日本人が優秀なわけ

 私たち日本人は、性格的にも知能的にも、世界でもまれなほどすぐれた素質をもっている。も

の語らざる人骨は、研究が進むにつれて、さらにそうした優秀さの秘密まで語ってくれるように

なった。

 帝釈 峡人ばかりでなく、わが国の各地から石器時代に住んでいた人間の骨の断片が、少しずつ

発見された。人類学の習慣で、人骨はその化石が発見された地名をとって名づけられるが、たと

えば栃木県の葛生という町の石灰岩の洞窟から出た葛生人。それからもう少し西へいって、静岡

県の三ヶ日町にある洞窟から発見された三ヶ日人。その隣り、浜北市の洞窟から出た浜北人。愛

知県豊橋市にある牛川町の洞窟から発掘された牛川人。さらに兵庫県明石市の西八木という所か

ら出た明石人。また愛媛県の鹿野川町にある洞窟から見つかった鹿野川人。

 日本では、帝釈峡人を含めて七例ほどそういう化石が発見されているが、それらはすべて現代

の私たちと無縁ではない。つより、日本人以前に住んだ人間ではなく、日本人の祖型というか

元の体を示すような共通した特徴をもっている。それから考えられることは、日本における日本

人の歴史は最低でも二万年以上あるという事実だ。世界の人類史のなかでも、二万年同じ地域に

住んでいる人間の例はない。

 たとえば、ピラミッドで有名なエジプトだが、あの古代エジプト文化を生んだ人間はセム人と

いう。しかし今のエジプトにはセム人はいず、アラブ人が住んでいる。セム人はどこへいったの

かといえば、だいたい現在のエルサレムやベツレヘムのあたりに追い出されてしまった。そして

ユダヤ人を生んで、世界のいろんな問題をつくる。

 それから純粋のインド文明をつくった、インドアーリアン。彼らは今ではドラヴィディアンと

入り交じってしまって、ヒンズー人という。純粋のインド文明を築いた人間はもういない。

 中国文明を生んだのは漢民族だが、これも同じことがいえる。純粋な漢民族は、混合してしま

ってもういない。おそらく、先年台湾で死んだ蔣介石が最後の漢民族だろう。毛沢東とか、今の

中国を支配する中心の人々は、ほとんどが周辺の人間だ。

 アメリカ大陸の古代文明といえば、マヤ文明、インカ文明が有名である。それらを築いたの

は、いうまでもなくアメリカインディアンだ。しかし、彼らはもともとアジア大陸から移動した人間
である。

 また、イタリア人がいくらローマの遺跡を誇っても、あれはローマ人の遺跡であってイタリア人

のものではない。今のイタリア人はサルジニア人だ。西にあったサルジニアという国がローマ

を征服して入りこみ、元来ラテン系の人間が住んでいた土地に建国したのである。ローマ文明を

つくったほんとうのローマ人は、もういない。

 ギリシャはバルカンにあるが、その古代文明を開花させたギリシャ人はアーリアンだった。だ

が今日のギリシャには、すでに純粋アーリアンはいない。ロシアのほうからスラブ系の人間など

がいろいろ入ってきて、すっかり入れ替わってしまった。

 イギリスは、元来ケルト人が住んでいた土地である。そこにアングロとかサクソン、ジュート

という人間が入ってしまった。これは、ゲルマン系の人間だ。

 ゲルマン民族は、ヨーロッパの人種と文明をかきまぜるうえに、大きな影響を与えている。今

から千八百年前、彼らはいわゆる民族大移動を起こしてヨーロッパ全土を征服、歴史を書きかえ

させてしまった。

 人間の移動についていえば、未開人にも例がある。アフリカの黒人に、ホッテントットやブッ

シュマンなどという人々がいる。彼らは文字をもたないから不明の部分も多いが、それでも古代

の人骨の化石などを調べると、やはりたいへん大きな漂流民族で、地上を移動していることがわ

かる。

 そういうぐあいに、世界の人間で昔から、万を超える年数を同じ土地に住みつづけているとい
例はない。
ただ日本だけが例外である。

 ふつう、人間は一定の場所に長く住んで純粋を保っていると老廃する。自然の植物も動物も、

純粋種はみな老廃種だ。日本人は、それにもかかわらず、なぜ老廃しなかったか。

 日本が、アジア大陸から離れて島になったのは、今から約二万年ほど前だといわれる。そのこ

ろ、アジア東部に大きな地殻変動があり、間宮海峡から日本海、朝鮮海峡を通り南シナ海あたり

まで断層線、つまりヒビが入った。その結果、日本は東へ離れだしたのだが、その現象は現在も

