詩仙堂地図

 正しくは、六六山詩仙堂丈山寺(ろくろくざんしせんどうじょうざんじ)と号する曹洞宗の寺院である。
 当時は、江戸時代の文人石川丈山が、寛永18年(1641)隠棲のため建立した山荘で、
凹凸窠(おうとつか)とも呼ばれている。
 丈山は、三河国(愛知県)の人で、徳川家康に仕えたが、禄を辞して京都に住み、
詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人とも交わり、茶道においては奥義を極めた。
晩年は当地で悠々自適の生活を行い、寛文12年(1672)89歳で没した。
 建物は、詩仙堂、嘯月楼(ちょうげつろう)など10の区画からなり、詩仙堂には、
狩野探幽筆(かのうたんゆう)による中国の三十六詩人の肖像と詩を描いた額が掲げられている。
庭園は、東には滝を、前庭には躑躅(つつじ)、皐月(さつき)の刈り込みを配した枯山水庭園で、
庭の奥から丈山愛好の僧都(鹿おどし・ししおどし)の音が風情を添えている。
 毎年5月23日には、丈山忌が営まれる。
                                                    京都市
 石川丈山は大坂夏の陣で徳川家康につき、手疵を負いながら敵将の首をとる功を立てたが、
命令を待たずに行動したことが家康の怒りに触れて冷遇された。  
 文人・石川丈山は、小堀遠州と並ぶ江戸初期の庭造りの名人として知られている。

 煎茶の開祖でもある文人·石川丈山が草庵を結んだのがはじまりで、サツキの

名所としても知られる,自然の地形を生かした庭園はサツキが白砂に映えるさまが見事。
見頃は例年5月下旬
6月上旬で、広間からの眺めはすばらしく、丈山考案の「僧都(添水·鹿おどし)」の
音が静寂の中に響きます。
 

史跡 詩仙堂⇒⇒⇒
   
 境内には、平屋建ての建物があるが、瓦葺きと茅葺の二層の屋根の嘯月楼(しょうげつろう)
という小楼を屋根上に付けるなど趣向を凝らしたものである。
     
 建物の前に広がる庭は、唐様の庭園で、中央を白砂敷にとし、丹念に刈りこまれた皐月。
 丈山が考案したと伝えられる鹿(しし)おどしの打つ響きがたえず庭内にこだまする。

石 川 丈 山

 石川丈山は、天正十 一年(一五八三)三河国(現在の愛知県安城市)

に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六歳で

家康公に仕え、近侍となった。松平正綱、本多忠勝等はその親族であ

る。三十三蔵の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この

役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を

学んだが、老母に孝養を尽すため、広島の浅野候に十数年仕えた。そ

の後母を亡くした丈山は五十四歳の時、京に帰り相国寺畔に住居した。

寛永十八年(一六四一)五十九で詩仙堂を造営し、没するまでの三

十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこ

れを楽しんだ。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における

煎茶(文人茶)の開祖である。

 関寛文十二年(一六七二)五月二十三日、従容として、九十歳の天寿

を終った。 

動画     詩仙堂⇒⇒⇒ 
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金福寺 地図
   
 金福寺の由来

 仏日山金福寺は貞観六年(八六四)安恵僧都(あんね)が慈覚大師·円仁の遺志

により創建し、大師自作の観音像を本尊として安置した。もと天台宗の寺であった
が、後一時荒廃し、江戸時代中期、圓光寺の沢雲長老の法嗣(ほうし)鉄舟和尚
が再興し、臨済宗南禅寺派となり、今日に至っている。

 又当寺は松尾芭蕉と与謝蕪村にゆかりのある俳句の聖地として、或いは
舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』などのヒロイン村山たか女の終焉の寺としても
知られている。

 
     

芭蕉庵の由来

 元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ、当寺の草庵で閑居

していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。
その後、和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、芭蕉の高風
をいつまでも偲んでおられた。

 その後、八十五年ほどして、与謝蕪村が当寺を訪ねて来た。その頃すでに

庵は荒廃していたが、近くの村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわし

ていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永五年、庵

を再興し、天明元年、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、当寺に納めた。

そして庵が落成したとき、次の句をよんだ。

 耳目肺腸(じもくはいちょう) ここに玉巻(たまま)く芭蕉庵 蕪村  
 
 蕪村の墓
   
 翁の水
鉄舟和尚が芭蕉をもてなした時に
使ったと伝えられる井戸
 京都市街一望
高浜虚子が蕪村の墓に参られての句
 徂(ゆ)く春や京を一目の墓どころ
青蓮院門跡の由緒 

金福寺と村山たか女

 作家 舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」,諸田玲子『好婦にあらず』 のヒロイン
村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎(うもれぎのや)で不遇な部屋住の
生活をしていた頃の愛人であった。直弼は三十二才のとき江戸に下り、四十四
才で大老職に就任した。その頃アメリカの強硬な要求で開国政策を推進せざる
を得なかった。一方、たか女は京都において幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論
者達(薩摩、長州、水戸藩の浪人、公家)の動向を探索し、その情報を長野主膳
を通じて幕府(大老)に密報をすることで「安政の大獄」に加担した。その為に、
たか女は勤王方から大変恨まれ、大老が万延元年「江戸城桜田門外の変」で暗
殺されると、彼女は勤皇の志士に捕らえられ、京都三条河原で生晒にされたが、
三日後に助けられ、文久二年尼僧となって金福寺に入り、名を「妙寿」と改め、
十四年間の余生を送り、明治九年、当寺に於いて六十七才の波欄の生涯を閉じ
た。本墓は当寺に程近い圓光寺(地図)に在り、金福寺には彼女の御位牌、筆跡、
遺品などが伝わっているとともに詣墓(まいりばか)がある。
 

    
 たか女 晒し者の図
 多羅葉(たらよう)
ハガキの元

与謝無村 享保元年(一七一六)~天明三年(一七八三)

 江戸時代中期の画家であると共に俳人でもある。摂津国東成郡

毛馬村(大阪市豊島区毛馬町)に生まれ(父母のことについては

不詳)、二十才の頃江戸に出て夜半亭宋阿(早野 巴人)に入門し

関俳譜を学んだが、師の没後、茨城下館、結城、奥羽一円を絵画、

俳譜の修業遍歴をした。三十六才で上京し、三十九才から三年間

を丹後で過ごし、絵画の習練に励み、得るところ多く、帰京後、

その地に因んで姓を「与謝」と改めた。

 五十一才の時、讃岐に渡り琴平、丸亀に滞在し一層画技を磨き、

その後は大作を盛んに画き、京都画壇にその地位を得た。

 また無村は芭蕉没後の平俗化した俳壇に新風を吹き込み、一般

に 「俳諧の中興者」と言われている。六十八才、京都で没した。

 絵画の代表作には「十宜之図(じゅうぎのず)」 (国宝)、「奥の細道
図巻」(重文)、 「夜
色楼台図」(国宝)、その他数多くある。

 
 夜色楼台図(やしょくろうだいず)国宝
 
 十宜図(じゅうぎ)のうち宜秋図 国宝




































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