白村江の戦、「日本」について

日本と唐·新羅の連合軍が戦った白村江の戦い(663

年)の後,唐側の使者として665年に来日したことが

「日本書紀」に記される百済人、祢軍(でいぐん)の
墓誌が中国で見つ
かった。
その中にある「日本」
の文字が、「最古の国号」と

して注目されるが、事はそう単純ではないようだ。

(文化部早川保夫)


発見した中国·吉林大の王連龍副教授は、2月に明治大

(東京)で開かれたシンポジウムで、拓本や実物の写真を

披露した。氏によると、墓誌は縦横59cm厚さ10cm。個人

の所蔵で、出土地は不明。祢軍は613年に百済で生ま

れ、660年の百済滅亡時に唐へ投降、678年に没した

ことなど、その生涯が、文学的な修辞を凝らした884字

の漢文でつづられている。

中国·洛陽大に保管される祢寔進(しょくしん・672年没)の墓

誌との比較から、祢軍は祢寔進の兄であることが判明。王

氏は「文字の書法や内容などから、偽造や模刻ではない」

と断言する。2人の墓誌に埋葬地として記される中国·西

安の家族墓から2年前、寔進の子と孫の墓誌も出土してい

る。

祢軍の墓誌で注目されるのは、「于時日本餘噍 ・・・
(□は欠損)の部分。
□桑」は筆画などから,日本の異称
でもある「扶桑」と
される。王氏は「 (白村江の

戦いで敗れた)日本の生き残りが本国に逃れて、誅儇を

避けている」という意味主張。シンポジウムで、気賀

沢保規·明治大教授(中国史)も「国号として理解できる」

と賛意を示した。

だとすれば、7世紀後半の天武·持統両天皇の頃や, 7

01年の大宝律令制定前後など諸説ある、「日本」という

呼称の成立時期をめぐる論争に大きな影響を与える。
ただ
シンポジウムでも一部紹介が あったように、
異論が出ている。

東野治之·奈良大教授(日本古代史)は「『日本』は中

国から見て日の出るところを意味し、新羅を指して使われ

ることも珍しくない」「『扶桑』も、東方の神木や東の仮

想国を指す用語としても使われていた」と反論。その上で

該当部分を「『日本 』は百済の残党の活動,『風谷・・・』

は高句麗が唐の侵攻に備える様子を記しているのでは」と

考える。

中国·鄭州大の葛継勇副教授も「『日本』と『風谷』

『扶桑』と『盤桃』は対句で、ともに東方を指す言葉。抵抗

する百済の残党のことを指している」 として、国号説には

否定的だ。

墓誌には、祢軍が日本に派遣されたことを述べていると

みられる部分もあるが、そこには「日本」の語を用いてい

ない。他国の名がないのも疑問だとの声もあり、国号か否

かについては慎重な議論が求められる。

一方、田中俊明·滋賀県立大教授は、朝鮮古代史の立場

から墓誌の価値に注目する。

祢氏では、祢軍のほか、百済王を連れて唐に投降した祢

植が智れているが、「祢寔進の『寔』は『植』に通じ、

祢植と同一人物と考えられる。2人の祢氏の墓誌は百済

史を考える上でも大きな発見だ」と評価する。

墓誌には、祢氏の先祖が「(中)華と同じ」で、「4

世紀初めに中国で起きた争乱を避けて東に移った」とあり、

中国からの渡来人だったと記される。祢氏一族の墓誌は、

日本にとどまらず、百済の滅亡や東アジアの交流を考える

上で一級の史料といえる。さらなる研究の進展と、活発な

議論が期待される。
2012-3-7  読売新聞


 


新発見の祢軍墓誌の拓

本(部分)。右の行の

上部に「日本」の文字

が見える










金峯山寺

●金峯山と金峯山に

金峯山(きんぷせん)とは、奈良県の吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る一帯を指

し、古く飛鳥時代から聖地として知られていました。白鳳年間(七世紀後半)、修

験道を始めた、役行者(えんのぎょうじゃ)は、この金峯山で修行され、山上ヶ岳に

おいて、人々を迷いや苦しみから救い,悟りの世界に導くために金剛蔵王権現を祈

り出されます。そして、そのお姿を桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建

ててお祀りされました。これが山上山下の蔵王堂のおこりであり金峯山寺の始まりです。
以来今日
まで、金峯山は、修験道の中心的な道場として、多くの修行者、宗教者が
宗派を超えて入山修行して
います。まさに、日本の心の原点。

自然を敬い、神様も、仏様も大切にする心は、今も正しく受け継がれています。
また、役行者が蔵王
権現のお姿を桜の木に彫刻したことから、桜はご神木として保護、

献木され、吉野山は日本を代表する桜の名所となりました。
現在の
金峯山寺は、金峯山修験本宗の総本山であり、この金峯山寺を含む
「紀伊山地の霊場と参詣道」はその「文化的景観」の価値が認められ、二00四年、
ユネスコの世
界文化遺産に登録されました。


●蔵王堂(国宝)

金峯山寺の本堂、蔵王堂。重層入母屋造り、桧皮葺き。高さ三十四メートル、四

方三十六メートル。安土桃山時代に建立された大きなお堂です。今回、特別

開帳されるご本尊、金剛蔵王権現三体のほ多くの尊像を安置しています。

●本尊金剛蔵王権

秘仏·金剛蔵王権現像は、天正二十年(一五九二)の蔵王堂再建以来、蔵王堂(国宝)

のご本尊として四百数十年にわたり鎮座されている日本最大の秘仏です。金剛蔵

王権現の右手に持つ三鈷は悪を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る

剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿を現されていま

す。さらに、背後の赤い火炎は仏様の偉大なる智慧、身体の青黒色は仏様の深い

慈悲を現しています。三尊の全身は、ことごとく悪魔を払う怒りの形相を現されて

いますが、それは、釈迦如来、千手観世音菩薩,弥勒菩薩を本来のお姿とする変

化身です。三尊は、それぞれ過去、現未来の三世にわたって私たちを守ってくだ

さる守護仏でもあります。

●蔵王権現本地堂

平成12年、役行者1300年大遠忌記念事業として建立された新堂。
蔵王権現の本地仏釈迦·千手観世
音·弥勒の三尊をお祀りしている。

●南朝妙法殿

後醍醐天皇の行宮となった実城寺(金輪王寺)跡に建立されており、
南朝四天皇並びに忠臣
の霊を祀る。本尊釈迦如来像は重要文化財。

●佛舎利宝殿

昭和42年、インドのガンジー首相よりお釈迦様の御真骨を拝戴し、
ここに奉安している。

●仁王門(国宝)

重層入母屋造り、三間一戸の大楼門で、棟の高さ20.3m、桁行12.3m、梁間7 m

の我が国屈扌旨の山門である。

●脳天大神龍王院

五條覚澄前管長(脳天菩薩僧)が藏王権現の霊示を受けて建立した。滝行場、
百度行願道場が整備
されている。

●宝泉坊

脳天大神龍王院の少し主流に位置し、水子地蔵尊を本尊をする。

大峯山寺(本堂:重要文化財)

 大峯山の中心である山上ヶ岳の山頂にある寺です。明治初年の神仏分離以前は金

峯山寺の山上蔵王堂と呼ばれていました。

この寺は毎年5月3日から9月23日までの間だけ開かれ、本堂内には中央に金剛蔵王権現

右側に役行者像が2体祀られています。金剛蔵王権現は、役行者が山上ヶ岳で苦行

の後に感得した日本独自の仏で修験道の本尊とされています。

玉置神社(社務所及び台所:重要文化財)

 熊野から吉野に至る大峯奥駈道の10番目の靡(拝所)として行者の往来も盛んだった

玉置山の頂上近くにある神社です。重要文化財の社務所(元高牟婁院)には狩野派の

筆による極彩色の杉板襖70枚があり、この襖全てが一枚板でできています。境内には

天然記念物に指定されている神代杉·常立杉など樹齢千年を超える巨杉群があります。

吉野山((史跡 名勝)

 大峰山脈の北端に位置し 東西を急峻な谷に挟まれた馬

の背のような尾根LE Y金峯山寺の寺内町としで発展しで

きた地域です。役行者の開山以来,修験道の聖地とじて信

仰を集め源義経と静御前の悲話,後醍醐天皇をはじめと

する南朝の哀史など数多くの歴史の舞台となりました 。ま

だ修験道の本尊蔵王権現の聖杰として桜の植樹が盛ん

に行なわれたことから、平安時代以降、我が国屈指の桜の

名所としても知られています。


世界遺産に登録された

霊場『吉野·大峯」(紀伊山地の霊場と参詣道)

  紀伊半島の南半分に広がる紀伊山地は、神話の時代より神々が鎮まる特

別な地域とされてきました。その結果、起源や内容を異にする「吉野·大

峯」「高野山」「熊野三山」の三つの霊場とそこに至る参詣の道、あるいは修

行の道が生まれ、都をはじめ全国から多くの人々が訪れるところとなりま

した。なかでも吉野·大峯地域には、日本古来の山岳信仰に外来の仏教、道

教、陰陽道などが融合した我が国独自の宗教「修験道」が生まれ、皇族貴族

から一般庶民に至るまで広く信仰を集め、我が国の文化の発展と交流に大

きな影響を及ぼしたのです。

その修験道の文化が今も色濃く残る吉野·大峯地域を含む「紀伊山地の

霊場と参詣道」が、ユネスコの世界遺産に登録されました。金峯山寺、吉水

神社、吉野水分神社、大峯山寺、玉置神社の指定文化財建造物や、桜に彩ら

れる史跡名勝吉野山,山伏の修行の道である史跡大峯奥駈道が、吉野大峯

地域におけるその中核的資産とされています。これらは、世界でも類を見な

い貴重な資産として価値の高いものなのです。

大峯奥駈道(史跡)

 紀伊半島の脊梁·大峰山脈の稜線伝いに続く修験道の修行の道です。 北は吉野から南

は熊野まで約170kmにも及ぶこの道には、75箇所の靡と呼ばれる拝所や行場が設けられ

ています。修験者(山伏)にとって、大峯奥駈道は曼荼羅の世界であり、最極の修行道場

とされているのです。

 修験道の祖、役行者が開いたとされる.修験者の修行の道。
古来より奥駈けといわれる修行が行
われ、随所に行場が設けられている。
吉野山から熊野まで
山上ヶ岳、大普賢岳、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳など、山々の

尾根が連なり、雄大な自然に包まれた心の道。


熊野本宮大社(重要文化財)

 速玉大社(新宮)と那智大社とともに熊野三山として信仰を集め、平安時代には王侯貴

族の参詣も多く、“蟻の熊野詣で”と称されるほど多くの人々で賑わったところです。また、

大峯奥駈道の第1番目の靡き(拝所)として奥駈修行の南の起終点にあたり、明治初年

までは神仏混淆の修験道の道場として栄えたところでもあります。

熊野参詣道小辺路

 高野山と熊野三山の聖地を結ぶ道。

伯母子峠、果無峠など峠越えの古道に、石畳が良好な状態で

遺る。小規模な寺院、宿舎の遺跡、道標などが当時を偲ばせ、

沿道の沢山の石仏が道行く人の安全を見守る。











今井町と自治・歴史・街並み

今井町と自治
 今井は昔、興福寺の寺領であったが(至徳3年(1386年)興福寺一乗院文書)、中世、永禄年

間(1560年代)に突如として現存の今井町は生れた。

それは今西家の祖先川井権兵衛清長がその一族十市氏(竜王城)の落城後郎党と共に今井へ

やって来た時期である。

街の周囲に堀をうがち、白く厚い壁で町を覆って自衛し、一向宗と結んで時の権力者織田

信長と闘った時期に合致する。

信長によって武装は解除されたものの自治権を残して、それまでにも深い関係のあった海

の堺と同じく陸の今井として栄えた。

徳川時代になって、世の中がおさまるにつれ高度の自治を展開したので徳川幕府は今井を

町として認め、江戸、大阪、京都、奈良と同様に、惣年寄、町年寄をおき町制にあたらせた。

今井町に惣年寄制がしかれたのは慶長年間(1600年頃)で初めに川井与次兵衛(後改め今西

氏)、河瀬入道兵部房(後改め今井氏)、尾崎源兵衛、後上田忠右衛門、を加えた。

 今井の地名は至徳三年( 1386)の興福寺一乗院の文書にみえるが、今井町の成立は戦国の

世、天文年間(1532-1555)この地に-一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町を
建設
されたことに発する。一向宗の門徒が、今井に御坊(称念寺を開き、自衛上武力を養い、
濠をめぐ
らし、都市計画を実施した。永禄十一年(1568)織田信長が、足利義昭を擁して上洛以来、
本願寺も
反信長の旗を立て、寺を中心とした城塞都市の形態を整え、抵抗したが、天正三年
(1575)今井
は、明智光秀を通じて信長に降服し、事なきを得た。かくして、大坂や堺などとも
交流がさかんにな
り、商業都市としての変貌をとげ、江戸時代には南大和最大の在郷町となって、
大いに栄えた。ま
た、堺と並び自治的特権が認められ、惣年寄、町年寄をおき町政にあたらせた。


町並み

 称念寺を中心とした寺内町今井は完全な城塞都市で、江戸時代初期の概略を考えると、東西

600m、南北310m、周囲には環濠土居を築いた戸数1100軒、人口約4,000数百人を擁する財力

豊かな町であった。町割は西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って
を渡り、外部の道路と連絡している。内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度
屈折さ
せてある。これは、敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢·鉄砲の射通しを不可能
にしたもので
あった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、江戸時代中頃
は富裕な商人の生
命、財産等を外部から守るというものに変貌した。

 現在も、今井町の大半の民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、しかも慶安3年(1650)

の今西家をはじめ、すぐれた民家が数多く建ち並び、今なお、町全体が戦国時代にできた寺内町
歴史の重さをずっしりと感じさせている。








今西家住宅

重要文化財今西家住宅

所在地奈良県橿原市今井町3丁目9番25号

重要文化財指定年月日 昭和32年6月18日

今西家は代々今井の惣年寄筆頭をつとめた家筋で、川井権兵衛清長(戦国の歌人大名十市

兵衛大輔遠忠もその一族)が永禄9年(1566年)より当地に移り住んで三代後、今井町の西

口にあることから元和7年(1621年)当時郡山城主徳川家康の孫松平氏にすすめられて以後

今西姓を名乗った。司法権、行政権を委ねられた当家は前述のように今井町の西口にあり、

西側は環濠となる。

前面の道は本町筋で、西端には堺に向かうかの如く西口門が開かれ番人小屋がおかれていた。

外壁を白漆喰塗ごめとし、大棟の両端に段違いに小棟を付け、入母屋造りの破風を前後く

い違いにみせ、本瓦で葺いて堂々とした城郭風の外観をもつ。

2階正面の壁には、向かつて右方に川の字を井桁枠で囲み川井氏の定紋を入れ、左には菱

形3段に重ねた当家の旗印を付けている。


内部は西側を広い土間とし、北面に大戸を開き、西北隅にシモミセを設ける。

居室は6間取、土間に添ってミセノマ、ナカノマ、ダイドコロ。

上手はミセオク、ナンド、ブツマとなる。

土間には柱を立てず広い空間として残し、 3本を中心とした豪壮な小屋組を見上げる

ことができる。

『棟上げ慶安参年参月廿参日』の棟札銘により、慶安3年(1650年)の建立であることが知ら

れる。今井町では最も古い民家である。また主屋東南隅に接続する角座敷も同期のもので

ある。

 














陵墓に眠るのは誰?

 陵墓とは、歴代の天皇·皇后の墓である「陵」と、皇族が

葬られた「墓」の総称だ。宮内庁のホームページによると、同

庁は現在、188の陵と555の墓、46の陵墓参考地(陵墓の

候補地)など、計899件を管理している。

 堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市·藤井寺市の古市古

墳群は、古墳が最も巨大化した5世紀を中心に築かれた、計88

基の古墳からなる。このうち、宮内庁が陵墓として管理してい

るのは46基。全長486mと日本最大の大山古墳(仁徳陵

墳) 、同425mの第2位の誉田御廟山古墳(応神陵古墳)を

はじめ、全長200対以上の前方後円墳10基は、すべて宮内庁

管理の陵墓古墳だ。
 宮内庁は一般の人の陵墓古墳への立ち入りを禁止している。

百舌鳥·古市古墳群が世界遺産候補となった際にも「引き続き

皇室の祖先のお墓として、地域と協力をしながら適切な管理を

行っていく」としており、登録が実現しても一般公開などは難

しそうだ。

 
 大阪府と地元3市
でつくる「百舌鳥.古市古墳群世界文化

遺産登録推進本部会議」は、宮内庁が天皇陵に指定する古墳を

「仁徳天皇陵古墳」「応神天皇陵古墳」などと呼んでおり、考

者や歴史学者から批判の声があがっている。天皇陵の指定

は幕末から明治にかけて、8世紀の「古事記」「日本書紀」

(記紀)や10世紀の「延喜式の記述を元に進められており、

現在の学術的な年代観とは矛盾するものも多いためだ。

 例えば、履中天皇陵に指定された堺市のミサンザイ古墳

埴輪の分析による年代では5世紀前半の築造とされる。一方、

履中の父·仁徳天皇の陵とされる大山古墳は5世紀半ばの築

造。「日本書紀」には父の6年後に亡くなったと記された履中

の墓の方が古い。

 5世紀後半の雄略天皇については、宮内庁指定の陵は円墳と

方墳を組み合わせたものだが、考古学者らの間では、宮内庁が

仲哀天皇陵とする全長約242げの前方後円墳、岡ミサンザイ

古墳を雄略陵とみる説がある。

 6世紀前半に没した継体天皇の陵とされる大阪府茨木市の

田茶臼山古墳も、埴輪の年代は5世紀半ば。約1·5キロ東にあ

る高槻市の今城塚古墳が真の継体陵であることが研究者の定説

になっている。
 陵墓古墳について研究している今尾文昭·関西大非常勤講師

は「『00天皇陵古墳』という呼称では、被葬者が特定されて

いるかのような誤解を海外の人にも与えてしまう」と指摘し、

「大山古墳(現、仁徳天皇陵)と、学術的な古墳名と宮内庁に

よる陵墓名を併記することを提案している。
 陵墓古墳の被葬者を巡っては考古学者の間でも諸説がある。

 白石太一郎·大阪府立近つ飛鳥博物館長は、誉田御廟山古墳

は平安時代以前から応神天皇陵として管理されていたとして、

「応神、仁徳の両天皇については、宮内庁の指定どおり、誉田

御廟山古墳と大山古墳に葬られた可能性が高い」とみる。しか

し同時に「考古学者が大王(天皇の旧称)の墓と推定する巨大

古墳を、記紀に記された歴代天皇に矛盾なく当てはめるのは不

可能」とも指摘する。

 一方、岸本直文·大阪市立大教授は、土器や馬具の研究から

古墳の年代を検討し、誉田山古墳は430年代大山古墳

は450年ごろの完成と推測。古事記から推定される歴代天皇

の没年や、中国の歴史書に「倭(日本の旧称)の五王」からの

使者が来たと記された年代を踏まえて、「誉田御廟山古墳は、

倭の五王のうち『珍』とされる反正天皇、大山古墳は同じく

『済』とされる允恭天皇の墓だった」との説を提示する。

 世界遺産への登録には、その文化遺産の価値が作られた当初

から変わらないという「真正性」が求められる。専門家にも

諸説がある被葬者名が入った呼称は、登録の是非を検討する海

外の専門家にどのように評価されるだろうか。

(編集委員·今井邦彦)


記紀からたどる困難か

 前方後円墳は3世紀中ごろ、日本列島各

地の首長らによる政治連合のシンボルとし

て成立したと考えられる。そのトップであ

る「大王」の墓は全長200mを超える前方

後円墳で、その築造場所は奈良盆地東部か

ら同北部、大阪平野へと移動した。こうし

た大王墓の移動は、おおまかには「古事

記」や「日本書紀」にみられる崇神天皇

降の歴代天皇の墓域の移動と一致する。

 しかし記紀の編纂(へんさん)が進められ

た7世紀後半から8世紀初めには、「大王」

に代わる「天皇」の称号が採用された。その

正統性を強調するために歴代天皇の系図を

再編し、陵もあらためて決め直したという

説もある。記紀の記述から、実在した大王

らの墓にはたどり着けないかもしれない。


読む

 『古代史研究の最前線天皇陵』(洋泉社)は、考古学、歴史学の専

門家が多様な視点で被葬者の問題や陵墓の管理体制の変遷を論じる。

『世界遺産と天皇陵古墳を問う』(思文閣出版)は百舌鳥·古市古墳

群の呼称問題などを通じて、陵墓の保存体制や公開のあり方を考える。

2017-11-26 朝日新聞







土舞台追加

推古朝に百済人味摩之(みまし)が日本に帰化し、「呉

(現在の中国南方地方)で伎楽を学びました」と摂政

聖徳太子に伝えたことから、太子は子ども達を集め

この土舞台で伎楽を習わせたと伝えられています。

舞台」は、日本最初の国立演劇研究所ともいうべき所

であり、日本芸能発祥の地といわれています。













安倍文殊院追加

 645年(大化元年)に安倍一族 の氏寺として創建された古い寺

院で、奈良時代の遣唐留学生安倍仲麻呂や平安時代の陰陽

師·安倍清明の出生の寺でもあります。本尊は高さ7mの日本最

大の文殊菩薩像(渡海文殊群像. 5体すべて国宝)で、鎌倉時

代の大仏師·快慶の作です。本三文殊第一霊場として知られ

ています。






長尾神社追加

 古代大和15郡の中の葛下郡の総社で

あり、伊勢神宮と同じ天照大神(あま

てらすおおみかみ)と豊受大神(とよ

うけのおおみかみ)がご祭神として祀

られています。竹内街道と横大路の起

点地の上、長尾街道や下市街道などの

主要な街道も交差する要衝地にある

ことから、交通安全や旅行安全の神

社としても知られています。三輪山

取り巻いていた大蛇の頭が大神神社

(三輪明神)で、その尾にあたるのが長

尾神社だという伝承もあります。 








新薬師寺拝観の手引き

 新薬師寺は、天平十九年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后

の光明皇后によって創建されました。

 聖武天皇は、天平十五年(743),動物植物ことごとく栄える世の中をめ

ざし、皆で力を合わせて盧舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽

宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。とこ

ろが、天平十七年(745)に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中

断して平城宮に戻られました。大仏造立は平城宮の真東の山麓(現在の東大

寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調をくずされました。そこで天皇の

病気を治すため、都とその近郊の名高い山、きよらかな場所で、薬師悔過(や

くしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来七軀を造立し、薬師経七巻を写経す

ることが命じられました。

 悔過とは、過ちを悔いるという意味で、薬師悔過は、病苦を救う薬師如来

の功徳を讚嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要です。これは、

悪いことが起こるのは、貪(欲ばり)、瞋(いかり)、痴(愚かさ)の三毒によって

生じる罪業が、穢れとなって人々の心に蓄積されるからで、身を清め薬師如

来の御前で罪を懺悔することによって、心の穢れを取り除いて悪いものを祓い、

福を招くことができるという考えです。

平城京の東の春日山の香山堂でも、僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、薬師悔

過が勤修されたと考えられます。これをきっかけに、光明皇后によって春日

山、高円山の麓に、新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺とも呼ばれた)が造営

されました。天平勝寶三年(751)に、新薬師寺で聖武上皇のための続命法が

行われ、天平勝寶四年(752)、東大寺で大仏開眼供養会が営まれました。

 新薬師寺の金堂には、七仏薬師(善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如

来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯

神通如来、薬師瑠璃光如来)がまつられていました。金堂は平安時代、応和二

年(962)の大風により倒壊し現存しませんが、現在の本堂の西方約150

メートルやや南寄りにあり、堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩二軀ずつ、十二神

将が並んだ東西に長いお堂(横幅約60メートル)だったことが、最近の発掘調

査で確認されました。その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園

東西の塔が存在したことが史料からわかります。鎌倉時代までに、東門、南門

地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修

理を繰り返し今にいたっています。現在でも、毎年一月八日と四月八日には

薬師悔過が行われます。

本堂(桁行七間 梁行五間 入母屋造 本瓦葺 奈良時代 国宝)

 奈良時代の建物です。当初は本堂ではなく、修法を行うためのお

堂だったと考えられます。本堂内には円形の土壇(高さ約90セン

チメートル、直径約9メートル)が築かれ、壇上に薬師如来坐像

十二神将立像が安置されています。柱は40本ありすべて円柱です。

天井を張っていないので、内側から建物の骨組みをじかに見ること

ができます。

薬師如来坐像(木造 像高約191センチメートル 
         奈良時代
~平安時代初期国宝)

 新薬師寺の本尊です。頭と胴体など体幹部分は一本のカヤの木か

ら彫り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木し、全体の木目を

合わせ、一本の木から丸彫りした様に造られています。光背には宝

相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸び、花の上の六

軀の小仏は本尊と併せて七仏薬師を示しています。薬師如来は東方

浄瑠璃世界の仏さまです。菩薩として修業していたとき、体から光

を出して世界を照らし出すこと、人々の不足を満たすこと、病気を

癒すこと、正しい道に導くこと、災難を取り除くことなど、十二の

願い事をたてました。右手は恐れを取り去る印相で、左手には薬壷

を持っています。目は大きく開いています。穏やかで力強く、ふく

よかな姿をされています。

十二神将立像(塑像像 高152~166センチメートル 奈良時代 国宝 
          一軀補作)

 薬師如来を信仰する人を守る、夜叉(やしや インド神話で森林

に住む精霊)の大将です。塑像は木の骨組みに縄を巻きつけ、そこ

に藁をまぜた粘土をつけて大まかな形を造り、紙の繊維と雲母をま

ぜた土で上塗りしたもので、眼球は紺、緑、褐色のガラスの吹き玉

で表現されています。表面は、青、朱、緑、紫に繧繝彩色(うんげ

んさいしき 同系統の色ごとに濃淡をつけて立体感を生みだす彩色

法)され、現在でも部分的に色が残っています。土壇の上で円陣に

取り巻いて、お薬師さまを護衛しています。

鐘楼(桁行三間梁行ニ間 二重 入母屋造 本瓦葺 鎌倉時代
       重要文化財)

 南門を入って右側、袴腰(はかまごし下層の末広がりの部分)が

白漆喰塗りの建物です。

梵鐘(銅製 口径104センチメートル 奈良時代 重要文化財)

 鐘楼のなかにかかっています。現在は行事のときや除夜の鐘にっ

きます。

南門(四脚門 切妻造 本瓦葺 鎌倉時代 重要文化財)

 境内の正面にある、新薬師寺の表門です。鎌倉時代後期に建立さ

れたと考えられています。

東門(棟門 切妻造 本瓦葺 平安時代後期~鎌倉時代初期

       重要文化財)

 南門より古く簡素な構造から、当初は四脚門ではなく二脚の棟門

だったと推定されています。

石仏

 南門を入って左側に多くの石仏があります。小屋のなか

こは地蔵菩薩三軀、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面の阿弥陀

名号石があります。一番小さな地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄

餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ、脇侍には冥界を司る

十王を配しています。

會津八一歌碑

 本堂の西南にあります。香薬師さまを詠んだ歌です。

    ちかづきてあふぎみれども

     みほとけのみそなはすともあらぬさびしさ

(大意)

近づいて仰ぎみても

仏さまは自分を見ておられないようでさびしい。







仏教受容めぐる論争

 
 大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対

(排仏)派の物部尾輿と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫と

もいわれる蘇我稲目が争った6世紀の崇仏論争。だが、実際

は仏教とは無関係の政争だった可能性が指摘されている。

 いわゆる崇仏論争(崇仏排仏論争)は2段階からなる。

「日本書紀」によれば552年、百済の使者から仏教の説

明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたこと

はない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇

我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神の

たたりを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて

礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け

入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てた

という。

 第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立

し仏像を祀っていたが,疫病が流行したため、尾輿の息子に

あたる守屋が敏達天皇に仏教受容をとりやめるよう進言。馬子

の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる。用明天皇即位後も

両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪族を率いた馬子

が守屋を討ち滅ぼし、寺院の建立が盛んに行われるようになっ

たという。

 だが、この話、そ(のまま受け入れるのは難があるようだ。

古代史研究者の加藤謙吉さんは、1989年の論文「中央豪

族の仏教受容とその史的意義」などで、崇仏論争について疑問

を投げかけている。大きな根拠が、排仏派のはずの物部氏の勢

力圏内で仏教が広く浸透していたとみられること。その上で、

物部氏に関する排仏の記述は後から付加されたものとみる。

 最近では、国学院大兼任講師の有働智奘さんが論文「蘇我氏

と物部氏の対立-仏教受容と神祇信仰」などで、「蘇我氏と物

部氏の対立の図式には、『排仏という意識はなかった」と

の説を提示している。

 有働さんによると、蘇我氏は仏教に信仰を変えたのではな

く、「建邦之神」を祭る神祇信仰(神道)の延長上で「仏陀」

を祭祀していた。その信奉方法について物部氏との間で争いが

あったとみられる。仏の住まいを焼いたり仏を流したりした行

為も神がいます世界(国)への帰坐を求める、祓のような祭

祀だった可能性があるという。

 一方、堺女子短期大教授の水谷千秋さんは「物部氏と蘇我氏

の間に仏教受容をめぐる論争はあったのだろうが、主因は政治

権力闘争だった」と推測する。「物部氏は海外交渉に関わった

経験も豊富で外来の宗教にことさら排他的態度をとったとは考

えにくい。政権内の主導権を争っていたところに仏教受容がか

らみ、対立が激化したのでは」

 一方、蘇我氏が仏教を信奉した理由について、従来は「蘇我

氏のルーツは渡来人だから」という説がささやかれてきたが

現在は否定する研究者が多い。

 蘇我氏渡来人説は、古代史学者の門脇禎二さんが唱えた. 5

世紀の百済官人とされる「木満致」と日本書紀などに出てくる

覈賀(蘇我)満智」が同一人物だったとみる解釈が根拠。だ

が、年代に開きがあることや「木」という名族の姓を捨てて

改名した理由が説明できないことから、「まったくの推測と

わざるを得ない」と水谷さん。

 では、蘇我氏のルーツはどこにあるのか。「古代豪族はその

出身地を姓として名乗る」との大原則に従うなら、最有力候補

地は大和国高市郡曽我(奈良県橿原市)だ。この地の曽我遺跡

からは、祭祀用とみられる大量の玉などが出土しており、仏教

推進派のはずの蘇我氏は神祭りも行っていた可能性が高い。

 他方、日本書紀に、馬子が「葛城県は元は私の本居。そこ

でその県にちなんだ姓名を名乗っている」と語ったくだりがあ

ることから、蘇我氏は5世紀代に天皇家の姻戚として権勢を誇

った葛城氏の末裔、あるいはその葛城氏と形の上での同族関係

を結んだ一族だったとみる研究者も増えている。

水谷さんは「当時の仏教は寺院建築や仏像製作といったもの

も含めて、先端文明の結晶ともいえる存在であり、蘇我氏が仏

教を推進したのも、むしろそれらの導入が目的と考える方が自

然ではないか」と話している。

(編集委員·宮代栄一)

蘇我一族の力示す古墳

 天皇家左しのぐ権勢を誇ったといわれる

蘇我氏。彼らの墓はどこにあるのだろう。

古くから 「馬子の墓では」と誉われてき

たのが、奈良県明日香村の石舞台古墳だ。

主体部は77トンもある巨大な天井石で知られ

る横穴式石室だが、土取りによって現在は

むき出しの状態。墳形はわかっていない。

 一方、石舞台古墳から400mほど離れた

場所にある都塚古墳も、やはり蘇我一族の

墓とみる説が有力だ。一辺約40mの方墳

で、墳丘を階段状に整形した、ピラミッド

とも見まごう特異な形状が特色。考古学者

の河上,邦彦さんのように、石舞台と都塚は

蘇我蝦夷の築いた「双墓」で、石舞台は蝦

夷の墓、都塚は入鹿の墓とする説や、都塚

を稲目の墓とみる説などがある。
葛城氏⇒⇒⇒


2017-4-9  朝日新聞






手向山八幡宮神輿悲願新調

 東大寺法華堂に近い高台にある手向山八幡宮(奈良

市雑司町)の祭礼「転害会」はかつて、盛大な祭りだ

った。50年ほど前にお渡り行列が途絶え、「御鳳輦(ごほうれん)」

と呼ばれる神輿(国重要文化財)は出番を失ったが

この秋、精巧に模した神輿が完成し、お披露目され

た。来年の転害会でお渡りを復活させる計画だ。


 25日午前10時、神社の拝殿から神輿が門を出た。高

さ約2 . 4 m、幅約1 . 2m黒漆塗りの骨組みが紫

の錦に包まれ、頂には金色の鳳凰。動くたび、金具がシ

ャンシャンと音を立てる。

 紅葉した東大寺境内を進む神輿を見守る人々は「き

らびやかでうっとりしぼすね」と声をあげ、カメラを

向けた。上司延禮宮司( 53 )は「祖父の代からの悲願な

ので感無量です」と目を細めた。

 転害会は、大仏造立を守護するため宇佐八幡宮(大

分県宇佐市)から勧請した八幡神を、紫の神輿で迎え

た故事に由来すると伝わる。

 いつかは神輿を復興したいと考えていた神社に数年

前、奈良の大工や塗師、表具師などの若手職人が協力

を申し出た。定められた神輿の形式を極力守りつつ、

重量を抑えるためヒノキの代わりにキリを使うといっ

た工夫も凝らした。

 木は2年近くかけて縮むのを待ってから使い、漆は

下地から上塗りまで12回塗り重ねた。塗師の樽井宏幸

さん=同市西木辻町=は「神輿を模す中で当時の

職人の美意識の高さを感じた。負けないように努力し

たことが勉強になり、楽しかった」と振り返る。

 お披露目では樽井さんら職人も担ぎ手に加わった。

大仏殿中門まで約500mを歩き、大仏殿に向かって

神輿復興を報告した。

 来年以降、10月5日の転害会で国宝·転害門まで練

り歩く計画を立てている。

上司宮司は「この神輿を一度は宇佐八幡宮へ『里帰

り』させることが次の夢です」と話す。 (古沢範英)
2017-11-30 朝日新聞










舒明天皇(段の塚古墳)

 日本の古墳文化は中国や朝鮮と異なり、墓誌や墓碑など

を伴うことがほぼないので、だれが葬られているかを直接

に知ることはできません。

 「日本書紀」や「古事記」があるではないかという人が

いるかもしれませんが、史料はおよその場所しか記しませ

ん。そのために、大きな古墳が付近に多くある場合はどれ

を当てるか、複数の古墳が候補になります。葬られるにふ

さわしい複数の人物があがることもあります。被葬者論は

議論が尽きませんが、候補となる古墳が唯一で、人物が!

人の場合は、被葬者を特定できることがあります。

 桜井市忍阪(おっさか)にある段ノ塚古墳は、それにあたります。
力な飛鳥時代前半の古墳が付近になく、舒明大王(天皇)

の陵墓とみなされます。宮内庁は押城内陵(うち)として管理して

います。

 舒明大王は、蘇我蝦夷らが推薦して大王の位に就いた田

村皇子のことです。葬地について、日本書紀は皇極2(6

43)年9月に滑谷岡(なめはざまのおか)から「押坂陵」に
改葬されたこと
を記しています。

 桜井市忍阪は、飛鳥時代の宮殿が次々と造られた明日香

村岡からは、直線距離で北東に約6キロ離れた場所にありま

す。明日香村八釣から桜井市高家、倉橋を通るルートが一

番の近道でしょうか。忍阪の集落の南方には、重要文化財

の「三尊石仏」で有名な石位があります。

 集落の間を東に緩やかに上る坂道が続きます。家並みが

切れて、ほどなく石段に行き当たります。石段を上ると、
見上げるような墳丘が突然、
現れます。外鎌山から尾根の

先端を使って、南向きに造られた終末期古墳です。文久修

陵後の墳丘は、南北77m、東西105mの範囲に及びま

す。以前から八角墳ではないかと関心を集めていました。

 1992、94年に宮内庁による墳丘の外形調査がありま

した。発掘ではなく、現況の観察を主とした調査です。そ

の結果、上下のふたつの部分からなり、下は方形、上は基

本が八角形になることが明確になりました。研究者により

呼び名が異なりますが、私は下を「方形段」、上を「八角

形壇」と呼んでいます。

 拝所の背後から方形段が始まります。段は上に向かって

3段分あります。江戸時代の人が「段ノ塚」,「段々塚」

などと呼んだのは、この形に由来したものでしょう。ちな

みに、幕末の史料には、子どもの疳症(かんしょう)」の
治癒を祈願す
る信仰の場所になっていたとあります。

 調査では最下段に終末期古墳の特徴である墳丘の表面に

石を張る貼石が帯状にあらわれていることが観察されました。
花崗岩で、大きなものは
1.5mもあります。私は以

前に訪れた時、柵越しに見えた石材の大きさに驚いた記憶

があります。貼石は東西約90m分が確認されました。本来

の裾はさらに外へ延びるでしょう。

 西端隅では、中央が尖り稜のある大石が組み合った状態

で見つかっていぼす。墳丘の曲がり角の稜線を強調したも

のでしょう。そういえば、方墳の石舞台古墳も角に大ぶり

の石を使い稜角が目立つように仕上げられています。

 表面観察でわからないところは、鉄の棒で地中を突いて

確かめられました。各段の斜面に貼石があります。南正面

に立てば、近世城郭と見まがうばかりの石垣があり、その

はるか上方に八角形壇がのっていたことになります。今は

樹木に覆われていますが、壮観な光景だったことが想像さ

れます。
2017-12-1朝日新聞

(関西大非常勤講師今尾文昭)

 今年の3月のことです。県立橿原考古学研究所は明日香

村川原の小山田遺跡が、一辺約70mの方墳になると発表し

ました。巨石を使った横穴式石室の入り口部分(羨門)の

痕跡が見つかり、規模を知ることができぼした。

 2014年に石張りの大規模な遺構が見つかって以来、

飛鳥で最大の方墳になると予測されてきぼした。それが確

実になり、名称も小山田古墳に改められました。最初の発

表に立ち会った一人としては、感慨深いものです。

未知の遺構をどのように考えるか。参考となったのが、

桜井市忍阪の段ノ塚古墳(現·舒明天皇陵)で使われた石

の種類とその積み方です。下が方形段、上が八角形壇。方

形段は3段で、各段の斜面には花崗岩の貼石が張られてい

ます。角には大石が積まれてます。角には大石が積まれて

稜線が明瞭です。これらの特徴について、前回に紹介しま

した。八角形壇部分に対しても、1992、94年の宮内庁

の現況報告があります。

 段ノ塚古墳の生け垣に沿って西側斜面に回ってみましょ

う。柵に付く西向きの扉付近から、方形段の最上段テラス

の上に造られた八角形壇の様子をうかがうことができます。

 壇は扁平で長方形の室生安山岩(榛原石)の板石を積ん

で築かれます。壇の裾まわりでは、小山田古墳も墳丘部分

に同じ種類の石材が使われています。

 この板石の外側の面をそろえ3~4枚分を重ねて高さ30cm
前後の垂直な面にします。宮内庁の報告書は「護石」と

呼んでいます。護石の上が壇(墳丘)の斜面です。横に長

方形の板石を水平に置き, 1枚ごとに少しずつ奥へずらし

ながら、階段状に積んでいます。小山田古墳も同様の積み

方でした。

 小山田古墳の土層の観察では、石材を積むごとに裏側に

土を詰めていました。段ノ塚古墳も恐らく同じ施工方法を

採っていることでしょう。つまり、二つの古墳は墳丘表面

を同じように見せることを意図して築いたと考えられます。

 さて、段ノ塚古墳が注目されるのは、壇が八角形になる

ことです。南側を中心に角とその部分に用いられた石材が

見つかっています。報告書では「隅角石」と呼んでいま

す。隅角石をホームベースのような五角形とした場合に、

その底辺に対する頂点の内角が135度の石材です。正八

角形の内角と同じですから、それを基本プランに壇が築か

れたことは確かだと考えられています

 ただし、南正面に推定4.3m幅で角を落とした隅切り

部分がありほす。厳密にはこの部分を短辺とする九角形で

す。ここには護石がなく、ほかの辺と様子が異なるので、

埋葬施設となる大型横穴式石室の入り口につながる部分と

みられています。

 壇の北半分は未調査ですが、試しに壇部分に正八角形

を重ねると、対辺間距離約48m、高さ約12 m、隅切り部分

を南正面とする八角墳に復元できます。

 飛鳥時代に大王墓は前方後円墳から大型方墳に変わり、

段ノ塚古墳からは八角墳になります。「日本書紀」によれ

ば、舒明大王(天皇)の改葬は643年です。蘇我蝦夷.

