詳しく



白村江の戦、「日本」について

日本と唐·新羅の連合軍が戦った白村江の戦い(663

年)の後,唐側の使者として665年に来日したことが

「日本書紀」に記される百済人、祢軍(でいぐん)の
墓誌が中国で見つ
かった。
その中にある「日本」
の文字が、「最古の国号」と

して注目されるが、事はそう単純ではないようだ。

(文化部早川保夫)


発見した中国·吉林大の王連龍副教授は、2月に明治大

(東京)で開かれたシンポジウムで、拓本や実物の写真を

披露した。氏によると、墓誌は縦横59cm厚さ10cm。個人

の所蔵で、出土地は不明。祢軍は613年に百済で生ま

れ、660年の百済滅亡時に唐へ投降、678年に没した

ことなど、その生涯が、文学的な修辞を凝らした884字

の漢文でつづられている。

中国·洛陽大に保管される祢寔進(しょくしん・672年没)の墓

誌との比較から、祢軍は祢寔進の兄であることが判明。王

氏は「文字の書法や内容などから、偽造や模刻ではない」

と断言する。2人の墓誌に埋葬地として記される中国·西

安の家族墓から2年前、寔進の子と孫の墓誌も出土してい

る。

祢軍の墓誌で注目されるのは、「于時日本餘噍 ・・・
(□は欠損)の部分。
□桑」は筆画などから,日本の異称
でもある「扶桑」と
される。王氏は「 (白村江の

戦いで敗れた)日本の生き残りが本国に逃れて、誅儇を

避けている」という意味主張。シンポジウムで、気賀

沢保規·明治大教授(中国史)も「国号として理解できる」

と賛意を示した。

だとすれば、7世紀後半の天武·持統両天皇の頃や, 7

01年の大宝律令制定前後など諸説ある、「日本」という

呼称の成立時期をめぐる論争に大きな影響を与える。
ただ
シンポジウムでも一部紹介が あったように、
異論が出ている。

東野治之·奈良大教授(日本古代史)は「『日本』は中

国から見て日の出るところを意味し、新羅を指して使われ

ることも珍しくない」「『扶桑』も、東方の神木や東の仮

想国を指す用語としても使われていた」と反論。その上で

該当部分を「『日本 』は百済の残党の活動,『風谷・・・』

は高句麗が唐の侵攻に備える様子を記しているのでは」と

考える。

中国·鄭州大の葛継勇副教授も「『日本』と『風谷』

『扶桑』と『盤桃』は対句で、ともに東方を指す言葉。抵抗

する百済の残党のことを指している」 として、国号説には

否定的だ。

墓誌には、祢軍が日本に派遣されたことを述べていると

みられる部分もあるが、そこには「日本」の語を用いてい

ない。他国の名がないのも疑問だとの声もあり、国号か否

かについては慎重な議論が求められる。

一方、田中俊明·滋賀県立大教授は、朝鮮古代史の立場

から墓誌の価値に注目する。

祢氏では、祢軍のほか、百済王を連れて唐に投降した祢

植が智れているが、「祢寔進の『寔』は『植』に通じ、

祢植と同一人物と考えられる。2人の祢氏の墓誌は百済

史を考える上でも大きな発見だ」と評価する。

墓誌には、祢氏の先祖が「(中)華と同じ」で、「4

世紀初めに中国で起きた争乱を避けて東に移った」とあり、

中国からの渡来人だったと記される。祢氏一族の墓誌は、

日本にとどまらず、百済の滅亡や東アジアの交流を考える

上で一級の史料といえる。さらなる研究の進展と、活発な

議論が期待される。
2012-3-7  読売新聞


 


新発見の祢軍墓誌の拓

本(部分)。右の行の

上部に「日本」の文字

が見える










金峯山寺

●金峯山と金峯山に

金峯山(きんぷせん)とは、奈良県の吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る一帯を指

し、古く飛鳥時代から聖地として知られていました。白鳳年間(七世紀後半)、修

験道を始めた、役行者(えんのぎょうじゃ)は、この金峯山で修行され、山上ヶ岳に

おいて、人々を迷いや苦しみから救い,悟りの世界に導くために金剛蔵王権現を祈

り出されます。そして、そのお姿を桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建

ててお祀りされました。これが山上山下の蔵王堂のおこりであり金峯山寺の始まりです。
以来今日
まで、金峯山は、修験道の中心的な道場として、多くの修行者、宗教者が
宗派を超えて入山修行して
います。まさに、日本の心の原点。

自然を敬い、神様も、仏様も大切にする心は、今も正しく受け継がれています。
また、役行者が蔵王
権現のお姿を桜の木に彫刻したことから、桜はご神木として保護、

献木され、吉野山は日本を代表する桜の名所となりました。
現在の
金峯山寺は、金峯山修験本宗の総本山であり、この金峯山寺を含む
「紀伊山地の霊場と参詣道」はその「文化的景観」の価値が認められ、二00四年、
ユネスコの世
界文化遺産に登録されました。


●蔵王堂(国宝)

金峯山寺の本堂、蔵王堂。重層入母屋造り、桧皮葺き。高さ三十四メートル、四

方三十六メートル。安土桃山時代に建立された大きなお堂です。今回、特別

開帳されるご本尊、金剛蔵王権現三体のほ多くの尊像を安置しています。

●本尊金剛蔵王権

秘仏·金剛蔵王権現像は、天正二十年(一五九二)の蔵王堂再建以来、蔵王堂(国宝)

のご本尊として四百数十年にわたり鎮座されている日本最大の秘仏です。金剛蔵

王権現の右手に持つ三鈷は悪を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る

剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿を現されていま

す。さらに、背後の赤い火炎は仏様の偉大なる智慧、身体の青黒色は仏様の深い

慈悲を現しています。三尊の全身は、ことごとく悪魔を払う怒りの形相を現されて

いますが、それは、釈迦如来、千手観世音菩薩,弥勒菩薩を本来のお姿とする変

化身です。三尊は、それぞれ過去、現未来の三世にわたって私たちを守ってくだ

さる守護仏でもあります。

大峯山寺(本堂:重要文化財)

 大峯山の中心である山上ヶ岳の山頂にある寺です。明治初年の神仏分離以前は金

峯山寺の山上蔵王堂と呼ばれていました。

この寺は毎年5月3日から9月23日までの間だけ開かれ、本堂内には中央に金剛蔵王権現

右側に役行者像が2体祀られています。金剛蔵王権現は、役行者が山上ヶ岳で苦行

の後に感得した日本独自の仏で修験道の本尊とされています。

玉置神社(社務所及び台所:重要文化財)

 熊野から吉野に至る大峯奥駈道の10番目の靡(拝所)として行者の往来も盛んだった

玉置山の頂上近くにある神社です。重要文化財の社務所(元高牟婁院)には狩野派の

筆による極彩色の杉板襖70枚があり、この襖全てが一枚板でできています。境内には

天然記念物に指定されている神代杉·常立杉など樹齢千年を超える巨杉群があります。

吉野山((史跡 名勝)

 大峰山脈の北端に位置し 東西を急峻な谷に挟まれた馬

の背のような尾根LE Y金峯山寺の寺内町としで発展しで

きた地域です。役行者の開山以来,修験道の聖地とじて信

仰を集め源義経と静御前の悲話,後醍醐天皇をはじめと

する南朝の哀史など数多くの歴史の舞台となりました 。ま

だ修験道の本尊蔵王権現の聖杰として桜の植樹が盛ん

に行なわれたことから、平安時代以降、我が国屈指の桜の

名所としても知られています。


世界遺産に登録された

霊場『吉野·大峯」(紀伊山地の霊場と参詣道)

  紀伊半島の南半分に広がる紀伊山地は、神話の時代より神々が鎮まる特

別な地域とされてきました。その結果、起源や内容を異にする「吉野·大

峯」「高野山」「熊野三山」の三つの霊場とそこに至る参詣の道、あるいは修

行の道が生まれ、都をはじめ全国から多くの人々が訪れるところとなりま

した。なかでも吉野·大峯地域には、日本古来の山岳信仰に外来の仏教、道

教、陰陽道などが融合した我が国独自の宗教「修験道」が生まれ、皇族貴族

から一般庶民に至るまで広く信仰を集め、我が国の文化の発展と交流に大

きな影響を及ぼしたのです。

その修験道の文化が今も色濃く残る吉野·大峯地域を含む「紀伊山地の

霊場と参詣道」が、ユネスコの世界遺産に登録されました。金峯山寺、吉水

神社、吉野水分神社、大峯山寺、玉置神社の指定文化財建造物や、桜に彩ら

れる史跡名勝吉野山,山伏の修行の道である史跡大峯奥駈道が、吉野大峯

地域におけるその中核的資産とされています。これらは、世界でも類を見な

い貴重な資産として価値の高いものなのです。

大峯奥駈道(史跡)

 紀伊半島の脊梁·大峰山脈の稜線伝いに続く修験道の修行の道です。 北は吉野から南

は熊野まで約170kmにも及ぶこの道には、75箇所の靡と呼ばれる拝所や行場が設けられ

ています。修験者(山伏)にとって、大峯奥駈道は曼荼羅の世界であり、最極の修行道場

とされているのです。

 修験道の祖、役行者が開いたとされる.修験者の修行の道。
古来より奥駈けといわれる修行が行
われ、随所に行場が設けられている。
吉野山から熊野まで
山上ヶ岳、大普賢岳、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳など、山々の

尾根が連なり、雄大な自然に包まれた心の道。


熊野本宮大社(重要文化財)

 速玉大社(新宮)と那智大社とともに熊野三山として信仰を集め、平安時代には王侯貴

族の参詣も多く、“蟻の熊野詣で”と称されるほど多くの人々で賑わったところです。また、

大峯奥駈道の第1番目の靡き(拝所)として奥駈修行の南の起終点にあたり、明治初年

までは神仏混淆の修験道の道場として栄えたところでもあります。

熊野参詣道小辺路

 高野山と熊野三山の聖地を結ぶ道。

伯母子峠、果無峠など峠越えの古道に、石畳が良好な状態で

遺る。小規模な寺院、宿舎の遺跡、道標などが当時を偲ばせ、

沿道の沢山の石仏が道行く人の安全を見守る。











今井町と自治

今井は昔、興福寺の寺領であったが(至徳3年(1386年)興福寺一乗院文書)、中世、永禄年

間(1560年代)に突如として現存の今井町は生れた。

それは今西家の祖先川井権兵衛清長がその一族十市氏(竜王城)の落城後郎党と共に今井へ

やって来た時期である。

街の周囲に堀をうがち、白く厚い壁で町を覆って自衛し、一向宗と結んで時の権力者織田

信長と闘った時期に合致する。

信長によって武装は解除されたものの自治権を残して、それまでにも深い関係のあった海

の堺と同じく陸の今井として栄えた。

徳川時代になって、世の中がおさまるにつれ高度の自治を展開したので徳川幕府は今井を

町として認め、江戸、大阪、京都、奈良と同様に、惣年寄、町年寄をおき町制にあたらせた。

今井町に惣年寄制がしかれたのは慶長年間(1600年頃)で初めに川井与次兵衛(後改め今西

氏)、河瀬入道兵部房(後改め今井氏)、尾崎源兵衛、後上田忠右衛門、を加えた。








今西家住宅

重要文化財今西家住宅

所在地奈良県橿原市今井町3丁目9番25号

重要文化財指定年月日 昭和32年6月18日

今西家は代々今井の惣年寄筆頭をつとめた家筋で、川井権兵衛清長(戦国の歌人大名十市

兵衛大輔遠忠もその一族)が永禄9年(1566年)より当地に移り住んで三代後、今井町の西

口にあることから元和7年(1621年)当時郡山城主徳川家康の孫松平氏にすすめられて以後

今西姓を名乗った。司法権、行政権を委ねられた当家は前述のように今井町の西口にあり、

西側は環濠となる。

前面の道は本町筋で、西端には堺に向かうかの如く西口門が開かれ番人小屋がおかれていた。

外壁を白漆喰塗ごめとし、大棟の両端に段違いに小棟を付け、入母屋造りの破風を前後く

い違いにみせ、本瓦で葺いて堂々とした城郭風の外観をもつ。

2階正面の壁には、向かつて右方に川の字を井桁枠で囲み川井氏の定紋を入れ、左には菱

形3段に重ねた当家の旗印を付けている。


内部は西側を広い土間とし、北面に大戸を開き、西北隅にシモミセを設ける。

居室は6間取、土間に添ってミセノマ、ナカノマ、ダイドコロ。

上手はミセオク、ナンド、ブツマとなる。

土間には柱を立てず広い空間として残し、 3本を中心とした豪壮な小屋組を見上げる

ことができる。

『棟上げ慶安参年参月廿参日』の棟札銘により、慶安3年(1650年)の建立であることが知ら

れる。今井町では最も古い民家である。また主屋東南隅に接続する角座敷も同期のもので

ある。

 














陵墓に眠るのは誰?

