大和へ、神武東征 

①稲作の地を求め45歳の決意
 神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと) そのいろ兄五瀬命(えいつせのみこと)
と二柱、千穂宮に坐(いま)して議(はか)リ云(の)りたはく。

 古事記はいよいよ天皇の御代を描く中巻(なかまき)をそう書き始める。後に初代神武天皇
となるイハレピコが、4人兄弟の長兄、五瀬命に相したというのである。相談内容は次のような
ものだった。

 「何れの地に坐さば、天まつの下の政りごとを平らけく聞こし看(め)さむ。なほ東に行かむと

思ふ」

 天下の政治を無事に執り行うためには、もっと東に行く必要があると思うという言葉は、決意
と決定を兄に伝えるものだ。末弟のイハレピコがすでに、日向4代目の当主になっていることを
古事記は記述する。

 「古代では、末子が親の跡を取るということが普通だったようです。親の愛情や教えを最も受
けるので優秀だからでしょうし、イハレピコの場合は兄たちは亡くなるので、古事記は後付けで
書いているのかもしれません」

 イハレピコを「神武さま」として祭る宮崎神宮(宮崎市)の黒岩昭彦権宮司はそう話す。

 宮崎神宮の元宮は、北西に約1キロ離れた皇宮神社(地図)ここが、兄弟が相談した高千穂
宮の跡とされる。

 「古事記が描く約3千年前、このあたりは海辺だったことがわかっています。東征を思いつき、
その足場にするには格好の場所だったと思います」

 黒岩氏はそう話す。イハレピコには海からの誘いもあったことを書いているのは日本書紀で、
イハレピコは兄たちにこう言ったと書く。

 <塩土老翁(しおつちのをぢ)に聞きき。日ししく、『東に美地(うましつち)有り。青山四周(よも
にめぐ)れり(略)』とまをしき>

 海の神の使いの神から、東に青々とした山に囲まれた美しい国があると聞いたと言うイハレ
ピコは、そここそが天照大御神の大業を広める場所だと力説する
東征の始まりである。

 「王の資格として、さまざまなアイデアや示唆をくれる存在が身近にいることが挙げられます。
イハレピコはその条件を満たして、初代天皇にふさわしいことを書紀は書いています」

 天照大御神の大業を広めるには天孫降臨の地の日向や九州は適地ではなく、新たな土地を
求めて東征する必要があったと考えるのは宮崎市の歴史研究家、横生氏である。天照大御神
の大業とは、 天照大御神が子の天忍穂耳尊を天降りさせようとして与えた言葉に集約される。
 「吾が高天原に御しめす斎庭の穂を以ちて、亦吾が児に御せまつるべし」

 自分の神聖な田の稲穂を授けようと嘗って、地上界に稲作を普及させることを命じたのであ
る。オシホミミから数えて5代目のイハレピコは、その使命を受け継いでいた。

 「しかし、九州は霧島,阿蘇、桜島と火山密集地でイハレピコが生まれたとされる狭野(現宮崎
県高原町)は50年から100年で住居層が変わっているほど火山灰に苦しめられている。だから
稲作に適した地を求めて東征したのだと思います」

 イハレピコが東征を決意したのは45歳の時だった。
天孫降臨⇒⇒⇒


こうぐう

皇宮神社(地図

 西に天孫降臨の地とされる高千穂峰を望み、眼下には大淀川が流れる高台

に鎮座する。ご祭神は神日本磐余彦天皇(イハレピコ)。相殿神としてイハレピコ
の日向での妻、吾平津姫命と子の手研耳命、2代綏靖天皇になる渟名耳命を
祭る。境内には、ここからイピコが東征を始めたことを示す「皇軍発祥之地」の
石碑が立つ。

 現在は皇宮神社を摂社とする宮崎神宮は、ご祭神は同じくイハレピコだがˊ相
殿神はイハレピコの父、鵜鷀草葺不合尊と母の玉依姫命。神武さまと呼ばれる
御神幸祭は10月に行われる。(皇宮神社地図

 2019-5-22  産経新聞

②軍船整え荒海に乗り出す

 〈日向より発(た)たして、筑紫に幸行(い)でます。 (中略)竺紫(つくし)の岡田宮に一年坐(い
ま)す。
(中略)阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)に七年坐す。(中略) 吉備の高嶋宮に八年坐
しき。

 古事記は、神倭伊波礼毘古命東征の全体像をそう記す。高千穂宮(宮崎市)があった日向
からの出発地は書かれていないが、地元の伝承では、耳川河口の美々津(宮崎県日向市)で軍

船を整え、日向灘を北上したとされる。

 耳川流域には、イハレビコの出発にちなむ地名が数多く残る。 神立山から切り出される船材
を待っていた
地域は、「船を待つ」を意味する「船間」。美々津立磐神社には、イハレビコ
指揮を執った腰掛岩があ
り、そこで服のほころびを立ったまま縫わせた伝承から美々津は別称
「立縫の
里」と言われる。

 美々津で風向きを見るた凧をあげ!場所は「遠見」。軍船が通った沖合の2つの島の間は「御
船出の
瀬戸」。軍船はその後、美,津に戻ることはなかったので、地元の漁船は験(げん)をか
いでそこを通らない。

 こうした伝承の多くは、国学者の伊藤常足が著した九州地誌『太宰管内志』(1841年)など江戸
代後期の多数の文献が伝えている。皇学館大の岡田登名誉教授は『本居宣長の『古事記伝
』以降、神武東
征の足跡を求めるブームがあったのではないかと考えられる」と推測する。。

 イハレビコの記憶は近代・現代にも引き継がれ、美々津の伝承を調査した元宮崎県立図書館
長の若山甲蔵
氏(故人)は、出立の場面を「神武天皇お船出の歌」にした。

 〈天皇のらす大御船 後に前につらなりて 百船千船すすみつつ〉

 昭和15年には、紀元2600年祭で舟形埴輪をモデルにした木造帆船「おきよ丸」(全長21m)が
建造さ
れ、美々津から大阪まで海道東征の航海を再現した。その際の記録は、出港直後の様
子をこう書いている。

 〈東烈風吹き募り、狂乱怒涛、おきよ丸は木の葉のごとく・・・〉

 「神武東征は難行だったからこそ、多くの伝承を生んだことをうかがわせる。
 〈豊国の宇沙に到りまし
し時に、其の土人名(くにびと)は宇沙都比古、宇沙都比売二人、足一
騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて、大御晩響(おほみあへ)
を献る>

 古事記は、荒海に乗り出したイハレビコを現在の大分県宇佐市を拠点とした豪族が歓待した
ことを書く。

吉備を出た後には、難所の速吸門はやすひのと・明石海峡)の水先案内をする住民と出会った

ことを記す。 東征には次々と協力者が現れた。

 「東征が、稲作を普及させるためのものだったことが大きいと思う。どの国の歴史でも食を制
するものが
天下を制する。イハレビコは王になる資格があったことを古事記は書いていいる」

