患者らの寮養施設だ。

 医学が発達していなかったこの時代、ハンセン病は、不治の病とされて、近づく

ことさえ避けられるといった、厳しい偏見にさらされていた。 北山十八間戸の周

辺は、そうした人たちが集住する場所としては大和(奈良県)で最大規模とい

われ、忍性は西大寺の僧侶らとともに、親身になってハンセン病患者の面倒を見

ていたようだ。 北山十八間戸では治療も行い、一時的な施行(食料などの施し)

ではなく、長期的な救済活動を展開した。

 没後7年で弟子がまとめた忍性の伝記「性公大徳譜」(大徳譜)や同時代末

期の仏教史書「元亨釈書」 には、忍性が、食事にさえ事欠いていた手足の不自由

なハンセン病患者をふびんに思い、朝早くこの患者を背負って、奈良の市(官

営の市場)まで連れていき、夕方には連れ戻していたことが記されている。 人

が集まる市で、物乞いをすることによって、生活の糧を得られるようになること

を期待していたようで、忍性は天気や季節に関係なく、休まずに背負いながら

の送り迎えを繰り返していたという。 

西大寺に常施院

 額安寺(奈良県大和郡山市) などで仏教を学んでいた忍性が、戒律復興を進め

ていた叡尊の誘いで、西大寺に入ったのは仁治元(1240)年。24歳の時だった。 

 奈良時代に称徳天皇が創建した西大寺は平安時代中期以降荒廃が進んでいた

が、持斎僧(戒律を守る僧)の公募に応じて入寺した叡尊によって、再興。真

言密教に律宗を合わせた真言律宗(西大寺系律宗)を掲げて活動していたが、忍

性が弟子に加わったことで、ハンセン病患者や生活の困窮者ら社会的弱者に対

する救済事業を本格化させたという。

 忍性は入寺後、西大寺に病人の療養施設として「常施院」を開設している。こ

の建設をめぐっては、忍性の父である伴貞行 (慈生敬法房)が建長元(124

9)年、敷地購入のために計6反半(約6500平方)の土地を西大寺に寄進

した文書が残る。息子の活動を父親が支援していたよ」うだ。西大寺ではまた、

「悲田院」を修造し、生活困窮者への施食などを行っている。

絵の安置と供養

 「大徳譜」によると、忍性は少年時代から仏教に興味を持ち、11歳の時に信貫

山(朝護孫子寺) =奈良県平群町=で仏教を学び、14歳の時には文殊菩藻像を摺

り、戒めを守ったという。

 さらに、師の叡尊の伝記「金剛仏子叡尊感身学正記」(学正記)には、忍性

が16歳の時、(文殊菩薩信仰があつかった)母親が死亡するが、その直前、母の

望みをかなえるために剃髪して法衣を着るなど憎侶の 格好をして見せたことーを

記している。そして、その母の供養のため、文殊菩薩を描いた絵を、ハンセン病

患者らが集住する大和の7カ所に安置し、毎月、文殊念仏を唱えることを宿願に
したという。

 「文菩薩は貧しく孤独で苦悩する人の姿で現れ、貧者に施給することは文殊

菩薩への供養になる」と交殊師利般涅槃経』にある。忍性はハンセン病患者

ら社会的弱者が文殊菩薩の化身で、手を差し伸べることが文殊菩薩を供養するこ

とになる、と考えたようだ。実際、7カ所への文殊菩薩の絵の安置と供養を行

っている。

 西大寺の佐伯俊源教学部長(種智院大学教授)は「守るべき戒律の三聚浄戒

に、生き物を殺さない、積極的に生き物を助けることが重要とあります。それが

社会的実践に結び付き、叡尊も民衆の救済事業をしていましたが、忍性が西大寺

に入り、叡尊教団に文殊菩薩信仰をもたらしたことで、救済活動は拡大してい

ったようです。弱者救済は教団ぐるみの事業でした」と話している。

 忍性は36歳の時、東国への真言律宗布教を目指して、 東下する。常陸国 (茨

城県)、そして鎌倉。忍性の救済事業は加速する。

にんしょう

 鎌倉時代の真言律宗の僧侶。房号は良観。建保5(1217)年、大和国
城下郡屏風里(奈良県三宅町)に生まれる。 母親の影響で文殊菩薩に
帰依し、その死後、母の願いを受けて出家し、東大寺で受戒。奈良,
西大寺を再興 した叡尊に師事し、真言密教に戒律を合わせた真言律宗
などを学ぶ。
ハンセン病患者ら病人や貧しい人の救済に努めた。後年は活動

の拠点を鎌倉に移し、東国での真言律宗の布教とともに、鎌倉幕府

の信頼を得て、各地に病院、動物病院などを開設、施療や弱者救済 

に尽くした。

 また、架橋、道路建設、港湾修築などの社会事業も展開。東大寺

四天王寺など社寺の別当·勧進なども務め、その復興を行った。

1303年、鎌倉·極楽寺で没し、5年後に、朝廷から菩薩号を追贈された。


新薬師寺

 本尊の薬師如来坐像や本堂の柱に使われている木材は、747年の創建当時ですでに樹齢
1千年ほど経っていたといわれる。「2千年以上前の森で森林浴をしている気分になります」。

奈良公園近くにある新薬師寺 住職、中田定観さんE)はそう話す。

 奈良時代、大仏造立に取り組む最中に体調を崩した聖武天皇の病気平癒を願い、光明皇后

創建した。奈良市内には天武天皇が皇后の病気平癒を願って建 立した薬師寺もある。新薬師寺

の「新」は新しい薬師寺という意味ではなく、「霊験あらたかな」という意味が込められている。

 創建時には、東西二つの塔、金堂、講堂を有し、境内は約600m四方だった。だが、780(宝 

亀11)年、西塔に電が落ち、大部分の建物が火災で失われた。

現在は国宝の本堂のみが残る。

 暗い本堂内に姿を見せたのは13の仏像だ。ほのかな明かりに照らし出されている。中心には

本尊の「薬師如来坐像」(国宝)が安置され、その周囲を囲むように「十二神将立像」(補作1体を

除き国宝) が立つ。それぞれ本尊を守るように外側を向いている。「お堂の中に入りますと敬虔
な感じ、ありがたい感じがし ます」と中田さん。この配置になったのは寺が火災に遭った後という。

 十二神将の一体一体には干支が割り当てられている。参拝者の多くは自らの干支の像を探

し、像の前にろうそくを立て、拝む。円形に配置された仏像の周りを歩くとそれぞれの像をあ

らゆる方向から見ることができる。「持ち物や姿も見ながら拝んで欲しいです」

 古い地図によれば、現在の本堂はかつて僧が食事をしながら修行をする食堂だった。天井は

食堂の特徴である化粧屋根裏になっており、建物の梁などが見える。そのため、歩みを進める

ごとに仏像の背景の変化も楽しめる。

 中田さんは「建築と十二神将をセットで見て、空間そのものを楽しんでいただきたいです」と
話した。
  2022-3-18 朝日新聞 (浅田朋範)




謡曲「大仏供養」

話曲「大仏供養」と転害門

 謡曲「大仏供養」は、平家の遺臣悪七兵衛景清が源頼朝を襲撃しようとしたことを

描いた曲である。

 景清が京都清水寺に参籠している時、頼朝が東大寺大仏供養に参列することを聞き、ひそ

かに奈良に来て、母に会ってそれとなく別れを告げた後、白張浄衣の姿に身をやっして転害

門に隠れていたが、頼朝の臣に見破られたため時節を待っことにして、若武者たちを切り払って

立退いた。というのがその粗筋である。

 転害門は、東大寺の西大垣の北寄りに佐保路に面して開けられ た門て、天平の雄渾な様式を
いまに伝える三間一戸、本瓦葺、切妻造八脚門である。

 東大寺の鎮守手向山八幡宮の転害会がここをお旅所としたところから転害門と呼ばれ、また

佐保路門あるいは景清門とも呼ばれる。

 謡曲史跡保存会



大嘗祭儀式

  日本書紀天孫降臨神話に、天から下界に降りる神が「真床追衾(まとこおうふすま)」と

いう掛け布団にくるまれていた、という趣旨の不思議な記述がある。 かつて国文学者の故·
折口信夫は、天皇の即位に伴う大嘗祭の神座に置かれる衾(布団)が「真床追衾」に由来し、
新天皇に天皇霊をつけることに儀式の意義があったとの説を唱えた。そもそもなぜ儀式に
「衾」が登場するのか。その疑問をユーラシア北方遊牧民の思想や伝統から解き明かし、
折口説を補強する新説が昨年、発表された。 謎に包まれた大嘗祭。その核心に迫る考察
とは。
  2022-2-26  産経新聞 (川西健士郎)

 

折口信夫説

 折口は昭和3年、即位する天皇が衾にくるまって物忌みし、天皇としての威力の根源とな
る霊魂「天皇霊」を憑依(ひょうい)させることで神格を得る「秘儀」があるとし、これが大嘗祭
の最も重要な意義であると主張した。

 折口説はその洞察力の深さでもてはやされる一方、史料的裏付けが乏しく「虚妄の説」など
と批判にさらされた。

 「秘儀」については依然謎だが、日本とユーラシアの古典に精通する富山大学の山口博名
誉教授(90)が、神話の真床追衾や大嘗祭の衾は、ユーラシア大陸北方遊牧民の衾類を用

いた即位儀礼がルーツだ と、昨年刊行した『ユーラシア文化の中の纏向・ 忌部・邪馬台国』
(新典社)で論じた。

 山口氏は「9世紀に編纂された『貞観儀式(じょうがん)』から始まる史料(儀式書)に、大嘗宮
の神座に衾が設けられたことが記されている」と指摘。折口説の「秘儀」が実際に存在したと
認め本では前方後円墳を最初に築いた集団が始めたとする新説を打ち出した。

前方後円墳の成立

 山口氏によると、中国北方の「鮮卑族(せんぴ)」や遊牧民の血を引く中国の周王朝など

ユーラシア北方の古代以来の諸民族に、フエルトなどの衾類を用いた新君主の即位儀礼が
広く確認できる。そこでは、神が天から降りてくる神話の型も共通しているという。

 「衾類を用いた即位儀礼と神降臨の思想を持つ文化の回廊がユーラシア北方に形成され、
その東端に日本が位置付けられることを天孫降臨神話や大嘗祭は伝えている」と山口氏は
指摘する。

 考古学者纏向学研究センター所長の寺沢薫氏は、編向遺跡のホケノ山古墳(奈良県桜井
市)・萩原1号墳(徳島県鳴門市・黒田古墳(京都府南丹市)の3基には、ひつぎを安置する部
屋を木の板で囲んだ「木槨構造(もっかく)」があり、そこで首長霊継承の秘儀が行われたと
想定。これらはいずれも初期の前方後円墳で、「折口が描く大嘗祭の実像は、実は前方後円
墳の成立とともにあったのではないかと思う」と述べる。.