 陵墓とは、歴代の天皇·皇后の墓である「陵」と、皇族が

葬られた「墓」の総称だ。宮内庁のホームページによると、同

庁は現在、188の陵と555の墓、46の陵墓参考地(陵墓の

候補地)など、計899件を管理している。

 堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市·藤井寺市の古市古

墳群は、古墳が最も巨大化した5世紀を中心に築かれた、計88

基の古墳からなる。このうち、宮内庁が陵墓として管理してい

るのは46基。全長486mと日本最大の大山古墳(仁徳陵

墳) 、同425mの第2位の誉田御廟山古墳(応神陵古墳)を

はじめ、全長200対以上の前方後円墳10基は、すべて宮内庁

管理の陵墓古墳だ。
 宮内庁は一般の人の陵墓古墳への立ち入りを禁止している。

百舌鳥·古市古墳群が世界遺産候補となった際にも「引き続き

皇室の祖先のお墓として、地域と協力をしながら適切な管理を

行っていく」としており、登録が実現しても一般公開などは難

しそうだ。

 
 大阪府と地元3市
でつくる「百舌鳥.古市古墳群世界文化

遺産登録推進本部会議」は、宮内庁が天皇陵に指定する古墳を

「仁徳天皇陵古墳」「応神天皇陵古墳」などと呼んでおり、考

者や歴史学者から批判の声があがっている。天皇陵の指定

は幕末から明治にかけて、8世紀の「古事記」「日本書紀」

(記紀)や10世紀の「延喜式の記述を元に進められており、

現在の学術的な年代観とは矛盾するものも多いためだ。

 例えば、履中天皇陵に指定された堺市のミサンザイ古墳

埴輪の分析による年代では5世紀前半の築造とされる。一方、

履中の父·仁徳天皇の陵とされる大山古墳は5世紀半ばの築

造。「日本書紀」には父の6年後に亡くなったと記された履中

の墓の方が古い。

 5世紀後半の雄略天皇については、宮内庁指定の陵は円墳と

方墳を組み合わせたものだが、考古学者らの間では、宮内庁が

仲哀天皇陵とする全長約242げの前方後円墳、岡ミサンザイ

古墳を雄略陵とみる説がある。

 6世紀前半に没した継体天皇の陵とされる大阪府茨木市の

田茶臼山古墳も、埴輪の年代は5世紀半ば。約1·5キロ東にあ

る高槻市の今城塚古墳が真の継体陵であることが研究者の定説

になっている。
 陵墓古墳について研究している今尾文昭·関西大非常勤講師

は「『00天皇陵古墳』という呼称では、被葬者が特定されて

いるかのような誤解を海外の人にも与えてしまう」と指摘し、

「大山古墳(現、仁徳天皇陵)と、学術的な古墳名と宮内庁に

よる陵墓名を併記することを提案している。
 陵墓古墳の被葬者を巡っては考古学者の間でも諸説がある。

 白石太一郎·大阪府立近つ飛鳥博物館長は、誉田御廟山古墳

は平安時代以前から応神天皇陵として管理されていたとして、

「応神、仁徳の両天皇については、宮内庁の指定どおり、誉田

御廟山古墳と大山古墳に葬られた可能性が高い」とみる。しか

し同時に「考古学者が大王(天皇の旧称)の墓と推定する巨大

古墳を、記紀に記された歴代天皇に矛盾なく当てはめるのは不

可能」とも指摘する。

 一方、岸本直文·大阪市立大教授は、土器や馬具の研究から

古墳の年代を検討し、誉田山古墳は430年代大山古墳

は450年ごろの完成と推測。古事記から推定される歴代天皇

の没年や、中国の歴史書に「倭(日本の旧称)の五王」からの

使者が来たと記された年代を踏まえて、「誉田御廟山古墳は、

倭の五王のうち『珍』とされる反正天皇、大山古墳は同じく

『済』とされる允恭天皇の墓だった」との説を提示する。

 世界遺産への登録には、その文化遺産の価値が作られた当初

から変わらないという「真正性」が求められる。専門家にも

諸説がある被葬者名が入った呼称は、登録の是非を検討する海

外の専門家にどのように評価されるだろうか。

(編集委員·今井邦彦)


記紀からたどる困難か

 前方後円墳は3世紀中ごろ、日本列島各

地の首長らによる政治連合のシンボルとし

て成立したと考えられる。そのトップであ

る「大王」の墓は全長200mを超える前方

後円墳で、その築造場所は奈良盆地東部か

ら同北部、大阪平野へと移動した。こうし

た大王墓の移動は、おおまかには「古事

記」や「日本書紀」にみられる崇神天皇

降の歴代天皇の墓域の移動と一致する。

 しかし記紀の編纂(へんさん)が進められ

た7世紀後半から8世紀初めには、「大王」

に代わる「天皇」の称号が採用された。その

正統性を強調するために歴代天皇の系図を

再編し、陵もあらためて決め直したという

説もある。記紀の記述から、実在した大王

らの墓にはたどり着けないかもしれない。


読む

 『古代史研究の最前線天皇陵』(洋泉社)は、考古学、歴史学の専

門家が多様な視点で被葬者の問題や陵墓の管理体制の変遷を論じる。

『世界遺産と天皇陵古墳を問う』(思文閣出版)は百舌鳥·古市古墳

群の呼称問題などを通じて、陵墓の保存体制や公開のあり方を考える。

2017-11-26 朝日新聞







土舞台追加

推古朝に百済人味摩之(みまし)が日本に帰化し、「呉

(現在の中国南方地方)で伎楽を学びました」と摂政

聖徳太子に伝えたことから、太子は子ども達を集め

この土舞台で伎楽を習わせたと伝えられています。

舞台」は、日本最初の国立演劇研究所ともいうべき所

であり、日本芸能発祥の地といわれています。













安倍文殊院追加

 645年(大化元年)に安倍一族 の氏寺として創建された古い寺

院で、奈良時代の遣唐留学生安倍仲麻呂や平安時代の陰陽

師·安倍清明の出生の寺でもあります。本尊は高さ7mの日本最

大の文殊菩薩像(渡海文殊群像. 5体すべて国宝)で、鎌倉時

代の大仏師·快慶の作です。本三文殊第一霊場として知られ

ています。






長尾神社追加

 古代大和15郡の中の葛下郡の総社で

あり、伊勢神宮と同じ天照大神(あま

てらすおおみかみ)と豊受大神(とよ

うけのおおみかみ)がご祭神として祀

られています。竹内街道と横大路の起

点地の上、長尾街道や下市街道などの

主要な街道も交差する要衝地にある

ことから、交通安全や旅行安全の神

社としても知られています。三輪山

取り巻いていた大蛇の頭が大神神社

(三輪明神)で、その尾にあたるのが長

尾神社だという伝承もあります。 








新薬師寺拝観の手引き

 新薬師寺は、天平十九年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后

の光明皇后によって創建されました。

 聖武天皇は、天平十五年(743),動物植物ことごとく栄える世の中をめ

ざし、皆で力を合わせて盧舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽

宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。とこ

ろが、天平十七年(745)に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中

断して平城宮に戻られました。大仏造立は平城宮の真東の山麓(現在の東大

寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調をくずされました。そこで天皇の

病気を治すため、都とその近郊の名高い山、きよらかな場所で、薬師悔過(や

くしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来七軀を造立し、薬師経七巻を写経す

ることが命じられました。

 悔過とは、過ちを悔いるという意味で、薬師悔過は、病苦を救う薬師如来

の功徳を讚嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要です。これは、

悪いことが起こるのは、貪(欲ばり)、瞋(いかり)、痴(愚かさ)の三毒によって

生じる罪業が、穢れとなって人々の心に蓄積されるからで、身を清め薬師如

来の御前で罪を懺悔することによって、心の穢れを取り除いて悪いものを祓い、

福を招くことができるという考えです。

平城京の東の春日山の香山堂でも、僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、薬師悔

過が勤修されたと考えられます。これをきっかけに、光明皇后によって春日

山、高円山の麓に、新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺とも呼ばれた)が造営

されました。天平勝寶三年(751)に、新薬師寺で聖武上皇のための続命法が

行われ、天平勝寶四年(752)、東大寺で大仏開眼供養会が営まれました。

 新薬師寺の金堂には、七仏薬師(善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如

来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯

神通如来、薬師瑠璃光如来)がまつられていました。金堂は平安時代、応和二

年(962)の大風により倒壊し現存しませんが、現在の本堂の西方約150

メートルやや南寄りにあり、堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩二軀ずつ、十二神

将が並んだ東西に長いお堂(横幅約60メートル)だったことが、最近の発掘調

査で確認されました。その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園

東西の塔が存在したことが史料からわかります。鎌倉時代までに、東門、南門

地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修

理を繰り返し今にいたっています。現在でも、毎年一月八日と四月八日には

薬師悔過が行われます。

本堂(桁行七間 梁行五間 入母屋造 本瓦葺 奈良時代 国宝)

 奈良時代の建物です。当初は本堂ではなく、修法を行うためのお

堂だったと考えられます。本堂内には円形の土壇(高さ約90セン

チメートル、直径約9メートル)が築かれ、壇上に薬師如来坐像

十二神将立像が安置されています。柱は40本ありすべて円柱です。

天井を張っていないので、内側から建物の骨組みをじかに見ること

ができます。

薬師如来坐像(木造 像高約191センチメートル 
         奈良時代
~平安時代初期国宝)

 新薬師寺の本尊です。頭と胴体など体幹部分は一本のカヤの木か

ら彫り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木し、全体の木目を

合わせ、一本の木から丸彫りした様に造られています。光背には宝

相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸び、花の上の六

軀の小仏は本尊と併せて七仏薬師を示しています。薬師如来は東方

浄瑠璃世界の仏さまです。菩薩として修業していたとき、体から光

を出して世界を照らし出すこと、人々の不足を満たすこと、病気を

癒すこと、正しい道に導くこと、災難を取り除くことなど、十二の

願い事をたてました。右手は恐れを取り去る印相で、左手には薬壷

を持っています。目は大きく開いています。穏やかで力強く、ふく

よかな姿をされています。

十二神将立像(塑像像 高152~166センチメートル 奈良時代 国宝 
          一軀補作)

 薬師如来を信仰する人を守る、夜叉(やしや インド神話で森林

に住む精霊)の大将です。塑像は木の骨組みに縄を巻きつけ、そこ

に藁をまぜた粘土をつけて大まかな形を造り、紙の繊維と雲母をま

ぜた土で上塗りしたもので、眼球は紺、緑、褐色のガラスの吹き玉

で表現されています。表面は、青、朱、緑、紫に繧繝彩色(うんげ

んさいしき 同系統の色ごとに濃淡をつけて立体感を生みだす彩色

法)され、現在でも部分的に色が残っています。土壇の上で円陣に

取り巻いて、お薬師さまを護衛しています。

鐘楼(桁行三間梁行ニ間 二重 入母屋造 本瓦葺 鎌倉時代
       重要文化財)

 南門を入って右側、袴腰(はかまごし下層の末広がりの部分)が

白漆喰塗りの建物です。

梵鐘(銅製 口径104センチメートル 奈良時代 重要文化財)

 鐘楼のなかにかかっています。現在は行事のときや除夜の鐘にっ

きます。

南門(四脚門 切妻造 本瓦葺 鎌倉時代 重要文化財)

 境内の正面にある、新薬師寺の表門です。鎌倉時代後期に建立さ

れたと考えられています。

東門(棟門 切妻造 本瓦葺 平安時代後期~鎌倉時代初期

       重要文化財)

 南門より古く簡素な構造から、当初は四脚門ではなく二脚の棟門

だったと推定されています。

石仏

 南門を入って左側に多くの石仏があります。小屋のなか

こは地蔵菩薩三軀、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面の阿弥陀

名号石があります。一番小さな地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄

餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ、脇侍には冥界を司る

十王を配しています。

會津八一歌碑

 本堂の西南にあります。香薬師さまを詠んだ歌です。

    ちかづきてあふぎみれども

     みほとけのみそなはすともあらぬさびしさ

(大意)

近づいて仰ぎみても

仏さまは自分を見ておられないようでさびしい。







仏教受容めぐる論争

 
 大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対

(排仏)派の物部尾輿と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫と

もいわれる蘇我稲目が争った6世紀の崇仏論争。だが、実際

は仏教とは無関係の政争だった可能性が指摘されている。

 いわゆる崇仏論争(崇仏排仏論争)は2段階からなる。

「日本書紀」によれば552年、百済の使者から仏教の説

明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたこと

はない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇

我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神の

たたりを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて

礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け

入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てた

という。

 第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立

し仏像を祀っていたが,疫病が流行したため、尾輿の息子に

あたる守屋が敏達天皇に仏教受容をとりやめるよう進言。馬子

の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる。用明天皇即位後も

両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪族を率いた馬子

が守屋を討ち滅ぼし、寺院の建立が盛んに行われるようになっ

たという。

 だが、この話、そ(のまま受け入れるのは難があるようだ。

古代史研究者の加藤謙吉さんは、1989年の論文「中央豪

族の仏教受容とその史的意義」などで、崇仏論争について疑問

を投げかけている。大きな根拠が、排仏派のはずの物部氏の勢

力圏内で仏教が広く浸透していたとみられること。その上で、

物部氏に関する排仏の記述は後から付加されたものとみる。

 最近では、国学院大兼任講師の有働智奘さんが論文「蘇我氏

と物部氏の対立-仏教受容と神祇信仰」などで、「蘇我氏と物

部氏の対立の図式には、『排仏という意識はなかった」と

の説を提示している。

 有働さんによると、蘇我氏は仏教に信仰を変えたのではな

く、「建邦之神」を祭る神祇信仰(神道)の延長上で「仏陀」

を祭祀していた。その信奉方法について物部氏との間で争いが

あったとみられる。仏の住まいを焼いたり仏を流したりした行

為も神がいます世界(国)への帰坐を求める、祓のような祭

祀だった可能性があるという。

 一方、堺女子短期大教授の水谷千秋さんは「物部氏と蘇我氏

の間に仏教受容をめぐる論争はあったのだろうが、主因は政治

権力闘争だった」と推測する。「物部氏は海外交渉に関わった

経験も豊富で外来の宗教にことさら排他的態度をとったとは考

えにくい。政権内の主導権を争っていたところに仏教受容がか

らみ、対立が激化したのでは」

 一方、蘇我氏が仏教を信奉した理由について、従来は「蘇我

氏のルーツは渡来人だから」という説がささやかれてきたが

現在は否定する研究者が多い。

 蘇我氏渡来人説は、古代史学者の門脇禎二さんが唱えた. 5

世紀の百済官人とされる「木満致」と日本書紀などに出てくる

覈賀(蘇我)満智」が同一人物だったとみる解釈が根拠。だ

が、年代に開きがあることや「木」という名族の姓を捨てて

改名した理由が説明できないことから、「まったくの推測と

わざるを得ない」と水谷さん。

 では、蘇我氏のルーツはどこにあるのか。「古代豪族はその

出身地を姓として名乗る」との大原則に従うなら、最有力候補

地は大和国高市郡曽我(奈良県橿原市)だ。この地の曽我遺跡

からは、祭祀用とみられる大量の玉などが出土しており、仏教

推進派のはずの蘇我氏は神祭りも行っていた可能性が高い。

 他方、日本書紀に、馬子が「葛城県は元は私の本居。そこ

でその県にちなんだ姓名を名乗っている」と語ったくだりがあ

ることから、蘇我氏は5世紀代に天皇家の姻戚として権勢を誇

った葛城氏の末裔、あるいはその葛城氏と形の上での同族関係

を結んだ一族だったとみる研究者も増えている。

水谷さんは「当時の仏教は寺院建築や仏像製作といったもの

も含めて、先端文明の結晶ともいえる存在であり、蘇我氏が仏

教を推進したのも、むしろそれらの導入が目的と考える方が自

然ではないか」と話している。

(編集委員·宮代栄一)