 イハレビコを祭る宮崎神宮(宮崎市)の黒岩昭彦権宮司はそう話す。東征は、瀬戸内航路を開
拓した意味合いも持つ。日向市教委の緒方博文氏はこう話す。

 「美々津間辺からは畿内の弥生式土器が多数出土する。このころ畿内と九州の「海上往来が
盛んになったの
でしょう」。


みみつ

美々津港(地図

 江戸時代から残る町並みは国指定重要伝統的建造物群保存地区。全長

100キロにわたって森林資源が豊富な耳川の河口にあることから、木材、
炭、茶、シイタケなどの畿内への
供給地として栄えた。回船業が本格化した
江戸時代には、四国や阪神航
路と結ぶ千石船の拠点になった。

 明治維新後の廃藩置県では美々津県が置かれた。昭和17年、神武東征

を記念した「日本海軍発祥之地記念碑」が設置された。終戦後、GHQが碑文
を外したが昭和44年、 日向市
や宮崎県、政財界の尽力で復元された。

 2019-5-23  産経新聞


③国造りの旅 長兄失い悲嘆

 く浪速の渡(わたり)を経て、青雲(あをくも)の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまふ。此
時に、登美能那賀須泥
古、軍を興し、待ち向かへて戦ふ> 古事記は、神倭伊波礼毘古命の船
団が大阪湾に入っ
て白肩津(現大阪府東大阪市)に停泊した時、地元の豪族ナガスネビコが軍
勢を
率いて、戦いを仕掛けたと記す。16年を数える東征で初めての戦だった。 イハレビコは陣
頭に立って防戦した。

 〈御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。故其地(かれそこ)に号(なず)けて楯津と謂
ふ>

 ナガスネビコが戦いを挑んだ理由は、日本書紀がナガスネビコの言葉としてこう書いている。

 「夫(そ)れ天神の子等の来ます所以(ゆゑ)は、必ず我が国を奪むとならむ」

 日本書紀が記録する戦場は孔舎衛坂(くさゑのさか・東大阪市)現在は聖蹟伝承地として石
が立っている。

 「当時は海に面していた河内の沿岸は、池上·曽根遺跡のような弥生遺跡が出土している。古
代には
すでに、いくつかの集落ができ上がっていた先進地で、それゆえにイハレビコは上陸に
苦労したのでしょう」

 関西大の若井敏明常勤講師は、ナガスネビコが率いる軍団の組織力をそう推測する。この戦
でイハレビ
コの長兄、五瀬命が矢傷を負う。 退却する途中、五瀬は敗因を語る。

 「吾は日の神の御子と為(し)て、日に向かひて戦ふこと良くあらず。 故賎(かれいや)しき奴
(やっこ)が
痛手を負ひぬ」

 太陽神·天照大御神の子孫なのに、東に向かって矢戦をしたことがよくなかったとして、イハレビ
コに作
「戦を与える。

 「今よりは行き廻(めぐ)りて、背に日を負ひて撃たむ」

 瀬戸内海を南下して紀伊半島の東に出る船旅が始まった。その途中で五瀬命は海で傷口を
洗った。

 〈血沼の海に到り、其の御手の血を洗ひたまふ。 故血沼の海と謂ふ>

 古事記はこの件(くだり)で盛んに地名由来を書く。土地や人への命名は王の特権とされる。
古事記は、五瀬命をイ
ハレビコに並ぶ権威者として描いている。

 〈男建(をたけび)して崩(かむあが)りましぬ。

 故其の水門(みなと)に号けて男水門(をのみな)と謂ふ。 陵(みはか)は紀国の竈山(かまや
ま)に
在り)

 古事記が書く五瀬命の最期だ。「崩り」も「陵」も本来は、天皇にだけ使われる言葉である。
五瀬命の陵
と推定される円墳は和歌山市和田にあり、現在は宮内庁が管理している。隣接す
る竈山神社は、五瀬命を主祭神としている。

 「一行は100回上陸しようとして、100回退けられたという口伝がこの地には残っています」と吉
義章富司は話す。 神社周辺には古代から陵を守り続けたと伝わる木野、笠野、鵜飼の3家が
残る。

 「3家は、イハレビピコが神武天皇として橿原宮で天下をお治めになられた後、五瀬命さまの
御魂を鎮めら
れるために橿原から遣わされたと伝わります。笠野家は奈良の笠縫の地名から一

字を取ったとも言われています」

 古事記の記述も伝承も、国造りの旅で信頼する長兄を失った初代天皇の悲嘆を今に伝えてい
る。


かまやま

竈山神社(地図

 本殿にはイハレビコ(神武天皇)の長兄、五瀬命を祭る。左脇殿には

イハレビコら兄弟、右脇殿には東征の随行者を祭る。

 延喜式の神名帳にも残る式内社で、皇室御崇敬の大社として天正
間まで社領8町8段を持ったが、戦乱時に衰退。江戸時代、 和歌山
城主
の徳川頼宣によって再興された。寛政6(1794)年冬、国学者の
本居宣長
が参拝し、歌を詠んだとも伝わる。

 本殿裏には宮内庁が五瀬命の墓とする円墳がある。五瀬命の命日
とさ
れる5月8日には毎年、神社による雄語祭(おたけび)が行われる。
 高倉下⇒⇒⇒


 2019-5-24  産経新聞


④国譲り成功の霊力を授与

 <神倭伊波礼毘古命儵忽(たちま)ちにをえ為(し)たまひ、また御軍(みいくさ)もみなをえて伏し
ぬ>

 古事記は、長兄、五瀬命の遺言に従って紀伊半島沿いに南下し、熊野から上陸したイハレビ
コが、巨大な
熊によって兵士もろとも正「気を失わされたと書く。この危機を救ったのは地元の
住民、高倉下だった。

 く一横刀(たち)を膏(も)ち、天つ神の御子の伏せる地に到りて献る時に、天つ神の御子、
(さ)め起き〉

 高倉下が献上した横刀(たち)は強力で、目覚めたイハレビコが手にしただけで熊野の山の荒
ぶる神はみな、自ら
切り倒されたと古事記は記す。

 「国の統治者にふさわしどうかを試す、最後の試練が『をえ』という生死の境界をさまよう状態
なの
でしょう。これを克服して甦り、熊野の神のお墨付きを得たことで横刀が授けられたのだと
思います」

 「高倉下を祭る神倉神社を摂社に持つ熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の上野願宮司はそう
話す。