なお続いている。わが国が地震国である理由はそこにある。日本という島が動くことによって地

下にエネルギーがたまるが、それを地震という現象で解消しバランスをとっていく。簡単にいえ

ば、汽車が走るとがたがた震動する。その震動の一つがかつての関東大震災であり、またこのご

ろ、起こることが予想され大きな関心を集めている東海大地震だ。だから日本は、地質学的にい

えば未完成の島なのである。

 それはともかく、人間の老廃化を防ぐうえには、島になったことが幸いだった。島になったか

ら海流に洗われはじめた。南からは暖流が来るし、北からは寒流がやってくる。そして季節風も

吹く。北からは冬の北風、南からは貿易風という夏風が吹いて、しかもそれが最後には台風をも

ってくる。これが日本にとって非常によかったのである。

 どうしてよかったかというと、海流や風によって送られてくるエネルギーが、北よりも南から
ほうが強かった。そこで、日本には東南
アジア系の文化がたくさん入ってきて、日

本文化の基礎をつくった。日本文化というのは、明らかに東南アジア型

である。たとえば、私たちは今でも褌、腰巻きなどの下着を残しているが、これらは東南アジア
しかないものだ。西洋文明の輸入とともに上に着るものは変わっても肌着、とくに腰

肌着は変わらない。これこそ、文化の原点である。

 東南アジアからはまた、米が入ってきた。

そうすると稲作農業が始主る。そして米と

ともに、東南アジアの稲作信仰もやってくる。信仰の面では、日本には北方文化も一部残ってい

て、それに交じり合った。あとでも説明するが、シャーマニズムという神がかり信仰がある。こ

れはもともと北のものだ。こうして成立したのが、日本の神道である。

 結局、日本の文化というのは、このように複雑なものを混合しながら新しい文化をつくったの

である。人間の肉体も同じことがいえる。日本が島になって以来、大陸や東南アジアからいろい

ろな人種がやってきて、その血液が混合したものだから、いわゆる優性転化をしてしまった。人

間は近縁相異婚といって、やや近い人種の違った体型同士が混血するのが理想とされる。黒人と

白人のように極端に違う人種同士の結婚は、その意味で劣性婚だ。

 日本人は、幸い近縁相異婚という優性婚をしたものだから、適度な順応性をもつ優秀な体質を

もつようになった。その証拠に、経済条件や衛生条件が整備されてきた今日では、寿命が世界一

長くなっている。体質ばかりではない、性格からいっても、知能からみても非常にすぐれている

のだ。たとえば日本の数学水準などは世界一である。私たち日本人がこれほどの優秀さを受けつ

ぎ保っているということは、やはり島になったという自然の恵みだと思う。

 以上のような事情がわかりだすのは、最初に書いた、一青年の、崖から石器を一個抜きとった

行為からはじまったものである。地下にはこういう大きな、民族の歴史や文化の特色を説明する

ような、重大な発見を可能とする証拠が残っている。そのことを私たちは、戦争後たいへん大き

な記念品として手に入れることができた。したがって、考古学が新しく見直される理由も、ここに
あるだろうと思う。
   足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




日本人はいつからいたか

 その青年は相沢忠洋さんといって、現在、群馬大学の先生をしている。この人は中学二年まで

しかいかなかった。しかも、今でも納豆屋さんだ。 そのかたわら、学問をいっしょうけんめい

けて、りっぱな業績を残している。後世の歴史に大きく残る偉い人だと思う。

 相沢忠洋さんが一人ではじめた研究は、やがて明治大学が参加して本格的な調査が行われた。

その結果、発見した石器が単なる偶然でそこに埋まっていたものではないことや、土壌は移動した

のではなく、実際の自然堆積であることが確認された。そればかりではない。発掘物の、一見し

て石のかけらのように見えるものが、人工的にある目的をもって、ある技術によって割られた石

器であること、さらにその石器も、下から出るものは古く、なかほどはそのつぎで、いちばん上

がもっとも新しいことも証明された。つまり具体的にいうと、いちばん下が斧の文化で、中央く

らいから出るものが刃物の文化、そして最上層のものは先がとがった槍および矢じりの文化と.

