①稲作の地を求め45歳の決意 神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと) そのいろ兄五瀬命(えいつせのみこと) と二柱、高千穂宮に坐(いま)して議(はか)リ云(の)りたはく。 古事記はいよいよ天皇の御代を描く中巻(なかまき)をそう書き始める。後に初代神武天皇 「何れの地に坐さば、天まつの下の政りごとを平らけく聞こし看(め)さむ。なほ東に行かむと 思ふ」 天下の政治を無事に執り行うためには、もっと東に行く必要があると思うという言葉は、決意 「古代では、末子が親の跡を取るということが普通だったようです。親の愛情や教えを最も受 イハレピコを「神武さま」として祭る宮崎神宮(宮崎市)の黒岩昭彦権宮司はそう話す。 宮崎神宮の元宮は、北西に約1キロ離れた皇宮神社(地図)ここが、兄弟が相談した高千穂 「古事記が描く約3千年前、このあたりは海辺だったことがわかっています。東征を思いつき、 黒岩氏はそう話す。イハレピコには海からの誘いもあったことを書いているのは日本書紀で、 <塩土老翁(しおつちのをぢ)に聞きき。日ししく、『東に美地(うましつち)有り。青山四周(よも 海の神の使いの神から、東に青々とした山に囲まれた美しい国があると聞いたと言うイハレ 「王の資格として、さまざまなアイデアや示唆をくれる存在が身近にいることが挙げられます。 天照大御神の大業を広めるには天孫降臨の地の日向や九州は適地ではなく、新たな土地を 自分の神聖な田の稲穂を授けようと嘗って、地上界に稲作を普及させることを命じたのであ 「しかし、九州は霧島,阿蘇、桜島と火山密集地でイハレピコが生まれたとされる狭野(現宮崎 イハレピコが東征を決意したのは45歳の時だった。
こうぐう 皇宮神社(地図) 西に天孫降臨の地とされる高千穂峰を望み、眼下には大淀川が流れる高台
に鎮座する。ご祭神は神日本磐余彦天皇(イハレピコ)。相殿神としてイハレピコ 現在は皇宮神社を摂社とする宮崎神宮は、ご祭神は同じくイハレピコだがˊ相 〈日向より発(た)たして、筑紫に幸行(い)でます。 (中略)竺紫(つくし)の岡田宮に一年坐(い 古事記は、神倭伊波礼毘古命の東征の全体像をそう記す。高千穂宮(宮崎市)があった日向 船を整え、日向灘を北上したとされる。 耳川流域には、イハレビコの出発にちなむ地名が数多く残る。 神立山から切り出される船材 船出の瀬戸」。軍船はその後、美,津に戻ることはなかったので、地元の漁船は験(げん)をかつ いでそこを通らない。 こうした伝承の多くは、国学者の伊藤常足が著した九州地誌『太宰管内志』(1841年)など江戸 イハレビコの記憶は近代・現代にも引き継がれ、美々津の伝承を調査した元宮崎県立図書館 〈天皇のらす大御船 後に前につらなりて 百船千船すすみつつ〉 昭和15年には、紀元2600年祭で舟形埴輪をモデルにした木造帆船「おきよ丸」(全長21m)が 〈東烈風吹き募り、狂乱怒涛、おきよ丸は木の葉のごとく・・・〉 「神武東征は難行だったからこそ、多くの伝承を生んだことをうかがわせる。 古事記は、荒海に乗り出したイハレビコを現在の大分県宇佐市を拠点とした豪族が歓待した 吉備を出た後には、難所の速吸門はやすひのと・明石海峡)の水先案内をする住民と出会った ことを記す。 東征には次々と協力者が現れた。 「東征が、稲作を普及させるためのものだったことが大きいと思う。どの国の歴史でも食を制 イハレビコを祭る宮崎神宮(宮崎市)の黒岩昭彦権宮司はそう話す。東征は、瀬戸内航路を開 「美々津間辺からは畿内の弥生式土器が多数出土する。このころ畿内と九州の「海上往来が みみつ 美々津港(地図) 江戸時代から残る町並みは国指定重要伝統的建造物群保存地区。全長 100キロにわたって森林資源が豊富な耳川の河口にあることから、木材、木 明治維新後の廃藩置県では美々津県が置かれた。昭和17年、神武東征 を記念した「日本海軍発祥之地記念碑」が設置された。終戦後、GHQが碑文 ③国造りの旅 長兄失い悲嘆
く浪速の渡(わたり)を経て、青雲(あをくも)の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまふ。此の 〈御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。故其地(かれそこ)に号(なず)けて楯津と謂 ナガスネビコが戦いを挑んだ理由は、日本書紀がナガスネビコの言葉としてこう書いている。 「夫(そ)れ天神の子等の来ます所以(ゆゑ)は、必ず我が国を奪むとならむ」 日本書紀が記録する戦場は孔舎衛坂(くさゑのさか・東大阪市)現在は聖蹟伝承地として石碑 「当時は海に面していた河内の沿岸は、池上·曽根遺跡のような弥生遺跡が出土している。古 関西大の若井敏明常勤講師は、ナガスネビコが率いる軍団の組織力をそう推測する。この戦 「吾は日の神の御子と為(し)て、日に向かひて戦ふこと良くあらず。 故賎(かれいや)しき奴 太陽神·天照大御神の子孫なのに、東に向かって矢戦をしたことがよくなかったとして、イハレビ 「今よりは行き廻(めぐ)りて、背に日を負ひて撃たむ」 瀬戸内海を南下して紀伊半島の東に出る船旅が始まった。その途中で五瀬命は海で傷口を 〈血沼の海に到り、其の御手の血を洗ひたまふ。 故血沼の海と謂ふ> 古事記はこの件(くだり)で盛んに地名由来を書く。土地や人への命名は王の特権とされる。 〈男建(をたけび)して崩(かむあが)りましぬ。 故其の水門(みなと)に号けて男水門(をのみな)と謂ふ。 陵(みはか)は紀国の竈山(かまや 古事記が書く五瀬命の最期だ。「崩り」も「陵」も本来は、天皇にだけ使われる言葉である。 「一行は100回上陸しようとして、100回退けられたという口伝がこの地には残っています」と吉 「3家は、イハレビピコが神武天皇として橿原宮で天下をお治めになられた後、五瀬命さまの 字を取ったとも言われています」 古事記の記述も伝承も、国造りの旅で信頼する長兄を失った初代天皇の悲嘆を今に伝えてい かまやま 竈山神社(地図) 本殿にはイハレビコ(神武天皇)の長兄、五瀬命を祭る。左脇殿には イハレビコら兄弟、右脇殿には東征の随行者を祭る。 延喜式の神名帳にも残る式内社で、皇室御崇敬の大社として天正 本殿裏には宮内庁が五瀬命の墓とする円墳がある。五瀬命の命日 ④国譲り成功の霊力を授与 <神倭伊波礼毘古命儵忽(たちま)ちにをえ為(し)たまひ、また御軍(みいくさ)もみなをえて伏し 古事記は、長兄、五瀬命の遺言に従って紀伊半島沿いに南下し、熊野から上陸したイハレビ く一横刀(たち)を膏(も)ち、天つ神の御子の伏せる地に到りて献る時に、天つ神の御子、寤 高倉下が献上した横刀(たち)は強力で、目覚めたイハレビコが手にしただけで熊野の山の荒 なのでしょう。これを克服して甦り、熊野の神のお墨付きを得たことで横刀が授けられたのだと 思います」 「高倉下を祭る神倉神社を摂社に持つ熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の上野願宮司はそう 高倉下はイハレビコに横刀を手にした経緯を語る。高天原の最高神でイハレビコの先祖であ う内容である。 「僕(やつかれ)、降らずとも、もはら其の国を平(ことむ)けし横刀有り。 是の刀を降すベし」 そう答えたタケミカヅチは、高倉下の倉に横刀を落とし入れ、イハレビコに献上するよう命じた。 横刀は、タケミカヅチが高天原から降って大国主命に国譲りを迫った際、浜辺に突き刺したも 「タケミカヅチの横刀は国譲りで使われた特別なものタケミカヅチのパーワーそのものが付与 淑徳大の森田喜久男教授はそう話す。 国譲りを成功させた霊力が、畿内に入ったイハレビコ 「今天(あめ)より八咫烏を遣はさむ。故其(かれそ)の八咫鳥引道(みちび)きてむ(道案内す 熊野上陸後の記述の特徴は、イハレビコを「天つ神の御子」と書くことだ。 吉野では、天つ神 「今、天つ神の御子幸行(い)でますと聞く。故、参向(まいむ)かへつるのみ(お迎えに参りした)」 イハレビコへの帰順は、白肩津(現大阪府東大阪市)で矢戦を仕掛けた登美能那賀須泥毘古の 〈畝火うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめしき> 神倉神社(地図) 熊野三山の一つ、熊野速玉大社の摂社。伝承によると、 熊野の神々はま ず、神倉神社のゴトビキ岩に降り立ち、後に平地に造営された大社に遷(う 神倉神社のある神倉山では弥生時代中期の銅鐸の破片などが発掘され、 される。約1800年の伝統を誇る勇壮な御燈祭りは、国の重要無形民俗文化
2019-5-25 産経新聞 ⑤祭祀王たるべく皇后求める
