東本願寺の別邸で、周辺に植えられた枳殻(からたち)の生垣にちなんで枳殻邸とも呼ばれる。寛永18年(1641)、この地を徳川家光から寄進を受けた本願寺宣如上人が、承応2年(1653)詩仙堂を開いた石川丈山らとともに庭園を築き、別邸としたところである。もとは、鴨川に達する公大なものであったが、現在でも200m四方の大きな庭園である。この地は、平安時代の初め、左大臣源融が奥州塩釜の風景を模して作った河原院の跡に近く、作庭に際し、印月池(いんげつち)と呼ばれる広い池を中心に、池には島を浮かべて石橋や土橋で結び、周囲には樹木を茂らせ、源融をしのぶ名所も作られて、平安期の面影を再現している。園内には、桜門傍花閣、橋廊の回棹廊等他いずれも蛤御門の変による大火災後の再建であるが、庭園によく似合った建物が配されている。
人物源融⇒⇒⇒ |
光源氏が建てた六条院は、源融の邸の一部が渉成園。物語の六条院には四季にちなんだ町が作られ、春の町には紫上と明石の姫君、夏の町には花散里、秋の町には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)、冬の町には明石の君がそれぞれ腰を落ちつける。太政大臣となり、最高の位についたその身にふさわしい、大きく豪華な館であった。 |
源融は嵯峨天皇の皇子で、源の姓を与えられて臣籍に列しながら、一度は帝位を望んだが、藤原氏の権勢に力及ばなかった。稀代の風流・豪奢で知られる。 |