大将軍八神社地図
成願時地図
地蔵院(椿寺地図










大将軍八神社

     
   
   

大将軍八神社の由来

 当神社の御鎮座は、桓武天皇が平安遷都された延暦十三年(西暦七

九四)勅願により、方位守護の神として、内裏の北西角(陰陽道の天

門) の地に勧請された。平安朝以来、王城鎮護の神として篤い崇敬を

受け、建築·移動·転宅·婚姻·旅行·交通等あらゆる人間生活に於

いて方位の厄災から守護する神として信仰された。平安時代に流行し

た今様には、霊験あらたかな神として大将軍は、祇園、日吉、賀茂社

と同列に歌われている。社号は初め大将軍堂と称され、高倉天皇、治

承二年(一 一七八)、諸社寺に奉幣使が参向した記録「山塊記」には「大

将軍堂」と記されている。この名称は鎌倉、室町と続き、応仁の乱後、

神社として復興し、大将軍宮、大将軍社と改められ、江戸時代中期、

スサノオノ命及びその御子八神と、暦神の八神が習合して、大将軍八

神宮とされた。明治以後大将軍八神社と称している。社地は千古変る

ことなく旧内裏の北西角と推定される一条通行衛通(天神筋)に鎮座

する。


大将軍とその信仰

 大将軍とは方位のことを司る星神(中国の古天文学では、天大将軍)

である。この神の方位を犯すと、きびしいとがめをうけるというので

古来非常におそれられてきた。元は中国の風水思想から起った陰陽道.

道教の信仰で、半島を経て我が国に入ってきた。

 方位について最も気をつかった事柄は、建築、修理、動土、転居

旅立ちなどである。この信仰の起りはすでに奈良朝にあるが、平安中

期から鎌倉初期にかけては、最もさかんに行われた。白河天皇は法成

寺の塔供養の際、同寺が大将軍の方位に当るため行幸を取止められ

平清盛は福原への遷都計画に関し、大将軍の方位について陰陽家の意

見を徴した。源頼朝は養和元年、大将軍の方位が西方に当るため京都

進攻を遠慮したということである。小さな事例にいたっては、上げる

にいとまがない。この信仰は今日に至るもなお脈々として行われ「大

将軍様の三年塞り」をはじめ、あらゆる方災を除けていただく霊験あ

らたかな神として信じられている。


大将軍神像と方徳殿

 本殿東側に建つ方徳殿には、

八十体の大将軍神像群が立体星曼陀羅様に安置されている。

 神像の多くは、大将軍信仰の最高潮に達した平安中期から鎌倉時代

(十世紀末_十二世紀)にかけてのものが、ほとんどである。八十体

の内訳は、武装像五十体、束帯像二十九体、童子像一体となっている。

その内、武装の半跏像は武装妙見像と全く同じであり、束帯像は、星

曼陀羅に描かれている北斗七星像と同一である。その他の像は、道教

寺院で祀られている六十体の干支大将軍神像と共通するものがある。

 この方徳殿は、神像が国の重要文化財に指定されたことを記念して、

昭和五十年に、鉄筋コンクリート造り三階建、四四〇平方メートルの

規模でもって完成した。殿内には大将軍神像の他、陰陽道安倍家に関

わる古天文暦道関係資料(京都府文化財)も展示されている。拝観は

五月と十一月の一日 五日までを公開日とし、その他の日は予約によ

り受付けている。


方除·厄除祈祷(その他の祈願)

 大将軍社の本宮には、毎日全国各地から方除·厄除をはじめ、家

内安全、商売繁昌、交通安全など、あらゆる祈禱の申込みがある。

禱には住所、氏名、年令(生年月日) ,願意を神前に奏上して祈願す

る。古来、方位の厄災の無きよう、七日間祈禱を厳修する慣わしである。

 ご祈祷とともに方除札を貼り、清めのお砂を撒くことにより、方災

除かれる。

(郵送、ファックスも受けつけている)





成願時
    
 










地蔵院(椿寺
 奈良時代の726年(神亀3)に行基が自作の木造地蔵菩薩像(重文)を安置して開創したという。後に浄

土宗に改めて知恩院の末寺となっている。本尊は阿弥陀如来。

 同院は、「北野白梅町」の交差点から南へ向かい、一筋目(一条通)の角にある。境内入ると本堂の前

に、加藤清正が朝鮮から秀吉のために持ち帰ったという五色八重の散椿(秀吉が寄進)が植えられてい

る。毎年3月下旬~4月中旬が見頃で、花びらが片づつ散るのが特徴。現在は二代目であるが樹齢約
100年。 また、境内墓地には赤穂浪士の打ち入り
を陰で支えたとされる天野屋利兵衛の墓がある。
利兵衛は、上方商人で晩年を過ごしたと言われる。さら
に、俳人与謝蕪村の師である早野巴人(はじん)
の墓や天野屋利平の墓の横に手水拝として使われていた
キリシタン(切支丹)の墓もある。椿の傍の
枝垂桜も素晴らしい。 地蔵院は、洛陽三十三所観音霊場の
第三十番札所