入鹿が討たれる「乙巳の変(大化の改新)の直前です。

舒明大王がそれまでにない八角墳に葬られたことに、どの

ような歴史的意味があるのか。今後の回で考えることに

します。八角墳⇒⇒⇒
2017-12-8  朝日新聞

(関西大非常勤講師 今尾文昭)







観心寺続き

歴史 

平安時代の観心寺

 空海、実恵、真紹によって継承された法燈はいよい

よ隆盛を極める。

 仁明天皇は信任厚い実恵の造営工事に対して、承和3

年(836), 官符(公式文書)を下して、寺地1500町および

宸翰縁起一巻を下賜された。承和7年(840)には当寺の

三綱(上座·寺主·維那の寺内を統率する三種の僧)が諸

檀越等に勧めて梵鐘を鋳造しており、この頃、三綱が

置かれるほどの大寺になっていた。

 貞観11年(869)には、朝廷の定めた官寺である定額寺

に列せられ、さらに貞観16年(874)には、嵯峨上皇の妃

橘嘉智子より御願堂修理料として壷井里(南河内郡)1町

5段が施入されている。

 元慶7年(883)の『観心寺勘録縁起資財帳』(国宝)によ

ると、当時の状況は、講堂(現金堂)、如法堂、護摩堂、

鐘堂、経蔵、宝蔵、僧房三棟、大衆院食堂ほか9棟等が

数えられ、寺領荘園には地元の河内国錦部郡ほか石川

郡、古市郡(大阪府東南部)、紀伊国伊都郡、那賀郡(和

歌山県北東郡),但馬国養父郡(兵庫県北東部)に及んで

いる。これらのことから朝廷の尊信が非常に厚かった

ことが理解されるのである。

中世の観心寺

 観心寺の塔頭の中院は真紹の創建するところで、後

に楠木家の菩提寺になった。寺伝によれば、楠木正成

は8歳から15歳まで中院において龍覚について仏道修行

に励んだといわれている。開基以来、天皇家との結び

つきの強かった当寺を仲介として、後醍醐天皇の行動

に楠木正成が参画して行くようになる。すなわち、天

皇の命を受けて笠置山に参上したのが元弘元年

(1331)、翌年には千早城に北条軍勢を引きつけ、その

間に足利、新田が、京都、鎌倉を倒して建武の新政が成立

する。正成は第一の功労者であった。

 元弘3年(1333)には、天皇は弘法大師作の不動明王を

宮中に迎えられて、悪病の平癒と義良親王(後村上天皇)

の奥州鎮護の無事を祈られる。

 後醍醐天皇は特に当寺の働きに感謝され、金堂外陣

造営の勅を出された。正成はこれを奉行し、従来五間

四面の建物が、この時に七間四面のお堂になったので

ある。正成自身も三重塔建立を誓願されたが、延元元

年(1336)足利謀叛のため湊川に出陣、そのまま不帰の

人となったので初層のまま現在に伝わっている。湊川

で戦死後、その首級が足利尊氏の命によって当寺に送

り届けられた。

 興国5年(1344)、鎮守社(訶梨帝母天堂)が焼失した

が、御神体が無事であったので後村上天皇は、正成の

長男正行に命じて社殿の復興をされている。その正行

も正平3年(1348),四条畷で戦死した。

 戦局不安の中、正平14年(1359)には後村上天皇は楠

木正儀等を従えて天野山より当寺に遷幸、塔頭惣持院

を行在所と定められ、これより約10ヵ月間、当寺で政

治を執られる。正平23年(1368)、天皇は住吉行宮にて

崩御、遺詔によって観心寺に葬られている。その後、

長慶天皇、後亀山天皇の庇護があったが、漸次衰退の

兆しが見られ、南北朝時代、戦乱の渦中にあった河内

の地は応永(1394~)の頃より畠山氏の内紛に端を発

した抗争で再び戦乱の地となっている。

 畠山氏の没後、織田信長の登場は当寺にとって大き

な打撃となる。つまりほとんどの寺領が没収されたの

である。次の豊臣秀吉は文禄3年(1594), 25石を当寺

に寄付したが、特に秀頼は、金堂や諸堂の修理を行

い、当寺の保護に努めた。

近世以降の観心寺

 江戸時代に入って寛永10年(1633)の洪水による堂舎

の破損は、寛永5年(1628)の金堂修理を中心として、目

覚ましい復興を遂げるが、この背景に、塔頭槙本院の

檀家に旗本甲斐庄がいたことが挙げられる。この時

期、徳川の圧迫から免れるため河内の寺院は槙本院と

本末関係を結んでいた。

 さて安永3年(1774),開基実恵に対し、後桃園天皇よ

り道興大師号が贈られたことは、実恵の実績が認めら

れたからであろう。

 しかし寺運は衰微し鎌倉時代末期、50余坊あった塔頭

も、安永年間には30余坊に、慶応年中には12坊になっ

 金剛の峰高く、菊水の流れ清らかな観心寺は開創以

来、たびたびの盛衰浮沈をくり返してきたが、多数の仏

像、建築、絵画、工芸品、文書等を現在に伝え、真言密

教の霊場として、また南朝ゆかりの寺として今も深い

信仰をあつめている。

金堂 (
国宝)室町時代初期

 七間四面、向拝正三間、屋根単層入母屋造本瓦葺

屋根の勾配は極めて緩かにして、外部の柱は梁桁など

皆丹塗を施す。内外陣を区別し、内部は精巧な仏画を

もって彩色され、真言宗独特の三壇構にして、両側障

板には室町期当山蓮金院々主長尊の筆になる金胎両界

曼荼羅、表面に四天王を分画し、平安期の遺風を残し

たものである。天井の格子造り、桝型欄間等精巧細緻

の刀痕をとどめている。様式は和様に禅宗様、大仏様

を応用したものであり、建築学上「観心寺様式」と称

してその典型的なものである。その一例は、須弥壇の

禅宗様繰形に和様の格狭間を併用したことなどに見ら

れる。天井は小組格天井、柱は総て円柱を用い、軒は

出組の一種(阿麻組)にして柱上斗栱は三斗である

が、その中間には唐様双斗を用い、向拝柱下、礎盤

大虹梁、繋虹梁、海老虹梁、大瓶束等、唐様の細部に

和様を混ぜ、妻飾りにも虹梁の上に双斗と三斗を混用

し、随所に禅宗様の美しい絵様、繰形を用いている。

 度々の修理が行なわれているが、火災に会わず、内

陣の諸仏も多数残している。現在の金堂は資財帖(国

宝)

にあげている講堂の後身に当たると考えられる。

 大阪府下最古の国宝建造物にして、建武年中、後醍

醐天皇が外陣を再建され、楠木正成がこれを奉行して

いる。又、慶長18年(1613) 、豊臣秀頼が修理の時片

桐且元を奉行としている。その後江戸時代、明治、昭

和の初め等たびたび修理し、現在の建物は昭和59年

(1984)に落慶した。






両界曼荼羅

 曼荼羅は「壇」を意味し、その壇には仏·菩薩が充満してい

る。そのありさまを観想することが、仏教で言うところの悟

り、である。昔、インドでは壇を築いて修法を行ない、修法が

済むと壇は破壊されたものであった。後にその主尊·諸尊が

図式化されたものが現在見ることのできる曼荼羅図である。

 両界曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つの図を

組にして呼んだものである。金剛界曼荼羅は九会から成

り、大日如来の智性を顕し、胎蔵界曼荼羅は十二院から成り

大日如来の理性を顕すもので、密教では最も重要な意味を持

つ仏画である。

観心寺両界曼荼羅は板にじかに描かれた非常に珍しいもの

であり、金堂内陣に左右相対して懸けられている。





天皇陵古墳 垂仁天皇陵 

 電車の車窓いっぱいに見える前方後円墳があります。第

11代の垂仁天皇の陵墓として宮内庁が管理する奈良市尼辻

西町の宝来山古墳です。風景をやり過ごし、近鉄大和西大

寺駅で乗り換えて奈良へ向かうと、電車は平城宮跡を横切

って進みます。時に解説のアナウンスが入ります。歴史環

境に恵まれた土地柄だと実感できる瞬間です。

 宝来山古墳の最寄り駅は近鉄橿原線の尼ケ辻駅ですが、

駅舎の北側の東西道路が平城京の三条大路です。東に向か

えば、JR奈良駅の北側を通り、興福寺五十二段から

春日

大社

の一の鳥居前に至ります。西に向かえば、やがて暗

峠から生駒山を越えて河内に至ります。奈良の市街地開発

が進むとはいえ、「古代」を彷彿とさせる風景が残っています

 佐紀丘陵西側からは、南へ2kmばかり離れた西の京丘陵

に宝来山古墳を中心とした古墳の営みがあります。私は佐

紀古墳群の南支群と理解していほす。宝来山古墳は墳長2

27mの大型前方後円墳で、周囲には幅55mにおよぶ広い

鍵穴形周濠がめぐります。宮内庁は周辺6カ所を垂仁天皇

陵に従う小さな墓(陪塚)にあて、それぞれ「飛地い~へ

号」として管理しています。宝来山古墳でも嘉永年間

(1848~54 )に盗掘がありました。佐紀石塚山古墳(現·成務天皇

陵)に長持形石棺が埋まっていたことを明らかにした盗掘

です。一連の被害は、「称徳」とされていた五社神古墳

(現·神功皇后陵)や宝来山古墳にも及びほした。犯人の

取り調べ書によれば、ここにも後円部に棺蓋の長さ1 . 8m

、幅90cmの長持形石棺が存在したようです。

また、地面に穴を掘っただけの簡単な野焼きの方法で焼

かれた円筒埴輪や、盾形や家形、靱形(矢を入れる道具)

の形象埴輪が墳丘の表面から採集され、報告されていま

す。西支群の五社神古墳に前後する古墳時代前期末葉(4

世紀中ごろから後半)に造られたとみられますが、墳丘や

周濠に対する発掘調査がなされていないので、考古学情報

に乏しく確定的ではありません。

外堤に沿って歩きましょう。周濠は水面が同じ高さで

一周しています。西方の宝来城(現·安康天皇陵)あたり

からの導水と、秋篠川からの導水が入ってきます。貯水さ

れたのちは前方部側周濠の東南方向から出て、周辺の水田

へと配られ、再び秋篠川に落ちます。

今は周濠に水を満々とたたえていますが、これは本来の

姿ではないと思います。一帯では、興福寺の勢力下の宝来

氏が室町から戦国時代に活躍します。灌漑事業は彼らが行

ったのではないでしょうか。

 天理市の行燈山古墳(現崇神天皇陵)や渋谷向山古墳

(現·景行天皇陵)では幕末の修陵事業として周濠の大規

模整備がなされ、貯水機能が増しました。

 天皇陵古墳の周濠について過去には、古墳時代の王者に

よる「勧農政策」(農業振興策)のもと、築造当初から灌

溉用のため池機能があったと考えられたこともありまし

た。しかし、最近では、周濠の貯水量を高めるよう後世に

改変されたとする調査成果が増えています。
2016-12-2  朝日新聞 (関西大非常勤講師今尾文昭)


 垂仁天皇陵として宮内庁が管理する宝来山古墳には、周

辺6カ所の飛地」と、周濠のなかに1カ所の「湟域内陪

が設けられています。そのうち3カ所ほどが古墳かと

思います。

 宝来山古墳の西北約200mに存在する「飛地い号」

は、民家の屋根の合間に見え隠れする直径約40m 、高さ約

8mの小山です。南側は平城京三条大路に面しています。

ここは、江戸時代には「兵庫山」と呼ばれ、牛頭天王社が

設けられていました。

 江戸幕府による元禄10 (1697)年にはじまる修陵事

業では、安康天皇陵に定められます。過去の調査はありま

せんが外からの観察では大型円墳になる可能性が高く、

考古学では兵庫山古墳と名付けています。

 垂仁天皇陵と安康天皇陵の関係をめぐっては、解けない

ことがあります。

「日本書紀」では「菅原伏見陵」と同名で呼ばれていま

す。つまり、ともに最初にある「菅原」という範囲のなか

の、「伏見」に設けられた陵墓だということです。

 時代がくだる平安時代の延喜式」では、二陵を東西

関係で表記しています。これは、二陵が同じ地域に近接し

ていたため、混乱しないように区別したのでしょう。

 「続日本紀」には、平城遷都後の霊亀元(715)年4月

9日条に「櫛見山陵」(垂仁天皇陵)に「守陵」三戸、

「伏見山陵」(安康天皇陵)に四戸を置いたとあります。

陵墓を管理する要員を充当したという内容です。安康天皇

陵はここでも「伏見」に由来した陵名になっています。

 ところが、いちばん古い「古事記」では、垂仁天皇陵

を菅原の「彻立野中」、安康天皇陵を菅原の「伏見岡に在

り」と記されます。「野」と「岡」では陵墓のある地形環

境が違うのではないかという疑問がわいてきませんか。

陵の位置関係が離れていた可能性があるのではないでしょ

うか。

 気になる記録が「続日本紀」にあります。平城遷都に

先立つ和銅元(708)年11月7日のこと、「菅原」の地の

九十余家を移し、布と穀を支給したというのです。これ

は平城宮の建設に伴い、宮の地域内にあった民家を事前に

移転したことを示したものだと考えられています。

原」の地名は平城宮の範囲にも及んでいたようです。

 安康天皇といえば462年に中国の宋に使いを送った

「倭の五王」のひとりである「興」にも比定される大王で

す。江戸時代の安康天皇陵が前方後円墳ではなく、比較的

大きいとはいえ円墳の兵庫山古墳では、不自然ではないで

しょうか。現在の奈良市菅原一町や宝来の範囲にある大型前!

方後円墳は、宝来山古墳のただ1基しかありほせん。

 平城宮の建設に伴い、二陵のうちのどちらかを、西方に

あった古墳にみなしたと考えると、先に疑問とした地形環

境の違いや、墳形、規模の不自然さが解消されます。

 近世以来、垂仁天皇陵を宝来山古墳に固定している点を

重んじるならば、定め替えたのは安康天皇陵ということに

なります。一方で、「伏見」の地名が一貫して安康天皇陵

に付くことからすれば、垂仁天皇陵とも考えられます。

 「まさか、陵墓も動いた」。つまり、以前の連載でも説明

した陵墓を定め替える稻定替え」が古代にも起きていた

かもしれほせん。大変なことになってきました。

(関西大非常勤講師今尾文昭) 







飛鳥の歴史 調査と保護の歩み

 1400年間、飛鳥の歴史を見つめてきたのは、飛鳥

寺(安居院)の本堂に鎮座している「飛鳥大仏」でした。

その飛鳥の歴史を解き明かしてきたのは、考古学的な

調査研究です。その調査の契機は、古都保存法や明日香

法などの保護行政とも無関係ではありません。飛

鳥の調査研究と保護の歩みを振り返ることにしましょう。

 平安時代末期の説話集「今昔物語集」には猿石に関わる

記事があり、檜隈陵(欽明天皇陵、梅山古墳)に「石の鬼

形」が巡っていると記されています。

 しかし、この「石の鬼形(猿石) 」はその後、記録か

ら姿を消しました。再び現れるのは江戸時代の1702

年,欽明天皇陵の南側の小字「池田」の地で猿石が掘畠

された時です。この時代はまだ発掘調査は行われていませ

んでした。石造物などが偶然に発見され、多くの遺物が村

外に運び出されるなど遺跡にとっては受難の時代だったと

いえます。

 その後、大正から昭和の初めにかけて、遺跡を守る動き

が始まりました。「奈良縣史蹟勝地調査会」が設置され、

その指示のもと、牽牛子塚古墳の保存工事が行われたこと

は注目されます。そして,川原寺跡。大官大寺跡などが次

々と史跡に指定され、遺跡が保護されることになり、小規

模ながらも学術調査が行われました。このことが、次の石

舞台古墳の調査の布石となったのです。

 1933年、石舞台古墳にはじめて発掘のメスがはい

り、その構造や築造技術が解明されました。これらの調査

成果が遺跡の保護にもつながっていきます。

 37年から石舞台の整備工事が始まりましたが、戦争によ

って中断。その再開は54年まで待たなければなりませんで

した。史跡地を公有化し、築造当時の姿に復元するとい

う、今日の環境整備事業の先駆けといえます。50年には文

化財保護法が制定されほす。県立橿原考古学研究所(橿考

研)や、奈良国立文化財研究所窺奈良文化財研究所、奈

文研)が設置されきた。これ以降の飛鳥発掘の主な調査

機関となります。

 明日香村が三つの村の合併によって誕生した56年、奈文

研が飛鳥寺跡を発掘調査しぼした。飛鳥を横断する吉野川

分水の建設に伴うものでした。飛鳥寺跡の調査では土の

中から伽藍が現れ、その配置や技術は当時の国際交流を物

語っていました。

 一方、飛鳥板蓋の宮跡は、60年から半世紀以上にわ

たって橿考研が調査研究するようになり、継続的な調査が

始まったのです。66年には古都の歴史的風土の保存を図る

ための「古都保存法」が制定され、明日香村も古都に指定

されました。奈文研が藤原京の継続調査を開始したのも、

このような背景があったのです。
2016-2-19 朝日新聞

(明日香村教育委員会文化財課長

補佐曝之)









古墳の構造

 古墳時代、北は岩手県、南は鹿児島県まで、その数実に5千基

以上も造られた前方後円墳。一見すると、前方後円墳はみな同じに

見えます。ところが、土を高く盛った部分である墳丘の造り方や、

棺が納められた位置を観察すると、日本列島の東西で前方後円墳

の様子が異なっていたことが最近の研究で明らかになってきました。

 まず、墳丘の造り方を見ると、墳丘の外側付近にぐるりと土手状

の盛り土をし、その内側に土を積む工程を段々に重ねて墳丘を完成

させる方法が、前方後円墳を始めとした西日本の古墳に用いられま

す。一方、墳丘の中心部分に小山を造り、その小山に肉付けするよ

らに外側へ盛り土する方法は、東日本の古墳に数多く見られます。

 このように列島の東西では、全く異なる土木技術で古墳が造られ

たのです。さらに、後に触れる横穴式石室は、重量がかさむため、

石室を支える地盤を改良する工事がよく行われますが、この工事に

使われた技術も列島の東西で違うようなのです。

 これまで前方後円墳は、当時の中央である畿内から地方へ技術が

伝わって造られたと考えられてきましたが、むしろ各地の優れた土木

技術をそのまま現地で反映させたと考えるのがよさそうです。

 箸墓古墳(3世紀後半、桜井市)から始まったとされる大型前

方後円墳の築造。以降5世紀に至るまで、古墳の頂上部分に大きな

穴を開け、その中に棺を納める竪穴系の埋葬施設が主流でした。竪

穴系の埋葬施設は埋葬後に密封され、埋葬される位置は後円部頂上

中央の地下付近が原則です。

 5世紀,韓半島の影響をうけて新たな構造の埋葬施設が登場しま

した。それが横穴式石室です。横穴式石室は、竪穴系埋蔵施設と

異なり、棺を納める玄室という部屋に通路と入り口を設けたため、

出入りが町能です。また、初めは墳丘の頂上近くに造られますが、

使う石材が大型化したなどの理由から、横穴式石室は次第に墳丘の

下方、すなわち地面の近くに造られるようになります。

 さて、後円部中心に埋葬施設を設ける原則は横穴式石室でも同じ

です。ただ、墳丘の上側に設けていた時はともかく,地面近くに石

室を造るようになると問題が生じます。玄室を後円部の中心に設け

るには、石室全体を後円部の半径と同じだけの長さを持つ、細長い

構造にしなければいけないのです。

 実際に、奈良県最大の前方後円墳である丸山古墳(見瀬丸山古

橿原市)は、後円部中心からはるか離れて玄室が位置します。

というのも、丸山古墳には全長28。4mという日本最大級の石室が

あるのですが、約78mという後円部の半径が石室全長をはるかに上

回るのです。

 丸山古墳を造る際、時の権力者は、埋葬施設を古墳の中心に置く

ことよりも、まず墳丘を大きくすることを優先させたのでしょう。

丸山古墳と同じように墳丘の大きさを最優先させたため、玄室の位

置が古墳の中心からはずれてしまら、原則通りにいかなかった古墳

が、近畿地方から離れた地域の前方後円墳、特に関東地方など東日

本に数多く存在します。

 ただし、丸山古墳以外の畿内の古墳は、前方後円墳が造られ始め

た頃から石室を古墳の中心に置くという原則を貫きました。伝統的

な原則か、それとも古墳の大きさか111当時の人々の古墳に対する

意識さえ、地域によって異なっていたのです。
2007-10-5  朝日新聞 

奈良文化財研究所都城発掘調

部特別研究員 青木敬






八角形の大王墓 なぜ

 飛鳥時代の女帝・斉明天皇の墓との説が有力な
明日香村の刺牛子塚古墳(国史跡)の

発掘調査を通じて、7世紀の天皇の墓に特徴的な八角

形墳をめぐる新知見が明らかになってきました。牽牛

子塚古墳の調査にあたった村教委文化財課調整員の西

光慎治さん( 45 )に、大王(天皇)に採用された理由

など八角墳の謎について聞きぼした。八角墳⇒⇒⇒


 大王墓に八角形が採用されたのはなぜですか。

 遣唐使を初めて派遣し、日本最古の国家寺院、百済大寺を発願した舒明天皇

(在位629~641)から、八角墳の造営がスタートしたことを重視し、東ア

ジア情勢の中に位置づけながら考えてみます。

 7世紀前半ほでは大豪族蘇我氏が大きな権力を握っていました。中国では隋

が南北朝を統一するなど東アジア情勢が激動し、蘇我氏は東アジアを強く意識し

ます。仏教が採用され、王権の象徴とされた前方後円墳の造営も終わります。明

日香村の都塚古墳(6世紀末)が大型方墳で、階段状に石を積み上げた類例のな

い構造だったことが分かりましたが、その後、推古天(位592.~628)な

どの大王墓に方墳が採用されます。

 推古天皇を引き継いだ舒明天皇の墓は、なぜ方墳ではないのですか。

 舒明天皇は非蘇我系王族出身です。東アジアを意識し、開明的だった点は蘇

我氏と同じですが、天皇中心の新しい国造りを目指します。志半ばで倒れます

が、妻の皇極天皇(斉明天皇)が後を継ぎます。宮内庁が舒明天皇陵に指定す

段ノ塚古墳(桜井市)は、皇極天皇が造った可能性が高いと思われ、蘇我氏

に対抗する意味でも夫の出自や系譜を示そうと、蘇我系の方墳の四隅を切り取

った形の八角形を新たに見いだしたのではないでしょうか。

 斉明天皇の墓説が強い牽牛子塚古墳、天武·天皇の合葬墓とされる野

口王墓古墳も八角墳です。

 中国や朝鮮半島に八角形の古墳はありほせんから八角墳は日本独特のスタイ

ルでしょう。ただ、飛鳥時代は上空から八角墳を眺めることはできぼせん。人々

は形を認識できていたのでしょうか。むしろ、横から見たときの墳丘の姿の方が

重要だったと思います。

 八角墳の中でも牽牛子塚と野口王墓両古墳だけが、墳丘全面に凝灰岩の切り石

を張り巡らせます。牽牛子塚古墳は斉明天皇の息子、中大兄皇子(天智天皇)が

白村江の戦い(663年)で唐·新羅連合軍に敗れた後、近江に遷都する直前に

造ったとみていほす。

 石で盛り土を覆い尽くし、まるでコンクリートの高層建築物のような壮麗な

古墳を築きほした。中大兄には唐軍の侵攻で国が滅びるかもしれないとの危機感

がありぼした。母の業績をたたえるとともに、有事も視野に入れ、お墓を保護す

る一環として石材が用いられた可能性もあります。二度と飛鳥に戻らない決死の

覚悟で母の墓を立派に築いたのでしょう。

 天智天皇と対立した天武天皇の眠る野口王墓古墳も、なぜ同じ墳丘構造だ

ったのでしょうか。

 斉明天皇は、東アジアの巨大な石仏などを築いた石の文化を参考に、日本では

異例の石を多用した都づくりを進めます。木の文化から脱し、最先端の石の文化

を採り入れたのです。ここに、天皇中心の「日本国」誕生の道筋が決定づけられ

たと思いほす。

 牽牛子塚古墳の完成型が野口王墓古墳です。兄の天智天皇の死後、皇位継承を

争う壬申の乱に勝った天武天皇が、その後に律令国家の完成に向けて邁進してい

きほす。天武天皇は、そのルーツだった母の眠る墓と同じ構造を踏襲したのでしょう。
 2016-3-25 朝日新聞
 (聞き手·塚本和人)

















道元 正法眼蔵

 日本の仏教は大乗仏教と言われる。しかし、いきなり大

乗仏教の経典を読んでも、いったい、どれだけ分かるだろ

うか。特別信仰しているのならともかく、予備知識もな

く、「法華経」などに飛びついても、やたらに壮大なこと

を言うだけで、さっぱりおもしろくないというのが普通だ

ろう。それに比べて、いわゆる原始仏教の経典は、何と分

かりやすく、しかも心に沁みて含蓄が深いことか。

 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって

つくり出される。もし汚れた心で話したり行ったりするな

らば、苦しみはその人につき従う。――車をひく牛の足跡

に車輪がついて行くように」(中村元訳「真理のことば.

感興のことば」)

 「ダンマ·パダ」(法句経)の冒頭の側だが、誰が読

んでも納得するだろう。ややこしい大乗仏教の経典より

も、この一句のほうがよほど心に強く響く。

 日本では、原始仏教は小乗として軽蔑されていた。た

だ、少数だが、小乗の重要性を認識して、そこから出発す

べきことを説いた人がいないわけではなかった。その一人

が道元である。

 病に倒れた道元の最期の説法は「正法眼蔵」の「八大人覚」

の巻である。八大人覚というのは、偉大なブッダの覚りの

おおもととなる八つの実践で.その内容は①少欲②知足③

寂静(静寂を楽しむ。④懃精進(善なることにひたすら

努める)⑤不忘念(正しい思念を保持する) ⑥修禅定(坐禅

で心を静める。⑦修智恵(智恵をはたらかせる)⑧不戯論(余

計な議論をしない)である。ブッダの最期の教えとして原

始仏教以来、説かれてきた。

 道元は、これこそ正しい仏法の根本であり、涅槃の核心

である(正法眼蔵、涅槃妙心)として、「これを修習せず、し

らざらんは仏弟子にあらず」と言う。そして、「(八大人覚

を)習学して何度も生まれ変わっては次第に深め、かなら

ず最高の覚りに達して、衆生のためにこれを説くこと、釈

迦牟尼仏に等しくして、異なることなからん」という誓い

で、最期の説法を結んでいる。

 「正法眼蔵」というと、難

解で哲学的な禅の議論で知られ、世界的にも高く評価され

ている。ところがその最期の説法は、あまりに単純で、原

始仏教の基本的な教えを、経典の通りに引用するだけであ

る。それは拍子抜けするほど 素朴で、さすがの道元も病気

で衰え、複雑な思索ができなくなったという評価もある。

 しかし、近年の道元研究は、少し違う見方をする。弟

子の懷弉によると、晩年の道元は「正法眼蔵」をすべて書

き直し、全100巻にする計画で、12巻まで書いたところ

で亡くなったという。その最後の巻が「八大人覚」である。

晩年の新しい構想の「正法眼蔵」は12巻本と称されている

が、全体にわたって、その記述はかつての道元の難解な議

論とまったく異なっている。

 そこでは、仏法僧に帰依すべきこと、出家受戒して、

裟を着て修行に励むべきこと、業や因果の教説を信ずべ

きことなど、原始仏教以来の基本的な教えや修行が、きわ

めて素直に説かれている。真実の仏法を求める道元の求道

の行き着いた先は、仏教の源流を溯って、もっとも原初的

な原始仏教から出発すること

 今日、原始仏教の流れを汲む東南アジアの上座部仏教が

日本でも注目されるようになっているが、道元こそ、その

遥かな先駆者であった


2011-10-31朝日新聞
末木文美士·国際日本
文化研究センター教授 







雄略天皇と葛城地域

 「古事記」では、雄略天皇と葛城地域とのかかわりは、即位

前に兄の安康天皇を殺害した目弱王が,都夫良意富美(葛城円

大臣)邸に逃げ込んだときに包囲して攻め滅ぼした事件や、即

位後の葛城登山での一言主大神との遭遇譚などがある。

 ところで、都夫良意富美は葛城地域の族長である。古代豪族

の中で、実在性が高い最古の人物である襲津彦の子孫である。

襲津彦は「古事記」では具体的な事績がないが、「日本書紀」

では韓半島との関係が深い重要人物とされ、その墓は葛城地域

最大の前方後円墳の室宮山古墳(彻所市)の可能性がある。周

辺の南郷遺跡群(彻所市)などでは韓半島系要素を多数確認で

きる。

 一方、雄略天皇の治世は5世紀後葉前後に比定され、現在調

査中の脇本遺跡(桜井市)周辺に長谷(泊瀬)朝倉宮を構えた

可能性が高い。気性の激しい英雄気質の天皇で、中国の史書に

登場する「倭の五王」の最後を飾る「「武」である可能性が高い。

また、埼玉稲荷山古墳(埼玉県)出土鉄剣や江田船山古墳

(熊本県)出土鉄刀の銘文に登場する「ワカタケル」は、この

天皇を指すと思われる。

 それらの銘文の内容から古代の重要な制度の一つである部民

制の前に、人制が存在した可能性が高まった。考古資料で古代

制度の一端を示す最古の史料だ。「日本書紀」の雄略紀には

渡来人に関する重要な記述が多く、この時期に外来の要素を吸

収して重要な制度を整備した可能性がある。

 葛城地域の考古学的な成果とつきあわせると、4世紀代の大

規模な遺跡の秋津遺跡(御所市)の評価は検討課題だが、そ

れ以外の大規模な遺跡の出現は、5世紀初頭の室宮山古墳の

造営を契機とし、特に5世紀後葉以前にピークがある。その時

期の代表的な遺跡である南郷遺跡群でも、5世紀後葉以前をピ

ークとし、それ以降は一時的に縮小するので、文献の記述と一

致するようで興味深い。

 「古事記」では、雄略天皇治世下でも一嚐主大神が天皇と同

等以上で描かれているので、心ずしも葛城地域の集団全体が衰

退したわけではないようだ。葛城地域北部の拠点である脇田遺

跡(葛城市)では、5世紀後葉以降にも鉄器生産の痕跡を濃厚

に見いだせることは、それを示唆しているだろう。文献と考古

学の調査成果をつきあわせると、雄略天皇と葛城地域の豪族

は、ともに外来要素を積極的に摂取し、それがもとであつれき

が生じ、冒頭の悲劇につながった可能性がある。
2012-10-12朝日新聞

(県立橿原考古学研究所

主任研究員青柳泰介)







西殿塚古墳追加

 お墓の中に被葬者の名前や事績を記した墓誌を納めたり、墓前に墓碑を立てたりす

る習慣がなかった日本列島の古墳文化では、巨大古墳といえども、被葬者を特定するの

は大変に難しいことです。

「日本書紀」や「古事記」「風土記」などの文献史料に書かれた記事内容の検討と考

古学成果に基づく評価、ときには自然科学分析など他の学問分野の協力も得て、総合的

に導かなくてはなりません。

 もちろん、天皇陵古墳も例外ではありません。被葬者を特定するための前提となる条

件が適当とは言いがたいまま今日を迎えている天皇陵古墳のひとつが、天理市の西殿

塚古墳です。

 西殿塚古墳が陵墓となるのは、東京の国立公文書館が所蔵する「陵墓録」によれば、

明治9 (1876)年9月のことです。近代の歴史学や考古学が生まれる前の伝承や地

名考証を重んじた当時の学問水準に基づいた決定ですから、今の時代からみて不合理

なことがあるのは避けられません。

 2013年2月には、歴史考古学系の学会の代表が西殿塚古墳にも立ち入り、墳丘

を観察しました。墳丘の階段状の段築や葺石の様子が報告され、古墳時代前期前葉(3

世紀後半~4世紀初め)の特徴をもつことが改めて確認されました。それにもかかわら

ず、西殿塚古墳は手白香皇女」の陵墓である「衾田陵」となっています。

 手白香皇女とはどのような人物なのでしょうか。文献史料では「仁賢天皇」の王女

で、507年とされる「継体皇」(オホド王)即位後に(大王の妻)となります。オホド王は、その前の

「武烈天皇」で王統が途絶えたとき、「応神天皇五世孫」と名乗り、越前(今の福井

県)もしくは近江(今の滋賀県)から登場し、大王の位に就いた人物です。

 王女との婚姻が新政権にプラスに働いたと 言われています。オホド王と同時代の人

物、すなわち6世紀前半に生きた王女です。西殿塚古墳が造られた年代はそれより約2

00年ばかりも前ですから、「衾田陵」とする前提にはかないません。

 そこで、手白香皇女の古墳として候補にあがるのが、西殿塚古墳から西へ至近距離に

ある西山塚古墳(天理市萱生町)です。墳長は114m後円部を南側に向け、前方部

は開いた形になっています。周囲には盾形(後円部側は丸く、前方部側に向かっては両

手を広げたような形に開く)の周濠が巡り、型式変化の最後の特徴をもつ円筒埴輪が出

土していほす。つぼり丶6世紀前半につくられたという前提は,この西山塚古墳に備わ

っています。

 東海道自然歩道の傍らにる中規模の前方後円墳で、天理市教育委員会が立てた解説

の看板によって、その場所を知ることができます。今は果樹園となっていますが、前期

古墳で構成された大和古墳群の中では、異彩を放つ後期古墳です。西山塚古墳を手白香

皇女の真陵(本当の陵墓)考える人が増えてきました。
2016-6-10  朝日新聞
  (関西大非常勤講師今尾文昭)








天照大神 伊勢へ

 自分たちの神様はできるだけ身近で祀る。普通、豪族たちはそう思うだろう。

物部氏や藤原氏は各地に氏神を持つがそれは勢力の拡大を示すもので、氏神を

遠ざけたわけではあるまい。

 でもヤマト王権はちょっと違った。彼らが祖先神とする天照大神を王宮から離

して、遠い伊勢の地(三重県) へ持っていったのである。なぜそんな不自然なこ

とをしたのか。それが前々から不思議だった。

 伊勢にはもともと、太陽をあがめていた里人たちの信仰があった。ヤマト

王権がそんなローカルな神に着目し皇祖神·天照にした。多くの歴史学者

がこう考えている。『アマテラスの誕生』(講談社学雯庫)の著者、筑紫申

真氏は「イセの大神アマテル」から、持続天皇の治世の晩年に、しかも持統
モデルにして天照になった、と主張
した。

 でも太陽信仰なら大和の三輪山にもあった。伊勢まで行かなくても何とかなら

なかったのか、と思う。それに対する『日本書紀』の答えは、次のようだ。

 (第10代の)崇神天皇5年に疫病が流行し、たくさんの人が死んだ。翌年、農

民たちの反乱や流離も起きた。そこで 大神地祇に祈った。それまでは宮中で天照

大神と倭大国魂神(日本大国魂神)を一緒に祀っていたが、それぞれ勢いが強す

ぎて,共に住めない。そこで2神を離し、天照大神を豊鍬入姫に託して笠縫邑

に移した。倭大国魂神は渟名城入媛に任せたが、彼女は髪が抜けやせ細って
しまった。

 倭大国魂がどんな神かについては 諸説あるが、地元の地主神か「国つ神」では

ないだろうか。この神は、奈良県天理市崇神天皇陵(行燈山古墳)に近い大和

神社の祭神になっている。また笠縫邑の場所も諸説がある。 

 『日本書紀』の説明、ちょっとおかしくないか。天つ神と国つ神を一緒にさ

れ、双方が不満というのはわかる。腑に落ちないのは天照のほうを追い出してし

まったことだ。地付きの神様にお引き取りいただき、別の場所で丁重に祀るとい

うのが自然だろう。国つ神にそれほど気兼ねするなら、最初から別々に祀ればよ

かったのだ。

 だから私は、天照大神の側に大和を離れる理由があったのではないかという

気がする。

 これに関連して崇神の次の垂仁天皇紀に出てくる場面を見よう。天照が垂仁天

皇の皇女という倭姫に先導され、伊勢に向かうくだりである。

 垂仁天皇25年の春、天照大神は豊鍬姫から倭姫に託された。彼

女は天照が鎮まるにふさわしい地を求めて、各地を巡った。奈良県の宇陀、次い

で近江、美濃などあちこちを経て、最後に伊勢国に至った。そこで、天照が倭姫

に語ったという言葉が、なかなかいい=注①。

 ここは、ちょっと田舎だけど、理想の国の常世から波がしきりに打ち寄

せる美しいところだわ。私はここに居たい」という内容だ。天照の言われた

とおり、伊勢国にその祠をたてた、と『日本書紀』は語る。天照は、自分の

意思表明をした。そこに居たい理由は常世から波が寄せてくる場所だからだと

いう。

 ここで「常世」が登場することに私は感慨を覚える。常世は、熊野灘の荒波に

のまれた神武の兄たちや,大国主神の国づくりを助けた少彦名命が戻っていった、
「妣(はは)の国」だからである。
そうだ。ヤマト王権を築いた海人の民

は、常世にあこがれ、海にあこがれていたのだ。熊野で海に別れを告げ、周囲を

「青垣」のような山々に囲まれた大和の地で垂直的な世界観を完成させ、天照大

神と天つ神々の住む高天原も創った。でも何か満たされないものが残る。それ

は、記録はなくても「こころ」で受け継いだ海への思いだった。

 その思いは崇神.垂仁と政権の足元が固まるにつれて、逆に募っていった―。

そう思われてならない。

 彼らは天照大神に託して「海から来て海に帰る」という自身たちの叙事詩を完

成させたと考えるのである。

 われらは内陸·大和の地で比類なき力を築いた。だから、祖先が理想郷と

してきた常世や妣の国を望めるような海辺に「こころの宮」をつくりたい。

天照大神の伊勢への旅を、古い物語として『日本書紀』に滑り込ませた背後

に、そんな思いがあったような炅がする。

 『万葉集』巻2には、私のそのような考えを裏付けるような歌がある。

武天皇

が亡くなって8年の供養があった夜、夢の中で持統女帝が詠んだとさ

れる歌である。注②。万葉学者 伊藤博氏によると、次のような現代訳になる。

 「明日香の清標の宮にあまねく天下を支配せられた我が大君、高く天上を照

らし給う我が天皇よ、大君はどのおうに思し召されて、神風吹く伊勢の国は、沖

の藻も靡いている波の上に潮の香ばかりがけぷっている国、そんな国においであ

そばすのか……。ただただお慕わしい高照らす我が日の御子よ」(『萬葉集釋注

-』集英社)

 持統にとって天武は愛する夫とぢだけでなく、手を取り合って吉野へ逃げ、

壬申の乱(672年)に勝利した同志でもあった。

 天武の霊は海藻がゆらぎ、潮の香が立ち込める伊勢の海をただよっている。や

がて祖先がやってきた海に戻り,當世へと向かった―。彼女はそう信じたに違

いない。

注①

是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。

傍国の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ

(岩波文庫)

注②

明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし や

すみしし 我が大君 高照らす 日の御手  いかさま

に 思ほしめせか 神風の伊勢の国は沖っ藻も

靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に  味凝り あや

にともしき  高照らす 日の彻子

(集英社)











