直指庵地図

 浄土宗
 正保3年(1646)檗宗の開祖隠元(いんげん)の教えを受けた独照性円(どくしょうしょうえん)が、この地に没蹤庵(もつしょうあん)を建てたことにはじまる。
 隠元もここを黄檗宗の本山とする気になったが、大覚寺領であることに遠慮して、のちに宇治に万福寺を開いたという。
 独照の弟子月譚が二世となったが、その後の法統が衰退して寺域は荒れてしまった。
 幕末期、近衛家の老女村岡局(津崎矩子)が再興した。村岡局は近衛忠煕(ただひろ)に仕え、勤王の志士と公卿との連絡係になるなど国事に奔走し、安政の大獄に連座して江戸に送られる。その後、嵯峨に帰り、直指庵に隠棲した。88歳で没した同女の墓が本堂北の竹林にある。
 直指庵は今は浄土宗の寺となっている。
 直指庵の名は、黄檗宗の正統を「直指伝心(人心)」としたことによる。(禅宗の悟道を示した語。念仏・看経などによらないで、坐禅によって自分の心性を徹見し、その心の外に仏なく、仏以外に心なし、この一心を指して、直ちに仏の境界に悟入せよという)
祥鳳山直指庵

 天明六年(一七八六)の拾遺都名所図会には、大伽藍を連ねた壮大

な全景が載せてある。臨済禅を学んだ独照性円が南禅寺栖雲庵から正

保三年(一六四六)に北嵯峨細谷に草庵を結んだのが始まりである。

 独照が明の高僧隠元に黄檗禅を学び、隠元をここに、請じてからは、
上下の帰依者が伽藍を建立して大寺院になった。独照の弟子の竹岩は、
摂津に正楽寺を興し、月譚はこの直指庵の二世となり詩文をよくして、
共に高僧の名をたかめたが、その後は法嗣が衰え、独照の墓堂を存
するだけとなった。

 幕末の頃、近衛家老女津崎村岡が再建して浄土宗の庵寺とし、土地 

の子女の訓育につくしたが、明治十二年(一八七九) に姪尼寿仙の上

京中に、賊のために焼かれ、明治三十二年(一八九九) に北嵯峨の有

志によって今日の寺観を再び整えた。

独照性円と月運道澄

 元和二年(一六一七)近江に生まれ、幼くして父を失い、寛永四年

(一六二七)但馬出石の吉祥寺に禅の修業をはじめ、寛永十一年(一

六三四)から諸方を行脚して和泉堺の祥雲寺の沢庵宗彰に学び、更に

一絲文守に参禅した。

 一絲は、独照の病弱であることを案じて、南禅寺山内の栖雲庵に住
まわせたが、正保三年(一六四六)三月に一絲が近江の永源寺に
三十九才で示寂すると、病苦をおして永源寺に師僧の冥福を祈り、
京都に帰ってからは、北嵯峨細谷の地に小庵を結んで住まった。時
に独照性円は三十才であった。庵は没蹤庵という。

 承悪三年 (一六ハ五四)七月に明国の高僧隠元隆gが長崎に渡来
せられ、東明寺に入られたと聞き、直ちに独照は長崎に向かい、隠元
の教えを受け、翌年は普門寺に隠元の禅行に従い、万治二年(一六
五九)の春には、隠元を嵯峨の没蹤庵に迎えて十余日間の滞留を
願った。独照に帰依する人たちはこれを喜んで堂舎の建立に協

力するものもあり、小庵も次第に寺観を整えたが、隠元は、この地が

大覚寺領であることを配慮して黄葉の本山とすることをやめ、後水尾

法皇のお心ずかいで、幡枝の離宮(後の円通寺) に滞留し、夏の末、
四代将軍家綱から宇治大和田の地を寄せられて、そこに万福寺を
創立して隣接の中和門院(後水尾法皇の母后)御所を賜って隠元自ら
の住院(いまの万福寺開山堂)とした。

 その後、寛文十年(一六七○)冬のなかばの夕暮れ前に、独照は
直指庵に坐して枯松の枝が地に落ちるのを見て大悟し、庵がすでに
大寺院になっているにもかかわらず、寺号をさけて、直指人心の旨を
守って「直指庵」と号し、そこで竹岩道貞、月譚道澄の育成につとめた。

 貞享三年 (一六八六)竹岩の創立した摂津の正楽寺の開山に仰が
れ、直指庵は月揮が二世として住した。元禄七年(一六九四)五月、
独照は老病の日に加わるのを知って飲食を減じ、八月十七日の朝、
沐浴して「われ今日行かん」と門人帰依者の前で、遺偈(ゆいげ)を
記して瞑目絶息、七十八才の生涯を閉じた。

従四位津崎村岡のこと

 天明六年(一七八六)に嵯峨大覚寺宮の家来、津崎左京の娘として

生まれた矩子(のりこ)は、寛政十年(一七九八)に近衛家の侍女として
仕えた。

十三才の矩子が、大覚寺の塀のそばで子守り娘に小倉百人一首を教え

ているのを、近衛家の老女小牧が見かけて、侍女として推挙したとい 

うことである。矩子の兄は、大覚寺宮の諸太夫津崎筑前守元矩である。

矩子は近衛家では村岡と呼ばれ、後には老女の地位に昇った。嘉永六

年(一八五三)の米艦来航以来、国内は混乱におちいり、安政五年(一

八五八)四月に井伊直弼が大老になって外国との条約に調印したとい

うので、尊王攘夷を主義とする志士は時の左大臣近衛忠煕を動かして、

水戸の徳川斉昭らに捜夷の密勅を降されるようにしようと、梅田源次

郎(雲浜)、頼三樹三郎らがまず老女村岡にはたらきかけた。

村岡は忠煕と志士との意士の疏通のために努力し、ついに八月八日
の密勅降下が実現したが、翌、安政六年には幕府の弾圧が殊に厳しく
なり、鷹司、近衛、三条公らに髪を剃らせて謹慎させ、斉昭には蟄居、
梅田は江戸で獄死、頼らは刑死、村岡も江戸におられて投獄された。

 村岡は、かつて島津斉彬の養女篤姫が十三代将軍家定の側室として江 

戸へ向った時、その養母となって江戸城に行き、将軍や諸大名の面前

で七汁二十二菜の馳走をたいらげ、願いものを何なりと与えよう、と

の将軍の言葉に対し、「わが主家近衛家の柱臣一名を将軍家の側にお

かれたい」と述べて一同を驚嘆させた。その時に頂戴した三つ葉葵の

紋を散らした打掛を着て、評定所の白砂に坐ったのであるから、安政

の大獄の苛酷になれた奉行も村岡の扱いに困惑した。村岡の七十四才

の時であった。禁錮三十日に処されて永謹慎を云いわたされ、村岡は

嵯峨に帰り、直指庵に入って近衛家代々の冥福を祈りながら、風月を

友とし里の人たちの教養につとめた。長州の野村望東尼が訪れた時は、

望東尼と庵室の障子をへだてて数言をかわして、望東尼が幕吏に疑わ

れることを避けるように配慮した。老女村岡は、明治天皇から年々二

十石を下賜され、明治六年(一八七三) 八月二十三日八十八才で直指庵

に寂した。明治二十四年(一八九一)十二月に明治天皇から従四位を贈

られた。生前無位の女性に対する死後の贈位は従四位が最高であった。