蘇我一族の力示す古墳

 天皇家左しのぐ権勢を誇ったといわれる

蘇我氏。彼らの墓はどこにあるのだろう。

古くから 「馬子の墓では」と誉われてき

たのが、奈良県明日香村の石舞台古墳だ。

主体部は77トンもある巨大な天井石で知られ

る横穴式石室だが、土取りによって現在は

むき出しの状態。墳形はわかっていない。

 一方、石舞台古墳から400mほど離れた

場所にある都塚古墳も、やはり蘇我一族の

墓とみる説が有力だ。一辺約40mの方墳

で、墳丘を階段状に整形した、ピラミッド

とも見まごう特異な形状が特色。考古学者

の河上,邦彦さんのように、石舞台と都塚は

蘇我蝦夷の築いた「双墓」で、石舞台は蝦

夷の墓、都塚は入鹿の墓とする説や、都塚

を稲目の墓とみる説などがある。

2017-4-9  朝日新聞






手向山八幡宮神輿悲願新調

 東大寺法華堂に近い高台にある手向山八幡宮(奈良

市雑司町)の祭礼「転害会」はかつて、盛大な祭りだ

った。50年ほど前にお渡り行列が途絶え、「御鳳輦(ごほうれん)」

と呼ばれる神輿(国重要文化財)は出番を失ったが

この秋、精巧に模した神輿が完成し、お披露目され

た。来年の転害会でお渡りを復活させる計画だ。


 25日午前10時、神社の拝殿から神輿が門を出た。高

さ約2 . 4 m、幅約1 . 2m黒漆塗りの骨組みが紫

の錦に包まれ、頂には金色の鳳凰。動くたび、金具がシ

ャンシャンと音を立てる。

 紅葉した東大寺境内を進む神輿を見守る人々は「き

らびやかでうっとりしぼすね」と声をあげ、カメラを

向けた。上司延禮宮司( 53 )は「祖父の代からの悲願な

ので感無量です」と目を細めた。

 転害会は、大仏造立を守護するため宇佐八幡宮(大

分県宇佐市)から勧請した八幡神を、紫の神輿で迎え

た故事に由来すると伝わる。

 いつかは神輿を復興したいと考えていた神社に数年

前、奈良の大工や塗師、表具師などの若手職人が協力

を申し出た。定められた神輿の形式を極力守りつつ、

重量を抑えるためヒノキの代わりにキリを使うといっ

た工夫も凝らした。

 木は2年近くかけて縮むのを待ってから使い、漆は

下地から上塗りまで12回塗り重ねた。塗師の樽井宏幸

さん=同市西木辻町=は「神輿を模す中で当時の

職人の美意識の高さを感じた。負けないように努力し

たことが勉強になり、楽しかった」と振り返る。

 お披露目では樽井さんら職人も担ぎ手に加わった。

大仏殿中門まで約500mを歩き、大仏殿に向かって

神輿復興を報告した。

 来年以降、10月5日の転害会で国宝·転害門まで練

り歩く計画を立てている。

上司宮司は「この神輿を一度は宇佐八幡宮へ『里帰

り』させることが次の夢です」と話す。 (古沢範英)
2017-11-30 朝日新聞










舒明天皇(段の塚古墳)

 日本の古墳文化は中国や朝鮮と異なり、墓誌や墓碑など

を伴うことがほぼないので、だれが葬られているかを直接

に知ることはできません。

 「日本書紀」や「古事記」があるではないかという人が

いるかもしれませんが、史料はおよその場所しか記しませ

ん。そのために、大きな古墳が付近に多くある場合はどれ

を当てるか、複数の古墳が候補になります。葬られるにふ

さわしい複数の人物があがることもあります。被葬者論は

議論が尽きませんが、候補となる古墳が唯一で、人物が!

人の場合は、被葬者を特定できることがあります。

 桜井市忍阪(おっさか)にある段ノ塚古墳は、それにあたります。
力な飛鳥時代前半の古墳が付近になく、舒明大王(天皇)

の陵墓とみなされます。宮内庁は押城内陵(うち)として管理して

います。

 舒明大王は、蘇我蝦夷らが推薦して大王の位に就いた田

村皇子のことです。葬地について、日本書紀は皇極2(6

43)年9月に滑谷岡(なめはざまのおか)から「押坂陵」に
改葬されたこと
を記しています。

 桜井市忍阪は、飛鳥時代の宮殿が次々と造られた明日香

村岡からは、直線距離で北東に約6キロ離れた場所にありま

す。明日香村八釣から桜井市高家、倉橋を通るルートが一

番の近道でしょうか。忍阪の集落の南方には、重要文化財

の「三尊石仏」で有名な石位があります。

 集落の間を東に緩やかに上る坂道が続きます。家並みが

切れて、ほどなく石段に行き当たります。石段を上ると、
見上げるような墳丘が突然、
現れます。外鎌山から尾根の

先端を使って、南向きに造られた終末期古墳です。文久修

陵後の墳丘は、南北77m、東西105mの範囲に及びま

す。以前から八角墳ではないかと関心を集めていました。

 1992、94年に宮内庁による墳丘の外形調査がありま

した。発掘ではなく、現況の観察を主とした調査です。そ

の結果、上下のふたつの部分からなり、下は方形、上は基

本が八角形になることが明確になりました。研究者により

呼び名が異なりますが、私は下を「方形段」、上を「八角

形壇」と呼んでいます。

 拝所の背後から方形段が始まります。段は上に向かって

3段分あります。江戸時代の人が「段ノ塚」,「段々塚」

などと呼んだのは、この形に由来したものでしょう。ちな

みに、幕末の史料には、子どもの疳症(かんしょう)」の
治癒を祈願す
る信仰の場所になっていたとあります。

 調査では最下段に終末期古墳の特徴である墳丘の表面に

石を張る貼石が帯状にあらわれていることが観察されました。
花崗岩で、大きなものは
1.5mもあります。私は以

前に訪れた時、柵越しに見えた石材の大きさに驚いた記憶

があります。貼石は東西約90m分が確認されました。本来

の裾はさらに外へ延びるでしょう。

 西端隅では、中央が尖り稜のある大石が組み合った状態

で見つかっていぼす。墳丘の曲がり角の稜線を強調したも

のでしょう。そういえば、方墳の石舞台古墳も角に大ぶり

の石を使い稜角が目立つように仕上げられています。

 表面観察でわからないところは、鉄の棒で地中を突いて

確かめられました。各段の斜面に貼石があります。南正面

に立てば、近世城郭と見まがうばかりの石垣があり、その

はるか上方に八角形壇がのっていたことになります。今は

樹木に覆われていますが、壮観な光景だったことが想像さ

れます。
2017-12-1朝日新聞

(関西大非常勤講師今尾文昭)

 今年の3月のことです。県立橿原考古学研究所は明日香

村川原の小山田遺跡が、一辺約70mの方墳になると発表し

ました。巨石を使った横穴式石室の入り口部分(羨門)の

痕跡が見つかり、規模を知ることができぼした。

 2014年に石張りの大規模な遺構が見つかって以来、

飛鳥で最大の方墳になると予測されてきぼした。それが確

実になり、名称も小山田古墳に改められました。最初の発

表に立ち会った一人としては、感慨深いものです。

未知の遺構をどのように考えるか。参考となったのが、

桜井市忍阪の段ノ塚古墳(現·舒明天皇陵)で使われた石

の種類とその積み方です。下が方形段、上が八角形壇。方

形段は3段で、各段の斜面には花崗岩の貼石が張られてい

ます。角には大石が積まれてます。角には大石が積まれて

稜線が明瞭です。これらの特徴について、前回に紹介しま

した。八角形壇部分に対しても、1992、94年の宮内庁

の現況報告があります。

 段ノ塚古墳の生け垣に沿って西側斜面に回ってみましょ

う。柵に付く西向きの扉付近から、方形段の最上段テラス

の上に造られた八角形壇の様子をうかがうことができます。

 壇は扁平で長方形の室生安山岩(榛原石)の板石を積ん

で築かれます。壇の裾まわりでは、小山田古墳も墳丘部分

に同じ種類の石材が使われています。

 この板石の外側の面をそろえ3~4枚分を重ねて高さ30cm
前後の垂直な面にします。宮内庁の報告書は「護石」と

呼んでいます。護石の上が壇(墳丘)の斜面です。横に長

方形の板石を水平に置き, 1枚ごとに少しずつ奥へずらし

ながら、階段状に積んでいます。小山田古墳も同様の積み

方でした。

 小山田古墳の土層の観察では、石材を積むごとに裏側に

土を詰めていました。段ノ塚古墳も恐らく同じ施工方法を

採っていることでしょう。つまり、二つの古墳は墳丘表面

を同じように見せることを意図して築いたと考えられます。

 さて、段ノ塚古墳が注目されるのは、壇が八角形になる

ことです。南側を中心に角とその部分に用いられた石材が

見つかっています。報告書では「隅角石」と呼んでいま

す。隅角石をホームベースのような五角形とした場合に、

その底辺に対する頂点の内角が135度の石材です。正八

角形の内角と同じですから、それを基本プランに壇が築か

れたことは確かだと考えられています

 ただし、南正面に推定4.3m幅で角を落とした隅切り

部分がありほす。厳密にはこの部分を短辺とする九角形で

す。ここには護石がなく、ほかの辺と様子が異なるので、

埋葬施設となる大型横穴式石室の入り口につながる部分と

みられています。

 壇の北半分は未調査ですが、試しに壇部分に正八角形

を重ねると、対辺間距離約48m、高さ約12 m、隅切り部分

を南正面とする八角墳に復元できます。

 飛鳥時代に大王墓は前方後円墳から大型方墳に変わり、

段ノ塚古墳からは八角墳になります。「日本書紀」によれ

ば、舒明大王(天皇)の改葬は643年です。蘇我蝦夷.

入鹿が討たれる「乙巳の変」(大化の改新)の直前です。

舒明大王がそれまでにない八角墳に葬られたことに、どの

ような歴史的意味があるのか。今後の回で考えることに

します。
2017-12-8  朝日新聞

(関西大非常勤講師 今尾文昭)







観心寺続き

歴史 

平安時代の観心寺

 空海、実恵、真紹によって継承された法燈はいよい

よ隆盛を極める。

 仁明天皇は信任厚い実恵の造営工事に対して、承和3

年(836), 官符(公式文書)を下して、寺地1500町および

宸翰縁起一巻を下賜された。承和7年(840)には当寺の

三綱(上座·寺主·維那の寺内を統率する三種の僧)が諸

檀越等に勧めて梵鐘を鋳造しており、この頃、三綱が

置かれるほどの大寺になっていた。

 貞観11年(869)には、朝廷の定めた官寺である定額寺

に列せられ、さらに貞観16年(874)には、嵯峨上皇の妃

橘嘉智子より御願堂修理料として壷井里(南河内郡)1町

5段が施入されている。

 元慶7年(883)の『観心寺勘録縁起資財帳』(国宝)によ

ると、当時の状況は、講堂(現金堂)、如法堂、護摩堂、

鐘堂、経蔵、宝蔵、僧房三棟、大衆院食堂ほか9棟等が

数えられ、寺領荘園には地元の河内国錦部郡ほか石川

郡、古市郡(大阪府東南部)、紀伊国伊都郡、那賀郡(和

歌山県北東郡),但馬国養父郡(兵庫県北東部)に及んで

いる。これらのことから朝廷の尊信が非常に厚かった

ことが理解されるのである。

中世の観心寺

 観心寺の塔頭の中院は真紹の創建するところで、後

に楠木家の菩提寺になった。寺伝によれば、楠木正成

は8歳から15歳まで中院において龍覚について仏道修行

に励んだといわれている。開基以来、天皇家との結び

つきの強かった当寺を仲介として、後醍醐天皇の行動

に楠木正成が参画して行くようになる。すなわち、天

皇の命を受けて笠置山に参上したのが元弘元年

(1331)、翌年には千早城に北条軍勢を引きつけ、その

間に足利、新田が、京都、鎌倉を倒して建武の新政が成立

する。正成は第一の功労者であった。

 元弘3年(1333)には、天皇は弘法大師作の不動明王を

宮中に迎えられて、悪病の平癒と義良親王(後村上天皇)

の奥州鎮護の無事を祈られる。

 後醍醐天皇は特に当寺の働きに感謝され、金堂外陣

造営の勅を出された。正成はこれを奉行し、従来五間

四面の建物が、この時に七間四面のお堂になったので

ある。正成自身も三重塔建立を誓願されたが、延元元

年(1336)足利謀叛のため湊川に出陣、そのまま不帰の

人となったので初層のまま現在に伝わっている。湊川

で戦死後、その首級が足利尊氏の命によって当寺に送

り届けられた。

 興国5年(1344)、鎮守社(訶梨帝母天堂)が焼失した

が、御神体が無事であったので後村上天皇は、正成の

長男正行に命じて社殿の復興をされている。その正行

も正平3年(1348),四条畷で戦死した。

 戦局不安の中、正平14年(1359)には後村上天皇は楠

木正儀等を従えて天野山より当寺に遷幸、塔頭惣持院

を行在所と定められ、これより約10ヵ月間、当寺で政

治を執られる。正平23年(1368)、天皇は住吉行宮にて

崩御、遺詔によって観心寺に葬られている。その後、

長慶天皇、後亀山天皇の庇護があったが、漸次衰退の

兆しが見られ、南北朝時代、戦乱の渦中にあった河内

の地は応永(1394~)の頃より畠山氏の内紛に端を発

した抗争で再び戦乱の地となっている。

 畠山氏の没後、織田信長の登場は当寺にとって大き

な打撃となる。つまりほとんどの寺領が没収されたの

である。次の豊臣秀吉は文禄3年(1594), 25石を当寺

に寄付したが、特に秀頼は、金堂や諸堂の修理を行

い、当寺の保護に努めた。

近世以降の観心寺

 江戸時代に入って寛永10年(1633)の洪水による堂舎

の破損は、寛永5年(1628)の金堂修理を中心として、目

覚ましい復興を遂げるが、この背景に、塔頭槙本院の

檀家に旗本甲斐庄がいたことが挙げられる。この時

期、徳川の圧迫から免れるため河内の寺院は槙本院と

本末関係を結んでいた。

 さて安永3年(1774),開基実恵に対し、後桃園天皇よ

り道興大師号が贈られたことは、実恵の実績が認めら

れたからであろう。

 しかし寺運は衰微し鎌倉時代末期、50余坊あった塔頭

も、安永年間には30余坊に、慶応年中には12坊になっ

 金剛の峰高く、菊水の流れ清らかな観心寺は開創以

来、たびたびの盛衰浮沈をくり返してきたが、多数の仏

像、建築、絵画、工芸品、文書等を現在に伝え、真言密

教の霊場として、また南朝ゆかりの寺として今も深い

信仰をあつめている。

金堂 (
国宝)室町時代初期

 七間四面、向拝正三間、屋根単層入母屋造本瓦葺

屋根の勾配は極めて緩かにして、外部の柱は梁桁など

皆丹塗を施す。内外陣を区別し、内部は精巧な仏画を

もって彩色され、真言宗独特の三壇構にして、両側障

板には室町期当山蓮金院々主長尊の筆になる金胎両界

曼荼羅、表面に四天王を分画し、平安期の遺風を残し

たものである。天井の格子造り、桝型欄間等精巧細緻

の刀痕をとどめている。様式は和様に禅宗様、大仏様

を応用したものであり、建築学上「観心寺様式」と称

してその典型的なものである。その一例は、須弥壇の

禅宗様繰形に和様の格狭間を併用したことなどに見ら

れる。天井は小組格天井、柱は総て円柱を用い、軒は

出組の一種(阿麻組)にして柱上斗栱は三斗である

が、その中間には唐様双斗を用い、向拝柱下、礎盤

大虹梁、繋虹梁、海老虹梁、大瓶束等、唐様の細部に

和様を混ぜ、妻飾りにも虹梁の上に双斗と三斗を混用

し、随所に禅宗様の美しい絵様、繰形を用いている。

 度々の修理が行なわれているが、火災に会わず、内

陣の諸仏も多数残している。現在の金堂は資財帖(国

宝)