およそ三つの時代に分けられることなどがわかった。

 しかも、土器は出てこない。発掘されるのは石器と焼け石だけである。それは、ヨーロッパの

旧石器時代と同じ状態だ。ただ、ヨーロッパのばあいは石灰岩のなかから出るので、動物の化石

がいっしょに発見される。日本はローム層なので、動物の肉体は分解しているからいっしょには

ない。だが、それでも土壌のなかにわずかながら炭素が残っている。炭素があれば年代測定がで

きる。私たちは動物だが、動物や植物は地上で生きている間は空気を呼吸し、あるいは水を飲

む。その空気や水のなかには、自然の放射性元素が入っている。放射性元素は私たちの体のなか

に沈積していくが、飽和点を超えて過剰になると肉体は破滅する。それが今日の、いわゆる原子

力の被害問題だ。

 しかし、ふつうの状態でも、原子力が発見される以前から、すべての生物は体のなかに、自然

放射能を死なない程度に堆積している。そして、体のなかにある炭素に沈積した放射性元素で、

年代が測定できるようになっている。炭素にはいくつも種類があるが、なかのカーボン一四を使

うもので、その測定法は一九五〇年に実用化された。それを利用すれば、四万年くらい過去文で

測れる。最近はだんだん精密になって、誤差が減ってきた。その測定によれば、相沢忠洋さんが

発見した石器の出る地層あたりは、だいたい二万年前がいちばんあとだ。

 二万年前ぐらいということは、まずアメリカのミシガン大学が測った。その後,日本の各学校

でも同じような器械をつくって測ってみたが、どの計数値も同じだから信用していいと思う。た

だ、プラス·マイナス二百年くらいの誤差はある。しかし二万年中の二百年などわずか一%で、

考古学ではそのくらいの誤差は誤差ではない。今はそれがもっと減って二十年程度になっている

ので、ほとんど正確だ。しかしその誤差は、古い時代へいくと大きくなる。というのは、カーボ

ンでは四万年までしか測れないからだ。より長い時間の計測にはカリウム·アルゴン法、フッ素

法というのがあって、二百万年近く主で測れる。その方法では、二、三十万年の誤差になる。

 それはともあれ、人間生活を測る範囲においては、カーボン一四の測定法を使えば誤差がほと

んどないに近いほど、正確に知ることができるわけである。それによってわかったように、二万

年前、日本に人がいたことまちがいない 二万年がいちばん新しいのだから、それ以前にもい

たことになる。だが、それ以前のもっとも古いのが何年前かはわからない。ブラック·パンドの

下なので、炭素が見つからないからだ。しかし少なくとも日本には二万年以上、数万年前に人が

住んでいたことは確かめられた。これは日本の民族史のうえにおいても破格の発見である。

 神武天皇が二千六百年前、天孫降臨は三千年前などといっていたが、そんなばかばかしい話は

ない。石器時代の遺跡でもいちばん終わりが三千年ほど前だということは、従来、土地の隆起速

度から想像されていた。けれど隆起速度というのは主観が非常に入って、計測値がまちまちだっ

た。その点、カーボンの測定は、ほとんど絶対に近い客観性をもっている。その年数から、日本

に人が住んだ歴史が天孫降臨どころではなく、もっとけた違いの古さであることが明らかになっ

た。結局、人間が文献によって伝えている歴史などというものは、日本における人類史の実に

一%にも満たないことがわかってきた。

 それを知ることができたのは、終戦後の混乱のなかで地下の探索というものが、いかにだいじ

かを教えてくれた、相沢忠洋さんのおかげである。私は、大きな勇気をもつと同時に、深く反省

させられた。

 以来,旧石器の研究が日本じゅうで進み、現在では計測がもっともっと精密になってさて、北

は北海道から南は琉球地方まで日本に旧石器時代があったということは,まちがいない定説にな

っている。

 ただ、その遺跡が、ローム層などという野外にあるばあいには,火山灰だから風で飛んだりす

る。もし当時の人がほら穴のなかに住んでいたとすれば,その場所を見つければもっと正確にわ

かるだろう。というので今、ほら穴を研究する学会「洞窟学会(ケイブ·ソサエティ)」がつく