天皇陵古墳を歩く 行燈山古墳

 古墳は弥生時代の王墓に比べて大きいものが多いのですが、だからと言ってその違い

を「大きさです」と簡単に言い切ることはできません。

 岡山県倉敷市の楯築墳丘墓は弥生時代最大の王墓です。墳長は80m前後、高さ5m。

中央の楕円形の墳丘から2方向に突出部がついた双方中円形です。

 中円部の頂上には、5個の巨石が立てられています。立石と呼ばれています。現状が

元の状態という確証はないのですが、石は高さ2~3mもありますから、周辺からもよ

く見えたことでしょう。王墓の在りかが、後世の人々にもわかるという点では古墳と変

わりません。

 でも、古墳と弥生王墓には根本的に違う点があります。

 ひとつは東北南部から九州の大隅半島、壱岐や隠岐といった島まで、古墳は前方後円

形という共通した形だという点です。それを為政者間のパ-トナーシップの証しだとい

う研究者もいます。とはいえ、それが一時的なものか、世代を越えて継続したものか

は丁寧に評価しないといけません。

 もうひとつの特徴は、大きさの異なる古墳が、近くに次々と築かれたことです。つま

り古墳群をかたちづくるということです。墳丘の大きさによる「目でわかる格差」とい

えるかもしれません。

 それを端的に表したのが、現在、宮内庁により第10代の崇神天皇陵として管理されて

いる行燈山古墳と、その周辺にある3基の前方後円墳です。行燈山古墳の墳長は約2

40m ,天理市柳本町にあります。 JR桜井線の柳本駅から東に向かって歩くと、高ま

りのある前方部外堤が見えてきます。

 墳形や埴輪,後円部東側の外堤に葺石に密着して出土した布留式土器から、古墳時代

前期後葉に造られたとみられます。出土の埴輪のなかには、物のかたちをかたどった

形象埴輪も含まれています。山辺,磯城地域では、箸墓古墳、西殿塚古墳に次いで造ら

れた巨大前方後円墳です。

 訪れた人は気づくと思いますが、行燈山古墳の前方部の西側には、アンド山古墳、南

アンド山古墳、大和(柳本)天神山古墳を間近に臨むことができます。

 アンド山古墳は墳長約120 m、南アンド山古墳は墳長約66 m、天神山古墳は墳長約

113mですから、約240の行燈山古墳との格差は歴然です。

 なお、ここに出てくる「アンド山は行燈山と同義で、前方後円形を照明具の行灯に

見立てたのではないかと思います。

 これらが同時期に関連して築かれたものかどうかは、それぞれの出土品の時期や墳形

の比較検討が必要です。十分に説明できないのがもどかしいのですが、いわば「お付

きのように見えるかたちで中·小型の前方後円墳を周辺に配置したことに、「王者

が300年あまりにもわたり、次々と前方後円墳を造り続けた意図があると私はにら

んでいます。
 2016-6-17 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)


  歴代陵墓についての社会の関心は、江戸時代中期の元禄年間以降に次第に高まってい

きぼした。勤皇思想の高揚や公武合体論にもとづく政策もあり、陵墓に対する保護、顕

彰運動が盛んになったのです。幕府も民間も一緒になって、所在不明の陵墓を熱心に

探索しました

 幕府は、行燈山古墳を景行天皇陵と決めて江戸時代末期を迎えます。でも、その後に

議論が起きて、最終的には崇神天皇陵に改められました。

 行燈山古墳では、幕府の意向を受けた地元の柳本藩が前方部前面に石垣を積み、

を拡張する修陵事業(陵墓を整備する工事)に乗り出しました。元治元(1864)年9月のことです。
なお、先立
つ7月に京都では、蛤御門の変が起きています。

 元治2年4月3日に大きな銅板が出土しました。縦53。9cm横70 . 6 cm厚さ1 .06cmの
大きさで両面に文様が
あります。真ん中に四葉形、その外は六花文、さらに二重

の円形、四隅にはL字形および逆L字形が表されています。もう片面は、四分割した

長方形区画をさらに二重の長方形で囲い、なかに二重の円形を表します。不思議な銅板

です。

 六花文のある円形といえば、思い浮かぶのが内行花文鏡と呼ばれる銅鏡です。もと

は中国発の銅器にある星形文様をモチーフにした銅鏡で、中国では円弧が連なった

文様を特徴とすることから弧文鏡と呼ばれています。

 日本考古学では円弧を花文と見立て、内側に向かうので内行花文鏡と呼び習わしてき

ました。宇宙の星雲や日光を表現した図形とする説があります。

 行燈山古墳の北1キロには前方後方墳の下池山古墳(墳長125 m)があります。その

竪穴式石槨の横にある小さな石組み施設から織物の袋に入れられた大型仿製内行花文鏡

1面が見つかりました。面径37·6cmの大きな銅鏡で、県立橿原考古学研究所付属博物

館で常設展示されています。

 仿製鏡とは、中国鏡などをまねて日本で作られた鏡のことです。福岡県糸島市にある

弥生時代後期の王墓の平原一号墓や古墳時代前期前葉の桜井茶臼山古墳でも出土してい

ます。

 行燈山古墳で出土した銅板の直径43.7cmの円形文様が、大型仿製内行花文鏡に関

係したことは確かだとみられます。古墳出土の大型仿製鏡は、山口県の柳井茶臼山

古墳例で面径44.5cmです。銅板を鏡に関係した遺物とみれば、70 . 6地)もある銅板は

隠れたナンバーワンと言えるでしょう。

 銅板は何のために作られたのか。文様の各部のサイズが、大型仿製鏡の面径に近い

という事実があります。大型仿製鏡の生産に関連し、大きさの規範となる「原器」のよ

うなものであったかもしれません。

 それにつけても、この銅板は、出土後に写し取られた拓本を残すばかりで、実物は所

在不明になっています。出てきてほしいものです。
 2016-6-24 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)











天皇陵古墳を歩く 箸墓古墳

 箸墓古墳とは、宮内庁が第 7代孝霊天皇の皇女·倭迹迹日百襲姫命の墓として管理す

る陵墓です。

 日本考古学では、宮内庁によって明治時代以来、管理されてきた現在の陵墓および
陪家、陵墓参考地などのうち
で、考古学上に古墳と認められるものを「天皇陵古墳」も

しくは「陵墓古墳」とよんでいます。大阪や奈良の巨大前方後円墳を中心に、80基ば

かりをあげることができます。

 3~7世紀の日本列島でつくられた古墳の総数は20万基とも言われていますから、ほ

んの一握りに過ぎないのですが、墳丘の規模(墳長)を大きい順に50位まで並べると、

天皇陵古墳が3分の2を占めることになります。

 なぜ、奈良や大阪に巨大な前方後円墳が集まっているのでしょう。墳長約280mの

大型の前方後円墳である箸墓古墳が、奈良盆地東南部に突然つくられたのはなぜでしょ

うか。こうした古墳時代を代表する前方後円墳は、古代国家成立の鍵を握っているのです。

 宮内庁が管理する陵墓は原則的に非公開です。発掘調査はもちろん、研究者も立ち入

ることが制限されています。倭国の成立と深く関係しているとされ、被葬者を卑弥呼や

崇神天皇と結びつけて考えられることが多い箸墓古墳であっても、その例外ではありま

せん。

 それでも、最近、考古学や歴史学の学会の代表者が宮内庁の許可を得たうえで、陵墓

陵墓参考地に立ち入って観察することができるようになりました。今年2月にも、宮

内庁が第12代景行天皇陵に指定する天理市の渋谷向山古墳に入りました。2008年以

降、計12カ所の天皇陵古墳や城郭に入ったことになります。宮内庁の担当者に引率さ

れ、墳丘の最下段を歩いて観察するものです。頂上にのぼることは許されませんが、実

際に墳丘の上を少し歩くことだけで新しい知見を得ることもあります。

 また、宮内庁が過去に行ってきた発掘調査の未発表資料が、情報公開請求を通じて公

表されるケースも出てきました。箸墓古墳についても新聞社の情報公開請求で1968

年と71年、74年の宮内庁の調査資料が開示され、後円部の最上段が全面に石を厚く積ん

だ特異な構造だったことも分かってきました。

 次回から、考古学者として考えてきた県内に40基余りある天皇陵古墳について語って

いきます。まずは、古墳時代の始まりを告げる大型前方後円墳、箸墓古墳から話を起こ

していきたいと思います。

 現在の陵墓としての管理や祭祀と折り合いをつけた上で、人々が天皇陵古墳を訪

れ、過去の歴史を刻んだ文化財として実感できる機会がいつか来ないものでしょう

か。この連載がそんな環境を創る一助になって欲しいと思っています。
  2016-4-8  朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)


 どうして、箸墓古墳という名前がついているのでしょう。実は古墳の中で、今の呼

び名が古典にほぼそのまま出てくる例はまれなのですが箸墓古墳は「日本書紀」に2

度も登場します。

 ひとつは「日本書紀」崇神沃皇10年9月条です。大物主神の妻となった倭迹迹日百襲

姫命が、朝に櫛笥(櫛を入れる小箱)に入った小蛇となった神の姿に驚き、叫んでしま

います。怒った神は御諸山に還ってしまいます。ヒメは、姿を見ても驚かないと前の夜

に約束していたのです。後悔したヒメは山を仰いで急に坐った途端、箸がホト(性器)

に撞き刺さって死んでしまいます。やがて「大市 」に葬られます。時の人は、その墓を

号けてT箸善といったとあります。

 次いで、天武天皇元年7月条には、壬申の乱(672年に皇位をめぐって争った内乱

)の一場面として、三輪君高市麻呂と置始連莵が 「上道」に当たり、「箸陵」のも

とに戦ったとあります。古墳の後円部の外側には、今も南北の道が通じてい

ます。これが「上ツ道」です。北方の発掘調査では道路沿いに整地した土砂の確認も

なされ、人工的に整備された可能性があります。

 「日本書紀」が編纂された7世紀代の人々は、この巨大な前方後円墳の被葬者を神と

婚姻した女性の墓として認識し、その名を食事に使う「箸」にちなんで呼んでいたことは

確実でしょう。

 カミとの別れ、ヒメの死の場面に出てきた箸ですが,これが問題なのです。古墳時代

の箸の存在は、はっきりしません。飛鳥時代も不明です。奈良·單安時代になってよう

やく出土資料としてみられるようになります。

 そこで箸墓古墳の名に、食事の「箸」を当てたのは後付けで、本来は、土師氏が関わ

った墓ではなかったのかという説があります。古代豪族の土師氏は、埴輪製作や古墳造

営といった葬送に関わったことが知られています。この地でも活躍した証しとして名前

が残ったというわけです。

 でも、土師氏にゆかりのある土地は百舌鳥(大阪府)や古市(同) 、佐紀(奈良市)

といった古墳時代中期の巨大古墳が所在する周辺にあり、今のところ奈良盆地東南部の

磯城地域では見当たりぼせん。

 私は、違うことを考えています。ハシを語源とする橋や箸、また柱、あるいは梯子は

どれも、異なる2点をつなぐ媒介の意味があります。出雲大社の千家国造家が所蔵する

「金輪御造営差図」は、かつての本殿の平面設計に関連する図として有名ですが、出雲

大社本殿と地上との階段として「引橋一町」(長さ109m)が記されています。神の

すまう聖空間への奉仕に向う神官は、この橋を登ります。

 箸墓伝承は、大物主神の迹迹日百襲姫命への通いですが、神と人との婚姻です。伝

承に基づき、異質のもののつながりを語るハシが、この巨大な前方後円墳の名にふさわ

しいと古代の人々がとらえていたというように、考えてみてはどうでしょうか。
 2016-5-20朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)










大化改新  

 大阪市の難波宮跡(国史跡)の調査が始まってから60年

になるのを記念したシンポジウム「難波宮と大化改新」

(大阪市博物館協会、大阪市立大など主催、朝日新聞社協

力)が2月、大阪歴史博物館で開かれた。難波宮跡の最新

の調査成果から見える「大化改新」の実像について、研究

者らが意見を交わした。


 古代史学者の山根徳太郎が大阪市·法円坂で出土した瓦

に注目し、所在が不明だった難波宮跡を求めて発掘を始め

たのは1954年。7年後に奈良時代の後期難波宮の大極

殿跡を発見し、難波宮跡は64年に史跡指定された。

 孝徳天皇が難波宮の造営を始めたのは、中大兄皇子らが

乙巳の変」で蘇我氏本宗家を打倒し、中央集権化を進め

る「大化改新」に着手した645年とされる。磐下徹·大

阪市立大講師(古代史)は「『日本書紀』の大化改新の

記述は8世紀に潤色されているとして、1960年代以降

は『改新否定論』が有力となっていたが、近年は考古学的

な発見で再評価が進んでいる」と説明難波宮跡で「戊

申年(648年) 」と書かれ木簡が出土したことや、奈

良県明日香村の石神遺跡で出土したIN丑年(665年)」

の木簡に律令的な行政制度についての記述があることなど

から、難波宮造営を含む孝徳朝の改革には一定の実体があ

ったと語った。

 岸本直文·大阪市立大准教授(考古学)は改新政策の一

っで、墓の石室や墳丘の簡素化を定めた薄葬令(はくそうれい)」
につい
て、7世紀の古墳に見られる変化から実態を検証. 7世紀

半ば以降の古墳は墳丘の規模が縮小し、薄葬令は実際に施

行されたと指摘した。その背景には、農地拡大のための貯

水池や水路の工事、寺院の建設などに多くの労働力が必要

になり、古墳の築造に向けられてきたマンパワーを転換す

る必要があったとした。

 大阪歴史博物館の李陽浩学芸員は、前期難波宮の建物の

建築技術や配置は、中国や朝鮮半島から最新の情報を集め

て造られたもので、新たな官位制度や政治システムを反映

していると話した。大阪文化財研究所の高橋工·難波宮調

査事務所長は最新の調査成果を報告。孝徳朝のころには宮

の周囲に広がる格子状の「条坊」の整備が一部で始まって

いたものの、まだ十分に機能るには至っていなかったと

の見方を示した。

 討論では、なぜ飛鳥から難波に遷都したのかが議論にな

った。岸本さんは「蘇我氏を打倒 天皇への権力集中を

果たした後、政治の刷新を進めるために飛鳥を離れる必要

があり、交通の要である淀川を押さえられる難波が選ばれ

た」と推定。磐下さんも「中国に統一王朝の隋·唐が成立

して東アジア情勢が緊迫する中、日本も攻撃に即応できる

集権的な体制への改革を迫られた。そのシンボルとして新

都を建設するのに、上町台地が適当だったのでは」と指摘

した。
 2014-3-18朝日新聞 (編集委員·今井邦彦)



橿原神宮案内

由緒 

 天照大神は葦原中っ国(地上界)を御自身の子孫が永遠に治めるべき国であり、高天原と同

じく平和で豊かな土地にするため、孫である瓊瓊杵尊を中つ国の日向高千穂に降らせました。

神武天皇はこの瓊瓊杵尊から数えて四代目にあたられるお方であります。兄宮達と高千穂宮

で政治を行っていましたが、天照大神の御心を更に拡げるべく東遷の旅につかれました。

 奠都まで六年の歳月を費やされ、その間数多くの苦難には天神の御神助と自身の強運により

乗り越えられ、そして遂に畝傍山の東南橿原の地に宮殿を造り、第一代天皇となられました。

これが我が国のはじまりです。

 この時に「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為む」(八紘一宇)と、世界の国々に住む人々が家族のようにお互い

助け合い、平和で慈愛に満ちた信頼関係で結ばれることを理想とされた詔勅を仰せになって

建国の精神と我が国のあるべき姿を示されました。

 明治二十二年、この建国の偉業を達成された神武天皇を慕い、地元民間有志より橿原宮址に

神社創建の請願が起こりました。明治天皇はこれを大変お喜びになられ、京都御所の内侍所

を本殿、神嘉殿を拝殿として下賜され、明治二十三年四月二日に橿原神宮が創建されました。


御神徳

 神武天皇の実に偉大な強運と、記紀においては百三十七歳、百二十七歳と大変御長寿で

あったことから、開運延寿の神様として厚く崇敬されています。

紀元祭

 毎年二月十一日(建国記念の日)に執り行われ、橿原神宮では最も重要な祭典(例祭)となって

います。勅使参向のもと厳粛に執り行われます。

神武天皇祭(春季大祭)

 神武天皇が崩御された四月三日に執り行われる祭典です。

国の礎を築かれた御事績を偲び、国の隆昌を祈念致します。

新嘗祭

 新穀を神様にお供えをし、五穀豊穣をお祝いし感謝する祭典です。十一月二十三日に斎行され、

御祭神に縁の深い久米舞が奉奏されます。

橿原神宮の森

 霊峰と崇められる畝傍山を背景に、当神宮の約五十三万㎡(甲子園

球場約十三個分の大きさ)に及ぶ宮域は建国の聖地、信仰の森とし

て守り続けられてきました。

 この森は御祭神が即位されてから二千六百年を迎えた昭和十五年に

国を挙げての奉祝記念事業として宮域拡張整備が行われた際に約

七万六千本の樹木が植栽され、うち二万二千余本は全国から寄せら

れた献木となっています。

植栽にあたっては、神宮境内の樹木は郷土の木をもって構成すること

とし、樹種については、橿原の地名から昔は樫の木が生い茂っていたこ

とが推測されることから、カシ類を主として、昔の姿に還元すること

を目標に決められました。

献木九十種 二二、五三四本


橿原神宮の鳥居

 橿原神宮の鳥居は総檜木作りで、南参道に2基、北参道と西参道に

各1基の計4基あり鳥居の形式は明神鳥居となっています。

この檜木は台湾の阿里山から運んできたもので、大変貴重なものと

なっています。  








中ッ道の路面跡

 良盆地の南北を結ぶ古代の幹線道路、「中ツ道の路面跡とみられる遺構が、

奈良県天理市で見つかった。県立橿原考古学研究所が11日発表した。中ツ道は

同県橿原市の藤原京跡などで側溝跡が見つかっているが路面跡の出土は初めて。

 橿考研によると、県道拡幅に伴う調査で、幅約2.2m、深さ約70cmの溝が見

つかり、その西側に路面跡とみられる遺構が幅約3m、南北約15mにわたって

出土した。全体の道幅は約23mとみれる。

 路面は、粘土を平らにならした上に砂混じりの土(厚さ約10cm)を突き固め

ていた。砂を混ぜた舗装工法で、耐久性を高める効果があったらしい。

 中ツ道は7世紀に造られたとされ、約2,km間隔で 東西に並ぶ歩上ツ道、下ツ道

ともに藤原京付近と平城京付近を結んだ。平安時代藤原氏の摂関政治の全盛期

を築いた藤原道長(9661027)の日記「御堂関白記」には吉野にお参り

する際に中ッ道を通ったとの記述がある。橿考研の北山峰生·主任研究員は「全

国でも古代道路の路面が確認されるのは珍しく、施工方法の解明につながる」と

話す。11日に地元住民向けの現地説明会があったが、一般向け説明会はない。
 2013-5-12 朝日新聞
 (塚本和人)



天皇陵を歩く 渋谷山古墳

 山辺·磯城地域には、初瀬川と寺川などが育んだ沖積地が広がっています。三輪山か

ら北西に約12キロ、西殿塚古墳(天理市)のあたりから南西に約8キロの曽我川ぼでの範囲

です。この一帯では、弥生時代で奈良盆地最大の集落、田原本町の唐古·鍵遺跡や古墳

時代前期初葉の桜井市の纏向遺跡が営まれました。

 巨大な前方後円墳はこの一角に姿を現しました。箸墓古墳にはじまり、西殿塚古墳、

桜井茶臼山古墳も登場します。次いで行燈山古墳が造ら れ、メスリ山古墳が姿を現し

ます。

 メスリ山古墳の後円部にある竪穴式石槨の周囲には、高さ約2.4m、口縁部直径1

3mの巨大な円筒埴輪が据えられていました。1960年の調査を知る県立橿原考古

学研究所の先輩からは、円筒埴輪の中に入って発掘したと聞いたことがあります。五右

衛門風呂を人の背丈より高く、いくつも積み重ねたようきな円筒埴輪です。

 渋谷向山古墳はこれらの次にあたり、古墳時代前期後葉の後半に築かれました。行燈

山古墳から見ると、広い谷を隔てた南側に位置しほす。天理市渋谷町にある墳長約30

0m 、古墳時代前期では全国でも最大規模の前方後円墳です。

 宮内庁は、第12代の景行天皇の山辺道上陵として管理しています。前回で少し触れま

したが、幕末に急きょ、崇神天皇陵から変更されました。

 周濠は墳丘に渡る土堤で仕切られており、山側にあたる東から西へ階段状に水量を調

節しながら水を引いています。ただ、これらは築造当初の姿そのままとはいえませ

ん。灌漑用水の確保のために近世に設けられたものが含まれています。

 宮内庁書陵部は、周濠の維持管理に護岸整備工事をしていますが、その前に発掘調査

をすることがあります。工事で墳丘が損傷しないようデータを得るためだと説明してい

ます。

 77年には後円部東側の裾部分で事前調査がありました。後円部墳丘第1段の平坦面を

めぐる円筒埴輪列が確認されました。墳丘を復元する手掛かりとなる重要な成果です。

 調査後に、円筒埴輪5本をそのまま出土位置に残して整備工事が行われました。必要

最低限の図面を取り、そのまま埋め戻すのは遺構保存のひとつの見識です。しかし、工

事のあとに再び周濠に水が入りぼすと、円筒埴輪列が見つかった部分は水没してしまう

ことになります。

 今年2月、学会から要望した立ち入り観察があり、現地を見せていただきました。77

年にみつかった円筒埴輪を覆う蓋石が並んでいました。埴輪列を保護するための処置だ

と思うのですが、水位はその高さまで及んでいました。水による浸食は大丈夫でしょうか。

 地元の用水の確保も重要ですし、天皇陵古墳の恒久的な保全も大事です。どうすれば

いいのか。改めて広く知恵を募る時期に来ているのではないかと感じています。
 21016-7-1 朝日新聞 
(関西大非常勤講師今尾文昭)




平城宮跡巨大井戸

  奈良市の平城宮跡(特別 史跡)で、奈良時代後半とみられる井戸跡や建物跡な

どがみつかった。奈良文化財研究所(奈文研)が21日発表した。皇太子の住ほい

などがあった東院地区にあたり、専門家からは、皇族の宴会を支えた調理施設の

可能性が指摘されている。

 奈文研によれば、井戸は東西約9·5 m、南北約9mの範囲を方形に掘り込

み、その中心部に約4m四方で井戸枠を据えて井戸を囲む構造だった。その規模

は平城宮内で天皇が暮らしたとされる内裏でみつかった井戸にも匹敵し、宮内で

最大級とみられる。

 井戸の西隣から東西約18m以上、南北約9mのひさしを備えた建物跡が出土。

この建物と井戸を結ぶように幅約1m,深さ約60cmの溝もみつかり、溝は途中で

分岐し、建物の内部に通じていた。分岐した溝からは食器や調理具、貯蔵具など

大量の土器も出土した。奈文研は井戸と建物、溝が体となって配置され、井戸

水を計画的に利用する機能があったと想定し、東院中枢部で皇族のために食膳を

準備する厨房の一部の可能性があるとみている。

 舘野和己,奈良女子大学特任教授(日本古代史)は2本の溝があることか

ら、大勢の人が働いていたことがうかがえる。大規模な宴会を支えた調理施設だ

ったのでは」と話す。21017-12-22 朝日新聞



天皇陵古墳を歩く 段ノ塚古墳

 この場所を訪れるのは、考古学よりも万葉集の愛好者の方が多いかもしれません。鏡

王女の歌碑が、桜井市忍阪の段ノ塚古墳(現·舒明天皇陵)がある丘陵下の小川に立

てられています。

 鏡王女は、本居宣長が随筆「玉勝間」(二の巻)で説いて以来、額田王との姉妹説が

ある万葉歌人です。そこから山道を登ると、鏡王女とは表記が異なる鏡女王の「押坂

墓」と伝えられた古墳があります。また、「日本書紀」では天武12 (683)年に、鏡姫

王が薨去したという記事が出ています。似た名前の3人の女性を同一人物とする考えも

ありますが、別人物という指摘もあります。真相をめぐる議論が続いています。

 鏡女王の押坂墓とされる古墳は、談山神社の関係者が管理しています。制札と門扉が

ありますが、宮内庁管理の陵墓ではありません。段ノ塚古墳と並ぶように、東側に築か

れています。2基の古墳の間には南に延びる尾根があります。共にその尾根を利用して

造られた南向きの三方山囲みの終末期古墳です。

 上下の部分からなり、下の方形段は一辺15mほどです。

ただし、詳細な測量図がなく後の整備もなされているようなので確かではありませ

ん。立地の様子からみて段ノ塚古墳に続く時期に築かれた

と推測しほす。

 さらに、山道を登りぼす。ここまで来ると、景色も変わり、南の方への視界が開けほ

す。道が尽きる奥ほったところに、大伴皇女の「押坂内墓」として宮内庁が管理する

古墳があります。

 北側の外鎌山から延びる尾根を削り、墳丘を設けています。斜面にすりつくような終

末期古墳です。柵に沿って周囲を歩くと、浅い掘割があり、東側と西側の斜面が墳丘

を囲むような様子が観察できぼすが、造営当時からのものかどうかはわかりません。

 今は南北15m 、東西10mほどの楕円形に土がかぶり、見ることができませんが、内部

を推測できる史料がありぼす。1879 (明治12 )年と翌年の情報をもとに作成され

た「明治十二年山陵絵図」です。「御陵図」という題で、ほぼ同じ内容のものが宮内庁

書陵部と県立橿原考古学研究所にあります。そのなかに「大伴皇女押阪内墓」の平面

図と鳥瞰図が含まれています。「大和国式上郡忍阪村東方之上アリ」と所在地を記し

ています。

 平面図をみると、2枚分の天井石を載せた埋葬施設が描かれています。南側は穴が開

き、そこから東西の側壁になる石材も見えます。両側壁がそろう様子も見られます。縮

尺値が240分の1とあり、それにもとづくと天井石が覆ろ範囲は長さ7m程度、幅5

.6m程度の大きさです。

 鳥瞰図でも、この部分が確認できます。天井石ばかりでなく、側壁石材も上部があら

わになっています。天井石の継ぎ目にそろうように西側の側壁石材の輪郭が太い線で描

かれていばす。

 墳丘の盛土の大半を失い、盗掘もこうむっているようですが巨石を用いた横穴

式石室だったと判断します。絵図に描かれた部分は玄室で石室に使われた石が大き

くなり、石材の数が少なくなる7世紀後半の特徴があります。

 断定はできませんが忍阪の谷では段ノ塚古墳、それから奥に向かって鏡女王墓、大

伴皇女墓とされる古墳が順次、築かれたのではないでしようか。そうとなれば、それ

ぞれの古墳の特徴が、飛鳥の終末期古墳の順序を決める編年研究に応用できるのではと

期待しています。
 2107-12-15 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)






敷城島(しきしま)

「磯城島」

 磯城島(式島)は大和にかかる枕詞です。「磯城島の大和の国は言霊(ことだま)の助くる国ぞま幸(さき)くあり

こそ」(万葉集13三二五四)の歌は有名です。磯城島はのちに日本の代表地と意識され「敷島の

道」と 言えば和歌を指しました。

 仏教が伝来したと伝える欽明天皇の「磯城島金刺宮」が日本書紀に見え、古代に磯城島の地

名がありました。それに因み明治二十一年に桜井市の粟殿(おおどの)・川合・戒重・赤尾・忍坂・

の六か村が合併し城島村ができ、現在城島小学校としてその名をとどめています。その小学

校の東方に式島橋がかかりますが、その橋の袂が小字「式嶋」です。この辺りを中心として古

代のシキシマの地があったと思われます。初瀬川を挟んで対岸に当社末社「金刺社」も鎮座します。

 島は島嶼(とうしょ)以外にも水辺に付けられる地名で、川沿いにまま見られます。シは石(いし)の意で、キは

「城飼(きか)う」(囲いの中で飼う)の言葉があるように柵でめぐらして区切った一郭。シキは石で堅

固に囲った一区画となりますが、古代、崇神天皇の磯城の瑞籬宮(みずがきおみや)を含む「磯城」と一言われ

た地域の島地形の場所が「磯城嶋」となったのでしょう。
 平成30年1月1日 第241号 かぎろい 
 





繞道祭(にょうどうさい)

「繞道祭」

 新春の闇夜を照らす大松明の火列。神から戴いた清火は、古代から現代へと受け継がれてきた

人々の営みを清めて回る。

 大神神社の元旦行事「繞道祭(ご神火まつり)は、大和の一番火で彩られる祭り。神職と、大松

明を担いだ氏子が三輪山麓に鎮座する摂社·末社の十九社をお祓いや献饌を行い、祝詞をあげて巡

拝する。祭りの名は道を繞(めぐ)ることからいう。

 祭りは、古来から世の中の安穏や国民の幸せを祈願するものとして行われてきた。その裏には

大和の神々や人々、国を清める意味合いも込められている。

 元旦が近づくにつれ、拝殿前の神の庭(斎庭・ゆにわ)に大勢の人の波が押し寄せる。午前零時になると

大太鼓が打ち鳴らされ、参拝者のどよめきが起ったかと思うと一斉に賽銭の雨が降りかかる。

 この頃、三ツ鳥居奥の禁足地内(一般の人が足を踏み入れることのできない場所)では、古式に

のっとり宮司により、ご神火がきり出されている。ご神火は祭典の後、二人の神職の手によって拝殿

前へと持ち出され、れる。火は斎庭で待つ「先入道」「後入道」「神饌松明(しんせん)」と呼ばれる三本
の大松明へと移される。
拝殿下で白装束の氏子に継がれる。

 それぞれの松明は長さ約三m、直径約三十cm重さ六十キロ。松明の大きな火炎が立ち上ると、複

数人で担ぎ上げ、太鼓を打ち鳴らし、ワッショイワッショイの威勢のいい掛け声を発しながら、最

初に参る「神宝社(かんだから)」へと走り出す。一方、参拝者は斎庭の御神火拝戴所に移された火を競うよう

に持参の火縄などに授かる。近隣の男性は「火は家に持ち帰って神棚のお灯明や雑煮などを炊く火

種にし、一年間の無病息災を願うのです」。古くからの慣わしである。

 奉仕員を務めるのは、昭和四十五年に発足した大神神社の氏子でつくる大美和青年会。大松明を

担ぐ若者、小さな松明でその足元を照らす人々、それぞれの役目を持った氏子らは三輪山麓五km

まりを寒風を切り裂き、闇の中を駆け巡る。その姿には、自分たちが大和の清めを担っていること

の自負が全身にみなぎり、厳粛さが漂う。

 今年の担ぎ手の平均年齢は三十才半ば。一行は、神宝社―天皇社―日向社―大行事社―活日社―

磐座社―狭井社―貴船社―檜原社―豊鍬入姫宮―富士社―厳島社―神御前社―綱越社―大直禰子

社―久延彦社―琴平社―御誕生所社―祓戸社の順に巡拝する。

 巡行七社目となる狭井神社の鳥居前の両側にはご神火をあがめる人たちが立ち並ぶ。人の多い参

拝路を行くときは見せ場のひとつ。山の辺の道や生活道と、つぎつぎに駆け抜ける大松明の流れは

ご神体山である三輪山を浮かび上がらせ、神々しく美しい。檜原神社を下ると遠くに町の明かりが

見え、その向こうに三輪の大鳥居がほのかに見えてくる。

 一の鳥居、二の鳥居をくぐって参道に涙行は祓戸社を最後に、本社ヘの苦しい石段左全力

で登り終えると、 二1時間半にわたった巡拝はやがて終盤。「巳の神杉」.の周囲を三周回った後、祭

りは静かに幕を閉じだ。今年も無事に巡行を終えた氏子社顔は緊張から、やり遂げた満足そうな表情
に変わっていた。
メンバーの一人は「僕たち とこれからが正月です」と、笑みがこぼれた。

 幼いころから馴染んできた燃えあがる火 その火を眼の前に見ることによって、人々のなかに沸

き起こる生の力。祭りの火は、火勢による霊力の強化や照明、降臨する神の目じるし、浄化などの

意義をもつ。

 繞道祭で清め終った大和の国は、燃え盛る一番火と信仰心をもつ熱い人々がもたらした清純な空

気に包まれ、また新たな一年の歴史を刻み始める。
平成30年1月1日 かぎろい  第241号
 (エッセイスト)中田紀子








鬼の雪隠・俎板 天皇陵古墳を歩く

 子どもが無理を嘗うと「鬼の俎につれて行って、鬼に食わせて
やろうかと怖が
らせたと、「大和の伝説」(高田十郎編、1933年)
に出てきます。

 明日香村の橘寺から亀石の前の遊歩道を西に進むと、村

立聖徳中学校あたりから下り坂になります。中学校の敷地

の小字名が「キリケ峯」です。伝説では、このあたりに

鬼が現れて通行人を喰ったと言われています。

 道ばたにある小さな案内板に導かれて北側の丘に上がる

と、平たい大石(長さ4 . 4m、幅2 . 8 m)があります。「鬼の俎」
です。

 道の南側の下方には、箱を斜めにひっくり返したような

形の巨石(長さ3.8m 、幅3.4m)があります。の雪隠」です。
鬼の厠とも一言
います。

 鬼は人や獣を捕まえては、俎で料理して、雪隠で用を足

したと伝えられています。雪隠にまたがる鬼の図 がデカ

イことは、子どもにも想像ができます。わんぱく坊主も黙

るというものです。

 ご存じの方が多いかと思いぼすが、俎と雪隠は組み合わ

さり、横口式石槨と呼ばれる古墳の埋葬施設になります。

俎が底石(床石)で、雪隠が蓋石(天井石)です。

 いつの時期かはわかりませ んが、墳丘が取り除かれ、蓋

石がめくられて落下し、分解した状態になりました。それを鬼
の俎·雪隠古墳と呼んで
います.。
7世紀後葉の終末期
古墳です。宮内庁では、それ

ぞれを梅山古墳に治定する檜隈坂合陵の陪冢としています。

 横口式石槨は棺を納めるとほとんど隙間がありません。

1人用の埋葬施設ですから、追葬を想定して築いた横穴

式石室とは異なりぼす。近畿の場合には、家形石棺の短

側部分に開口部を設けたもの、高句麗や百済の石室の影

響を受けたものなどがあります。

 鬼の俎·雪隠古墳の場合は、硬い花崗岩の内部をてい

ねいにくりぬいてつくっています。蓋石の開口部の上側に

は直線の切り込みがあります。はめ込み式の閉塞がなさ

れたのでしょう。

 底石にはホゾ穴があります。ここに石栓をはめ、石槨を塞

ぐ石をとめたといわれています。穴は閉塞された部分の外

側にあります。防湿の役目も負ったと考えた方が良いかも

しれません。

 鬼の俎·雪隠古墳の石槨の内側の寸法(内法)は長さ約

2.7m 、幅約1 . 5m高さ約1.3mです。関西大学

で考古学を教えた網干善教氏は、「大化の薄葬令」で規

定する墓内部の大きさに合致したものだと指摘しました。

 国家による葬送の統制を内容とする大化 2(646)年の

孝徳大王(天皇)の詔のことが「日本書紀」に記されてお

り, 一般的に「大化の薄葬令」と呼ばれています。王以

上が長さ9尺、濶さ(ひろ)5尺上臣下臣はそれに准(なずら)
えると規
定します。
この1尺を30cm弱
の唐大尺で換算すれば、鬼の俎·雪隠
古墳の内部は合致し
ます。

 しかしながら、「大化の薄葬令」が孝徳大王の詔として

発令されたものかどうか、研究者の評価は分かれ、時期や

実効性をめぐる議論が続いています。合致する古墳がある

以上、規定を端から虚構とみなすことは適当ではないでし

ょう。鬼の俎·雪隠古墳は、伝説とともに、古代史·考古

学上にも重要な問題を投げかけています。
2018-1-12 朝日新聞

(関西大非常勤講師今尾文昭)









影媛の悲恋物語

 影媛を中心とした恋愛伝承は「古事記」にはなく、『日本書紀』巻第十六、武烈天皇の段

に詳しい記述がある。それによると暴虐の限りを尽くしていた武烈天皇は、物部麁鹿火

大連の女である影媛を妻にしようとした。

この時すでに影媛は平群眞鳥大臣の男、鮪と恋仲で、武烈天皇はふたりの歌の贈答に割っ

て入るが、影媛と鮪の仲に気付き、さらには当時真鳥·鮪父子が国政を欲しいままにして

いたこともあって、大伴金村速に兵を出させて鮪を乃樂山で殺させた。驚き悲しんで

影媛が詠んだ歌が有名である。

 石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ

 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ

 妻隠る 小佐葆鐹ぎ 玉筒には 飯さ

 へ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち

 行くも 影媛あはれ


 高橋とは櫟本辺りであり、大宅は白毫寺、春日、佐保を過ぎて、古来葬送の地であった

乃樂山の谷で影媛は泣きながら鮪を弔ったとされるが、この歌は伝承の域を過ぎず、影媛

が実在していたかどうかも問題が残る。

 影媛という名には、葬送に関わる暗いイメージやもの悲しい印象を受けるが、『万葉こと

ば事典』によると「影」とは、「本来は発光体のきらきらとした輝きや、揺らめいたり明滅

したりする光そのものを意味したと考えられる」ことから、影媛は朝日に照らされきらき

ら輝く美しい女性であると想像される。

 影媛の父とされる物部麁鹿火は、武烈から宣化天皇朝の大連であり、北九州で起こった

磐井の乱を2年がかりで平定した大将軍として著名であった。物部氏は饒速日尊と御炊

屋姫の子である宇麻志麻治命を祖とし、用明天皇の時代に蘇我馬子らに滅ぼされその本

宗家が絶えるまで、その痕跡は、富雄丸山古墳をはじめ、石木町の登弥神社
矢田坐久志玉比古神社、饒速日尊と御炊屋姫を祀り、
小泉大塚古墳、六道山古墳など、
富雄川流域
に分布している。第25代 武烈天皇

 また4世紀後半に物部氏の最大勢力があったのは布留川上流の石上の地で、前方後方

墳としては日本最大の西山古墳も物部氏とのかかわりが考えられ、石上神宮が創始された

のもこのころである。

 また、九州の阿蘇石が畿内に石棺材として多く運び込まれていることが最近明らかとな

った。中でも宇土半島の付け根の馬門の石はピンク石で、大和の中南和にかなり集中して

いるが、このことは物部麁鹿火の大将軍としての活躍と密接に関わっていると思われる。

以上、影媛伝承の背景を考えたが、『日本書紀』では悪逆非道の人物として描かれている武烈

天皇とは対照的に、影媛の悲哀の物語が人々の心に 長く残ったのではないかと思われる。


山の辺の文化 第42(平成24年10月)和田萃氏 より

 本来、鮪の墓は平群谷に造られるべきものであった。

 鮪が奈良山で殺され、そこに葬られたとするのは、『日本書紀』編者らによる潤色だろう。

もともと影媛の歌は布留の地で歌い継がれた、布留から奈良山に至る山辺の道をたどって、
を運ぶ葬送の際の歌だったと思われる。『日本書紀』編纂に際し、布留の地で伝えられて
いた
葬送歌から、鮪と影媛の哀話が創案されたのではないだろうか。ちなみに『古事記』に
は影媛
の歌はみえない。ヲケ王(後の顕宗天皇。武烈天皇の叔父)が即位する前、大魚
(おふお)という女性をめぐ
って平群臣志毘(しび)と歌垣で争ったとみえるのみである。