にあげている講堂の後身に当たると考えられる。

 大阪府下最古の国宝建造物にして、建武年中、後醍

醐天皇が外陣を再建され、楠木正成がこれを奉行して

いる。又、慶長18年(1613) 、豊臣秀頼が修理の時片

桐且元を奉行としている。その後江戸時代、明治、昭

和の初め等たびたび修理し、現在の建物は昭和59年

(1984)に落慶した。






両界曼荼羅

 曼荼羅は「壇」を意味し、その壇には仏·菩薩が充満してい

る。そのありさまを観想することが、仏教で言うところの悟

り、である。昔、インドでは壇を築いて修法を行ない、修法が

済むと壇は破壊されたものであった。後にその主尊·諸尊が

図式化されたものが現在見ることのできる曼荼羅図である。

 両界曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つの図を

組にして呼んだものである。金剛界曼荼羅は九会から成

り、大日如来の智性を顕し、胎蔵界曼荼羅は十二院から成り

大日如来の理性を顕すもので、密教では最も重要な意味を持

つ仏画である。

観心寺両界曼荼羅は板にじかに描かれた非常に珍しいもの

であり、金堂内陣に左右相対して懸けられている。





天皇陵古墳 垂仁天皇陵 

 電車の車窓いっぱいに見える前方後円墳があります。第

11代の垂仁天皇の陵墓として宮内庁が管理する奈良市尼辻

西町の宝来山古墳です。風景をやり過ごし、近鉄大和西大

寺駅で乗り換えて奈良へ向かうと、電車は平城宮跡を横切

って進みます。時に解説のアナウンスが入ります。歴史環

境に恵まれた土地柄だと実感できる瞬間です。

 宝来山古墳の最寄り駅は近鉄橿原線の尼ケ辻駅ですが、

駅舎の北側の東西道路が平城京の三条大路です。東に向か

えば、JR奈良駅の北側を通り、興福寺五十二段から

春日

大社

の一の鳥居前に至ります。西に向かえば、やがて暗

峠から生駒山を越えて河内に至ります。奈良の市街地開発

が進むとはいえ、「古代」を彷彿とさせる風景が残っています

 佐紀丘陵西側からは、南へ2kmばかり離れた西の京丘陵

に宝来山古墳を中心とした古墳の営みがあります。私は佐

紀古墳群の南支群と理解していほす。宝来山古墳は墳長2

27mの大型前方後円墳で、周囲には幅55mにおよぶ広い

鍵穴形周濠がめぐります。宮内庁は周辺6カ所を垂仁天皇

陵に従う小さな墓(陪塚)にあて、それぞれ「飛地い~へ

号」として管理しています。宝来山古墳でも嘉永年間

(1848~54 )に盗掘がありました。佐紀石塚山古墳(現·成務天皇

陵)に長持形石棺が埋まっていたことを明らかにした盗掘

です。一連の被害は、「称徳」とされていた五社神古墳

(現·神功皇后陵)や宝来山古墳にも及びほした。犯人の

取り調べ書によれば、ここにも後円部に棺蓋の長さ1 . 8m

、幅90cmの長持形石棺が存在したようです。

また、地面に穴を掘っただけの簡単な野焼きの方法で焼

かれた円筒埴輪や、盾形や家形、靱形(矢を入れる道具)

の形象埴輪が墳丘の表面から採集され、報告されていま

す。西支群の五社神古墳に前後する古墳時代前期末葉(4

世紀中ごろから後半)に造られたとみられますが、墳丘や

周濠に対する発掘調査がなされていないので、考古学情報

に乏しく確定的ではありません。

外堤に沿って歩きましょう。周濠は水面が同じ高さで

一周しています。西方の宝来城(現·安康天皇陵)あたり

からの導水と、秋篠川からの導水が入ってきます。貯水さ

れたのちは前方部側周濠の東南方向から出て、周辺の水田

へと配られ、再び秋篠川に落ちます。

今は周濠に水を満々とたたえていますが、これは本来の

姿ではないと思います。一帯では、興福寺の勢力下の宝来

氏が室町から戦国時代に活躍します。灌漑事業は彼らが行

ったのではないでしょうか。

 天理市の行燈山古墳(現崇神天皇陵)や渋谷向山古墳

(現·景行天皇陵)では幕末の修陵事業として周濠の大規

模整備がなされ、貯水機能が増しました。

 天皇陵古墳の周濠について過去には、古墳時代の王者に

よる「勧農政策」(農業振興策)のもと、築造当初から灌

溉用のため池機能があったと考えられたこともありまし

た。しかし、最近では、周濠の貯水量を高めるよう後世に

改変されたとする調査成果が増えています。
2016-12-2  朝日新聞 (関西大非常勤講師今尾文昭)


 垂仁天皇陵として宮内庁が管理する宝来山古墳には、周

辺6カ所の飛地」と、周濠のなかに1カ所の「湟域内陪

が設けられています。そのうち3カ所ほどが古墳かと

思います。

 宝来山古墳の西北約200mに存在する「飛地い号」

は、民家の屋根の合間に見え隠れする直径約40m 、高さ約

8mの小山です。南側は平城京三条大路に面しています。

ここは、江戸時代には「兵庫山」と呼ばれ、牛頭天王社が

設けられていました。

 江戸幕府による元禄10 (1697)年にはじまる修陵事

業では、安康天皇陵に定められます。過去の調査はありま

せんが外からの観察では大型円墳になる可能性が高く、

考古学では兵庫山古墳と名付けています。

 垂仁天皇陵と安康天皇陵の関係をめぐっては、解けない

ことがあります。

「日本書紀」では「菅原伏見陵」と同名で呼ばれていま

す。つまり、ともに最初にある「菅原」という範囲のなか

の、「伏見」に設けられた陵墓だということです。

 時代がくだる平安時代の「延喜式」では、二陵を東西

関係で表記しています。これは、二陵が同じ地域に近接し

ていたため、混乱しないように区別したのでしょう。

 「続日本紀」には、平城遷都後の霊亀元(715)年4月

9日条に「櫛見山陵」(垂仁天皇陵)に「守陵」三戸、

「伏見山陵」(安康天皇陵)に四戸を置いたとあります。

陵墓を管理する要員を充当したという内容です。安康天皇

陵はここでも「伏見」に由来した陵名になっています。

 ところが、いちばん古い「古事記」では、垂仁天皇陵

を菅原の「彻立野中」、安康天皇陵を菅原の「伏見岡に在

り」と記されます。「野」と「岡」では陵墓のある地形環

境が違うのではないかという疑問がわいてきませんか。

陵の位置関係が離れていた可能性があるのではないでしょ

うか。

 気になる記録が「続日本紀」にあります。平城遷都に

先立つ和銅元(708)年11月7日のこと、「菅原」の地の

九十余家を移し、布と穀を支給したというのです。これ

は平城宮の建設に伴い、宮の地域内にあった民家を事前に

移転したことを示したものだと考えられています。

原」の地名は平城宮の範囲にも及んでいたようです。

 安康天皇といえば462年に中国の宋に使いを送った

「倭の五王」のひとりである「興」にも比定される大王で

す。江戸時代の安康天皇陵が前方後円墳ではなく、比較的

大きいとはいえ円墳の兵庫山古墳では、不自然ではないで

しょうか。現在の奈良市菅原一町や宝来の範囲にある大型前!

方後円墳は、宝来山古墳のただ1基しかありほせん。

 平城宮の建設に伴い、二陵のうちのどちらかを、西方に

あった古墳にみなしたと考えると、先に疑問とした地形環

境の違いや、墳形、規模の不自然さが解消されます。

 近世以来、垂仁天皇陵を宝来山古墳に固定している点を

重んじるならば、定め替えたのは安康天皇陵ということに

なります。一方で、「伏見」の地名が一貫して安康天皇陵

に付くことからすれば、垂仁天皇陵とも考えられます。

 「まさか、陵墓も動いた」。つまり、以前の連載でも説明

した陵墓を定め替える稻定替え」が古代にも起きていた

かもしれほせん。大変なことになってきました。

(関西大非常勤講師今尾文昭) 







飛鳥の歴史 調査と保護の歩み

 1400年間、飛鳥の歴史を見つめてきたのは、飛鳥

寺(安居院)の本堂に鎮座している「飛鳥大仏」でした。

その飛鳥の歴史を解き明かしてきたのは、考古学的な

調査研究です。その調査の契機は、古都保存法や明日香

法などの保護行政とも無関係ではありません。飛

鳥の調査研究と保護の歩みを振り返ることにしましょう。

 平安時代末期の説話集「今昔物語集」には猿石に関わる

記事があり、檜隈陵(欽明天皇陵、梅山古墳)に「石の鬼

形」が巡っていると記されています。

 しかし、この「石の鬼形(猿石) 」はその後、記録か

ら姿を消しました。再び現れるのは江戸時代の1702

年,欽明天皇陵の南側の小字「池田」の地で猿石が掘畠

された時です。この時代はまだ発掘調査は行われていませ

んでした。石造物などが偶然に発見され、多くの遺物が村

外に運び出されるなど遺跡にとっては受難の時代だったと

いえます。

 その後、大正から昭和の初めにかけて、遺跡を守る動き

が始まりました。「奈良縣史蹟勝地調査会」が設置され、

その指示のもと、牽牛子塚古墳の保存工事が行われたこと

は注目されます。そして,川原寺跡。大官大寺跡などが次

々と史跡に指定され、遺跡が保護されることになり、小規

模ながらも学術調査が行われました。このことが、次の石

舞台古墳の調査の布石となったのです。

 1933年、石舞台古墳にはじめて発掘のメスがはい

り、その構造や築造技術が解明されました。これらの調査

成果が遺跡の保護にもつながっていきます。

 37年から石舞台の整備工事が始まりましたが、戦争によ

って中断。その再開は54年まで待たなければなりませんで

した。史跡地を公有化し、築造当時の姿に復元するとい

う、今日の環境整備事業の先駆けといえます。50年には文

化財保護法が制定されほす。県立橿原考古学研究所(橿考

研)や、奈良国立文化財研究所窺奈良文化財研究所、奈

文研)が設置されきた。これ以降の飛鳥発掘の主な調査

機関となります。

 明日香村が三つの村の合併によって誕生した56年、奈文

研が飛鳥寺跡を発掘調査しぼした。飛鳥を横断する吉野川

分水の建設に伴うものでした。飛鳥寺跡の調査では土の

中から伽藍が現れ、その配置や技術は当時の国際交流を物

語っていました。

 一方、飛鳥板蓋の宮跡は、60年から半世紀以上にわ

たって橿考研が調査研究するようになり、継続的な調査が

始まったのです。66年には古都の歴史的風土の保存を図る

ための「古都保存法」が制定され、明日香村も古都に指定

されました。奈文研が藤原京の継続調査を開始したのも、

このような背景があったのです。
2016-2-19 朝日新聞

(明日香村教育委員会文化財課長

補佐曝之)