墓の特徴が一致

 山口氏の調査によると、ホケノ山古墳や萩原1号墳の埋葬施設の特徴(積石塚· 木郷·<り
ぬき式木棺)がすべてそろう古墳が、北方ユーラシアに数力所確認できるという。

 遊牧民スキタイの王墓で紀元前4世紀のパジリク古墳 (旧ソ連のアルタイ共和国)や、漢民
族を脅かした遊牧騎馬民族の匈奴(きょうど)の王墓とされるノヨン・オール古墳(モンゴル)な
どで、どれも日本に木槨や前方後円墳が出現する2~3世紀より古い。

 これら古墳の木槨内では、天上の神の世界を語る鳥装のシャーマンが、衾類を用いた秘
儀を行っていたとも山口氏はみる。天日鷲神(あめのひわし)など鳥名を持つ神がルーツと
される古代氏族・忌部 氏がそのシャーマニズムの系譜に連なり、前方後円墳の生みの親
になったというのだ。

 忌部氏の本拠地は最古の前方後円墳ともいわれる萩原1号墳がある阿波(徳島県) とされ、
延喜式』は阿波国の忌部氏が織る麻織物「新た麁服(あらたえ)」が大嘗宮の神座に運ば
れたことを記す。

 麁服は令和元年の大嘗祭でも、古式通りに阿波忌部氏直系の三木家が大嘗宮に調進し
た。山ロ氏は「(『真床追衾』の) 真床とは神座のことで、忌部氏が織る麁服がそれを覆う衾

であった」と、神話と秘儀の謎を雄大に読み解く。

 戦後最初の大嘗祭が挙行された平成2年、宮内庁は神座は神がお休みになる場所で、
寝具類はなく、陛下がそこに入ることはない」と現代の大嘗祭については、その神性を否
定している。

 山口氏は「政教分離や人間天皇宣言の精神に基づく現憲法にはそぐわないので、戦後
に寝座を廃したのではないか」と推察している。



仲麻呂の権勢

 

  いざ子ども  狂業(たはわざ)なせそ

  天地(あめつち)の 固めし国そ 大倭島根は

    藤原仲麻呂 巻二十(四四八七番歌)

さあ人々よ。たわけた事をしてはいけない。

天地が力を与えて固めた国だ。この大和の国は。

 

仲麻呂の権勢

 この歌は、天平宝字元(七五七)年十一月十八日、内裏で行われた宴で

藤原仲麻呂が奏上した歌です。仲麻呂は南家の祖·武智麻呂の第二子で、
この時「紫微内相(しびないしょう)」として内外の兵事を掌っていました。

 遡ること八年、七四九年に孝謙天皇が即位して光明皇后が皇太后に

なると、皇后の雑事を取り仕切っていた「皇后宮職(こうごうぐうしき)」が拡
張して「紫微中台(ちゅうだい)」という組織になりました。その長官である
「紫微内相」に仲麻呂が就くと、左大臣だった橘諸兄を凌ぐ力を持つように
なりました。

 諸兄の没後、天平宝字元(七五七)年六月に諸兄の子·奈良麻呂が仲麻呂
の「田村宮」を囲もうとしますが、密告があり、未然に鎮圧されました
(橘奈良麻呂の変)。仲麻呂は舎人皇子の第七皇子·大炊王(おおいおう)を

私邸に住まわせ、皇太子として擁立したため、仲麻呂の田村第(てい)は

「田村宮」とも呼ばれます。

 さて、今回の歌には「狂業」という、穏やかではない言葉が入っています。

「なせそ」の「な~そ」は禁止の用法なので、「たわけた事をするな」という意 

味になります。具体的には先の橘奈良麻呂の変を念頭に置いています。

 「続日本紀』同年七月二日条の宣 命第十六詔には、「狂(たぶ)れ迷へる
頑な る奴の心」「人の見咎むべき事わざ なせそ」とあり、狂い迷う奈良麻呂

らの心を悟して正そう、人が各めるようなことをするな、という孝謙天皇の
お言葉があります。今回の歌の表現はこの詔と類似します。また翌日、
仲麻呂が光明皇太后の詔を伝えて宣(の)る、という文もあり、今回の歌も、
まるで仲麻呂が天皇·皇太后であるかのような歌い方です。

 この歌の前には「天地を 照らす日月の 極(きわみ)なく あるべきものを
何をか思はむ」(四四八六番歌)という皇太子・大炊王(のちの淳仁天皇)の
歌があります。両者の歌から力強さの一方、動乱の時代を生きる不安な気

持ちもうかがえます。
  県民だより 奈良 2022年4月号 (本文万葉文化館 阪口由佳) 


忍性社寺復興

 鎌倉時代 (13世紀)に、奈良・西大寺や鎌倉・,極楽寺を拠点に、病気や貧
困にあえぐ人たちの救済事業に邁進した僧侶の忍性(1217~1303年)。
その一方で、聖徳太子ゆかりの四天王寺大阪市) や東大寺(奈良市) など
の別当(総責任者)、大勧進(造営,修復のための募財の責任者)を務めて、
寺社の復興に貢献、架橋や道路の修造などの社会基盤整備も行った。
救済事業とともに、それは、忍性が抱いた 「十の大願」に基づく、実践だっ
た。
 2022-1-15  産経新聞(編集委員 上坂徹)

 

極楽寺が大炎上

 極楽寺を拠点に活動する忍性に対し、鎌倉幕府の実権を握る北条氏の信
頼は極めて厚かったようだ。

 鎌倉幕府を樹立した源頼朝ら源氏とゆかりの深い摂津国の多田院(兵庫県
川西市) の別当,勧進に、忍性が任じられたのは建治元(1275) 年。この年に

は、極楽寺が炎上、伽藍が壊滅するという大火災があった。忍性はすぐに再
建に着手し、2年後に金堂、翌年には他の堂塔の再建を終え、伽藍を整えて
いる。その一方で、多田院の本堂など堂塔の修造も実現させたとみられる。

四天王寺の別当

 永仁元 (1293)年には、輸旨(りんじ・天皇の命令)によって、忍性が東大寺
の大 勧進に補任されている。 77歳の時だ。忍性が尊敬していた奈良時代
の高僧、行基も勧進として東大寺の大仏の造営に貢献していることから、
忍性も堂塔の修造などのための募財に適進したとみられる。

 忍性はその翌年、四天王寺の別当に。西大寺を再興した師の叡尊が10
年前に経験した重責。聖徳太子によって創建された四天王寺には、創建時
に敬田院(きょうでんいん・修行所)▽悲田院(貧者、孤独者のための救済施
設)▽療病院(寮養施設)▽施薬院 (投薬施設) の四箇院が開設されていた
とされ、その後衰退していたが、忍性は敬田院や悲田院を再興し、病人や
孤児らの救済を行ったとされる。また、同寺西側にある石の鳥居は、忍性が
老朽化していた木の鳥居から、建て替えたものという。

 忍性はこのほか、鎌倉にあった五大堂明王院、二階堂永福寺(廃寺)など
の別当にも任じられている。

通行料を原資に

 忍性の伝記「大徳譜」に よると、忍性は56歳だった文永9(1272)年、十種
の誓願を立てた(忍性菩薩十種大願)という。それは、 ①力の限り三宝(仏·
法僧)の興隆を図る②朝昼晩三時の勤行(ごんぎょう)、朝昼二回の談義を
怠らない③三衣(僧の三種の服)、托鉢用の鉢は自ら持つ④病気でない限

り、 輿や馬に乗らない⑤特定の人物から祈祷依頼を受けない6孤独者、貧
窮者、障害者、道に捨てられた牛馬にもあわれみをかける⑦難所に道路を
造り、川に橋を架け、水のないところに井戸を掘り、 山野に薬草や木を植
える⑧自分に恨みを持つ人も善友と思い、救済する⑨点心(昼食前の軽い

食事)を禁じ、調理に手間をかけた食物を絶つ⑩以上の願いを実現し、功
徳があれば、自分のものとせず、すべて他人に施す。

 忍性の活動の基本方針といえる 「大願」。⑦に関しては、忍性は道路整
備などの土木事業を実際に行っている。「大徳譜」は、川に架けた橋が189
カ所、道路の修復は71力所、掘削した井戸は33カ所にのぼるととする。
このほか、日宋貿易にも使われた鎌倉の港「和賀江島」の修築も行い、草

創した伽藍は83カ所あったという。

 こうした膨大な土木事業を実行できた背景には何があったのか。実は、
極楽寺は鎌倉幕府から和賀江島に着岸する船からの港湾使用料(関米)
徴収の権利が認められており、主要な七道に関所を設けて、通行料を徴収
することもできたという。こうして集めた資金が道路や架橋、寺院造営など

の原資になったとみられ る。 

 忍性が極楽寺で87歳の生涯を閉じたのは嘉元元(1303)年。寺の西畔で
火葬にされ、遺言に従って遺骨は3つの骨蔵器に分けて納められ、極楽寺、
忍性が初めて出家した額安寺(奈良県大和郡山市)、行基の墓がある
竹林寺(同県生駒市)に葬られた。骨蔵器表面には忍性の事跡をまとめた
「舎利瓶記」が刻まれているが、額安寺と竹林寺の骨蔵器には、表から見
えない容器の接続部分に工人らしき人名が記されていることが、奈良国
立博物館の調査で分かっている。