 しかし注目されるのは、この影媛の歌が布留の地から奈良山に至る山辺の道を舞台と
してい
ることで、この歌から古代の北山辺の道を復原する手がかりが得られる。

 現在、北山辺の道とされているのは東海自然歩道であり、古代の山辺の道とは認めにくい。

古代にゆかりある地は少ない。式内社も、奈良市八島町の嶋田神社ぐらいだろう。

影媛⇒⇒⇒





天皇号・御陵・諡号・ .継承

  [系譜] 系譜は父子関係を文章で表わしたもので、『日本書紀』『古事記』の各天皇の系

譜が代表的なものであり、稲荷山古墳出土の辛亥年(471)銘鉄剣のオホヒコからヲワケ

ノ臣の八代にわたる系譜が有名である。系線で以って父子関係を示しているのが系図であ

り、前者が古く後者が新しい。


 [天皇号] 天皇という号は紀·記では初代
の神武天皇から使用されているが、鉄剣にワ

カタケル大王とあるように5世紀後半にはだ使用されておらず、おそらく推古天皇朝の

对隋外交契機に、国号「日本と共に用い始められたと考えられる。


 [御陵] 天皇や皇后などの墓所を御陵とい
い、天皇のそれは紀,記に記されており、10

世紀前期頃の延喜諸陵式から、その頃までは所在ははっきりしていたが、律令制の後退

と共に、古代の天皇陵はほとんど所在不明となった。江戸時代の元禄頃から御陵への関心

がたかまり、明治になって現在の御陵が治定され宮内庁で祭祀と管理がなされているが、

考古学が発達した今日では事実に合わないものがかなりみられる。


 [諡号] 諡号とは『令義解』に「死後の称号で、生時の行迹により『文』や『武』な

どの字を選ぶ」とある。諡号には和風諡号(A)と漢風諡号(B)があり、
よく知られているのはBである。
しかし、記紀にはBはみら
れず、Aのみであり、Bは大宝令からのよ

うである。神武から元正までは、文武を除き近江御船が天平宝字6年(762) ~8年の

間に撰進したといわれている。聖武から桓武までは淳仁を除きA-B共に奉られたが、

以後はAのみ、Bのみ、嵯峨·陽成のように共にない天皇もあり、宇多よりは後述の一部

例外を除き奉られなくなった。嵯峨·陽成.宇多などは退位後の住居名からとった追号で

ある。冷泉からは冷泉天皇ではなく冷泉院と称され、以後院号が用いられた。崇徳院·安徳

院·順徳院は諡号である。諡号が復活したのは、天保11年(1840) に崩御した光格天

皇からであるが、明治以後は即位中の年号を以って追号としていることは周知の通りである。


 [継承] 天武天皇の皇子文武天皇が即位するまで母親の持統天皇が、文武天皇の皇子聖

武天皇が即位するまで母親の元明天皇·姉の元正天皇が中継として即位しているように、

皇位は成年であることが条件であった、9才で即位した清和天皇以後この原則は崩れた。


 [代数]紀や記をはじめとする六国史に代
数は記されておらず、『大鏡』に「五十五代文

徳天皇」とみえるのが早い例である。現行の代数は明治期に『大日本史』が1代に数えら

れていた神功皇后を歴代より除き、即位が無かったらしい大友皇子(弘文天皇)を歴代に加

え、南朝の天皇を正位とし、北朝の天皇を潤位としたことをうけ、それに歴代から除かれ

ていた淡路廃帝(淳仁天皇)と九条廃帝(仲恭天皇)を加え、さらに大正15年10月21

日に、南朝の長 慶天皇の即位が認められ確定したものである。

 山の辺の文化 第42号(平成24年10月)
 石上神宮 白井伊佐牟氏 より






東大寺山古墳と謎の銘文鉄刀

天理大学文学部教授 桑原久男氏

東大寺山古墳と謎の銘文鉄刀
 昨年、平城宮遷都1300年 を記念して、天理が誇るふた
つの紀年銘資料が特別公開さ祭 れた。
東晋の泰和4年(369
年) の銘文をもつ石上神宮.七支刀 (国宝) と、後漢の年号「中平」(184-190年)
を金象嵌で刻む東大
寺山古墳の鉄刀(重要文化財)である。2世紀末から4世紀後半は、山の辺地
域に纏向遺
跡が形成され、古墳時代前期の古墳が累々と築かれた時期にあたり、弥生時代から
古墳時
代へと歴史が移り変わる時代である。日本列島の初期王権の王侯集団の奥津城とも言え
この地域の古墳群について、古墳時代前期を1期~4期に区分して、その動向をみると、オオヤ
マト古墳群は、1期~4期にかけて営
まれ、複数の首長墓の系列から成る「複数系列型古墳群」で
あり、王墓級の古墳(箸基古
墳、西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳)をはじめ、中規模の
古墳(黒塚古墳、天神山
古墳、下池山古墳、東殿塚古墳など)、小規模の古墳(ホケノ山古墳、ノム
ギ古墳、マバカ
古墳など)が階層的な構造を持っていることがわかる。これに対して、西山古墳、
小半坊
塚古墳を含む杣之内古墳群は、2期に営まれ首長基の単系的な系列で構成される「単数
列型古墳群」となっている。さらに、3期~4期にかけて営まれた東大寺山古墳群は、中規模の
東大山古墳、赤土山古墳、和爾下神社
古墳などを含み、この古墳群に限っては、小高い丘陵状
に立地しているのが特徴である。

東大寺山古墳群は、このように、山の辺地域のなかでは最も遅れて造営された古墳群であり、
そのなかで最初に築かれたのが東大寺山
古墳(3期=4世紀半ば~後半)なのである。

激動の時代、奈良盆地の東南部に結集し、オオヤマト古墳群にその奥津城を営んでいた有力集
団が、やがてそれぞれの本願地に墓所を
営むようになる歴史的な背景が考えられるが、なぜ、
中国後漢の年号をもつ鉄刀が東大寺山
古墳の副葬品となるに至ったのか、謎を秘めたままであ
る。
   山の辺の文化
 第40号(平成24年2月)


 弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡から出土する外来系土器の動向は、中平名鉄刀
が大和に伝来したルートを考える
ひとつの手がかりになる。奈良盆地では、弥生時代中期後半、
唐古·鍵遺跡などで、瀬戸
内地域に由来する多数の外来系土器が出土するが、後期半ばになると、
瀬戸内地方からの
外来系土器がほとんどなくなり、代わって近江系土器が数多く出土するように
なる。最
近、韓国の金海塚で近江系土器が出土したように、弥生後期(1~2世紀)には、瀬戸
ルートではなく、近江を経由した日本海ル
ートによって、大和と朝鮮半島が通じるようになっていた
ことが推察され、中平銘鉄刀の
伝来ルートについて示唆を与えている。東大寺山古墳との関係が
指摘される和爾氏が近江
と関わり の深い氏族であることもまた興味深い。
   山の辺文化 第38号


古墳出現前夜のヤマト

 天理市東大寺山古墳出土の鉄刀に刻まれた「中平」は、後漢の霊帝最後の年号(西暦184-189年)
であり、その頃の日本列島は
「倭国乱」終息直後の時期と考えられる。この時代の奈良盆地は、
弥生時代後期後半から
末にあたり、弥生中期以来の拠点集落が継続しつつ、桜井市大福遺跡など
の新集落が急増
する。天理市東大寺山遺跡や桜井市桜井公園遺跡群など、防御的な高地性集落
が登場する
のに続いて、盆地東南隅に纏向遺跡の形成が始まる激変期である。

 「中平」銘鉄刀は、この時代、「倭国乱」に際して共立された卑弥呼が、中国(遼東の公孫氏政権)
に送った使いに与えられたと考
えられる。『魏志』韓伝が「倭と韓は帯方に属す」と記すように、
2世紀末、倭の卑弥呼
政権は、中国本土の混乱に乗じて遼東地域を独立支配した公孫氏政権と
外交を行い、後漢
献帝の建安9年(204年)、公孫氏が楽浪郡の南に帯方郡を設置して以降は、帯方
郡との
政治的関係を継続したのだろう。

 ところが、景初2年(238年)、公孫氏は魏に滅ぼされ、その翌年、卑弥呼政権が帯方郡に,,した時に
は、帯方郡は魏に接収され
洛陽から新太守が任じられていた。卑弥呼の使者は、その太守劉夏を
通して魏に朝貢し、
卑弥呼の死後は、その宗女壱与が魏·晋との外交を継続する。しかし華北は八王
の乱
(301年)など混乱が続き、413年倭王讃が東晋に入朝して南朝と外交関係を築く までの150年近く、
中国の史書には倭人入朝の
記録が見られない。

 東大寺山古墳が築かれた4世紀なかば、倭王権と中国との外交関係は失われ、石上神宮の七支
刀が、369年百済王世子と倭王の交渉
を伝えるように、倭王権の重要な外交関係は、韓半島の百済
を軸とするものに変化してい
た。この時代、卑弥呼政権伝来の「中平」銘鉄刀は、輝きを失い、政権
の有力者(ワニ氏
か)と考えられる東大寺山古墳の被葬者のため、ついに副葬されることになったの
だろう。

   山の辺の文化 第34号(平成22年2月)

中平銘鉄刀と七支刀⇒⇒⇒
七支刀⇒⇒⇒
石上神宮⇒⇒⇒
古い太刀⇒⇒⇒
東大寺山古墳⇒⇒⇒







ちゃんちゃん祭りと神輿

ちゃんちゃん祭りと神輿

天理大学国際学部教授 マッシューJ.アイナン氏

 神輿/輿は日本に伝来後、様々な形で用い

られてきた。皇帝の乗る鳳輦、皇后の葱花輦、

腰輿、花嫁の駕籠、葬儀の輿など皇帝から民

衆まで人間の乗り物としての輿、また神の乗

り物としての神輿/山車/山鉾などの形態が

ある。それらは平安後期の『年中行事絵巻』

第九巻祇園御霊会(今の祇園祭) に描かれ

神明型、四角神輿、六角神輿、八角神輿等、

多様な形態の神輿が確認される。江戸時代に

なると民衆の生活環境変化に伴い唐破風屋根、

金箔、豪華な四角型の江戸神輿、また山車、だ

んじり、山鉾、ふとん太鼓も多くなる。

 現代日本各地で行われる祭りに登場する神

輿はそれぞれ意義を持つ。高知·不破八幡宮

の祭りでは神の結婚式として用い、けんか祭

り、浜降り·禊ぎ·清めなどの、また豊作祈

願·収穫感謝などとして神輿が使われる。ネ

パールやバリ島、台湾などの祭りでも同様な

事が見られるのは興味深い。

 毎年4月1日の大和神社(天理市) ちゃん

ちゃん祭りでお渡りに使われる神輿は神明型

と八角神輿の2基である。『尋尊大僧正記』

(1459年)に神輿2基の出御が記されている

事から15世紀中頃にはちゃんちゃん祭りの
原型が既に
出来上がっていた事が伺える。旧

暦4月1日は新暦の5月上旬にあたり、麦作

の収穫期、稲作の播種,苗代の時期であり

順調な降雨、豊穣祈願、収穫感謝がこの祭り

大きな意義であろう。他にお渡りの目的は

主神・,大国魂大神の乳母とも言われる渟名城入姫

命(ぬなきいりひめのみこと)に会う為とも、

また九ヶ大字に新たに分霊し、各大字の

平穏保持の為に鎮座、さらには豊作祈願と収

感謝の意をも含む。この大和神社2基の神

輿の部分で鳥居.囲垣,擬宝珠·瓔珞·龍

の柱飾り·鏡·大鳥(鳳凰) と小鳥.蕨手と

いう構造にも曼荼羅を基にするインドのスト

ゥーパや中国道教思想の影響が確認される。

 神輿は古代インドの建築学問·思想に基づ

き、インドからアジア各地に伝播したが、古

代インド2千年前からの伝統がこの大和神社

神輿に現在もなお見られるということは非常

に感慨深い。
山の辺の文化
 第40号(平成24年2月)






藤原宮 続き

 藤原宮は、今から1300年前、持統·文武·元明三代の天皇が治めた日本の首都です。藤原京

のほぼ中心に位置し、北を二条大路、南を六条大路、東と西をそれぞれ二坊大路で囲まれたそ

の広さは、南北906.8m×東西925.4mで、約84haに及びます。その内部には、中軸線上に北か

ら内裏、その南辺に大極殿院と大極殿、その南には朝堂院が広がり、両脇に計十二の殿堂を配

置しています。さらに南には控えの場である朝集殿があり、朱雀門へと通じています。


 天武天皇の遺志を継いだ持統天皇が造営を再開した中国式の本格的都城で
規模の壮大さは、
それ以前の宮をはるかに凌くものでした。「新益京・あらましのみやこ」ともい),持
統天皇から
文武天皇を経て、元明天皇が平城遷都するまでの16年間都でした。

 新しい都造営のため全国各地から役民が集められ、水運·陸運を使って近江などから木材が
調達されたことが知られています。宮殿建築に瓦を葺くようになったのは
藤原宮が初めてで、
主要建物は堅固な基壇を有する礎石建ちの建物となった。京
内には多くの貴族、役人が邸宅
や居をかまえ、官営の市などが設けられていました。
 大
和三山が描く三角形の中心の地点にあることから、中央集権が確立された結果を物語るも
のと考えられます。

 大極殿は天皇が執務の際、出御する建物です。

当時の日本では最大の建物であり、正面45m×側面21mで9間× 4間の瓦葺き四面廂付建物
です。
その高さは基壇を含めて約25mを超える高さに復元でき現在の8階建てのビルに相当し
ます。

 朝堂院は東西それぞれに六棟の殿堂が並び、その間は各種儀式に伴う饗宴を催す広場が
設けられています。殿堂は全て瓦葺きの礎石建物です。
儀式の場にふさわしく、朱塗り柱の
中国風建物が軒を連ねていたことでしょう。

 内裏は現在その中心部にはため池があるため、そのほとんどが不明であるが、周辺域での調

査によると、全て桧皮(ひわだ)葺きの掘立柱建物であったようです。

 これら中枢施設の両翼には、国の各行政を司る官衙(官庁)が広がっています。官衙地区は、

回廊と濠で区切られ、主要部分に門が開いています。現在のところ東側にある役所群を東方官

衙、西側の役所群を西方官衙と呼んでいます。東方官衙は大極殿の東で発掘調査が進み、66×

72mに区画された官衙ブロックと縦横に走る通路が確認されています。西方官衙では、コの字

形に配置された建物群と、そこに配された正面18間×側面3間の長大な掘立柱建物が見つかっ

ています。藤原京16年間のあいだには、大宝律令の制定(701)に伴う行政機構の改革があった

と推測されており、それを裏付けるように建物配置などに2時期が存在することがわかってい

ます。

 藤原宮の外郭は、掘立柱塀の大垣と各辺3ヶ所ずつ開く宮城門に囲まれています。大垣の内

外にはそれぞれ内濠·外濠が並行しており、外濠の外側には広い空間地である外周帯が巡って

います。門は合計12ヶ所設けられていて、出土木簡などから「猪使門(いつかいもん)」·「海犬

養門(あまいぬかいもん)」などの名称がつけられていたことがわかっています。

 藤原宮の造営は、持統四年(690)が文献上の初見となるものの、宮より先に京の都市区画が

施行されていたことが宮域内の先行条坊の発見によって知られています。都市計画により京の

中心に置かれた藤原宮は持統八年(694)から和銅三年(710)の16年間、日本の国家中枢であった

のです。





鴨都波神社 続き

 第10代崇神天皇の御代、大国主命第11世

太田田根子の孫、大賀茂都美命に勅壳奉りて

葛城邑加茂の地に奉斎されたのが始めとされて

いる。葛城加茂社、下津加茂社とも称され全国の

加茂(鴨)社の根源である。宮中八神の一社にして

鎮魂の祭礼に預かり給う延喜式内名神大社である。

事代主神は元来「鴨族」が信仰していた神であり、

当社が事代主神の信仰の本源である。大神神社

(奈良県桜井市)に祀られる大国主命の子に当たる

ことから、「大神神社の別宮」とも称される。当社の

古い社名は「鴨都味波八重事代主命(かもつみわ

やえことしろぬしのみこと)神社」であり、「鴨の水

端(みづは)の神」と解され、当地が葛城川と柳田川

の合流地点で水に恵まれていたことから、元々「水

の神」を祀っていたものとする説もある。また、神社を

中心とする一帯は「鴨都波遺跡」という弥生中期の

遺跡で、土器や農具、住居跡が多数出土しており、

古代には鴨族がこの地に住み着いて農耕生活を営

んでいたことがわかる。終戦までの旧社格は県社。


由緒

 金剛、葛城の山麗は古代の大豪族、鴨族の発祥地であります。その末流

は全国にひろがり、鴨(加茂)の郡名だけでも、安芸、播磨、美濃、三河

佐渡の国々にみられ、郷名に至ってはさらに多く、また京都の加茂大社を

はじめ、全国に分布している多数の鴨社も、すべて源をこの地に発するも

のであります。

 この葛城の地に鎮まる鴨社としては、本社のほかに、高鴨神社(上鴨)御

歳神社(中鴨)との三社があります。

 本社附近一体は鴨都波遺跡と呼称され、神社はその遺跡の上に鎮座してい

ます。本社の境内地を中心に弥生時代の土器や石器、堅臼などの農具が多

数出土し、高床式の住居跡も発堀されていますが、弥生時代の中期始め、

鴨の一族が水稲農耕を労み神社附近に住みついた事を表しております。

 本社の主祭神は古記に、鴨都味波八重事代主神と記されております。「代

主」は田の神の古語、「鴨都味波」は鴨の水端、すなわち鴨の水辺の意

「八重事」はしばしばの折目という形容で、つまり「鴨の水辺で折目ごと

に祀られる田の神」という御神名であります。

 金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流するこの地

が、灌漑に最も適した地として、田の神を鎮め祀ったのに始ります。

天孫降臨に際して、父の大国主命(桜井市の大神々社御祭神)に代わって

国譲りを決定した大神として、御祭神の事代主命の名が見えます。

 又事代主命の御子の媛蹈韛五十鈴媛命は神武天皇の皇后、五十鈴依媛命は

娞靖天皇の皇后に天日方命から加茂君が出ておられます。

 民族学を研究されておる鳥越憲三郎先生は、葛城王朝の存在と「天

孫降臨は葛城王朝に鴨族が併合されたこの地の歴史的事実を伝承されたも

の」そして葛城王朝の、神武、娞靖、安寧の三代の天皇の皇后となったの

は、事代主神を奉斎してこの地を領知していた鴨王の娘であるといわれる

由縁であります。

 そうした由縁から、その後も本社の御祭神は皇室の御守護神とされ、宮中

八神の一つとして崇拝されて来ました。

古くは神武天皇の大和平定のとき一族は八咫烏と称されて功積をあげ、ま

た神功皇后の朝鮮征伐からの御帰還にあたっては、謀反があって船を難波

に入れないとき、事代主神の御守護により無事に大和えお迎え申し上げる

ことが出来ました。そのときの御神託に ,事代主尊、誨えてのたまわく、

吾が御心の長田国に詞れと」(日本書紀)とみえますが、とれが神戸市の

名社、長田神社に本社の御祭神が祀られたのはそのためであります。

さらに壬申の乱に大海人皇子(天武天皇)を御神託によって戦勝にお導き
したのも
事代主神であります。

 多くの輝かしい御武勲をおたてになったことから、田の神におわしますことが
れられて来ましたが、稲作を御加護される神様であります。

 延喜の制では名神大社に列し、月次、相嘗、新嘗には宮中よりの官幣に
預かって来た由緒ある名社であります。
八咫烏⇒⇒⇒

 
    宮司






一言主神社

 本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に

顕現されました。その時の次第が『古事記』『日本書紀』伝えられていますが、『古事記』の

伝承は次のようなものです。

 また一時(あるとき)、天皇葛城山に登り幸(い)でます時に、百官(つかさつかさ)

の人ども、悉(ことごと)に紅き紐著(つ)けたる青摺(あをずり)の衣(きぬ)を給はりて

服(き)たり。その時にその向ひの山の尾より(尾根づたいに)、山の上に登る人あり。
既に天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等
しく、またその束装(よそひ)の状(さま)、また
人衆(ども)も、相似て傾(かたぶ)か
ず。ここに天皇望(みさ)けたまひて、問はしめた
まはく

「この倭の国に、吾(あれ)を除(わ)きてまた王(きみ)は無きを。今誰人かかくて行く」
と問はしめたまひしかば、すなは
ち答ヘまをせる状(さま)も、天皇の命の如くなりき。
ここ
に天皇いたく忿(いか)りて、矢刺したまひ、百官の人どもも、悉に矢刺しければ、
ここにその人どももみな矢
刺せり。
かれ天皇また間ひたまはく、「その名を告(の)らさね。ここに各名を告りて、矢弹(はな)
たむ」
とのりたまふ。ここに答へてのりたまはく、「吾(あれ)まづ問はえたれば、吾まづ
名告りせむ。吾は
悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、
葛城の一言主の大神なり」とのりたまひき。天皇ここに
惶畏(かしこ)みて白(まう)した
まはく、「恐(かしこ)し、我が大神、現(うつ)しおみまさむとは、覚(し)らざりき」と白して、
御刀また弓矢を始めて、百官の人どもの服(け)せる衣服(きもの)を脱かしめて、拝
み献りき。ここにその
一言主の大神、手打ちてその奉物(たてまつりもの)を受けたまひき。
かれ天皇の還り幸でます時、その大神、
山の末に満(いは)みて、長谷の山口に送りまつりき。
かれこの一言主の大神は、その時に顕れたま
へるなり。

このように、一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを

知り、大御刀·弓矢·百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。
このように天皇はこの一言
主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります

この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)を
お祀りするのが当神社であります。

 そして、この『古事記』が伝えるところによると,一言主大神は自ら「吾は悪事も一言、善事も
一言,言離(ことさか)の神、葛城の一言主
の大神なり」と、その神としての神力をお示しになら
れております。そのためか、この神様を一言(いちごん)さん」という親愛の情を込め
た呼び方
でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として里びとはもちろんのこと、
古く全国各地からの
信仰を集めております。

 平安時代の正史に当社は次のように伝えられております

   『文徳実録』  嘉祥111年(八五0)十月辛亥、授葛木一言主神正三位  

   『三代実録』  貞観元年(八五九)正月二十七日甲申、奉授正三位勲二等葛木一言主神従二位。

            貞観元年九月八日庚申、大和国一言主神,遣使奉幣,為風雨祈焉。

 また、延喜七年(九〇七)に成立した『延喜式』では「名神大社」に列せられ、月次·相嘗·新嘗の
各祭りには官幣に預かって
いたことが記されております。天台宗を開いた最澄(伝教大師)も、
延暦二十三年(八〇四)に入唐する際には、当社に祈願した
と伝えられており、後光嚴天皇から
は正一位の神格を
授かっています

 改めて申すまでもなく、当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、
全国各地には当社に
参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。


境内社

 神功皇后社(神功皇后)

 天満神社(菅原道真)

 八幡神社(誉田別命·息長帯姫命)

 市杵島神社(市杵島姫命)

 一言稲荷神社(保食神)

 祓戸神社(瀬織津姫命)

 住吉神社(上筒男命·中筒男命·底筒男命息長帯姫命)

 奥宮


<参拝のしおり>
乳銀杏
 

 樹齢推定1200年の銀杏の老大木です。この木は「乳銀杏」とも 「宿り木」とも呼ばれておりこの木に祈願すると子供が

授かり、お乳が良く出ると伝えられております。古くから子供を思う親の願いが込められた木として信仰を集めています。

この木は晴れた日にははるか遠くから望むことができ、一言主神社の場所を示す指標としても参詣者に親しまれています。


萬葉歌碑

 葛城地方は古代葛城氏の本貫地でした。この葛城氏は四世紀から五世紀にわたっ

て最も栄え、その勢力は大王家(天皇家)と並ぶほどでした。

 その葛城氏の祖と仰がれ、四世紀末前後の英雄であったのが葛城襲津彦(でそつひこ)す。

万葉集にその襲津彦の名を詠み込んだ次のような歌が伝えられています。

  葛城の襲津彦真弓  荒木にも  頼めや君がわが名告りけむ

   (巻十一の二六三九)

当神社では、万葉学者櫻井満博士の筆による歌碑を建立し、ありし日の葛城一族をしのんでおります。

芭蕉句碑

 松尾芭蕉は、葛城山に訪れ句を残しており、その句碑が本社の境内にあります。

その際のことを、芭蕉は次のように記しております。

「葛城山の吟」(『泊船集』所収。句は『笈の小文』にも収められている)

 やまとの国を行脚して、葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりたる明ぼののけしき、

いとど艶なるに、彼の神のみかたち あししと、人の口さがなくよにいひつたへ侍れば、

 猶見たし花に明行(あけゆく)神の顔


蜘蛛塚

 神武即位前紀は、次のような伝承を伝えています。
   高尾張邑に土蜘蛛有り。其の為人身短くして手足長し。侏儒と相類たり。

   皇軍、葛の網を結きて、掩襲ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を號けて葛城と日ふ。

本社の境内には、この土蜘蛛を頭と胴と足の三つに分けて埋められたという塚が三つ伝えられております。

亀石(水神)

 災いをもたらす黒蛇を役行者が調伏し、その上に亀の形をした石を置いたという亀石が伝わります。
さち石·清め石とも呼ばれ、
この石から流れ落ちる水で身を清める参詣者は後を絶ちません。

葛城古道

 奈良盆地の西側、葛城·金剛山の東麓には早くに有力豪族が栄えました。
最近、明日香が「日本古代国家の故郷」として多くの観光客を
集めておりますが、この地域はさらに早く
葛城王朝が形成されました。

 この地域を縦貫する全長十三㎞ほどのメインストリートと、それに交わる何本かの里道を合わせて
「葛城古道」と呼んでいます。
葛城氏⇒⇒⇒




吉野への道(芋峠越え)

 671年、大海人皇子(おおあまのみこ)は、兄の天

智天皇から皇位の譲位を打診されますが陰謀を察

し、近江大津宮から飛鳥「島の宮」(明日香村島庄)

を経て吉野に身を隠します

 このときの「吉野への道」は最短距離でもある『芋

峠越え』が有力視されています

 やがて兵を挙げて壬申の乱」に勝利し、飛鳥浄

御原宮(きよみはらのみや)で天武天皇として即位

しますが、686年に没後、皇后であった鵜野讃良(5

ののさらら)が持統天皇となります。在位中、31回も

吉野離宮に行幸した際も、藤原京(現在、橿原市)

を発ち飛鳥川に沿って稲渕,栢森を経て芋峠を越

えたのではないかと考えられており、「吉野への道」

は飛鳥時代の「歴史の道」ともいえるのです





奥飛鳥

 稲渕(いなぷち)、栢森(かやのもり)、入谷(にゅう

だに)、の三集落は明日香村の南東部に位置してお

り、『奥明日香』と呼ばれています。

飛鳥川の源流域で豊かな自然が残り、古代の歴

史が息づく雰囲気がただよいます。






大伯皇女歌

 105 わが背子を大和へ遣(や)るとさ夜深けて 暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし

 106 二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が獨り越ゆらむ

 この二首の歌は斎宮でつくったものである。

 弟の大津皇子が斎宮を訪れてのち、大和へ帰っていくのを送るさいに歌ったものである。「見送

ってたたずんでいると、未明の露に濡れてしまった」、「二人でもさびしいのに、たった一人でど

のようにして山道を越えているのだろうか」というのが大意である。

 このときの大津皇子の斎宮訪問は、父·天武天皇が亡くなった直後で、大津皇子は身の危険を

感じて相談に来たのでないかと解釈されている。 

 やがて大津皇子は、のちに持統天皇となる母の実妹から謀反の罪をかけられて、死に追いやら

れる。大伯皇女にはその予感があったのかもしれない。この歌は単純に弟との別離を悲しむ内容

ではなく、大和に帰ったあとの弟の心細さを思いやった姉の絶唱であり、万葉の秀歌の一つとし

てひろく知られている。

 斎王とは、歴代の天皇に代わって伊勢神宮の祭祀を行なうために遣わされた未婚の女性のこと

である。天皇の血縁者が選ばれ大伯皇女以来約七十人が任命され、斎宮と呼ばれるところで祭

祀を行なう。これは南北朝の後醍醐天皇の時代まで六百六十年の間続いていた。その斎宮跡と呼

ばれるものが、伊勢神宮北西の三重県多気郡明和町にあることは昔から知られていた。

 一九七○年(昭和四十五年)から同県教育委員会が範囲確認調査を行ない、近鉄山田線斎宮駅
少し北のあたりを中心に、東西11キロメートル、南北七00メートルの約一四〇ヘクタールほどの
場所にあ
ったことが明らかになった。一九七九年に文化庁は国の史跡に指定している。

  165 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(おとせ)とわが見む 

  166 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに 

 読み人は天武天皇の娘で,伊勢斎宮でもあった大来(大伯)皇女。「大津皇子の屍を葛城の二上

山に移し葬る時大来皇女の哀しび傷む御作歌」という題詞がついている。父も母も同じくする弟.大津
皇子の死を嘆いた絶唱だ。

 一九八五年春、奈良県当麻町染野の当麻寺から二上山を目指す山中で、鳥谷口古墳と呼ばれる

七世紀後半の古墳が発掘された。古い時代の家形石棺の蓋を転用した、廃物利用の石槨(内径で奥

行き一五七センチメート 、幅六二センチメートル、高さ七二センチメートル)をもつ異様な古墳であ

った。発掘した奈良県立橿原考古学研究所の研究者は、刑死させられた大津皇子の墓ではないか

と推定した。

 大津皇子は『懐風藻』に「体はたくましく、度量は大きく、文武にすぐれ」と絶賛されており、

『日本書紀』でも「格好よくて、言葉がはっきりし、文才がある」と、べたほめしている。母が持

統天皇である異母兄の草壁皇太子にくらべ、このようにはるかにすぐれて人望もあったことが、

やがて悲劇につながっていった。父の天武天皇が亡くなって二十日あまりで「皇太子に謀反を起

こした」として、死に追いやられるのである。

『日本書紀』などには、大津皇子が皇位をねらったと記録されているが、どうも持統天皇がわが

子かわいさに仕組んだ謀反劇だったのでないかといわれる。伊勢

から帰って来た大来皇女が、弟が移葬されたときに歌ったのがこの挽歌である。

 二上山とは大阪府と奈良県境にある山で、二こぶラクダの背中のように南北に並んだ雄岳(五一

七メートル)と雌岳(四七四メートル)の二つのピークがある。現在、雄岳の頂上に宮内庁指定の大

津皇子の墓所があるが、それが本物であると信じる人は少ない。指定されたのが明治九年で、そ

れもこの大来皇女の歌を手がかりにしたものだからである。 

 指定した根拠が弱いというだけでなく、二上山は持統天皇の造営した藤原宮のほぼ真西にあた

り、地形的に考えてもあり得ないからだ。彼岸の日には雄岳と雌岳の間に太陽が沈む聖なる山で、

朝夕に仰ぎみる項に、自らが手をくだして死に追いやった人物を葬ることがあるだろうか。いく

らタフな神経をもっていても、耐えられるものではあるまい。それもまったく他人ではなく、大

田皇女という姉の子供である。

 明日香村では姉弟の名前の木簡が現われた

 大化改新以後は、高く盛土した墳墓は、皇族などごく一部の人たちの墓になっていた。大化二

年(六四六)に薄葬令が出されたからだ。それにたとえ廃物であっても、二上山産の凝灰岩は朝廷

の管理下にあったといわれる。

 刑死とはいえ大津皇子は皇太子に次ぐ人物である。だから鳥谷口古墳のような墳墓に葬られた

とする説が有力となる。

 この鳥谷口古墳が調査されたころ、同県明日香村の伝承板葺宮跡北東部で多数の木簡が出土し

た。解読にその年の秋までかかったが、「大津」「大来」の姉弟の文字も発見されたのである。





唐招提寺 概説

この寺の概説 ここは奈良市五条町.。奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった千二百年前は,平城京右京五条二

坊に当り、いわば首都の中心街区であった。西紀七五九年(天平宝字三年)天武天皇の皇子新田部親王の旧邸地を賜ってここ

に唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招提--み仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺名として

掲げる。別に建初律寺,とも称するが、これは中国四分律の南山宗による戒律を軸として教学に励むわが国最初の律寺という

ことである。今も律宗総本山として仰がれている。

 開油唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧。わが聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として来朝することにな

ったが、七五四年(天平勝宝六年)東大寺に到着するまで十二年間、前後五回に及ぶ難航海に失敗したにも拘らず初志を

曲げず、奈良の都に着いた時は両眼を失明していたほどである。かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武.孝謙両帝をはじめ、

わが国の多くの高僧たちに授戒した。すでに仏教国家の形態を整えていたわが国が、画竜点睛の実を挙げたのは、まさに大

和上.の功積である。このことは中学校の教科書にも出ている事績だが,ひとり仏教史の上だけでなく、ひろく天平文化に及

ぽした影響は計り知れざるものがある。まことに日本の大功労者であった。
 東大寺戒壇院を退いて当寺を建立し、在すこと四年。七六三年(天平宝字七年)五月六日、七十六歳をもって寺内に示寂した。

弟子たちが師の大往生を予知して造った和上の寿像(乾漆·国宝)は、山内開山御影堂に安置され、毎年六月六日(五月六日を

新暦六月六日に当てる)御忌当日を中心に前後約1週間開扉されるが、「若葉しておん目の雫拭はばや」と詠じた俳聖芭蕉な

らずとも、像前に襟を正して感動を禁じ得ぬのである。その和上の御廟は御影堂の東に隣接する林中に静まっている。仏教

文化華やかだったあのころに輩出した高僧たちの名は、史上おびただしく遺っているが、さて、 それらのお墓は、たまたま

出土品によって明らかとなった行基菩薩の墓所のほか他に例を見ず、歿後千二百年間香華を絶たずお詣りされてきたのは、

ひとりここ和上の御廟あるのみである。

 とろがこの寺にも盛衰幾変遷がある。方四町の境内に輪奐の美を競い、さらに西山に四十八院を構えた往時、鎌倉時代

の戒律復興に盟主覚盛上人の中興、あるいは近世における東塔や堂作数宇の退転、廃仏毀釈の嵐などを経験してこんにち

に至る。今もとより創建当初の盛んさはないとはいえ、なおよく擁する国宝十七件,重要文化財二百余件、まこと天平文化

の大群落であり、かつ、で「海東無双の大伽藍」「絶塵の名刹」と称せられたゆえんを目のあたりに偲ぶことができよう。

伽藍の案内 開祖鑑真和上千二百年遠忌を機とする寺観復興事業として、天平様式に再建された南大門の正面、堂々雄偉

の金堂を仰ぐ。わが国現存最大の天平建築であり、天平金堂唯一の遺構として君臨するもの。その豊かな量感、ダイナミッ

クな立ち姿、息を呑んで感嘆久しうするのみである 大棟を飾る風雪千二百年の鴟尾の簡潔な美しさ、「大寺のまろき柱の

月かげを土に踏みつつものをこそ思へ」(会津八一)と詠わしめた大円柱の放列は遠くギリシャの神殿を想起させよう。本尊

乾漆廬舎那仏、薬師如来、千手観音,梵釈二天、四天王など創建以来の天平のみ仏います内陣の厳粛さは、そこに盲いた大

徳鑑真和上が今も礼拝瞑想中かと、われらも粛然たらざるを得ない。圧倒されそうな強烈な芸術性の発揮である。

 毎年中秋の月の夜には、この金堂を開扉して諸尊に献灯される観月讚仏会の行事もあって、賽客たちも秋露とともに法悦に
濡れるのである。金堂の
うしろに続く講堂は、奈良仏教の上代寺院がいずれも学問寺の性格を濃厚にしていた関係上、講

筵聰問の場であったが、この建物は和上の創立に際して特に宮廷から平城宮の東朝集殿を賜って移築したものであること

に注目したい。平城宮跡百ヘクタールは今は 一屋すら留めぬ草原と化したが、幸いに一棟ここに移築されたればこそ、もっ

で当時の宮殿の片鱗をうかがうことができるのである。その遺重性はただ天平建築たるだけのものでない。堂内には本尊弥

勒如来(鎌倉時代)持国.增長二天(ともに奈良時代)を安置する。

 金堂·講堂を結ぶ伽藍中心線の東側には、境内唯一の重層建造物舎利殿(鼓楼)が軽快に建つ。もと和上将来の三千粒仏舎

利を奉安した由緒を持つ鎌倉建築で、今では毎年五月十九日のうちわまき会式(中興忌梵網会)に当って、古式ゆかしい可憐

なうちわ(宝扇)を参詣者に撒き頒つ場として親しいなつかしさを思い起す人も多かろう。中興上人覚盛大悲菩薩追善のた

め,上人の薫陶を受けた法華寺の比丘尼たちが霊前に供えたうちわを、有縁者に授けたことに発端する儀式で、宗祖鑑真和上

の開山忌舍利会(前出六月五日·六日)、解脱上人始めるところの釈迦念仏会(十月二十一日~二十三日)とともに、当山の印

象的な法要として、山内全域に静かな雑踏を見せる日である。舎利殿に東隣する長大な建物が三面僧房東室の遺構(鎌倉時

代)で、南半分は解脱上人釈迦念仏会の道場(礼堂)に改造されている。僧房は上代寺院が全寮制の学問寺だったことを示す

名残りで、かつては多くの律僧たちが戒律きびしい起居をしたところである。

 さらにその東の二つの校倉。南が経蔵、北が宝蔵となっている。ともに遺存例少ない天平校倉で、殊に経蔵はこの寺創始

以前、新田部親王の邸宅があったころの遺構だから、七五六年成立の正倉院宝庫よりさらに古く、わが国現存最古の校倉と

して記憶されるべきである。宝蔵北側の石畳を東に歩を進めると、奥まったところに高床式の収蔵施設新宝蔵がある。山内

に襲蔵する文化財の、更に完璧な保存を期して先年竣工したもので工芸·絵画·経文類のほか、処を得ずして講堂内に仮安

置されていた破損仏もここに移された。これらは彫刻史に特に唐招提寺様式という範疇を設定して重視される一群である。

一般的に喧伝されている名宝如来形立像もこのなかにある。すでに仏の役目を終って破損彫刻となったこの立像の伸びやか

な美しさの魅力を味わいたい。

 さて鑑真和上御廟の西、境内のたたずまいひとしお清寂ななかに宏大な殿宇が望まれるであろう。南都興福寺旧一乗院門跡

の宸殿遺構を精密に復原移築された古建築で、平安貴族の邸宅とその生活様式をうかがうべき好箇の資料として稀少価値き

わめて高い。今では大和上の尊像を安置する御影堂とし、一山後学あげて宗祖のいますがごとくお仕え申している。和上の

尊像は前述の如く六月六日開山忌当日を中心に約1週間開扉される。この御影堂宸殿に昭和五十年東山魁夷画伯が揮毫奉納

された障壁画「山雲」「濤声」なども、和上像開扉とともに公開される。

 一方、伽藍中心線西側には鐘楼と戒壇がのこされている。鐘楼に懸るのは平安期の梵鐘だが,これには「南都左京」とい

う後世の追刻銘があって、歴然たる「右京」五条の地を誤刻したことがわかる。ほほえましい思い違いではある

 戒壇は石造三段の豪壮なもので,和上が東大寺に創めた戒壇院の土造のそれとしばしば対比されるのである。こちらは江

戸末期の祝融に禍されて外構を失ったが、雨露に堪えて粛然たる厳格さはひしひしとわれらに迫り、おのずから襟を正さし

めるであろう。このたび最上層にインド·サンチーの古塔を模した宝塔を奉安し、周辺も整備して授戒場としての面目を一

新した。

 以上は拝観者のみなさんの比較的たやすく目に触れ得るものについて概説した。それも近来の旅行形態に鑑み、当山内で

の所要時間を一、二時間と見込んでの案内であってみれば、もとより委曲をつくすこともできぬのはけだし止むを得ぬ。そ

の上、この案内記では繁を避けて境内諸堂諸尊のそれぞれに一々国宝·重要文化財の表記を省略したが、これは嘱目ほとん

どがそのいずれかに該当するためである。

 いずれにせよこの古刹唐招提寺伽藍の整う美しさは予ねて世上に喧伝されていよう。まことに四時趣きを改めて詩情こ

まやかである。わけても若葉·青葉の色が山内を埋めつくすころは、宗祖と中興両大徳の忌日ともめぐり合って感傷するに

よく、境内随所に咲きこぼれるる萩の盛りのころは、遠く和上の故郷揚州を偲びながら、頭を垂れて、低徊久しうすること

ができる。もし狭霧立つ朝の夢幻にも似たほのかな気配と、落陽に染まる天平の甍の壮麗を知るならば、風趣は一だんと深

く古都の古刹の雰囲気はいよいよ昂揚されるのである。

 右のほか江戸末期に惜しくも雷火に失った東塔のあとや,旧二坊大路沿いのいわゆる西山四十八院あと付近(廃大量の

本尊大日如来坐像―平安初期―は現在新宝蔵に移座)あるいは四至の東を限る秋篠川界隈の散策など、情感きわめて深く

かくて半日を清らかに過ごすことができよう。








大神神社 笹ユリ

 『笹ゆり』は日本にだけ生息するユリの原種で、中部·近畿·四国と一部

の九洲に自生し、五月中旬から六月中旬にかけて咲きます。花は淡いピン

ク色で香りは高く、うつむき加減の楚々とした姿から、最も鑑賞価値の高

いユリの一つとされています。名前の由来は、その葉が笹に似ていること

や笹原に自生していることが多いため、この名がつけられたといわれて

います。

 近年、里山の自然環境の変化や乱獲のためその数は激減し、野山に見ら

れることが少なくなって参りました。更に開花後も環境の悪化に敏感に

反応して消滅するなど、自然の形での繁茂は殆ど期待できない状況にあ

リます。そこで当神社豊年講のメンバーが中心となり、十数年前から再生

の試みがなされてきました。種子から開花まで約六年、本格的な栽培を始

めてから十年余り、近年ようやくその成果が実り、現在、本社正面参道、祓

戸神社北側の『ささゆり園』を中心に約二千本が植栽され、こうして皆様

にご覧いただける運びとなりました。.