東征を終えて天皇(すめらみこと・初代神武天皇)に即位した神倭伊波礼毘古命は、日向にも <大久米命白おおくめのみことまを)さく、「此間(ここ)に媛女(をとめ)有り。 是れ神の御子と謂 臣下のオオクメが勧めたのは伊須気余理比売。美和(三輪,現奈良県桜井市)大物主神が、三嶋 大物主神は、セヤダタラヒメが用を足している時、丹塗矢(にぬりや・赤く塗った矢)に変身して 立派な若い男に変身した。2人は結ばれ、イスケヨリヒメが生まれた。 「故是(かれここ)を以(も)ち神の御子と謂ふ(そういう経緯だからヒメは神の子なのです)」 「湟咋のミゾとは水田の溝、クヒは杭で水田の溝の棒杭を指し、『三嶋の湟昨』という名には、 論文「伊須気余理比売の誕生」を書いた国学院大の山崎かおり講師はそう話す。一方で古代 「丹塗矢が豊かな水田の神の娘のもとへ通うという伝承は、雷神が田を訪れ、稲の成長を促進 実際の三嶋地方について茨木市歴史文化財課の清水邦彦氏は「古くから水田を営む集落が らは、弥生時代の完全な形を保った銅鐸鋳型や銅鐸を描いた絵画土器が出土している。 銅鐸 〈日向に坐しし時に(中略)生みたまへる子(中略) 二柱坐す。然(しか)あれども更に、大后と為 古事記はこんな文章で、天皇には皇后になる女性が必要だったと強調する。その理由を山崎 「日向出身の天皇が倭(大和)で即位して天下を治める以上、倭を代表する神である大物主神 イスケヨリヒメの父は大和を代表し、日本書紀では大国主命と同一神とされる大物主神。母は 「畿内の広範囲の地域を背景とし、天皇の大后としてふさわしいといえるでしょう」と山崎氏は |
1995、96年の調査で、古墳の直径は約25mと判明。玄室の床面には石が敷かれ、須恵器 や金銅製の耳飾りなどが出土した。羨道に置かれている石棺は追葬と考えられている。 追葬の 際、「羨道の側壁に当たらないよう石棺の側面にあるはずの突起が削られている。 JR·近鉄の吉野口駅から徒歩約5分。 近くに駐車場はない。石室の入り口の鍵は御所市教育委 御所市から高取町にかけて
北約5kmの範囲に広がる巨谷は、5世紀後半~7世紀ばに200基 今回、御所市教育委員会文財課の金沢雄太さん(32)とれた水泥南古墳(みどろ・国史跡)巨勢 水泥南古墳の横穴式岩室に入ってみた。奥の玄室と羨道
通路)に、2基の家形石棺
置かれて 「これを見てください」と金沢さんが羨道にある石棺の蓋石を指さしながら、言った。蓋石につい 蓮華文は飛鳥時代にお寺の軒丸瓦などに使われたモチーフだ。 6世紀中、ごろに日本に伝わ 「反対側の蓋石のはうが蓮華文がきれいに残っていますよ」と金沢さん。 ただ、そこにたどり着 続いては記者の番。体形は金沢さんとそんなに変わらない。見よう見まねで、体を石棺の脇に 「重心を上に移動してみて」。金沢さんの助言で体を持ち上げてみる。石棺や石室側壁に少し触 羨道の石棺の突起を見ると、たしかにこちらのほうが蓮華文がはっきりと残っている。ただ、石 石室の外に出て、記事用の写真を撮影していると、男性
に「取材ですか」と声をかけられた。
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とうだいじてんがいもん (国宝/世界遺産)東大寺転害門と奈良市きたまち転害門観光案内所
門の名称:転害門、西北大門、佐保路門、手掻門、碾磑門、景清門、大門等の多くの呼称があ
る。 創建時期:756年~762年(詳細な時期は定かではない)。 規模:南北幅約17m、東西幅約8m、高さ約11m。 建築様式:三間一戸八脚門、切妻樣式、本瓦屋根、三棟造、基壇化粧,礎石は花崗岩製。 立地:平城京跡の一条南大路(佐保路)と東七坊大路との交差点に面する。 改修履歷:1194年~1195年源賴朝の東大寺参拝の際、大規模に改修(天平建築の趣きを残す)。 1931年~1932年解体修理の際、老朽化した柱3本を交換。 関連行事:2月11日 竹送り/二月堂修二会用の竹を運ぶ人の行列が休憩をとる。 10月5日 手向山八幡宮の祭(転害会) /しめ縄を4年に1回新調。 転害門付近での主な争い: 1567年松永久秀と三好三人衆との戦い松永勢が転害門に布陣。 転害門に関する興味深い痕跡: ①柱に残る矢じりと弾丸の傷跡(1567年の戦い) ②基壇の南西面にある赤茶色の化粧石(焼失した近くの寺院の石を再利用した ③節が目立つ南西陽隅の柱(長年風雨にさらされた傷んだ痕跡) ④石段上の不自然な窪み(鎌倉時代以降、人為的に施された痕跡と推察)、 盃状 ⑤扉が無い門(明治時代初期の廃仏殿釈の際、 東大寺境内へ自由に出入り出来 奈良市きたまち転害門観光案内所 昭和 15年(1940年) 12月に南都銀行 手貝支店として建設された建物が前身で、内部は吹き抜 開所時間は、毎週木曜日と年末年始を除く 10時~16時。案内所は「転害門前旧銀行建物活用 (転害門前旧銀行建物活用協議会) |
開発の脅威と古墳に対する親しみの両面があるー。市街地に密集する49の古墳で構成され 「大山古墳(伝仁徳天皇」陵)」や「誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)」など国内最大級の前方後 住宅が張り付くようにある立地から、開発から守られると判断されるかが焦点の一つだったが、 小林万里子·文化資源活用課長は「傑出した古墳時代の埋葬の伝統と社会的政治的構造を示 6月3日からの世界遺産委員会で正式に決まれば、「自然遺産を含め国内23件目の登録とな 「都会の住宅密集地のまっただ中に、島のように浮かぶ巨大古墳の群れ。その過半数は宮内 「古墳のすぐそばに人が住み、それが地域住民に古墳への親しみ、尊敬の念を与えている、と 14日未明に開かれた文化庁の記者会見。担当調査官の一人は、勧告内容を紹介しながらそ ユネスコは遺産の保護に、地域コミュニティーの役割を重視する。イコモスは古墳群の環境に を与えそうだ。 都市計画が専門で世界遺「産に詳しい神戸芸術工科大の西村幸夫教授は「市街地と、どう共 うことだろうか」とみる。 古墳群の特徴の一つが、構成資産に文化財としての国史跡がある一方で、陵墓や陵墓参考 古墳群の世界遺産に向けて課題を検討する有識者会議の座長を務めた石森秀三・北海道博 有識者会議の委員の一個人、白石太一郎·大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は「古 解説 大王たちの「古墳群」が世界遺産に向けて前進した。「百舌鳥・古市古墳群」は天皇家の陵墓 都市部ゆえの景観保護の難しさ、あるいは大小·多様な古墳が混在するため一部に除外を求 世界遺産登録が現実味を帯び、世論の関心が高まるのは間違いない。昨年は文化財保護法 見解との矛盾をどう解決するか、など真摯な議論が求められよう。勧告は、多様化する文化遺 ホー先生 大阪の百舌鳥·古市古墳群が世界遺産になるのか? A ユネスコの諮間機関が世界文化遺産に登録すべきだと勧告したよ。正式には7月ごろの国 ホ たくさんあるのう。 A 古墳時代には、リーダーの大王(後の天皇)や豪族が亡くなると、土を積み上げて大きなお墓 ホ 「仁徳天皇陵」はずいぶん大きいのう。 A 全長486m。お濠も含めると甲子園球場が12個入るほどだよ。 クフ王のピラミッドや秦の始 ホ どうしてわざわざそんなものを造ったのじゃ。 A 支配者たちが競うよろに大きなお墓を造って力を誇っていたと考えられているんだ。 大山古 ホ 中を見たいのう! A 宮内庁が今の天皇家の祖先のお墓として厳しく守っていて、入れないんだ。 学者の発掘調
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鳥獣戯画・ちょうじゅうぎが
ホー先生 大阪の中之島香雪美術館で2日から「鳥獣鼓画」が公開されるそうだな。 どんなもの A 京都の高山寺に伝わる国宝の絵巻だ。 正式には「鳥獣人物戯画」というよ。甲乙丙丁の4巻 ホ 何が描かれているのかな。 A それぞれちがうんだ。ウサギやカエルが人間のような姿で登場する甲巻が、一番有名だよ。 ホ いつごろの絵じゃ? A 甲、乙巻は平安時代の12世紀ごろ、丙、丁巻は鎌倉時代の13世紀ごろ描れたとされてい ホ なぞが多いな。 A そうだね。ただ、2009年から4年かけて朝日新聞文化財団の助成で大規模な修理をして ホ ホホウ! A たとえば、丙巻はもともと前半と後半が巻物の裏表に描かれていたことがわかった。どこか ホ どうしてわかった? A 修理で裏打ち紙をはずすから、くわしく調べられる。使われている紙の質やはけの跡から、 同巻で違う作者? 鳥獣戯画は12~13世紀にできたとされる。作者や高山寺に伝わった経緯、制作の目的ははっ 甲巻の前半と後半は、ウサギの体形の違いなどら、別の作者によるものという説が以前からあ たとえば前半に出てくるウサギは、 頭が大きく子どものような愛らしい体形だが、後半では頭が そんななか、2009年から朝日新聞文化財団の助成で4年がかりの解体修理が行われ、新たな |