 同博物館の吉澤悟,学芸部長(考古学)は「(接合部の文字は)まさか見つか

るとは思わずに刻まれたものだろう。 骨蔵器を製作した工房で、表に名
前を出すことができないような工人らが、タガネで刻んだのかもしれません。
忍性は土木建築のプロデューサーとしての力が大きく、そうした関係者に
も思慕されていたのでしょう」と話している。(文中年齢は数え年)

行基を上回る「慈悲」

 鎌倉時代の忍性の事跡は、550年の時差はあるものの、奈良時代の高僧,

行基の軌跡と重なるものがあるように思えます。仏教の民間布教に尽力しな

がら、社会事業を進めた行基は仏教の「利他行」(他者に対するよき計らい)

を実践し、「菩薩」と呼ばれましたが、忍性もまさに、同様の「興法利生」(仏

教を盛んにして、他者を救済する)を 展開し、朝廷から「菩薩号」を追贈さ

れています。行基は文殊菩薩の化身といわれ、忍性もそれに深く帰依して
いたようで、行基の墓のある竹林寺に頻繁に参龍していたことが記録に残
っています。行基を目標に、モデルにして活動した忍性ですが、「慈悲」にお
いては、行基を上回る業績を残したのだと思います。


忍性鎌倉

 鎌倉時代 (13世紀)、奈良でハンセン病患者らの救済活動を続けていた西大寺
の僧、忍性(1217~1 303年) が、西大寺系律宗(真言律宗)を広げる目的で、東国
に下ったのは建長4 (1252) 年。36歳の時だった。 その東下が、忍性に大きな活
躍の舞台を与えてくれることになり、布教拡大とともに、弱者救済という宿願を実
現させることになった。
  2022-1-14 産経新聞(編集委員 上坂徹)

 

北条の信任受け

 奈良を離れて、東国に赴いた忍性は、当時の政治の中心だった鎌倉に足を踏み

入れたものの、すぐに常陸国(茨城県)に向かった。

身を寄せたのは筑波山麓にあった三村山極楽寺(三村 寺)=茨城県つくば市。律宗
とは関係のない寺院だったようだが、忍性の意を受けて律院を設け、忍性はこ

こを拠点に布教活動を行っている。

 次第に名前が売れてきた忍性に、鎌倉幕府の第5代執権、北条時頼の病気平癒

の依頼が届いたのは弘長元(1261)年。忍性は9年過ごした三村寺を出て、鎌倉
の釈迦堂に入ることになった。 多宝寺を経て、文永4 (1267) 年、2代執権、北条
義時の三男、重時が鎌倉に開基した極楽寺で、重時の七回忌の追善を行うため、
その息子らに招かれて、極楽寺に移ったという。忍性はこの極楽寺を拠点に活動
する。

極楽寺を拠点に

 現在の極楽寺には、記録や伝承を基にして鎌倉時代末期の寺の姿を描いたと
 られる「極楽寺絵図」(制作は江戸時代)が残っている。それには、巨大な2つ
の門の奥に金堂や講堂、塔、戒壇堂、尼寺などの堂塔がびっしりと並ぶ、大伽藍
が描かれている。盛時には100以上の堂塔があったといわれるが、その中で目立
つのが中心伽藍の周辺に並ぶ救済施設の数々だ。「療病院」、「らい宿」、「薬湯
室」、「施薬悲田院」、「病宿」。ハンセン病患者など病人の治療- 寮養施設や投薬
施設などで、忍性はこうした施設で、大がかりな救済事業を行っていた。

 没後7年で弟子がまとめた忍性の伝記「性公大徳譜」(大徳譜)には、鎌倉が飢饉
や疫病の流行にしばしば襲われ、忍性は文永11(1274)年の飢饉で、難民を集め
て50日余りにわたってかゆを施し、弘安6(1283)年の 疫病流行時には、病人を

極楽寺の門前に集め、毎日寮養したことが、記されている。

 また、忍性は鎌倉幕府の8代執権、北条時宗の依頼、を受けて、鎌倉·桑谷に療

養所を開設。鎌倉時代末期の仏教史書「元亨釈書」では、この療養所に収容され

た病人は20年間で4万6800人、死者は1万450人とあり、多くの人を救ってきたよう
だ。

牛馬も「同じ命」

 忍性の救済事業は人だけでなく、牛馬にも向けられていた。「大徳譜」には、

忍性が永仁6 (1298) 年、「坂下馬病屋」を建てるとあり、忍性は常にここを訪ね、
仏名を唱えたり、馬の首に真言札を付けた。

時には投薬もしていたのかもしれない。「極楽寺絵図」にも、寺の南側の山裾

に、その存在が示されている。「極楽寺縁起」には、「坂下馬病屋で施療されて

いた病牛馬数は一千有余疋也」とある。 

 同寺の田中密敬住職は「忍性にとっては、人間も牛馬も同じ命を持った生物

という感覚があったのでしよう。 当時の牛馬は重要な役割を持っていましたが、

走れなくなると馬は捨てられる。 牛も同様でした。病気で捨てられる人の姿と同

じに見えたのかもしれません」と話す。

 一方、西大寺にいた時代から極楽寺時代まで、ハンセン病患者ら病人に寄り添

ってきた忍性だが、実際の医療行為もしていたのだろうか。田中住職は「忍性に

医学的な知識があったという記録はありませんが、律宗の四分律に薬の使い方な

どが書かれています。律宗 を学んだ忍性ですから、み ずから (医療行為を)して

いた可能性はあると思います」と指摘する。

 ただ、忍性の招きで、極楽寺で医療行為をしていた医師として梶原性全が知ら

れる。医学全集『頓医抄』の著者としても著名だが性全は、忍性の師で西大

寺を再興した叡尊の下で律を学んだ律僧でもある。

『頓医抄』には、ハンセン病の症状、治療などについて詳細に書かれており、忍

性の活動との親和性はありそうだ。

(文中年齢は数え年)

軽皇子の阿騎野

 草壁皇子(日並皇子)は、母持統天皇の三年四月に亡くなられた。この歌は

その後に草壁皇子の遺児軽皇子(「文武天皇陵」参照)が、宇陀の安騎野に狩りに行かれたとき

お供をした人麻呂の作である。草壁皇子は生前、同じ字陀に狩に出られた。軽皇子の安騎野行
は、けっしてただの狩猟ではなくて、「いにしへ思ひて」ともあるように、父君追慕の狩の旅である。
時は、持統六年(六九二)の春以後、その年の冬の ころと推定される。橿原市畝傍の大和歴史館
には、画家中山正実氏の この安騎野行の壁画があるが、氏は詳しい考証をされて持統六年一一
月一七日(太陽暦一二月三一日)と推定された。おそらくは有明の月もあるそのころであろう。
そうすれば、都は飛鳥浄御原宮の時代で、帝権はいや栄えに栄えゆくときであり、軽皇子はまだ
一O才の少年である。時代の宮廷の事情と気運を身につけた人麻呂が、こうした条件の中におい
ての作歌であることを思わなければならない。

 狩猟地の安騎野は、大宇陀町を中心に宇陀川流域一帯の丘陵性の山野の地である。こんに
ち近鉄榛原駅 から大宇陀行のバスに乗って南下すれば、宇陀川沿いの 小平野と左右の丘陵
の起伏 が眼に入り、やがて大宇陀町に着く。市街地から西に一キロ、大字陀町大字迫間には式
阿紀,神社があり、社のそばの高天の森の円丘は、倭姫命が一時天照大神の霊鏡を奉紀した
宇太の阿貴宮(あき)のところと伝えている。このあたりの山野がその中心地であろう。飛鳥からい
えば、ちょうど、音羽山の山塊の東のまうしろにあたる。

 飛鳥から安騎野へ一行がどの道を通ったかは、こんにちからとうていここと定めることはで

きないが、四つのコースが考えられる。一つは音羽山をじかに越えるもの、二は忍阪(桜井市)

から粟原(おうばら)を経て半阪(はんさか)または女寄峠(めより)を越えるもの、三は、吉隠
(よなばり)・西峠を越えてこんにちのように榛原を廻るもの、四は、初瀬の谷の出雲から岩坂、
狛(こま)の山あいにはいり狛峠(三八0メートル)をへて安騎野に入るものである。歌詞に「…
…太敷かす 京をおきて 隠口の 泊瀬の山は真木立つ 荒山道を 石が根 禁樹おしなべ……」
(立派にお住まいの都をあとにして、泊瀬の山は桧·杉·・槙などの生い立ち荒涼とした山道だが、
その道の岩根やじゃまになる木を押しなびかせて……)とあるのによれば、隠口の初瀬をゆく三
か四の道に限定され、近道があるのに三の榛原まわりのようなたいへんな遠廻りをするはずが
ないとすれば、四がもっとも順当のようにわたくしには思われる。飛鳥から出雲までは平坦な
道で、こんにち狛峠道の山あいは、峠の近くまでせまい谷にみごとな段田がつくられ、やっと一
本の細道が峠に通じている。はじめてのとき農夫に道をきいたら、電車で榛原にゆきバスで行
けと教えてくれた。峠の付近 はいまも真木立つ荒山道の実感そのままである。峠を越えれば、
あと はおおむね平坦で、高原状の大宇陀の山野にだらだらと入りこむ地勢である。狛峠を越
えるあたりはこんにち村の人たちも通るものもなく、蜘蛛の糸をはらい、鎌で草をおとしながら
登っていった。

 歌は、「やすみしし わが大王 高照らす 日の皇子」であられる軽皇子様が、神として神

らしい振舞をなさるとて、飛鳥京をあとに、苦心の山道の道行をして、坂鳥の朝越えるように

朝越えられて夕方には、雪の降る高原の安騎野に到着され、穂に出たすすきや篠竹をおしな

かせて、草枕の旅の宿りをなさる、これもみんな亡き父君の昔をお偲びしてだ、という心であ

る。人麻呂個人の心ではなくて、なによりも軽皇子その人の心になりかわっており、同時に、

人麻呂をもふくめた旅の一行すべての心でもあるわけである。道中の苦労の ひ とつひとつに

雪の大野の草枕のふるまいにも、追慕の思いはしみとおっている。反歌の第一は

  阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眠(い)も寝(ぬ)らめやも いにしへ思ふに(巻一~四六)