 当神社の摂社率川神社(奈良市本子守町鎮座)で毎年六月十七日

に斎行される例祭は三枝祭(別名ゆりまつり)と呼ばれています。こ

の祭は遠く大宝令(七〇一 )に国家のお祭と定められ、御本社での鎮花

祭と共に、疫病除けを祈願する由緒深い特殊な神事であります。

さいくさまつり

ひめたたらいすずひめのみこと

 御祭神は「姫蹈韛五十鈴姫命」と申 輪山の麓、狭井川のほ

とりでお育ちになられました。当時その付近には笹ゆりがたくさん

咲きみだれていたことが文献に見えますが、その故事によって姫神

のみこころをおなぐさめするため、お供えの酒樽(黒酒を入れた「蹲(そん)」

白酒を入れた「缶(ほとぎ)」)を笹ゆりの花で飾ってお祭りするよう

になったのであります。また笹ゆりのことを別名「佐韋」と

も「三枝」ともいうことからこの祭の名がつけられています。






菅原天満宮略記

 当社は、菅家一系三神を祀る由緒正しい神社である。

 天穂日命は菅家の始祖とせられ、天下泰平、国土安泰、五穀豊穣の守護神である。

その子孫で中興の祖である野見宿祢は菅原の地を本貫とし、その豊かな赤土と松樹を活用して土師器
や埴輪の製作に従事していた。

 垂仁天皇の皇后(日葉酢媛命)が崩御された時、当時悪習であった殉死を取り止め、替わりに埴輪を埋め

るべく建言した功績により、垂仁天皇より土師臣の姓を賜わった。土師氏はここを本拠地とし各地に勢力を

伸展していった(最近の発掘調査で、埴輪を焼いた窯跡が発見され平成十二年三月奈良市指定文化財「菅原

はにわ窯跡公園」として、阪奈道路沿い神社より東へ四百米) 。又当麻蹶速と力競べをし、これに勝ち角力

の始祖としても知られている。

 その後、土師家は大喪の事を掌っていたが、その子孫の土師古人他が天応元年(西暦七八一年)この土地

の名「菅原」と改姓を願い出、勅許される。以後三代後に菅原道真公の出生となる。

 菅原道真公は野見宿祢命第十七世の子孫である。参議従三位是善の第三子で、生来聡明にして文学に長

じ、貞観年中には文章得業生となり累進して文章博士となる。宇多天皇の寵愛を得て遂に参港任ぜられ、

民部大輔左大潝解由長官となった。その後遣唐使を拝命した。醍醐天皇の昌泰二年(西暦八九九年)に右

大臣に重用された。その後、故あって太宰府に転じたが、これを機にいよいよ詩歌の道にいそしみ、文筆に

励み広く学芸の神と仰がれるにいたった。とくに晩年は、類従国史二百巻を編さんし多くの史書や詩歌の書

を著わし、その博学ぶりを発揮した。

 道真の没後は全国各地に道真を祀る神社が設立され、世に道真を天満大自在天神と崇め奉るにいたった。

その中にあって、菅家発祥及び生誕の地当菅原天満宮と、終焉の地太宰府天満宮および京都の北野天満宮
は最も重要な神社とされている。こ
うしたゆかりを以て世の人びとは、道真の神徳にあやかり、学徳成就の

祈願はいうまでもなく、文筆にいそしむ人びとの信仰は殊に厚い。当菅原天満宮境内には立派な筆塚が建立
されている。

誕生地

 菅原道真の産湯池と伝える遺跡が神社の東北約100miのところにある。道真の母君が京都からこの菅原
の故地に帰参して産みたもうたもの
で、この遺跡はもとの菅原院の一部といい、池中の島にこの由緒を刻ん

だ碑が建っている。


境内と社殿

 鳥居をくぐって表門を入ると、静かな境内が広がっている。正面に拝殿·祝詞殿·本殿と一直線に並んで

いる。右側に社務所がある。境内左手には手水屋や土蔵がある。末社がその向こうに見える。拝殿の前には

石造の臥牛や梅樹があって、菅公ゆかりの地を思わせる。また境内には珍しい筆塚がある。

古い筆を社頭に納め文筆の神である道真に感謝し、ますますこの道に励もうとして寄進されたものである。

原の地

 現在の菅原は、奈良市の一町名にすぎないが、平城遷都以前から存在していた古代地名である。その範囲

はかなり広域に及んでいた。『日本書紀』によれば、推古天皇十五年に菅原の池を作るとあるが、この大池

は西方の蛙股池と考えられる。また垂仁天皇の御陵が「菅原伏見東御陵」と定められ、安康天皇の御陵を

「菅原伏見西御陵」と記されている。元明天皇は平城遷都前に和銅元年九月十四日に藤原宮から「菅原」の

地に行幸せられ、二十一日までこの地に御滞在になり平城宮予定地を御視察になっている。その後、十一月

七日に菅原の地の民家九十軒を移転し、負郭を給わっている。おそらく平城遷都前は、佐紀の地に接すると

ころまで菅原が延びていて、その辺りの民家が移されたものと考えられる。

 こうしたことから考えると、往昔の菅原は春日、佐保、率川添などとともに、重要な土地がらであった

ことがわかる。

 菅原寺(喜光寺)当社南西すぐ

霊亀元年(西暦七一五年)行基菩薩の創建にて菅原家の代寺でもある。

同寺の東南院にて行基菩薩が入寂された。聖武天皇の行幸された時、阿弥陀仏が光を放ったとされ

以来喜光寺の号を賜わったと伝えられる。また今の金堂は大仏殿のひながたといわれる。

日葉酢媛皇后陵 菅原寺西側

 垂仁天皇の皇后

日葉酢媛が亡くなられた時、

野見宿祢が土師三百余人を指揮して埴輪を作り殉死をなくされたことで知られている。

菅原天満宮盆梅展(毎年二月初旬より11月中旬まで)

  東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花

    あるじなしとて 春を忘るな
   菅原道真

 道真公生誕の地である菅原の里で毎年行われる盆梅展です。梅の芳香が一足早い春を告げます。






葛井寺 拝観の手引き

創草·開基

 河内王朝(近つ飛鳥)は渡来者らによって発展し当寺の歴史も百済の王族,王仁氏の渡来が始まりである。
仁の子孫.辰孫王 王味沙の系統により継がれ,王味沙が白猪連と改姓(欽明三十年570)更に葛井と改姓

(養老四年720)する。この一族は新しい文化をもたらし、その実績が認められ、広大な地を賜わり、その地

に寺の建立が始まった。
 一方
8世紀には一族から遣新羅遣随、遣唐使として活躍した人物を十数人程輩出した。

 永正七年(1510) の勧進帳によると「聖武天皇」の勅願による、二㎞四方の七堂伽藍で伽藍絵図によると、

金堂、講堂、東西両塔を備えた伽藍配置であった。

 神亀二年(七二五)春日仏師(稽分会,稽首勲)親子に命じて、十一面千手千眼観世音像を造らせ三月十八日

入仏開眼法要を藤原朝臣房前郷を勅使に行基菩薩を御導師として勤められた。聖武天皇も自ら臨席され、
その夜
は葛井広成邸に泊まられた。

 行基菩薩によって開眼せられた後、大同元年(八〇六)平城天皇の皇子阿保親王が勅を奉じて伽藍の修復
を次い
で親王子息の在原業平朝臣によって諸堂を造営された。

永長元年(一〇九六)大和明日香の軽里、藤井安基が当時の荒廃を歎き、伽藍の大修理に尽力せられた。
この事
より安基の姓をとり、藤井寺ともいう。 (地名はそのまま藤井寺と残る)

 南北朝時代から戦国時代にかけ、相当なる輪奐(りんかん)の美を備えていた様子を当寺所蔵の文書にて
判明できるが、兵
火による焼失や永正七年(一五一一)の大地震により諸堂荒廃する。しかしながら観音の霊
場として、又西国
三十三所巡礼第五番札所としての衆庶の信仰厚く、信者の有志協力を得、旧知に修築する。

 戦国末の本願寺と織田氏との争いの際にも織田方の禁制下にて安泰を得、その後豊臣秀頼公による四脚
門の建立、そしてますます盛んになった大衆
による観音信仰にて寺運を支えた。

 また平成に入ると諸堂修復、参道整備がなされ、特に平成七年には三百年ぶりに本堂屋根替等の大修復
と共に
本尊の厨子を耐火耐震庫として大法要を執り行い休憩所、檀信徒会館等の新築を経て今日に至って
いる。


当寺宝物

 当寺御本尊の千手千眼観世音菩薩座像は、千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示し、その美しさは
人々
を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきた。

 秘仏。毎月十八日と八月九日の千日参りに開扉。十一面千手千眼観世音菩薩大画像(油絵)があるが、こ

れは旧一万円札の聖徳太子や天皇陛下の肖像画で、著名な全日本肖像美術協会総裁の故馬堀法眼喜孝画
伯の最大
の傑作で同画伯が当寺に奉納されたもの。"寺宝"として永久保存されている。

又、当山の御詠歌として、花山天皇が落飾後、入覚法となられ観音霊場巡拝再興の発願をされ、その御巡錫

の祈りに詠まれた。

 『まいるよりたのみをかくるふじいでらはなのうてなにむらさきのくも』

は自分自身がお参りする事により、はじめて仏に通じ願いが叶えられると言う事であり、法王も何度もお参り
なり、その願いが聞きとられた時に御本尊の十一面千手千眼観世音菩薩の眉間から香の薫りの煙りがくゆ
ると、
やがてそれが境内の聖武天皇御寄贈の紫雲石の灯籠にまでたな引いたと伝えられている。

 当寺の山号「紫雲山」はこの史実によりつけられた。

 なお紫雲石の灯籠はいたみが激しく、本物は裏庭において管理しており、現在境内にございますのは、
欠損箇
所まで同じように仕上げた明治時代のレプリカです。

 自らが足を運び参る事により願いが叶えられると言う意味を皆様にも御理解頂きたいものである。

 この他に、安土桃山時代の当寺境内を生き生きと描いた「葛井寺境内絵図」や石灯籠(鎌倉時代)四脚門
(一六○一
豊臣秀頼建立)や地蔵菩薩立像,聖観音菩薩像(一木造り平安時代)、
金銅宝塔(
鎌倉時代)大般若経六百巻(平安時代末期) ,家贫宥容河内守護高師泰書下、河内国主楠正儀国
等があげられる。






大念仏寺 拝観の手引き

総本山大念佛寺

 崇徳天皇の大治二年(一一二七)、鳥羽上皇の勅願を蒙り、宗祖良忍上人によって開創された。

 かねて聖徳太子信仰の篤かった良忍上人が念仏勧進の途次、四天王寺に一夜参籠し、太子の夢のお告げを
受け、平野の地で大念仏会
を修したところ、大いに盛況を呈し念仏の根本道場としたのが始まりである。
大念佛寺の
地は坂上田村麿の第二子広野公の菩提所修楽寺の別院であったところと伝えている。

 その後、世代が下り寺勢は振わなかったが元亨元年(一三二一)第七世法明上人がこれを中興して寺域を拡大し、
堂塔を壮麗にし
たが、たびたびの兵火に遇い荒廃していたのを、寛文七年(一六六七) 、第四十三世舜空上人

が大堂を建立し、次いで元禄年間、第四十六世大通上人は諸堂を営備し、法儀の要具を完備して一宗の本山として
体裁が整えられた。

 二万四千平方メートル (約七三00坪) の境内に、大小三十余の堂舎が甍を並べている。


融通念佛宗について

 平安末期、永久五年(一一一七)五月十五日宗租良人忍上人「が大原来迎院において修行中、阿弥陀仏からだれも
が速やか
に仏の道に至る方法(速疾往生)として
  一人一切人 一切人一人 
  一行一切行 一切行一行

  十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満の偈文を授かり開宗したものである。

 自分一人の念仏が他のすべての人(一切人)に及ぼし、一切人の念仏が一人に納まり、計りしれない念仏の数と
なって功徳も広大になる。ともど
もに念仏を唱和する中に、阿弥陀仏の本願力と自己の念仏の力と、一切人の念仏
の力とが互いに融
通して、現世に喜びあふれ智慧輝やく楽土を建設することをめざす。


主な建物

 本堂  昭和十三年に再建した総欅造り銅板葺きで、東西四九·八m、南北三九. mあり、大阪府下最大の木造建築である。

 山門 ..棟行三.六m、梁行二.七m、両脇に二:.一mずつの壁落ち屋根がついた江戸初期の建物。

       霊元天皇皇女、宝鏡寺宮ご親筆の「大源山」の勅額がかかっている

 鐘楼  江戸初期の建物で、鐘は同時代の名鐘。従一位右大臣藤原家孝公の銘文がある。

 霊明殿 鳥羽天皇を奉安する権現造りの社殿。

 瑞祥閣 本堂南側に位置する百畳敷の大書院。
 円通殿(観音堂)  二間四方、前後に一間と二間の庇付。左右に永代祠堂位牌を安置する堂宇を取り付けている。
             本尊は五尺五寸の聖観音立像で伝教大師作と伝える。左右両棟に安置されている位牌は大通上人
             が多くの篤信者に施入を募った日月祠堂位牌が主である
扁額「圓通殿」は大通上人の直筆である。
             平成元年改修復元。







西大寺の由緒

 西大寺の創建は奈良時代の天平宝字八年(七六四)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、
七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。
造営は翌天平神護元年(七六五)からほ 宝亀末年(七八〇)頃まで続けられたが、当時の境域

は東西十一町、南北七町,面積三十一町(約四十八ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の
両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。
文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわし台大寺であった。しかし、その後平安時代に再三
の災害に遭い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに衰?した。

しかし、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(一二〇一~一二九○)がこの寺に
入って復興に当り、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の根本道場として伽藍を整備された。
いまふる西大寺はほぼこの頃のプランを伝えている。興正菩薩は鎌倉時代の南都の四律匠の一人で、
当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。
したがって、その後西大寺は室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失ったけれども,
興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として、寺宝や宗教

的行事によくその寺格と由緒をしのぶことができる。

〔本堂])(重要文化財)光明真言堂とも言い、毎年秋の光明真言土砂加持祈祷はここで厳修される。
東西十四間、南北十間,単層四柱造り、土壁を施さない総板壁によっている特異な建物である。江戸

時代宝暦二年(一七五二)の建立

〇本尊釈迦如来立像 一体(重要文化財)興正菩薩の発願によって建長元年(一二四九)に京都嵯峨

清凉寺の三国伝来の釈迦如来像を仏師法橋善慶等十一人が摸刻した霊像。この時代に盛行したいわ

ゆる清凉寺釈迦像のなかでも代表的な名作である。

文殊菩薩騎獅像及四侍者像 五体(重要文化財)興正菩薩の十三回忌に当る正安四年(一三○二)

に遺弟たちによって造られた文殊五尊像。文殊菩薩は興正菩薩が生前非常に信仰した特色ある仏の

一つであったが、現存するものは少ない。その文殊信仰の結晶ともいえる重要な作例。像内に弟子

達の経巻文書類が多く奉籠されていた。

弥勒菩薩坐像 一体丈六の大像で徳治二年(一三○七)の弥勒講堂焼失後、元享二年(一三二二)

に再興された像。

〔塔跡〕奈良時代には東西両塔が建てられたが、そのうちの東塔跡である。創建当初のものはとも

に平安時代に焼失、東塔は藤原後期に再建されたが、これも室町時代文亀二年(一五〇二)に焼失

した。巨大な基壇や礎石は往時の偉容

をしのばせる。壇下の八角の小石列は、先年発掘調査によ

って確認された、創建期に計画され途中変更された八角七重塔の基壇の規模を示す。

[聚宝館]昭和三十六年竣工,当寺の国宝、重要文化財など多くの寺宝を収蔵し、また一部を陳列し

ている。

〇阿?、宝生、弥陀、釈迦如来坐像(四仏像)四体(重要文化財)木心乾漆造、もと塔の四方仏であ

ったもので奈良後期の作風をもつ貴重な作例。

〇吉祥天立像 一体 (重要文化財)木心乾漆、もと四王堂に安置され、奈良時代の吉祥悔過会の本

尊であった遺作。

大黒天立像 一体 別名を摩訶伽羅天といい、興正菩薩が健治二年(一二七六)に感得して、仏師

善春に造らせた尊像。像内に多くの奉籠物が納められていた。

〇大黒天倚像 一体 永正元年(一五〇四)に仏師仙算が造った像。

行基菩薩坐像 一体(重要文化財)もと菅原喜光寺に伝えられた像。

○「矢の根」絵馬 一面宝暦四年(一七五四)鳥居清信画。西大寺愛染明王の江戸回向院出開帳に

際し、二代目団十郎が明王の霊徳を奉讃して矢の根五郎を中村座で協演、奉納した貴重な絵馬。

〔愛染堂〕もと京都の近衛政所御殿を宝暦十二年( 一七六二)に移建した南北十一間、東西八間の宸

殿造りの仏堂。中央は愛染堂、南は霊牌堂、北は客殿となっている。

〇本尊 厨子入 愛染明王坐像 一体(重要文化財)いつもは秘仏として中央厨子内に安置されるが

宝治元年(一二四七)に興正菩薩の念持仏として仏師善円が造った霊像。鎌倉時代の愛染明王とし

ての代表作。

〇興正菩薩叡尊坐像 一体(国宝)弘安三年(一二八0)菩薩八十歳の寿齢に当り、弟子達が報恩謝

徳のために仏師善春に造らせた肖像。さながら生きた菩薩に接するような気魄に満ちた写実的な像

で、像内に弟子達の熱意がうかがえる多くの奉龍物が納められていた。

〔四王堂〕創建期の由緒を伝える唯一の堂。しかし建物は再三焼失し、現堂は延宝二年(一六七四)

の建立。東西九間、南北七間の簡素な重層建築。

四天王立像及邪鬼 四体(重要文化財)本願称徳天皇の発願になる創建当初唯一の造像。再三の災

禍にから、邪鬼だけが当初のもの。その気宇の大きなみごとな造形力は奈良彫刻として見逃せな

いものである。多聞天(木造)を除く三体の天部は後世の再鋳。

〇本尊十一面観音立像 一体(重要文化財)正応二年(一二八九)亀山上皇の院宣によって京都から

移安された本格的な藤原彫刻。長谷式十一面観音像で錫杖を執る。

〔奥の院〕法界体性院 興正菩薩は正応三年(一二九〇)八月廿五日に九十歳の高齢でその生涯を閉じたが、
奥の院で荼毘にふされてここに葬られた。境内から西へ暫く行った所にある。

〇石造五輪塔 鎌倉時代の一丈一尺に及ぶ立派な石塔で、菩薩没後すぐに弟子達によって建てられた
ことが記録によってわかる。

〔その他の寺宝〕西大寺に収蔵されるその他の寺宝は夥しい数であるが、それらはいづれもその儘当寺
の正確な由緒を物語る。
絵画では平安初期密教絵画の傑作として有名な絹本著色十二天画像(国宝)をはじめ、
鎌倉時代の文殊菩薩画像(重要文化財)など多くの仏画があり、また工芸品としては鉄宝塔(国宝)、
五瓶舎利容器及舎利塔(国宝)、壇塔(国宝)、勅封舎利塔(重要文化財)など優秀な作品が多い。
さらに経巻文書の類は厖大な量で、なかでも創建当初の百済豊虫筆金光明最勝王経十巻(国宝).

吉備由利発願の大日経七巻(国宝)をはじめ、各種経巻、宗版一切経、綸旨、古文書など重要なも

のが多い。

〔主な行事〕

一、新年祈願会元旦より五日迄

一、星祭祈願会節分

一、初午厄除祈願会三月初午の日

一、大茶盛式一月十五日,四月第二日曜と前日の土曜日 十月第二日曜

興正菩薩が延応元年(一二三九)正月の御修法の結願に際し、鎮守八幡に参詣献茶され、その余服

を参衆に施されたことにはじまる由緒ある茶儀である。尺余の大茶碗で老若男女、信茶一味の妙境

に参ずる独特な茶会で、近年ますます盛んになって多くの人々が境内にあふれる。

一、光明真言会 毎年十月三、四、五日の三日間昼夜不断の修法。

文永元年(一二六四)八月に興正菩薩が始められて以来継続している歴史的な法事で、光明真言の

功徳力によって三界の万霊を救わんという真摯な法会。

〔雑事〕
〇花道松月堂古流 興正菩薩は茶道ばかりでなく、花道に於いても特別な見識を抱かれ、先哲の流れ

を汲み、御自身の創意を加えて、天地生成の自然の原理と密教教理から、深淵な花道を遺された。

これが当山に伝流している松月堂古流の花道で、近年多くの人々に親しまれている。

〇謡曲百万の柳  能楽二百番中の「百万」は当山の故事を主題にしたもので、四王堂前の池の端にゆ

かりの柳がいまなお残っている。






中宮寺 拝観の手引き

中宮寺 沿革

 当寺は聖徳太子御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建され

た寺であります。その旧地は、現在の東方五00メートル程の所に土壇として残って居ります。昭和三十八年の発掘調査により、南

に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに

応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統のもので、法隆寺は僧寺、当

寺は尼寺として初めから計画されたと思われます。国宝菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)は其の金堂の本尊で、天寿国曼荼羅は、講

堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。

 その後、平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半跏像のみ居ますと云った

状態でありました。鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いく

らかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りませんが、旧地よりその時代

の古瓦が出土することから、その頃まで法燈が続いていたようであります。ところが、たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院

に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所とし

て次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。

 宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりました

統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このか

が、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我が国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このか

た千三百余年の永きに亘り、尼寺の法燈を続けているのは実に当寺だけであります。


中宮寺本堂

 高松宮妃殿下の御発願により吉田五十八先生が設計され、昭和四十三年五月落慶の御堂であります。
当寺は伏見宮様より女王様御二方と後西天皇内親
王様御一方を始め、有栖川宮より皇女御三方が門跡として法燈をお守り戴い

ております。又高松宮は有栖川宮祭祀をお継承になり、殊に高松宮妃殿下の御母君は有栖川宮の最後の皇女であらせられます。
このような高松宮と当寺と
の浅からぬ御因縁から高松宮妃殿下は、寺に万一の事があったらと御心痛遊ぱされ、耐震耐火の御堂
の建立を念願されこの本堂が出来たのであります。

前の本堂は西向きでしたが、上代寺院の規則に従い南面にし、而も本堂と鞘堂と池とを組み合わせ、門跡寺院らしい優雅さ、
尼寺らしいつつましやかさに昭
和の新味を兼ね備えた御堂になったのであります。桝組、蟇股等の組物を一切使わない簡素なつくり
の中に、高い格調を狙ったことが特徴であり、又池の廻
りに黄金色の八重一重の山吹を植え、周囲に四季折々の花木を配し、
斑鳩の里
にふさわしい女性の寺院としての雰囲気にして戴いております。


天寿国曼荼羅繡帳[国宝] .
 聖徳太子は推古天皇即位三十年(六二二)御年四十八で薨去遊ばしました。御妃橘大郎女はいたくお嘆きになり,太子様を御慕い
のあまり,宮中の釆女たちに命じ、太
子様が往生なさっている天寿国という理想浄土のありさまを刺繡せしめられたのがこの天寿国
曼荼羅であります。もとは繡帷帳より成り、そこに四百字の銘文が刺繡
されていて、その全文は「上宮聖徳法王帝説』という書の銘文
に残っております.。そ
れによりますと、画者は東漢末賢、高麗加世溢、漢奴加巳利.監督は椋部奉久麻でした。その後、年の経つに
つれて破損し、法隆寺の宝蔵に秘せられますが、鎌倉時代の
当寺、中興信如比丘尼が発見し、修復されて、別に一帳の模本の補帳
をも製作されま
した。現在の繍帳は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とが貼り合わされて一帳にまとめられています。
この中の赤衣の像が、当時の服制に照らして太子様ではないか
といわれています。図中には亀甲型が四個残り、一個に四字ずつ
「部間人公」「千時
多至」「皇前日啓」「仏是真玩」の文字をあらわし. 「上宮聖德法王帝説」に伝える銘文に合致しております。





白毫寺 拝観の手引き

 白毫寺は、奈良市東部の山なみ、若草山·春日山に続いて南に連なる高円山のふもとにある。この高円の野に天智天皇の第七皇

子、志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられる。当寺の草創については、天智天皇の御願によるもの、勤操の岩淵寺

の一院とするものなど諸説あるが定かではない。「南都白毫寺一切経縁起」によれば、鎌倉中期に西大寺で真言律宗をおこし、多く

の寺を復興、またさまざまな社会事業に関わった興正菩薩叡尊が当寺を再興、整備したとされる。弘長元年(一二六一年)、叡尊の

弟子道照が宋より大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読の基を開いた。以来当寺を一切経寺と呼び、現在も四月八日に一切経法

要が営まれる。「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」の句が人々の口伝えに伝えられ、その法要の後、本当の春が奈良

に訪れるとされた。明応六年(一四九七年) 、古市·筒井勢による戦乱で殆どの堂宇を焼かれるなど度重なる兵火,雷火で堂塔を失

う憂き目を負っているが、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高五十石を扶持され

繁栄した。なお白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという白い毛のことであり、寺号はそれにちなむものと思われる。

閉し

 現在、宝蔵に本尊阿弥陀如来坐像をはじめ閻魔大王坐像ほか重要文化財を、本堂(江戸時代)に勢至·観音菩薩像、聖徳太子二歳

像他を安置する。また御影堂(江戸時代)には中興の祖空慶上人をおまつりしている。

境内には不動,弥勒、地蔵などの石仏が点在し、西をのぞめば奈良市街を眼下に見渡せる。春には樹齢およそ四00年の五色椿
(県天然記念物)をはじめ数多くの椿が咲き、秋
は参道を紅や白の萩の花が覆って,季節の風物を求めていにしえの人々が遊んだ往時
をしのばせる。


◆阿弥陀如来坐像(重文)

 平安-鎌倉時代(像高一三八センチ )

定朝様式の阿弥陀像で当寺の本尊。桧材の寄木造で漆箔を施す。

伏し目のもの静かな温顔と、穏やかな肉取りの体部、浅い彫り口の衣

文などをもち、やや力強さに欠けるが、いかにも品よく仕上げられて

いる。

◆地蔵菩薩立像(重文)

 鎌倉時代(像高一五七センチ)

慈眼と温容に満ち、錫杖と宝珠をもって立つこの像は、当初の光

背·台座まで完備する。桧材を用いた寄木造で、施された彩色は剥落

も少く、切金もかなり残っている。鎌倉後期につくられた地蔵菩薩像

の秀作である。

◆伝·文殊菩薩坐像(重文)

 平安時代(像高一0二センチ)

大きい宝髻、張りのある顔、肉取りの厚い体と膝ぐみをもち、平安

初期彫刻の特質をよくそなえた菩薩像。桧の一材で頭,体部から脇に

かかる天衣まで巧妙に彫刻している。もとの多宝塔の本尊で、この寺

で最古の仏像。


◆司命・司録像(重文)

 鎌倉時代(両像高一三二センチ)

閻魔王·太山王の眷属。ともに虎の皮を敷いた椅子に腰をかける。

司命は筆と木札をもち、上を見て口を固く閉じる。司録は書巻(欠

失)を両手にもち、これを声高に読み上げるかのように口を大きく開

く。両像とも寄木造で彩色と切金とが残っている。明応の火災には救

出されたが、司録の首は後補されている。正元元年頃の康円一派の作

としてその価値は高い。

◆興正菩薩叡尊坐像(重文)

 鎌倉時代(像高七三·九センチ)

戒律復興や貧民救済に活躍した西大寺叡尊は、白毫寺の中興の祖で

もある。寄木造彩色像で、眉の長い特徴ある風貌で端然と坐す姿は晩

年の叡尊をみごとに捉えており、肖像彫刻の優品である。


◆閻魔王坐像(重文)

 鎌倉時代(像高一一八.五センチ)

元あった閻魔堂の本尊で、寄木造の彩色像。大きい冠と道服をつ

け、笏を持って身構える。玉眼の目はことに鋭く、口をカッと開いて

叱咤する。この迫真性に富んだ忿怒の形相は、礼拝者に畏怖の情を十

分に与える。

◆太山王坐像(重文)

: 鎌倉時代(像高一二九センチ)

閻魔王と一対の作だが、明応六年(一四九七年)兵火に遇い頭·体

部と膝ぐみの前面が大きく焼けこげた。翌七年の修理で現状にもどっ

た。体内に造像当初の墨書があり、正元元年(一二五九年)大仏師法

眼康円の作とわかる貴重像である。




帯解寺 略縁起

帯解寺のいわれ

 当山は、勤操大徳の開基巌渕千坊の一院で霊松庵と申し

ました。そして今から約千年前、人皇55代文徳天皇の御妃

染殿皇后(藤原良房公の女)が永い間お子様が生まれず、大

変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、さっそく

勅使を立てられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされ、間

もなく御懐妊、月満ちて惟仁親王(清和天皇)を御安産にな

られました。文徳天皇はお喜びのあまり天安2年(858)春

さらに伽藍を建立になり寺号を改められ、帯解寺と勅命せ

られました。帯解の名称はこれから始まりました。


徳川時代

 徳川3代将軍家光公にお世継ぎがなく、御楽の方が当本

尊に御祈願になって、めでたく竹千代丸(4代将軍家綱公)

を御安産されました。その折種々の瑞祥(めでたいしるし)

がありましたので家光公は瑞祥記を当寺に下賜になり、仏

像仏具等をも寄進されております。寛文3年(1663)には

その家綱公より手水鉢の寄進があり、元禄5年(1692)東

山天皇の御時も当山に祈願されて亀の宮を御安産、また宝

永4年(1707) 6代将軍家宣の右近の方、明和7年(1770

烏丸大納言の方、嘉永4年(1851)伏見邦家親王の御女伏見

宮御息所等、いずれの御方も当地蔵尊にお祈りになって、

御安産遊ばされています。


近年の帯解寺

 このように創建以来あまたの皇族·将軍はじめ大衆の安

産·求子祈願霊場として人口に膾炙され、昭和34年美智

子皇后御懐妊に際して東宮御所に伺候、安産岩田帯、御守

を献納、その折「この度のおめでたに際して御所としては、

全国200ヶ所の神社仏閣(安産霊場)の中から御霊験のあ

らたかな、皇室と関係の深い帯解寺と香椎宮とを選びまし

た。」とのお言葉あり、ついで平成3年秋篠宮妃紀子殿下

そして平成13年皇太子妃雅子殿下御懐妊に際しても同様

安産岩田帯、御守を献納しております。

 当山では千年来伝わる秘法の祈祷を修し、安産御守を授

与、また子宝なき方には門外不出の秘伝文書により貫主自

ら御守、護符をしつらえ、一週間祈祷を修して授与申し上

げております。このご本尊帯解子安地蔵菩薩は至心に祈願

すればたちどころに利益を賜る広大無辺の御仏です。


本尊·地蔵菩薩像(国指定重要文化財)

木造 寄木造像高182.6cm 鎌倉時代

 帯解寺の本尊地蔵菩薩像である。左手に宝珠、右手に錫杖

を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐す。地蔵菩薩がこのよ

うに半跏の姿勢をとるのは、一説に釈迦入滅後、弥勒仏がこ

の世に下生するまでの無仏の期間に現れて衆生済度につと

める地蔵菩薩を、兜率天で修行中の弥勒を表わす弥勒半跏

思惟像と同じような姿勢で表わしたことによるといわれる。

わが国では、平安時代後半期から流行するが、また腹前に裳

の上端の布や結び紐を表わすことが多く、それ故、「腹帯地

蔵」として安産祈願の対象としても信仰をあつめた。この帯

解子安地蔵菩薩は、そのなかにあって、現在に至るまで霊験

あらたかなことでは、このうえない名像として広く信仰を

あつめている。

 檜材を用いた寄木造の像で、頭部は前後に矧いで挿首と

し、躰幹部も前後に矧ぐものと思われる。表面は彩色仕上

げ。肩幅の狭いわりに頭部を大きく造るところが本像の一

つの特徴といえ、膝にかかる衣の浅い彫りなどには前代の

古様が見られる。寺伝によると、安政の地震で堂が転倒し本

像も大破したといい、各部に修理の痕跡が認められる。なお

錫杖の旧物の一部が、別に保存されている。


(江戸時代)

 天安2年(858)文徳天皇の皇后(染殿皇后=藤原明子)が

当寺に祈願し、清和天皇が誕生したことで地蔵堂を建立し

たが永禄10年(1567)に松永弾正の兵火にあい焼失した。

その後江戸時代2代将軍秀忠の援助で再建されたが、安政

の大地震で倒壊し、安政5年(1858)に再興されたのが現在

の本堂である。最近本堂の後方に防火施設の整った収蔵庫

兼内陣部を付設して、後願の憂いをなくした。

庫裡·書院(室町時代)

 床、違棚、付書院を設け落ちついた間取りと成っている。

東側の庫裡と一つづきの切妻造りだが庫裡は大改修されて

おり、玄関の敷居から両側の部分に古い柱間が残ってい

る。木組みから見て、永禄10年(1567)松永弾正に焼かれた

あと、元亀元年(1570)頃再建された当時のものと考えら

れている。

その他の寺宝

 春日赤童子画像(市文化財) .不動明王坐像,三面六臂大

黒天立像·十一面観音立像,千手観音立像·阿弥陀如来

坐像·薬師如来坐像·虚空蔵菩薩坐像·文殊菩薩坐像

愛染明王坐像· 誕生釈迦仏(3代家光公寄進).染殿皇

后画像·日輪大師画像·阿字観図·鷹図屏風(曽我二直

庵) ·安産祈祷巻数·巡見使書状.他

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岩田枇信仰と帯解寺

1·岩田帯信仰のはじまり(神功盘后とのかかわり)

紀元320年、神功皇后(気長足姫)が、熊襲征伐のため九州におもむいた時、筑紫の橿日官(香椎官)にて、夫

君仲哀天皇の突然の死にあい、悲しみにくれていたところ、天照大御神の託宣を受けた住吉三神の加護により、新羅

の国に遠征せよとの命を受け、出発した。しかし、皇后は身重であった為、胎児を守護するため、さらしの帯を腹に

巻いて出発し、無事征伐して帰路についたが、途中生まれそうになって石を腹帯の両端につけて、無事に筑紫に着陸

し、宇美という所で皇子をめでたく出産された。そしてお生まれになった皇子は3歳で皇太子となり、後応神天皇と

して即位され、後世、武運長久の神、八幡神(八幡大菩薩) として信仰されるようになった。

以上、神功皇后が腹帯を巻かれて出征され、帰路無事めでたく息子を安産されたことで、腹帯(岩田帯)信仰が起こ

り、平安時代に入って貴族社会の中で、仏教の密教による安産御祈祷の流布と共に、宗教的儀礼の1つとして定着し

た。

帯解寺の岩田帯信仰

55代文徳天皇妃染殿皇后(藤原明子)が、長らくお世継ぎに恵まれず、お悩みの折、奈良より南一里に弘法大師が

おつくりになった霊験あらたかな腹帯地蔵(裾帯地蔵)がおられることを知られ、早速お参りになると、ご懐妊、月

満ちて、めでたく皇子(56代清和天皇)を安産されたことで、お喜びになった天皇は伽藍を建立になり、寺号も帯

解寺と勅命された時に平安時代初期天安2年(否潛858年)のことであった。

清和天皇が源氏の基であることから、その後帯解寺は武士の厚い信仰を受けることになり、特に江戶時代は徳川将軍

家の手厚い信仰と保護を受けた。そして岩田帯信仰は庶民の間にも広まり定着した。

江戸時代初期は、現在のように医療が進んでおらず、帝王切開などもなく、妊婦は難産に陥ることが多く、胎児が出

てこないと苦しみ死を待つしかなかったような時代だったので、胎児が育ちすぎないようにと、腹帯を出来るだけ強

く巻いていた。しかし江戸中期以降、強く巻くと胎児と妊婦に有害であるという考えが出てきて、現在のようにゆる

く巻くようになった。戌の日に着帯するのは、犬が多産で大変安産であり、悪霊を防ぎ子供を守ってくれるという理

由による。


3·近世·近代

明治になり近代化と共に日本は神国として軍国主義の道を歩むこととなり、神功皇后伝説は渇仰の的として国民の

に浸透し教科香に英雄として掲載されたり、武者人形として崇拝されたりしたのである。そして神功皇后を祭神とす

る香椎宮をはじめとする多くの神社が岩田帯信仰の依り所となった。

一方仏教は廃仏毀釈のあおりで衰退し、廃寺となる寺も多く出た。帯解寺も例外ではなく、寺領も減少して無住を余

儀なくされたが、幸い御本尊が霊験あらたかなので、庶民信仰に支えられ廃寺になることはなかった。第二次大戦後

世の中が落ち着くと、当寺も活気を取り戻して昭和34年、美智子皇后陛下ご懹妊に際して、安産祈願法要を厳修

し、同年9月30日東宮御所に伺候、岩田帯·御守·御札を献納、そして翌2月23日めでたく浩宮親王(現皇太子)

を御安産された。最近では、秋篠宮妃紀子様、次いで皇太子妃雅子様に同様献納しています。

合掌

帯解寺住職 倉本尭慧






秋篠寺 拝観の手引き

秋篠寺沿革略記

 奈良時代末期宝亀七年(七七六)、光仁天皇の勅願により地を平城宮大

極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる

当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とは、時を同じく

してその完成を見,爾来、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝

来されて以後、大元帥明王彰現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね

真言密教道場として隆盛を極めるも、保延元年(一一三五) 一山兵火に罹

り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼

失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及び境内各処

より出土する古瓦等に偲ぶ外なく、更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をは

じめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山各時代に亘る復興造営の甲斐

も空しく、明治初年廃仏棄釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大

半を奪い、自然のまゝに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿

を呈するに至っている。

 当寺草創に関しては一面,宝亀以前当時秋篠朝臣の所領であったと思わ

れる当地に既に秋篠氏の氏寺として営まれていた一寺院があり、後に光仁

天皇が善珠僧正を招じて勅願寺に変えられたと見る説もあり、詳しくは今

後の研究を待つ外ないが、当寺の名称の起りを解明する一見解として留意

すべきである。

 なお宗派は当初の法相宗より平安時代以後真言宗に転じ、明治初年浄土

宗に属するも、昭和二十四年以降単立宗教法人として既成の如何なる宗派

宗旨にも偏することなく仏教二千五百年の伝統に立脚して新時代に在るべ

き人間の姿を築かんとするものである。

本堂

 当寺創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以後鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ばれてき

たもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の

中にも均整と落ちつきを見せる純和樣建築として注目される。桁行一七·四五米(五間)、梁間一二..

