将軍塚地図
七九四年、桓武天皇が平安京造営に際し、 王城鎮護のため、高さ八尺(約二・五メー トル)の像に甲冑を着せ、弓矢と太刀を持 たせ、京都御所の方を向けて埋めるよう に命じた塚であると伝えられている。 平安末期以後、天下に異変があるとき は必ずこの塚が鳴動して前兆を表すとい う伝説が生まれ、『源平盛衰記』によると、 源頼朝挙兵の前年、治承三年(一一七九) 七月には、三度にわたってこの塚が鳴動し、 次いで間もなく大地震が起こったといわ れる。 『鳥獣戯画』で有名な鳥羽僧正筆の 『将軍塚縁起絵巻』に、この像を埋める図が 残されている。 なお、青龍殿に安置する本尊大日如来 像は付近の山中から発見された花頂院の 遺仏と伝えられる。境内には、日露戦争で 活躍した東郷元師や黒木大将の手植の松 があり、桜と紅葉の名所として美しく整 備されている。 |
東山に将軍塚というところがある。それは東山三十六峰のひとつ、華頂山(かちょうざん)の頂上にあって、 これを将軍塚とよぶ。ここにたつと、京都の南半分が一望のもとになる。とくに夜景がすばらしい。 たてよこ十文字の、整然たる京都市街の電灯の光の筋がきれいにみえて、すばらしい展望である。 この将軍塚の将軍とはだれのことか。はなしはたちまち平安時代初期までさかのぼる。 この塚はあの坂上田村麻呂将軍の墓だといわれている。田村麻呂は征夷大将軍の元祖だ。 辺境平定の将軍となり、京都から派遣されて、東北に遠征する。その田村麻呂が、 みずから王城の鎮護たらんと遺言してここにほうむられたという。将軍塚の名にゆえんである。 京都の精神 梅棹忠夫 より |