発掘調査で判明した飛鳥地域の歴史と文化を紹介する明日香村の奈良文化財研究所飛鳥資 いずれも、 1900年代に飛鳥寺の北西にある田んばから出土し、一帯が石神遺跡と呼ばれる 「石の中に穴が開いていて、噴水のように水が出る仕掛けになっているんですよ」と飛鳥資料館 なぜ、噴水型の石造物が造られたのか。飛鳥資料館を出て、石神遺跡に向かった。地元の人 日本書紀の記述から、斉明天皇(在位655~661)の時代、石神遺跡の辺りに外国の来訪者や 奈良文化財研究所の発掘調査でも、饗宴施設に関わるとみられる長大な建物で囲われた区 「建物跡の発表時は『飛鳥の迎賓館か』と話題になりました」と西田さん。饗宴の場に、須弥山 石神遺跡は飛鳥時代に何度も姿を変え、天武天皇(在位673~686) のころは饗宴施設ではな 発掘調査で役所のような建物跡や木簡などが見つかった。 石神遺跡のすぐ南には、漏刻(水時計)の遺構で有名な水落遺跡がある。日本書紀には660年 「水の量で時間を計る水時計にとって傾きは大敵。そのため建物の基礎から強固な造りが必 再び飛鳥資料館に戻ると、「須弥山石と石人像の前で、多くの来館者が高さを実感するように |
山の辺の道を歩き、天理市に入ると、西側の丘陵には様々な古墳が広がる。 杣之内古墳(そ 放されたと聞き、天理市教育委員会文化財課の石田大輔さん(37)と一緒に訪れることにした。 市が古墳の近くに新設した無料の観光駐車場で石田さんと待ち合わせた。2~3分ほど歩くと、 再整備と書いたのは理由がある。石田さんによると、周濠を含む墳丘の周りは民有地で、市が 市は公有地化することを決め、所有者と交渉し、昨年度に用地買収が完了した。「一般開放が 所有者の了承を得て、史跡指定をめざした発掘調査も同時に進めてきた。 出土した円筒埴輪 石田さんと墳丘の上をめざした。 登りやすいように散策路も整備されている。後円部の木々の 「前方部には、 古墳には珍しく、石碑が建てられていた。 1932(昭和7)年に昭和天皇を迎えて奈良と大阪で実施された陸軍特別大演習を記念したものと 5世紀末の100m超の前方後円墳となれば、被葬者はどんな人物が考えられるだろうか。 石田 「近くに拠点があった豪族、物部氏の首長の墓と考える研究者が多いですね」と話した。 200m東には、東乗鞍古墳がある。過去に横穴式石室の中に入り、石棺を間近で見たことがあ 天理市は東乗鞍古墳の保存と史跡指定をめざし、天理大と共同で発掘調査を実施している。 西乗鞍古墳 前方部を南に向けた前方後。全長約118m。後円部の直径は約616m、 JR長柄駅から徒歩約30分。JR·近鉄天理駅から徒歩約45分。近くに無料駐車場あり。 |
赤坂天王山(1号)古墳 地図
蘇我氏に暗殺された崇唆天皇(在位587~592年)の墓とされる桜井市倉橋の赤天王山古墳は、 今回の案内人の桜井市教育委員会文化財課の丹羽恵二さん(41)も大学生のとき、友人と一 丹羽さんは、桜井市の採用面接で、ほかの応募者が纏向遺跡の話をする中、赤坂天王山古 現地に着くと、東西約40~50m、南北約47mの方墳の大きさや形を実感できる。早速、石室
入り口は大人がギリギリ入れるぐらいの狭さで、奥に向か
下がっているため、後ろ
でゆっくり
進んだ。羨道 路)の天井に頭をぶつけながら、何とか石棺が置かれた玄室に着いた。 目が慣れてくると、4m以上ある天井の高さと、積み上げられた巨石に驚いた。間違いなく、 桜井市は昨年、赤坂天王山古墳の測量調査の報告書を刊行した。 周辺の調査によって、15 古墳群の中では、 赤坂天王山古墳は赤坂天王山1号墳と呼ばれている。 近くの赤坂天王山3号 測量調査で、 赤坂天王山古墳を造るために、周囲の二つの古墳の一部を削ったとみられるこ 次に宮内庁が定める崇酸天皇陵に向かった。「この近くにおもしろい場所があるんです」と丹羽 「あそこを見てください」と丹羽さんが指した先を見ると、林の一角に小さな墓が立っていた。幕 スポットという。墓に手を合わせて、丹羽さんと次の目的|地に向かった。 の墓と考えられていた。石室や石棺の形状から築造時期は6世紀末~ 桜井市教委の測量調査は2000年から38年にかけて実施。墳丘の |
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赤坂天王山古墳 |
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赤坂天王山古墳:《国史跡》三段築成方墳 6世紀末~7世紀初 両袖型横六式石室 墳丘:南北42.2m、東西 45.5m、高さ 9.1m、 墳頂部は一辺約12mの平坦面。 三段築成でやや高い段の上に、ほぼ等しい第二第三段を重ね、各段築傾斜面保護の葺石施工。 石 室:全長17m、義道:長さ12.0m、幅 1.9m、高さ 1.4m 玄門石以外は 1m 前後の小石 棺蓋の前後左右には計六個の縄掛突起が水平に取り付いている。 巨大な花闘岩の自然石を使用した巨石古墳。 玄室は、墳丘のほぼ中央に位置し、羨道は南斜面に開口。基本的には三段に積み上げ、その間隙には、 小石を併用して巧みに上部を持ち送り、床面には、石が敷かれている。 玄室との境に巨石を立て、あとはやや小さめの石を二段に積み、五個の天井石を、架している。 この天井石は、羨門に近づくにつれ、次第に上がり気味に架けられている。 石室の入口は、閉塞石がまとまって残っており非常に狭い。玄室の基底面が深い所に位置する点に注目。 江戸時代には、赤坂稜とも呼ばれ、「崇峻天皇の倉梯岡上陵」に擬定されたこともある。 |
平安時代後期に白河上皇の熊野御幸(ごこう)の先達を務めた功績で創建されて以来、修験の 本山となってきた聖護院(京都市左京区)。明治維新までは、皇室と概関家から歴代の門主が入 った宮門跡寺院でもある。 寺地は応仁の乱や大火で転々としたが、1676年に現在の地に再建された。 正殿である宸殿 仁和寺など今回公開される寺の多くが、かつて皇子や皇族,貴族の子が入った門跡寺院、尼 実際、江戸時代の寛水年間(1624~4)には、後水尾上皇と、中宮で徳川秀忠の娘の東福門院 |
平安京ができる前から存在したとされる上賀茂神社(京都市北区)と下鴨神社(京都市左京区)。 上賀茂神社には、大正・昭和天皇が即位した際、大嘗祭に供える白酒(しろき)黒酒を造った 井上さんはこう語る。「国家の安泰と国民の安寧を祈ることは天皇、皇族の使命として連綿と続 |
長楽寺 地図
祇園の円山公園に隣接する長楽寺(京都市東山)は、寺伝によれば、平安時代に桓武天皇の |
皇室ゆかりと言えば、「御寺(みてら)」と呼ばれ、皇室の蓄提寺である泉涌寺(京都市東山区)。 平安時代以降、天皇や皇族が私的な病気の治癒や追善とあわせて、国家や社会の繁栄と安 今回公開される仁和寺や安祥寺、勧修寺(かじゅう)なども御願寺だ。 |
アマテラスが死んだことは、日本書紀の本文をみてもはっきりしている。
スサノオが天の斑駒(ぶちこま・毛に斑点のある馬。「天の」は例によって天上界に区別したもの これによってアマテラスは天の石窟に入り、磐戸を閉ざして「幽居」(原文)した。梭で身を傷つけ たという 「身」が身体のどの部分であるかは、『古事記』が「天の服織女(はたおりひめ)は見驚き 記では服織女になっているが、紀の一書(異伝)ではそれがワカヒメ(稚日女尊)となっている。ワ ここはやはり書紀の本文のアマテラスが、記の文章のように ホトを梭で突いて死んだ、というの 「身を傷つける」とはあいてがア
マテラスのことだから紀がその「部分」をあらわに書くのを遠慮し たのであり、『古事記』もまた遠慮してアマテラスを服織女の名にスリかえたのである。両方が 遠 ホトを突いて死んだ女の例は崇神紀に出ているヤマトトトビモモソ姫命のことがある。彼女は三 ――当時、夫が妻のもとに通う通い婚の風習がこの話にはいっている。競志東夷伝高句麗のと トトビ姫は夫に、顔を見せてくれという。夫は、それならじぶんは明朝になっておまえの櫛笥(くし その墓は大市 (いまの奈良県桜井市)にある。ときの人はその墓を「箸墓」と呼んだ。この墓は、 性器を形どった石室 その器官の損壊は生殖霊力の消失であり、女性としての生命の終わりを意味すると考えられ イザナミやアマテラスが、横穴式石室古墳をモデルにした「黄泉国」や「石屋戸」(紀では「石窟」 横穴式石室墳墓基が、入口からの細長い羨道 (通路)と、奥の矩形の玄室 (被葬者の安置室) 神仙思想は、できるだけ長生きしたい希望から、老いもせず、死にもしない願望に発展する。 すると、それは、もういちど母胎に入るという考えになるのはしぜんである。が、これをあらわす 中国の文献はみあたらない。しかし、日本ではそれがアマテラスの石屋戸隠りの話となっている。 横穴式石室墳の構造は、女性性器の膣腔(羨道) と子宮(玄室)に模してプランされてつくられた 縄文時代に多くおこなわれた土偶はすべて女性の人形である。この土偶はことさらに乳部や腰 女性性器を表現した土偶があるなら、男性のほうにもそれがなければならない。おなじ縄文時 このように縄文時代からつづく性器、とくに女陰にたいする霊力が、『古事記』の話にうけつがれ ているのは、なんのふしぎもない。いったん死んだアマテラスが天石屋戸 (墓) から再生復活 する アマテラスの隠った石屋戸の前で、アメノウズメ命は、伏せ槽(おけ)を踏みとどろかして、胸乳 この伏せ槽は、上に乗って足で踏み鳴らすことの行為じたいが、男女の交接行為をあらわす。 |