一二米(四間) 、軒高三.七八米、軒出二.二九米。

堂内尊像

 愛染明王(あいぜんみょうおう)

  寄木造坐像赤色、推定鎌倉時代末期。瑜祇経愛染王品の所説によって造顕され、一面真言宗の要典理趣経
  を具象化した明王とも考えられる。
大愛欲大貪染三昧に住する尊で、人間の煩悩を以って菩提心たらしめる法
  力を加備したまうと説かれる。

 帝釈天(たいしゃくてん)

  頭部乾漆天平時代、体部寄木造鎌倉時代、極彩色立像(後記伎芸天の項参照)。

  普通梵天と一対を成し仏法の守護神として崇められるが、もとはインド教に於ける軍神で、古くより様

  々の形でインド神話に現われる大神。衣紋の彫の強さ、上半身に見える引き締った厳しさ等に鎌倉彫刻

  の特性が感じられる。 (重文)

 不動明王寄木造立像,極彩色、推定鎌倉時代末期。

  大日如来の使者として真言行者を守護し忿怒の御姿を以って悪魔煩悩を滅除したまうと説かれ、

  平安時代以降広く信仰される。

 薬師如来(薬師瑠璃光如来)寄木造坐像素色、推定鎌倉時代後期。

  当寺本尊。

  左手に薬壺を持し右手は施無畏印を成して衆生の病苦を除き安楽をもたらす慈悲尊と説かれ我国仏教
  の初期より薬師信仰は極
めて盛んである。御面相等に貞観風の厳しさも感じられるが技法上かなり後世
  の作と思われる面が多い。
(重文)

 日光菩薩·月光菩薩共に一木造立像、平安時代初期、

  当初は極彩色であったと思われる。

  薬師如来本願経により、薬師如来の両脇侍として造顕され、如来の太陽の光の如く温かい慈悲と、
  月の光の如く清ら
かな知慧を表すべく夫々の御手に鏡を持して各日輪及び月輪を示すもので、
  上代の作例としては珍らし
い像形である。 (重文)

 十二神将寄木造立像、極彩色、鎌倉時代末期。

  薬師如来の眷属として薬師如来の浄土、衆生を護る十二の夜叉。経典には更に各々七千の眷属を従
  えて護法の任に当ると説かれる。子·丑·寅等十二支の動物
形を夫々冠に戴く表現は概して鎌倉時代以降
  のものに多く見られ、十二の時間及び方位の呼称に結びつ
いた後世の思想に基くものと考えられる。

 地蔵菩薩一木造立像、素色、平安時代中期。

  地蔵菩薩本願経によれば、釈尊入滅の後五十六億七千万年を経てこの世の一切衆生を済度するため
  弥勒菩薩が出現せられるまでの無仏五濁の世にあって、六道衆
生に光明を授け衆中を巡導し救済した
  まう菩薩と説かれ、平安時代初期より盛んに信仰される。単純さ
の内にも優雅にして清楚の感深く典型的
  な藤原時代の作風を見せている。 (重文)

 伎芸天(ぎげいてん)頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像。

  密教経典「摩醯首羅大自在天王神通化生伎芸天女念誦法」等によって造顕され経意によれば大自在
  天の髪際から化生せられた天女

  で、衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまうと説かれている 古くは各地に於ても信

  仰されたと思われるが現在では他に全くその遺例を見ず我国唯一の伎芸天像である。前記帝釈天像及び

  梵天像(現在奈良国立博物館に出陳中) 、救脱菩薩像(同)の三体と同様最初天平時代に造顕され、後災

  禍のため卸胴体以下を破損し鎌倉時代に至って体部が木彫で補われたものと考えられ、これら四体の像

  はいづれも頭部のみ当初のままの乾漆造で体部は寄木造である。現在鬘部の宝冠及び両肩より垂れる天

  衣の一部が欠失し単純な形であるが、時代を隔て、なお保たれる調和と写実的作風は限り無い人間味を

  湛え古くより美術家文芸家等の間にも広く讃仰者を集めている。(重文)

 五大力菩薩五体共に寄木造、推定平安時代末期。極彩色。

  旧訳仁王経に於て、王者がこの菩薩を供養すれば国土安泰と説かれる。台座は本来の岩座を欠失し目下
  仮座である

 その他の主な尊像

 大元帥明王当寺別尊、

  秘仏、毎年六月六日結縁閉扉。推定鎌倉時代。木彫極彩色,立像。(大元堂安置.重文)

 十一面観音 平安時代初期,木彫極彩色立像。 (東京国立博物館に出陳、重文)

 救脱(ぐだつ)菩薩 極彩色立像。(奈良国立博物館に出陳、重文)

 梵天 (同右)。

 地蔵菩薩 平安時代初期、木彫素色立像。(京都国立博物館に出陳重文)


別尊大元帥明王御縁起

 大元帥明王(たいげんみょうおう)とは詳には大聖無辺自在元帥明王と称し、仁明天皇承和六年十二月

常寧殿にて勅修以来,宮中に於てのみ修せられるべく御治定の鎮護国家の大法大元帥御修法(たいげん

のみしほ) の本尊として重んぜられ、何地に於ても勅許を得ざる修法は勿論、尊像の造顕奉置も禁ぜら

れ、その結果我国唯一の像として当寺に伝わるものであるが、その因縁には、かつて常暁律師当寺の閼

伽井に於て水底に落る自らの影を眺めるうち更にその背後に長大なる忿怒の形影の重なるを観,甚だ奇

特の思いを為してその形を図絵し此を身に帯び、後日渡海入唐の時、折あって此の尊法に遭うを得,先

ず本尊を拝するところ正しく本国秋篠寺に化現の像と同じく, これを以って奇しくも明王常暁律師の求

法に先立って当寺香水問伽井に示現せられたると知るべきを示す伝説があり、更にその機縁の故に永

く禁裏御香水所として明治四年まで例年一月七日の御修法に際し献泉の儀を務めたる歴史を有つ。

なお、阿吒薄元帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌(唐善無畏訳) の本文を取抄すれば左の如くである。

 我信じ我礼し我帰し奉る元帥大明王、此れは此れ大毘盧遮那の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生

 の父母にして不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の

 功徳心等一切を摂して衆徳荘厳せり。或は金剛忿怒の相を現じ、或は菩薩大慈悲相を現じて類に随っ

 て擁護したまう。今願力の故に以つて大元帥明王となし、諸尊の中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。

 若し一切世間有情の類、宝呪を持し宝号を称せんに、内外諸障を除きて、必ず世間出世間の願にこた

 えん。菩提心を成ぜんと願じ、乃至金剛心無畏心に住せん等の出世間の大願を発せんに正法護持の故

 に悉く願成就せん。又衆生あって、正因縁に住し、災を息めんものは即ち願成就し、栄福を求めんも

 のは即ち願成就し、勝利を為さんものは即ち願成就し、横病を離れんものは即ち願成就せん。明王の

名を聞いて一度讚嘆せんものは、世間の宝果悉く円成す。かるが故に一切世間悉く当に大元帥に皈依すべし。






飛鳥大仏について

本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)

 銅像 飛鳥時代 重要文化財

推古天皇13年(605)、天皇が聖徳太子や蘇我馬子及

び各皇子と誓いを立てて発願し、同17年(609)鞍作鳥

(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像である。

高さは約3メートルで当時銅15トン、黄金30キログラ

ムを用いて造られた。平安·鎌倉時代の大火災で全身

罹災、後補を受ける。しかし概形には飛鳥彫刻らしい

形をとどめ、細部にもかなりはっきりした飛鳥の特色

を伝えている。 




喜光寺 続き

本堂(重要文化財)明応八年室町時代天文十三年(一五四四)

 当寺は、明応八年(一四九九)

 に焼失しましたが、その後再建されたのが、現在の本堂です。重層の

 本堂は薬師寺の東塔や金堂と同様に裳階を付けた美しい復古建築であ

 ります。上層支輪のあたりに天窓を造り、西方の光が入り、阿弥陀如

 来の来迎を彷彿とさせ、浄土信仰にふさわしい阿弥陀堂といえます。

〇ご本尊(重要文化財)平安時代木彫寄木造り像高二・三三m

 創建当初のご本尊が何であったか不明ですが、現在は平安時代に造像

 された丈六の阿弥陀如来がご本尊であります。木彫の上に下地漆を塗

 り、その上を金箔仕上げにして造られていますが、今は、お顔にその

 一部を残すのみで、お顔の表情は実に静かで穏やか、そして肩から胸

 にかけての衣文の線は流麗であり、彫りはやや浅くそれがかえって阿

 弥陀如来の慈悲深さを観じさせています。

〇両脇侍南北朝時代 像高 観音一·六四m勢至一・.六一m

 脇侍は、観音菩薩と勢至菩薩の坐像であり、笑みをたたえたお顔や、

 座られた足の表情などに親しみを覚えるお像であります。

〇弁天堂

 秘仏のご神体は、宇賀神王といい、公開は、七月下旬。財福等に霊験

 あらたかといわれ、信仰されています。

〇行基菩薩坐像像高八十三cm、

 この坐像は、唐招提寺所蔵(重文) の行基菩薩坐像を、入寂千二百五

 十年を記念して複製されたものであります。

〇吉祥天画像タテ六十二cm ヨコ四十七cm.

 この像は、薬師寺所蔵の吉祥天女画像(国宝)を参考にして、土田は

 る刀自(八十八才)が画かれ、平成十一年正月にご奉納されました。

〇境内

・石仏群(不動明王観音菩薩地蔵菩薩阿弥陀如来等)四十七体

の石仏群は、江戸時代に造られたものです。境内に散在していたも

のを一か所に集め、奉安しています。

・仏足石平成八年(一九九六)当山の住職が、インド仏跡巡拝の際

ブッダガヤの聖地にある仏足石を前正覚山の石に写し、請来したも

のです。

・万葉歌碑平成十年(一九九八)奈良市に万葉歌碑を建てる会の協力

により建立されたもので、市内筆十四基目,石川郎女が詠んだ哀歌です。


  大き海の水底深く思ひつつ裳引き平らしし菅原の里

         (万葉集 巻二十·四四九一)

・ハスの花

 開花は、六月下旬から八月上旬までです。境内の参道に並ぶ二百鉢
 余りの花
蓮は、大賀蓮や舞妃蓮など紅白様々な種類の蓮の花が楽し
 めます。

・いろは写経道場

 平成七年(一九九五)建立。ご本尊はインド請来の釈迦成道の木彫

 提樹)です。毎月二日が縁日でお写経と法話が行われます。お写経は
 いつでもできます。






飛鳥時代とは

 年代的にいえば、推古天皇が豊浦宮に即位した6世紀の終りから、元明女帝が

和銅3年(710年)に奈良平城京に遷都するまでの約100年間を指すことになってい

る。この間の歴代天皇は一代ごとに都を移しているが、推古帝の豊浦宮と小墾田

宮を始めとしていずれの宮も飛鳥地域内にあり、この間に飛鳥を離れたのはわずか

3人だけであった。その3人、孝徳天皇の難波宮と天智 弘文天皇の近江大津宮の

時代は、両方あわせてもわずか15年に過ぎなかったし、その間も留守官を任命し維

持されていて、飛鳥は捨てられていたわけではなかった。それ故この時代の政治文

化の中心は飛鳥にあったといっても過言ではなく、総称して“飛鳥時代”と呼ばれて
いる。

 飛鳥時代を一口にいうと中国·朝鮮からの仏教伝来にともない、古墳時代から

脱皮し、新しい文化を発展させた時代であり、政治、経済、社会ともに大変革が試

みられ、天皇制律令国家へ飛躍するという意味において日本国家成立の時代と

いうことができる。

飛鳥の歴史のあらまし

 奈良盆地と周辺の山間地域では、旧石器時代の人々の痕跡が発見されつつ

ある。飛鳥の地域ではまだみつかってはいないが、天理市庵治遺跡や奈良市法

華寺南遺跡、大和高田市池田遺跡などではナイフ形石器が出土しており、約2万

年前頃から人々が住み始めていることが確実視されるようになってきた。

 早くも縄文時代草創期には檜隈脇田遺跡から有茎尖頭器などの石器が出土

しており、これらを使用した人々が飛鳥の地にあらわれ、生活の痕跡をとどめ始め

ていることがわかる。また、例えば稲淵ムカンダ遺跡や飛鳥京跡の下層からは縄

文時代の土器や石器がまとまって出土しており、特に飛鳥川沿いで縄文時代の人々

が生活を営んでいたことがわかってきた。

 弥生時代、中国大陸や朝鮮半島から大陸系の文化が日本列島に伝わり、稲,

作農耕が開始されることになった。およそ紀元前400年頃のことと考えられている。

やがて稲作農耕が定着をみると米の生産が増大することとなりこれらの余剰生

産物や水利権をめぐって集団間の争いが激しくなった。このような社会状況は指

導者を必要とするようになり、やがてそこには身分差や階級差が生じる結果を生

んだ。

 そんななか、邪馬台国が中国の歴史書に現れるのは西暦239年に関する記

事からである。邪馬台国の女王卑弥呼もこのような社会状況を反映して登場し

た指導者のうちの一人であったのだろう。飛鳥の地域にも飛鳥京下層遺構にあた

る岡遺跡などの弥生時代に営まれた遺跡がある。

 邪馬台国が初期ヤマト王権(政権)へと移行する頃が古墳時代の始まる時

期ではないかと考えられるようになってきているが、ヤマト王権(政権)の大王たちは

その死後に巨大な古墳を築き権勢を誇示した。飛鳥の地域に古墳時代前半頃

の古墳は未発見であるが、この時期の集落遺跡として上ノ井手遺跡がある。古

墳時代も中頃には朝鮮半島から多くの渡来人が新来の技術を携えて日本列島

にやってきている。飛鳥の地域にもこれらの渡来人がやってきて生活しているが、

古墳時代の後半頃から飛鳥時代にかけては、多くの渡来系の人々が歴史の表

舞台にも登場するようになった。

 古墳時代に続く飛鳥時代は、王権をめぐっての争いが激しく、それにからんで

豪族の間でも利益を得るための対立が深刻化し始めていた。濺鳥時代に入る

直前頃に伝来した仏教に関して、崇仏古墳時代に続く烧鳥時代は、王権を

めぐっての争いが激しく、それにからんで豪族の間でも利益を得るための対立が

深刻化し始めていた。飛鳥時代に入る直前頃に伝来した仏教に関して、崇仏

派の蘇我氏と排仏派の物部氏との争いが激しかったことなどがその 例として

挙げられよう。しかし、そののちに聖徳太子が登場することにより、秩序ある国家

への道が開かれ、天皇を中心とした律令国家が築かれていくことになる。用明

天皇の皇子であった聖徳太子は、幼い頃から聡明で、10人の訴えを .一度に聞

いて誤りなく裁断できたというエピソードの持ち主である。また、飛鳥時代の始まり

とされる推古天皇が即位した時期に摂政として政治をよく助けたとされるが、そ

の施策は、仏教を基調としたものであり蘇我氏の権勢を押さえながら天皇中心の
統一国家築き上げること目的の一つでもあった。その方法として、冠位を定め、

憲法を制定し、天皇の権威を高め、史書を編纂するなどしている。

 また四天王寺や法隆寺などの壮大な寺院を建立して仏教の興隆に努めたため、

この時代の仏教建築や彫刻は、輝くばかりの荘厳な飛鳥の文化を作りだすこと

になった。太子は外交にも積板的な姿勢で臨み、中国との国交に、それまでの朝

鮮半島経由をやめ、直接使者を送って対等な関係を樹立した。そして、多くの

留学生や僧を送って、中国文化の摂取に努めている。太子の没後、政治の実権

はまたもや蘇我氏に戻り、太子の子である山背大兄王が暗殺される事件などがあっ

たが、中大兄皇子によって蘇我入鹿が倒され大化の改新が始まると、豪族の政

権介入に一応の終止符が打たれた。こうして聖徳太子の政治理念は、大化の

改新によって受け継がれ、天武·持統の両帝によって確立されたことによって

鳥時代は幕を閉じる。

 鳥の歴史には、いまだ解明されていない問題が残されており、今後の研究に

待たねばならない事も数多くある。しかしながら,現在では美しい棚田を中心とし

た農村風景が展開するこの地に立てば、古代国家形成に情熱を傾けた人々の息

吹が聞こえてくるようである。

飛鳥の文化

 飛鳥の歴史は、政治面では争乱の歴史であったが、文化面では、今日の文化

の基礎が花開いた時代ということができる。

 この時代に次々と建立、製作された飛鳥様式と呼ばれる寺院や仏像彫刻は、

引き続き白鳳·天平様式へと推移する。現在、飛鳥文化をそのまま伝えるものとして、

山田寺回廊や飛鳥大仏の他、斑鳩の法隆寺及びその周辺を挙げることができる。

特に、法隆寺は一度焼けたとはいえ、伽藍配置や仏教の様式に、大陸の六朝風

が取り入れられており、現存する飛鳥文化の代表作とされている。

 一方日本文学の原点といわれる万葉集には、烧鳥時代の人々の歌が多数収

録されており、これらの歌謡には、当時の人々の大らかな生活ぶりや、繊細な生活

感情がよく表されている。文学作品としても非常にすぐれたものがあり、飛鳥文

化の水準の高さを証明している。また、これらの万葉集を書き写すために、いわゆ

る万葉仮名が生み出されることにもなった。 

 





檜隈寺跡 続き

 昭和54年からの発掘調査によって、金堂·講堂とその基壇.

塔·門·回廊·仏堂などが検出されている。これらの伽藍配置は塔の北に講堂があり、

南に金堂を置くという特異な配置で,かつ瓦積基壇という工法は近江、山城、

そして朝鮮半島の寺院で多く用いられており、日本への導入も渡来系氏族との関

係が指摘されている。また、瓦が大量に出土しており、講堂の規模は飛鳥寺や法隆

寺西院の講堂に匹敵する。創建年代は出土した瓦などから7世紀後半~8世紀初

頭にかけてと考えられている。その他に平安時代の遺構からではあるが、金銅製飛

天の破片が出土をみており、東漢氏の中心氏族檜隈氏の氏寺として建立された当

寺の出土遺物としてふさわしいものである。現在、阿知使主を祀ったとされる於美

阿志神社や、重要文化財である平安時代に造られた十三重石塔が現地にある。

また、このあたりに宣化天皇の盧入野宮があったといわれているが、定かではない。



橘寺

 ほぼ東西方向に中門·塔·金堂·講堂が並ぶいわゆる四天王寺式の伽藍配置と

なることが発掘調査によって明らかにされている。仏頭山北麓に位置し、すぐ北側

には川原寺が営まれている。伽藍創建時の様子は不明であるが、金堂の造営が7

世紀の前半頃、講堂の造営は8世紀、塔はその間の時期に造営されたと考えられ

ている。多量の塼仏(せんぶつ)が出土したことから、川原寺同様仏堂を三尊塼仏で飾ってい

たと推測されている。『法隆寺伽藍縁起併流記資財帳」や「上宮聖徳法王帝説」

などの文献は、橘寺と聖徳太子を結びつけるが、創建の事情は語られておらず、明

らかではない。一般的に太子がお生まれになった御寺とされている。境内には二面

石と呼ばれる石造物があるが、その顔はそれぞれ人の心の善悪を象徴していると

いわれている。






川原寺

 1957~59年に行われた発掘調査によって南大門、中門、塔、西金堂、中金堂、講

堂、回廊などが検出された。伽藍配置の特色として、中金堂の前庭に塔と西金堂を

対置することが挙げられ、このような配置形式をとる寺院として他に近江南滋賀廃

寺や筑紫観世音寺などの例が考えられている。川原寺創建の事情は明らかでな

いが、創建以前の遺構によって埋め立てられた池に埋没していた遺物から7世紀

前半を遡り得ないことが指摘されている。また、創建以前の遺構が発見されたこと

から、これらを川原宮と推定する考えがある。藤原宮期を通じて官の三大寺、四大

寺に数えられる格式を保っていたが、鎌倉時代に焼失する。しかし、川原寺裏山遺

跡の発掘によって、金箔が施されたものも含めて、千数百点の三尊塼仏、数百点の

塑像などが出土し、創建当初の堂塔内の華麗さを伺い知ることができるようになった。

現在伽藍の一部が復元整備されており、当時の面影を偲ぶことができる。 






奥飛鳥

 大字稲渕から栢森にかけての飛鳥川沿には、南淵請安の

墓とされる石碑や飛鳥川の飛石と呼ばれる石、

美しい棚田の風景が存在する。南淵請安は推古天皇六(608)

年、遣隋使小野妹子らとともに隋に渡った留学生のうちのひ

とりで、大化の改新を計画した中大兄皇子と中臣鎌足に大

陸の新しい様々な知識などを伝授したとされる渡来系漢人で

ある。神明塚という小さな丘にある、寛文二(1662)年建立の“南

淵先生之墓”と刻まれた石碑が建つ場所を一般的に南淵

請安の墓としている。この川に沿って稲淵、栢森を通り芋峠

へと続き、吉野へと抜ける道が存在したと考えられており、持

統天皇のたび重なる吉野行幸にはルートの一つとしてこの川

沿いの道も想定されている。




酒船石

9酒船石

サカフネイシ

石造物のうちの一つで、平坦な表面に液の溜まりと溝様の彫り込みがある。酒を

搾ったものであろうとの想像からこの名前がついたが、油を造ったものであろうとか、

庭園の施設の一部であろうとか諸説ある。この石はもともと大きかったものが、近世

にはいって高取城を築城する際に大きく割って搬出されたのではないかとの言い伝

えがある。近年の発掘調査によって、酒船石のある丘陵は、裾部に花崗岩を据え、

頂部に天理市の石上付近で産出する砂岩の切石を積み上げた「石垣」で取り囲

まれていたことが数次にわたる発掘調査によって明らかとなってきた。これらの事柄

は『日本書紀』にある「宮の東の山に石を累ねて垣とする」「石の山丘を作る」、石

を「石上山」から運んだとする、などの記述をあらわしていると思われる。

 





亀形石造物

 酒船石遺跡の北西に位置する謎の石造物。1999年発見された。全長2.4m、幅

2mの亀形を呈する。顔を南向きにして据えられていた。丸く彫られた両目、4本の

指の表現が施された両足が特徴的である。甲羅部分は円形の凹型になっており、

水を溜める仕組みであったことがわかる。水は鼻の穴から甲羅部分に流れ込み、V

字状に彫り窪められ表現された尻尾の部分から流れ出すようになっている。亀形石

槽のすぐ南側には小判形(船形)に彫り込まれた水槽を有する石造物が、さらに南

側にこれら石造物に水を供給していたと思われる湧水施設がみつかっている。斉

明天皇が信仰した道教の世界を表す両槻宮の一部ではないかとか、政治を占う施

設とか、身を浄める場所とかさまざまな説がある。出土した土器などから7世紀中頃

~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されている。







岡寺

 義淵僧正によって建立されたと伝えられるが、当時のものは隣接する治田神社

境内にあったと考えられている。

 重文の仁王門·書院をはじめ、本堂·楼門(桃山時代1614)など堂宇の美しい寺

院で、義淵僧正坐像(国宝、奈良末~平安初期)·天人浮刻塼(重文·奈良時代8

世紀)·木造仏涅槃像(重文·藤原時代)の他、本尊の如意輪観音坐像(重文·天平)

は我国最大の塑像として有名である。なお、胎内仏という奈良前期の銅造如意輪

観音像がある。また観音信仰の対象として、西国33カ所巡りの7番札所となってい

るため常に多くの参詣者がある。開山の義淵僧正は8世紀に活躍する一流の名僧

たちを育成した人として有名である。






水落遺跡

 甘樫丘の東側飛鳥寺の西側に位置する。発掘調査の結果、特異な基壇を持

つ大形の正方形建物遺構が見つかった。発見された遺構は他に、基壇内を走る

木樋暗渠、銅管、漆塗木箱などがある。基壇内部に引き込んだ水を基壇上へ汲み

上げる装置を持ち、中国に現存する元·明·清代の漏刻の受水槽と同様の漆塗木

箱の痕跡が検出されていることなどから、これらの遺構は斉明天皇6年の時、皇太

子であった中大兄皇子が作ったと伝えられる「漏刻」台の跡であることが想定され

ている。「漏刻」台が築かれた背景として、当時の中国的な政治理念にもとづいた「時

の支配」の観念が存在したことが考えられている。出土した土器の検討から650年

~660年代の間に造営され廃絶したと推定されている。




甘樫丘

 頂上からは飛鳥一円が眺望できる標高148mの小高い丘である。この丘の中腹

と麓に、蘇我蝦夷人鹿親子の邸があったと言われているが、大化改新によって入

鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれて

いる。「多武峯縁起絵巻」などにも炎上する蘇我邸が描かれているが、甘樫丘の

東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)が発掘された結果、焼けた建築部材·土器

などが出土した。この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥

寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の

上方に蘇我邸が存在していたであろうことが想定されている。



豊浦宮跡·豊浦寺跡

 日本最初の女帝である推古天皇は592年に即位するが、崇峻天皇暗殺から間も

ない時であったため、新たに大規模な宮殿を築かなかったとする考えがあり、それが

蘇我氏の邸宅の一部を転用した豊浦宮と考えられている。飛鳥時代の幕開けで

ある。その後、宮は豊浦寺となるが、発掘調査の結果、金堂,講堂など伽藍配置の

部が明らかとなっている。また、出土した瓦からは飛鳥寺との関係が深いことや、

遠隔地からも供給されていたことなどが判明した。



万葉集

 日本に現存する一番古い歌集の名前。いつ頃出来上がったものが、誰が褊篆し

たのかはっきりしていないが、8世紀の終りに大伴家持が現在の形にまとめたのであ

ろうと推測されている。4500首あまりの歌が20巻にまとめられていて、そのうち短歌

が4200首ほどを占め他に長歌·旋頭歌などが見られる。

 歌の作者は天皇をはじめ貴族、上下の官吏、農漁民その他にわたり、地域的にも

東国から九州まで広い範囲で収録されている。また特定の作者を持たない民謡風

のものが数多く採られているのもこの歌集の大きな特徴である。

 歌の年代は数百年にわたっているが、古い時代のものは不明確なので舒明天

皇以後、奈良時代後期までの約200年ほどを万葉時代と呼んでいる。

 飛鳥時代のすぐれた万葉歌人としては、舒明、斉明、天智、天武、持統の各天皇

に有間皇子、額田女王、鏡王女、大伯皇女、志貴皇子、などの貴人や、柿本人麻呂、

高市黒人などの名があけられる。奈良時代の代表歌人としては山上憶良、山部赤人

、大伴旅人、大伴家持など民間人の名が多いのが注目される。

 また万葉集は表記の仕方が特異なことでも後代の歌集と区別される。この時代

には仮名文字が使われず万葉集もすべて漢字を用いていたが、正当な訓によるも

のと、漢字の意味に関係なく表音文字として用いているものとが入りまじって用いら

れた。いわゆる万葉仮名のことである。万葉歌の内容は歷史上の出来事の他、恋

や自然の風物を歌ったものが多く、万葉人のおおらかな生活ぶりや感情がよく表わ

されている。
――――――――――――――――――――――――――

万葉古代学研究所講座『万葉集』からみた古代アジア
   井上 さやか    
   於・奈良県立万葉文化館/2009-8-22

 ずっと気になうている歌があります。それは次のような歌です。

 大伴宿祢家持の、詔に応へたる歌一首

  大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

                 (第十七―――三九二六)

  藤原豊成朝臣、巨勢奈弖麻呂朝臣、大伴牛養宿祢、藤原仲麻

  呂朝臣、三原王、智奴王、船王、邑知王、小田王、林王、穂積朝

  臣老、小田朝臣諸人、小野朝臣綱手、高橋朝臣國足、太朝臣徳

  太理、高丘連河内、秦忌寸朝元、楢原造東人

  右の件の王卿等、詔に応へて歌を作り、次によりて奏し

  き。登時その歌を記さずして漏失せり。ただ、秦忌寸朝

  元は、左大臣橘卿謔れて云はく「歌を賦するに堪へずは

  麝を以ちて贖へ」といヘり。此に因りて黙已をりき。


 この歌は大伴家持が詠んだ歌で、宮の内にも外にもあまねく、輝く

ほどに降った白雪はいくら見ても見飽きないことだ、という内容で

す。積雪がめでたいこととして表現されています。なぜ積雪がめでた

いものであったのか、そのこと自体も興味深く思いますが、むしろ私

が気になったのは左注の部分でした。

 左注には藤原豊成ら十八名の名前があげられ、彼らも詔に応じて

歌を奏上したがその時に記録しなかったのでわからなくなってし

まった、とあります。つまり、この時には家持だけでなく大勢の人が

歌を詠んだようです。『万葉集』には、同じ時に詠まれたという歌が

ほかに四首載せられています。それらの歌群を一括した題詞には、天

平十八年(西暦七四六年)の正月に大雪が降った際に、時の左大臣で

あった橘諸兄以下臣下たちが連れ立って元正上皇のもとへ参上して

雪かきをしたこと、その後宴会となり、上皇から雪をテーマに歌を詠

むようにという勅がくだったので詠んだ歌であること,などが記さ

れています( 17三九二二題詞)。この記録から、少なくとも二十三人も

の大宮人たちが、宮中の宴で和歌を詠み大いに盛り上がったことが

うかがえます。

 しかし、そのきらびやかな宴席でとある事件が起こったようです。

左注の最後にはこう付け加えられています。ただし、秦朝元は、左大臣

橘諸兄が「歌を詠むことができないのだったら、麝香で償え」と言った

ので黙り込んだ、と。秦朝元とは、唐へ留学した僧・弁正と唐の女性と
の間に生まれた人物で、
唐生まれの唐育ちでした。とはいっても、この
当時は図書頭(図書
の保管·書写などを司る部署の長官)であり、外従
五位の上位にあ
りぼした。ほた、入唐判官もつとめた経験があり、この
翌々月には主
計頭(国家財政の収支を司る部署の長官)にもなってい
ます。つまり
実際に大和朝廷のなかでポストに就き、大和言葉で生活し
ていた人
なのです。

 彼の父親は留学先の唐からついに帰国することができず、彼の地で

没したということです。兄の朝慶も唐で没し、朝元のみが帰朝したと

記録にはありぼす。おそらくは父の遺志を継いで、彼にとっては異国

であった「故郷」大和へ向かったのではなかったかと想像します。それ

が個人の意志だったのか、当時のしきたりによるものだったのかはわ

かりません。ただ、生まれ育った土地を離れて、事実上異文化·異言語

の中で暮らしを立てるのは、並大抵の努力ではなし得ないことだった

だろうということはわかります。入唐判官として再び唐に赴いた際に

は皇帝にも謁見し、覚えめでたかった父のおかげで優遇されもしたよ

うです。生まれ育った土地で温かく迎えられた彼がどのような思いで

その後帰朝したのか、それにも関わらず和歌は作れないだろうと言わ

れてしまってどのような思いを抱いたのか、その心中を想像すると、

何ともいえない気持ちになります。

 それと同時に、そうした事柄を書き残した家持という人物にも思い

を馳せずにはいられません。家持は、いったいどのような意図からこ

の左注を書き記したのでしょうか。

 左大臣橘諸兄といえば、当時の政治の実権を握っていた人物です。

大伴家持とも関わりが深く、家持が 万葉集』の編纂に関わったらしい

ことは誰もが認めるところですが、その契機として諸兄との関係が指

摘されてもいます。このことは『万葉集』とはいったい何なのか、そも

そも何のために編纂されたのか、という大きな問題に関わることであ

りここで言明する用意はありません。ただ、それほど関わりが深く、

しかも時の権力者であった諸兄に対する家持の書きぶりは、いくら

「謔れて」とはあっても、批判的であるように思えるのです。

 大伴家持は、四千五百首以上もある『万葉集』の歌のうち、実に一割

を占める作歌を残しています。全二十巻の中でもことに十七巻から

二十巻については、家持とその周辺の人々の歌ばかりが載せられて

いる上に、詳細な注が記されていることでも知られています。そのこ

とから、ほぼ現在見ることのできる『万葉集』の形にしたのは、家持で

あったと考えられていほす。

 三九二六番歌の左注にしても、ただ単に、他にも十八人が列席して

いた、皆が歌を奏上したが書き漏らした、例外的に朝元はそもそも奏

上しなかった、という注記なのかもしれません。しかし、なぜ奏上しな

かったかという説明が、会話文までともなって加えられている点は、

単なる注記を超えています。

 家持の歌は数が多いだけに、様々な志向性をうかがうことができま

す。なかでも、中国文学の素材やテーマを盛んに和歌に取り入れてい

ることは、特徴のひとつとしてあげられます。中国文学の知識は大宮

人として必須の教養ではありましたが、家持はそれを和歌と融合させ

ることに特に熱心だったと、しばしば指摘されます。三九二六番歌で

の積雪をめでたいものとする発想も、中国文学の影響によることが指

摘されています。そもそも、いわゆる万葉仮名が、本来は異なる言語体

系のための文字であった漢字を大和言葉に応用した結果であること

は、周知の事実です。それを考えれば、この時の歌以外でも、また家持

以外の歌でも、中国文学の影響なしには成立し得ないものだったとい

えます。なかでも家持は、長歌を「賦」と呼んだり、詠物詩に学んで詠物

歌を詠んだり、ことに特徴的な中国文学の影響があることで知られて

います。

 そんな家持が、図書頭であり唐生まれ唐育ちの秦朝元に対してどの

ような思いを持っていたのだろうかと想像してみると、和漢融合的な

文学を志向する家持にとって、朝元は二つの言語を操り二つの文化を

生きた尊敬する人物だった可能性があると思います。そうであればこ

そ、ただ歌を奏上しなかったという注記だけではなく、「和歌が作れな

ければ麝香で償え」と言われた事をも書き記したのではないでしょう

か。当時、渡来系の氏族や来朝者は数多くいました。また、皇族や有力

な氏族の出身者で、万葉集中に歌を残していない人物も枚挙に暇があ

りほせん。想像の域を出ませんが、そんななかで、この左注の書き方へ

の奇妙な印象が拭えないでいます。

 異文化との対話は極めて現代的な課題でもあります。グローバル

インターナショナルなどの用語は、すでにカタカナ語として日本語に

定着しているといえます。他方で、古代には近現代的な観念でいうと

ころの国家というものはありませんでした。だとすれば、古代におけ

る言語や文化は、国単位と誉うよりはそれぞれの個人の中に重層的に

存在していた可能性が高いと考えられます。その意味で、家持をはじ

めとする古代の人々は、現代的なことばで表すならば、いわばコスモ

ポリタンというべきあり方だったのではないかとさえ思えます。

 ただし、最近の万葉集研究では、一定の歌人像を作り上げることに

批判的です。これまでは、歌の内容を実人生として捉えた人物像の造

形や、いかに秀歌であるかということを述べるような、主観的な論に

陥っていたという反省によるものです。私自身も、現代人としての勝

手な思い入れから古代を古き良き時代という幻想の中に捉えないよ

うに、また逆に進化論的な発想から古代人は単純素朴であるという先

入観を持たないように、常に意識しながら読もうとしているつもりで

す。ただ、その上で人々の思いが期せずして垣間見える場合もあるだ

ろうとは考えています。この家持の左注は、少なくとも私個人の想像

力を大いに刺激するものでした。

 『万葉集』にはさまざまな歌があり、さまざまな情報が記されていま

す。全体を貫く統一された編集方針などもうかがえず、いわば混沌と

しています。しかしそれは、さまざまな読み方を可能にするというこ

とでもあります。その古代のことばの遺産を読み解くならば、いつの

世にも相通じる人間の心を知ることができるだろうと思っています。
万葉古代学研究所主任研究員




山田寺跡

大化の改新の功臣蘇我倉山田石川麻呂によって発願されたとされる。その後謀

反を企てたとする嫌疑により石川麻呂は自刃したが造営は続けられた。

1976年から1996年度にかけて発掘調査が行われ、7世紀に創建された寺院の

ほぼ全容が明らかにされ、伽藍配置は中心部に塔、金堂を南北に並べて回廊で囲

み、その北に講堂、講堂の北と東西に僧房などを配置していたことがわかる。1982

年から始まった調査では、東回廊が横倒しの状態でほぼ完全な形で発見されたほ

か、出土遺物の中には、金箔を施した塼仏、彩色が施された垂木先瓦、垂木に固

定する釘を隠すように取り付けられた金色のフタなどがあり、当時の華麗な寺の趣を

伺い知ることができる

 





路傍の書 山の辺の碑

 大和の国は山にかこまれ,億年,山は美しく眠る,ことに東の山山は、むかしから神

さまの棲む山だった。

 萬葉集巻十の歌に、「山の辺にい行く猟夫(さつを)は多かれど」という山の辺は,その神

神の山すそをくねって走る道だった。道というのは、細ければ細いほどよい。道をゆく

ときの時間と空間から、ほのかに詩情がわくからだ。

 萬葉の人人は、その野道を往来しつづけた。相聞を生み挽歌を生み、狩猟にゆくにも

海柘榴市(つばいち)にゆくにも、みなその道をかよいつづけた。そして千年,山の辺の道は、
いま
に細く、くねった末まだ。

 昭和四十七年の1月だった。川端康成は山の辺の道をたずねた。細い軀(み)に、澄んだ

眼を光らせて。風景の美しい井寺池の堤にたって、「ここがいいね」と、淡い夕陽につぶ
やいた。

 あたかも、桜井市が山の辺の道にいくつかの歌碑建立のプロジェクトをすすめてい

て、川端の碑はお気に入りのこの堤にきまった。やがて四月、そして十六日、なぜか

川端は自らの生命を絶つ。もちろん,歌碑の原稿をかくひまもなく、文豪の死は唐突で

あった。

 しかし、碑は、秋十一月池の堤にすえられた。秀子夫人の思いやりで、ノーベル賞

授賞記念講演「美しい日本の私」の遺稿から、

    大和は国のまほろばたたな

    づく青かき山ごもれる大

    和し美し(古事記)

 の文字を拾い集め、石に刻みこまれたのだ。

 川端の書は、毛筆のときは、重くてにぶい音がする。だがこの歌碑はペンの字だ。

それでもひと癖あってやはり重苦しいが、文字をつらぬく脈絡には、真摯な魂がひたす

ら宿って、眺める人を魅惑する。

 碑が見すえる空の下には、社殿のない檜原神社がうずくまる。むかしはヒノキ、いま

はマツの山が、すなわち神さまなのである。たぐい稀なるその美しい松の林を見つめる

ようにして、川端の碑も池の堤にうずくまっている。








七道と駅道

七道と駅路

 七〇一年(大宝元年)に大宝律令が完成し、律令体制による政治が推し進められた。国内は

畿内と七道に行政区分された東海道·東山道·北陸道·山陰道·山陽道·南海道.西海道の七つである。

 道の下に国、その下に郡、さらに里(のち郷と改称)が設けられ、それぞれに国司·郡司里長と
いった役人がおかれた。国司は中央の貴族が一定の任期で派遣され、郡司はもとの国
造など
在地の豪族が任命され、国司に協力して地方の政治にあたった。そして中央集権的な

国家体制が整えられ、国の富が天皇や貴族に集中するようになっていった。

 中央政権にとって中央集権的な国家体制を維持していくためには、中央と地方の諸国とが緊

密に結びついている必要があった。そこで、各道内に都から地方へ向かう道路を整備した。こ

の道路は官道で駅路(えきろ)といい、各道の名前でよばれた。駅路には駅制のもと約一六キロ

駅馬(はゆま)と駅子(えきし)をおく駅家が設けられ、中央からの命令などを伝達する役人は駅鈴
を所持して、情
報がいちはやく地方に届くよう駅馬や駅子を利用した。

 駅路はその重要性の差により、大路·中路·小路に区分されていたが、東山道は東海道とともに
中路とされ、陸奥国·出羽国を結ぶ「山
の路」として重要視された。ちなみに、大路は京と大宰府を
結ぶ山陽道のみであった。















唐招提寺 鑑賞の手引き

国宝  (国宝)天平時代

南都に古寺は多いが、

 いざ天平の金堂を求めるとなると、この唐招提寺の金堂をあげうるのみで、他に見当らない。
その貴重さは、したがっていまさらい
うまでもない。

 この金堂がいつ造営されたかはあまり定かでないが、『建立縁起』によると鑑真和上に従って
渡来し
た弟子如宝が主となって建立を進めたことが記されているので、おそらく和上示寂(じじゃく)
ののちに建てられた
ものであろうと解されている。そうすれば天平宝字7年(763)以後のことになるが、
それにしてもこ
れをあまり経だたるものとは考えられない。建物自体は、あくまで天平のものである。

