石光寺地図
慈雲山石光寺(じうんざんせっこうじ・浄土宗) 當麻寺の1キロ北にある。寺伝によると、天智天皇の時代、 光を放つ土地があるので掘ったところ、光り輝く弥勒三尊の石仏が出てきた。 そこで勅願により役小角が堂宇を建立、石光寺と称したのが起こりという。 本尊 阿弥陀如来坐像 |
平成3年に弥勒堂建て替えの際に 発見された石造り弥勒仏は、 現存する石仏では日本最古 (白鳳時代)のもの。 |
過去、「染野寺」とも呼称された。 石光寺については、『当麻曼荼羅縁起』(13世紀)や、『元亨釈書』(1322年)など 、絵巻や文献史料のなかで、天智天皇発願の寺院と伝えられる。 現在も営みが続く境内には'細部の形状は異なるものの巨勢寺跡(御所市)や 本薬師寺(明日香村)のものと同形式の塔心礎があり、?仏や様ざまな瓦も採集 されてきた。 発掘調査で、金堂(現:弥勒堂)と塔跡が見っかっている。金堂の周辺からは、 絵巻などで語られる、日本でも最古級とされる石仏も出土した。 7世紀後半の創建と考えられ、現存するものとしては、市内最古の寺院である。 |
境内には折口信夫歌碑、 与謝野鉄幹・晶子の文学碑がある。 |
春牡丹、寒牡丹の名所として知られている。 |
この寺も中将姫ゆかりの寺で、境内に蓮糸綴織曼陀羅の糸を染めたという 染めの井があり、寺名も別称染寺という。 |
石光寺染寺塔跡地 | 塔の大心礎 |
我が国では他に例を見ないもので三段のくりこみの基底部 に一直線に三つの穴が並ぶ。 穴は舎利をおさめるためのもの。 天武9年(681)発願の本薬師寺東塔や養老2年(718) 遷造の薬師寺西塔の心柱の礎石と同じ手法ではないか といわれるが、基底部の穴のあたりが画然と異なる。 奈良時代前期の塔の礎石といわれる。 |
想観の沙(そうかん のすな) |
鐘楼 |
「砂を沙と書くのは、お釈迦様は沐浴されたガンジス河の沙に例えているからです。 阿弥陀経にはガンジスの沙の数ほどの数えきれない諸仏が弥陀を信じ極楽往生 を願う念仏の衆生を護念し給うくだりがあります。形は手前が方形、後方が円形 になっている。手前の方形は私たちの姿世界をあらわしています。すなわち相対 の世界、優劣の比較によって成る世界、執着の世界をあらわしています。そこには 励み喜びがありますし反面、苦悩もあります。諸行無常、栄故盛衰、どうにも超えら れない世界でもあります。方形すなわち四角の物体は一見、強く、安定した形にみ えますが崩れやすく角も欠けやすいものです。私たちの姿をあらわします。 円形すなわち球体は超えた世界、覚りの世界及び仏を意味します。絶対の世界、 壊れない世界です。柔軟に全てのことに対応できる智慧の姿です。」 |
白鳳時代、白鳳文化と天平文化(特徴)
文化史上・美術史上の時代区分の一。飛鳥時代の後,天平時代の前。大化の改新(645年)から平城京遷都(710年)までをいう。 |
建築史や美術史で、それまでとは違うスタイルが見られる時期として、飛鳥時代後半の7世紀から710年の平城遷都までを指す。素朴で清新な作風が特徴。インドや中国、朝鮮半島の影響を受け、仏像の体形や衣にも多様な造形が見られる。 |
飛鳥では、飛鳥寺をはじめとして、豊浦寺、川原寺、橘寺、山田寺など数多くの寺々が建立され仏都としての側面もあわせもっていた。在来の倭国の文化は、遣隋使・遣唐使がもたらした中国文化の影響を受けて、推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化の花が開いた。 |
白鳳期(乙巳の変・大化改新を経て)には新しい国造りが行われ、後期には我が国最初の本格的都城である藤原京が造営された。朝鮮半島の国々との 交流は盛んに行われ、大陸の文化が絶えずもたらされた。 藤原京及びその周辺には大官大寺や薬師寺、山田寺など壮麗な伽藍が建立され、寺院の造立は全国へと広がっていった。 |
白鳳文化 | 天平文化 | |
時期 | 645〜710年ごろ | 729〜749年ごろ |
特徴 | 朝鮮半島に加え、インドや初唐の影響を受けた文化 素朴で清新。 |
唐の文化の影響を強く受けた貴族中心の仏教文化。 国際性に富み、壮大で華麗。 |
代表的な作例 | 法隆寺 伝橘夫人念持仏 金堂壁画 興福寺 仏頭 薬師寺 金堂薬師三尊 東塔 高松塚 古墳壁画 |
法隆寺 夢殿 興福寺 阿修羅像 東大寺 法華堂不空羂索 唐招提寺 鑑真像 正倉院 鳥毛立女屏風 |
女帝を考える | 飛鳥時代とは | 遷都が遺したもの |
石神社 | 光明皇后施浴の伝説 | 十一面観音 |
飛鳥・白鳳 | 薬師寺東塔 | 當麻寺・弥勒菩薩坐像 |
高松塚とキトラ古墳 | 天然痘平城京に猛威 | 石位寺 |
當麻寺西塔 | 栄山寺円堂 | |
石屋戸は横穴墳墓 | 西明寺 隠れ菩薩 |
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