られている。その学会が調べているのは日本じゅうの、石灰岩などの洞窟のなかで、そこに旧石

器時代の遺跡あるいは遺物がないかということだ。そうした調査の成果として、岩宿文化の研究

を裏づける事実をどんどん発見している。

 洞窟がいちばん残っていて、調査活動が盛んなのは新潟県、長野県、ちょっと西へ飛んで広島

県、それから佐賀県、長崎県である。鹿児島県にも各地に洞窟があって、私はそこで調査をやっ

た。洞窟内では物が動かないから、掘るとまず上の層から歴史時代のものが出てくる。その下か

らは古墳時代のものが見つかる。さらにその下からは新石器時代のものが現れる。もっと下へい

くと、土器がなくなって石器だけが発見される。それが旧石器時代、石器だけの文化だ。

 洞窟では地層がそのまま残っているので、年数がちゃんと測れる。その方法により、とくに長

崎県あたりの研究がほぼ完成したので、つぎに日本の年代を組み立てる作業になった。年代を組

み立てる学問を編年学というが、今では旧石器時代の編年がほとんどできあがったといっていい。

 その結果、斧文化、刃物文化、槍文化と、日本じゅうが同じ順序を経て進んでいることがわか

った。そこでこんどはこれを大陸のものと比べていくことになる。

日本人と文化のルーツ

 旧石器時代には朝鮮海峡はまだなかったと思う。朝鮮半島と日本が離れたのは、約二万年ほど

前のことだ。 
 両方の陸地がつながっているころ、
日本に人が来ている。人類は本来、泳げない動物である。
船を発明したのはせいぜい一万年ほど前だから、
それ以前に来たとしたらどうしても地続きでな
ければならない。
朝鮮海峡がつながっていれば、自由に渡ることができる。

 そういうことを前提にして大陸の文化と比較してみると、いろいろ興味深い事実がわかった。

たとえば、日本にある旧石器時代と同じような文化は、やはり沿海州から南シベリアを通って、

中央アジアからヨーロッパへつながっているらしいのだ。一方、日本の旧石器時代文化は、一部

そのなかに東南アジア系の文化の影響もあるらしい。東南アジアで出てくる旧石器の技術と同じ

ものが、シベリアを通ってきた技術に重なって、両方とも日本で発見される。

 考えてみると、これは以後の、日本文化の性格の基になっていることだ。アジアの東端にあっ

て、南アジア、北アジア両方の文化を基に、新しい文化の組み立てられたのが、今の日本文化で

ある。そうなるのが宿命であったというか,その源が、すでに旧石器時代の昔にあることがわか

る。

 それでは、当時どういう人間が、日本に渡ってきたのか。南アジアとシベリアと二つの人種の

混血体が発掘されればたいへん都合がいいのだが、これはそううまくいかない。ただ、それを証

拠だてるものは見つかった。

 最近、旧石器時代の終末期,約二万年ほど前の人骨が広島県の帝釈峡の遺跡から出てきた。そ
の人骨はどこの人間に似ているかというと、シベリアでも東南アジアでもない。実に、今の日本

人に似ている。つまり北と南の両人種の混血が、すでに終わったころの体形をもっているのだ。
 ただそのなかで、一つだけ現在の日本人と違うところがあった。それは眉隆起といって、まゆ

毛の下の、目の上の隆起が高いことである。前頭葉の発達が悪いと、この部分が高くなるという

のは人類学の常識だ。そして前頭葉の発達が悪いということは、記憶、推理、判断、言語中枢な

どの発達が遅れていることで、未開人の体質に共通して見られる現象である。したがってこれは

人類の発達途上にあらわれる自然現象といえる。

 帝釈峡から発掘された人骨にはまた,まぎれもなく日本人の祖先であることを示す特徴もあった。
 ヨーロッパ人や黒人は、大腿骨の断面が
まん丸いのがふつうだが、私たち日本人は

丸くない。とくに大腿骨の大関節の下部には,横にちょっと出っぱりがある。要するに、関節にベルト
がついている。というこ
とは、そこについている筋肉層が厚いの だ。これは山岳労働とか重い物を
運搬する
人間によく見られるものだが、日本人には遺伝的にあって、それが特色になっている。
その人種
的特質が、すでに帝釈峡人にあるのだ。そうした事実から推測すると、日本人の体形は
二万年近
い以前に基礎がほぼできていたらしいことがわかる。これを、人類学者は原日本人という。