イザナギがヨモツ(黄泉の) 平坂(横穴式石室古墳の羨道)を追ってくる ヨモッツ醜女(しこめ)(死 霊)を一時でもしりぞけたのは、櫛の歯であり、そこから生じた筍であり、あるいは葛を投げて生 じた葡萄であり、または桃の実であった。 櫛は「奇」に音が通じて霊力をあらわしたのである。クシが朝鮮語のクイシン(鬼神)からきている。 葡萄はもちろんイラン産の果物である。中国にはシルクロードなどの交易路を通じて、胡椒・·胡 さて、以上はイザナミのいる黄泉の国が横穴式石室古墳であることをいったが、アマテラスの アマテラスはスサノオの乱暴狼籍に天の石屋戸を開いて中に入り、それを閉じてこもったので、 八百万の神々はアマテラスが隠った石屋戸の前に集まって歌ったり舞ったりする。これはすで 高句魔では、前にふれたように、隧穴 (すいけつ・洞穴)から隧神を迎えるのに男女歌舞飲食す それでは天の石屋戸は隧穴がモデルだろうか。そうではなく、 それが横穴式墳墓であることは、 |
アゼルバイジャンで開かれているユネスコ (国連教育科学文化機関)の世界遣産委員会は6日、 登録されたのは、国内最大の前方後円墳の「大山古墳墳」(伝仁徳天皇陵墳・墳長486m)や 世界遺産委員会では、各国から、古墳が市街地でも保護され、いたすけ古墳(堺市)のように住 49基中29基が歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理する陵墓などだ。 (上田真由美)
アゼルバイジャン ·バクーで開かれたユネスコの世界遺産委員会の会場。日本時間の6日午 審議はその約15分前に始まり、ユネスコの諮問機関イコモス (国際記念物遺跡会議)が古墳 百舌鳥古墳群がある堺市の永藤英機市長や、古市古墳群がある藤井寺市の岡田一樹市長
堺市堺区のホールで開かれたパブリックビューイングには700人が集まった。 登録が決まった 「やったー」と歓声がわき、拍手が鳴り響いた。堺区の小学2年大和千也君(8)にとって古墳周辺 「家の近くに世界遺産ができるなんてすごい。大きさを世界の人に見てはしい」。 堺市の公式キャラクター、ハニワ課長は報道陣に、最高と古墳、ファンタスティック(夢のような) 古室山古墳(藤井寺市)の墳丘上には約200人が集まった。 厚紙でつくった円筒埴輪を立て、
アゼルバイジャ ンから吉報が届いた。まずは新しい
遺産の誕生を喜びたい。だが、登録はゴ
ールではない。その巨大さや特殊性のため、保存や活用に課題が山積することを改めて自覚し、 構成資産49基の古墳は、国内最大の前方後円墳から小さな円墳や方墳まで様々で、日本列 力の証しとなった世界的現象と、前方後円墳の不思議な形にみられる顕著な地域性の共存。 一方、保存や管理には課題もある。推薦に向けた構成資産リストの絞り込みの過程で、保存 構成資産の過半数を占める天皇家の「陵墓」については、登録後も宮内庁が管理することに との見方も出ている。周辺住民の関心も高まりつつあり、ユネスコも地域コミュニティーの参加を |
黄泉国の入口にある「殿のサシ戸」といい、「千引(ちびき)の石」といい、横穴式石室墳の入口
をふさぐ蓋石のことだが、古墳の実例としては石塊を積み上げて横穴の入口を閉鎖しているのが 記が、この羨道にあたる黄泉平坂を「いま出雲国の伊賦夜坂(いふや)という」と書いているの 黄泉の国、死の国は地下である。大和から見て、根の国・底の国である。地下は光がささない 高天原は大和の天上界にある。天界は、いつも太陽の光が満ち輝いている光明の世界である。 光明を善とし、暗黒を悪とする考えは世界の原始宗教に多いが、とくに古代のイラン高原で発 カミと青銅の迷路 松本清張 より |
『古事記』は元明天皇の和銅五年正月 (七一二)に 太安万侶によってかねて編集さていたもの 『古事記』の本文の前につけた太安万侶の上表文(天皇にたてまつったことば)によると、「邦家 そもそも天武のときに、どうしてそういうことが思い立たれたかといえば、壬申の乱のあと、天武 それまでの天皇は諸豪族勢力のバランスの上にのっかっていたようなものであり、きわめて不 「大王(おおきみ)は神にしませばーー」という 『万葉集』の言葉は、天武にだけはじめていわれた と 『古事記』序 文 も天武が「邦家の経緯」(国家組織)と「王化の鴻基」(天皇側の基礎)とをさだめ るた 「原古事記」をつくったと書く。 「語り」の性格」 『日本書紀』の編集も『古事記』のそれとおなじように七世紀の終わりごろにすすめられていた。 記では神代の巻、紀では神代紀に、これまで書いてきた外来の習俗のことや古墳のこと、当時 記は紀にくらべてはるかに民話的な要素がつよい。稗田阿礼のような芸能人がおもしろおかし 記の序文にある阿礼の「誦習(よみならう)」という語を、①天武天皇のロ述するとおりを阿礼が わたしはどちらも賛成しかねる。①は天武がそんな物語をじぶんで話したとは思えず、②は古 この 「よみならう」というのは、声に出して語るのを練習する意味だと思う。古事記には「上」とか 阿礼にかぎらず、七世紀末か八世紀はじめのそういう遊芸人は、田の祭りや村祭りや、また宮 そうなると、聴衆のなかで、それにはこういう話がある、ああいう話がある、といって注文や助言 をする者もあらわれる。話し手と聴衆の一体化である。――|いまでも地方の劇場などで舞台と観 この『古事記』成立のいきさつは、のちの『平家物語』ができる順序とたいそうよく似ているよう この語り本的な性格に江戸時代の『太平記』がある。それがまた現代の講談に流れている。 『平家物語』もはじめは短いものだったにちがいない。それが現在の流布本(一般に普及している 『古事記』もそれとおなじで、遊芸人が余興として、いまの講談や浪花節や落語のように、おおぜ から」「なのに」などの接続詞にあたる。ということは、『古事記』のもとになっている説話のかたち を しているからである (倉野憲司 『日本文学史』第三巻他)。 こうして、いちおうまとまった話が、宮廷の史官によってさらにかたちをととのえられ台本にされ た。それが「原古事記」とでもいうようなものだったと思う。その台本を天武天皇が稗田阿礼なる したがって『古事記』は宮廷用の「私家版」といってもよい。もっとくだいていうなら、宮廷の宴会 『書紀』のほうは、ちゃんとした修史局をもうけた国家的事業の史書編纂であった。だから競志 『書紀』が史書であり、『古事記』が宮廷用の「ロ演台本」的なものだったことは、正史の体裁 を いまのところ『古事記』の最古の写本とされている真福寺本(名古屋の真福寺宝生院に蔵されて 『古事記』も皇室の権威を加えているが(太安万呂による潤色)、その根幹は、右にのベたように 『古事記』の神代の巻は、とうぜんに高天原がおもな舞台である。高天原は天の上にある。 ところが、『古事記』の作者――そのもとになった「語り」の芸能人は、天上界がどういう風景に なっているのかわからなかったために、またそれを創作するだけの空想力がなかったために、じ 盆地で見なれているのはうつくしいかたちの香具山である。そこでかれらは天上界にも香具山 植物も盆地で見かけるものを天上界にあるかのごとくし 「天の朱桜(ははか)」「天の日影」(苔 そのほか、鉱山は「天の金山(かなやま)」であり、岩石は「天の堅石(かたしわ)」で あり、洞穴 もっとも、聞く側にはこのほうがわかりやすかったであろう。日常、見なれているものばかりだか ら、そういう修飾語がつくと、観念的によく区別できる。その意味では、「語り」の口演者や『古事 記』の作者にあながち空想力が貧弱だったともいえないかもしれない。 ところで、記の「天の石屋戸」は、紀では「天石窟」となっている。石屋戸といい、石窟といい、そ そうではなく、これは古墳時代後期のはじめにおこなわれはじめた横穴式石室墳墓のことであ 七世紀の後半になると、もう古墳時代が終わる。仏教が入ってきて火葬が一般化し、遺骨は骨 だから、『古事記』に出ている石屋戸は、そのころはすでに「古墳」となって無しまった横穴式石 |