 安騎野の草枕の旅寝では、みんな輾転反側(てんてんはんそく)、くつろいで寝ようにも寝ら
れないでいる。結句

の「いにしへ思ふに」は、上の四句にしみとおってゆくだけでなく、長歌の最後の「いにしへ

思ひて」にもぴったりと応じあって、安騎野行の歌の底に流れる主想をはっきりさせている。

 大宇陀の町は、近年どんどん発展してきて、宇陀川べりの平野にも丘陵の裾にも新しい家
が立ち並んできたが、阿紀神社の境内はまだひっそりとした小森で、杉桧の大木が立ち並び、
境内の朽ちた能舞台の上には枯葉が舞いおち、摂社にお供えした米粒を栗鼠が両手で、こち
こちと喰む姿も見ることができる。寒々と幽暗な趣、古代はまだどこかに眠っているようだ。神社

の前の安騎野橋の下の本郷川の流れもまだすきとおっていて枯葉を浮かべている。

(巻一~四六)

 万葉の旅(上) 犬養孝



東の野に炎の

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

この歌は、山野の草枕での回想に夜を徹してしまった

荒涼と寒気と棲槍の黎明の感慨として理解されなけれ

ばならない。よくこの歌の評釈に蕪村の「菜の花や月

は東に日は西に」があげられているが、季節と時刻を

異にしているだけでなく、うたわれている世界も、環境

らまったく別物である。人は人麻呂のしらべの雄運·

大をいい、大平原の夜明けの壮観を思いおこしがちだ

が、雄運ではあっても、事実は、このような事情のな

かでの山野の夜明けであって、それだけに凄みも増

し、東方の薄明るい光と、西方のまだ黒々とした中の

薄暗い月光とのコンポジションは、かえって作者の感

慨を拡大させ、遠くはるかに深々としみとおらせてゆく

ものがある。

狩場の夜は明け、狩に出かける時刻がやってくれば

草壁皇子御在世の日の、娯爽と馬を並べたお姿は、

在りし日そのままにほうふっとおどり出るように感じら

れてくる。

日並の 皇子の命の 馬並めて御猟立たしし 時は来向ふ

  巻一~四九

上の二句もたんに草壁皇子のことを示しただけでなく、

「の」の音を三度かさねてゆく律動の中一に、追慕の情

のすすみゆきと、幻影のあらわれてくるたかまりとが託

されている。この「時」を季節の意に解する説もあるが、

連作の中においてみるとき、時刻の意の自然さにつきた

いと思う。“安騎野の冬”の一連は、数少ない宇陀の万

葉の中で、珠玉のドラマのようである。  
  かぎろひ⇒

  万葉の旅(上) 犬養孝



天武天皇と吉野

 

み吉野の耳我(みみが)の嶺に

時なくそ 雪は降りける

間なくそ 雨は零(ふ)りける

その雪の時なきが如

その雨の間なきが如

隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し

その山道を

天武天皇巻一(二五番歌)

吉野連山の耳我の山には、

時しれず雪が降りしきるという。

間断なく雨が降るという。

その雪や雨の絶え間ないように、

道を曲るごとに物思いを重ねながら

辿って来たことだ。

その山道を。

 

この歌は「明日香清原宮天皇

代」という標目の中の「天皇御製

歌」と題された一首で、飛鳥浄御原
で即位した天武天皇の歌であっ

たことがわかります。

「み吉野」の「み」とは美称であ

り、良い野の意味を持つ「吉野」の地

名をさらに讃えています。ほかには

「み熊野」や「み越道」などの例があ

るだけで、いずれも特別な場所と認

識されていた可能性があります。

「耳我の嶺」とは現在の金峯山の

ことかといわれますが、諸説あって

明確にはわかっていません。歌の表

現によれば、そこは雪が降りしき

り間断なく雨が降るという場所で

あった、ということです。

万葉歌はすべて外来の文字であっ

た漢字で書き記されており、この

部分は「時無曽 雪者落家留

間無曽雨者零計類・・・」とあって、

明らかに「ける(家留/計類)」と

記されています。降りしきる雪や

雨を回想しているとみる説と、現

在も体験中とみる説とがあり、そ

うした雪や雨のように絶え間なく

物思いをしながらこの山道を辿っ

て来た、と表現しています。雪や雨

の中を進む困難な山道を表現す

ることで、それほど難儀な物思いで

あったことも想像させます。

巻一・二六巻十三・三二六〇、三

二九三番歌として、よく似た歌が

掲載されていることから、この歌が

天武天皇の作歌ではなかった可能

性も指摘されています。

ただ、後世に生きる我々は『日本書紀
によって、大海人皇子が皇位

継承を辞退して追われるように

吉野に隠棲したことや、そこから

壬申の乱」がはじまったことなど

を読み知っています。当初は味方

も少ない辛い道行だっただろう、こ

れはその時の歌ではないか、と想像

がつながっていきます。

そうした天武天皇物語とでもい

うべきものが、『日本書紀』だけで

なく、『万葉集』でも形成されてい

たとみられます。

2022-5月号 県民だより 奈良

(本文 万葉文化館 井上さやか)

 

宮滝遺跡(吉野町)

吉野町宮滝地内に所在する国指定

史跡です。 『日本書紀』や『続日本紀

で、斉明天皇が造営し、天武天皇をふ

くめ、聖武天皇の時代までたびたび行

幸があったと紹介されている吉野宮の

比定地です。この地を題材にした歌が

『万葉集』には多く収められています。

古くから調査・研究がされている遺

跡で、宮滝の集落のほぼ全域から、飛

鳥時代~奈良時代の遺物や大型の掘

立柱建物跡、池状遺構などが確認さ

れています。


三才の森の豆タヌキ
 山崎しげ子

  奈良と大阪の県境、新緑の金剛

葛城山系。その山麓に広がる葛城

市は、古代、大豪族の葛城氏が栄え

たところ。今回は、その葛城氏ゆか

りの天皇陵の森に棲んでいた豆タ

ヌキが、仲間と力を合わせて困っ

ている人たちを救ったという心が

温かくなるお話。

北花内にあ る飯豊天皇陵。「三才

の森」と呼ばれ、タヌキの一家が棲

んでいた。いたずらが大好きなゴ

ン吉。木に登り、通行人に砂をかけ

たり、隣村のタヌキと喧嘩したり。

ある夜のこと、山のお寺のお坊

さんが通りかかった。手には、油揚

げと魚の包み。それをゴン吉は

ひったくって逃げた。

「こら、待て。何すんねん」

お坊さんはゴン吉の手を力いっ

ぱい掴むと山の上の寺まで連れて

行き、 三日三晩、説教した。

さすがのゴン吉も「もう、いたず

らは、決してしません」と謝った。

さて、夏も終わりの頃、大雨が降

り、高野街道のそばの大川の橋が

流された。さあ、大変。村人は困り

果てた。そこで、ゴン吉は考えた。

「木の橋やから流される。そうや、

丈夫な石の橋を架けよう」。

隣村の林堂や屋敷山の仲間にも

声をかけ、皆で石を運び始めた。

よっこらせーの どっこいせ

大きな石もえんやこりゃ

重たい石もうんとこせ

こうしてできあがった石の太鼓

橋は、「七橋」「行者橋」とも呼ばれ

大雨でも流されることなく、今も

大川に架かっている。

さて、タヌキ一家が棲んでいた

飯豊天皇陵の森。天皇は五世紀後

半に存在した女帝とされる。母が

葛城氏の出身である。

平安後期以降、往来が盛んとなっ

た高野街道。

真言密教の聖地、高野
へ、京都、大阪からの参詣道とし

て、また、のちには物資の交流の道

としても賑わった。奈良からは竹内街道
などを通り、橋本を経て高野山

へ。道を東に辿れば、修験道の吉野

大峰山へ続く。かつて、行者たちが

この「行者橋」を渡り大峰山に向っ

た頃の活気がしのばれる。

2022-5月号  県民だより 奈良

 

飯豊天皇陵

飯豊天皇埴口丘陵、北

花内大塚古墳とも呼ばれ

る。全長約30メートルの前

方後円墳で、周辺に濠を

巡らせている。発掘調査で

は、人物や動物の形象埴輪

や円筒埴輪のほか、木製品が出土している。

北花内という地名は、陵の名の一部にあ

る「埴口」が「花口」さらに「花内」に転訛し

たものと考えられている。



東漢(やまとのあや)の凋落

天武六年(六七七)天武帝東漢直らに次のような詔を出したのは、はなはだ注目されることである。

「汝等(いましら)が党族(やから)、本(もと)より七つの不可(あしきこと)を犯せり。是を以て、小墾田の御世よ

り、近江の朝(みかど)に至るまでに、常に汝等を謀(はか)るを以て事(わざ)とす。今朕(わ)が世に当りて

、汝等の不可(あ)しき状(かたち)を将責(せ)めて、犯(をかし)の随(まま)に罪すべし。然れども頓(ひたぶ

る)に漢直の氏を絶さまく欲せず。故(かれ)、大きなる恩(めぐみ)を降(くだ)して原(ゆる)したまふ。今より以後、
し犯(をか)す者有らば、必ず赦さざる例(かぎり)に入れむ」