古墳の構造

 古墳時代、北は岩手県、南は鹿児島県まで、その数実に5千基

以上も造られた前方後円墳。一見すると、前方後円墳はみな同じに

見えます。ところが、土を高く盛った部分である墳丘の造り方や、

棺が納められた位置を観察すると、日本列島の東西で前方後円墳

の様子が異なっていたことが最近の研究で明らかになってきました。

 まず、墳丘の造り方を見ると、墳丘の外側付近にぐるりと土手状

の盛り土をし、その内側に土を積む工程を段々に重ねて墳丘を完成

させる方法が、前方後円墳を始めとした西日本の古墳に用いられま

す。一方、墳丘の中心部分に小山を造り、その小山に肉付けするよ

らに外側へ盛り土する方法は、東日本の古墳に数多く見られます。

 このように列島の東西では、全く異なる土木技術で古墳が造られ

たのです。さらに、後に触れる横穴式石室は、重量がかさむため、

石室を支える地盤を改良する工事がよく行われますが、この工事に

使われた技術も列島の東西で違うようなのです。

 これまで前方後円墳は、当時の中央である畿内から地方へ技術が

伝わって造られたと考えられてきましたが、むしろ各地の優れた土木

技術をそのまま現地で反映させたと考えるのがよさそうです。

 箸墓古墳(3世紀後半、桜井市)から始まったとされる大型前

方後円墳の築造。以降5世紀に至るまで、古墳の頂上部分に大きな

穴を開け、その中に棺を納める竪穴系の埋葬施設が主流でした。竪

穴系の埋葬施設は埋葬後に密封され、埋葬される位置は後円部頂上

中央の地下付近が原則です。

 5世紀,韓半島の影響をうけて新たな構造の埋葬施設が登場しま

した。それが横穴式石室です。横穴式石室は、竪穴系埋蔵施設と

異なり、棺を納める玄室という部屋に通路と入り口を設けたため、

出入りが町能です。また、初めは墳丘の頂上近くに造られますが、

使う石材が大型化したなどの理由から、横穴式石室は次第に墳丘の

下方、すなわち地面の近くに造られるようになります。

 さて、後円部中心に埋葬施設を設ける原則は横穴式石室でも同じ

です。ただ、墳丘の上側に設けていた時はともかく,地面近くに石

室を造るようになると問題が生じます。玄室を後円部の中心に設け

るには、石室全体を後円部の半径と同じだけの長さを持つ、細長い

構造にしなければいけないのです。

 実際に、奈良県最大の前方後円墳である丸山古墳(見瀬丸山古

橿原市)は、後円部中心からはるか離れて玄室が位置します。

というのも、丸山古墳には全長28。4mという日本最大級の石室が

あるのですが、約78mという後円部の半径が石室全長をはるかに上

回るのです。

 丸山古墳を造る際、時の権力者は、埋葬施設を古墳の中心に置く

ことよりも、まず墳丘を大きくすることを優先させたのでしょう。

丸山古墳と同じように墳丘の大きさを最優先させたため、玄室の位

置が古墳の中心からはずれてしまら、原則通りにいかなかった古墳

が、近畿地方から離れた地域の前方後円墳、特に関東地方など東日

本に数多く存在します。

 ただし、丸山古墳以外の畿内の古墳は、前方後円墳が造られ始め

た頃から石室を古墳の中心に置くという原則を貫きました。伝統的

な原則か、それとも古墳の大きさか111当時の人々の古墳に対する

意識さえ、地域によって異なっていたのです。
2007-10-5  朝日新聞 

奈良文化財研究所都城発掘調

部特別研究員 青木敬






八角形の大王墓 なぜ

 飛鳥時代の女帝・斉明天皇の墓との説が有力な
明日香村の刺牛子塚古墳(国史跡)の

発掘調査を通じて、7世紀の天皇の墓に特徴的な八角

形墳をめぐる新知見が明らかになってきました。牽牛

子塚古墳の調査にあたった村教委文化財課調整員の西

光慎治さん( 45 )に、大王(天皇)余に採用された理由

など八角墳の謎について聞きぼした。


 大王墓に八角形が採用されたのはなぜですか。

 遣唐使を初めて派遣し、日本最古の国家寺院、百済大寺を発願した舒明天皇

(在位629~641)から、八角墳の造営がスタートしたことを重視し、東ア

-ジア情勢の中に位置づけながら考えてみます。

 7世紀前半ほでは大豪族蘇我氏が大きな権力を握っていほした。中国では隋

が南北朝を統一するなど東アジア情勢が激動し、蘇我氏は東アジアを強く意識し

ます。仏教が採用され、王権の象徴とされた前方後円墳の造営も終わります。明

日香村の都塚古墳(6世紀末)が大型方墳で、階段状に石を積み上げた類例のな

い構造だったことが分かりましたが、その後、推古天(位592.~628)な

どの大王墓に方墳が採用されます。

 推古天皇を引き継いだ舒明天皇の墓は、なぜ方墳ではないのですか。

 舒明天皇は非蘇我系王族出身です。東アジアを意識し、開明的だった点は蘇

我氏と同じですが、天皇中心の新しい国造りを目指します。志半ばで倒れます

が、妻の皇極天皇(斉明天皇)が後を継ぎます。宮内庁が舒明天皇陵に指定す

段ノ塚古墳(桜井市)は、皇極天皇が造った可能性が高いと思われ、蘇我氏

に対抗する意味でも夫の出自や系譜を示そうと丶蘇我系の方墳の四隅を切り取

った形の八角形を新たに見いだしたのではないでしょうか。

 斉明天皇の墓説が強い牽牛子塚古墳、天武·天皇の合葬墓とされる野

口王墓古墳も八角墳です。

 中国や朝鮮半島に八角形の古墳はありほせんから八角墳は日本独特のスタイ

ルでしょう。ただ、飛鳥時代は上空から八角墳を眺めることはできぼせん。人々

は形を認識できていたのでしょうか。むしろ、横から見たときの墳丘の姿の方が

重要だったと思います。

 八角墳の中でも牽牛子塚と野口王墓両古墳だけが、墳丘全面に凝灰岩の切り石

を張り巡らせます。牽牛子塚古墳は斉明天皇の息子、中大兄皇子(天智天皇)が

白村江の戦い(663年)で唐·新羅連合軍に敗れた後、近江に遷都する直前に

造ったとみていほす。

 石で盛り土を覆い尽くし、まるでコンクリートの高層建築物のような壮麗な

古墳を築きほした。中大兄には唐軍の侵攻で国が滅びるかもしれないとの危機感

がありぼした。母の業績をたたえるとともに、有事も視野に入れ、お墓を保護す

る一環として石材が用いられた可能性もあります。二度と飛鳥に戻らない決死の

覚悟で母の墓を立派に築いたのでしょう。

 天智天皇と対立した天武天皇の眠る野口王墓古墳も、なぜ同じ墳丘構造だ

ったのでしょうか。

 斉明天皇は、東アジアの巨大な石仏などを築いた石の文化を参考に、日本では

異例の石を多用した都づくりを進めます。木の文化から脱し、最先端の石の文化

を採り入れたのです。ここに、天皇中心の「日本国」誕生の道筋が決定づけられ

たと思いほす。

 牽牛子塚古墳の完成型が野口王墓古墳です。兄の天智天皇の死後、皇位継承を

争う壬申の乱に勝った天武天皇が、その後に律令国家の完成に向けて邁進してい

きほす。天武天皇は、そのルーツだった母の眠る墓と同じ構造を踏襲したのでしょう。
 2016-3-25 朝日新聞
 (聞き手·塚本和人)

















道元 正法眼蔵

 日本の仏教は大乗仏教と言われる。しかし、いきなり大

乗仏教の経典を読んでも、いったい、どれだけ分かるだろ

うか。特別信仰しているのならともかく、予備知識もな

く、「法華経」などに飛びついても、やたらに壮大なこと

を言うだけで、さっぱりおもしろくないというのが普通だ

ろう。それに比べて、いわゆる原始仏教の経典は、何と分

かりやすく、しかも心に沁みて含蓄が深いことか。

 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって

つくり出される。もし汚れた心で話したり行ったりするな

らば、苦しみはその人につき従う。――車をひく牛の足跡

に車輪がついて行くように」(中村元訳「真理のことば.

感興のことば」)

 「ダンマ·パダ」(法句経)の冒頭の側だが、誰が読

んでも納得するだろう。ややこしい大乗仏教の経典より

も、この一句のほうがよほど心に強く響く。

 日本では、原始仏教は小乗として軽蔑されていた。た

だ、少数だが、小乗の重要性を認識して、そこから出発す

べきことを説いた人がいないわけではなかった。その一人

が道元である。

 病に倒れた道元の最期の説法は「正法眼蔵」の「八大人覚」

の巻である。八大人覚というのは、偉大なブッダの覚りの

おおもととなる八つの実践で.その内容は①少欲②知足③

寂静(静寂を楽しむ。④懃精進(善なることにひたすら

努める)⑤不忘念(正しい思念を保持する) ⑥修禅定(坐禅

で心を静める。⑦修智恵(智恵をはたらかせる)⑧不戯論(余

計な議論をしない)である。ブッダの最期の教えとして原

始仏教以来、説かれてきた。

 道元は、これこそ正しい仏法の根本であり、涅槃の核心

である(正法眼蔵、涅槃妙心)として、「これを修習せず、し

らざらんは仏弟子にあらず」と言う。そして、「(八大人覚

を)習学して何度も生まれ変わっては次第に深め、かなら

ず最高の覚りに達して、衆生のためにこれを説くこと、釈

迦牟尼仏に等しくして、異なることなからん」という誓い

で、最期の説法を結んでいる。

 「正法眼蔵」というと、難

解で哲学的な禅の議論で知られ、世界的にも高く評価され

ている。ところがその最期の説法は、あまりに単純で、原

始仏教の基本的な教えを、経典の通りに引用するだけであ

る。それは拍子抜けするほど 素朴で、さすがの道元も病気

で衰え、複雑な思索ができなくなったという評価もある。

 しかし、近年の道元研究は、少し違う見方をする。弟

子の懷弉によると、晩年の道元は「正法眼蔵」をすべて書

き直し、全100巻にする計画で、12巻まで書いたところ

で亡くなったという。その最後の巻が「八大人覚」である。

晩年の新しい構想の「正法眼蔵」は12巻本と称されている

が、全体にわたって、その記述はかつての道元の難解な議

論とまったく異なっている。

 そこでは、仏法僧に帰依すべきこと、出家受戒して、

裟を着て修行に励むべきこと、業や因果の教説を信ずべ

きことなど、原始仏教以来の基本的な教えや修行が、きわ

めて素直に説かれている。真実の仏法を求める道元の求道

の行き着いた先は、仏教の源流を溯って、もっとも原初的

な原始仏教から出発すること

 今日、原始仏教の流れを汲む東南アジアの上座部仏教が

日本でも注目されるようになっているが、道元こそ、その

遥かな先駆者であった


2011-10-31朝日新聞
末木文美士·国際日本
文化研究センター教授 







雄略天皇と葛城地域

 「古事記」では、雄略天皇と葛城地域とのかかわりは、即位

前に兄の安康天皇を殺害した目弱王が,都夫良意富美(葛城円

大臣)邸に逃げ込んだときに包囲して攻め滅ぼした事件や、即

位後の葛城登山での一言主大神との遭遇譚などがある。

 ところで、都夫良意富美は葛城地域の族長である。古代豪族

の中で、実在性が高い最古の人物である襲津彦の子孫である。

襲津彦は「古事記」では具体的な事績がないが、「日本書紀」

では韓半島との関係が深い重要人物とされ、その墓は葛城地域

最大の前方後円墳の室宮山古墳(彻所市)の可能性がある。周

辺の南郷遺跡群(彻所市)などでは韓半島系要素を多数確認で

きる。

 一方、雄略天皇の治世は5世紀後葉前後に比定され、現在調

査中の脇本遺跡(桜井市)周辺に長谷(泊瀬)朝倉宮を構えた

可能性が高い。気性の激しい英雄気質の天皇で、中国の史書に

登場する「倭の五王」の最後を飾る「「武」である可能性が高い。

また、埼玉稲荷山古墳(埼玉県)出土鉄剣や江田船山古墳

(熊本県)出土鉄刀の銘文に登場する「ワカタケル」は、この

天皇を指すと思われる。

 それらの銘文の内容から古代の重要な制度の一つである部民

制の前に、人制が存在した可能性が高まった。考古資料で古代

制度の一端を示す最古の史料だ。「日本書紀」の雄略紀には

渡来人に関する重要な記述が多く、この時期に外来の要素を吸

収して重要な制度を整備した可能性がある。

 葛城地域の考古学的な成果とつきあわせると、4世紀代の大

規模な遺跡の秋津遺跡(御所市)の評価は検討課題だが、そ

れ以外の大規模な遺跡の出現は、5世紀初頭の室宮山古墳の

造営を契機とし、特に5世紀後葉以前にピークがある。その時

期の代表的な遺跡である南郷遺跡群でも、5世紀後葉以前をピ

ークとし、それ以降は一時的に縮小するので、文献の記述と一

致するようで興味深い。

 「古事記」では、雄略天皇治世下でも一嚐主大神が天皇と同

等以上で描かれているので、心ずしも葛城地域の集団全体が衰

退したわけではないようだ。葛城地域北部の拠点である脇田遺

跡(葛城市)では、5世紀後葉以降にも鉄器生産の痕跡を濃厚

に見いだせることは、それを示唆しているだろう。文献と考古

学の調査成果をつきあわせると、雄略天皇と葛城地域の豪族

は、ともに外来要素を積極的に摂取し、それがもとであつれき

が生じ、冒頭の悲劇につながった可能性がある。
2012-10-12朝日新聞

(県立橿原考古学研究所

主任研究員青柳泰介)







西殿塚古墳追加

 お墓の中に被葬者の名前や事績を記した墓誌を納めたり、墓前に墓碑を立てたりす

る習慣がなかった日本列島の古墳文化では、巨大古墳といえども、被葬者を特定するの

は大変に難しいことです。

「日本書紀」や「古事記」「風土記」などの文献史料に書かれた記事内容の検討と考

古学成果に基づく評価、ときには自然科学分析など他の学問分野の協力も得て、総合的

に導かなくてはなりません。

 もちろん、天皇陵古墳も例外ではありません。被葬者を特定するための前提となる条

件が適当とは言いがたいまま今日を迎えている天皇陵古墳のひとつが、天理市の西殿

塚古墳です。

 西殿塚古墳が陵墓となるのは、東京の国立公文書館が所蔵する「陵墓録」によれば、

明治9 (1876)年9月のことです。近代の歴史学や考古学が生まれる前の伝承や地

名考証を重んじた当時の学問水準に基づいた決定ですから、今の時代からみて不合理

なことがあるのは避けられません。

 2013年2月には、歴史考古学系の学会の代表が西殿塚古墳にも立ち入り、墳丘

を観察しました。墳丘の階段状の段築や葺石の様子が報告され、古墳時代前期前葉(3

世紀後半~4世紀初め)の特徴をもつことが改めて確認されました。それにもかかわら

ず、西殿塚古墳は手白香皇女」の陵墓である「衾田陵」となっています。

 手白香皇女とはどのような人物なのでしょうか。文献史料では「仁賢天皇」の王女

で、507年とされる「継体皇」(オホド王)即位後に(大王の妻)となります。オホド王は、その前の

「武烈天皇」で王統が途絶えたとき、「応神天皇五世孫」と名乗り、越前(今の福井

県)もしくは近江(今の滋賀県)から登場し、大王の位に就いた人物です。

 王女との婚姻が新政権にプラスに働いたと 言われています。オホド王と同時代の人

物、すなわち6世紀前半に生きた王女です。西殿塚古墳が造られた年代はそれより約2

00年ばかりも前ですから、「衾田陵」とする前提にはかないません。

 そこで、手白香皇女の古墳として候補にあがるのが、西殿塚古墳から西へ至近距離に

ある西山塚古墳(天理市萱生町)です。墳長は114m後円部を南側に向け、前方部

は開いた形になっています。周囲には盾形(後円部側は丸く、前方部側に向かっては両

手を広げたような形に開く)の周濠が巡り、型式変化の最後の特徴をもつ円筒埴輪が出

土していほす。つぼり丶6世紀前半につくられたという前提は,この西山塚古墳に備わ

っています。

 東海道自然歩道の傍らにる中規模の前方後円墳で、天理市教育委員会が立てた解説

の看板によって、その場所を知ることができます。今は果樹園となっていますが、前期

古墳で構成された大和古墳群の中では、異彩を放つ後期古墳です。西山塚古墳を手白香

皇女の真陵(本当の陵墓)考える人が増えてきました。
2016-6-10  朝日新聞
  (関西大非常勤講師今尾文昭)