「坪内道蓬に「役の行者」という戯曲がある。 これは『続日本紀』の文武三年(六九九) 四月の条にみえる次の記事を材にしている。 「役小角は伊豆嶋に流さる。初め小角は葛木(城)山に住み、呪術をもって聞えた。外従五位下韓国 は小角を師としたが、のち止めて、朝廷に小角が妖術をもって惑わすと讒(ざん)した。故に 遠所に配流(はいる)れた。小角はよく鬼神を役使し、水を汲ませ薪新を採らせた。もし鬼神が云 うことを聞かないとき、呪術をもってこれを縛った」 戯曲 「役の行者」では、小角である行者は山 中にあって、女魔に誘惑されたり、士官の剣に脅追さ り、眼の前で老母が殺されたり、あるいは にわかに地震が起こり岩石が降るなどの試 練 をうけ る。この場面は、逍遥が小説「杜子春伝」の場面を借用しており、修行から落ちて破門される弟子 逍遥のこの戯曲は最初 「女魔神」(大正五年)として発表したさいの世間評を考慮して改訂され それはさておき、役の小角は後世になって修験道(山伏)の開祖とされ、伊豆から駿河の富士山 修験道は日本の山岳信仰と神道と、中国からの陰陽道と道教の影響がある。はじめ密教が中 密教では大日如来の守護神として南に増長天、西に広目天、北に毘沙門天、東に持国天のい この四天王のうち毘沙門天こそメソボタミアのミトラ信仰が東にきたものであるというのが宮崎 毘沙門はミトラ では毘沙門 天信仰 も盛んで、 中国では唐以後たえずその影響をこうむっている。于闐国の守 護神は毘沙門天王であった。 毘沙門の語源は梵語ではなくべルシア語のようである。于闐人はイラン種であり、 最初はその 毘沙門は漢語に意訳されるときは多聞となるが、これはもし毘沙門がミトラならば容易に説明 およそこうまでぴたりとあてはまるのは決して偶然ではない。西域から中国に輸入された毘沙 ここに注目されるのは、大日如来が太陽神すなわちミトラをあらわすことである。密教では、大 弥勒と阿弥陀 奈良時代前期に流行した弥勅信仰のミロクも、その梵語のマイトレーヤーはミトラの転訛(てん インドの仏教が中央アジアから中国に輸出されるときに、中央アジアの居住のイラン人によって この弥物信仰と同じような性質にややおくれて出た阿弥陀信仰がある。阿弥陀信仰はイン ド 弥勒がミトラの救世主をあらわしているので、弥勒はのちに救世観音とよばれるようになった。 阿弥陀はイランのミトラで、観音はミトラに結合する女神アナヒータ(水神)に範をとったという説 もある(矢吹慶輝『阿弥陀仏の研究』)。観音は阿弥陀と同格とされるところから、 観音の功徳が 密教の呪術的な加持祈祷が幽暗(ゆうあん)な内陣でおこなわれる神秘性の効果だが、この外 藪田嘉一郎氏は、山伏すなわち修験者はミスラ(ミトラ)の信徒であって、それの信仰する蔵王 |
村落全体の期待を背負っていた古代のお見合い
『常陸 国風土記』は日本に五つ残っている風土記(地方史)の中でも最古のものと言われ、その たとえば、筑波岳(つくばやま)という山があって、ここは春とか秋の気候のよい時に、若い男女 その結婚の申込みとは、飲食物を持参し、そこで飲み食いしながら男女がお互いに思いのたけ 『常陸国風土記』は、その章の最後を「筑波峰の会(つどい)いに、娉の財を得ざれば、見女と もし娘が「娉の財」すなわち結婚の申込み物件を受け取らずに帰宅すれば、自分の娘と見倣さ そして、この話は、天皇家の国生み神話より古いくらいの伝承内容を持徴つものである。 書き添えると、『常陸国風土記』は和銅六(七一三)年、朝廷が諸国に風土記 の提出を命じた直 |
日本神話の中に登場する地方神話の中で、大和地方を除いてもっとも多いのは、出雲地方の 神話である。その中でも、ひじょうに有名なものは、「国譲り」の伝承である。高天原から日向の 高千穂へ、神々が降りていくという天孫降臨の話の直前に、このエピソードが語られている。 神話によると、天孫降臨をして、日本を神の子孫が統治する前に、まず、地上にいる神々に対 使節として派遣された神というのは武甕槌神と経津主 神という二柱の神であった。この神々は、 これが『日本書紀』の示す「国譲りの神話」のアウトラインである。 だがこれは、全体の流れからすると、まことにとってつけた話のような印象を受ける。 こんなに簡単に国譲りが終了したのなら、天地開闢という大事件の次を飾るエピソードに、わざ そしてそれは、大和の政権にとって出雲地方の勢力が無視できない大きな存在だったからであ 出雲と大和は兄弟である だが、「出雲地方の政権が大和政権に征服された」とする説に賛成しているわけではない。 というのも、出雲と大和は血を分けた兄弟、つまり両方とも同じ文化圏に属しており、 それは出雲から出土する銅器に、大和とは独立した独自の形式を持ったものが存在しないこと たしかに出雲を含む中国地方からは、多量の遺物が見つかっている。昭和五十九年には、島 このことから見ても、出雲と大和は文化的に兄弟の関係にあったことが明確である。つまり、こ 平安時代に作られた「延喜式」の中に、天皇の即位の儀式·大嘗祭の時に、出雲の国造が、天 |
「伊勢神宮は皇室の祖先神である天照大神を祀った神宮であって、崇神天皇の時大和の笠縫 伊勢の地は、地理的に神話の舞台から外れた場所にあるように思えるが、あの場所に重要な 紀伊半島の真ん中に大峰山や大台ヶ原があって、そこから西へ流れる紀ノ川と、東へ流れる このような、地理上の有利さは、中世に、南北朝争乱の際、吉野の南朝が宮川沿いのルートを 三河国と伊勢国の関係は濃密で、お伊勢詣りをする時、尾張の人は、今の熱田神宮から七里 言える。だから、あそこに神さまを持っていけば、東日本と近畿·大和の中点として機能し、大和 朝廷の安全性も高まる。これが伊勢神宮が、今の場所に定まった であろう。 日本武尊の説話では、熊襲征伐に西に向かう時も、次の東国遠征に向かう時も日本武尊は、 伊勢神宮の神さまは、言わずと知れた天照大 神であり、農業生産神である。今でも伊雑宮(い 底した農業信仰であって、その農業開拓が伊勢神宮を起点にして東へ拡がっていった。 |
天皇が自信をつけるための書『古事記』
日本の神話を考える大きな出発点となるのは、言うまでもないが『古事記』(七一二年成立)と どちらも、神話を中心に、天皇家の由来を明示する意図で編纂されたものだが、それぞれに読 これは、それぞれの文体にも、その差が表われている。『日本書紀』は漢文で書かれ、中国の たとえば、日本の国土が創られた時の『古事記』の記述は、"国土がクラゲのように漂っていた" しかし、両者とも共通しているのは、その記述の立脚点で、それは大和朝廷、ひいては、天皇 エピソード集だった神話の物語 さて、「古代史とは一種の”物語”である」という観点に立てば、『古事記』や『日本書紀』に登場 あらためて指摘するまでもなく、『記紀』にあるような完成されたスタイル、つまり起承転結のメリ 本来は、それぞれ独立した ”地方の伝説””氏族の説話”などの一部が、大和政権の成立に伴 それは、 神話の舞台の多くが実在する地名になっており、架空のものが少ない点にもよく現わ 神武天皇にせよ、大国主命にせよ、神話上の人物が行ったり活躍したりした場所は、そのほと それを如実に証明するのが、神話の中にたびたび現われる「地名 の起源」を説明するエピソー たとえば神武天皇の東征の話の中に、盾津(たてつ・大阪府東大阪市)という地名が出てくるが、 これは神武天皇がその地で盾を持って立たれたため、そう名づけられたと記されている。 また、神武天皇の兄・五瀬命が奈良県生駒の豪族である長髄彦(ながすねひこ)との戦いで負 こうした点を考えあわせると、神話全体のストーリーを、そっくりそのまま歴史事実と信ずるわけ 逆・日本史 樋口清之 |
5月1日の「剣璽(けんじ)等承継の儀」では、新天皇に剣と璽(勾玉)などが引き継がれる。政府 それにしても、 例えば剣は本来、人を殺傷する武器だ。 それがなぜ― 金属の武器は弥生時代に大陸から伝わった。まずは銅剣や銅矛、やがて鉄刀がもたらされた。 古代の人は衝撃を受けたはず。特別な働きの背後に神の存在を見たに違いない」 それがさらにヤマト王権の下「権威」と結びついていった、というのが笹生さんの見立てだ。国 8世紀の古事記には、武神が初代天皇とされる神武天皇に布都御魂という名の刀を与えたと 歴代の天皇に引き継がれてきた神器だが、その重みは先の大戦の末期に格段に増した。当 「東京大学の山口輝臣准教授(日本近代史)によると「国体とは何か」をめぐる議論は、25年に 「天皇の正統性を、血統に加えて形で示すのが神器。その継承が、万世一系というつながりを 終戦の半月前、同じ木戸の日記には昭和天皇が伊勢神宮の鏡と熱田神宮の剣について述べ 「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。(中略) 万一 山口さんは「国体を崩壊させたと言われないために何としても最低限の責務は果たす、という 「終戦秘話」がある。国立公交書館報によると、天皇から国民に向けた終戦の詔書には、草案 山口さんはこう話す。「昭和天皇は戦時に『天皇とは何か』と必死に考えた。その遺産をいまの |