この詔にあるように、漢直は、推古朝から天智朝まで、たえず政治の裏方の主役をつとめたのである。陰謀が、

彼らの伝世の業であったのである。「七つの不可」というものが何であるか分らないが、その中に再三にわたる裏

切りがあったことはまちがいない。

政治の世界には、いつも暗いものがある。そしてその政治権力が安定せず、時代が変革を必要としていればいる

だけ、それだけ時代は、陰謀と裏切りを必要とする。天武帝は、この変革の時代を終らせる任務をもって、政治の

舞台に登場したのである。そういう天武帝に、この政治の裏面で絶大な力を振っていた東漢氏の存在は、まこと

に無気味なものにうつったにちがいない。

じっさい、蘇我氏も、藤原氏も、その権力の多くを東漢氏の陰謀と裏切りに負っていた。崇峻を殺し、推古朝を実

現したのも東漢の力である。そして、豊浦飛鳥への都の遷移は、東漢氏の力を借りずには不可能であったろ

う。そして、この蘇我氏の滅亡も、彼の一族の裏切りのせいであった。以後の数々の策謀、おそらく日本書紀の本

文に記せられないさまざまな歴史の秘密に、この東漢氏はかかわっているにちがいない。そして壬申の乱の勝利

にも、この東漢氏一族の寝返りが大きく貢献したのである。

ここで、東漢直らに異例の詔が出されたのは、このような東漢氏のもつ無気味な力を恐れたためであろうか。ここ

で天皇は、東漢氏の罪を指摘しながら、それを罰してはいない。ただ、今後はもう許さないと警告しているだけで

ある。

私は、この頃は、前に比べれば、東漢氏の役割は少くなっていたと思う。それは、百済高句麗の滅亡によって、

多くの遺民が日本に亡命したためと、中国との直接な文化的交流によって海外の書物を読み、国際的状況に通じ

る人間がふえたためである。もはや、書物や技術を東漢氏が独占するわけにはゆかない。

飛鳥とは何か  梅原猛

 


八十八面観音巡礼

 
 八十八面観音巡礼⇒
八十八観音巡礼は、奈良の8寺院の十一面観音を訪れる。
西大寺  十一面観音立像  重文  平安時代    像高195cm 
法華寺  十一面観音立像   国宝  天平時代    象高100cm 
海龍王寺  十一面観音菩薩立像 重文  鎌倉時代    象高94cm 
大安寺  十一面観音菩薩立像  重文 奈良時代  一木造り 像高190.5cm 
法輪寺 十一面観音菩薩立像   重文 平安時代  一木造り  像高360cm 
聖林寺  十一面観音立像    国宝 天平時代    像高209.1cm 
長谷寺  十一面観音菩薩立像    重文 室町時代    像高1018cm 
室生寺  十一面観音菩薩立像     国宝 平安時代    像国195cm 
 



海龍王寺の縁起

 七一〇年(和銅三年)、平城京に都が移された時、藤原不比等が、

ここに邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から

土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院

を取り壊さなかったので、邸宅の北東隅に残ることとなります。

七二〇年(養老四年)、藤原不比等が亡くなり、娘である光明皇后

が邸宅を相続したことから邸宅は皇后が起居する皇后宮となり、

北東隅の寺院は『皇后宮内寺院』となりました。

 七三一年(天平三年)、遣唐留学僧として唐に渡っていた玄肪の帰

国をひかえ、無事に帰国を果たし、最新の仏教·仏法を我が国に

伝えることを願われた光明皇后は「皇后宮内寺院」の伽藍を整え

られます。隅寺(海龍王寺)としての歴史は、ここから始まりま

した。 

 七三四年(天平六年)唐を出発した玄防は、東シナ海で暴風雨に遭遇いたしますが、狂瀾怒濤に漂

いながらも海龍王経を一心に唱えたことで九死に一生を得て種子島に漂着し、翌七三五年(天平七

年)平城宮に戻ってまいります。

 聖武天皇·光明皇后は、最新の仏教·仏法のみならず、鎮護国家の基礎となる仏教政策も学び取っ

てきた玄防から、いつでも自由に意見を求めるため、内裏に近く、自身が起居する皇后宮内にある

海龍王寺の住持に任じます。住持に任じられた玄防は、唐の洛陽宮にならい、海龍王寺を『平城宮

内道場』と定め、伽藍の拡充および収蔵する経典などを充実させる一方、密教にも通じていたこと

から、聖武天皇·光明皇后、聖武天皇の生母である藤原宮子のために祈願·祈祷を修したことで、

天皇家との関わりが非常に深くなった海龍王寺は『天皇家の私寺院』となり、『宮廷寺院』として

天皇家を支えてゆきます。

 奈良時代は『宮廷寺院·宮中内道場』として繁栄いたしましたが、平安京に都が移ると、平城宮の

衰退と並ぶように海龍王寺も衰退いたします。鎌倉時代を迎え、真言律宗の宗祖である叡尊の滞

在をきっかけに伽藍の復興が進められ、戒律の道場として栄えます。一三六五年(貞治四年)から

一七六六年(明和三年)の間、海龍王寺から五名の西大寺長老を輩出し、真言律宗の中でも筆頭格

の寺院になりました。

 鎌倉時代は戒律の道場として栄えたものの、室町時代に起こった応仁の乱の影響を受け、江戸時
代まで衰退が続きます。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を与えられたことで伽藍の維持·管理

を行っていましたが、明治の廃仏段釈の際、東金堂および什物を失うなど大きな打撃を受け、その

後、昭和二八年まで荒廃にまかされておりましたが、昭和四○年~四二年にかけて西金堂·経蔵の

解体修理を行い、現在に至ります。

 暴風雨の中、海龍王経を唱え、無事に帰国を果たした玄防が住持に任じられたことで、聖武天皇か

ら寺号を海龍王寺と定められ、遣唐使の渡海安全祈願を修することになりましたが、海龍王寺に残

されている海龍王経には、東シナ海を渡った奈良時代の人々の思いが刻まれています。

 また、玄防は般若心経の流布·講釈を熱心に行ったことから、海龍王寺において般若心経の写経が

盛んに行われ、隅寺心経と称される般若心経の写経が現在も海龍王寺に残されており、般若心経写

経の原本として大切にされています。

 国宝·五重小塔、重文·西金堂は「光明皇后宮内に残る唯一の奈良時代建造物」であり、『宮廷寺

院』の伽藍を現在まで伝えています。



六角堂

遠藤周作が愛した池坊「六角堂


JR京都駅から「烏丸通」を北へ北へ。「三条通」の手前を

東に入ったところに、六角堂が立つ。頂法寺という寺号を持つ

天台宗系の単立寺院。生け花発祥の地としても知られ、国内最

古・最大の華道の流派「華道家元池坊」の本拠でもある。

山門をくぐると、薫風に揺れる柳の枝先が境内の玉砂利をな

でていた。周囲はビル群なのに喧噪(けんそう)は割り込んでこない。
拝堂には五色の幕が垂れ、参拝者が両手を合わせて願をかけては、

ビル群に消えていく。配置された木製イスに腰掛け、しばし読

書にふける人もいる。

京都市在住の個人タクシー運転手( 68 )は「線香の香りがして

市民なら必ず拝みにくるところ。親しみやすい年寄りの憩い

の場。これが本来のお寺のあり方やないか」と話す。

「町堂のような、開かれた空間。宗派を超え、心のよりどこ

ろになってきた。旧『下京』の精神的中心です」。こう話すの

は池坊中央研究所の細川武稔主任研究員( 43 )だ。

六角堂の住職は代々、池坊の家元を兼ねる。現家元は池坊専

永(83)。1945年に10代前半で四十五世を継承したから、も

う70年以上も門弟を束ねている。2年前、次期家元として長

女由紀( 51 )が池坊専好を襲名。

半世紀以上、池坊にしみ入った精神はすなわち専永の考え方だ

ったとすらいえるだろう。

73年には「違いがわかる男」というコピーのネスカフェのC

Mに出演。それもあってか、このCMに前年に出た作家の遠藤

周作は、家元に並々ならぬ敬愛の念を抱いた。遠藤の歯にきぬ

着せぬ物言いが痛快な対談集「ぐうたら会話集 第2集」

( 78年刊行)で、遠藤は専永との対談に歴代家元の口伝を読み

込んで臨んだ。池坊の華道思想についてしつこく質問し、「花

の池坊は仏教の親鸞だ」と喝破。池坊と浄土真宗。一般に広

く普及する実態を対照させた。

70年代には池坊のパンフレットや華道の紹介書に「専永氏の

こと」と題する一文を掲載。

「私は専永氏の辛抱づよさと忍耐力とに時々、感嘆することが

ある。どんなに疲れている時でも彼は微笑する」と評した。細川

は「大自然の姿を、時空を凝縮させてとらえて命の移ろいを

表現し、『よろしき面影』を目指すのが池坊の根本精神」とみ

る。草木は過酷な大自然にさらされ、辛抱強く耐え忍び、花を

咲かせる。池坊の花のありようは、遠藤の専永評に通じる。

参拝客が打ち鳴らす鰐口の音。ここ六角堂も、開かれた空

間であったがゆえに、時代の風波に翻弄されてきたのだろう。

親しみやすさには、忍耐の面影も織り込まれている。

=敬称略(米原範彦)

2017-5-25 朝日新聞夕刊

「京都の中心」ともいわれる六角堂は587年、聖徳太子を開基として創

建された。数回の火災を乗り越え、現在の本堂、拝堂は1877年に建てら

れたものだ。代々本尊に花を供えた住職の住坊が、境内の池のほとりにあっ

たことから「池坊」の名が生まれたとされる。山門前の通りを挟んで鐘楼が

立つ。戦国時代、この鐘を突いて戦乱の接近などを知らせたという。京都市

営地下鉄烏丸線・東西線の烏丸御池駅から徒歩で約3分。

今年は、池坊が花をいけたことが史料に記された1462年から数えて

555年の節目。

 


恭仁京謎の寺

 奈良時代中期、聖武天皇 (701~56年)が平城京(奈良市)から都を遷した
恭仁京(京都府木津川市)の南端あたりに、文献資料には現れていない
山林寺院が営まれていた。 出土した土器に記された名は「神雄等(かみをで
ら)」。 大量の灯明皿や楽器、万葉歌が記された木簡などが出土していること
で、大規模な仏教法会や歌会が行われていたことがうかがえる。 そんな神雄
寺跡や恭仁京の宮殿 (恭仁宮) からの出土品を集めた企画展 「恭仁宮と神
雄寺 天平の都と謎の寺」 が木津川市の京都府立山城郷土資料館で開かれ、
注目されている。 神雄寺の造営には朝廷が関わっていた可能性があり、
「仏堂」と「礼堂」で構成されていたことが分かっている。 神雄寺は「仏教儀礼を
行うための寺」だった可能性が指摘されている。
  令和5年6月1日 産経新聞(夕刊)(編集委員 上坂徹)