天照大神 伊勢へ

 自分たちの神様はできるだけ身近で祀る。普通、豪族たちはそう思うだろう。

物部氏や藤原氏は各地に氏神を持つがそれは勢力の拡大を示すもので、氏神を

遠ざけたわけではあるまい。

 でもヤマト王権はちょっと違った。彼らが祖先神とする天照大神を王宮から離

して、遠い伊勢の地(三重県) へ持っていったのである。なぜそんな不自然なこ

とをしたのか。それが前々から不思議だった。

 伊勢にはもともと、太陽をあがめていた里人たちの信仰があった。ヤマト

王権がそんなローカルな神に着目し皇祖神·天照にした。多くの歴史学者

がこう考えている。『アマテラスの誕生』(講談社学雯庫)の著者、筑紫申

真氏は「イセの大神アマテル」から、持続天皇の治世の晩年に、しかも持統
モデルにして天照になった、と主張
した。

 でも太陽信仰なら大和の三輪山にもあった。伊勢まで行かなくても何とかなら

なかったのか、と思う。それに対する『日本書紀』の答えは、次のようだ。

 (第10代の)崇神天皇5年に疫病が流行し、たくさんの人が死んだ。翌年、農

民たちの反乱や流離も起きた。そこで 大神地祇に祈った。それまでは宮中で天照

大神と倭大国魂神(日本大国魂神)を一緒に祀っていたが、それぞれ勢いが強す

ぎて,共に住めない。そこで2神を離し、天照大神を豊鍬入姫に託して笠縫邑

に移した。倭大国魂神は渟名城入媛に任せたが、彼女は髪が抜けやせ細って
しまった。

 倭大国魂がどんな神かについては 諸説あるが、地元の地主神か「国つ神」では

ないだろうか。この神は、奈良県天理市崇神天皇陵(行燈山古墳)に近い大和

神社の祭神になっている。また笠縫邑の場所も諸説がある。 

 『日本書紀』の説明、ちょっとおかしくないか。天つ神と国つ神を一緒にさ

れ、双方が不満というのはわかる。腑に落ちないのは天照のほうを追い出してし

まったことだ。地付きの神様にお引き取りいただき、別の場所で丁重に祀るとい

うのが自然だろう。国つ神にそれほど気兼ねするなら、最初から別々に祀ればよ

かったのだ。

 だから私は、天照大神の側に大和を離れる理由があったのではないかという

気がする。

 これに関連して崇神の次の垂仁天皇紀に出てくる場面を見よう。天照が垂仁天

皇の皇女という倭姫に先導され、伊勢に向かうくだりである。

 垂仁天皇25年の春、天照大神は豊鍬姫から倭姫に託された。彼

女は天照が鎮まるにふさわしい地を求めて、各地を巡った。奈良県の宇陀、次い

で近江、美濃などあちこちを経て、最後に伊勢国に至った。そこで、天照が倭姫

に語ったという言葉が、なかなかいい=注①。

 ここは、ちょっと田舎だけど、理想の国の常世から波がしきりに打ち寄

せる美しいところだわ。私はここに居たい」という内容だ。天照の言われた

とおり、伊勢国にその祠をたてた、と『日本書紀』は語る。天照は、自分の

意思表明をした。そこに居たい理由は常世から波が寄せてくる場所だからだと

いう。

 ここで「常世」が登場することに私は感慨を覚える。常世は、熊野灘の荒波に

のまれた神武の兄たちや,大国主神の国づくりを助けた少彦名命が戻っていった、
「妣(はは)の国」だからである。
そうだ。ヤマト王権を築いた海人の民

は、常世にあこがれ、海にあこがれていたのだ。熊野で海に別れを告げ、周囲を

「青垣」のような山々に囲まれた大和の地で垂直的な世界観を完成させ、天照大

神と天つ神々の住む高天原も創った。でも何か満たされないものが残る。それ

は、記録はなくても「こころ」で受け継いだ海への思いだった。

 その思いは崇神.垂仁と政権の足元が固まるにつれて、逆に募っていった―。

そう思われてならない。

 彼らは天照大神に託して「海から来て海に帰る」という自身たちの叙事詩を完

成させたと考えるのである。

 われらは内陸·大和の地で比類なき力を築いた。だから、祖先が理想郷と

してきた常世や妣の国を望めるような海辺に「こころの宮」をつくりたい。

天照大神の伊勢への旅を、古い物語として『日本書紀』に滑り込ませた背後

に、そんな思いがあったような炅がする。

 『万葉集』巻2には、私のそのような考えを裏付けるような歌がある。

武天皇

が亡くなって8年の供養があった夜、夢の中で持統女帝が詠んだとさ

れる歌である。注②。万葉学者 伊藤博氏によると、次のような現代訳になる。

 「明日香の清標の宮にあまねく天下を支配せられた我が大君、高く天上を照

らし給う我が天皇よ、大君はどのおうに思し召されて、神風吹く伊勢の国は、沖

の藻も靡いている波の上に潮の香ばかりがけぷっている国、そんな国においであ

そばすのか……。ただただお慕わしい高照らす我が日の御子よ」(『萬葉集釋注

-』集英社)

 持統にとって天武は愛する夫とぢだけでなく、手を取り合って吉野へ逃げ、

壬申の乱(672年)に勝利した同志でもあった。

 天武の霊は海藻がゆらぎ、潮の香が立ち込める伊勢の海をただよっている。や

がて祖先がやってきた海に戻り,當世へと向かった―。彼女はそう信じたに違

いない。

注①

是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。

傍国の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ

(岩波文庫)

注②

明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし や

すみしし 我が大君 高照らす 日の御手  いかさま

に 思ほしめせか 神風の伊勢の国は沖っ藻も

靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に  味凝り あや

にともしき  高照らす 日の彻子

(集英社)











天皇陵古墳を歩く 行燈山古墳

 古墳は弥生時代の王墓に比べて大きいものが多いのですが、だからと言ってその違い

を「大きさです」と簡単に言い切ることはできません。

 岡山県倉敷市の楯築墳丘墓は弥生時代最大の王墓です。墳長は80m前後、高さ5m。

中央の楕円形の墳丘から2方向に突出部がついた双方中円形です。

 中円部の頂上には、5個の巨石が立てられています。立石と呼ばれています。現状が

元の状態という確証はないのですが、石は高さ2~3mもありますから、周辺からもよ

く見えたことでしょう。王墓の在りかが、後世の人々にもわかるという点では古墳と変

わりません。

 でも、古墳と弥生王墓には根本的に違う点があります。

 ひとつは東北南部から九州の大隅半島、壱岐や隠岐といった島まで、古墳は前方後円

形という共通した形だという点です。それを為政者間のパ-トナーシップの証しだとい

う研究者もいます。とはいえ、それが一時的なものか、世代を越えて継続したものか

は丁寧に評価しないといけません。

 もうひとつの特徴は、大きさの異なる古墳が、近くに次々と築かれたことです。つま

り古墳群をかたちづくるということです。墳丘の大きさによる「目でわかる格差」とい

えるかもしれません。

 それを端的に表したのが、現在、宮内庁により第10代の崇神天皇陵として管理されて

いる行燈山古墳と、その周辺にある3基の前方後円墳です。行燈山古墳の墳長は約2

40m ,天理市柳本町にあります。 JR桜井線の柳本駅から東に向かって歩くと、高ま

りのある前方部外堤が見えてきます。

 墳形や埴輪,後円部東側の外堤に葺石に密着して出土した布留式土器から、古墳時代

前期後葉に造られたとみられます。出土の埴輪のなかには、物のかたちをかたどった

形象埴輪も含まれています。山辺,磯城地域では、箸墓古墳、西殿塚古墳に次いで造ら

れた巨大前方後円墳です。

 訪れた人は気づくと思いますが、行燈山古墳の前方部の西側には、アンド山古墳、南

アンド山古墳、大和(柳本)天神山古墳を間近に臨むことができます。

 アンド山古墳は墳長約120 m、南アンド山古墳は墳長約66 m、天神山古墳は墳長約

113mですから、約240の行燈山古墳との格差は歴然です。

 なお、ここに出てくる「アンド山は行燈山と同義で、前方後円形を照明具の行灯に

見立てたのではないかと思います。

 これらが同時期に関連して築かれたものかどうかは、それぞれの出土品の時期や墳形

の比較検討が必要です。十分に説明できないのがもどかしいのですが、いわば「お付

きのように見えるかたちで中·小型の前方後円墳を周辺に配置したことに、「王者

が300年あまりにもわたり、次々と前方後円墳を造り続けた意図があると私はにら

んでいます。
 2016-6-17 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)


  歴代陵墓についての社会の関心は、江戸時代中期の元禄年間以降に次第に高まってい

きぼした。勤皇思想の高揚や公武合体論にもとづく政策もあり、陵墓に対する保護、顕

彰運動が盛んになったのです。幕府も民間も一緒になって、所在不明の陵墓を熱心に

探索しました

 幕府は、行燈山古墳を景行天皇陵と決めて江戸時代末期を迎えます。でも、その後に

議論が起きて、最終的には崇神天皇陵に改められました。

 行燈山古墳では、幕府の意向を受けた地元の柳本藩が前方部前面に石垣を積み、

を拡張する修陵事業(陵墓を整備する工事)に乗り出しました。元治元(1864)年9月のことです。
なお、先立
つ7月に京都では、蛤御門の変が起きています。

 元治2年4月3日に大きな銅板が出土しました。縦53。9cm横70 . 6 cm厚さ1 .06cmの
大きさで両面に文様が
あります。真ん中に四葉形、その外は六花文、さらに二重

の円形、四隅にはL字形および逆L字形が表されています。もう片面は、四分割した

長方形区画をさらに二重の長方形で囲い、なかに二重の円形を表します。不思議な銅板

です。

 六花文のある円形といえば、思い浮かぶのが内行花文鏡と呼ばれる銅鏡です。もと

は中国発の銅器にある星形文様をモチーフにした銅鏡で、中国では円弧が連なった

文様を特徴とすることから弧文鏡と呼ばれています。

 日本考古学では円弧を花文と見立て、内側に向かうので内行花文鏡と呼び習わしてき

ました。宇宙の星雲や日光を表現した図形とする説があります。

 行燈山古墳の北1キロには前方後方墳の下池山古墳(墳長125 m)があります。その

竪穴式石槨の横にある小さな石組み施設から織物の袋に入れられた大型仿製内行花文鏡

1面が見つかりました。面径37·6cmの大きな銅鏡で、県立橿原考古学研究所付属博物

館で常設展示されています。

 仿製鏡とは、中国鏡などをまねて日本で作られた鏡のことです。福岡県糸島市にある

弥生時代後期の王墓の平原一号墓や古墳時代前期前葉の桜井茶臼山古墳でも出土してい

ます。

 行燈山古墳で出土した銅板の直径43.7cmの円形文様が、大型仿製内行花文鏡に関

係したことは確かだとみられます。古墳出土の大型仿製鏡は、山口県の柳井茶臼山

古墳例で面径44.5cmです。銅板を鏡に関係した遺物とみれば、70 . 6地)もある銅板は

隠れたナンバーワンと言えるでしょう。

 銅板は何のために作られたのか。文様の各部のサイズが、大型仿製鏡の面径に近い

という事実があります。大型仿製鏡の生産に関連し、大きさの規範となる「原器」のよ

うなものであったかもしれません。

 それにつけても、この銅板は、出土後に写し取られた拓本を残すばかりで、実物は所

在不明になっています。出てきてほしいものです。
 2016-6-24 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)











天皇陵古墳を歩く 箸墓古墳

 どうして、箸墓古墳という名前がついているのでしょう。実は古墳の中で、今の呼

び名が古典にほぼそのまま出てくる例はまれなのですが箸墓古墳は「日本書紀」に2

度も登場します。

 ひとつは「日本書紀」崇神沃皇10年9月条です。大物主神の妻となった倭迹迹日百襲

姫命が、朝に櫛笥(櫛を入れる小箱)に入った小蛇となった神の姿に驚き、叫んでしま

います。怒った神は御諸山に還ってしまいます。ヒメは、姿を見ても驚かないと前の夜

に約束していたのです。後悔したヒメは山を仰いで急に坐った途端、箸がホト(性器)

に撞き刺さって死んでしまいます。やがて「大市 」に葬られます。時の人は、その墓を

号けてT箸善といったとあります。

 次いで、天武天皇元年7月条には、壬申の乱(672年に皇位をめぐって争った内乱

)の一場面として、三輪君高市麻呂と置始連莵が 「上道」に当たり、「箸陵」のも

とに戦ったとあります。古墳の後円部の外側には、今も南北の道が通じてい

ます。これが「上ツ道」です。北方の発掘調査では道路沿いに整地した土砂の確認も

なされ、人工的に整備された可能性があります。

 「日本書紀」が編纂された7世紀代の人々は、この巨大な前方後円墳の被葬者を神と

婚姻した女性の墓として認識し、その名を食事に使う「箸」にちなんで呼んでいたことは

確実でしょう。

 カミとの別れ、ヒメの死の場面に出てきた箸ですが,これが問題なのです。古墳時代

の箸の存在は、はっきりしません。飛鳥時代も不明です。奈良·單安時代になってよう

やく出土資料としてみられるようになります。

 そこで箸墓古墳の名に、食事の「箸」を当てたのは後付けで、本来は、土師氏が関わ

った墓ではなかったのかという説があります。古代豪族の土師氏は、埴輪製作や古墳造

営といった葬送に関わったことが知られています。この地でも活躍した証しとして名前

が残ったというわけです。

 でも、土師氏にゆかりのある土地は百舌鳥(大阪府)や古市(同) 、佐紀(奈良市)

といった古墳時代中期の巨大古墳が所在する周辺にあり、今のところ奈良盆地東南部の

磯城地域では見当たりぼせん。

 私は、違うことを考えています。ハシを語源とする橋や箸、また柱、あるいは梯子は

どれも、異なる2点をつなぐ媒介の意味があります。出雲大社の千家国造家が所蔵する

「金輪御造営差図」は、かつての本殿の平面設計に関連する図として有名ですが、出雲

大社本殿と地上との階段として「引橋一町」(長さ109m)が記されています。神の

すまう聖空間への奉仕に向う神官は、この橋を登ります。

 箸墓伝承は、大物主神の迹迹日百襲姫命への通いですが、神と人との婚姻です。伝

承に基づき、異質のもののつながりを語るハシが、この巨大な前方後円墳の名にふさわ

しいと古代の人々がとらえていたというように、考えてみてはどうでしょうか。
 2016-5-20朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)