 この建物の正面からみた印象のうち、いちばん心にのこるのは南1間通しの吹放ちの円柱列で
あろう。
列柱としては、日本でもっともうつくしいもので ある。その列柱のおく、中央の5間に両開き
の板扉が
あり、両端の間には連子窓をひらく。中央3間の扉が全開放されると、堂の前庭から本尊
を拝むことが
できる。この前面吹放ちの形式は、この建物にうつくしい空間と、のびやかさ、そして
列柱にあたる日
の光のうつくしい投影を予想している。いま、いささか残念なのはこの堂の屋根が
重たげにみえるこ
とで、これは元禄6 ~ 7年(1693-4)に棟の高さをかえて、寄棟の外形はそのまま
であるが、屋根が
ずっと高く、厚いものとなったので、天平時代の軽やかな寄棟の感じがかわって
しまった。だから天平
のこの金堂は、いまよりはるかにうつくしい外形を示していたわけである。
またいまの円柱にみる胴張
りに似た形も、近世の改変によるものである。こうした形の変化はあるが、
これほど形のうつくしい建
物はまれである。

 この建物には、独特のさわやかさと諧調がありそれが西欧の石造の柱とはちがって木柱であるた

めに、やわらかく、親しみやすい。堂内に入ると、中央に本尊の盧舎那仏坐像、左右に千手観音

薬師如来の巨大な立像が立ち、これらをめぐって梵天 帝釈天 .四天王立像の護法神がある。
この堂
内の上方に描かれた飛天、菩薩やほかの彩色文様も、天平の雰囲気を一そうかもし出し
ている。


講堂  (国宝) 天平時代

 唐招提寺の講堂は、法隆寺東院の伝法堂とならんで、天平時代の数すくない講堂の遺構として、
すこぶる貴
重な存在であるが、それにもまして、この堂が平城宮の朝集殿を移したものであるこ
とが知られていて、天
平時代の宮殿の現存するただひとつの例として他に比肩するものがない。
この建物は昭和42年から5年か
けて解体修理がおこなわれて、その基壇の下の発掘調査もおこ
なわれ、もとこの地に門のようなものがあり、
また築地塀や道路らしきもののあったことが判明し
が、詳細はこの寺地のよりひろい発掘調査が行なわれないと判然しないようである。
解体修理のさいの報告
によると、建築用材に付された古い番付などによって、元来の朝集殿が
南北に棟の走る西向きの切妻の建
物であったことや、そもそもの建築当初に、この宮殿建築に
若干の古材が転用されていること、またこれを
唐招提寺に移すさいには、屋根を切妻から入母屋
に改
めただけで、大部分もとの形をそのままに伝えていること、また当初の基壇が現状よりも高
かったことなど
が判明した。したがって修理後の講堂は、以前よりも50cm基壇が高くなって、
もとの高さに復原されてい
る。今日やや残念におもわれるのは、鎌倉時代の解体修理のさいに、
かなりの改修がおこなわれて、側まわ
りの組物や軒などを改造し、戸口や窓もそのころ流行

のものを採用して、屋根も中世風に高くなっているから、建物の外観はむしろ鎌倉風で、
天平の姿から遠ざ
かっているのが惜しい。元来の朝集殿は、現状よりも斗(ます)や肘木(ひじき)
も一回り大きく、柱も太く、組物や扉も簡単
な形式のものであったから、堂々たる感じの簡素な建

物だったろうといわれている。鎌倉の修理の際、当初の部材が少しずつ表面を削ったり、また
転用されてい
ることが解体修理によって判明している。

 講堂内には、その本尊である弥勒如来坐像をおき、その左右には持国、増長の2天像を配し、
昭和大修理ま
では数多い一木彫成の古い仏像を安置していたが、これらは新宝蔵に移されている。

鼓楼  国宝) 礼堂.東室  (重文) 鎌倉時代

 ともに鎌倉時代の建物で、鼓楼は、その名称にもかかわらず、かつて太鼓を置いて鼓楼の役目
を果した
ことはなく、元来は経楼で、しかもここに鑑真和上将来の仏舎利が、有名な金亀舎利塔
におさめられ、
初重内部の南北朝時代の厨子のなかに安置されているので、舎利殿ともよばれる。
この東側に礼堂があ
るが、これも構造をしらべてみると東側を正面とする堂で、つまり西側の舎利
殿を礼拝するための礼堂
であったわけである。

 鼓楼の棟木には、仁治元年(1240)の棟木銘があるといわれ、建築様式からみてもそのころのも
のであ
ろう。全体に木割がほそく、繊細で、品のよい建物であり、伽藍のなかで年代は若いながら、
たのしい
空間を形づくっている。

 礼堂は、南北に桁行19間の長い建物であり、そのうち南の8間が礼堂、北の10間が東室
(ひがしむろ)であって、
そのあいだの一間は馬道といい通路にひらいている。元来は僧房で、
講堂をはさんで反対の西側にも
同じような僧房があった。鑑真和上も、かつては僧房西室のいち
ばん北に位置するところに起居された
といわれ、示寂ののちそこに御影堂が建てられた。

江戸時代、西室とともに焼失し、いま礎石だけが残っている。


校倉  (国宝) 天平時代

 境内の東方、礼堂,東室の右手に、天平時代の校倉がふたつならぶ。やや小さい方が経蔵、
その北の大
きい方の校倉が宝蔵である。ことに経蔵はこの地が寺になる前、新田部親王の邸宅
であったとき、既に
米倉として使用されていたと伝え、正倉院(756)の校倉より古いことになる。
両者とも、中世の解体
修理によって改造されたところがあったが、近年の修理で、むかしながらの
天平の構造、形式に復原さ
れている。宝蔵の内部は中2階式の構造で、これは正倉院の校倉など
と同様にむかしの倉の形式を伝え
る。
 鑑真和上将来の仏舎利は、中世におそらく鼓楼のいたみがはげしかったためであろう、この宝蔵
に移さ
れたといい、その後、鼓楼が鎌倉時代にいまの形に再建されてから再びもとにかえったもの
である。そ
れはともかく、2棟の校倉は、唐招提寺の天平の雰囲気を構成する貴重な存在でもある。
校倉の奥に最
近完成した新宝蔵は、東洋のトルソといわれる如来形の立像をはじめ講堂に仮安置
されていた木彫の諸
像や、工芸·経巻等を保存する。


戒壇

 金堂の西にある戒壇は、鑑真和上に由来する三師七証

によって僧の受戒が行われる場所で、『招提千歳伝記』

によると、この寺の創建時に築かれたが、中世に廃さ

れて弘安7年(1284)に再興されたとある。だが文禄

5年(1596)に大地震で戒壇堂が倒壊、元禄9年(1696)

に再建した堂も嘉永元年(1848)に焼失。このとき石

造の戒壇の回りに門と土塀が復興され、さらに昭和

53年、最上段の中央に石造のストゥーパが築かれて

現在の姿になった。基壇の大きさは15, 8m四方、こ

の寺にとっては特に重要な施設である。


開山御影堂  (重文) 江戸時代

 開山御影堂(みえいどう)は、礼堂と校倉のあいだを奥
にのぼったと
ころ、土塀にかこまれその瀟洒な姿をみせ
ている。
 和
上像は、近年まで鼓楼の北の高台にある旧開山堂に
祠ら
れていたが、手狭な仮堂であったため、1200年御諱

のみぎりこの御影堂に奉安された。

この堂は、興福寺の別当坊だった一乗院の遺構であり、

森本長老の発願により寺外から現在の場所にむかえら

れた。10世紀からの歴史をもつ古い門跡寺院の表向

き御殿として、格式の高い建物であり、そのため一乗

院宸殿とよばれた。現在の建物は、17世紀なかばご

ろに再建されたものだが、格式と伝統を守って、平安

時代の寝殿造りの趣を保ち、開山大和上の御影堂とし

てはまことに、ふさわしいたたずまいである。明治以

後県庁舎や裁判所に転用された歴史がある。

 東征伝によれば、和上のなきがらは荼毘にふされ、境内

北東の位置に埋葬された。その御廟は御影堂の東に隣

接する林の中、いまもっとも静かな一隅で、和上の遺徳

を偲ぶにふさわしい清域である。なお、御影堂には東山

魁夷画伯が12年にわたって専心揮毫された鑑真和上像

厨子扉絵ならびに、全障壁画が昭和56年に奉献された。

金亀舎利塔  (国宝)鎌倉時代

 『東征伝』によると、鑑真和上は来日の際「如来肉舎利

三千粒」を将来されたといい、古来唐招提寺舎利は、仏舎

利中の仏舎利としてもっとも尊ばれた。金亀舎利塔は、名

のとおり亀の背に宝塔をおき、その塔の軸部は、繊細な唐

草透彫りをとおして内部の白瑠璃の舎利壷(それも今日は

別に保存する美しい彩糸レース編みの花網に包んだとい

う)、さらには仏舎利を拝しうるように工夫されている。

 古来この舎利容器は勅封されて厳にまもられたもので、今

日でも後醍醐帝、後小松帝の勅封、及び足利将軍義満、義

政などの封紙が保存されている。やや薄い黄味のあるガラ

スの容器と、有名な彩糸花網とは唐代のもので、それを納

める金亀舎利塔は繊細な意匠、こまかく見事な作技からみ

て、平安後期のわが国の造形とみていい。

 一部に補修があり、蓮華の部分は鎌倉時代、屋根の形も南

北朝に改められ、相輪は桃山期のものといわれるが、繊細

な組物、軸部の彫りなどはやはり王朝文化の枠を示してい

る。塔の金色と、花網の深みある配色、それと白瑠璃のに

ぶくはえる構成は、唐招提寺仏舎利を拝するための意匠と

してこれ以上のものはあるまい。舎利塔の全高は92.0cm

舎利壷の高さ9. 2cm、彩糸花網の径が27, 9,cmである。











鑑真大和上

 鑑真和上は中国揚州に生れ、長安、洛陽に学び、戒 律の師僧として名高い大徳であった。
天平5年(733)
かの地に渡った日本僧、栄叡、普照が和上のもとで伝戒の師の渡日をねがっ
たときも、和上みずからが請(こい)を
いれるとは予期しなかったとおもわれる。しかし、和
は諸弟子のまえでご自身渡航する決意を披瀝され
和上の高弟たちもかくて和上にしたがうこと
となった。

 その後の度かさなる渡海の失敗と辛苦は世の知るとおり である。海難により和上はその愛
弟子祥彦をうしな
い、6度目の渡航に成功して天平勝宝5年(753)はるばる薩摩に着いたとき、
和上は失明していた。渡日
をこころざしてから12年目にあたる。

 かくて、和上は、東大寺大仏殿前において、天皇、皇后以下400余人に戒を授け、授戒伝律
のことはひとえ
に和上にまかされ、日本仏教界の戒律のみだれが正されることとなった。和上
の来日は、いわば日本仏教界
の襟を正すものであったと同時に、将来された舎利、経論のほか、
仏画、仏像なども数多く、和上とともに
唐の文物が直接わが国に伝えられたこともみのがすこ

とができぬ。かくて和上のひらいた唐招提寺は、わが国はじめての律寺であり、律宗の総本山
として今日に
及んでいる。和上は、天平宝字7年(763)の5月6日、76才(一説には77才ともいわ
れる)で示寂された。
これに先立って、弟子の僧忍基は、一夜の夢に、講堂の梁が折れ、
くだけるさまをみて、和上の遷化のとき
が迫っていることをさとり、いそいで御像をつくらせたと
いう。これは和上の相好を図絵せしめたのかも知
れず、いま御影堂に安置する脱活乾漆の像
がこれに当
るとはいい切れないが、この像のいかにも生彩にあふれた相好などをみると、
すくなくとも作者は和上の風
貌を知悉(ちしつ)したひとであったにちがいない。だから、像はお
そくとも和上のなくなられてあまり時を経だたら
ぬころにつくられたものと考えられる。

 像 は、瞑目して、禅定印をむすんでおられる。両眼の明を失なった和上の御影だから、瞑目
しておられるの
はあたりまえかも知れないが、これはまた伝えられる和上遷化のさまともみえる。
何と静かな、俗世のうれ
いとわずらいをはなれた清らかなすがただろう。 作者はことさらに、
脱活乾漆という、像内が中空でかろや
かな材質、技法をえらんでこの像をつくった。像は、その
ため一そうさわやかにみえる。

 それにしても、和上の五体はまことに頑丈である。意外なほどに骨太く、壮者をしのぶ感がある。
和上の事
蹟にみる不撓不屈(ふとうふくつ)の精神は、この五体にして可能であったのだろう。

  水楢の 柔き嫩葉は み眼にして

     花よりもなほや 白う匂はむ    北原白秋


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唐僧「鑑真大和上和讃」を読む

   山の辺学講座
 (第33号:平成21年度)山の辺文化会議会長 市川良哉氏 


 鑑真和上の基本的伝記については真人元開(俗名淡海三船.722~785)
撰『唐大和上東征伝』
(東征伝と略称)があ
る。これは鑑真の弟子の思託が書いた『大唐伝戒師僧名記和上鑑真伝』
3巻本(現存しな
い)を思託の要請で、当時文人の首といわれた淡海三船が骈儷体を軸にした
文章として整
理したものである。これとは別に『鑑真大和上和讃』が伝わっている。内容は鑑真和上
人柄と功績を偲んだもので、同寺で日常勤行に用いられている。

 鑑真和上(688~763) は中国揚州江揚県の人、701年14歳で揚州大雲寺に父と参詣し、仏像を
見て感動し
僧になりたいと智満禅師について出家し、同寺の見習い僧として沙弥となった。
18歳で道岸律師に従い菩薩戒を、21歳で長安実際寺の弘景律師に
よって具足戒を受けた。この間、
洛陽・長安の二都に遊学し、律学のほか
天台学も学んだ。

 13年にわたる研究生活を終え、故郷の准南に帰り、戒律の講義をすること130回、多くの寺を
建て、仏像をつくり、貧民·病人の救済事業を
起こし、一切経の写本三部・三万三千巻、授戒の
弟子4万人など、盛唐の
時期に活躍。この頃天平5 (733)年遣唐使一行に興福寺の栄叡と普照

の2人の留学僧も随行した。

 天宝元(742)年栄叡らは揚州大明寺に鑑真を訪ねて、こう願った。「仏法東流して日本国に至
れり。その法ありといへども伝法に人なし・・・
願わくば和上東遊して化を興したまへと」。これに
答えて、和上は言った。

「山川域を異にすれども、風月は天を同じうす。これ仏子に寄せて、共に来縁を結ばん、と・・・..
誰かこの要請に応じて日本国に向ひ、法を伝ふる
者ありや」と。しかし、これに答える者はいない。
しばらくして弟子の詳
彦が「和上若し去かば、彦も亦、随ひて去かん」と応じた。こうした経過を経
て、鑑真は渡日を決意、時に55歳であった。和上の随行を申し出た
僧は21人を数えた。渡航計画
が順調に運ばなかったことはよく知られて
いるとおりである。航海中には栄叡が病死し、詳彦が
死別を告げ、鑑
真は失明したと伝える。実に12年第6回の渡航も苦難の連続であったが、753年
12月、
漸く鹿児島に漂着した。渡航半ばで脱落した仲間は僧俗合わせて200人余り、死別者36人、
最初から一貫して到着出来たのは鑑真、弟子の思託、
日本僧普照の3人だけであった。和上66歳。
天平勝宝6 (754)年2
月平城京に入り、4月東大寺大仏殿前に戒壇を築き、聖武太上天皇

光明

皇太后

孝謙天皇ら、沙弥や比丘ら430人余りが受戒した。こうして三師七証に依る受戒を受けた
のが政府公認の僧とされ、鑑真のが普及す
ることとなった。天平宝治2 (758)年、孝謙天皇から
大和上の尊号を
賜った。天平宝治3 (759)年、大和上は「唐律招提」(現、唐招提寺)という私立の寺
を創立した。天平宝治7 (763)年5月6日、76年の
生涯を結跏趺坐し西を向いて終えた。これに先立ち、
弟子忍基は大和上
の死は近いと察し鑑真の肖像を作った。開山堂に今も安置されている国宝

鑑真和上坐像」がそれである。






枚岡神社略紀

由緒

 奈良から生駒山の暗峠を越えて真直ぐに西へ降った古い街道、山麓近くに朱の春

日造の社殿が西向きに鎮座し、神社の主神は天兒屋根命即ち我国の祭祀の始めを掌り

給い、中臣·藤原氏の祖神であり、春日大社の第三殿(天兒屋根命と第四殿(比賣御

神)の神は、神護景雲年間(西暦七六七~七七〇)に当社から春日神社へ分祀せられた

為、当社を元春日と呼び習わして来た。因に、当社の第三殿·第四殿の二神は、宝亀

九年(七七八)春日大社から迎えて配祀せられた。神階は次第に昇り、貞観元年(八五

九)には正一位に叙せられ『延喜式』には名神大社に列した。古くか帛臣氏の一族

平岡連の斎く社であったが、平安末期から水走家が祀職となり、河内一宮として朝野

から篤く祀られた。天喜四年( 一0五六)・宝治元年(一二四七)・天正二年(一五七四)と
度々火災に遭い、慶長七年( 一六○二)豊臣秀
頼が社殿を修復した。現社殿は文政九年
( 一八二六)氏子の総力を挙げての修造である。社領は百石を有した。

 明治四年官幣大社に列し、神宮寺等が廃された。本社四殿の他に、本殿背後の
神津嶽に摂社神津嶽本宮、本殿南に摂社若宮神社更に
南に末社天神地祇社が祀られ、
その南部一帯は「枚岡神社梅林」として春は観梅の人達で賑わう。


祭事·行事

 当社三大祭は、例祭二月一日·祈年祭二月十七日·新嘗祭十一月二十三日であるが、祭礼神賑

を伴った「秋郷祭」(十月十五日)は氏子の秋祭として各町の布団太鼓台約二十台が、神社の神輿

に続いて境内へ勢揃いし、前日の宵宮祭·当日の本祭と、氏子青壮年の叩く太鼓の音が終日鳴り

響き,緑に包まれた神社境内もこの時ばかりは大阪·奈良その他からの参拝者·露店があふれ十

数万人の人出で境内は埋め尽される。周辺道路の規制は勿論であるが、河内国の祭の総力が此処

にこの日に結集したかと思われる盛大な大祭となる。

 年中恒例の中·小公式祭の他、節分祭の夕刻と八月第四日曜の夕刻には千灯明奉納神素あり

境内の釣灯篭·石灯篭を始め参道に添って釣提灯が淡い灯をともし,春日大社の万灯篭を想わせ

る境内となる。八月の千灯明奉納は、河内音頭の奉納があり、近在の氏子の子女の輪踊りで夜遅

く迄賑わう。又,夏越の大祓(六月三十日)は、茅の輪を立ててくぐり抜ける蘇民將来の古伝、夏病除
けの信仰を伴う。

 除夜。元日の所謂「年越詣り」は当社でも盛んで、夜中から正面参道に参拝者が列を作って並び、
元日午前零時の新年初太鼓と共に
参拝が始まる。境内では、氏子の奉仕する神酒授与の拝戴所
に人の列が並び終日参拝者の列は切れない。

 三月一日には梅花祭、四月三日には桜花祭があり、境内梅林と紅白梅·桜花の季節は花見を兼
ねた参拝者で賑わう。

 特殊神事祭典として,先ず一月十一日の「粥占神事」がある。御竃殿で桧の板と杵で火を鑽り出し、
着いた火で小豆粥を大釜で松薪
を以て炊き、篠竹を五十三本纒めて縄で縛りこれに入れる。その間、
竃中の薪の燠火上に樫の小木を十二本並べ、これの焦げた有様で
先ず一年十二ヶ月の晴雨を占う。
やがて粥が炊き上がる少し前項からは、神職が大祓詞を繰返し奏上し、清浄な中にも清浄を期して神

意を迎える。炊き上った釜の火を止め神職は粥の詰まった篠竹(占竹)を取り上げて三方に乗せて本殿
前案上に奠し置く。午後、神前
に於いて占竹を割り中の小豆粥の入り方で、米以下雑穀や芋·瓜·綿に
至る迄、上中下の田畑、早稲·中手·奥手迄細かく占い,「占
記」に記入し、一月十五日、この点は印刷
されて一般へ配られる。近頃は近在の農家が減って占記を受ける人も少ないが、神事は古
来の手法
の手を省かず昔通りに執り行われ、今後もこの姿勢は守って行くこととされている。

 五月二十一日には平国祭が行われる。祭典中、神職が古式の鉾で拝殿の床を左右中と三度突き,
奉幣行事を想わせる作法がある。

 八月二十五日(二百十日)には風鎮祈願祭、九月二十五日には風鎮奉賽祭と、祈願と御礼の祭

が執行されるのも、古い手振りの残った祭である。更に「上申祭」が十二月初申の日に斎行され

る。これもまた古風の祭である。十二月二十五日には「注連縄掛神事」が執り行われる。早朝か

ら拝殿前石段下の境内広場で、藁を打ち縄を綯い注連縄を作り、祓川(夏見川)前の石の注連柱

に懸け、次に神職が装束を着用、祓を修し、宮司正中して縄に向かいワッハッハと三度笑って神

事を終る。これも珍らしい古式の神事である。

 これ等神事のうち、1月の粥占神事は大阪府の無形民俗文化財、十二月の注連縄掛神事は東大

阪市の無形民俗文化財として指定されている。

 境内は、神津嶽から参道を社殿のある境内へ、更に街中の第一鳥居宕造)迄の東西に細長い

約一万八千坪。この面積には本殿南に隣接する梅林が含まれる。枚岡神社梅林は約六百本の紅梅

-白梅が早春香を競い、一望大阪の平野を眺める高燥·風光絶佳の神苑である。








物部守屋墓 地図

 国道25号に面して石鳥居が立っている。。.奥の石碑には「物部守屋大連墳」の文字が

刻まれている。

 6世紀後半、わが国では外来思想である仏教を導入するか否かで、朝廷内で大論争が

あった。仏教導入派は蘇我馬子や聖徳太子。排除派は物部守屋ら。双方の間で八尾一帯

を舞台に戦が勃発した。排除派の守屋は用明2 (587)年7月に導入派の射た矢によって
命を絶たれる。

 江戸時代の学者·貝原益軒の旅行記『南遊紀行』(1689年)では「跡部村、 守屋の頭塚·
軀墳(むくみづか)とて、小塚二
有・頭塚は北に在て、松生たり。軀塚は南に在。ただ春草

のみ生たり。守屋の大臣わが国の神をとうとび、西域の神をふせぎ給ひし故、厩戸皇子

(聖徳太子)憎み深くして、罪なくて逆臣と称して、冤殺せられし処、みるに忍び難し」

と。頭の墓と体の墓、2つの墓があったと記し、仏教導入に反対したため逆賊とされた守

屋に対して「みるに忍び難し」と述べる。『河内名所図会4(1801年)では「守屋塚」として、
1本の松が生える塚
が描かれている。

 荒れていた守屋墓が今のように整備されるのは明治2(1869)年から。当時の堺県知事
·小川一敏の尽力で
墓の整備が始まる(『増補版八尾市史本文編』1988年) 。その後、
昭和42 (19
67)年に大阪府神社庁中河内分会によって「物部守屋公顕彰碑」が建てられ、
62年に
は全国の有名神社によって墓地を囲む玉垣が設置された。

 守屋墓をとりまく歴史は、古代に起きた事象をめぐって、明治以降、近年に至るま

で顕彰活動が続いている稀有な例であろう。

産経新聞 2018-2-10 (伊藤純)











高取城 日本城郭体系より

 高取城は、国中(奈良盆地)と吉野地方との間に障壁のように連なる山塊中の

高峰にあり、近世の山城としては異例の高さと規模を有する。

 中世の高取城の創築は、正慶元年(元二、一三三二)に護良親王(もりなが)の
挙兵に応
じた越智邦澄によるという説が一般的であるが、確証はない。しかし、
越智氏
が南朝方で活躍した過程で、高取山に砦を築いたことは、南朝方の動
きや、の
ちの越智氏の吉野方との結び付きからほぼ確実とみてよい。『興福寺
旧記』に、
永正十五年(一五一八)「高取城ヲ越智ヨリ攻取、城主子嶋掃部没落ス」
とある
ことから、越智党に属していた孟氏を城主として置いていたこともあったよ

うである。しかし、永享九年(一四三七)から翌年にかけて、幕府軍に対抗して

越智維通が高取城に立て籠もった伝承(『南朝紀伝』『十津河記』)もあり、越智

氏にとって高取城が重要な詰城であったことは確かである。いずれにせよ、越

智氏が常時詰める城は貝吹山城のほうであった。越智氏が高取城近辺に居館を

設けて本拠とし、高取城が本格的な中世城郭として改修されたのは戦国時代に

入ってからであろう。秋永政孝氏の説によれば、越智家栄の後、伊予守家益の

系統と民部少輔家広の系統に分かれ、伊予守系統は貝吹山城、民部少輔系統は

高取城を本城とするようになった(『高取町史』)。天文元年(一五三二)に南都の

一向一揆に追われた興福寺僧徒や国衆が高取城に立て籠もり、一揆勢を撃退し

た事件があり、高取城が堅固で重要な城となっていたことがわかる。

 天正八年(一三八○)に、織田信長の一国破城令によって、高取城もいったん

破却されたが、筒井順慶が同十二年二月、高取城を詰城として復興を開始した。

同年八月、死去した順慶の跡を継いだ定次は、同十三年、伊賀へ移され、豊臣

秀長が入国した。高取城へは脇坂安治に次いで本多正俊が入り、秀長の命で同

十七年から本格的な工事を始めた。文禄四年(一五九五)に秀長の子秀保が死ん

で増田長盛が入国したが、本多氏はそのまま高取城に残り、慶長五年(一六○

0)に二万五千石に加增された、本多氏の断絶後、寛永十七年(一六四0)に植

村家政が同石高の大名として入り、幕末まで植村氏の高取藩が続いた。入部当

初は藩主は高取城内の屋敷に居住したが、数年後に山麓の下子島に藩主の下
敷が造られ、家臣も漸次山を下りて、城下町土佐から子島にかけて武家屋敷
並ぶようになった。しかし、植村藩では城の常普請を認められていたので、ほ

とんど明屋敷となった山上の城郭の補修を続けた。





森カシ谷遺跡

 古代の官道(現代でいう国道)である「紀路」が見下

ろせる丘陵上にあり、土郭、土壧掘立柱建物、塀、柵

の遺構が見つかっています。飛鳥中心部を見通せる立地

であることや、交通の要所である紀路沿いにあることか

ら、飛鳥を防御するための砦であると考えられています。

7世紀後半ごろのものであると言われています。この南

斜面には、7世紀末頃の「森カシ谷塚古墳」が見つかっ

ております。文武,持統天皇の陵園想定地域内に位置す

ることから、文武天皇の皇子,皇女クラスが、葬られて

いる可能性があると考えられています。







石の宝殿略紀

日本三奇石乃寶殿鎮の石室(いわや)とは

 神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け国土

経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿

を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、

そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰現在の高砂市神爪)この賊神を鎮圧し

て平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのであ

る、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を

鎮めんと言明せられたのである 以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と稱して居る所以である。

鎮の石室(通称、浮石)の容姿と工程

 鎮の石室は三方岩壁に囲まれた巨岩の殿営で池中に浮く東西に横たわりたる姿である。その容

積は三間半(約七m)四方で棟丈は二丈六尺(約六m)、重量は五00-七00トンと云はれて

居る。 この工事に依って生じた屑石の量たるや又莫大であるが、この屑石を人や動物に踏ませ

じと一里北に在る霊峰高御位山(播磨富士)の山頂に整然と捨て置かれて居る。池中の水は霊

水にして如何なる千魃に於いても渇することなく海水の満干を表はし又万病に卓効有るものと、

云ひ伝ヘられている。


生石(おうしこ)神社の創建

 人皇十代崇神天皇の御代(西暦九七年)日本全土に悪疫が流行して人民死滅の境にある時、あ

る夜二神が天皇の夢枕に現れ「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり依

って此所に生石神社が創建せられたのである。以来忽ち悪疫も終息して天下泰平となる。


神社の分霊

 人皇十三代成務天皇十一年[約一九00年前]に當生石神社の分霊として羽後国飽海郡平田村

生石[現在山形県酒田市生石]より勤請せられ現在古色豊かに生石神社として栄えて居り、又

創建は不詳であるが和歌山県有田郡金屋町(生石高原)に五名生石神社として厳かに祀られて

居る。両社共當社の分霊として親善の交流を続けて居る。

神社の梵鐘

 天正七年(西暦一五七九年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が三木城攻略の折神吉城も落さんとし

て當神社を陣所に貸与せよとの申出に対し,兄の城を攻める[時の宮司は神吉城主の弟]陣所

には貸さぬと拒否したるため、秀吉の怒に触れて焼き撃に逢い、そのため神社伝来の凡てが一

瞬にして灰燼に帰したのである。その時焼け残った梵鐘は持去られ、後日関ヶ原の戦に西軍石

田三成の勇将大谷刑部吉隆が陣鐘として使用したるも、敗戦の結果徳川家康が戦利品として美

濃国赤坂の安楽寺に寄附し、敵将ながらも実に惜しむべき武将であると慨嘆し、朝夕此の鐘を

撞いて未来永劫に吉隆及び戦歿者霊を慰さめよとの事であったと云われて居る。現に大垣市の

指定文化財として保存せられ鐘の表面には當生石神社名が刻銘さる。

(日本三奇とは當社、石乃寶殿(石) 、東北地方鹽竃神社の鹽竈(鐵)及び九州地方霧島神社

の天乃逆鉾(銅)を謂う。)


万葉集巻三

 大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経(大なむち少彦名のいましけむしづのいわやは幾代ヘぬらむ)

 世をへても朽ぬいはほのなかりせばかみ代のあとをいかでしらまし

 うこきなき御代のしるしと神さひて幾としか経しこれのいはむろ

 うこきなき御代よろずよの宝とて石のみやゐはつくりけらしも

 みるからに尊とかりけりはりまなる志都のいわやは神のふるさと




纏向遺跡仮面について

 向遺跡で見つかった国内最古の木製仮面。鍬の刃を転用し、刃先の方が頭となっている。
口は鍬の
柄を通す穴

 仮面は長さ二六cm、幅二一 .五cm、厚さ〇.六cm。アカガシ亜属の正目材で作られた
広鍬の刃を転用し,
両目の部分に穴を開けている。口は鍬の柄を通す穴をそのまま使い、鼻
は刃の隆
起部を削っている。鼻の穴形されていて、まゆの部分には赤い顔料が少し付着して
いた。

 仮面が出土した井戸跡は、東西約2km南北約1.五km の同遺跡のほぼ中心部。
ほかにも、カマの柄や
武器の盾などの木製品で埋め尽くされていた。遺跡内には、同様の井戸
跡が約40
基点在、焼け焦げた木製品もあり、井戸に埋納することで、水と火を調和させる祭祀
が行われていた
可能性がある。









大和神社ちゃんちゃん祭り
 天理市埋蔵文化センターだより vol.24 より

大和神社ちゃんちゃん祭り

 天理市の南部、朝和校区に所在する大和神社では、4月

1日の神幸祭で御渡りが行われます。御渡りは、大和神社

から中山町の御旅所まで、御幣や御神輿を伴いながら氏子

地区の人々が羽織袴や烏帽子に白の浄衣姿で参列します。

大和神社の氏子地区は、佐保庄、三昧田、萱生、兵庫、

長柄、成願寺、新泉、中山、岸田からなる9か所の町で


形成し、これを「九カ大字」と呼んでいます。祭りに際して各
大字は「頭屋」を選出し、
頭屋は神の子として「頭人児」を出し、
頭屋宅の門前には大和神社の分霊として「門飾り」
を据えます。
祭りは3月23日の宮入から始まり、この日を皮切りに各大字
では活発に
祭りの準備が進められ、3月31日の宵宮、4月1日
の本宮と御渡り、4月2日の後宵
祭りまで11日間にわたって
祭礼が行われます。


祭りの季節と御旅所

 現在のちゃんちゃん祭りは桜がほころぶ陽暦の4月1日

に行われていますが、これは明治維新からのことです。天明

6 (1786)年や寛政3 (1791)年など近世の記録にも4

月朔日とあり、かつては陰暦の4月1日に祭りが行われて

いたことがわかります。これは現在の陽暦では4月末~5

月ころにあたり、ちょうど麦の収穫が近づき苗代作りが始ま

るころ。もともとは五穀豊穣の祈願に相応しい季節に行われ
ていたお祭りなのです。

 文明13 (1481 )年や延徳3 (1491)年などの中世の記録によると、
二基の神興が
シリカケに立ち寄り、中山寺まで御渡りをして
います。
シリカケは御渡りの行列が休憩し
ていた場所と考えられ、上街
道沿いにある岸田町の「オヤスミ」の場所と思われます。
の御渡りの行路は中世のころと変わっていないようです。

 中山寺は中山大塚古墳の辺りに建立されていた寺院で、今は
廃寺になっていますが、大
和神社の神宮寺であったと考えられ
ています。創建は奈良時代で十一面観音像を本尊とし、

室町時代の天正4 (1576)年には兵火で焼失しています。

現在の御旅所の近くにある大塚山念仏寺や中山町の集会所が

ある観音堂は、そうした寺院の名残と考えられます。江戸時

代のころ御渡りが中山寺に近づくと、鰐(楽器)の口を鳴ら

して到着を知らせたとされています。今は太鼓や鉦鼓を鳴ら

していますが、これが「ちゃんちゃん祭り」と呼ばれてきた

由縁とされています。


御渡りと氏子

 4月1日の御渡りには1番~43番の渡御順と役名があ

ります。渡御順は九力大字の氏子が分担して務め、分担は

くじ引きで決まります。1番くじの町は、鉄棒·産子幣

猿田彦(天狗)を受け持ち、9番までくじによる分担が決め

られています。神輿など大物は複数の大字から人足を調達し

ます。このほか「常持ち」と呼ばれる役割があります。兵庫

が受持つ龍頭·千代山鉾、新泉が受持つ翁の舞い·梅ズワイ

小幣·太鼓、長柄が受持つ錦旗·樂鉦鼓·矛などです。また、

特別な役割として、中山は御旅所で各大字のお供えものを受

け付け、準備したチマキ400本を分配します。岸田はお渡

りの神馬6頭を調達します。成願寺は牛の舌餅200枚を準

備し大和神社に献饌します。大和神社ちゃんちゃん祭りは、

こうした氏子地区の役割と連携により営まれているのです。


神霊を祀る頭屋

 頭屋は1年間をとおして床の間にオヤカタを据え、大和神

社の分霊を祀ります。3月23日の宮入を迎えると、頭人児

とともに物忌みに服し3月31日の宵宮まで毎日大和神社

に参拝する習わしとされています。頭屋宅の門前には門飾り

を据え、オヤカタを祀る床の間には御幣や大字の旗を供え

祭りが近づくと神の御座を強く意識した日々を迎えます。ま

た神霊の象徴とされる御幣の扱い方にも祭礼を意識した特徴

を見ることができます。頭屋は白米をつけた竹の御幣をつく

り、3月31日の宵宮で大和神社に奉納します。参拝のあと

大和神社から産子幣が授与され、4月1日の本宮で御渡り

に用いる新しい御幣(産子幣)を持ち帰ります。頭屋は宵宮

と本宮の御渡りをとおして、竹の御幣と産子幣を用いながら

新·旧神霊の送り迎えをしているのです。




i
在原業平幼なじみの恋

 業平の「幼なじみの恋」にまつわる一つの物語がある。この舞台が、現在

の天理市櫟本町にある在原神社であった。かつてここに在原寺と業平神社があった。この物語は、後

に謡曲『井筒』にも登場して有名になる。この物語はあくまで伝承なので、ここで実際そのような出

来事があったかどうかは不明であるが、在原業平は平城天皇の孫で阿保親王の第五子にあたるので、

その基盤は大和地方にあり、おそらくこの地域と深い縁があったことだけは確かである。

この話は古典の教科書にも出てくるので、よく知られている。昔、田舎に赴任している隣どうしの

人の子ども(男の子と女の子)が、いつも井戸のもとで遊んでいた。年頃になって、男はこの女を妻

したいと思い、女のほうもこの男を夫にと思っていたので、親が他の男に嫁がせようとしても聞か

なかった。

そうこうするうちに隣の男が歌を贈ってきた。

  筒井つの井筒にかけしまろがたけすぎにけらしな妹見ざるまに

(凭たちは井戸の周りを囲んだ井筒のそばで背比べをしたものだね。きみに会わないうちに
ぼくの背は井筒を越えてしまったよ。)

女は次のように返した。

  くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき

(振り分け髪の丈くらべをして、長さを競ったその髪も今は肩を越えました。

髪揚げしてくれるのは、あなた以外の誰のためでしょうか。)

そして、二人はめでたく結婚することができた。この後、話はまだ続き、男が河内の国、高安の女

に通うようになるのだが、その女の生活ぶりに愛想が尽きたのと、幼なじみの妻の愛情にほだされて、

もはや高安へと通うのを止めてしまったという後日譚が続く。

 この後日譚にも和歌が登場するが、それらは別の歌をそっくり移したものだったり、あるいは替え

歌だったりする。例えば、高安に通うのに妻がいやな顔ひとつせず送り出すので、不信に思った男が

生垣に隠れて様子を伺っていると、彼女は物思いに沈んだ顔で、次のように歌を詠んだ。

  風吹けば沖つ白浪たった山夜半にや君がひとり越ゆらむ

(風が吹けば立つ白波の、その名の龍田山を、あなたは夜中にひとりで越えていこうとするのか、

どうか無事に越えてください。)

しかし、実はこの歌は、『万葉集』巻1に出てくる次のような歌の替え歌なのである。

  海の底沖つ白浪たった山いつか越えなむ妹があたり見む

(海の底まで立つ白波の、その名の龍田山を、愛しいおまえが越え行くあたりを、

ただ私は眺めていることよ)

『伊勢物語』では、この「妹」が「君」になっている。このような換骨奪胎はこの物語ではよくあ

ることだが、これもまたその典型的な例である。そもそも、秘めやかな夫婦のやりとりが書き残され

ているということ自体が、この話がフィクションであることの証査でもある。在原業平が櫟本の地で

結婚をして、かつ河内のほうまで新しい女のところに通ったというこの話は、なんらかの伝承に基づ

いて業平に仮託した物語であることを示していると言えよう。

現在、業平ゆかりの在原神社は、国道一六九号線を櫟本に向かって進み、そこから西名阪自動車道

路の高架手前で西に入ったところに、半ば忘れられたようにしてある。しかし境内の整備が最近進め

られて、「筒井筒」が古跡として設けられているのをはじめ、謡曲「井筒』に登場する「夫婦竹」

むらすすき」等が植えられている。また平成十五年には「在原業平『恋』の河内通いの道順」

という看板も建てられた。





遍照と小野小町

 天理市布留町内の東循環道路に面したところに、厳島神社が建っている。この南側を少し行

ったところに布留川が流れているが、このあたり一帯は僧正遍昭やその息子の素性法師ゆかりの良因

寺(石上寺)があったところとされている。厳島神社前の歩道に看板が掲げられていて、遍昭と小野

小町にまつわる伝承について、「後撰和歌集』(巻十七·雑三)から取った物語が紹介されている。旅

をしていた小町がここまで来て日が暮れたとき、石上寺に泊めてもらおうと思い立った。そこにはか

ってよく知っていた遍昭が住持していると聞いたからである。遍昭は出家前、良峯宗貞と名乗ってい

た。しかし、今や一方は出家者、小町のほうも中年に達しており、互いに物の分別ある者同士であっ

たはずである。

小町は、歌を次のように詠んだ。

  岩の上に旅寝をすればいと寒し 苔の衣をわれに借さなむ

(岩の上に旅寝をすればとても寒いので、苔の衣宿杏を私に貸してくださいませんか。)

これに対して遍昭は次のように返した。

  世をそむく苔の衣はただ一重 かさねば疎しいざふたり寝む

(出家した者の苔の衣宿态は一重しかありません。貸さなければ疎まれること

でしょう。だから一緒にこの衣で寝ることにしませんか。)

