桂離宮地図
写真はY.M氏ご提供
庭園 | 洲浜 灯篭を据えて岬に見立て海を演出。 |
もと正親町天皇(おおぎまち)の皇孫桂宮の別荘で、 後陽成天皇の弟八条宮智仁(ともひと)親王によって造営を初めめられ、 元和4、5年(1618,19)工事に着手し、明暦初年約50年を費やして造営したものという。 智仁親王がこの地に別荘を構えたたのは、 源氏物語の松風の場面に登場する別荘桂殿にあこがれたのではないかと、 とも云われている。 御殿は広大な書院造りで、古書院・中書院・新書院を主殿とし、 桂川の水を引き池泉回遊式庭園を中心に、 月波楼・松琴亭・笑意軒などの茶亭がその間に点在している。 池畔には洲浜や天橋立、入江が造られており、変化に富んだ庭園美が鑑賞できる。 苑池に配された大小五つの島もアクセントを添えている。 苑池(えんち):池を中心とした庭園 |
御幸門 | 御幸道 |
表門は離宮の正門で、特別の時しか開けられません。 御幸門を入るとこまかい石敷の道が一直線にのびている。 この石敷は目立たない程度の中高で、 両側に雨水が流れるようになっている。 その少し奥に有るのが茅葺切妻屋根の御幸門で、 家仁親王の時に再建された。 茅葺き切妻屋根。 |
外腰掛 |
御幸道の中程の外腰掛は雪隠付きで、 茶室松琴亭の待合腰掛である。 やや曲がりのある細い皮付きの丸太の柱を立て、 曲がりくねった丸太を簗や束として巧みに用い、 その上に茅葺きの屋根をのせた野趣にあふれた 待合である。 |
松琴亭 | 松琴亭内観(一の間と二の間) |
松琴亭は離宮で最も格の高い茅葺母屋造りの茶室。 一の間と二の間の境のふすまや、床の間の市松文様が印象的。 |
賞花亭 | 賞花亭 |
中央の土間を四枚の畳が取り囲んで天井を全面化粧屋根裏に見せ、 水屋と炉をそなえただけの簡素で開放的な茶屋となっている。 この茶屋を使うときには、「たつたや(龍田屋)」と染め抜いた紺と白の暖簾(のれん)を吊り、 建物に景色を添える。 茶屋風の賞花亭は苑内で最も高い位置にあり、消夏のための小亭である。 |
園林堂 |
園林堂は本瓦葺宝形造り屋根の持仏堂 |
笑意軒 | 笑意軒の扁額 |
笑意軒は田舎風の茶室で扁額は曼殊院良恕法親王の筆である。 |
月波楼 | 月波楼内観(中の間) | 月波楼からの展望 |
月波楼は古書院に近い池辺の高みに建つ茶亭で、開放的で波に映える月や、庭を眺めるのに見晴らしがよい。 全面化粧屋根裏で覆い、小屋組の中央には曲木の棟束を一本だけ立てて木構造の妙をみせている。 |
古書院の月見台 桂離宮は月の名所といわれる |
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書院右から古・中・新書院 | 庭に大きく張り出し月の動きをとらえる。 |
書院群は古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行形に連なり、 古書院には池に面して簀子(すのこ)ばりの露台の月見の間がある。 この書院は園林堂あたりからの眺めが、風景にとけこんでおり、 また、池に映った書院もみごとと言われている。 |
中門 | 御輿寄(みこしよせ)前庭の真の敷石 |
御輿寄は書院の玄関で、中門を入ると 、正方形の4枚の切り石が曲がって敷きつめてある。 そこを踏み終わると、大きな切り石組みが一直線なって詰めてある。 この敷き詰めた石が御輿寄にのびている。 |
桂離宮も曼殊院も、江戸初期の公家によってつくられた。 公家文化というのは室町期にふるわず、くだって豊臣期、桃山時代という芸術の昂揚時代に育成され、江戸初期に入ってこの二つの代表的な造営物に開花し、あとは極度に凋(しぼ)んだともいえる。 この二つの造営物と同時代のものとして、日光東照宮がある。桂離宮と曼殊院に美の基準を置けば、東照宮はこの上もない悪趣味のかたまりといえるし、逆に東照宮に美の基準を置けば、桂離宮や曼殊院は乞食の親方の屋敷にみえるのではないか。 美学思想という点からも時代的にも、桂離宮と曼殊院はセットをなしていると考えていい。 桂離宮をつくったのは、親王智仁(としもと)である。八条宮(はちじょうのみや)とよばれた。 かれは、幼少のころから豊臣秀吉の庇護を受け、桃山の気分の中で成人した。このことは豊臣氏の崩壊にさいしてやや悲劇的なものであったかと思える。 司馬遼太郎 街道をゆく 数寄の系譜 より |