大化改新  

 大阪市の難波宮跡(国史跡)の調査が始まってから60年

になるのを記念したシンポジウム「難波宮と大化改新」

(大阪市博物館協会、大阪市立大など主催、朝日新聞社協

力)が2月、大阪歴史博物館で開かれた。難波宮跡の最新

の調査成果から見える「大化改新」の実像について、研究

者らが意見を交わした。


 古代史学者の山根徳太郎が大阪市·法円坂で出土した瓦

に注目し、所在が不明だった難波宮跡を求めて発掘を始め

たのは1954年。7年後に奈良時代の後期難波宮の大極

殿跡を発見し、難波宮跡は64年に史跡指定された。

 孝徳天皇が難波宮の造営を始めたのは、中大兄皇子らが

「乙巳の変」で蘇我氏本宗家を打倒し、中央集権化を進め

る「大化改新」に着手した645年とされる。磐下徹·大

阪市立大講師(古代史)は「『日本書紀』の大化改新の

記述は8世紀に潤色されているとして、1960年代以降

は『改新否定論』が有力となっていたが、近年は考古学的

な発見で再評価が進んでいる」と説明難波宮跡で「戊

申年(648年) 」と書かれた木簡が出土したことや、奈

良県明日香村の石神遺跡で出土したIN丑年(665年)」

の木簡に律令的な行政制度についての記述があることなど

から、難波宮造営を含む孝徳朝の改革には一定の実体があ

ったと語った。

 岸本直文·大阪市立大准教授(考古学)は改新政策の一

っで、墓の石室や墳丘の簡素化を定めた薄葬令(はくそうれい)」
につい
て、7世紀の古墳に見られる変化から実態を検証. 7世紀

半ば以降の古墳は墳丘の規模が縮小し、薄葬令は実際に施

行されたと指摘した。その背景には、農地拡大のための貯

水池や水路の工事、寺院の建設などに多くの労働力が必要

になり、古墳の築造に向けられてきたマンパワーを転換す

る必要があったとした。

 大阪歴史博物館の李陽浩学芸員は、前期難波宮の建物の

建築技術や配置は、中国や朝鮮半島から最新の情報を集め

て造られたもので、新たな官位制度や政治システムを反映

していると話した。大阪文化財研究所の高橋工·難波宮調

査事務所長は最新の調査成果を報告。孝徳朝のころには宮

の周囲に広がる格子状の「条坊」の整備が一部で始まって

いたものの、まだ十分に機能るには至っていなかったと

の見方を示した。

 討論では、なぜ飛鳥から難波に遷都したのかが議論にな

った。岸本さんは「蘇我氏を打倒 天皇への権力集中を

果たした後、政治の刷新を進めるために飛鳥を離れる必要

があり、交通の要である淀川を押さえられる難波が選ばれ

た」と推定。磐下さんも「中国に統一王朝の隋·唐が成立

して東アジア情勢が緊迫する中、日本も攻撃に即応できる

集権的な体制への改革を迫られた。そのシンボルとして新

都を建設するのに、上町台地が適当だったのでは」と指摘

した。
 2014-3-18朝日新聞 (編集委員·今井邦彦)



橿原神宮案内

由緒 

 天照大神は葦原中っ国(地上界)を御自身の子孫が永遠に治めるべき国であり、高天原と同

じく平和で豊かな土地にするため、孫である瓊瓊杵尊を中つ国の日向高千穂に降らせました。

神武天皇はこの瓊瓊杵尊から数えて四代目にあたられるお方であります。兄宮達と高千穂宮

で政治を行っていましたが、天照大神の御心を更に拡げるべく東遷の旅につかれました。

 奠都まで六年の歳月を費やされ、その間数多くの苦難には天神の御神助と自身の強運により

乗り越えられ、そして遂に畝傍山の東南橿原の地に宮殿を造り、第一代天皇となられました。

これが我が国のはじまりです。

 この時に「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為む」(八紘一宇)と、世界の国々に住む人々が家族のようにお互い

助け合い、平和で慈愛に満ちた信頼関係で結ばれることを理想とされた詔勅を仰せになって

建国の精神と我が国のあるべき姿を示されました。

 明治二十二年、この建国の偉業を達成された神武天皇を慕い、地元民間有志より橿原宮址に

神社創建の請願が起こりました。明治天皇はこれを大変お喜びになられ、京都御所の内侍所

を本殿、神嘉殿を拝殿として下賜され、明治二十三年四月二日に橿原神宮が創建されました。


御神徳

 神武天皇の実に偉大な強運と、記紀においては百三十七歳、百二十七歳と大変御長寿で

あったことから、開運延寿の神様として厚く崇敬されています。

紀元祭

 毎年二月十一日(建国記念の日)に執り行われ、橿原神宮では最も重要な祭典(例祭)となって

います。勅使参向のもと厳粛に執り行われます。

神武天皇祭(春季大祭)

 神武天皇が崩御された四月三日に執り行われる祭典です。

国の礎を築かれた御事績を偲び、国の隆昌を祈念致します。

新嘗祭

 新穀を神様にお供えをし、五穀豊穣をお祝いし感謝する祭典です。十一月二十三日に斎行され、

御祭神に縁の深い久米舞が奉奏されます。

橿原神宮の森

 霊峰と崇められる畝傍山を背景に、当神宮の約五十三万㎡(甲子園

球場約十三個分の大きさ)に及ぶ宮域は建国の聖地、信仰の森とし

て守り続けられてきました。

 この森は御祭神が即位されてから二千六百年を迎えた昭和十五年に

国を挙げての奉祝記念事業として宮域拡張整備が行われた際に約

七万六千本の樹木が植栽され、うち二万二千余本は全国から寄せら

れた献木となっています。

植栽にあたっては、神宮境内の樹木は郷土の木をもって構成すること

とし、樹種については、橿原の地名から昔は樫の木が生い茂っていたこ

とが推測されることから、カシ類を主として、昔の姿に還元すること

を目標に決められました。

献木九十種 二二、五三四本


橿原神宮の鳥居

 橿原神宮の鳥居は総檜木作りで、南参道に2基、北参道と西参道に

各1基の計4基あり鳥居の形式は明神鳥居となっています。

この檜木は台湾の阿里山から運んできたもので、大変貴重なものと

なっています。  








中ッ道の路面跡

 良盆地の南北を結ぶ古代の幹線道路、「中ツ道の路面跡とみられる遺構が、

奈良県天理市で見つかった。県立橿原考古学研究所が11日発表した。中ツ道は

同県橿原市の藤原京跡などで側溝跡が見つかっているが路面跡の出土は初めて。

 橿考研によると、県道拡幅に伴う調査で、幅約2.2m、深さ約70cmの溝が見

つかり、その西側に路面跡とみられる遺構が幅約3m、南北約15mにわたって

出土した。全体の道幅は約23mとみれる。

 路面は、粘土を平らにならした上に砂混じりの土(厚さ約10cm)を突き固め

ていた。砂を混ぜた舗装工法で、耐久性を高める効果があったらしい。

 中ツ道は7世紀に造られたとされ、約2,km間隔で 東西に並ぶ歩上ツ道、下ツ道

ともに藤原京付近と平城京付近を結んだ。平安時代藤原氏の摂関政治の全盛期

を築いた藤原道長(9661027)の日記「御堂関白記」には吉野にお参り

する際に中ッ道を通ったとの記述がある。橿考研の北山峰生·主任研究員は「全

国でも古代道路の路面が確認されるのは珍しく、施工方法の解明につながる」と

話す。11日に地元住民向けの現地説明会があったが、一般向け説明会はない。
 2013-5-12 朝日新聞
 (塚本和人)



天皇陵を歩く 渋谷山古墳

 山辺·磯城地域には、初瀬川と寺川などが育んだ沖積地が広がっています。三輪山か

ら北西に約12キロ、西殿塚古墳(天理市)のあたりから南西に約8キロの曽我川ぼでの範囲

です。この一帯では、弥生時代で奈良盆地最大の集落、田原本町の唐古·鍵遺跡や古墳

時代前期初葉の桜井市の纏向遺跡が営まれました。

 巨大な前方後円墳はこの一角に姿を現しました。箸墓古墳にはじまり、西殿塚古墳、

桜井茶臼山古墳も登場します。次いで行燈山古墳が造ら れ、メスリ山古墳が姿を現し

ます。

 メスリ山古墳の後円部にある竪穴式石槨の周囲には、高さ約2.4m、口縁部直径1

3mの巨大な円筒埴輪が据えられていました。1960年の調査を知る県立橿原考古

学研究所の先輩からは、円筒埴輪の中に入って発掘したと聞いたことがあります。五右

衛門風呂を人の背丈より高く、いくつも積み重ねたようきな円筒埴輪です。

 渋谷向山古墳はこれらの次にあたり、古墳時代前期後葉の後半に築かれました。行燈

山古墳から見ると、広い谷を隔てた南側に位置しほす。天理市渋谷町にある墳長約30

0m 、古墳時代前期では全国でも最大規模の前方後円墳です。

 宮内庁は、第12代の景行天皇の山辺道上陵として管理しています。前回で少し触れま

したが、幕末に急きょ、崇神天皇陵から変更されました。

 周濠は墳丘に渡る土堤で仕切られており、山側にあたる東から西へ階段状に水量を調

節しながら水を引いています。ただ、これらは築造当初の姿そのままとはいえませ

ん。灌漑用水の確保のために近世に設けられたものが含まれています。

 宮内庁書陵部は、周濠の維持管理に護岸整備工事をしていますが、その前に発掘調査

をすることがあります。工事で墳丘が損傷しないようデータを得るためだと説明してい

ます。

 77年には後円部東側の裾部分で事前調査がありました。後円部墳丘第1段の平坦面を

めぐる円筒埴輪列が確認されました。墳丘を復元する手掛かりとなる重要な成果です。

 調査後に、円筒埴輪5本をそのまま出土位置に残して整備工事が行われました。必要

最低限の図面を取り、そのまま埋め戻すのは遺構保存のひとつの見識です。しかし、工

事のあとに再び周濠に水が入りぼすと、円筒埴輪列が見つかった部分は水没してしまう

ことになります。

 今年2月、学会から要望した立ち入り観察があり、現地を見せていただきました。77

年にみつかった円筒埴輪を覆う蓋石が並んでいました。埴輪列を保護するための処置だ

と思うのですが、水位はその高さまで及んでいました。水による浸食は大丈夫でしょうか。

 地元の用水の確保も重要ですし、天皇陵古墳の恒久的な保全も大事です。どうすれば

いいのか。改めて広く知恵を募る時期に来ているのではないかと感じています。
 21016-7-1 朝日新聞 
(関西大非常勤講師今尾文昭)




平城宮跡巨大井戸

  奈良市の平城宮跡(特別 史跡)で、奈良時代後半とみられる井戸跡や建物跡な

どがみつかった。奈良文化財研究所(奈文研)が21日発表した。皇太子の住ほい

などがあった東院地区にあたり、専門家からは、皇族の宴会を支えた調理施設の

可能性が指摘されている。

 奈文研によれば、井戸は東西約9·5 m、南北約9mの範囲を方形に掘り込

み、その中心部に約4m四方で井戸枠を据えて井戸を囲む構造だった。その規模

は平城宮内で天皇が暮らしたとされる内裏でみつかった井戸にも匹敵し、宮内で

最大級とみられる。

 井戸の西隣から東西約18m以上、南北約9mのひさしを備えた建物跡が出土。

この建物と井戸を結ぶように幅約1m,深さ約60cmの溝もみつかり、溝は途中で

分岐し、建物の内部に通じていた。分岐した溝からは食器や調理具、貯蔵具など

大量の土器も出土した。奈文研は井戸と建物、溝が体となって配置され、井戸

水を計画的に利用する機能があったと想定し、東院中枢部で皇族のために食膳を

準備する厨房の一部の可能性があるとみている。

 舘野和己,奈良女子大学特任教授(日本古代史)は2本の溝があることか

ら、大勢の人が働いていたことがうかがえる。大規模な宴会を支えた調理施設だ

ったのでは」と話す。21017-12-22 朝日新聞



天皇陵古墳を歩く 段ノ塚古墳

 この場所を訪れるのは、考古学よりも万葉集の愛好者の方が多いかもしれません。鏡

王女の歌碑が、桜井市忍阪の段ノ塚古墳(現·舒明天皇陵)がある丘陵下の小川に立

てられています。

 鏡王女は、本居宣長が随筆「玉勝間」(二の巻)で説いて以来、額田王との姉妹説が

ある万葉歌人です。そこから山道を登ると、鏡王女とは表記が異なる鏡女王の「押坂

墓」と伝えられた古墳があります。また、「日本書紀」では天武12 (683)年に、鏡姫

王が薨去したという記事が出ています。似た名前の3人の女性を同一人物とする考えも

ありますが、別人物という指摘もあります。真相をめぐる議論が続いています。

 鏡女王の押坂墓とされる古墳は、談山神社の関係者が管理しています。制札と門扉が

ありますが、宮内庁管理の陵墓ではありません。段ノ塚古墳と並ぶように、東側に築か

れています。2基の古墳の間には南に延びる尾根があります。共にその尾根を利用して

造られた南向きの三方山囲みの終末期古墳です。

 上下の部分からなり、下の方形段は一辺15mほどです。

ただし、詳細な測量図がなく後の整備もなされているようなので確かではありませ

ん。立地の様子からみて段ノ塚古墳に続く時期に築かれた

と推測しほす。

 さらに、山道を登りぼす。ここまで来ると、景色も変わり、南の方への視界が開けほ

す。道が尽きる奥ほったところに、大伴皇女の「押坂内墓」として宮内庁が管理する

古墳があります。

 北側の外鎌山から延びる尾根を削り、墳丘を設けています。斜面にすりつくような終

末期古墳です。柵に沿って周囲を歩くと、浅い掘割があり、東側と西側の斜面が墳丘

を囲むような様子が観察できぼすが、造営当時からのものかどうかはわかりません。

 今は南北15m 、東西10mほどの楕円形に土がかぶり、見ることができませんが、内部

を推測できる史料がありぼす。1879 (明治12 )年と翌年の情報をもとに作成され

た「明治十二年山陵絵図」です。「御陵図」という題で、ほぼ同じ内容のものが宮内庁

書陵部と県立橿原考古学研究所にあります。そのなかに「大伴皇女押阪内墓」の平面

図と鳥瞰図が含まれています。「大和国式上郡忍阪村東方之上アリ」と所在地を記し

ています。

 平面図をみると、2枚分の天井石を載せた埋葬施設が描かれています。南側は穴が開

き、そこから東西の側壁になる石材も見えます。両側壁がそろう様子も見られます。縮

尺値が240分の1とあり、それにもとづくと天井石が覆ろ範囲は長さ7m程度、幅5

.6m程度の大きさです。

 鳥瞰図でも、この部分が確認できます。天井石ばかりでなく、側壁石材も上部があら

わになっています。天井石の継ぎ目にそろうように西側の側壁石材の輪郭が太い線で描

かれていばす。

 墳丘の盛土の大半を失い、盗掘もこうむっているようですが巨石を用いた横穴

式石室だったと判断します。絵図に描かれた部分は玄室で石室に使われた石が大き

くなり、石材の数が少なくなる7世紀後半の特徴があります。

 断定はできませんが忍阪の谷では段ノ塚古墳、それから奥に向かって鏡女王墓、大

伴皇女墓とされる古墳が順次、築かれたのではないでしようか。そうとなれば、それ

ぞれの古墳の特徴が、飛鳥の終末期古墳の順序を決める編年研究に応用できるのではと

期待しています。
 2107-12-15 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)






敷城島(しきしま)