 このとき以降、第二次的混血がいろいろと起こる。日本が島になってから、マレー人も来るし

朝鮮人も来る、アイヌ人も来て混血するが、そのもとになる体は、すでにもう旧石器時代にでき

あがっていた。いいかえれば日本人成立、日本文化成立の歴史は、従来のように、天孫降臨やあ

る民族の移住の結果などとする論議では解釈できないのである。長い長い歴史の間に、アジア全

体に広がった人間が、日本という東のほうの,まだ島ではない半島のようなところにやってきて

生活をはじめた。長い年数がたつうちには火山活動があり、地震があり、地殻変動がある。それ

らを経験しているうちに、最初にもってきた体形が、環境に順応するようだんだん形を変えてい

った。それが、原日本人の成立である。

 人間は、二世代や三世代、いや十世代くらいでは形は変わらない。だから私たちは気がつかな

いが、人間は三十世代ほどたつと、環境の影響をうけてその変化に順応する体型になってしま

う。一世代を約三十年と計算するから、千年たてばだいたい三十世代になる。

 そのいい例がインド人である。インド人はもともとアーリアンといって、白人系の人種だっ

た。そのアーリアンが、今から二千三百年ほど前のアレキサンダー大王東征時代に移動して、イ

ンドの原住民ドラヴィディアンを征服、インドアーリアンになった。それから千年くらいたつと

インドの環境に順応して色が黒くなり、背こそ高いが、ヨーロッパ人から見ればもう白人ではな

くなっている。しかし、それからさらに千三百年たった現代のインド人でも、それを骨にする

と、人類学的にいえばやはり白人なのだ。このように肉体は、約千年単位くらいで一部変わるか

ら、一万年もたてばもう独特のものができてしまう。

 環境が、肉体を変えるたいへんだいじな要素である。その発見は、最近の人類学の大きな成果

といえよう。従来は、人種分類は先天的なもので、永久に変わることはないと思われていた。し

かし、そうではなかったのだ。私たち日本人のばあいでも、そのことはあてはまる。日本は六百

年ごとに気温が暑くなり、寒くなる。それを気温周期というが、暑い時代になると、日本人の身

長は高くなった。ところがその気温周期を何十世代も経験していると、遺伝因子の働きによっ

て、暑くならなくても背がのびていくようになった。

 そういうように私たちの肉体は、いろいろと複雑な要素をもっていることがわかってきた。そ

して,旧石器時代の帝釈峡人が今の日本人に非常によく似ているという発見は、日本人成立論の

人類学にも、従来の学説に一つの改正と反省を強くうながすことになったのである。

 日本人は、何天皇がどうしたとか、英雄なにがしがこうしたというようなことを歴史と思って

いる。だがほんとうの歴史とは、無名の、多数の日本人がどういう生活をしたか,ということなのである。


 足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




 
太安万侶

茶畑の墓

 奈良県は、第二次大戦後の発展が、非常にめざましいところである。そのために県下の各地で

は町村合併が激しく、よた新しい道路をつけ、宅地を開発したりしている。

 そのなかでも奈良市は、戦前は人口七万くらいだった街が、今はもう二十万近くまでなった。

とくに、興福寺のある旧奈良市からだんだん西へ向かって発展しており、西大寺というところが

中心になろうとしている。そのおかげで、東の山のなかは、すっかり取り残されてしまった。

 たとえば田原の里の田原などというところは、崇道盡敬天皇と贈名された舎人親王の御陵があ

るだけで、昔のま の農村の姿をとどめている。それもここは丘陵地帯だから、大根畑や茶畑が

ひらかれ、その間に、秋は柿が真っ赤に実っていたり、春はレンゲやタンポポがきれいに咲いて

いたりする。だがパスもわずかな回数しか通ってないし、奈良の人といえどもふだんはまずいか
ない、かなり不便な土地だ。

 その田原で偶然に、茶畑から木炭ばかりでつくりあげている古い墓が見つかった。これが、
有名な太安万侶の墓だったのであ
る。 奈良県では以前から、いたるところの地下に、もの語ら
ずしてしかももっとも多弁
な歴史の証人が埋まっていることが、よくわかっていた。そこでとくに、
地面を対象
に絶えず仕事をする農業者と土木業者には、いろいろな機関や機会を通じ文化財に

ついての予備知識の講習が、ずいぶん徹底して行われていたと思う。まず、みんなで地下を守ろ
うということだ。飛鳥村など、
今でも簡単に道路工事などするのを反対するし、建築物を建てること
を許さないのは、そういっ
た心配りからである。

