岩村城址地図

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藤坂の険 

岐阜県恵那市

標高721mの最も高い所に建つ山城で天嶮の

地形を利用した要害堅固な石垣が築かれている

戦国時代幾多の戦乱の舞台ともなりときの城主

遠山影任没後その妻が采配をする女城主の時代

もあった 

 藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち一の門に至る約300mの間を云う。
途中で大きく左折するが、この地点を初門又は假御門(かりごもん)と称していた。戦争になると、
ただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣地としたが、この初門の地点から城下街を一望
にすることが出来るので敵の動静も知ることが出来た。
 平時の藤坂は登城坂にすぎないが戦争になると初門をはじめとして、坂の途中に何ヶ所も陣を
つくり防衛したので容易に進むことができなかった。
 藤坂の名は伝説として岩村城を創築した加藤影兼の妻重の井が紀州から藤の実をとりよせて植
えたことから始まったと云われ、藤にまつわる伝説が幾つかある。 
   
 一の門
 藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城である。
一の門は櫓門(二階建)で、左側に番所があって、平時でも監視の番人がいて出入
りするものを厳重に調査してから通した。つづいて多門(石垣の上に設けた長屋で
城壁を兼ねた)があり、常に武士が詰めていた。
 一の門は岩村城守備の第一線で櫓門の上から城下街を一望に出来る町の動静
については昼夜を問わず兵が看視に当たっていた。
 右手に高い石垣(石塁)が連なり、高台に屋敷もあった。一の門をくぐると土岐坂と
なるがその突き当りの石垣の約10m巾は岩村城において、最も古く中世末期のもの
と云われる。 
大手門、三重櫓、畳橋
  畳橋は敵が攻めてくると橋板をとってしまうのでその名がある。
大手門(追手門)は正門のことで、城門の中で最も重要な門であるから、その防備は
厳重を極めている。大手門は二つあり、一つは櫓門、一つはその前面の桝形も大手
櫓門をかばう防御施設である。空掘にのぞんで三重櫓(三階建)があった。岩村城は
山城で天守閣は不要であるが、この三重櫓が天守閣の如く偉容を誇っていたのは、
城下街から見上げたとき、ここが最も見栄えのする地点であったからである。しかし
岩村城の本格的要害は、ここから奥に展開する。この辺りの石垣は最も美しく絶壁に
のぞんだ三日月形の曲線は扇の勾配ともまたは武者返しとも呼ばれている。 
   
 霊泉 霧ヶ井
 霧ヶ井は鎌倉時代から清らかな水を湛えている。
この井戸は城主専用のもので、お堂の中にあった。岩村城を別名を霧ヶ城と云うが、
それは非常に霧が発生しやすい地勢にあることから名づけられた。伝説によると敵
が攻めて来たとき、城内に秘蔵した骨を霧ヶ井に投入すると、忽ちにして雲霧が
湧き出して全山をおおい、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみ、そこえ城兵が
突入して勝利を得た。これは山霊の加護によるもので、依って霧ヶ城と呼ばれ天下の
名城とつたえられている。
 霧ヶ井はどんなに日照りがつづいても、決して水の涸れない不思議な井戸で、
江戸時代に百日続いた日照りにも水は豊富であったと伝えられている。 
   
 菱櫓と俄坂
 山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった。山城特有のものである。
この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にも
その例はあまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的
遺構である。菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所多門があって大円寺水晶
方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正門)で大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険
しい急坂も残っている。
 実際は裏手の門で、普段は使わないが、落城等の非常口として用いられた。
俄坂のその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、
天然の峻険を利用し敵の来襲に備えた。 

本丸
 本丸は海抜717mあり、日本の山城の中でもっとも高地にある。
 その歴史と広大さと要害堅固さから日本三大山城の一つとされている。
東曲輪からも二の丸からの入口も埋門を通じてやっと進入できる。
本丸には二重櫓と納戸櫓があり、二重櫓は城主の最後拠点となる重要な
建物であった。多門は三つあり、東西の石垣に沿ってあった。山城のため
天守閣はなかったが城内の要所要所に11の櫓(二階建てまたは三階建)
又は櫓門があって常時各方面を監視しており、しかも全部が本丸に統一掌
握されるようになっていた。
   
 岩村藩校知新館正門
   
 太鼓櫓
各家では花を飾り ブルーの暖簾に各家の
奥様の名前を出してある
造り酒屋では女城主の銘柄
 岩村城は源頼朝の重臣加藤景兼が、この地の地頭に任ぜられ築城してから、
鎌倉・室町を経る約400年戦国の世まで美濃遠山氏の居城となっていた。
 戦国時代には、天下を狙う織田・武田・徳川の接点に位置したこの城は、
いやが上にも戦乱に巻込まれ、女城主の登場や森蘭丸の入城、美濃遠山氏
本家の滅亡など悲しく華々しい時代を経て江戸の時代に至った。江戸時代に
は松平・丹羽など譜代大名の居城として、明治までの300年間城が存在する
と共に、この東濃地方の中心として城下町は大いに栄えた。
 江戸の平和な時代になると、城主が城の山頂(本丸)に住む必要がなくなり、
慶長6年(1601)城主松平和泉守家乗は、城の山麓に藩主邸を造営した。
以後ここは政治の中心としての機能を果たす一方、太鼓櫓を設け城下に時を
知らせ続けた。
 時を知らせるための櫓は、庶民と殿様との深い絆を象徴する建物であった。 
  知新館は元禄15年(1702)藩主松平乗紀(のりただ)によって創立された。
美濃国において最初の藩学であり、全国的にみても古く十指に入る。
創立当時の岩村藩は2万石(後に3万石)の小藩でありながら、文教政策に
重点をおき、有能な藩士の育成を図った。

武田二十四将家紋、一番上の割菱は武田氏家紋