 高倉下はイハレビコに横刀を手にした経緯を語る。高天原の最高神でイハレビコの先祖であ
る天照大御神
と高木神が、地上の騒々しさに気づき、建御雷神に下るよう命じた夢を見たとい

う内容である。

 「僕(やつかれ)、降らずとも、もはら其の国を平(ことむ)けし横刀有り。 是の刀を降すベし」

 そう答えたタケミカヅチは、高倉下の倉に横刀を落とし入れ、イハレビコに献上するよう命じた。
夢から
覚めた高倉下が倉に行くと、夢のお告げ通りに横刀があったという。

 横刀は、タケミカヅチが高天原から降って大国主命に国譲りを迫った際、浜辺に突き刺したも
のだ。 タケ
ミカヅチの交渉が、武力を背景にしたものだったことを示唆するのが、この横刀なの
である。

 「タケミカヅチの横刀は国譲りで使われた特別なものタケミカヅチのパーワーそのものが付与
されている
と考えられる」

 淑徳大の森田喜久男教授はそう話す。 国譲りを成功させた霊力が、畿内に入ったイハレビコ
に授けられた
ことを、高倉下の物語は語っている。
 「古事記は、熊野から吉野に入るイハレビコに高木神が「天つ神の御子」と呼びかけ、こう伝え
たと書く。

 「今天(あめ)より八咫烏を遣はさむ。故其(かれそ)の八咫鳥引道(みちび)きてむ(道案内す
る)」

 熊野上陸後の記述の特徴は、イハレビコを「天つ神の御子」と書くことだ。 吉野では、天つ神
の御子のも
とに次々と国つ神がやって来た。 その一柱、石押分之子(いわおしわくのこ)はイハ
レビコにこう告げる。

 「今、天つ神の御子幸行(い)でますと聞く。故、参向(まいむ)かへつるのみ(お迎えに参りした)」

イハレビコへの帰順は、白肩津(現大阪府東大阪市)で矢戦を仕掛けた登美能那賀須泥毘古の
妹婿、迩
芸速日命まで続く。自らも高天原から降った者だと名乗ったニギハヤヒは、義兄を討っ
てイハレビコに臣従
を申し出た。 もともと地上界にいた国つ神や高天原の他の神を従えたイハ
レビコ
を古事記はこう記す。

 〈畝火うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめしき>


神倉神社(地図

 熊野三山の一つ、熊野速玉大社の摂社。伝承によると、 熊野の神々はま

ず、神倉神社のゴトビキ岩に降り立ち、後に平地に造営された大社に遷(う
つ)さ
れた。神倉神社が元宮で、 大社は新宮にあたり、それが新宮市の地
名由来と
なった。

 神倉神社のある神倉山では弥生時代中期の銅鐸の破片などが発掘され、
くから自然崇拝年の対象だったとみられる。イハレビコが態野の神邑(み
わのむら)で登った
と日本書紀が書く天磐盾(あまのいはたて)は、神倉山と

される。約1800年の伝統を誇る勇壮な御燈祭りは、国の重要無形民俗文化
に指定されている。

 2019-5-25  産経新聞



⑤祭祀王たるべく皇后求める

 東征を終えて天皇(すめらみこと・初代神武天皇)に即位した神倭伊波礼毘古命は、日向にも
妻と2人の子がいたが、新たに大后(おほきさき・皇后)となる女を求めた。

 <大久米命白おおくめのみことまを)さく、「此間(ここ)に媛女(をとめ)有り。 是れ神の御子と謂
ふ>

 臣下のオオクメが勧めたのは伊須気余理比売美和(三輪,現奈良県桜井市)大物主神が、三嶋
(現大
府茨木市·高槻市 ・吹田市)の湟咋(みぞくひ)の娘、勢夜陀多比売(せやだたらひめ)を見
初めて生まれた
女性だという。 オオクメはスケヨリヒメの両親の結 について、こと細かに語る。

 大物主神は、セヤダタラヒメが用を足している時、丹塗矢(にぬりや・赤く塗った矢)に変身して
「溝」を流れ下り
ヒメの陰部を突いた。 驚いたヒメが矢を持ち帰り、床のそばに置くと、たちまち

立派な若い男に変身した。2人は結ばれ、イスケヨリヒメが生まれた。

 「故是(かれここ)を以(も)ち神の御子と謂ふ(そういう経緯だからヒメは神の子なのです)」

 「湟咋のミゾとは水田の溝、クヒは杭で水田の溝の棒杭を指し、『三嶋の湟昨』という名には、
三嶋地
方の豊かな水田を象徴する意味があります」

 論文「伊須気余理比売の誕生」を書いた国学院大の山崎かおり講師はそう話す。一方で古代
には、丹塗
矢は雷神の象徴。「稲妻」という言葉があるように、雷は稲の成長を促進させるもの
と考えられていた。

 「丹塗矢が豊かな水田の神の娘のもとへ通うという伝承は、雷神が田を訪れ、稲の成長を促進
させるとい
う信仰が背景にあります」

 実際の三嶋地方について茨木市歴史文化財課の清水邦彦氏は「古くから水田を営む集落が
あり、農耕が盛
んでした」と言う。同市五十鈴町には媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ
のみこと・イスケヨリヒメ)らを
祭る溝咋神社(みぞくい)がある。 神社の南西にある東奈良遺跡か

らは、弥生時代の完全な形を保った銅鐸鋳型や銅鐸を描いた絵画土器が出土している。 銅鐸
は、農耕祭祀に
使われたとみるのが有力だ。

 〈日向に坐しし時に(中略)生みたまへる子(中略) 二柱坐す。然(しか)あれども更に、大后と為
(せ)む美人を求
ぎたまふ>

 古事記はこんな文章で、天皇には皇后になる女性が必要だったと強調する。その理由を山崎
氏はこう述べる。

 「日向出身の天皇が倭(大和)で即位して天下を治める以上、倭を代表する神である大物主神
の娘を娶るこ
とが、祭祀権の獲得という意味で重要だった。 ヒメを大后とすることで、天皇は
祭記王たる天皇として即位
することができたのです」

 イスケヨリヒメの父は大和を代表し、日本書紀では大国主命と同一神とされる大物主神。母は
畿内の先進地、三嶋を治める湟咋の
娘。オオクメは、この血統の娘こそ天皇の妻にふさわしい
と勧めていたのだ。

 「畿内の広範囲の地域を背景とし、天皇の大后としてふさわしいといえるでしょう」と山崎氏は
言う。 天
皇の崩御後は、ヒメの三男が即位して2代綏靖天皇なった。 この連載は北村理、坂
英彰、安田奈緒美、安本寿久、山上直子、各氏が担当しました。


