弥生の青銅製分銅か
滋賀·下鈎遺跡精密な計量示す

 弥生時代の環濠集落として知られる下鈎遺跡(滋賀県栗東市)で、20年前に出土した弥生時
代後期後半
(2世紀後半)の青銅品1点が、てんびんばかりに用いるリング状の分銅「環権」で
ある可能性が高いこ
とが分かり、市教育委員会が23日発表した。青銅製環権は中国や韓国で
は墓に副
葬された例があるが国内で見つかるのは初めて。

 下鈎遺跡では青銅器や祭祀に使う赤色顔料「朱」を生産しており、市教委は「中国か朝鮮半
島からの渡
来品と考えられる。他地域との交易や、青銅の配合,朱の計量など精密な計量に
いたのだろうとしてお
り、弥生時代に度量衡制度が伝わっていたことを示す史料として注目され
そうだ。

 これまで亀井遺跡(大阪府八尾市など)などでてんびん用の円柱状の石製分銅が、原の辻遺
跡(長崎県壱
岐市)では、さおばかりにつり下げる青銅製分銅(弥生後期)が出土している。

 下鈎の青銅品は平成11年に見つかり、腕輪の「銅釧(どうくしろ)」としては大きすぎるため、
用途は不明だった。福
岡大研究員だった輪内遼さん(佐賀県嬉野市職員)らが29年ごろから調
査し、韓国南部の茶戸里(たほり)遺跡1号墓
(紀元前1世紀)で出土した青銅製環権と重さを比
した。

 青銅品は重さが89.7g茶戸里で出土した最大の環権( 22.73g )の約4倍に当たるという。これま

で見つかっている古代の分銅は質量が2の累乗倍という法則性があり、環権の可能性が高いと
判断した。

 外径12 . 7cm、内径1125cmで厚さ0 . 7 cm。平坦面もあり、積み重ねに適た形状。集落跡
の川底から
弥生後期の土器と出土した。下鈎では中国の前漢鏡(紀元前1世紀ごろ)の破片もあ
り、鏡とともに弥牛
中期にもたらされた可能性もあるという。


下鈎遺跡

 滋賀県栗東市にある弥生時代の環濠集落跡。大型建物跡4棟や国内最小の銅鐸(どうたく)
ど多彩な出土品で知られる。北陸や東海など各地の土器も見つかっており、他地域との交
流も盛んだったとみられ、青銅器や祭祀用の顔料である水銀朱を生産していたことも分かって
いる。約2キロ離れた伊勢遺跡(同県守山市)とともに近畿の中心的集落だったと推定されてい
る。
 2019-5-24 産経新聞
 

 

下鈎遺跡で出土したリング

状の青銅品。分銅の可能性

が高いことが分かった。奥

は腕輪の「銅釧」

滋賀県栗東市 

 

弥生時代にてんびんばかりに分銅

「環権」を使う様子のイメージ

(栗東市教育委員会提供) 




近畿の銅鐸九州にルーツ?

 銅鐸の発祥は九州か――。 近畿の弥生文化を特徴づけるこの青

銅器の起源をめぐり、議論が動き出しそうな気配だ。大阪で昨秋

あったシンポジウムでは、第一線の専門家が活発に意見を交換。

銅鐸の成立は近畿だとしても、その前提となる条件は九州にそろ

っていたとの見解にまとまったかにみえる。

 

 銅鐸は紀元前から弥生時代の終わりにかけて近畿地方を中心に
発達した釣り鐘のような器物で、農耕にまつわる祭器ともいう。土中

から偶然見つかることが多く、その分布圏は北部九州の銅矛・銅剣

文化と対峙したとの説もある。

 ただ、その成立や埋納過程には謎が多く、日本考古学上の重要テ

ーマだ。

 シンポの主催は、銅鐸の完全な石製鋳型で有名な東奈良遺跡を
擁する大阪府茨木市教育委員会。

2023年の鋳型発見50周年を前に、「銅鐸から弥生時代社会を見

直す」と銘打って昨年11月上旬に開催した。

  銅鐸といえば近畿発祥という通説に一石を投じたのが、明治大の

石川日出志教授。青銅器文化のルツはもともと朝鮮半島や大陸に

あるが、「近畿に朝鮮系青銅器は希薄で、ここで銅鐸の由来をたど

るのは無理がある。むしろ最古の銅鐸の構成要素は北部九州にほ
ぼ出そろっており、それが近畿に波及し飛躍的に発展したのでは」と

いうのだ。

 海外文化流入の窓口となった北部九州には銅矛や銅剣、銅戈(か)
など武器形青銅器が多く、銅鐸はほとんど見つかっていない。1980

年代前後になって佐賀や福岡で鋳型の一部が確認され、その後、吉

野ケ里遺跡(佐賀県) で実物も見つかったが、菱鈕式と呼ばれる最

古型式より新しいため、近畿発祥説を脅かすまでに至っていない。

 しかし、石川さんは近年蓄積さ れた新資料を改めて洗い直すなか

で、最古型式の実物こそ見つかっていないものの、それを構成する

装飾や形態などの諸要素はすでにそろっている、と主張。銅鐸の釣り

手に当たる紐は、九州の銅矛の「耳」と呼ばれる半円形の装飾部

分から生まれたのではないかと踏み込んだ。

 九州の青銅器に詳しい福岡市埋蔵文化財課の常松幹雄・主任文
化財主事も、銅矛の鋳造技術を用いて銅矛の工人が銅鐸を造った
とみて、石川さんの説に同調。「銅鐸 の試作品やプロトタイプが九州
で見つかる可能性に注目したい」と語った。

 もちろん反論も。春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授は「鋳

型の分布) からみても銅鐸の成立は北部九州ではあり得ない。最

古級の型式だけを切り離して九州産だというのは成立しない」、難

波洋三・奈良文化財研究所客員研究員も「両者には)飛躍・ギャ

ヒップがあり、近畿はやはり独自のものを造ろうとした」

 吉田広・愛媛大教授は「武器形青銅器の東への流れは中期中ごろ

で、銅鐸だけ早く近畿に入ってくるのはイメージできない」。銅矛

との関連性についても、装飾的な銅矛の耳から実用に不可欠な銅鐸

が生まれたというのは無理がある、と懐疑的だ。

 シンポの議論を眺める限り、近畿発祥説は依然として強固。が、

それぞれトーンをたがえながらも「銅鐸の属性や祖型が九州にそろ

っていたのは問題ない」(難波さん)などと部分的には石川説を認

北部九州が無関係ではないとの認識では一致した。

 銅鐸製作時に使われる送風管の形を分析した茨木市立文化財資
料館の清水邦彦さんも「生産技術の系譜やバックグラウンドは九州
や韓国にあると思う」。少なくとも、「銅鐸文化圏銅 ・銅剣文

化圏」という対立一辺倒の構図が過去のものとなりつつあるのは確

かなようだ。

 丁々発止の議論を会場で見守っ大阪府立弥生文化博物館の禰宜

田佳男館長は「21世紀の銅鐸論の第一歩。 次の50年へのスタートと

「なった」とのコメントを寄せた。
2023-1-5 朝日新聞 (編集委員・中村俊介)






























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