第50代 桓武天皇(かんむ) 地図

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(こう)(にん)天皇(第一皇子)
高野(たかのの)新笠(にいがさ)(和史乙継の娘)
誕生 …737年(天平9年)
御名・異称 山部(やまのべ)日本(やまと)根子(ねこ)皇統(あまつひつぎ)(いや)(てらす)・延暦帝・柏原帝
皇后 藤原乙牟漏(おとむろ)
夫人 藤原旅子(たびこ)(贈皇太后)、坂上(さかのうえの)又子(またこ)藤原吉子(きつし)
立太子 773年((ほう)()4年)1.
即位 …781年((てん)(おう)元年)4.3  在位年数…26年
崩御 …806年(延暦(えんりゃく)25年)3.17(年齢70才)
皇居 平城宮、長岡宮、平安宮
年号 天応、延暦

即位した時、弟の早良親王が皇太子になった。早良(さわら)親王は出家していたが還俗して親王になった。

70年余り続いた平城の地を捨てて、長岡の地に新都建設を考え、藤原種継に命じ、長岡宮へ遷都した。

早良親王は藤原種継暗殺事件に連座したかどで廃され、乙訓寺へ幽閉、淡路島へ送られる途中死去した。この事件は大伴・藤原氏の権力抗争で早良親王はこれに巻き込まれ利用された。

789年(延暦8年)に生母新笠、翌年に皇后乙牟漏が亡くなり、疫病もはやり、これが早良親王のたたりと思われ、800年(延暦19年)崇道天皇の追号が贈られた。

大隅国に流されていた和気清麻呂は召喚され、桓武天皇の信任をあつくしていた。長岡京での凶事から逃れるため遷都を進言し、藤原小黒麻呂が適地を探し、京都の地に新都を建設し遷都した。即ち平安京である。

 平安京造営は奈良時代以来の弊政を根本的に改める一大目的もあった。

 平安京造営の他蝦夷征討を一方の事業に挙げ、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。                                          

陵墓名 (かしわ)(ばらの)(みささぎ)   円墳
所在地 京都市伏見区桃山町永井久太郎

延喜(えんぎ)諸陵式(しょのみささぎしき)」に御陵は「東八町、西三町、南五町、北六町、丑寅の角二岑一谷を加う、守戸(しゅご)五烟」とあり、広大な兆域であった。

後に所在が失われ、1697年(元禄10年)に江戸幕府が探索したが判明せず、1865年〜68年(慶応年間)、谷森種穿の著した「柏原山陵考」によって現在地が定められた。御陵が不明となったのに、豊臣秀吉の桃山城築城にあたり、1558年〜70年(永禄年間)に知らずに破壊したことも一理由にあげられる。

 桓武天皇の生母(高野(たかのの)新笠(にいがさ)の祖先は、仏教伝来で有名な百済の聖明王と同族にあたる。光仁天皇の第一皇子ながら生母の出自が渡来系氏族であったため、聖武天皇の娘で皇后井上内親王の生んだ他戸(おさべ)親王が皇太子となった。しかしながら井上内親王と他戸親王母子は謀反の罪で廃され、のちに御條で非業の死をとげる。そこで山部親王が皇太子となり、即位後は同母弟の早良親王を皇太子とした。その背景には藤原式家(しきけ)の画策があったといわれている。
 即位後は、皇系が天武系から天智系に変わったことや奈良の仏教勢力を排除することなどを理由に、平城京を離れて新しい都つくりに力を注ぐ。さらに国司交代時の不正を監督し、生活に苦しむ農民の負担を減らすなどの政治改革にも取り組んだ。また、軍事面では坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷(えみし)の征服をすすめている。文化面でも「続日本紀」の編纂を命じ、最澄と空海に活躍の場を与えた。
 晩年には、蝦夷と征討と平安京の造作が民衆を苦しめているとの建言を容れて、両方を中止した。
奈良の歴史散歩 奈良県高等学校教科等研究会歴史部会 より 
 早良親王は井上親王、他戸親王とともに怨霊となり人々を恐れさせた。平安時代の始まりは怨霊の時代の幕開けでもあった。
御霊神社⇒⇒⇒
円照寺⇒⇒⇒
 奈良時代の仏教は、国家の宗教として手厚い保護を受けたが、次第に政治に対して容喙(ようかい・横から口を出す)を始め、道鏡事件のような宮中を揺るがす陰謀事件を招いた。その反省から桓武天皇は奈良仏教勢力を抑え、政治の舞台から排除する方針を打ち出し、遷都に際して南都六宗の七大寺の移転を
みとめなかった。
 とはいえ、桓武天皇も仏教の重要性を認識していたから、一方で仏教界における革新勢力である密教を後押しした。こうした土壌から生まれた平安仏教
の担い手となったのが天台宗の開祖最澄と、真言宗の開祖空海(弘法大師)である。
 
   
 1990年5月24日宮中の晩さん会で陛下は盧大統領に
「韓国と相当なゆかりがあるようにかんじます」と語り、雅楽の鑑賞に誘った。
 会場に移動する途中には、「私どもの家系を見ると、母方に韓国系の人物がいるようです」
と語ったという。
 陛下は2001年、翌年のサッカーW杯共催を控えた韓国について、
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、
韓国とのゆかりを感じています」と語った。