みぞくい

溝咋神社(地図


 大阪府茨木市五十鈴町(旧三島
郡)に鎮座する。平安時代の延喜式

神名帳にも記載される古社で、社伝によれば、創建は約2千年前、第
10
代崇神天皇の時代にさかのぼる。

 もともとは上下2社があり、上ノ宮には初代神武天皇の皇后となった

媛蹈鞴五十鈴媛命(イスケヨリヒメ)、下ノ宮には母の玉櫛媛(セヤダタ
ラヒメ)が祭られていた。明治
42年に統合した。

 ほかに皇后の祖父の溝昨耳命(みぞくひみみのみこと)らも祭られ、
湟咋は農耕や水の管理で淀
川北岸の三島地区を支配した一族だった
とみられる。


 2019-5-27  産経新聞





水泥南古墳

 1995、96年の調査で、古墳の直径は約25mと判明。玄室の床面には石が敷かれ、須恵器
や金銅製
の耳飾りなどが出土した。羨道に置かれている石棺は追葬と考えられている。 追葬の
際、
「羨道の側壁に当たらないよう石棺の側面にあるはずの突起が削られている。

 JR·近鉄の吉野口駅から徒歩約5分。 近くに駐車場はない。石室の入り口の鍵は御所市教育委
員会が管理している。見学の際は事
前に文化財課まで電話(0745ー60ー1608)で申し込む。

 御所市から高取町にかけて 北約5kmの範囲に広がる巨谷は、5世紀後半~7世紀ばに200基
以上の古墳が
築造されたとされる。6世紀に力をつけた豪族·巨勢の居住地の中心だったと考
られている。

 今回、御所市教育委員会文財課の金沢雄太さん(32)とれた水泥南古墳(みどろ・国史跡)巨勢
谷にある円墳だ。 築造
6世紀後半とみられる。 近くに水泥北古墳という古 もあるのですが、それ
は民
の敷地内で見つかったの 、 管理もお願いしているん す」と金沢さん。

 水泥南古墳の横穴式岩室に入ってみた。奥の玄室と羨道 通路)に、2基の家形石棺 置かれて
いる。

 「これを見てください」と金沢さんが羨道にある石棺の蓋石を指さしながら、言った。蓋石につい
た運搬用の縄
をかけた突起部分に、蓮華文(ハスの花をかたどった模様)が彫られていた。

 蓮華文は飛鳥時代にお寺の軒丸瓦などに使われたモチーフだ。 6世紀中、ごろに日本に伝わ
ったとされる仏教が、
6世紀後半には豪族の古墳に影響を与えるほど普及していたことを示す事
例だという。

 「反対側の蓋石のはうが蓮華文がきれいに残っていますよ」と金沢さん。 ただ、そこにたどり着
くには石棺の横を
通り抜けなければならない。まずは金沢さんが手本を見せてくれた。足場代わ
りのコ
テナ箱に足をかけ、体を滑らせていく。石棺になるべく触らないように器用に通り抜けた。

 続いては記者の番。体形は金沢さんとそんなに変わらない。見よう見まねで、体を石棺の脇に
潜り込ませた。しか
し、半分ほど進んだところ、完全に体が詰まってしまった。

 「重心を上に移動してみて」。金沢さんの助言で体を持ち上げてみる。石棺や石室側壁に少し触
れてしまった
、何とか通り抜けた。

 羨道の石棺の突起を見ると、たしかにこちらのほうが蓮華文がはっきりと残っている。ただ、石
棺の横を通る
は至難の業。石室の保護のために、 訪れた人は自分の体形と相談した方が良さ
そうだ。

 石室の外に出て、記事用の写真を撮影していると、男性 に「取材ですか」と声をかけられた。
この人こそ、自宅の
敷地内に水泥北古墳がある西尾興右さん(79)だった。「ウチにも来るんです
よね」と西
尾さん。一緒に100m先の宅に向かった。
  2019-2-1  朝日新聞



東大寺転害門

とうだいじてんがいもん

(国宝/世界遺産)東大寺転害門と奈良市きたまち転害門観光案内所


門の名称:転害門、西北大門、佐保路門、手掻門、碾磑門、景清門、大門等の多くの呼称があ
       る。

創建時期:756年~762年(詳細な時期は定かではない)。

規模:南北幅約17m、東西幅約8m、高さ約11m。

建築様式:三間一戸八脚門、切妻樣式、本瓦屋根、三棟造、基壇化粧,礎石は花崗岩製。

立地:平城京跡の一条南大路(佐保路)と東七坊大路との交差点に面する。

改修履歷:1194年~1195年源賴朝の東大寺参拝の際、大規模に改修(天平建築の趣きを残す)。

       1931年~1932年解体修理の際、老朽化した柱3本を交換。

関連行事:2月11日 竹送り/二月堂修二会用の竹を運ぶ人の行列が休憩をとる。
       5月3日山稜祭/聖武天皇御稜を参拝する僧の行列がこの門を通過。

       10月5日 手向山八幡宮の祭(転害会) /しめ縄を4年に1回新調。

転害門付近での主な争い:
       1180
奈良の焼き討ち/転害門、正倉院、三月堂を除き、大半の建物が焼失。

       1567年松永久秀と三好三人衆との戦い松永勢が転害門に布陣。

転害門に関する興味深い痕跡:

         ①柱に残る矢じりと弾丸の傷跡(1567年の戦い)

         ②基壇の南西面にある赤茶色の化粧石(焼失した近くの寺院の石を再利用した
           可能性)

         ③節が目立つ南西陽隅の柱(長年風雨にさらされた傷んだ痕跡)

         ④石段上の不自然な窪み(鎌倉時代以降、人為的に施された痕跡と推察)、 盃状
           穴とも言う。

         ⑤扉が無い門(明治時代初期の廃仏殿釈の際、 東大寺境内へ自由に出入り出来
          るよう扉を外したと推察)

奈良市きたまち転害門観光案内所

 昭和 15年(1940年) 12月に南都銀行 手貝支店として建設された建物が前身で、内部は吹き抜
けで広々
とした室内空間が特徴的。設計は岩崎平太郎(1893年~1984年、奈良県吉野郡下市
出身。畝傍中学校舎、
奈良県知事公舎、奈良女子大学佐保会館、吉野駅舎等の数多くの近代
和風建築を設計)。昭和 47 年(1972
年)、今小路町に同支店が移転後は、病院の寮や美容·理容
店として利用。 老朽化が進み、取り壊し計画に
端を発し、地元からの保存要望を受けて奈良市
が改修し、「奈良市きたまち転害門観光案内所」として平成
25年(2013年)5月に開所。一階には
観光案内スペースの他、和室、トイレ等を、二階には会議室、事務
室等を配置。小屋組みには
古材と新材を混在させ、ボルト等も使用可能なものは極力使用。

