第52代 嵯峨天皇(さが)地図

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(かん)()天皇(第二皇子) 
藤原乙牟漏(おとむろ)(藤原良継の娘) 
誕生 …786年(延暦5年)9.
御名・異称 神野(カミノ)
皇后 (たちばなの)()()()(壇林皇后)立太子 806年(大同元年)
即位 …809年(大同4年)
在位年数 …15年
崩御 …842年((じょ)(うわ)9年)(年齢57才)
皇居 平安宮 
年号…大同(だいどう)(こう)(にん)
父桓武天皇が政治家であったのに対し、文人天皇と称される。
810年(弘仁元年)初めて蔵人所を置き、のち検非違使を設けた。又、初めて斉院も置いた。政治面でも業績を残している。
在位中、勅撰詩集「(りょう)雲集(うんしゅう)」や「文華秀麗集(しゅうれいしゅう)」を編み、退位後「(かい)図集(ずしゅう)」を編んだ。この中に自詩40編も含んでいる。
空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで三筆と称され、漢詩に長じた。歴代天皇中最も文人といわれた。
晩年、嵯峨院(大覚寺)に住み、842年(承和9年)7月15日崩御した。
  
東寺について   鷹狩 六道珍皇寺  最後の遣唐使 
平城天皇   小野篁と珍皇寺  嵐山   
陵墓名 (さが)(がの)山上(やまのえの)(みささぎ)   円墳所在地 京都市右京区北嵯峨朝原山町 
 
「続日本後記」に御陵造営の厳しい詔が残されている。その内容は厚葬をいましめるものであり、薄葬にすることに徹しきっている。
崩御の翌日、詔の通り、山北幽僻の地を選び、山稜を定め、即日葬られた。
「大覚寺伽藍古図」によると、西北の御廟山の上に巨岩を描き、嵯峨天皇の御陵岩といわれているものがある。天皇崩御に際して三関を固守している。
延喜式諸陵寮式に嵯峨天皇陵のことがないのは、厳しい薄葬の詔による。
現在の陵は北嵯峨の山頂にあり、山麓より約800mの絶景の地に位置する。
兆域は約3500uで、周囲約200mであり、ウバメガシの生け垣を囲い、この中心部に陵がある数個の巨岩が見られる。
天皇の山荘であった棲霞寺(館)に供養塔がある。
墳丘は遺詔のとおり存在しない。「文徳天皇実録」に「嵯峨上山陵」とあるところからこの陵号がついた。
壇林皇后陵はここより西1500mの山中にある。なお壇林寺にも御廟がある.