「万葉王朝の始祖」高らかに しきなべて 我こそいませ 我こそば告らめ 家をも名をも かごも、よいかごを持ち、へらも、よいへらを持って、この岡で 関西で暮らし始めて40年以上になるが、歴史好きの客を案内する定番コースがある。 奈良市の平城宮跡を起点に南へくだり、三輪山山麓から藤原宮跡、飛鳥へと足を延ば す。日本という国の誕生を実感できる旅だからだ。 新元号「令和」によって注目きれている「万葉集」4500余首の歌の冒頭頭は、雄略天皇の長 うらうらとした春の岡、若菜を摘む若い女性がいる。 生命のきらめきの象徴のような彼女に だが雄略天皇は、5世紀後半に生きた人物である。いわゆる万葉歌が詠まれた7世紀後半 ではなぜ、この歌が万葉集の冒頭に据えられ、雄略天皇の御製(ぎょせい・天皇の作)とされ 雄略天皇(大泊瀬稚武天皇・おおはつせわかたけるのすめらみこと)は系譜上第21代に数 田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「ワカタケル大王」の名が刻まれ、実在が証明された 日本書紀は雄略天皇について、皇位継承のライバルを次々殺害する「暴虐王」の面と、葛 「龍もよ~」に続く万葉集の2番目は、第34代舒明天皇の《大和には、群山(むらやま)あれ 舒明天皇は天智、天武両天皇の父で、持統天皇には祖父にあた まさに、 雄略から統く皇統 の正統性を強調した歌の配列といえるだろう。 万葉集は、天智、天武天皇が懸命につくりあ 新元号の出典となった「万葉集」。ゆかりの地を訪ね、最古の歌集が編まれた時代背景と、
熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば 潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(巻1-1l8) 熱田津で船に乗り込もうと月の出を待っていると、潮も、船出にちょうどよくなってきた。 「万葉集」には古代国家への産みの苦しみに関連した歌がいくつかある。 中でも最大の苦 の大敗戦だろう。 ここへ至ったのには、4世紀以降の長い歴史がある。 日本(倭国)は国内で産しない「鉄」や きの斉明天皇と嫡男、中大兄皇子(天智天皇)は長年の友置を重んじ、百済を支援するため この歌はこの遠征の途中、滞在先の石湯行宮いわゆのかりみや・(松山市の道後温泉付近) 何より疑いないのは、この出航が緊迫感にあふれていたことである。 石湯行宮での滞在自 にもかかわらず、九州に着いた斉明女帝は間もなく体調を崩し、7月には崩御してしまう。 「唐軍は勢いに任せて侵攻してくるかも…」。中大兄らは恐れ、亡命してきた百済人技術者ら 亡国の危機を脱したのは偶然でしかなかった。朝鮮半島で新羅が唐を追い出す戦争を始め た。 そして彼の死後、志は同母弟である天武天皇やその皇后だった持統天皇に受け継がれ 岩代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸(さき)くあらばまたかへりみむ 岩代の浜松の枝を引き結んで、幸いに無事であったら、また帰って来て 見ることであろう。 うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む (巻2ー165) この世の人である私は、明日からは、二上山を弟として眺めることでしょうか。 万葉の時代」はまた、政治的な謀略の渦巻く時代でもあった。 とりわけ皇位をめぐる争いは 最初の悲劇の主は、有間皇子である。「乙巳の変」(645年)のあと即位した第36代孝徳天皇 有間皇子の運命は父帝と中大兄の間に確執が生じたときから決定づけられていたともいえ 先帝の嫡男とはいえ外祖父(阿倍内麻呂)も亡くした有間皇子が、政権内で孤立を深めたこと の白浜温泉)に湯治に出かけたおり、中大兄の腹心の蘇我赤兄が皇子に近づき、謀反を持ち 「斉明天皇の政治には、三つの失敗があります…」 この言葉に皇子は大きくうなずき、「兵を用いるべき時が来た」と答えたとある。ときに有間皇 やりとりは中大兄に急報、捕縛された有間皇子は白浜に送られ、中大兄から尋問を受けた。 《岩代の…》の歌は護送の途中、白浜の手前の岩代(みなべ町)で皇子が詠んだ一首である。 たのではないか。 みなべ町岩代には現在、「結び松記念碑」が立ち、万葉ファンの聖地となっ この28年後に起きたのが、「大津皇子の変」である。イバルの草壁皇子とともに天武天皇の この事件が一層涙を誘うのは、大津と草壁の母同士が姉と妹(大田皇女と持統天皇) だった 1カ月もたたない10月2日、大津皇子は逮捕され、翌日、死を賜ったーと日本書紀にはある。 と我が見む》と詠んで、最愛の弟の死を悼んだ。 「令和」と大伴の衰運
天皇(すめろき)の御代栄みよさか)えむと東なる
天皇の御代が栄えるであろうと、東国の陸奥の山に、黄金が花の咲き出るように現れた (岩波文庫版「万葉集」から)
「万葉集」の編纂者は、大家持(718?~785年)とされる。 収録された歌の多さからも推測され
るが、といってすべてが家持の手になるのではなく、最終段階に近いとろで家持が重要な役割 を果たしたということだろう。 そして万葉集で最も新しく詠まれた歌も天平宝字3(759)年正月の家持の歌である。つまり万 聖武帝が最も力を入れた事業といえば、大仏 (慮舎那仏)の造立であろう。 歌は天平感宝元 (749) 年5月、大仏を鍍金するための黄金が東北地方(宮城県涌谷町)で発 家持は当時、越中守で富山県高岡市の館にいた。同時に歌った長歌には、聖武帝のにわざ 近く死のう。ほかにのどかな死をすることはあるまい) (「続日本紀」天平21(749) 年4月1日)という大伴氏の言立(ことだ)て(誓いの言葉)が 合まれていたことへの、感謝があふれている。 しかし一方で、この時代は大伴氏や佐伯氏といった古来、大和朝廷を支えてきた名族が、新 新元号「令和」の典拠として脚光を浴びた「梅花の宴」(730年1月18日)は家持の父、旅人が 天皇の信任に応えることこそ大伴氏の役割だ。家持も自ら言いきかせて生きた。だが実際に
防人の悲しみ 今日からは後ろをふり返ることをせず、天皇の至らぬ守備兵として出発するの だ、私は。(岩波文庫版「万葉集」から)
韓衣裾(からころもすそ)に取りつき泣く子らを置きてそ来(き)ぬや母(おも)なしにして 韓衣の裾に取り付いて泣く子らを残して来たのだ。 母親もないのに。 「万葉の時代」は、飛鳥の宮殿や平城京の華やかさの一方で、東国の名もない農民が国の 大宰府から南に約60km。熊本県北部の山鹿市と菊池市に広がる山あいに国指定史跡 昭和42年から発掘調査が進み、貯水池のほか建物跡、百済様式の仏像などが見つかった。 「広さなどから兵舎は1棟あたり50人ほどが生活できたようです。 東国からの防人がどれほ 長く調査を担当してきた熊本県教委文化課の矢野裕介主幹は言う。 防人は律令制のもと、17~65歳の成年男子に課せられた課役で、奈良時代を通じて続け 防人の悲劇は当人だけではない。残された家族も働き手を失い、飢えに苦しむこととなる。 歌は、信濃国小県郡 (長野県中央部)の他田舎人大島という人物が詠んだものである。 妻は あふれている。 こうした防人の歌が収録されたのは、家持が兵部省の役人として難波津で彼らの管理にあた よくわかる。 万葉集にはこのほか、《今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ我は》のような、 都の貴族や僧侶ら教養人だけでなく、東国の庶民まで自らの思いを歌で表現していることは |
ヤマト政権の王陵がなぜ大阪へ移ったのか。「奈良に用地がなくなった」「大阪に造る理由が 一など数々の見解がある。戦後の一時期には、大阪平野を本拠とした新政権の勃興を説く「河 だが同じような前方後円墳が造り続けられること、また歴代の都は奈良盆地に置かれるケー 選ばせた、と考えられるようになっている。 つまり、4世紀後半から5世紀にかけ、倭(日本)にとって、朝鮮半島や中国との外交が重要な 鉄器はそれまでの石器に比べ、作業効率が飛躍的に向上する。ところが鉄は国内で産出せ 海外交渉の拠点となったのが、大阪湾沿岸だった。この地の重要性は急速に高まり、大陸へ 百舌鳥·古市に巨大古墳かれた5世紀は、「倭本)の五王の世紀」ともわれる。 情勢が不安定 宋書はほば同時代に書かれた書物で、史実性も高い。遣使は讃による西暦421年を筆頭に、 「遣使の利点は、大きく2つありました。 中国王朝の権威を借りて国内支配の維持·安定を図 著書「倭の五王」(山川出版社)のある森公章,東洋大教授(日本古代史)こう話す。 とくに大王(天皇)の代替わりにあたっては、必ず遣使したようだ。先代を古墳に葬り、大王位 当時、朝鮮半島の国々で最強だったのは、北部の高句麗。逆に南西部を治める百済は、高 これに応えて、日本は百済に軍事支援、つまり兵を送った。この事実は、中国東北部・集安 |