開所時間は、毎週木曜日と年末年始を除く 10時~16時。案内所は「転害門前旧銀行建物活用
協議会」が
ボランティアで運営。観光案内は「観光ボランティアガイドの会·朱雀」が担当。 ご近所
の旧時計商から寄
贈された明治の分銅時計、鹿の木彫や転害門大注連縄の残片を常時展示
する等、多彩な催しを開催。

(転害門前旧銀行建物活用協議会)



百舌鳥・古市古墳 世界遺産

 開発の脅威と古墳に対する親しみの両面があるー。市街地に密集する49の古墳で構成され
る「百舌鳥·古市古墳群」(大阪府)が、ユネスコ (国連教育科学文化
機関)の世界文化遺産に登録
される見通しとなった。文化庁は14日、諮問機関から
「登録が適当」と勧告があったと発表した。

 「大山古墳(伝仁徳天皇」陵)」や「誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)」など国内最大級の前方後
円墳だけ
でなく、円墳、方墳、帆立貝形墳など大きさも形も多様な古墳群。古墳時代最盛期の
4世紀後半~5世紀後
半の姿を残し、堺市の百舌鳥エリアと羽曳野·藤井寺両市の古市エリアの
それぞ
れ4k四方に密集する。

 住宅が張り付くようにある立地から、開発から守られると判断されるかが焦点の一つだったが、
ユネ
スコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)は勧告で、都市化されて古墳の間近にも
人が住んで
いることについて、古墳を守る助けにも圧力にもなと指摘した。文化庁の担当者は
「開発圧力という負の
影響とともに、地域住民が古墳に親しみを持つというプラスの影響もあると
いう
指摘だ」と好意的に受け止める。

 小林万里子·文化資源活用課長は「傑出した古墳時代の埋葬の伝統と社会的政治的構造を示
していると評
価いただいた」と話した。

 6月3日からの世界遺産委員会で正式に決まれば、「自然遺産を含め国内23件目の登録とな
る。 (上田真由美)


 「都会の住宅密集地のまっただ中に、島のように浮かぶ巨大古墳の群れ。その過半数は宮内
庁が管理する
「陵墓」「陵墓参考地」が含まれ、研究者でさえも自由な立ち入りが禁じられている。
そんな異例の世界遺
産候補として推薦された「百舌鳥·古市古墳群」(大阪府)は、なぜ、イコモス
から高い評価を得たのか。
その背景に、 古墳と地域住民との間で紡がれてきた歴史があった。

 「古墳のすぐそばに人が住み、それが地域住民に古墳への親しみ、尊敬の念を与えている、と
イコモスは
判断した。それが非常におもしろい」

 14日未明に開かれた文化庁の記者会見。担当調査官の一人は、勧告内容を紹介しながらそ
う語った。

 ユネスコは遺産の保護に、地域コミュニティーの役割を重視する。イコモスは古墳群の環境に
宅地造成
などの「開発圧力」があったことは認める一方で、古墳群が近隣住民に見守られ、地域
社会とともに生きて
きた姿も評価した。 そのポジティブな視線は、都市型遺産の在り方にもヒント

を与えそうだ。

 都市計画が専門で世界遺「産に詳しい神戸芸術工科大の西村幸夫教授は「市街地と、どう共
生するか。 市街
地と古墳群は相反するものではない、そんな尊重の仕方をイコモスも感じたとい

うことだろうか」とみる。

 古墳群の特徴の一つが、構成資産に文化財としての国史跡がある一方で、陵墓や陵墓参考
地も含まれてい
る点だ。宮内庁管理の禁断の地だけに、評価の行方には懸念もあった。 学術研
の蓄積から推測される被葬者像と陵墓としての名称の齟齬が問題視され、非公開でもある現
状は世界遺産に
欠かせないオーセンティシティー(真正性)実証への影響も指摘された。こうし
点がどう評価されるのか
が注目されたが、今回の勧告では言及されなかった。

 古墳群の世界遺産に向けて課題を検討する有識者会議の座長を務めた石森秀三・北海道博
物館長(観光
学)は「陵墓には立ち入れない代わりに様々な最新テクノロジーを通して、より正確
な情報を提供していく
ことは重要だと思う」と期待する。

 有識者会議の委員の一個人、白石太一郎·大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は「古
墳群は、
世界の初期国家の在り方が地域によって違うことを見事に証明する遺産だ。陵墓一「古
墳のあるべき姿について
の国民的な議論の契機になればいい」と話す。
  (上田真由美、編集委員·中村


解説

 大王たちの「古墳群」が世界遺産に向けて前進した。「百舌鳥・古市古墳群」は天皇家の陵墓
として立ち入りが制限される構成資産を含む異例の資産群ながら、それもまた全人類の財産だ
とイコモスは
判断したということだろう。背景には近年、複雑,多様化する推薦物件への積関極的
な対応が透けて見える。

 都市部ゆえの景観保護の難しさ、あるいは大小·多様な古墳が混在するため一部に除外を求
められるので
は、との心配もあったが、49基すべてに 満額回答を得て、ひとまずOUV(顕著な
普遍的価値)が認
められた格好だ。

 世界遺産登録が現実味を帯び、世論の関心が高まるのは間違いない。昨年は文化財保護法
が改正され、先
人が残した歴史遺産を暮らしにどう生かすか、社会との共生や活用の流れは加
するばかりだ。 閉鎖性を持つ「古墳群」も例外ではない。勧告をきっかけに天皇陵の積極的
な公開や、より
路み込んだ学術調査を求める声の高まりも予想される。
 忘れてならないのは、世界遺産の意義はまず、私たちの財産を後世の世代へ手渡すこと。 宮
内庁と堺市に
よる大山古墳の共同発掘調査が実施されるなか、「静安と尊厳」を重視する従来
の姿勢とのバランスや、名称問題などをめぐる学界の

見解との矛盾をどう解決するか、など真摯な議論が求められよう。勧告は、多様化する文化遺
産の在り方を
考えるきっかけにもなるはずだ。
   (編集委員·中村俊介)

 

ホー先生 大阪の百舌鳥·古市古墳群が世界遺産になるのか?