 ところが、問題の太安万侶の墓を発見したのは、地下の文化財とかその保護とかにはふだんは

まったく興味のない、おじいさんだったのだ。おじいさんは、たまたま自分の茶畑の手入れにい

って、崖のところにぽこっと穴があいているのを見つけたので、そっとのぞいてみた。ふつうだ

ったら自分の畑だから、いきなりひっかきまわすところだ。

 おじいさんは、最初はそれを、ただの炭焼き小屋の跡かと思った。炭焼き小屋の窯跡であれ

ば、残っている炭は乾燥すれば使える。そう考えて炭を何片か取り上げたところ、なかから1枚

の金属の板が出てきた。しかもそれには,金のメッキが残っている。おじいさんはびっくりし

た。こういうものがあるようではただの炭焼き小屋ではない、というので、すぐそのことを県庁

へ報告にいった。

 こういう行動をとったおじいさんは偉かったが、報告をうけた県庁のほうには問題がある。な

んとそれを、三日間も放っておいたのだ。地下に埋もれた文化財保護の大先達であるはずの奈良

県庁の態度としては、これはどうも感心しない。しかも発見されたものの重要さを考えれば、な

おさらのことだ。それはともあれ、おじいさんの話にもとづいてその穴を調査したところ、そこ

は火葬した人間の遺骨が葬ってある火葬墳であった。その遺骨はほとんど残っていな かったか

ら、たぶん木でつくった器に入れてあったのだろう。

 日本では、飛鳥時代から遺骨は桶に入れるばあいが多い。その実物は、奈良の元興寺などにた

くさん残っている。奈良時代でも、おそらく同じだったと思う。なかには上等の入れ物としてガ

ラスの壺、ややそうでないものには三彩というきれいな釉薬のかかった壺、あるいは素焼の壺な

どが使われている。それらの入れ物であれば遺骨は完全に保たれているが、田原の火葬墳のばあ

いは分解してしまっていた。

 しかし、わずかに散らばった火葬骨の上に、表を下に向けておかれた、死者の名前や経歴を書

いた墓誌銘が見つかった。

 墓標は、地上に建てて、誰の墓だということを外から知らせるためのものだ。一方、墓誌銘

は、墓のなかに入れておき、死の世界を司る神様に見せるための表札である。それは中国特有の

習慣で、当時のわが国でも他の文化とともに輸入され、まねたものだった。死の神様だから地下

にいる。そこで墓誌銘も下に向けて葬ってあった。

 田原の火葬墳では、そうした埋葬の様子がよくわかったし、しかも墓誌銘の錆を適当に落とし

てみると、意外な人の名前が出てきた。それが、都の左京四条に住んでいた従四位の下、太安万

侶だったのである。

 太安万侶という人は『古事記の序文を書いた人物だから実在を疑う学者はない。序文は、彼
稗田阿礼という、ものをよく知っている
人に聞いたことをここに記録する、といった内容だ。その
古事記の序文は、みごとな
漢文を駆使した実に名文で、当時でも最高のインテリでなければ書け
ないような文章
である。

 太氏は、今の奈良平野の真ん中辺、田原本という町の南のほうに住んでいた豪族だ。そのあた
りを昔は太村といったが、そ
こにある多神社は歴代太氏の正統の子孫が守っていて、現在でも
宮司の名は多さんと
いう。祖先は、神武天皇の皇子の,カムヤイミミノミコト だということになってい

る。神武天皇の皇子だとなると、実在かどうかわからないが、とにかく日本の天皇の血統で、渡来人
でないことを強調している。太というような一字名は、渡来人に多かったのだ。日本人は、一字名の
ばあい、よく下
「野」をつけるが、太氏ものちに「大野」になる。しかし多神社の宮司さんなどは、
今も古いま
まを残している。