神々を祭り国家の平安を祈る <御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)、師木(しき)の水垣の宮に坐して、 天の下治らしめしき> 10代崇神天皇は、現在の奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社の辺りで天下を治めた。と く尓(しか)して天皇愁歓(すめらみことうれ)へたまひて、神牀(かむとこ)に坐す夜に、大物主 古事記は、事態を憂えた天皇が神託を受けるために神床に就いたと書く。すると、夢に大物 まり、国も安らかになるでしょう」と告げた。 オオタタネコは大物主神の子孫だった。天皇は、オオタタネコを神主として、御諸山(みもろや 〈此れに因(よ)りて役(え)の気悉(ことごと)く息(や)み、国家(くにいえ)安らかに平らかなり〉 古事記は、天皇の行動の結果をそう書く。 「神(大物主神)は、オオタタネコによって祭られることを求めた。 そうすれば『神の気』は起こ 東京大の神野志隆光名誉教授はそう話す。大物主神は、初代皇后、伊須気余理比売の父と、 「正しく祭られていないから、疫病が起きたというのであって、疫病をこの神の崇りというのは 三輪山をご神体とする大神神社(奈良県桜井市)で行われる「大神祭(おおみわまつり)」は、 大神神社の拝殿のすぐ隣には崇神天皇を祭る末社「天皇社」がある。「昭和8年には崇神天 大祭は戦中に途絶えたが昭和47年、「崇神天皇二千年祭」が大神神社に近い崇神天皇陵 神々を祭り、国家の平安を祈る天皇の始まりを崇神楽天皇に見ることができる。 大神神社 奈良県桜井市三輪にあり祭神として大物主大神を祭る。大己貴神と少彦名神を 古事記によれば、大物主大神は出雲の大国主神の前に現れ、国造りを成就させ 吉備国は初代神武天皇の東征で最大の8年間、滞在して懐柔した国だ。 そこに崇神天皇が 「吉備国は大和を支える」重要な存在でしたから」と元岡山市文化財専門監で「古代吉備国を 「吉備国人は軍事、外交の専門家として大和で重用されていた。 軍備を整える適地だったの 吉備津彦は現在、吉備津神社(岡山市)で大吉備津彦命として祭られる。 社伝では、吉備国 行ったという。 281歳で没後、中山山頂の茶臼山古墳 (全長130mの前方後円墳)に葬られ、現 「神社の創建は、大吉備津彦命の徳をしのんだ16代仁徳天皇によると伝わりますが、地理上 同神社の上西謙介禰宜はそう話す。 畿内から九州につながる全国随一の大路(主要道)とさ <尓(しか)して天の下太平(たひ)らかに、人民富み栄ゆ〉 4将軍の派遣後の様子を古事記はそう記す。崇神天皇の武断は、王権を不動のものにしたの 吉備国 現在の兵庫県西部から岡山県、広島県東部、瀬戸内海島興部まで広がっていた古代 律令体制以降、備前、備中、 備後、美作の4国に分割された。古代においては物流拠
税制導入 〈是(ここ)に初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつき)、女の手末(たなすゑ)の調を貢(たてま 男が狩猟で得た獲物や、女が手先の仕事でつくった糸や織物を、初めて税として納めさせた。 古代の税は租、庸、調で知られる。このうち国家にとって最も重要なのは調だと、岡山大の 「調とは王に対する奉を意味し、天下公民が負うべき義務とされた。 国家財政の中心であり、 米を納める租は、地方にとどまって中央に届かず、庸は都で労役につく人々への仕送りだっ れた。こうした土台は崇神天皇が創始したという。 〈是(こ)の御世に、依網池(よさみのいけ)を作り、また軽の酒折池を作る〉 古事記は天皇が、ため池を築造したことを記している。民から集めた税で公共事業を行った 「農(なりはい)は天下の大本(おほきなるもと)なり(中略) 今し河内の狭山の埴田(はにた)水 農業の重要性を強調し、水が少なく百姓が農事を怠)っている土地に池や溝をつくって水を通 大阪市住吉区の大和川近くには現在、依網池跡の碑が立つ。 江戸時代半ば、大和川の流 「具体的な記述がある最古のため池で、5世紀中期ごろの築造でしょう。 ため池は水圧も考 四天王寺大の元准教授、川内眷三氏はそう話す。 日本書紀は、天皇が租税徴収のために戸籍調査を行い、荷を運ぶための船を造らせたこと ほとんど系譜しか記されていない2~9代の歴代天皇と比べて、10代崇神天皇の存在感は傑 く故(かれ)、称(たた)へて御肇国天皇(はつくにしらすすめらみのみこと)と謂(まを)す(はつく 古事記も「初国知らしし」天皇と呼ぶ。この「はつくに」という修辞が、初代神武天皇との関係で しかし、大阪市立大の毛利正守名誉教授はこう話す。 「はじめのころの国を治めたという意味であり、初代ということではない。 大和王権をしっかり
2019-7-10~13 産経新聞 この連載は北村理、坂本英彰、正木利和、安本寿久、 租庸調(そようちょう) 中国の制度にならって大和政権が取り入れ、大宝律令(701年)で整備された古代 め、地方だけで使われた。庸は本来、都で労役につく人に地方から送った生活費だ 調は、地方から中央への貢ぎ物であり、納税者が都までの運搬義務も負った。関 か、海産物の加工品や獣肉、 発酵食品、塩、鉄などさまざまな特産物が納められた。 |
「比叡山の麓にある日吉大社の大鳥居のわき広い駐車場があり、「本家 鶴喜そば 店は角か すくなくとも40年ほどまえには、この看板はなかったのではないだろうか。 駐車場を出たところ 『街道をゆく』を連載中の司馬遼太郎の一行も昭和以年初秋、この駐車場に車をとめ、「鶴喜 「ここは鶴喜ですか、とわかりきったことをきくと、/『ちがいます』/おそらく似たようなあわて者が さすがに「恐縮」してそばを食べたうえ、「まことに日吉そばに対して失礼なことをしてしまった」 「角から三軒目」の、これまた風情のある木造建築の「鶴喜そば」に向かったが、店頭には30 あきらめて「日吉そば」にもどったが、こちらも満員だった。 文芸評論家·小林秀雄のエッセー「無常といふ事」の一節を思いだした。 昭和10年代後半、日
小林秀雄と司馬遼太郎 風情のある穴太衆積(あのうづ)みの石垣がならぶ区画を抜け、「日本一長い」がキャッチコピ 平安京に近いこともあり、苦難の歴史を、寺そのものの側にも責任の一端はあったが、なめつ だが織田信長には「わが心にかなはぬもの」などはなかった。 元亀2(1571)年)9月、全山焼き (略)御扶(たす)けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖(いえど)も、中々御許容なく、一々に顕を ケーブルの窓から、木々につつまれた深い谷あいをぼんやりと見おろしていると、「大正末期、 「無常といふ事」には「死んでしまつた人間といふものは大したものだ。 何故、あヽはつきりとし 司馬は歴史小説について問われると、「完結した人生,をみることがおもしろい」という趣旨の発 『街道をゆく』シリーズとしては、ちょっとミスマッチな「そば」の項は、名エッセーとして知られる ――ケーブルからおりてふりかえると、薄青い琵琶湖がパノラマのようにひろがっていた。 山上 オンナ子供までも容赦なく虐殺していく 「目も当てられぬ有様」を貼りつけることなど、とてもでき
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コンピューターグラフィックスで復元された創建当時の西大寺 中央の回廊に囲まれた区画が金堂院 |
奈良時代、聖武天皇 (701~56)が発願した東大寺と対になる存在 として、娘の称徳天皇(718~70)が建立した「西の大寺」、西大寺。 その建立当時の姿が次第に明らかになってきた。だが創建当時の寺 域の中心部は史跡に指定されておらず、保存の問題に直面している。調 査してきた奈良文化財研究所(奈文研)は、遺跡の重要性を広く知って もらおうと様々な取り組みを始めた。 6月中旬、奈良市・平城宮跡の一角にある奈文研平城宮跡 資料館で、「よみがえる西大寺金堂院」と題した公開講演会 が開かれた。集まった聴講者は 200人以上。中でも注目され たのが、今年3~4月にあった住宅建て替えに伴う発掘調査の 報告。弥勒菩薩を本尊とした 「弥勒金堂」の基壇 (土台) 跡 が、発掘調査で初めて確認され た。 この調査では、建物の柱を支 えた礎石を抜き取った跡を6ヵ所 で検出した。 重い礎石と建物を支えるため、地面を掘り下げ地盤改良をした 「壺地業(つぼじぎょう)」も 確認されたという。担当した奈文研の田中龍一研究員は「文献 の記述や過去の発掘調査から推定されていた、西大寺・弥勒金 堂の位置と一致する。 初めて弥勒金堂の基壇が発掘調査で確認 できた」と語った。 西大寺の財産を記録した奈良時代の文献には、弥勒金堂は東 西約32m、南北約20mの重層の建物とある。田中さんは、その 規模や外観は、2018年に再建された興福寺中金堂とよく似 ていたと推定している。 現在、国の史跡になっている 「西大寺境内」は、平安時代に 一度は衰退した西大寺が、鎌倉 時代に再興されてからの寺域だ。 創建当時の西大寺の中心だった、薬師如来と弥勒菩薩を本 尊とする二つの金堂が並び立つ 「金堂院」は、現在の境内の北 に広がる住宅地や農地の地下に 埋もれ、史跡の範囲からは外れ ている。 金堂院跡の周辺では00年代以 降、建物の新築や建て替えが活 発になっている。薬師金堂の跡 には現在、西大寺とは別の寺が 立っているが、その建て替えに 先立って06~70年、金堂基壇が 発掘調査された。