「磯城島」

 磯城島(式島)は大和にかかる枕詞です。「磯城島の大和の国は言霊(ことだま)の助くる国ぞま幸(さき)くあり

こそ」(万葉集13三二五四)の歌は有名です。磯城島はのちに日本の代表地と意識され「敷島の

道」と 言えば和歌を指しました。

 仏教が伝来したと伝える欽明天皇の「磯城島金刺宮」が日本書紀に見え、古代に磯城島の地

名がありました。それに因み明治二十一年に桜井市の粟殿(おおどの)・川合・戒重・赤尾・忍坂・

の六か村が合併し城島村ができ、現在城島小学校としてその名をとどめています。その小学

校の東方に式島橋がかかりますが、その橋の袂が小字「式嶋」です。この辺りを中心として古

代のシキシマの地があったと思われます。初瀬川を挟んで対岸に当社末社「金刺社」も鎮座します。

 島は島嶼(とうしょ)以外にも水辺に付けられる地名で、川沿いにまま見られます。シは石(いし)の意で、キは

「城飼(きか)う」(囲いの中で飼う)の言葉があるように柵でめぐらして区切った一郭。シキは石で堅

固に囲った一区画となりますが、古代、崇神天皇の磯城の瑞籬宮(みずがきおみや)を含む「磯城」と一言われ

た地域の島地形の場所が「磯城嶋」となったのでしょう。
 平成30年1月1日 第241号 かぎろい 
 





繞道祭(にょうどうさい)

「繞道祭」

 新春の闇夜を照らす大松明の火列。神から戴いた清火は、古代から現代へと受け継がれてきた

人々の営みを清めて回る。

 大神神社の元旦行事「繞道祭(ご神火まつり)は、大和の一番火で彩られる祭り。神職と、大松

明を担いだ氏子が三輪山麓に鎮座する摂社·末社の十九社をお祓いや献饌を行い、祝詞をあげて巡

拝する。祭りの名は道を繞(めぐ)ることからいう。

 祭りは、古来から世の中の安穏や国民の幸せを祈願するものとして行われてきた。その裏には

大和の神々や人々、国を清める意味合いも込められている。

 元旦が近づくにつれ、拝殿前の神の庭(斎庭・ゆにわ)に大勢の人の波が押し寄せる。午前零時になると

大太鼓が打ち鳴らされ、参拝者のどよめきが起ったかと思うと一斉に賽銭の雨が降りかかる。

 この頃、三ツ鳥居奥の禁足地内(一般の人が足を踏み入れることのできない場所)では、古式に

のっとり宮司により、ご神火がきり出されている。ご神火は祭典の後、二人の神職の手によって拝殿

前へと持ち出され、れる。火は斎庭で待つ「先入道」「後入道」「神饌松明(しんせん)」と呼ばれる三本
の大松明へと移される。
拝殿下で白装束の氏子に継がれる。

 それぞれの松明は長さ約三m、直径約三十cm重さ六十キロ。松明の大きな火炎が立ち上ると、複

数人で担ぎ上げ、太鼓を打ち鳴らし、ワッショイワッショイの威勢のいい掛け声を発しながら、最

初に参る「神宝社(かんだから)」へと走り出す。一方、参拝者は斎庭の御神火拝戴所に移された火を競うよう

に持参の火縄などに授かる。近隣の男性は「火は家に持ち帰って神棚のお灯明や雑煮などを炊く火

種にし、一年間の無病息災を願うのです」。古くからの慣わしである。

 奉仕員を務めるのは、昭和四十五年に発足した大神神社の氏子でつくる大美和青年会。大松明を

担ぐ若者、小さな松明でその足元を照らす人々、それぞれの役目を持った氏子らは三輪山麓五km

まりを寒風を切り裂き、闇の中を駆け巡る。その姿には、自分たちが大和の清めを担っていること

の自負が全身にみなぎり、厳粛さが漂う。

 今年の担ぎ手の平均年齢は三十才半ば。一行は、神宝社―天皇社―日向社―大行事社―活日社―

磐座社―狭井社―貴船社―檜原社―豊鍬入姫宮―富士社―厳島社―神御前社―綱越社―大直禰子

社―久延彦社―琴平社―御誕生所社―祓戸社の順に巡拝する。

 巡行七社目となる狭井神社の鳥居前の両側にはご神火をあがめる人たちが立ち並ぶ。人の多い参

拝路を行くときは見せ場のひとつ。山の辺の道や生活道と、つぎつぎに駆け抜ける大松明の流れは

ご神体山である三輪山を浮かび上がらせ、神々しく美しい。檜原神社を下ると遠くに町の明かりが

見え、その向こうに三輪の大鳥居がほのかに見えてくる。

 一の鳥居、二の鳥居をくぐって参道に涙行は祓戸社を最後に、本社ヘの苦しい石段左全力

で登り終えると、 二1時間半にわたった巡拝はやがて終盤。「巳の神杉」.の周囲を三周回った後、祭

りは静かに幕を閉じだ。今年も無事に巡行を終えた氏子社顔は緊張から、やり遂げた満足そうな表情
に変わっていた。
メンバーの一人は「僕たち とこれからが正月です」と、笑みがこぼれた。

 幼いころから馴染んできた燃えあがる火 その火を眼の前に見ることによって、人々のなかに沸

き起こる生の力。祭りの火は、火勢による霊力の強化や照明、降臨する神の目じるし、浄化などの

意義をもつ。

 繞道祭で清め終った大和の国は、燃え盛る一番火と信仰心をもつ熱い人々がもたらした清純な空

気に包まれ、また新たな一年の歴史を刻み始める。
平成30年1月1日 かぎろい  第241号
 (エッセイスト)中田紀子








鬼の雪隠・俎板 天皇陵古墳を歩く

 子どもが無理を嘗うと「鬼の俎につれて行って、鬼に食わせて
やろうかと怖が
らせたと、「大和の伝説」(高田十郎編、1933年)
に出てきます。

 明日香村の橘寺から亀石の前の遊歩道を西に進むと、村

立聖徳中学校あたりから下り坂になります。中学校の敷地

の小字名が「キリケ峯」です。伝説では、このあたりに

鬼が現れて通行人を喰ったと言われています。

 道ばたにある小さな案内板に導かれて北側の丘に上がる

と、平たい大石(長さ4 . 4m、幅2 . 8 m)があります。「鬼の俎」
です。

 道の南側の下方には、箱を斜めにひっくり返したような

形の巨石(長さ3.8m 、幅3.4m)があります。の雪隠」です。
鬼の厠とも一言
います。

 鬼は人や獣を捕まえては、俎で料理して、雪隠で用を足

したと伝えられています。雪隠にまたがる鬼の図 がデカ

イことは、子どもにも想像ができます。わんぱく坊主も黙

るというものです。

 ご存じの方が多いかと思いぼすが、俎と雪隠は組み合わ

さり、横口式石槨と呼ばれる古墳の埋葬施設になります。

俎が底石(床石)で、雪隠が蓋石(天井石)です。

 いつの時期かはわかりませ んが、墳丘が取り除かれ、蓋

石がめくられて落下し、分解した状態になりました。それを鬼
の俎·雪隠古墳と呼んで
います.。
7世紀後葉の終末期
古墳です。宮内庁では、それ

ぞれを梅山古墳に治定する檜隈坂合陵の陪冢としています。

 横口式石槨は棺を納めるとほとんど隙間がありません。

1人用の埋葬施設ですから、追葬を想定して築いた横穴

式石室とは異なりぼす。近畿の場合には、家形石棺の短

側部分に開口部を設けたもの、高句麗や百済の石室の影

響を受けたものなどがあります。

 鬼の俎·雪隠古墳の場合は、硬い花崗岩の内部をてい

ねいにくりぬいてつくっています。蓋石の開口部の上側に

は直線の切り込みがあります。はめ込み式の閉塞がなさ

れたのでしょう。

 底石にはホゾ穴があります。ここに石栓をはめ、石槨を塞

ぐ石をとめたといわれています。穴は閉塞された部分の外

側にあります。防湿の役目も負ったと考えた方が良いかも

しれません。

 鬼の俎·雪隠古墳の石槨の内側の寸法(内法)は長さ約

2.7m 、幅約1 . 5m高さ約1.3mです。関西大学

で考古学を教えた網干善教氏は、「大化の薄葬令」で規

定する墓内部の大きさに合致したものだと指摘しました。

 国家による葬送の統制を内容とする大化 2(646)年の

孝徳大王(天皇)の詔のことが「日本書紀」に記されてお

り, 一般的に「大化の薄葬令」と呼ばれています。王以

上が長さ9尺、濶さ(ひろ)5尺上臣下臣はそれに准(なずら)
えると規
定します。
この1尺を30cm弱
の唐大尺で換算すれば、鬼の俎·雪隠
古墳の内部は合致し
ます。

 しかしながら、「大化の薄葬令」が孝徳大王の詔として

発令されたものかどうか、研究者の評価は分かれ、時期や

実効性をめぐる議論が続いています。合致する古墳がある

以上、規定を端から虚構とみなすことは適当ではないでし

ょう。鬼の俎·雪隠古墳は、伝説とともに、古代史·考古

学上にも重要な問題を投げかけています。
2018-1-12 朝日新聞

(関西大非常勤講師今尾文昭)









影媛の悲恋物語

 影媛を中心とした恋愛伝承は「古事記」にはなく、『日本書紀』巻第十六、武烈天皇の段

に詳しい記述がある。それによると暴虐の限りを尽くしていた武烈天皇は、物部麁鹿火

大連の女である影媛を妻にしようとした。

この時すでに影媛は平群眞鳥大臣の男、鮪と恋仲で、武烈天皇はふたりの歌の贈答に割っ

て入るが、影媛と鮪の仲に気付き、さらには当時真鳥·鮪父子が国政を欲しいままにして

いたこともあって、大伴金村速に兵を出させて鮪を乃樂山で殺させた。驚き悲しんで

影媛が詠んだ歌が有名である。

 石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ

 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ

 妻隠る 小佐葆鐹ぎ 玉筒には 飯さ

 へ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち

 行くも 影媛あはれ


 高橋とは櫟本辺りであり、大宅は白毫寺、春日、佐保を過ぎて、古来葬送の地であった

乃樂山の谷で影媛は泣きながら鮪を弔ったとされるが、この歌は伝承の域を過ぎず、影媛

が実在していたかどうかも問題が残る。

 影媛という名には、葬送に関わる暗いイメージやもの悲しい印象を受けるが、『万葉こと

ば事典』によると「影」とは、「本来は発光体のきらきらとした輝きや、揺らめいたり明滅

したりする光そのものを意味したと考えられる」ことから、影媛は朝日に照らされきらき

ら輝く美しい女性であると想像される。

 影媛の父とされる物部麁鹿火は、武烈から宣化天皇朝の大連であり、北九州で起こった

磐井の乱を2年がかりで平定した大将軍として著名であった。物部氏は饒速日尊と御炊

屋姫の子である宇麻志麻治命を祖とし、用明天皇の時代に蘇我馬子らに滅ぼされその本

宗家が絶えるまで、その痕跡は、富雄丸山古墳をはじめ、石木町の登弥神社、
矢田坐久志玉比古神社、饒速日尊と御炊屋姫を祀り、
小泉大塚古墳、六道山古墳など、
富雄川流域
に分布している。

 また4世紀後半に物部氏の最大勢力があったのは布留川上流の石上の地で、前方後方

墳としては日本最大の西山古墳も物部氏とのかかわりが考えられ、石上神宮が創始された

のもこのころである。

 また、九州の阿蘇石が畿内に石棺材として多く運び込まれていることが最近明らかとな

った。中でも宇土半島の付け根の馬門の石はピンク石で、大和の中南和にかなり集中して

いるが、このことは物部麁鹿火の大将軍としての活躍と密接に関わっていると思われる。

以上、影媛伝承の背景を考えたが、『日本書紀』では悪逆非道の人物として描かれている武烈

天皇とは対照的に、影媛の悲哀の物語が人々の心に 長く残ったのではないかと思われる。


山の辺の文化 第42(平成24年10月)和田萃氏 より





天皇号・御陵・諡号・ .継承

  [系譜] 系譜は父子関係を文章で表わしたもので、『日本書紀』『古事記』の各天皇の系

譜が代表的なものであり、稲荷山古墳出土の辛亥年(471)銘鉄剣のオホヒコからヲワケ

ノ臣の八代にわたる系譜が有名である。系線で以って父子関係を示しているのが系図であ

り、前者が古く後者が新しい。


 [天皇号] 天皇という号は紀·記では初代
の神武天皇から使用されているが、鉄剣にワ

カタケル大王とあるように5世紀後半にはだ使用されておらず、おそらく推古天皇朝の

对隋外交契機に、国号「日本と共に用い始められたと考えられる。


 [御陵] 天皇や皇后などの墓所を御陵とい
い、天皇のそれは紀,記に記されており、10

世紀前期頃の延喜諸陵式から、その頃までは所在ははっきりしていたが、律令制の後退

と共に、古代の天皇陵はほとんど所在不明となった。江戸時代の元禄頃から御陵への関心

がたかまり、明治になって現在の御陵が治定され宮内庁で祭祀と管理がなされているが、

考古学が発達した今日では事実に合わないものがかなりみられる。


 [諡号] 諡号とは『令義解』に「死後の称号で、生時の行迹により『文』や『武』な

どの字を選ぶ」とある。諡号には和風諡号(A)と漢風諡号(B)があり、
よく知られているのはBである。
しかし、記紀にはBはみら
れず、Aのみであり、Bは大宝令からのよ

うである。神武から元正までは、文武を除き近江御船が天平宝字6年(762) ~8年の

間に撰進したといわれている。聖武から桓武までは淳仁を除きA-B共に奉られたが、

以後はAのみ、Bのみ、嵯峨·陽成のように共にない天皇もあり、宇多よりは後述の一部

例外を除き奉られなくなった。嵯峨·陽成.宇多などは退位後の住居名からとった追号で

ある。冷泉からは冷泉天皇ではなく冷泉院と称され、以後院号が用いられた。崇徳院·安徳

院·順徳院は諡号である。諡号が復活したのは、天保11年(1840) に崩御した光格天

皇からであるが、明治以後は即位中の年号を以って追号としていることは周知の通りである。


 [継承] 天武天皇の皇子文武天皇が即位するまで母親の持統天皇が、文武天皇の皇子聖

武天皇が即位するまで母親の元明天皇·姉の元正天皇が中継として即位しているように、

皇位は成年であることが条件であった、9才で即位した清和天皇以後この原則は崩れた。


 [代数]紀や記をはじめとする六国史に代
数は記されておらず、『大鏡』に「五十五代文

徳天皇」とみえるのが早い例である。現行の代数は明治期に『大日本史』が1代に数えら

れていた神功皇后を歴代より除き、即位が無かったらしい大友皇子(弘文天皇)を歴代に加

え、南朝の天皇を正位とし、北朝の天皇を潤位としたことをうけ、それに歴代から除かれ

ていた淡路廃帝(淳仁天皇)と九条廃帝(仲恭天皇)を加え、さらに大正15年10月21

日に、南朝の長 慶天皇の即位が認められ確定したものである。

 山の辺の文化 第42号(平成24年10月)
 石上神宮 白井伊佐牟氏 より










































































































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