蘆山寺・慶光天皇陵地図

 元三大師坐像
 御前立鬼大師像(おまえだち)  
 彫刻木造阿弥陀如来(重文)
     〃 両脇侍坐像(重文)
 日本廬山と号する天台系円浄宗の大本山である。
 当時は最初、天慶元年(938)慈恵大師良源(元三大師)が北山に開き、興願金剛院と称したが、寛元3年(1245)、
法然上人に帰依した住心房覚瑜によって船岡山麓に復興され、廬山天台講寺と改められて、
円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。法然⇒
その後、後醍醐天皇の勅願寺となったが、応仁の兵火に遭い、天正年間(1573〜1592)、当地に移った。現在の堂宇は、
天明8年(1788)の天明の大火による炎山以後のものである。  
 なお、年中行事として、鬼の法楽(ほうらく)と呼ばれる節分会の悪疫退散の行事(2月3日)が有名で、赤鬼を先頭に、
青鬼、黒鬼が法螺と太鼓に合わせて踊り、福豆や餅に打たれて退散して行く。  鬼の法楽⇒⇒⇒
 当地は藤原兼輔(かねすけ)の邸宅跡でひ孫の紫式部が宅跡で源氏物語執筆の地と伝えられ、本堂前の「源氏の庭」には「紫式部邸宅址」の石碑が立っている。
 境内には慶光天皇陵(追尊天皇)がある。
この寺は皇室の帰依が厚く皇子、内親王などの墓所である。
慶光天皇は第113代東山天皇の皇孫である。
 豊臣秀吉が造った御土居の東端であり遺構が残っている。
  この寺には、おみくじを発案した比叡山中興の祖、元三大師坐像、明智光秀が肌身離さず戦場にも持参したと伝わる地蔵菩薩像がある。
 元三大師良源が変身したと伝わる鬼大師像(おにだいし)がある。
頭に如意宝珠(にょいほうじゅ)を載せた鬼の顏は、笑っているのか怒っているのか自分の心の様子が分かるといわれる。
 鬼大師には伝説がある。天台の高僧、元三大師良源は宮中の女性らに注目される美男だったが、或る時、女官たちに招かれて酒席で突如鬼となった。
邪念を捨てよと、自らの姿で示したのだという。
   
 
 
 お前立鬼大師像
(拝観の手引より)
蘆山寺紫式部邸     

廬山寺は天高浄宗の大本山で,天慶元年(九三八)、

比叡山第十八世座主元三大師良源(慈恵大師)が京都の

北、船岡山南麓に開いた與願金剛院に始まる。寛元三年

(一二四五)法然上人に帰依した住心房覚瑜上人が出雲路に

廬山寺を開き,南北朝時代にこの二ヶ寺を兼務した明導照源

上人(一三六八)によって廬山寺が與願金剛院に統合される

この時以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、

戒、浄の四宗兼学道場となる

その後、応仁の乱の兵火に遭い、又元亀二年の織田信長の

比叡山焼き討ちにも遭遇するが正親町天皇の勅命を受け

天正元年(一五七三)現在地に移転する。

当地は紫式部の曽祖父にあたる中納言藤原兼輔から叔父の

為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であったそれは鴨

川の西側の堤防の西に接して営まれていたため「堤邸」と呼

ばれ,それに因んで兼輔は、「堤(つつみ)中納言」の名で知られている

紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた「旧い家」で一生の大

部分を過ごしたといわれ,この邸宅で藤原宣孝との結婚生活

を送り、1人娘の賢子(大弐三位)を育て、『源氏物語』を

執筆したのである


現在の本堂は、宝永五年(一七〇八)、天明八年(一七

八八)と、世にいう「宝永の大火」・「天明の大災」で相つい

で焼失後、寛政六年(一七九四)に光格天皇が仙洞御所の一
部を移築し、,女院閑院宮家の下賜をもって改装されたものである。
明治維新までは
御黒戸四箇院、即ち、宮中の仏事を司る寺院が
四ヶ寺(廬山寺、二尊院、般舟院、遣迎院)あ

り、その中の一つであった。明治五年九月、太政官布告を以

って総本山延暦寺に附属する。昭和二十三年(一九四八)元
の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至る。

天台宗中興の祖として名高い良源は第十八代天台座主であ

り、比叡山の諸堂諸坊の復興に尽くし僧達の綱紀粛正、修学

奨励に勤め、朝廷からの信頼も厚く、内裏にも頻繁に招かれ

た。一条天皇よりその徳を称え、慈恵大師の諡号を賜ること

となる。また正月三日に亡くなったため、元三大師の別名を

持つ。

良源はその深い学識、政治的手腕、常人離れした霊感があ

ったため、亡くなってからは、人々から神仏と同様に崇められ、
元三大師信
仰が生まれることとなった。

宮中などで数々の逸話から、鬼大師・,魔滅大師(豆大師) ・角大師など

様々な異名で知られるところとなり 災難や疫病除けのため、異形の姿の大

師の護符を家に貼る風習が今にも伝わ っている。また観音籤といわれる日本

の「おみくじ」の原型を考案したとも伝わっている。
(拝観の手引より)
























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