 

 神雄寺は恭仁京の右京南端あたりで天神山南斜面の谷筋で見つかった。
これまでの発掘調査によって、建物5棟、井戸、流路などを検出。約200M四方
の寺域を確認した。丘陵の裾に造成された平地面には、内部に仏像を安置す
る須弥壇を持つ礎石建ての仏堂がある。 約4.9m×約4.5mと小型で、
側面に平瓦を張り付けた須弥壇が室内の大半を占めるため、人の出入りは
不可能という。須弥壇の周辺からは大量の塑像片、塼仏(粘土を焼成して作
た板状の仏像) 片がみつかっており、須弥壇には等身大の四天王塑像(持国

天・増長天・広目天・多聞天)が配置され、内壁には壊仏を張り付けて荘厳さ
れていたようだ。


称徳天皇と道鏡①

 奈良時代後期、称徳天皇(孝謙上皇、718~70年)の厚い信頼を背景に、権勢をふるった僧、道鏡

(?~772年)。仏教界のみならず政界でも最高権力を持つ太政大臣禅師、法王となり、天皇とともに仏

教政治を展開した。が、皇位簒奪を図ったことが明らかになり失脚したと正史『続日本紀』に記され、
「称徳天皇の寵愛をいいことに、天皇になろうとした悪 僧」―と負のイメージで語られる道鏡。とはいえ、
新たな宮都、大寺院の造営などを推し進め、奈良時代の歴史に、大きな足跡は残した。
  2023ー6-16  産経新聞(編集委員 上坂徹)

 

保良宮で看病

 道鏡と孝謙上皇が初めてまみえたのは天平宝字5(761)年、琵琶湖の南岸に造営された「保良宮

だった。

 孝謙上皇は天平勝宝元(749)年に父の聖武天皇から皇位を受け継ぎ、孝謙天皇として即位したが、

9年後、淳仁天皇に譲り、上皇(太上天皇)となっていた。

 保良宮は淳仁天皇が即位翌年に造営を開始。天平宝字5年には、孝謙上皇と淳仁天皇が平城京
から保良宮に行幸し、淳仁天皇が「平城宮を改造するために、し ばらく保良宮に移る」と遷都を宣言。
さらに、「思うことがあって、北京(保良京)を造ろうと考えている」としている。

 平城京に対する北京ということで、一時的に使う離宮ではなく、本格的な宮都を目指す意思の表明
とみられている。 保良宮は藤原氏と関係の深い近江(滋賀県)の地にあり、造営は当時の政権幹部だ
った藤原仲麻呂(恵美押勝)が主導したとされる。

 孝謙上皇はこの保良宮で 病に陥った。その看病に待したのが道鏡だった。「内道場」(宮中に設け
られた仏殿)に勤める看病禅師で、召されて病床に近づくことになったとみられる。

この看病によって、病が癒えた孝謙上皇は、道鏡を深く信頼するようになった、という。 

弓削氏の一族

 道鏡について、『続日本紀』は、「俗姓は弓削連。河内の人」「河内国若江郡(大阪府東大阪市・八尾

市) の人」としており、 若江郡弓削郷を本拠地とする弓削氏の一族に生まれたとみられている。

 道鏡は法相宗の高僧、義淵に師事、修験の霊場として知られる葛城山に籠もって、苦しい修行を積
んだという。東大寺の初代別当、良弁からも学んでいたようで、『続日本紀』では「梵文 (サンスクリッ
ト語) に通じ、禅の修行を積んでいることで知られる。このため内道場に入って、 禅師の一人に列せら
れた」としている。

半年で廃都に

 この保良宮の詳細な所在地は不明ながら、造営に伴 って写経事業を行うため、 仏堂などが数棟あ
るだけの 小寺院だった石山寺 (大津 市)を造東大寺司によって 大増改築、26棟が軒を連ね

る大寺院にしたことが、 「正倉院文書」に記されて おり、保良宮は石山寺に近 い場所にあるとされてき

た。

 この石山寺に近い「石山国分遺跡」で、奈良時代後 半の掘立柱建物跡や平 城京の瓦と同箔(同じ型)

の軒丸瓦や軒平瓦などが出 土しており、保良宮の政務 をとった官衙(役所)などがあったとの見方が
有力になっている。

 その保良宮は遷都宣言から半年余りが経過した天平宝字6 (762)年5月、突然廃都となる。その理由
について、『続日本紀』は道鏡との関係を淳仁天皇に批判された孝謙上皇が激怒し、2人とも平城京に
帰ってしまったため、としている。

 平城京に戻った孝謙上皇は母の光明子(聖武天皇の皇后) ゆかりの法華寺に入って出家。同年6月、
百官を集めて淳仁天皇の権利を奪い、「国家の大事と賞罰の二事はわたしが行う」と宣言。
天平宝字8(764)年には、淳仁天皇を廃して重祚(再度の即位)し、称徳天皇として再び表舞台に立つこ
とになった。

 道鏡も称徳天皇の信頼を受けて、僧綱(諸寺を監督するために設けられた僧 官)の少僧都に任じられ、

重祚の年には大臣禅師となった。大臣禅師としての道鏡の役割を称徳天皇は「私を導き護るわが師」
としている。大臣禅師はそれまでになかった地位で、道鏡のために設けられたとみられる。道鏡は
称徳天皇とともに、政治を主導していくようになる。


仲麻呂の乱 (称徳天皇と道鏡②)

 奈良時代後半、称徳天皇(孝謙上皇)の信頼を背景に、僧の道鏡が権勢を強めていく中で起きたのが、

藤原仲麻呂(恵美押勝の乱」だった。その平定を祈願し、願い通り勝利したことで造営されることにな

った「西大寺」(奈良市)は、平城京の北西部で多くの堂塔が並ぶ壮大な伽藍を誇った。その造営にも道鏡

が関係していたとみられ、道鏡は仏教、政治の世界でさらに存在感を高めていく。
 2023ー6-17 産経新聞  (編集委員 上坂徹)

 

鈴印の争奪

 東西4・2㌔、南北4・8㌔に及ぶ平城京の北端中央部に位置する宮殿域、平城宮。そのすぐ西側、右京

の北端で、西大寺の造営が始まったのは天平神護元(765)年。「藤原仲麻呂の乱」の翌年だった。

 仲麻呂は平城京遷都を主導した藤原不比等の孫で、当時は太政大臣として政権を掌握。淳仁天皇を
擁立し勢力を拡大させていたが、道鏡との関係を指摘し淳仁天皇が孝謙上皇と対立。孝謙上皇は行幸先
保良宮(大津市)から平城京に戻り、 法華寺に入寺した天平宝字6 (762)年、「淳仁天皇)は私に恭順

することなく暴言をはき、無礼を働いてきた。 私が別宮に住んでいれば、そんなことは言われないだろう。

それは私が愚かなために言うのだろうと思うと、恥ずかしい」として、政権の掌握を宣言した。権勢の揺ら

ぎを感じていた仲麻呂はこの2年後、謀反に走った。

 畿内やその近国の軍事総監である都督使となった仲麻呂が、各地から兵士を動員して兵力増強を図
る動きをみせていることを知った孝謙上皇が、淳仁天皇が持つ、皇権の発動に必要な「鈴印」を押収し
ようとしたところ、仲麻呂は息子の訓儒麻呂に命じて奪還。孝謙上皇側は訓儒麻呂を射殺して、鈴印を
取り戻した。 

捕らえ斬首

 孝謙上皇は仲麻呂の行為を謀反として、太政大臣を解任し、位階を剥奪したが、仲麻呂は外印(太政官

印)を持って、藤原氏の影響力が強い近江国(滋賀県)に逃走。孝謙上皇側は追討軍を送り、琵琶湖から

流れ出る瀬田川にかかる橋を焼き落として、逃走路を狭めるなどの戦略をとっ た。仲麻呂は琵琶湖を
北上して、息子の辛加知が国守をしている越前国(福井県)に入ろうとしたが、追討軍は先回りして、
辛加知を殺害。愛発関(越前国) で遮断した。勝野の鬼江 (滋賀県高島市)の戦闘で敗れた仲麻呂は、
ここから船で琵琶湖に逃れようとしたが、そこで捕らえられ、斬首されたという。

 仲麻呂敗死の報を受けた孝謙上皇はすぐに、左遷させられていた仲麻呂の兄、藤原豊成を右大臣に
復帰させて、道鏡を大臣禅師に任じている。 淳仁天皇に対しては 「仲麻呂と心を合わせ、ひそかに私を
除こうと・図った」として、廃位のうえ、淡路島に配流した。 そして孝謙上皇は重祚(再び 皇位につくこと)
して、称徳天皇となった。 淳仁天皇は翌年、淡路島の幽閉場所で亡くなっている。

堂塔100以上

 この仲麻呂の謀反にさいし、称徳天皇は鎮圧を祈願して、鎮護国家の守護神とされる四天王像を造立
することなどを誓願。それに勝利したことで、西大寺の造営が始まったという。

 「西大寺資財流記帳」によると、創建時の西大寺は寺域は約48ヘクタール、薬師・弥勒両金堂、東西の
塔、四王院など100以上の堂塔が並び、壮麗な大伽藍を形作ったという。 称徳天皇の父、聖武天皇
建立した東大寺 は、平城京外の東側にあるのに対して、京内の西側、平城宮の近くに営んだのが

西大寺だった。 

 西大寺の佐伯俊源教学部長(種智院大教授)は「(西大寺の造営に関して) 歴史資料には見えませんが、
道鏡が仏教的、政治的にも中心にいた時代のことですから、西大寺造営にかかわっていたと思います。
常の政治は淳仁天皇、国家の大事は孝謙上皇と2つの朝廷がある形になり、孝謙上皇には道鏡がブレ
ーンにつき、淳仁天皇には藤原仲麻呂がついていて、孝謙上皇と仲麻呂との間で不協和音が起きた。
(西大寺造営のきっかけとなった仲麻呂の乱は道鏡―仲麻呂という図式ではなく、孝謙上皇の政治力に
対して、劣勢となった仲麻呂が挽回するために起こしたと思われます」と指摘している。