A  ユネスコの諮間機関が世界文化遺産に登録すべきだと勧告したよ。正式には7月ごろの国
際会議で決
まるんだ。 中でも「仁徳天皇陵」として知られる大山古墳は教科書でもおなじみだね。
空から見るとかぎ穴
のような形の「前方後円境」だ。ほかにも巨大な古墳が次々と造られた4世
後半~5世紀後半の丸や四角、形も大きさも様々な、あわせて49基が候補だよ。

 たくさんあるのう。

A 古墳時代には、リーダーの大王(後の天皇)や豪族が亡くなると、土を積み上げて大きなお墓
を造っ
た。これをいまは古墳と呼ぶ。大阪府の百舌鳥(堺市)と古市(羽曳野市と藤寺市)のエリア
でも20
0基以上築かれたようだ。

 「仁徳天皇陵」はずいぶん大きいのう。

A 全長486m。お濠も含めると甲子園球場が12個入るほどだよ。 クフ王のピラミッドや秦の始
皇帝の
お墓と並ぶ、世界的に巨大なお墓の一つなんだ。

 どうしてわざわざそんなものを造ったのじゃ。

A  支配者たちが競うよろに大きなお墓を造って力を誇っていたと考えられているんだ。 大山古
墳の北と
南(北 反正天皇 南 履中天皇)には、宮内庁が仁徳天皇の息子のお墓だとする大き
な前方後円墳がある。 当時はこの近くまで海だったそうだから、大阪湾の船から見ると、三つ並
んですごい
迫力だったのだろうね。今は木が生いしげって森のように見えるけど、土が崩れない
ように表面に石をしき
つめ、上には埴輪が並べられていたのではないかと考えられているよ。

 中を見たいのう!

A  宮内庁が今の天皇家の祖先のお墓として厳しく守っていて、入れないんだ。 学者の発掘調
査もほと
んどできていない。世界遺産になれば見学者も増えるだろうから、価値を理解してもらう
工夫が必要だね。
  
(上田真由美) 
  2019-5-15  朝日新聞

 
 百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議のパンフレットより



鳥獣戯画ちょうじゅうぎが

ホー先生 大阪の中之島香雪美術館で2日から「鳥獣鼓画」が公開されるそうだな。 どんなもの
じゃ?

A  京都の高山寺に伝わる国宝の絵巻だ。 正式には「鳥獣人物戯画」というよ。甲乙丙丁の4巻
があっ
て、それぞれ縦31cm前後、長さ10m前後ある。鳥や獣類、人間たちが遊んだり勝負ごと
をしたりしている場
面が描かれ、ユーモラスな筆致から「漫画のルーッ」ともいわれているんだ。

 何が描かれているのかな。

A  それぞれちがうんだ。ウサギやカエルが人間のような姿で登場する甲巻が、一番有名だよ。
乙巻は
動物や聖獣がリアルな姿で描かれている。丙巻は前が人物、後半が動物戯画で、丁巻
は人物戯画だ。

 いつごろの絵じゃ?

A  甲、乙巻は平安時代の12世紀ごろ、丙、丁巻は鎌倉時代の13世紀ごろ描れたとされてい
る。作者は
わかっていない。戯画の名手といわれる鳥羽僧正と長く伝えられてきたけど、巻によ
って絵のタッチがちが
うため、現在では複数の絵師が描いたという説が有力視されている。 何
のために
描かれて、どうして高山寺に伝わったのかは、はっきりとはわかっていない。

 なぞが多いな。

A  そうだね。ただ、2009年から4年かけて朝日新聞文化財団の助成で大規模な修理をして
、新しい
発見があったんだ。

 ホホウ!

A  たとえば、丙巻はもともと前半と後半が巻物の裏表に描かれていたことがわかった。どこか
の時点で
1枚の紙が2枚にはがされたようだ。甲巻で中盤と後半の絵の順序が入れかわってい
たこともわかったよ。

 どうしてわかった?

A   修理で裏打ち紙をはずすから、くわしく調べられる。使われている紙の質やはけの跡から、
新事実が
発見されたんだ。将来、また新しいことがわかるかしれないね。

同巻で違う作者?
 動物や人間の姿をユーモ
ラスに描いた、京都·高山に伝わる国宝の絵巻「鳥獣戯画」(甲乙丙丁
の4
巻)。4巻のうち、最もよく知られているのが、擬人化されたウサギやカエルが「登場する甲巻
だ。 その甲巻
の前半と後半で、作者が違っていた可能性が、近年の調査で高まっている。

 鳥獣戯画は12~13世紀にできたとされる。作者や高山寺に伝わった経緯、制作の目的ははっ
きりとわかっ
てない。

 甲巻の前半と後半は、ウサギの体形の違いなどら、別の作者によるものという説が以前からあ
った。

 たとえば前半に出てくるウサギは、 頭が大きく子どものような愛らしい体形だが、後半では頭が
小さくな
り、顔つきや体形がシャープになっている。この甲巻後半の筆致は、動物や聖獣を写実
的に描いた乙巻の描
写に通じるところがあるといわれている。

 そんななか、2009年から朝日新聞文化財団の助成で4年がかりの解体修理が行われ、新たな
事実がわ
かった。16年9月に刊行れた修理報告書「鳥獣戯画 修理から見えてきた世界」(勉誠
出版、京都国立
博物館編)によると、甲巻の前半(1~10枚) と、後半(11~23枚目)では、使わ
れている紙が違うこ
とがわかったという。作者が異なるという説を補強する材料になるとみられる。

 一方、甲巻の後半の紙と、乙巻の紙(21~23枚目、31~32枚目を除く)は、極めて近い紙だ
という。

 また、報告書には、甲巻の中盤と後半の絵の順序が入れ替えられていたことや、丙巻の前後
半がもとも
と1枚の表裏に描かれていたことなども、その根拠とともに記されている。

 2019-3-20  朝日新聞  





石神遺跡

 発掘調査で判明した飛鳥地域の歴史と文化を紹介する明日香村の奈良文化財研究所飛鳥資
料館
。受付の目立つところにあるのが「石人像」(高さ1.7m)、国重要文化財)だ。 男女が抱き
合うユーモラ
スな姿が彫られている。館内の常設展示には、石を塔のように重ねた「須弥山石」
(高
さ2.3m)、国重要文化財)も紹介されている。仏教思想で世界の中心にそびえる須弥山
文様が彫られている。

 いずれも、 1900年代に飛鳥寺の北西にある田んばから出土し、一帯が石神遺跡呼ばれる
きっかけになった。

「石の中に穴が開いていて、噴水のように水が出る仕掛けになっているんですよ」と飛鳥資料館
の西田紀子さん(42)
が教えてくれた。

 なぜ、噴水型の石造物が造られたのか。飛鳥資料館を出て、石神遺跡に向かった。地元の人
でにぎわう農産物の直
売所の東側に石神遺跡はある。

 日本書紀の記述から、斉明天皇(在位655~661)の時代、石神遺跡の辺りに外国の来訪者や
蝦夷をもてなし
た饗宴施設があったと考えられてきた。

 奈良文化財研究所の発掘調査でも、饗宴施設に関わるとみられる長大な建物で囲われた区
画や、石敷きの広場、石
組溝などが見つかった。

 「建物跡の発表時は『飛鳥の迎賓館か』と話題になりました」と西田さん。饗宴の場に、須弥山
石や石人像も置か
れたと考えられている。訪れた人に、噴水のように水が出る石造物を見せつ
ける狙いが
あったのだろうか。ただ、石個人像と須弥山石がどこに立っていたかはわかっていな
い。