 それはともあれ、この一族は早くから、大陸文明をよく受けとっていたようだ。というのは太

村のすぐ西、二上山のふもとを越えると大阪平野だから、むしろ大阪の港よりも大陸からの情報

は早く入ったところだろう。

 さてそこから出た安万侶という人は、宮中に仕え、遣唐使にも一度加わっているから、大陸文

明を現地で直接学んでいる。位は四位の下で今の局長くらいだから塗り高くはないが、インテ

リとして文字をもって仕えたとみえ、あの古事記編さんにたずさわる。編さんの長官は、のちの

崇道盡敬天皇の舎人親王だった。だがこれは行政的長官、いわばシンボルであって、実務は全

部、太安万侶がやったと思われる。

 この彼の墓の発見は、学者たちに大きな衝撃を与えることになったのである。

墓誌銘が教えるもの

 『古事記』を残すくらいだから、太安万侶がいたことはまちがいないのだが、昔から古事記その
ものに対して疑い製もつ説があった。

 その論拠の一つは、古事記をつくったということが『続目本紀』に書いてないとする。続日本

紀というのは、奈良朝の元明天皇から, 元正聖武,孝謙淳仁称德光仁天皇まで、七代の

天皇時代の毎日の記録である。古事記は和銅五年にできているが,その和銅四年の章に古事記撰

述の記事がない。古事記携述のことは、その序文に書いてあるだけなのだ。

 そこで、あんなものは後世につくった だ,偽書だというのである。とくに最近、ある大新

聞社から,古事記は平安時代の大同年間につくったもので奈良時代にはなかった、と書いた本が

出版された。

 そうなれば、太安万倡は困ってしまう。古事記は、彼が死んだあとにできたことになるのだ。

 まず、古事記の性格から説明すると、そもそもあれは一般公開の書物ではない。今の私たちが

手にするような、活字で読む本ではないのだ。これほど有名になったのは、本居宣長が『古事記

伝を書いたからで、それ以前は天皇家の秘本であった。天皇が天皇であることの自信をもつた

めの教科書なので、日本書紀』こそ一般に公開された歴史書だった。

 古事記がぜったいに偽晝でないこと 、文章が八十八音で書かれてあるのをみてもわかる。そ

れより少し時 が新しい『万葉集』は八十七音。私たち現代日本人は四十八音しか 音できな

い。最近までは五十音できたが、'もうワ行の発音ができない。

 もし、古事記が平安時代の偽書であるとするならば、平安期に五十音ができるから、たぶん五

十音に近い発音になっているはずである だが、「古事記」は、八十八音の古い発音をそのとお

り、漢字をより分け使い分けて書いてある。その点からしても、まちがいなく奈良時代初期の本

だ。

 では、太安万侶とのかかわりはどうなのか。古事記は、天皇に自信をもたせるための本であ

る。天皇自身も日本国家の独立というものを非常に念願していたはずだから、その気持ちを鼓舞

しなければならない。そのためには、日本にも中国に負けない歴史があるということを、中国の

史書をよく読んだうえで編さんする必要がある。

 そういう内容をもつと同時に、その序文をみると、まことに高級な、程度の高い漢文で書かれ

ている。ということは、古事記の編集者は中国やアジア、つまり当時の世界的知識をもった、相

当なインテリだったといえよう。

 太安万侶が、それにふさわしい知識人だったことはすでに紹介したとおりである。そんな彼と

古事記とのかかわりは、墓から出た墓誌銘が証明していると思う。

 太安万侶の生前の位は、続日本紀に書いてあるが、墓誌銘に記された位はそれより一級あがっ

ている。おそらくそれは古事記編さんの功によって、死んでから位が追贈されたものであろう。

現代では位階や勲章など死ねば簡単に追贈されるが、昔はよほどの功績がないとそういうことは

されなかった。

 また、その墓が発見された土地は田原といい、今の多神社が田原本にある。田原本が田原とい

うところのもとで、たぶん以前は同じ地名だったと思われる。そうすると太安万侶は自分の領地

というか縁故の地に、埋められていたことになるわけだ。

 彼の実在は、これらの点から考えても、もう動かしがたいものだといえ,るだろう。

 太安万侶の墓は、木炭でつくった小さなものである。これは大化改新の薄葬令に従ったまさに
四位という位にぴったりの大きさだ。

 ただ、興味深いのは材料に木炭が使われていることで、こういう例は従来どこにもない。しか

し考えてみれば、これは非常に賢明な方法である。木炭は永久に腐らない。中途半端に木でつく

ればだめだし、石でつくっても、その石をとりあげる者が出てくるだろう。こんどのぱあいも木

炭であったからこそ、遺骨も残れば墓誌銘も発見されたのである。新しい墳墓の例として、この

ような木炭墓が見つかったことも,考古学からみて大きな発見であった。

 一般の人々がなにも興味をもたない、遊覧地でも行楽地でもない畑の一画から,これほどだい

じなものが出てくる。とくに奈良県ではその確率が高い。

 奈良時代の天皇は、奈良の都の北側、いわゆる平城京の丘の上にみな御陵がある。したがって

奈良朝の人々の墓はほとんど、東は田原から西は生駒市辺までの、北側の丘の上に散らばってい

るはずだ。しかし今、誰の墓とわかっているものはほとんどない。しかもその丘陵には、電鉄会

社が新しい住宅地をどんどんつくり、なかにはドリームランドなどというものができたりしてい

る。それを考えると私たちは、せっかくの歴史の証人を闇から闇へ葬っているのかもしれない。

 その意味でも太安万侶の墓と墓誌銘の発見は、大きな教訓になったと思う。これまでにも各地

から、いろいろな人の名前を彫った墓誌銘だけが出ている。そのばあい、十分に注意して掘れ

ば、こんどの太安万侶のように、もっともっと当時の実在の人の墓が見つかるにちがいない。そ

のためにも私たちは、地下というものを、もっとだいじにしたいのである。

  
 足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




稲荷山古墳

古代武蔵の中心さきたま

 日本人は、民族のもっとも古い文献として『古事記』と『日本書紀』をもっている。だがそれ

らは天皇家の歴史を中心としたものだから、権力側に都合のいいことばかりが書かれており、
の真実性を疑う学者が多かった。それはたとえば、古墳のあり方だけを見てもいうことがで
る。

 前方後円墳は、すでに証明されたように古代の権力の象徴である。その権力の成長した後
裔が
今の天皇家だと考えられるから、逆にいうと、今の天皇家の祖先が前方後円墳とよばれる
形をつ
くったことになる。つまり前方後円墳は、天皇家の血族か,あるいは天皇家に接近してその
形の
墳墓をつくることを許された権力者の墓といえるだろう。