 この一夜の恋物語とも受け取れる話は、しかし『大和物語』(一六八話)という歌物語では、

舞台が清水寺になっている。小町が正月にここに参詣したおり、ある法師が読経している声が聞こえてき

て、もしかしたらかつての良峯宗貞少将ではと思って歌を詠み、それに遍昭が返したということにな

っている。その際、小町の歌は『後撰和歌集』と同じであるが、遍昭の返歌が次のように少し異なっ

ている。

  世をそむく苔の衣はただ一重 かさねばつらしいざふたり寝む

 さらに 言えば、僧正遍昭の和歌を集大成した『遍昭集』にもこの小町とのエピソードが載っている

が、そこでは場所が長谷寺になっている。だから本当のところは、今の天理市布留町の石上寺(良因

寺)で小町と遍昭が歌を詠みかわしたかどうか分からないし、またそもそもこのような歌のやり取り

がそうした形で行われたかどうかも分からない。郷土の地名が読み込まれているからといって、それ

は単に歌や物語の雰囲気に相応しいから、あるいは序詞や掛詞のように触れられているだけかもしれ

ないのである。けれども小野小町はともかく、僧正遍昭が石上寺に留まっていたは違いない。もとも

と彼の母親の故郷もこのあたりにあったようだ 古今和歌集 には、次のように描かれている。


 仁和の帝、御子におはしましける時、布留の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍昭が母の家に

やどりたまえる時に、庭を秋の野につくりて、おん物語りのついでに詠みたてまつりける。

  里は荒れて人はふりにし宿なれや 庭もまがきも秋の野らなる

 また息子の素性法師もここに住持し同じく『古今和歌集』の中に次のような歌を詠んでいる。

 奈良の石上寺にて郭公(ほととぎす)の鳴くを詠める

  いその神〔上〕ふるき都の郭公 声ばかりこそ昔なりけれ

 なお、石上寺は今は廃寺であるが、その山門は布留川を渡って東に伸びる石上神宮の参道沿いにあ

大念寺に移されている。またこの寺の前庭には1メートルほどの高さの梵字を彫った板碑があり

それは素性法師の碑と伝えられている。

――――――――――――――――――

僧正遍照(そうじょうへんじょう 812~886)

 六歌仙の一人、僧。 俗名を良岑宗貞という。桓武天皇の孫にあたり、大納言安世の子で、その子の

素性法師も、三十六歌仙の一人である。

 古留(天理市布留町)の良因寺住んでいたことがあった。仁明天皇に仕えて蔵人頭にまでなったが、

嘉祥3年(850)天皇崩御の後は比叡山にのぼって僧となった。名を遍照と改めて、天台教学を慈恵(慈

覚大師円仁)に学び、仏教界にも重きをなした。後に雲林院を賜り、天台 宗の法務に任じられていたが、
山科の元慶寺(花山寺) を創設すること
によって座主となり、光孝天皇から近江に寺領が与えられ僧正
となった。

花山僧正とも呼ばれ、徳を慕われた。

  いそのかみ古留の山辺の桜花植えけむ時をしる人ぞなき

    (「後撰集」巻二春中49)

  岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を われに借さなむ

   世をそむく 苔の衣はただ一重 かさねばうとし いざふたり

    遍照 小野小町(「後撰和歌集」巻十七)


素性法師(そせいほうし 10世紀の人)
 歌人、僧。俗名を良岑玄利といって、遍照が在俗
の時に生まれた,,の二男である。

 清和天皇に仕えて右近衛将監となったが、後に出家し雲林院に住むようになった。やがて、
その後には
古留(天理市布留町)の良因寺に居住した。

 宇多上皇はその事を聞いて、昌泰元年(898)の吉野滝行幸に際して召され、良因朝臣を名乗って
お供した。

 翌年の昌泰2年、古留の滝をご遊覧の際も素性法師は、各所を案内する役目を仰せつかり、夜、
高市郡の行宮では、良因禅師は和歌の名手であれ
ば、歌をもって旅を慰めよと所望された。「古今和
歌集」以下の勅撰集に
65首程収められている。

   我のみや あはれと思はむきりぎりす鳴くタ影の大和撫子

    (「古今和歌集」巻四秋歌上)

   いその神 ふるき宮この 郭公 こゑばかりこそ昔なりけり

   (「古今和歌集」巻第三夏歌)





十市遠忠

 十市遠忠( 一四九七年明応六年)――  一一五四五年〔天文十四年])は、室町後期に活躍した郷土の

武将として有名であるが、彼は歌人としても多くの和歌を残し、その数は二千首を下らない。.業平、

遍照、小町、素性法師はもっぱら京の都が主な活動場所であり、せいぜい郷土に縁のある歌人という

感じあるが、遠忠のほうは正真正銘の郷土歌人、卓越した歌人である。

室町後期――戦国時代の和歌の特徴

 この時代は京の文化は衰えたものの、それが地方伝播していった時代である。

勅撰和歌集は『新続古今和歌集』で終わるが、その文化の規範」「基準」はあくまでも京都にあっ

た。和歌その他の古典学を身につけることが、疲弊した貴族の「存在証明」であり、彼らが宮廷、屋

敷や寺社で歌会·歌合を行い、ときには地方に赴いて歌道を指南したりした。またこれが、彼らが生

活していく方便でもあった。師範役は飛鳥井、上冷泉、下冷泉の各家であり、のちに三条西家もこれ

に加わった。和歌が盛んな地方には、若狭小浜(武田氏)、越前一条谷(朝倉氏)、能登七尾(畠山氏)、

越後春日山(上杉氏)、相模小田原(北条氏)、甲斐府中(武田氏)、駿河府中(今川氏)、安芸吉田

(毛利氏)など、戦国大名が目白押しである。その中に大和の豪族、十市遠忠もいた。

 こうした戦国大名たちは政治的には「下克上」であったが、文化的には伝統主義者であった。後の

武田信玄、毛利元就、北条氏康、豊臣秀吉、伊達政宗なども歌を好んだ。歌道伝授は流派によって多

少違いがあり、とくにそれは最高の古典とされた『古今和歌集』の伝授によって、写本の別、解釈の

別などがあった。十虚忠は、三条西実隆の指導を主に受けた。この時期の和歌の特徴は総じて、伝

統的で、優美平明な家風を基調とするものであった。

十市遠忠の生涯

 十市遠忠は、京の都を荒廃させた応仁の乱が終了して二十年後の一四九七年(明応六年)に生を受

けた。十市氏は、当時、筒井氏、越智氏、古市氏と並ぶ大和地方の豪族であり、「国民」(興福寺の荘

官)であった。彼は二十代の頃に、おそらく伯父の釜口栄弘らを介してであろう、奈良の大乗院の僧

である釈玄誉を紹介され、この玄誉法師に歌を学んだ。また後には、その作歌の優秀されを見込まれ

て、本場の専門歌人にも紹介されたものと思われる。三十歳の時、「太神宮法楽五十首』を詠んで以

来、『八幡法楽五十首』、「東大寺八幡法楽和歌』、『聖廟法楽五十首』を詠むなど、法楽和歌を盛んに

作るようになる。これらの歌の多くは、三条西実隆に合点(評点)をつけてもらっている。

 三条西実隆は遠忠より四十歳以上年長の公家であり、彼も丁重に教えを乞うたことであろう。指導

料として、実隆に対して太刀一振り、油煙(墨の原料)十挺、茶器1対、鳥目(銭)三百疋などを献

納している。

 一五四〇(天文九年)、四十四歳の時には興福寺の要請により、室町幕府が遠忠と木沢長政・筒

井順昭·越智家頼との和睦を図った。この翌年七月に彼は多くの家来を従えて奈良に赴いたが、『多

開院日記』によると、外様五十人、殿原衆四十人、また中間衆六百七十人と伝えられる。この頃が遠

忠の全盛期であったと同時に、十市氏一族の最盛期でもあった。彼は、一五四五年(天文一四年)三

月、四十九歳の時に病没したが、その後急速に十市氏は力を失っていくのである。

遠忠没後の十市氏について

 遠忠は四十九歳で病没したが、息子の遠勝は当時まだ若輩であった。大和をめぐる情勢も次第に風

雲急を告げるようになり、堅固を誇った龍王山城も安泰ではなくなった。そして遠忠没後二十三年目

の一五六八年(永禄十一年)八月、ついに松永久秀の軍勢が龍王山城を落城させた。落城の際には凄

惨な戦闘が行われたらしく、近隣の村々に後世、落ち武者の怨念が火の玉になって飛び交うという怪

談(ジャンジャン火、あるいはホイホイ火とも言う)などが伝えられている。長岳寺本堂を上がった

ところの天井の板に「人の足形」がついているが、これは龍王山城の落城の時、十市方の武士が血ま

みれになって本堂の階段を駆け上がり、堂内でそのまま息絶えてしまったという「伝説」を伝える証

拠である。江戸時代になって本堂を改築したときに、縁側の板を天井に張り替えたのだが、その血の

足形だけがなぜか浮かび上がってきて、

今に伝えられているというのである。

 その後、松永久秀の甥(松永金吾)が遠勝の娘を娶って、かろうじて城それ自体は守られたが、そ

の久秀も十年も経たない一五七七年(天正五年)に織田信長に信貴山で破れ、甥の金吾も楊本の黒塚

砦で火を放たれ、炎の中で自決したのであった。そして翌年、信長の「一国一城」の命により、龍王

山城は破壊されてしまった。

 現在、長岳寺の山門の南側の杉木立の中に大小数十基の五輪塔群が存在する一角があり、ここは

市氏一族の墓地とも言われている。その最も大きいもの(二メートル近い塔)が遠忠の墓と伝えられるが
定かでない。







宮殿について

 天皇陛下の住まいを、皇居・宮城というが、皇都といった時期もあった。
 古代の天皇の居所・宮殿は「宮室」「宮都」といっていた。
その宮都が明確になるのは都城制ができあがる持統・文武天皇の藤原宮からであった。
それより以前は推古天皇の飛鳥小墾田宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮、天智天皇の近江大津宮、
孝徳天皇の難波宮、皇極天皇の飛鳥板葺宮、或いは岡本宮・河原宮などの遺構が知られている。
それより古い時代は宮室と云っているが、それらの位置の特定はむつかしい。
しかし、記紀をはじめ古い記録類には宮都の名称が書かれている。

 古代天皇の宮都の名称(例)について、宮都が置かれた土地の名前と天皇が皇子で

あったときの名前とが組み合わさったものであり、宮都設置の土地は皇子の時代に養育された地であ

り、天皇の名前である国風諡号はその養育された地名が冠せられた、とされた。例えば反正天皇の

名前は多遅比瑞穂別(たじひのみずほわけ)であり、宮都は丹比柴籬宮(たじひのしばがきのみや)

であり、宣化天皇はお名前が桧隈高田であり、宮都は桧隈廬入野宮(ひのくまのいほりの宮)と言っ

た具合で、それぞれタジヒ、ヒノクマ地方で養育をうけられたものと考えられている。







龍王山城とその時代

奈良盆地の戦国時代
 中世期の奈良は、寺社勢力が伝統的に強大で、特に興福寺と春日社に対する信仰を紐帯として各地

に勃興していた土豪が組織され、十三世紀後半ごろには、土豪勢力が離合集散を繰り返し闘争を引き

興していた。この時期、城郭を構える動きがあったものの、多くは日常生活を営む居館が城郭として

機能していた。

 本格的に山城が築かれ始めるのは、十四世紀中ごろの南北朝期である。一三三三年に鎌倉幕府が滅

亡すると、後醍醐天皇による天皇支配体制が目指され、南朝方の防衛網として多くの山城が吉野から

宇陀地域にかけて作られた。一方、京都においては足利尊氏により室町幕府が開かれ、ここに天皇政権

と武士政権の武力による拮抗が始まった。足利政権は全国に守護、地頭をおいて全国支配を進めたが、

奈良においては依然として興福寺の支配するところであり、興福寺内の一条院派と大乗院派に別れて

対立していた。このような情勢は、盆地内の武士たちにも影響し両派に別れて死闘が繰り広げられた。

 十五世紀中ごろになると、有力土豪を二分した大和永亨の乱(一四二九年)を契機として本格的な

山城が築かれ始める。そして、奈良の武士は代表的な土豪である筒井、越智、高取、箸尾、十市など

に収斂されていく時代である。

 龍王山城が記録に現れるのは十六世紀に入ってからである。永正四年(一五〇七)の土一揆の記録

に「今夜一国一揆ことごとく蜂起する。二上山、三輪山、釜口ノ山、桃尾かかり火焼く」とあり、釜

口とは長岳寺の山号であり、ここに始めて龍王山城のことが現れる。この後、文明一五年(一四八三)

から天文九年(一五四〇)ごろにかけては十市氏の勢力が強くなり、楊本氏の山城であった龍王山城
を支配下においた。

 十市遠忠の時代になると十市氏の盛期を迎える。天文十二年(一五四三)には龍王山城の入り口に
あたる萱生において
盛んに普請を行なっていた。このころは城内への来客が頻繁にあり相当充実した
施設が整っていたことがうかがえる。し
かし、遠忠が天文十四年に死去すると一時期筒井氏の支配す

るところとなった。

 当時の畿内を実効支配していたのは三好長慶であり、長慶の家臣であった松永久秀は、永禄二年
(一五五九)に大和支配を許され進出した。この時期には織田
信長が京都に入洛を果たしたことにより、
戦国時代はいよいよ終末を迎えようとしていた。

 松永久秀は永禄二年に大和支配を許されると、筒井氏傘下の武士を駆逐して盆地の西には信貴山城、

北には多聞山城を築城した。このころ十市氏から龍王山城を奪い、東の守りの要として改修と築城を

行ない大和支配としての三城体制が確立されたのである。織田信長は大和に進出して松永が築城した

多聞山城に立ち寄った。この城は天守閣を備え、石垣と白壁、瓦葺き屋根といった城であり、山城と

しては画期的なことであった。安土城を築城するときには多聞山城の普請を大いに参考とした。しか

し、天正五年(一五八○)信長に背いた久秀は信貴山城の戦いで自害し、また、龍王山城を守備して

いたおいの松永金吾も「クロッカ砦」において自害した。

 天正八年(一五八○) 城破却令を出した。これは筒井城を除いて奈良に築かれた山城をすべて破壊
することを命じたものである。このほか大和指出国衆の粛正と武装解除が進み
ここに大和の戦国時代
は幕を閉じたのである。


龍王山城跡の概要

 龍王山城跡は、北浦家所蔵の『南北山城絵図』に城内の郭や空堀などの施設と名称が詳細に描かれ
ている。
た、昭和五五年には村田修三氏により現地踏査がおこなわれて、縄張り図を完成された。
現在この二つは、
当城研究には欠くことのできない基礎資料となっている。

平成九年には天理市教育委員会により南城跡の平場が発掘調査された。

 龍王山城は大和盆地と東山中を画する山脈の高峰、王山に築かれている。ここは布留川の水
源としても信仰される山で頂上近くに龍王社が祭られている。

南城と北城に別れて築城され、その規模は南北一 ·二㎞に及んでいる。南城跡は最高所の標高が
五八
五·九mを計り、北城跡は南より六○ mほど低い位置にある。しかし、奈良盆地周辺に築かれた
山城
では最高所にあり、盆地内全体を眺望することができる。このことは龍王山は戦略的地勢から
見ても
申し分ない地点であることは論を待たない。ここはまた、東山中との結節点ともなって、奈良盆
地側
からは中山、萱生などの山麓の集落から道が開削され、東側では藤井道が通じている。

 南城跡は長岳寺から「釜口坂」道を登ると、五二三mの鞍部にいたる。ここは現在休憩地となって

いるが、北東方面も一望に見渡せる地点となっている。ここからが南城にいたる城道である。通路

は狭いものの斜面地に作られた平場の下端を取り巻くように、徐々に高度を上げながら主要な平場
の背後まで通じている。南城跡は主
郭を中心にして南·北側の尾根筋に階段状に平場を構成している。

 北城跡は萱生と中山からの道筋が開削されている。南城よりさらに規模が大きく、各施設も周到に
配置されている。主郭は、周囲の
平場より一段と高い場所に作られ、主郭を取り囲むように中段の平
場が配置されている。

下段の平場群は主郭とは四○ mほどの高度差が認められる。主たる防御面である西斜面には、空堀
群と小規模平場群が配置され攻め上
ってくる敵を監視し、あるいは攻撃する陣地となっている。
「萱生□坂」の道は主郭ヘは
直接行き着くことはなく、城外に出てしまう道であったり、西斜面に出る道
が設定されて
いる。言わば偽道が配置され防御面での高度な戦略が見て取れる。

また下段平場には石垣が積まれているが、建物への瓦の使用は確認できない。

礎石建物の創建年代と歴史的意義

 龍王山城は天正六年(一五八七)に織田信長の破却令を受けて取り壊されたのであるが、調査で検

出した礎石建物は、いつ誰によって立てれたのであろうか。このころの山城の建物は、一般的には

掘立柱建物が普通であり、遺構としては柱を据え付ける穴が整然と検出される。 屋根も板葺で、瓦葺

きの礎石建物と言えば寺院建築に限られていた。

 ところで、奈良盆地の北に位置する多聞山城からは不十分ながらも発掘調査により礎石の一部と大

量の瓦が出土している。文献史料によれば、永禄二-三年(一五五~ 五六〇)にかけて、松永久

秀の支配するところとなり築城を開始した。永禄八年には多聞山城を訪ねた宣教師のルイスアルメイ

ダは「やぐらや塁保を造り、城内に多数の井戸を掘り、家臣に家を立てさせ、やぐらは白壁にし、指

二本ほどの厚さの黒瓦で葺いてあり、主要建築には、柱の上下を真鍮で包み、中央には金色のばらで

飾り、」というような中世の山城とは隔絶するような城郭を完成させていた。

 龍王山城で使用された瓦は、東大寺の塔頭から運び込まれた可能性を示唆したが、この年代はいつ

の時期とちえられるであろか。龍王山城は「多聞院日記』永禄三年(一五六0)に十市氏から松永方

に落ちたことを記している。一方築城なった多聞山城を拠点にした松永久秀は、永禄10年(一五六

七)奈良方面において三好三人衆と戦闘を繰り広げた。この折に東大寺が炎上したことはよく知られ

ている。このような戦闘により打ち壊した塔頭から城郭瓦として転用されたのであろう。

 以上のように、龍王山城と信貴山城、多聞山城の三城の発掘調査と史料の示すところを総合すると、

今回調査した瓦葺きの礎石建物は松永久秀の創建した建築物である可能性は高いであろう。

 では、松永以前の城主であった十市氏の遺構は無かったのであろうか。

遺構としては明確な形では検出できていない。原因としてはおそらく十市氏段階の建物は、掘立柱
建物
が想定されるが、これは礎石建物に比較してはるかに簡便な建築構造である。松永段階の改
造の際に破壊さ
れた可能性が大きい。

松永久秀の野望と戦国時代の終焉

 戦国武将の一人であった松永久秀は何を目論んでいたのであろうか。

 松永は永禄二年(一五五九)に、その頃畿内を実効支配していた三好長慶より大和一国の支配を許

されるが、この前後から久秀の権力も上昇していたようで「三好殿の家来であるが、彼から裁判権と

統治権を奪い、 ほしいままに天下を支配し 五畿内では彼が命令した事以外に何事も行なわれない

で、位階や門地の点で彼に勝っていた高貴な貴人たちが、多数彼に使えていた…」状況であった。こ

れは永禄四年ごろのルイス·フロイスの観察である。このほか、天皇に対しても改元を迫り、あるい

は将軍である足利義輝を自殺に追いやったりという政治的にも注目すべき行動に出ていた。

 奈良盆地での信貴山城、多聞山城、龍王山城という三城体制は、伝統的な信仰に基づいた旧来の支

配体制の打破と覇権の確立であった。またここは奈良盆地内にとどまらず、河内方面と、山城から近

江、また東では東山中から伊賀、伊勢へと広がる拠点として重要な戦略的意義が込められていたので

ある。戦国武将として頂点を目指していたのではないだろうか。

 しかし、この野望を打ち砕く最大の敵が目前に迫っていた。三城体制を確立し始めた永禄二年には

織田信長が同じく京都へ進出を果たしたのである。天正二年(一五七四) ついに多聞山城において信

長を歓待したのである。ここにおいて雌雄は決したかのようで、三年後には信長に反旗を翻したが
信貴山城に滅んだのである。

 『時代を掘る』
 天理市教育委員会文化財課課長補佐 泉 武 より








斎宮とは

 斎宮「さいくう、さいぐう」は、古くは「いつきの宮」と称し、伊勢神宮に奉仕した皇族女性の

伊勢斎王および伊勢国多気郡に置かれた斎王の居所をいう。斎王は、天皇即位の直後に未婚の皇女ま

たは女王から占いによって選ばれ、二年におよぶ斎戒、修練の生活を重ねた後、伊勢神宮に向かった。

 日本書紀は、神宮の創始伝承と皇女による神宮祭祀の始まりの説話を次のように伝えている。崇神

天皇の皇女、豊鋤入姫が皇居に祭られていた皇祖神,天照大神 を倭の笠縫の邑に遷し、次の垂仁天

皇の皇女·倭姫が天照大神の御杖代(みつえしろ)となり、大神の鎮座地を求めて、宇陀の篠幡、近江、
美濃を回り、伊勢の国に至って大神の意にかない、五十鈴川の川上に社を建てて鎮座地としたという。

 伊勢神宮が国家の守護神として定着するのは、七世紀末、飛鳥時代終わりのころの天武天皇の時期

だとされている。斎宮の制度が歴史上確立するのも、この時期、天武朝以降とされる。以後、斎宮制

度は、奈良時代、平安時代、鎌倉時代を経て、南北朝の動乱期まで続くが、後醍醐天皇の時に最後の

が決まったものの、伊勢神宮に赴任することのないまま途絶えた。この間、実に六六○年の長期

にわたって続いた制度であった。

 斎宮についての具体像を最も整備された形で伝えるのが「延喜式」である。全五0巻、その巻第五

に斎宮に関する規定が詳細に記載されている。延喜式は、延喜五年(九〇五年)に編纂が開始され

延長五年(九二七年)にできた法典であるから、その規定は、奈良時代から平安時代初めにかけての

斎宮の実態と見てよいのではなかろうか。






富岡鉄斎

富岡鉄斎(とみおかてっさい)(1836-1924)

 近代日本の生んだ世界的に賞賛をえた画家。

しかし、当人は終生儒士をもって任じている。京都三条通りの由緒ある豪商十一屋の次男として生まれる。

富岡家代々の家学として神道、儒教、仏教への崇敬の念が連綿とあり、鉄斎も幼児からその薰淘を受け、
生、変わらない心の支えとなした。画風は中国明·清時代の文人画から、大和絵、琳派、浮世絵、大津
絵などを受けいれ、独
自の画境を築いた。石上神宮の宮司から堺の大鳥神社の大宮司となるまで、当地
(石上神宮)での滞在は約7ヶ月ではあったが、その
間、公務の余暇を見ては付近に散在する歴代天皇

の御陵を参拝して回ったり、神宮の修理に私費を当て、復興に努めたりしている。  







中山みき

中山みき(なかやまみき) (1798~1887) 宗教家、天理教教祖。

 寛政10年(1798)陰暦4月 18 日、前川半七正信ときぬの長女として山

辺郡三昧田村(現天理市三昧田町)で誕生。13歳で同郡庄屋敷村の中山善

兵衛と結婚。働き振りを評価されて16歳で中山家の所帯一切を任される。

17年間に1男5女をもうける。

 天保9年(1838)10月 23日夜、突然神がかり状態となり、「われは元の

神、実の神である。この屋敷に因縁あり。このたび、世界一列をたすける

ために天降った。みきを神のやしろにもらい受けたい」との啓示を受ける。

 神の指示により、みきは貧窮生活の中で日々を過ごす。

 嘉永6年(1853)以降、信仰の理解者である長男秀司、5女こかんと共に

安産や疱瘡などの病気治しによる救済活動を活発に行い始め、次第に
信者数は増加し、
その教えは国内はもとより世界に広まった。

明治20年(1887)陰暦正月26日90歳で没し








豊田狐塚古墳現地説明会資料より

調査地付近の概

 調査地は天理市豊田町集落北側の丘陵地にあたり、布留川の形成した扇状地·段丘を見下ろす高台にあります。

布留遺跡は旧石器時代から現代に至るまで連綿と続く大規模な複合遺跡で、古墳時代中期~後期に最も繁栄を遂

げます。首長居館や工房が見つかっており、有力豪族物部氏の本拠地であった可能性が考えられています。また、

布留遺跡の南方には塚穴山古墳や峯塚古墳など終末期古墳を擁する杣之内古墳群が広がっています

いそのかみ とよだ

 この布留遺跡の北方の丘陵上には古墳時代後期の大規模な群集墳として知られる石上·豊田古墳群があり、2

基の大型前方後円墳(石上大塚古墳·ウワナリ塚古墳)のほか150 ~200基ほど円墳が群集しています。このほか、

岩屋谷にも前方後円墳(岩屋大塚古墳)と方墳(ハミ塚古墳)が築かれています。

 今回の調査地はこの石上·豊田古墳群の南西端付近にあたり、平成26~27年に大型横穴式石室が発見された

豊田トンド山古墳の南東約100 mの地点にあります。

今回の調査の概要(調査進行中のため見解に変更が生じる場合があります)

 新発見の横穴式石室  豊田狐塚古墳は明治8年当時の文書に「20年ほど前に発掘した」旨の記述があり

江戸時代末期に盗掘がおこなわれ、勾玉や刀などが出土したことがわかっています。当時のことは地元豊田町に

も伝承が残っています。しかし、この文書にはどのような埋葬施設から遺物が掘り出されたのかということに関

する記載はなく、遺物も一部が別の場所に再埋納されたと記されるほかは所在不明となっています。その後も考

古学的調査は実施されていなかったため、豊田狐塚古墳の時期や埋葬施設に関する手がかりはこれまでありませ

んでした。今回の発掘調査により横穴式石室が存在することを初めて確認しました

 横穴式石室の特徴  横穴式石室は調査前には完全に埋没していましたが、地表面から50cmほど掘り下げる

と最上部の石材が姿を現しました。見つかった横穴式石室は南方向に開口しており、調査区内に玄室全体と羨道

の一部が含まれています。両側に袖部を有する両袖式の石室です。玄室は床面で全長約4.4 m、奥壁の幅約2.2

m、床面からの高さ約2.2mあります。羨道は玄門の幅約0.8 mで、調査区内では長さ約1 mを確認しています

南側は調査区外となるため、

本来の長さはより長いものであったと考えられます。

 天井石と側壁の一部の石材は石材採取により失われています。壁面には30 ~ 100cm程度の大きさの石材を

7段程度積んでいます。床面には直径5~10cm程度の床石を敷き詰めています。下部に排水施設などを有す

る可能性がありますが、現時点では未確認です。

 出土遺物  玄室内は盗掘を受けているものの、鏡、馬具、玉類など多数の副葬品が遺されていました。

  ·鏡    小型鏡(旋回式獣像鏡)

  ·鉄製品 馬具(環状鏡板付轡2·金銅装三葉文楕円形杏葉1·雲珠1 武器(鉄刀·鉄鏃など)

  ・玉類   水晶製切子玉·丸玉·管玉·土製丸玉100以上·ガラス製1

  ・土器  須恵器50点以上(有蓋台付長頸壺·高杯·ハソウ·杯身,杯蓋,無蓋高杯など)土師器(直口壺など)

 出土遺物の時期は須恵器や馬具などの特徴から6世紀中葉~後葉のものとみられます。

 埋葬状況  盗掘は玄室の中央付近で一部床面にまで達しているものの、それ以外の部分では埋葬当時の状況

が比較的よく残しています。床面には木質が残存する箇所があり、少なくとも3基の木棺(推定)が安置されて

いた可能性があります。また、玄門付近の須恵器には奧壁付近の須恵器よりやや新しい時期のものがみられるこ

とから、追葬がおこなわれた可能性が考えられます。

 墳丘  墳丘の形状については現在調査を進めていますが、直径20 m程度の円墳となる可能性がありま

す。後年の開墾等により古墳の北半は大きく形状が変わっています。

おわりに

 豊田狐塚古墳の墳丘は、約150~200基程度ある石上·豊田古墳群の円墳のなかでも有数の規模を有してい

ます。また、横穴式石室についても前方後円墳(石上大塚古墳·ウワナリ塚古墳など)や方墳(ハミ塚古墳)の

石室に次ぐ大きさであり、他の円墳の横穴式石室と比較して大型のものといえます。さらに、石上·豊田古墳群

における小規模な円墳は尾根筋や斜面に密集して分布している一方、豊田狐塚古墳は単独で高所に立地しており、

平成26 ~ 27年に大型横穴式石室が発見された豊田トンド山古墳と立地に共通性があります。古墳群全体で見

ても特徴的な立地といえます。

 豊田狐塚古墳は石上神宮や布留遺跡を見下ろす高所にあり、これらを強く意識した立地といえます。墳丘や横

穴式石室の規模、副葬品の質·量からみても、首長層を支えた有力者の墓である可能性が高いと考えられます。

 平成28年4月9日 天理市教育委員会文化財課








阿武山古墳 地図

 阿武山古墳は、阿武山の中腹·標高約210mの尾根上にあります。昭和9年、京都大学の地震観測施設

建設のさいに偶然発見されました。地表から深さ50cmのところで塼を敷き詰めた層にあたり、更に掘り

進めたところ石積みに漆喰を詰めた埋葬施設が見つかった。石室は無袖式の横穴式石室(横口式石槨と

考える説もある)花崗岩の割石で築き壁面を漆喰で塗っている。石室の床は塼を敷き中央に塼積みの棺台が

あって、黒漆塗りの夾紵棺が安置されていた。阿武山古墳は7世紀半ば以降の古墳だと考えられている。

この古墳は盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの墓域を

区画しています


 阿武山古墳は未盗掘の古墳であったので棺内には埋葬時のままの遺骸が残っており頭部付近には銀線
で青と緑のガラス玉をつづった
玉枕を用い、きらびやかな錦を纏った60才程の男性の遺体がありました。
これらは元どおり埋め
戻されたが、当時撮影された 線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に
肋骨などを折る
事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽かんぼう)を副えてあった事が分かっている。

 玉枕や多量の金糸があった。この金糸は冠帽の縁の刺繍に使われたものである事が分かった。

『書紀』大化3年(647年)条「七色十三階の冠の制を作った」とあり、最上級の織冠と二番目の繍冠の冠帽の
縁には刺繍が施されていた。

中臣鎌足は死の直前の天智8年(669年) 10月に藤原の姓と共に大織冠と大臣の位を授けられており、

阿武山古墳の被葬者は中臣鎌足(藤原鎌足)ではないかと考えられた。

 現在、中臣鎌足を祭神として祀っているのは奈良県桜井市にある談山神社(多武峯寺) 。
唐に留学していた
鎌足の長男定慧が帰国後、摂津島下郡「阿威山」の墓に葬られた鎌足の遺骸を多武峯
に改葬したと、平安時代中頃に
成立した『多武峯略記』に記載されている。茨木市西安威に「大織冠神社」
がある。
この神社は鳥居があり神社の体裁をなしているが社殿はなく「藤原鎌足公古廟」(将軍塚古墳)と
される
横穴式石室を持つ円墳がある。毎年10月16日(藤原鎌足命日)には、京都の藤原氏末裔の九条家

ている。平安~鎌倉時代に藤原北家の九条兼実が安威の荘園を本所とした頃に、将軍塚古墳を鎌足公の

「阿威山墓」に比定したのではないかと言われている。

藤原鎌足の墓が摂津国嶋下郡阿威山にあるという伝承は史実であったが、鎌足の墓(阿武山古墳)には

墳丘がなく地下式墓であったため忘れ去られてしまい、将軍塚古墳が藤原鎌足公古廟とされたのであろう。

延喜式』に藤原鎌足の息子不比等の墓、多武岑墓の記載があるのに、始祖である鎌足の墓の記載が無い

のはこのためであろう。鎌足は「葬儀は簡素なものにしてください」と、見舜いに来られた天智天皇に

申し出ている。阿武山古墳は鎌足の遺言を実行し、造営されたのであろう。
 大原の里⇒⇒⇒









鷲林寺(じゅうりんじ)と神呪寺(かんのうじ)麁乱神(そらんじん)

鷲林寺と神呪寺が伝える麁乱神

 

 ソランジンは鷲林寺開基伝に登場するが、神呪寺開基伝にも登場する。

神呪寺は西宮市のシンボルとされる甲山の麓に位置する真言宗の寺院であ

る。鷲林寺の開基伝説の主人公が弘法大師であるのに対して神呪寺のもの

は如意尼公となっている。如意尼公は淳和天皇の妃であり、弘法大師の弟

子の一人と伝えられる。如意尼公が甲山に弘法大師の協力を得て神呪寺を

建立しようとしていた時、鷲林寺からソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿

をかえ建立の邪魔をしに来た。その本体は八面八臂である。如意尼公は何

度も襲いかかるソランジンに恐怖を感じ大師に相談した。東の谷に大きな

岩があるのでその上に神をまつれとの大師の教えに従ったところ、それ以

降邪魔をしなくなり逆にソランジンは守護神になったと伝える。

 開基を伝える資料の中で現存する最も古いものは元亨釈書である。元亨

釈書は鎌倉時代に虎関師錬が著した書物で三十巻からなる資料である。こ

の中に如意尼公が神呪寺を建立した記述があり、そこに麁乱神を登場させ

る。元亨釈書以降の記述はすべてこれを元に著されているものと思われる。

また、弘法大師弟子譜巻十の天長七年二月の頃には、如意尼公が神呪寺を

建立しようとした時、麁乱神が邪魔をしたことを説き、この麁乱神が鎮守

伽藍神となり、これを祀る寺を鷲林寺としたと記述されている。

 鷲林寺と神呪寺が開基された時代はほぼ同年代と伝えられているが、数

ある開基伝では如意尼公を中心にした物語が大半を占めるのに対し、鷲林

寺に伝わる開基伝のみが如意尼公を登場させず弘法大師を主人公としてい

る。これは鷲林寺と神呪寺の間で勢力争いがあったことを意味するのでは

ないだろうか

鷲林寺略縁起

 当寺は人皇五十三代淳和天皇の勅願にて天長十年(八三三)弘法大師空海

によって開創された真言宗の寺院である。

 観音霊場を開こうと地を求めて旅をしていた大師が廣田神社に宿泊され

ていたとき、夢枕に仙人が現れこの地を教示された。それに従い入山した

ところ、この地を支配するソラソジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ、口

から火焔を吹き大師の入山を妨げた。大師は傍らの木の枝を切り、湧き出

る六甲の清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊

木で本尊十一面観音を刻み寺号を鷲林寺と名付けた。また、大鷲に化けた

ソランジンは麁乱荒神としてまつられた。

 その後、貴族寺院として大いに栄え、盛時は七十六坊を有する大寺院に

成長し、その寺領は鳴尾地方にまで及んでいたことが古文書などによって

伺える。しかし、戦国時代に入り寺領は侵略押収され、天正六年(一五七八)

十一月に荒木村重の乱が起こり、それを期に翌七年、織田信長軍のために

諸堂塔はすべて焼き滅ぼされてしまった。本尊を始めとする仏像は瓶に入

れ地中に埋め隠されたため兵火から逃れることができた。後に掘り出され

小堂宇を建立し観音堂としたが、その後も幾多の山津波や火災に遭い、無住

の時代が長く続いた。昭和の時代に入りようやく復興され初め現在に至っ

ている。

麁乱荒神と三宝荒神

 谷響集第九(こっこしゃう)に「悪人を治罰することがあるが故に麁乱荒神と称し、又三

宝を衞護するが故に三宝荒神と号す」とあり、麁乱荒神と三宝荒神は同体

であると解く。荒神は日本で古くから信仰されている神であるが、インド

伝来の神でもなく中国からもたらされた神でもなく、日本で成立した神で

あると言われる。神道では荒ぶる神であり素戔鳴尊と関係があると説き、

陰陽家では大年神·奥津日子命·奥津比売命の三神とし、仏教では毘那夜

迦・荼吉尼·剣婆あるいは摩多羅神とするとある。ここに言う素戔鳴尊は、

古事記や日本書紀に見られるように天界で暴れる荒ぶる神とされ、大年神

奥津日子命·奥津比売命は素戔鳴尊の子孫に当たり、これらの神々が竈の

神として祀られることから、いつの時代からかこれらと結びつけて、荒神

を竈神として祀るようになったのかもしれない。

清荒神

 宝塚市に真言三宝宗大本山清澄寺がある。清荒神として広く信仰を集め

ている寺院であるが、清荒神は鷲林寺の麁乱荒神を移したものであるとい

う説がある。東大寺戒壇真言両院長老性善(洞泉)の伝を智山第二十二世

動潮がほとめた三寳院洞泉相承口訣第二十二荒神供に著しているのがそ

れである。これによると、清荒神とは如意尼公が神呪寺を建立するときに

出現した鷲林寺の麁乱神のことであると説く。また、清澄寺に伝わる蓬莱

山清澄寺記にも弘法大師が神呪寺を建立の時、鷲林寺に麁乱神をまつった

ことを紹介していて、その深い関係を強調している。

ソランジンに対する見方


 鷲林寺と神呪寺の開基伝に共に登場するソランジンは両寺に

とって重要な神であると言える。大鷲に姿をかえたり、口から

火焔を吹いたりしたという話は信じ難いが、弘法大師の「飛行

三鈷」の話と同じように、その裏には真実、真理が隠されてい

るはずである。ソランジンが現れ、大師なり如意尼公の邪魔を

したということが何を意味するのかを考えてみた。

 仏教が伝来する前の日本は神の国であり、八百万の神が守護

していた。六世紀半ばに中国大陸を経てインドから仏教が伝来

する。インドの神々を日本に受け入れるためには大黒天などの

ように、日本の神とインドの神を習合させなくてはならなかった。(本地垂迹)

 仏教が伝来する前の西宮地方は廣田神社の神域であった。そ

の神域内に神呪寺なり鷲林寺なりの寺を建立するということに

なると、もともと鎮座されている神である廣田の宮に挨拶する

ことは当然のことであろう。廣田の宮の祭神は天照大神荒御魂

である。伊勢神宮の和御魂と対で、伊勢を"東の宮“とするな

らば廣田を"西の宮"と呼称するという説もあるほど大切な宮

である。

 その神を両寺院建立の物語上に、天照大神荒御魂をソランジ

ンとして、すなわち麁乱荒神として表現したのではないかと考

えられるのではないだろうか。

 因みに、鷲林寺境内に隣接して祀られる宮は廣田神社の若宮

である。

 




県立図書館情報館長・千田氏講演

 奈良盆地中央部で最大規模の前方後円墳、島の山古墳(川西町、国史跡、4世

紀末,墳丘長約200m )の築造に関わったのは渡来系の秦氏だったのか。島の

山古墳について考える研究講座が橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所(橿考研)

で開かれ、千田稔·県立図書情報館長(歴史地理学)が、渡来系氏族との関わり

などについて講演した。

 千田さんは島の山古墳のそばにある糸井神社と比売久波神社に注目。両神社は

織物と関わりがあり、渡来系の氏族の糸井造がこのあたりを開発したとされる。

糸井造は新羅から来た王子アメノヒポコの子孫とされ、同じくアメノヒポコ

と関係があるとされるのが織物や土木などの技術を持った渡来系の秦氏だ。

 千田さんは「4世紀ごろに秦氏がこの一帯に定着し、水田開発や織物の拠点

造りを進めた」と推測。土木技術を生かし、古墳の築造にも関わったとみる。

 被葬者については、4世紀後半という築造時期や「糸井」という地名から

前方部に応神天皇の后、糸井媛の名を挙げ、後円部は糸井媛の父の島垂根と推測

した。

 橿考研博物館で開催中の春季特別展「やほとのみやけと女性司祭者-史跡島の

山古墳発掘20年-」(朝日新聞社後援)の関連イベントとして5日に開かれた。

2016-6-17 朝日新聞