礼拝場が東西南北にあり、その中心に神殿がある。四方から礼拝が出来る。 ここには、お社はなく神殿の真中を「ぢば」といい、ここに親神天理王命 (てんりおう)が鎮まる。そこに六角形の台の形をした「かんろだい」 が据えられている。このかんろだいを目標(めどう)として、礼拝する。 |
教祖殿が神殿の北にあり、教祖(おやさま)中山みきが身をかくしたところとなっている。 ここは東西の回廊で結ばれており、手前から御用場・合殿・教祖殿と分かれていて、 御用場と合殿から教祖中山みきを礼拝する。 |
天理教は教祖(おやさま)・中山みきにより、1838年に開かれた。神殿は、「ぢば」を 中心に、四方に建てられている。この「ぢば」を訪れることは、人間の故郷に帰るという 意味から「小ぢば帰り」と呼ばれている。 神殿は1年365日24時間開放されている。 |
地図 |
施設 文教施設として、天理大学、高等学校(全日制・定時制)、中学、小学校、幼稚園のほかに、天理教校とその付属高校。 天理大学の付属施設として、図書館と参考館(博物館)がある。 病院として、現代医学の粋を集めた医療設備をもつ「憩の家」病院があり、ベット数は1000床ある。 ここには、天理看護学院、天理医学技術学校といった付属校も設けられている。 |
開花予定 | 桜名 | 地図 |
3月初旬~下旬 | アタミザクラ | アタミザクラ |
3月中旬 | エドヒガンザクラ | エドヒガンザクラ |
3月下旬 | プリンセス雅 | プリンセス雅 |
3月下旬 | シダレザクラ | シダレザクラ |
3月下旬~4月初旬 | 布留川河川敷 | 布留川河川敷 |
3月下旬~4月初旬 | ソメイヨシノ | ソメイヨシノ |
4月中旬 | ヤマザクラ | ヤマザクラ |
4月中旬 | 八重ザクラ | 八重ザクラ |
天理教教祖 中山みき
天理教の教祖中山みきは、寛政10年 (1798 )、大和国山辺郡西三昧田村の前 川家の長女として生れました。|司郡庄 屋敷村の中山家に嫁ぎ、美しい心と善 行で人々から敬愛されていた彼女が、 神の啓示をうけたのは41才の時。これ が天理教の創始といわれています。 天理教の教えは、すべての人々が病 気を知らず悩み苦しむことのない“陽 気ぐらし”の実現を目指しています。 貧しい人々への施しに家財を傾ける みきの行動は、最初人々に理解されず 後には世間から激しい迫害干渉を受け ました。けれども、どのような境遇に あっても常に明るさを失わずに、人々 の幸せのために力を尽くしたみきの生 き方こそ、陽気ぐらしの手本といえる のではないでしょうか MoTTo てんり より |
天理教教祖130年祭⇒⇒⇒ | ||
黄葉のイチョウ並木⇒⇒⇒ | ||
天理教本部周辺の銀杏並木⇒⇒⇒ | ||
天理教本部周辺の風景⇒⇒⇒ | ||
天理教本部前⇒⇒⇒ | ||
天理教本部から石上神宮へ⇒⇒⇒ | ||
天理教本部の枝垂桜⇒⇒⇒ | ||
全動画⇒⇒⇒ | 天理から桜井の順⇒⇒⇒ |
土面 岩手県岩手郡雫町鴬宿 縄文時代晩期 |
土偶 青森県三戸郡三戸町 梅内字沼沢 縄文時代晩期 |
土面
岩手県岩手郡雫石町鷲宿 縄文時代晩期 土面は縄文時代後期から晩期 晩期になると亀ヶ岡文化に円形をした遮光器士偶のような眼をもった土面 |
岩手県九戸郡軽米町長倉 縄文時代晩期 |
土偶 岩手県軽米町 縄文時代晩期 |
土偶 秋田県阿仁町 縄文時代晩期 |
土 偶 土偶は縄文時代を通じて使われ続けた、時代を代表する祭りの道具である。時期や地域によって特徴が異なるが、い ずれの場合も人間とは考えづらい奇怪な顔つき、体つきである。展示品は、 縄文時代末に東北地方で生まれた「サン グラスをかけた土偶」、遮光器士偶である。はじめは名のとおり目が異様に大きく、体に派手な文様があったが、 次第 に目が小さくなり、体の文様は簡単になった。 |
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遮光器土偶 縄文時代晩期に東北地方に亀ヶ岡文化と呼ばれる華麗な文化が華ひらく。 亀ヶ岡式土器のほか、 土製品や石製品、 遮光器士偶とは、横長の楕円の目が顔の大半を占める奇怪な容貌の土偶で、 この目の中央には、一線が横に引 遮光器とは極北の民族が用いる横に細いスリットの入ったゴーグルで、雪からの反射光を防ぐためのものである。 しかし、遮光器土偶は時期が下ると、 その特徴を失ってゆく。大きな目は縮小し、 体部の文様は簡素化し、施文され 遮光器土偶はこれまでに約2000個体が出土しているという。多くが壊された状況で出土し、中には中空の大型土偶の |
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土偶は1万年以上前の縄文時代草創期にはすでに現れている。最古の土偶は三重県松阪市の粥見井尻遺跡から 土偶が我々のよく知る姿となるのは縄文時代中期になってからである。この時期にはしっかりとした顔や手足が表現 また、体部も立体的となり、自立することができるものも現れ、各地に30cmを超える大型品がみられるようになる。有名 これまでに出土した土偶は15,000点ともいわれるが、その大半は破片で出土したものであるため、意図的に壊された その役割についてはこれまでに、玩具や護符、 神像、 多産·豊穣の祈願のほか、病気平癒を祈念してその部位を壊 |
注口土器 藤株遺跡 秋田県鷹巣町 |
縄文土器
縄文土器のなかで最も古くからあり、 数も多いのは、煮炊 きに使う深鉢である。 後に盛りつけ用の浅鉢や液体用の壷、 注口土器などが加わった。土器の表面には用途に関係のな い装飾や文様が施された。装飾や文様は時期や地域によっ て特徴が異なり、隣り合う地域では互いに影響を与えあっ て新たな特徴が生まれることがあった。一万年にわたる縄 文時代のはじめから終わりまでの、 各地の土器を並べてみ ると、実に多様である。 約13000年前、日本列島で初めて土器が作られた。縄文時 らしい造形の土器を作り、 独特の祭りの道具を生みだして |