傘堂地図

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 左甚五郎が造ったと伝えられており、大池の東畔にある。
一辺40cmあまりの方柱一本の上に、方形造の屋根がのせてあり、総欅作りの珍しい形で、本瓦葺の屋根の頂上に
瓦製の宝珠露盤をのせている。また、傘堂はぽっくり信仰が伝えられている。
 傘阿弥陀は石光寺(約500m)に、鐘は明円寺に保管されている。
 江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である郡山藩主本多政勝の没後、
その菩提を弔うため、延宝2年(1674)に独自に建立した「影堂」、「位牌堂」である。
 もとここに吊り下げられていた梵鐘には、「恋王の私情に勝(た)えず」「一恩永伝」等の言葉が刻み込まれ、独特の
君臣関係にあった。
 傘堂は、統家らが開いた大池により益を蒙った付近の新在家、今在家、染野の3地区の人々によってその後も守り
続けられている。

五智堂⇒⇒⇒

左甚五郎の作った傘堂 葛城市新在家

 熊野新宮神社の鳥居の傍らに傘堂がある。二間四方で中心に柱一本を立てあたかもからかさの様である。

これは大池の築造を記念するために作ったもので、当時の領主郡山藩本多正勝侯の位牌を上部に祀ってある。

その菩提のためである。心柱の左の脇には柱一本を添えて横木につけ、それに鐘がつるされていた。鐘の銘

に大池の記を刻んである。軒瓦に本の字を一字しるしてあるが、本多侯を意味している。もと屋根台扉等は

総金箔の蒔絵を施してあったという。この堂は延宝二年(一六七四)新池築造当時の奉行吉弘甚左衛門統家(元

禄九年八月廿日没)と藤懸玄達(延宝六戊午年霜相月廿八日没)が願主となり、両人の墓が傘堂横にある。

 傘堂は口碑に左甚五郎が建てたと言われている。左甚五郎は桃山時代の名人であるから時代が合わない。

しかし左甚五郎の弟子宗心が養子になっていて、元禄十五年(一七〇二)三月に没しているので恐らくは宗

心の作ではないかと思われる。




























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