称徳天皇と道鏡③

 道鏡が生まれたとされる河内国若江郡弓削郷(大阪府八尾市)その周辺で建設が進められた
「曲義宮(ゆげのみや)」について、女帝の称徳天皇は神護景雲3 (769)年10月、「由義宮を西京
とし、河内国を河内職とする」との詔を発している。 平城京の西に位置する弓削郷あたりを副都
とし、河内国を特別行政区にすることで、由義宮を安定的に運営することを表明したとみられる。
 2023-6-20  産経新聞  (編集委員 上坂徹)  

しばしば行幸

 称徳天皇はしばしば道鏡を伴って弓削郷を行幸している。天平神護元 (765)年10月には、紀
伊国(和歌山県)に行幸に出かけ、帰路に弓削行宮(仮の宮殿)に立ち寄っている。

行宮は道鏡が整備したとみられるが、称徳天皇は弓削寺を参拝するなどして5日間を過ごしてい
る。同行していた道鏡に太政大臣禅師が授けられたのはこの時だった。

 それから4年後に「由義宮を西京に」との詔が出された。離宮ではなく、本格的な宮殿などの造営
が図られたとみられ、同時に由義寺(弓削寺を改名)の建設工事が行われたようだ。

 その由義宮の実態はどうだったのか。 所在地や規模は明確になっていないが、造営に際して、
若江郡だけでなく大県、安宿、志紀各郡の田租(田地に課された租税)の全部、または半分を免除
したことが、『続日本紀』に記されており、京域を含めた由義宮は4郡にまたがる広大な空間だった

ことをうかがわせる。

 一方、由義寺は由義宮に近接する位置で、塔などが建てられていたとの記事が『続日本紀』に
みえる。 弓削寺のあった場所に称徳天皇の命により由義寺と改名して、新たな堂塔が建設さ

れたようだ。

 その由義寺については、八尾市東弓削町の「東弓削遺跡」から、一辺21.5mの正方形の塔
の基壇(土台)の遺構が見つかっている。粘質土と砂質土を交互につき固めて、強度を持た版築
工法が採用されていた。

大安寺に匹敵

 その規模は平城京にあった元興寺西大寺の五重塔(一辺約18㎡)を上回り、東大寺の七重東塔
(同24m)には及ばないものの、大安寺七重塔(同約21m)に匹敵する。こうしたことから、由義寺
の上部構 造は七重塔だったとみられ、高さは約70mと推定される。東大寺の七重東塔(推定
約100m) ほどではないが、大スケールを誇ったようだ。

 また、由義寺の塔基壇の約1m下の地中から、別の基壇の跡が見つかっており、前身の弓削寺
の遺構とみられている。

 由義寺の塔が立地するのは、旧大和川水系が東西に分流した長瀬川と玉串川にはさまれた沖
積地上で、 水路、陸路とも近くを通る人からは目につきやすいところという。

 「東弓削遺跡」の発掘では、塔遺構の周辺から、約5.8トン分の瓦が出土した。その種類は多く、
軒丸瓦22種、軒平瓦31種。 このうち塔に葺かれていたものは軒丸瓦17種、軒平瓦28種。瓦
のうち由義寺の塔専用に作られたと判断できるものが約60%で、残りは平城宮難波宮、平城京
内や河内国にある寺院、施設で使われている瓦だった。

多様な使用

 多様な瓦の出土について、発掘調査を担当した八尾市文化財調査研究会の樋口薫埋蔵文化
財係長は「塔の造営中に何らかの不測の事態があり、本来単一の紋様の軒瓦を葺く予定だった

のが急遽、平城京など各地の寺院や施設に保管されていた瓦を集めて、塔を造ったのではない
か。ただ、使っている瓦を考えると、塔造営に国が関わっていないと難しい」と話す。 

 『続日本紀』によると、称徳天皇は神護景雲4(770)年4月に行幸した由義宮で、塔の建設に伴い、

その労に従って工事関係者95人に位階を与えた、とある。この段階で塔は完成したとみられるが、
称徳天皇はまもなく、由義宮で病となり、平城京に戻っている。

 樋口係長は「称徳天皇の病のことがあり、存命中に塔を完成させなければならないということ
で、急ピッ チで建設が進められた。自前の瓦だけでなく、さまざまなところの瓦が使われたのは、
工事を早めるためにかき集めたのだろう」と推測する。

 称徳天皇はこの塔の完成から4カ月後、平城京で亡くなっている。それにより、道鏡が故郷に
夢見た新しい宮都、そして寺の工事は中止になったとみられている。さらに、称徳天皇の死は、
道鏡の運命を大きく変えていく。



称徳天皇と道鏡④

 奈良時代後期、女帝の称徳天皇の寵愛を受けて、法王として権勢をふるった道鏡
それが暗転したのが、いわゆる 「宇佐八幡宮神託事件」だった。「道鏡を皇位に
つけよ」 との神託(神のお告げ)をめぐる騒動。その後否定する神託が出されたとして、
"道鏡天皇”は実現しなかった。騒動後も法王として活動するが、称徳天皇の死です
べてが終わった。「皇位をうかがう、悪い陰謀が発覚した」と指摘され、法王から失脚、
東国に左遷された。道鏡は天皇になることを夢見たのだろうか。それは実らないまま、
権力の座からも滑り落ちた。
 2023-6-21  産経新聞(編集委員 上坂徹)

 

大神の託宣

 『続日本紀』によると、神護景雲3 (769)年、大宰府(福岡県太宰府市)の(祭祀をつか
さどる) 主神(かんづかさ)、習宜阿曾麻呂が道鏡にこびて、「道鏡を皇位につければ、
天下は太平になる」という宇佐八幡宮(宇佐神宮、大分県宇佐市)の神託があったと奏
上した。

 道鏡は喜んだ。称徳天皇は朝廷の高官、和気清麻呂を近くに呼んで、「夢に八幡

大神の使いが来て、 『大神が天皇に奏上したいことが あるので、尼の法均を寄こ

してほしい』と告げた。あなたは姉の法均の代わりに行って、八幡大神の神託を聞い
てきなさい」と勅した。

出発する清麻呂に、道鏡は「(神託は)わたしの即位を告げるためのものだ」と話し、
吉報をもたらしたなら、高い官位を与えて、取り立ててやろう、と持ち掛けた。

 清麻呂が宇佐神宮に行くと、大神は「わが国は開闢(天地の始まり)以来、君臣の
秩序は定まり、臣下を君主とすることはなかった。天の日嗣(ひつぎ・皇嗣)には必ず
皇緒(皇族)を立てよ。 無道の人は早く排除せよ」と託宣した。

 清麻呂が帰京し、称徳天皇に神託の内容を奏上すると、道鏡は大いに怒って、

清麻呂の官職を解き、因幡員外介(因幡国の定員外の官吏)に左遷。称徳天皇は

清麻呂を除名のうえ、大隅国(鹿児島県東部)に、法は還俗させて備後国(広島県東
部)に配流とした。

 『続日本紀』では、「習宜阿曾麻呂が偽って、宇佐八幡宮の神の教示であると、道鏡
をたぶらかし、道鏡はそれを信じて、皇位をうかがう志を抱いた」とし、「神託事件」を
習宜阿曾麻呂による謀略としている。が、これまでの研究では、道鏡による画策だった

が、和気清麻呂により阻止された▽道鏡の天皇即位を望む称徳天皇が、道鏡と一

緒に画策した▽藤原氏が道鏡失脚のために画策したなどの見方が出されている。 

下野に左遷

 ともあれ、この事件後も、道鏡は政治の中心であり続けた。道鏡の故郷・弓削郷
(大阪府八尾市)で建設を進めていた由義宮を、「西京」にするとの詔が出され、新しい
宮都が動き出していた。翌年には由義宮周辺で、のべ3万人余りを動員して、堤の整
備が行われている。こうした中、由義宮で体調を崩した称徳天皇は、平城京に戻って
病床に伏せるようになった。 そして、神護景雲4・宝亀元(770)年8月、称徳天皇が没
した。

 それから、わずか17日後。『続日本紀』の同年8月21日の条にこう記されている。

 皇太子の白壁王(後の光仁天皇)が令旨を下した。「道鏡法師は密かに皇位をうか
がう心を抱いて、日を経ていたという。しかし、悪賢い陰謀は発覚した。 ひとえに神が
お助けくださったからである。が、先聖(称徳天皇)のあつい恩を顧みると、法による刑
罰を加えるのは忍びない。 そこで、造下野国薬師寺別当に任じ、派遣する」。道鏡は

失脚し、その日のうちに下野に向けて出発した。

 下野薬師寺は国の東国仏教政策の一端を担うため官寺として大改修が施されて、
中金堂や塔など壮大な伽藍を整えていた。勅命で僧侶になるための授戒の儀式を行
う戒壇が設けられ、東大寺、筑前観世音寺(福岡県太宰府市)と並ぶ 『三戒壇』とさ
れていた。

 じつは、由義寺跡から出土した興福寺式の軒平瓦は、下野薬師寺跡から出土した
瓦と紋様や型の傷から生まれた特徴(笵傷・はんきず)が一致し、同じ型(笵)を使っ

た瓦だったことが分かっている。由義寺の造営を進めた道鏡は、完成した塔を飾

る瓦と、おなじ紋様の瓦を下野薬師寺でも見たのかもしれない。道鏡は別当着任

から2年後に、下野薬師寺で亡くなった。 

厳しい評価

 『続日本紀』は、孝謙・称徳天皇時代の政治について、「天皇は厚く仏道をあがめ、
(中略)天平勝宝のごころ (孝謙天皇時代)には、政治はつまやかだと称された。
藤原仲麻呂が誅されてからは、道鏡が権力をほしいままにし、軽々しく力役を徴発し、
努めて伽藍を修復させた。このため、公私ともに疲弊し、国の費用が不足した。 政治
と刑罰が厳しくなり、殺戮が頻繁に行われるようになった」とし、道鏡の政治を厳しく

評価している。

 また、平安初期に成立した仏教説話集「日本霊異記」では、称徳天皇と道鏡

との関係がスキャンダラスに記されており、その後の書物ではそれが肥大化して

描かれるようになって、道鏡のイメージが作られていった、という。(おわり)