二つの金堂を 取り巻く回廊の跡が確認された のも、13~14年に2カ所のマン ション建設に先立って発掘され た場所だった。 こうした史跡に未指定の遺跡保存の難しさを痛感する出来事 が、最近、西大寺に近い近鉄大 和西大寺駅の北で起きた。 この場所は奈良時代称徳天皇が僧寺の西大寺と対になる 寺として創建した西隆寺の跡。 1971年、奈文研などの調査で辺約6m の小さな塔跡が発 見され、地権者の理解を得て、銀行支店の地下 に保存された。 だが2年前にその土地が売却され、商業施設の建設予定地にな った。一度は保存された塔跡を 今後も残すことは厳しい状況 だ。 奈良市や県の文化財保護の担当者が塔跡の保存を模索したが、 駅前の一等地でもあり、買 い上げは難しかった。同様のケ ースは、 駅に近い住宅地の西大 寺金堂院跡でも起きかねない。 そこで奈文研は、4月からユーチューブの 「なぶんけんチャンネル」 で、奈良時代の西隆寺 西大寺の跡をたどるコースを 紹介する動画を 配信した。 平城 宮跡資料館では5~7月に発掘速報パネル展 「よみが える西大 寺金堂院」を開催。 秋にも西大 寺西隆寺の出土品を展示す る 特別展を企画しているという。 公開講演会でも続けて両寺の調 査成果を取り上げる予定だ。 奈文研の箱崎和久・都城発掘 調査部長は「奈良時代の西大寺 の全体像が次第に明らかになっ てきた今、あらためてその重要 地域の人たちに知ってもら う必要がある」と話す。 2023-8-11 朝日新聞( 今井邦彦) |
當麻のお練り•當麻れんぞの名で親しまれている「當麻寺練供曽会式」は、正式には『型衆来迎練供養会式』という歴史的に名高い法会で、天平の世に生まれ、
29歳で生きながら西方浄土へ迎えられた伝説の女性、中将姫の伝承を再現した荘厳な宗教劇で、 1 0 0 0回以上開催されております。 7 6 3年、都に生まれた中将姫は早くに母を亡くし不遇の幼少期を送ります。ある日、二上山に沈む夕日に阿弥陀如来を見たことから當麻寺に足を運び、修行します。そして 29歳の春、當麻曼荼羅を一夜で織り上げた後、菩薩たちに導かれ極楽浄土へ旅立ったと云われています。 練供後は、中将姫が二十五菩臟によって極楽浄土へ導かれる様を演劇風に再現しています。来迎橋 (本堂から娑婆堂にかけられた現世と浄土をつなぐ橋 )の上を、金色の面の観音菩薩が中将姫の小像を蓮台に乗せ、極楽浄土に見立てた本堂へ向かって、勢至菩薩や他の菩薩とともに練り歩いていきます。観音菩薩は両手で蓮台を左右にすくい上げる所作を繰り返して進むことから「スクイポトケ」、続く勢至菩薩は合掌しながら練り歩くことから「オガミボトケ」とも呼ばれています。現在では全国各地で練供養が行われていますが、寛弘 2年 ( 1 0 0 5年 )に恵心僧都源信が始めたと伝えられるこの當麻寺の練供養が元祖だといわれています。 |
河合町 奈良盆地の多くの河川と歩んできた町 奈良盆地の多くの河川が大和川に流れ込む地点にあるのが河合町。古代から稲作と川と共に暮らしてきた大和の流通の要所が、この町でした。難波の津から大和川を上ってくる舟運の拠点となったのが「広瀬」の地。狭く岩が多い亀の瀬を越え、川が浅く広くなる場所「広瀬 jであり、 舟が着いて荷物の積み降ろしをしやすい場所が「川合浜」 となりました。遠い昔の歴史のようですが、電車や車が物流の主流となる以前の昭和初期まで、 この浜は活用されていました。また、 この川合う浜に隣接する「廣瀬大社」は、 水の神として古くからこの地に鎮座していると伝えられています。この廣瀬大社では『 日本書紀』に天武•持統天皇以降国家の祭祀が営まれたと記されていることからも、 舟運や農作物に大きく影響する河川の氾濫を抑え、五穀豊穣をもたらす雨を司る水の神と人々の生活が密接に関係したことが伺えます。 廣瀬大社・河合浜 (河合町川合 ) 大和盆地を流れる全ての河川がー点に合流する地に鎮座し、朝廷をはじめ万民を守護する御膳神(みつけかみ)として古来より国家の重要な祭祀が執り行われてきました。山々からこの地に集まる川の水を統治されることで水神としての信仰があります。また、日本書紀に記載されているように、天武天皇は風を司る龍田風神とニ社ー体のお社として、龍田と廣瀬の両社を併せ祀ることにより風水を調和し、国家安泰・五穀豊穣を祈願されました。そのことから現在でもニ社参り の信仰が残っています。緩やかに下る長い参道を歩いて行くと、神域の空気や鳥の声、木々が風に揺れる音を感じます。 大和川ジャーナル 第14号 2024年2月 |
日本考古学で最初に縄文土器を科学的に調査した E・S・モースは、「大森貝塚」 (ーハ一七九年 )の報告書の中で縄文 のことを「c o r d
m a r k」の用語を使いましたが、それを訳した矢田部良吉は「索紋」としました。 ところか白井光太郎は、一八八三年大きな索(なわ)と小さな縄とを意識的に区別して「縄紋」を使いました。一ハ八八年には早くも「縄文」が現われ、一九二六年以降、急速に一般的に使われたとみられます。これが表面的な用語の変遷史です。 「索紋(さくもん)」の「索」は、綱、大縄のことで、「 c o r d m a r k」を正しく表現したものとは言えません。その点、植物学者であった白井の観察眼は、植物繊維の造詣が深かったためか、ツナ、ナワ、ヒモの区別に厳密で、同時に訳としても適切な「縄紋」の語を選びました。 一九三一年になって初めて縄文の正体は縄の回転によるものとあきらかになり、縄文原体は、草木の茎や繊維などをコヨリのように撚り合わせた縄文です。 縄文土器の知識1 麻生優 白石浩之 |
出土家形埴輪と宮殿の構造合致 天皇に次ぐ権力を握った大豪族•葛城氏のトップの墓とされる御所市の宮山古墳 ( 5世紀初め、 墳丘長 2 3 8m)の被葬者について、金剛山麓に築かれた南郷濠群の大型建物で政治を行った 「首長」との説を、県立橿原考古学研究所付属博物館の青柳泰介副主幹が打ち出した。同古墳 の家形埴輪と南郷漆群の建物構造が合致す倉などを挙げ、「大型建物で政務や儀式を行った 人物が宮山古墳に葬られ、生前の居館などを家形埴輪で再現した」との見解を示した。 宮山古墳は「王者の棺」といわれる「長持形石棺」があり、葛城氏の始祖・葛城襲津彦(そつひこ) の墓ともいわれる。墳頂部から 20棟分以上の家形埴輪が出土し、 青柳さんは家形埴輪の形態と、 西方 2〜 3キロに広がる南郷遺跡群の大型建物跡の構造が類似する点に注目した。 同遺跡群は葛城氏の 拠点とされ、その中の南郷安田遺跡では 5世紀最大の建物跡 (一辺 17m ) と直径約40cmのヒノキの丸柱が出土し、首長が政務を行った宮殿とされる。約 600m南西の 極楽寺ヒビキ遺跡では、広場が設けられた大型建物跡 (同 14m )と長方形の 柱の痕跡が確認 された。 一方の宮山古墳では、高さ 1.2m以上と推定される最大の家形埴輪が丸柱をもつ高床式で あることから、南郷安田遺跡の大型建物を埴輪で模したと推定。別の大型の家形埴輪も、極楽寺 •ヒビキ遺跡大型建物跡と同様の長方形の柱が表現され、同古墳と遺跡群は密接な関係がある とした。 山の湧水で祭祀 決め手ともなったのが、宮山古墳の導水施設の家形埴輪。青柳さんは、同博物館で開催中の 特別展「家形埴輪の世界」の企画段階で宮山古墳から出土した埴輪片を再調査したところ、木樋 (水を送るための木製の設備 )をかたどった埴輪が小型の家形埴輪とセットになり、導水施設を表 していることを突き止めた。 自身が発掘した同遺跡群の南郷大東遺跡では長さ4mの木樋と建物の柱が出土し、水を流して 祭祀を行つた導水施設とされ、宮山古墳の埴輪と構造が類似。「葛城の首長は、金剛山の清らか な湧き水を木樋に引き込んで祭祀を営み、宮山古墳の家形埴輪に反映された」とみる。 王宮の理想の姿 古墳時代の権威のシンボルである銅鏡との関連にも着目した。「王の屋敷を表現したとされる 佐味田宝塚冨 (さんみた・河合町、 4世紀後半 )の「家屋文鏡・かおくもんきょう」には宮殿や祭殿、 高床式倉庫、竪穴住居の 4棟が描かれ、南郷安田遺跡などで見っかった大型建物跡や竪穴住居跡 と構造が合致するという。 鏡に描かれた高床式倉庫については、南郷遺跡群で発掘された工房跡が相当すると指摘。銀や 銅などの素材が出土し、豪華な刀装具や馬具などの生産拠点とされることから、高床式の宝物庫 があったと推測する。 青柳さんは同古墳の被葬者について「葛城襲津彦とは特定できない」とするー方、「家屋文鏡に はヤマト王権の宮殿の理想的な姿が描かれ、実際に建物として築かれたのが南郷遺跡群。死後 の世界では宮山古墳の家形埴輪として表現された」と述べた。 宮山古墳の家形埴輪や南郷安田遺跡の丸柱は同館特別展で展示されている。 16日まで。 2024-6-13 産経新聞 |
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