梨木神社地図

   
 明治18年(1885)に創建された旧別格官幣社で、明治維新の功労者三條実萬(さねつむ)公・実美(さねとみ)公親子を祀り、三條家の旧邸が、梨木町にあったことにちなんで名付けられた。
 実萬公は、文化9年(1812)以来47年間、光格仁孝孝明の三代の天皇に仕え、皇室の中興に尽くしたため、幕府と対立し、その圧迫により一乗寺に幽居したが、翌年の安政6年(1859)に逝去し、「忠成公」の諡号を賜った。実美公は、幕末期に尊王攘夷運動の先頭に立ち、明治24年(1891)に逝去し、正一位を贈られ、大正4年(1915)に父を祀る当社に合祀された。
 
 境内の一隅(手水舎)には、京都三名水の一つである「染井の水」がある。境内手水舎の井戸「染井」の水は京の三名水の一つとして有名である。
  平安京東端の東京極大路に沿って流れていた京極川の二条以北を中川と呼んでいた。付近の蘆山寺は紫式部邸跡といわれ、源氏物語でも貴族の別荘が多く建ち並ぶあたりと設定されている。「花散里(はなちるさと)」で右大臣の圧力が強まり、心休まらない源氏は花散里に逢いに出かける場面で「中川のほどおはしく過(す)ぐるに」とあるところから、花散里邸はこの辺りと推定されている。花散里は姉の麗景殿女御(れいけいでんにょうご)と住んでいた。また「帚木(ははきぎ)」では、光源氏が方違(かたたが)えで紀伊守邸を訪れ、空蝉に出会う場面があるが、このあった場所でも中川である。「蜻蛉日記」の作者(藤原道綱母)も中川の近くに住んでいた。