 その前方後円墳の分布を見ると、九州に卑弥呼の時代ではそういうものがない。

むしろ六世紀ころに今の宮崎県の南のほう、それから鹿児島県の大隅半島に、前方

後円墳ができる それにやや遅れて、北九州にもできだす。したがって九州には、卑

弥呼の影響がすっかりなくなったのちに、大和朝廷文化の象徴として前方後円墳がの

びていっている。それからすると、神武天皇が日向から大和へ遠征したという古典の

伝承とは、逆になってしまう。むしろ大和から日向へ古墳がいった、といえるくらい

だ。といっても神武天皇が大和から日向まで来た、という考古学上の証拠にはちょっとなりにくいが。

 さて、この前方後円墳は、東北のほうへものびている。仙台市の南、現在、仙台飛行場のある
岩沼付近の前方後円墳が、その北の端だと

いわれていた。最近は岩手県の一部にも少しあるのではないか、という説も出されている。とも

かく東北地方は当時「日高見国」とよばれているが、日高見国の開拓の中心は仙台平野であった。

 古代の伝承は、はじめにも書いたように、おそらく天皇家を中心とした開拓説話が主なものだ

ろう。したがって前方後円墳は、そこに記された天皇家の活躍舞台、つまり、古事記、日本書紀

のなかに地名が出てくるところには、ほとんどある。しかも、それが皇室を象徴する形であるな

らば、古事記や日本書紀の伝承も大きなまちがいではないと思う。

 そのなかで、関東地方の前方後円墳の分布には、一つの大きな特徴がある。北の方の群馬県に

もっとも古い古墳があるのだ。これにはわけがある。

 現在は東京が日本の都だから、私たちも関東地方の開拓は東京からはじまったと、つい思いが

ちだ。が、それは錯覚である。近世のはじめ徳川家康が東京の前身、江戸に入ったことはたいへ

んな冒険で、むしろ関東は鎌倉からひらけたところだった。家康が来るまでの江戸は、わずかに

江戸太郎重長という平氏の一族がいたところにすぎない。当時の武家政権にとっては、地形から

いっても江戸より鎌倉のほうが都合がよかった。なぜかといえば、鎌倉には東海道が通っている

からである。

 東海道は、今の茨城県、常陸が起点で、そこにあるのが鹿島神宮だ。関東の防人は「鹿島立

ち」といって鹿島神宮から出発していく。常陸、下総、上総、安房から海を渡り、三崎を経て鎌

倉、藤沢と相模の国を通って伊豆、駿河、遠江と西へいくから、今の東京を中心とした武蔵は、

この海の道、東海道に入っていない。だから『万葉集』にも、鎌倉などの歌はあるが江戸の歌は

ないのだ。

 江戸は東山道、のちの中山道に属する。木曽から木曽谷を通って信州へ出、信州から上野国

(今の群馬県) へ降りて下野国(今の栃木県)に進み、武蔵国(今の埼玉県) へ入る。その武蔵

の、いちばん南の端にあるのが江戸だ。これは東海道とは反対に、山の道である。したがって関

東平野の文化は、古墳時代になると最初、群馬県からひらけだす。その証拠に、前方後円墳は群

馬県にいちばん多いし、埴輪もほとんどがここから出ている。そのつぎが栃木県で、武蔵はもっ

ともあとだ。考古学では前方後円墳を前期、中期、後期と分けるが、武蔵には第三の、後期の古

墳しかない。

 たとえば多摩川の岸、今の二子玉川のところに丸山古墳がある。また上野公園にあるスリバチ
山公園にある丸山。
それらはいずれも、後期の前方後円墳である。

 昔は埼玉県と東京都が武蔵だが、東京都は実はローム層台地なので耕作がむずかしく、生産性

はいちばん低い。武蔵はむしろ今の埼玉県が主体であったから、古い時代には武蔵政争の舞台に

なった。その中心が今の行田市、かつての埼玉村である。埼玉は、武蔵国の魂、幸せの魂、幸き

魂からきたものだ。そういう地名ができるくらいだから、行田辺がやはり武蔵開拓の中心だった

らしい。東京に残る古墳などは、むしろその周辺地帯のものといっていいくらいだ。

 武蔵古代文化の中心、この行田市に、埼玉県は「さきたま風土記の丘」といって、古墳群を保

存するため、いわゆる史蹟公園をつくった。この風土記の丘は、埼玉ばかりでなく千葉県や宮崎

県などをはじめほうぼうにある。今まで点だった遺跡の保存を、こうした集団の形をとり、面で

保存しようというのだ。

 その一つ、「さきたま風土記の丘」に入っている古墳に、稲荷山という前方後円墳があった。

先年、ここから出土した一振りの鉄剣が、日本の古代史解釈に重大な鍵となったのである。
   足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之