 石神遺跡は飛鳥時代に何度も姿を変え、天武天皇(在位673~686) のころは饗宴施設ではな
く、役所として
使われたと考えられている。

発掘調査で役所のような建物跡や木簡などが見つかった。

 石神遺跡のすぐ南には、(水時計)の遺構で有名な水落遺跡がある。日本書紀には660年
中大兄皇子(後の
天智天皇)が漏刻を造り、民に時を知らせたと記述が残る。

 「水の量で時間を計る水時計にとって傾きは大敵。そのため建物の基礎から強固な造りが必
要だったのです」と西
田さん。 柱は地下に据えられた礎石の上に立てられ、安定させるため礎石
と礎石の間を
石でつなぐ地中梁工法(ちちゅうばり)という特殊な工法が用いられた。 現地では柱
や礎石が復元され、
地中梁工法の様子もよくわかる。

 再び飛鳥資料館に戻ると、「須弥山石と石人像の前で、多くの来館者が高さを実感するように
見上げていた。かつて
饗宴の場を彩った2体の石造物は、1300年後の現在も、新たな舞台で、
歴史ファ
ンの心をつかんでいる。
  2019-3-1  朝日新聞
 (田中祐也)





西乗鞍古墳

 山の辺の道を歩き、天理市に入ると、西側の丘陵には様々な古墳が広がる。 杣之内古墳(そ
まのうち)群にある前方後円墳、
西乗鞍古墳(天理市和之内町)もその一つだ。今春から一般開

放されたと聞き、天理市教育委員会文化財課の石田大輔さん(37)と一緒に訪れることにした。

 市が古墳の近くに新設した無料の観光駐車場で石田さんと待ち合わせた。2~3分ほど歩くと、
公園として再整備
した古墳の周濠部分に着いた。桜の木が植えられ、ベンチもある。 地域の人
の願いの
場になっているという。

 再整備と書いたのは理由がある。石田さんによると、周濠を含む墳丘の周りは民有地で、市が
借り受け、長く公園
として利用していた。 ところが、所有者の意向で2012年からフェンスが立ち、
古墳
に入れない状況が続いた。

 市は公有地化することを決め、所有者と交渉し、昨年度に用地買収が完了した。「一般開放が
桜の季節に間に合い
ましたので、 今年は多くの人が花見を楽しめたようです」と石田さん。

 所有者の了承を得て、史跡指定をめざした発掘調査も同時に進めてきた。 出土した円筒埴輪
や須恵器の年年代から、
築造時期が5世紀末になることがわかった。18年に国史跡に指定され
た。

 石田さんと墳丘の上をめざした。 登りやすいように散策路も整備されている。後円部の木々の
間からは天理市の街
並みが見えた。石田さんが足を示しながら、「詳細な場所はわかっていませ
んが、後
円部に横穴式石室があるとみられています」と教えてくれた。

 「前方部には、 古墳には珍しく、石碑が建てられていた。

1932(昭和7)年に昭和天皇を迎えて奈良と大阪で実施された陸軍特別大演習を記念したものと
いう。西乗鞍古
墳に野外統監部が置かれ、昭和天皇もこの場所を訪れたそうだ。「現在の墳丘
は森のよ
うになっていますが、当時は奈良盆地が一望できたと思います」と石田さん。

 5世紀末の100m超の前方後円墳となれば、被葬者はどんな人物が考えられるだろうか。 石田
さんによると、同
じ時期の古墳としては大王墓に次ぐ規模になるという。

「近くに拠点があった豪族、物部氏の首長の墓と考える研究者が多いですね」と話した。

 200m東には、東乗鞍古がある。過去に横穴式石室の中に入り、石棺を間近で見たことがあ
る。せっかくなの
で見に行きたいとお願いしたが、石室内に崩落した土が入り込み、現在は立ち
入ること
ができないという。

 天理市は東乗鞍古墳の保存と史跡指定をめざし、天理大と共同で発掘調査を実施している。
今年2月の調査では、
前方部の墳丘の裾を初めて確認した。天理市では数少ない石室内に入れ
る古墳だけに
調査と整備が終わって一般に開放すれば、杣之内古墳群を訪れる楽しみが一つ
増えるだう。 
  2019-5-24  朝日新聞
 (田中祐也)。


西乗鞍古墳 前方部を南に向けた前方後。全長約118m。後円部の直径は約616m、
高さ約16m。周濠を含む
基壇状の平らな地面が墳丘を一周するように広がっていると
推測され、南北の長さは約
165mに達する。

JR長柄駅から徒歩約30分。JR·近鉄天理駅から徒歩約45分。近くに無料駐車場あり。




赤坂天王山(1号)古墳 地図

 蘇我氏に暗殺された崇唆天(在位587~592年)の墓とされる桜井市倉橋の赤天王山古墳は、
巨大な横穴
式石室を目当てに多くの歴史ファンが訪れる人気の古墳だ。

 今回の案内人の桜井市教育委員会文化財課の丹羽恵二さん(41)も大学生のとき、友人と一
緒に訪れた。「石室の中
に入ったとき、畏れのようなものを感じました」と話す。

 丹羽さんは、桜井市の採用面接で、ほかの応募者が纏向遺の話をする中、赤坂天王山
墳について熱く語り、内定
を勝ち取ったそうだ。

 現地に着くと、東西約40~50m、南北約47mの方墳の大きさや形を実感できる。早速、石室
の中に入ってみた。

 入り口は大人がギリギリ入れるぐらいの狭さで、奥に向か 下がっているため、後ろ でゆっくり
進んだ。羨道
路)の天井に頭をぶつけながら、何とか石棺が置かれた玄室に着いた。

 目が慣れてくると、4m以上ある天井の高さと、積み上げられた巨石に驚いた。間違いなく、
大王クラスの大きさ
だ。玄室から羨道の方向を見ると、約10m先の石の合間から太陽光が見え
た。「これが被
葬者からの景色ですね」と丹羽さん。 暗闇に差す一筋の光を見ていると「畏れ」と
いう言
葉が頭に浮かんだ。

 桜井市は昨年、赤坂天王山古墳の測量調査の報告書を刊行した。 周辺の調査によって、15
基の古墳で構成する古
墳群であることがわかった。

古墳群の中では、 赤坂天王山古墳は赤坂天王山1号墳と呼ばれている。 近くの赤坂天王山3号
墳も横穴式石室に入る
ことができる。

 測量調査で、 赤坂天王山古墳を造るために、周囲の二つの古墳の一部を削ったとみられるこ
とがわかった。
日本書には、暗殺された崇峻天皇は即日葬られたと書かれている。急いで墓
を造る必要があ
ったとはいえ、もともと墓がある場所にあえて天皇の墓を造るだろうか。「発掘
調査を
すると、築造時期や過程がわかるかもしれません。いつか発掘したいですね」と丹羽さ
は言う。