道鏡出身 弓削氏の寺

由義寺の前身「弓削寺」遺構みつかる。
 奈良時代後期、女帝の称徳天皇 (孝謙天皇、718~70年)と僧の道鏡 (?~772年)によ
って建立された 「由義寺」 (大阪府八尾市) の下層から見つかり、 前身寺院の「弓削寺
の遺構とみられることが明らかになった塔の基壇 (土台)。正方形で一辺が約17mと確認
され、 聖武天皇の勅願で国ごとに置かれた国分寺と、 同規模だったことが判明した。
道鏡が出た弓削氏の氏寺とはいえ、官寺に匹敵するスケールだったことになり、 弓削氏
の勢力も大きかったことを物語る。 称徳天皇の寵愛を受け、 権力を掌握した道鏡は周
辺での由義宮の造営に合わせ、 氏寺を由義寺と改名して、さらなる大型寺院に造り替
えた。
  2023-7-6  産経新聞夕刊(編集委員 上坂徹 )

 

 弓削寺の建物跡は、由義寺の塔基壇の約50cm下層から見つかった。一辺約17m
の正方形に復元できる塔の基壇で、基礎となる地面を掘り下げて、つき固めてから埋
め戻す 「掘込地業(ほりこみじぎょう)」といわれる地盤改良工事が施され、最下層には
地盤沈下防止用とみられる直径約50cmの石が並べられていた。基壇は粘質土と砂質
土を交互につき固めて強度を増す版築(はんちく)が採用されており、工事に高度な技
術が用いられたことをうかがわせる。

 後に建てられた由義寺の塔基壇は一辺21.6mの正方形で、高さ約70mの七重塔
が建っていたと推定されている。弓削寺の基壇とは東側で重なっていることが確認され
ており、弓削寺基壇を活用しつつ、最大約50cmの盛り土をして整地し、1・3倍の規模
に拡大していた。

  弓削寺を建立した弓削氏は弓を製作する部の伴造(とものみやつこ・統率者)などで、
河内国若江郡弓削郷(八尾市)が拠点。隣接する渋川郡を本拠地とする物部氏とは関
係が深く、用明2(587)年、仏教の受容をめぐって対立していた蘇我馬子に、攻め滅ぼ

された物部守屋は母姓により、「弓削守屋」とも称したという。物部氏滅亡後も弓削氏
は在地の豪族としてさほど勢力は衰えなかったとみられる。

 弓削寺は出土瓦などから飛鳥 時代後期には建立されたとみられる。奈良時代以
降の優婆塞(うばそく・男性の在家信者)の得度を記録した『優婆塞貢進解(こうしんげ
)』では天平14 (742)年に、文献上初 めて弓削寺の名がみえる。『続日本紀』では、
称徳天皇が天平神護元 (765)年、紀伊行幸の帰途に、弓削寺を訪れ、唐楽や高麗楽
の演奏、舞を行わせたことが記録されている。 称徳天皇はその場で、道鏡を太政大臣

禅師に任じる詔を出しており、道鏡は文武百官からの礼拝を受けている。 

仏教に熱心

 河内国(大阪府東部)の中部(中河内)では7世紀以降、多くの寺院が建立されており、
弓削寺の周辺地域では、孝謙天皇が天平勝宝8歳 ( 756年=天平勝宝7~9は「年」が
「歳」表記) 知識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂各寺(河内六寺)を参拝したことが 『続
日本紀』に記されている。このうち、知識寺は孝謙天皇の父の聖武天皇が天平12 (740)
年に訪れて、本尊の盧舎那仏を拝観したことで、東大寺の大仏造立を決意したとされる。
太平寺廃寺(大阪府柏原市)が知識寺とみられ、史料や発掘調査で、金堂を中心に東西
両塔などが並ぶ「薬師寺式伽藍配置」と推定。

東塔跡からは一辺16.8mの正方形基壇が確認されており、弓削寺とほぼ同規模だった。

 一方、国分寺は天平13 (741)年、聖武天皇の勅願によ り、鎮護国家を目的に国ごとに

建立された官寺。僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)があり、僧寺に
は七重塔一基を設けて「金光明最勝「王経」を安置する、とされている。このうち、河内国
分寺は東条廃寺(柏原市)がその場所と想定されるが、発掘調査で確認された塔基壇の
規模は一辺約19mだった。 また、但馬国分寺(兵庫県豊岡市)は塔基壇が一辺約16m
と確認されており、弓削寺は、国分寺の塔と同規模だった。ただ、国分寺は七重塔とされ
るが、弓削寺の上部構造物は判然としていない。

 由義寺・弓削寺跡の発掘調査を手掛けてきた八尾市観光・文化財課の藤井淳弘係長
は「河内六寺は旧大和川の東側、丘陵地に沿って約1㌔ おきに建っていたと想定されま
すが、 弓削寺も近い位置にあり、同様に飛鳥時代の創建です。一帯は仏教に非常に熱
心な地域で、 寺院が並んでいたようです。 知識寺は教学の中心でした。弓削寺は知識寺

や国分寺にも匹敵する規模で、仏教にも熱心に活動していたことがうかがえます。 弓削
郷から出た道鏡は東大寺で学んだといわれますが、弓削寺でも学んでいたのかもしれま
せん」と話している。


大和三山と藤原京

大和三山

 香具山畝傍山耳成山からな る大和三山は、奈良盆地南部の代表的なランドマークとして知ら
れています。香具山は浸食によって多武峰山系から切り離された丘陵、畝傍山と耳成山は瀬戸内
火山帯に属する火山です。

 三山を男女にみたて、神代にお いて畝傍山をめぐり香具山と耳成山とが争った、と中大兄皇子

詠んだ歌が『万葉集』に収められており、古くから三山が一組として認識されていたことが分かりま

す。江戸時代には三山は名所風景として知られていました。

 明治時代以降は三山ともに国の管理となり、現在は国有林野として、そして国の名勝として森林

や景観が維持されています。

 

三山鎮護

 大和三山は森林景観としてだけでなく、日本最初の都城「藤原京」の中心である藤原宮の選地に

重要な役割を担っていました。『万葉集』に収められた藤原宮の「御井の歌」には、藤原宮の造営

と東・西・北の門から見える三山の姿が歌われています。実際、藤原宮は三山に囲まれた平地に、
飛鳥川を避けて位置していることが分かります。

 平城宮では「四禽図(しきんず)に叶い、三山鎮(しずめ)をなし・・・」(平城遷都の詔『続日本紀』)と、
方位や三山の位置を重要視しており、藤原宮においても同様の理念のもとに選地 が行われたと考
えられます。

 藤原宮は、古来から信仰を集めていた神聖な三山に護られるように造営されていたのです。

 

香具山 橿原市

 大和三山のうち、古代の人々が特に神聖視していたのが香具山です。多武峰山系から延びる尾根
が風化と浸食を繰り返して形成された独立丘陵です。南麓には飛鳥宮跡飛鳥寺跡などが所在す
る飛鳥の盆地が広がります。

古事記』や『日本書紀』、『万葉集』において、「天香具山」と呼ばれ、天と直結した特別な山と認識さ
れていました。

著名な神話である天岩戸伝説の舞台ともされます。また、王権との関係性も強く、『万葉集』には
舒明天皇(斉明天皇の夫、天智天皇、天武天皇の父)が香具山から国土を望み、繁栄を予祝した
国見の歌も伝わっています。
  県民だより 奈良 2023 8月号

飛鳥・藤原の動画⇒


はじめての 万葉集(112)

 ここにありて 筑紫や何処
  白雲の たなびく山の 方にしあるらし

    大伴旅人 巻四(五七四番歌)
 何処:いずち

訳 ここ都にいて筑紫はどちらの方向になるのだろう。

   白雲のたなびく山の彼方にあるらしい。

 この歌の作者は大伴旅人です。『万葉集』の編纂に深く関わった大伴家持

の父にあたり、『万葉集』や『懐風藻』に 優れた詩歌作品を残しました。政治
の世界でも活躍し、大納言従二位まで昇ったことが『続日本紀』に記されてい

ます。元号「令和」の元となった梅花宴の主催者としてご存じの方も多いので

はないかと思います。

 旅人は、神亀五(七二八)年頃に大宰帥(そち・大宰府の長官)として大宰府
に赴任しました。当時の大宰府は大陸との交流拠点であり、先進の文物が
いち早くもたらされる地でした。天平二(七三〇)年に行われた梅花宴も、
中国文化に倣(なら)って催された文雅(ぶんが)の宴であり、中国原産の植
物である梅の花を愛でつつ、漢詩文を換骨奪胎(かんこつだったい)した和歌
が数多く詠まれました(巻五・八一五~八四六番歌)。

 この歌は、沙弥満誓(さみまんせい)から贈られた歌(巻四・五七二、七五三
番歌)に対して、旅人が返した歌の一首です。 満誓は筑紫で観世音寺を造る
任務にあたっていた人物で、梅花宴にも参加していました。

 「筑紫や何処」とありますが、大宰帥であった旅人が筑紫の方角を知らない

はずはありません。生きて帰京できないかもしれないと嘆いていた(巻三・三

三一、三三二番歌) 老齢の彼にとって、帰京がかなった今は、友のいる筑紫
が果てしなく遠い場所となったようです。

 「白雲のたなびく山」も、不老長寿をつかさどるという西王母(せいおうぼ)
伝説中の白雲謡を踏まえた、遠方を意味する表現でした。

 旅人の帰京は七三〇年の末頃とみられており、約半年後の七三一年七月

にその生涯を閉じました。
  県民だより 奈良 2023 8月号(本文万葉文化館 井上さやか)

 

朱雀門

 大伴家は旅人や家持など、歌人が多い印象がありますが、天皇家直属

の親衛隊である武門の名門氏族でした。平城宮には四方に十二の門が備え

られ、おのおの有力氏族の姓が付与されていたと考えられています。平城

宮の正門である朱雀門は最も重要な門であり、その朱雀門を「大伴門」と

呼んでいたことからも、大伴家が名門氏族であったことが窺い知れます。