 次に宮内庁が定める崇酸天皇陵に向かった。「この近くにおもしろい場所があるんです」と丹羽
さん。崇峻天皇陵
近くの細い道から小高い丘を登ると、雑木林が広がっていた。丹羽さんによる
と、この
辺りに明治の一時期、崇峻天皇陵に定められた古墳があるという。

 「あそこを見てください」と丹羽さんが指した先を見ると、林の一角に小さな墓が立っていた。幕
末の天謀組の志士
、楠目清馬の墓だった。 土佐藩出身の楠目は、幕府軍との戦いに敗れて逃
げる途中、
ふもとの集落で捕らえられ、ここに葬られた。今も歴史ファンが訪れる、知る人ぞ知る

スポットという。墓に手を合わせて、丹羽さんと次の目的|地に向かった。 
  2019-5-10  朝日新聞
 (田中)

赤坂天王山古墳  文献などによると、江戸 時代前期から崇峻天皇

の墓と考えられていた。石室や石棺の形状から築造時期は6世紀末~
7世紀初めとみら
れ、天皇が殺害された時期とも合う。だが、最終的に
は天皇屋鋪という地名にある現在の
崇峻天皇陵に定められた。

 桜井市教委の測量調査は2000年から38年にかけて実施。墳丘の
詳細な長さや、石室
の全長が15.3m以上になることがわかった。




聖護院

 平安時代後期に白河上皇熊野御幸(ごこう)の先達を務めた功績で創建されて以来、修験の
山となってきた聖護院(京都市左京区)。明治維新までは、皇室と概関家から歴代の門主が入
った宮門跡寺院でもある。

 寺地は応仁の乱や大火で転々としたが、1676年に現在の地に再建された。 正殿である宸殿
は、狩野永納や益信
らが描いた100面を超える金碧の襖絵に彩られた狩野派障壁画の宝庫だ。
江戸時代の
天明の大火(1788年)で関御所が焼失した際には、光格天皇の仮御所にもなった。
護院の宮城奏岳教事長は「厳しい修験の寺としての面と、みやびな御所文化の両面をもちま
す。」はなす。

 仁和寺など今回公開される寺の多くが、かつて皇子や皇族,貴族の子が入った門跡寺院、尼
門跡寺院だ。京都市歴
史資料館の井上満郎館長(日本古代史)は「天皇と深い関わりを持つ者
が国家鎮護を祈
るのに加え、多くの皇族の子どもらの生活を成り立たせるためでもあった。寺
側も権威
や経済的な支援を得られる利点があった」と説明する。

実際、江戸時代の寛水年間(1624~4)には、後水尾上皇と、中宮で徳川秀忠の娘の東福門院
和子が、応仁の
乱などで荒廃した京都の寺を多く復興し、仁和寺金堂(国宝)など御所から移築
された
建造物も多い。
  2019-4-21  朝日新聞



上賀茂神社

 平安京ができる前から存在したとされる上賀茂神社(京都市北区)と下鴨神社(京都市左京区)。
歴代天
皇が行幸し、賀茂祭(葵祭)は勅祭として行われてきた。

 上賀茂神社には、大正・昭和天皇が即位した際、大嘗祭に供える白酒(しろき)黒酒を造った
神酒醸造所が設けられ
ていた。 今回、その水をくんだ井戸や、おけなどの道具も公開される。

 井上さんはこう語る。「国家の安泰と国民の安寧を祈ることは天皇、皇族の使命として連綿と続
いてきまし
た。特別公開は、そうした歴史を理解した上で、天皇や皇室の将来のありようを考える
いい機会となります」
  2019-4-21  朝日新聞





長楽寺

 祇園の円山公園に隣接する長楽寺(京都市東山)は、寺伝によれば、平安時代に桓武天皇
勅命
で創建されたとされる。その本堂の厨子に安置された准眠観音像は、代々の天皇の即位
の時に開帳
される秘仏中の秘仏だ。 今回、新天皇が即位する5月1日から6月16日まで開帳さ
れる。
  2019-4-21  朝日新聞





泉涌寺

 皇室ゆかりと言えば、「御寺(みてら)」と呼ばれ、皇室の蓄提寺である泉涌寺(京都市東山区)。
歴代天
の位牌をまつる霊明殿が公開される。寺では南北朝~安土桃山時代の諸天皇や、江戸
時代の
後陽成天皇から孝明天皇まで歴代天皇。皇后の葬儀が営まれ、境内の東方に陵墓も造
営された。

 平安時代以降、天皇や皇族が私的な病気の治癒や追善とあわせて、国家や社会の繁栄と安
定をも
願って建立した「御願寺(ごがんじ)」が都の周囲に営まれた。

今回公開される仁和寺や安祥寺、勧修寺(かじゅう)なども御願寺だ。
  2019-4-21  朝日新聞





女陰突いて死んだ

 アマテラスが死んだことは、日本書紀の本文をみてもはっきりしている。

 スサノオが天の斑駒(ぶちこま・毛に斑点のある馬。「天の」は例によって天上界に区別したもの
)の皮を
さかはぎにしてアマテラスの機織屋に投げこむと、アマテラスは「驚動して梭(ひ)を以って
身を傷ま
む」とある。梭は機織りの横糸をとおすときにつかう先のとがった道具。

 これによってアマテラスは天の石窟に入り、磐戸を閉ざして「幽居」(原文)した。梭で身を傷つけ

たという 「身」が身体のどの部分であるかは、『古事記』が「天の服織女(はたおりひめ)は見驚き
て、梭に陰(ほと)上 をつ
きて死にき」というのでわかる。陰とは女陰のこと。

 記では服織女になっているが、紀の一書(異伝)ではそれがワカヒメ(稚日女尊)となっている。ワ
ヒメはたんに「若い女」というので、「機織り女」とともに普通名詞である。

 ここはやはり書紀の本文のアマテラスが、記の文章のように ホトを梭で突いて死んだ、というの
説話の原形であろう。でないと、アマテラスがなぜに石窟に入り、磐戸(横穴式石室の入口を閉
ざす石)を
閉ざして「幽居」(死を意味する) したか、わけがわからなくなる

「身を傷つける」とはあいてがア マテラスのことだから紀がその「部分」をあらわに書くのを遠慮し

たのであり、『古事記』もまた遠慮してアマテラスを服織女の名にスリかえたのである。両方が 遠
しあっているところをつなぐと原形がうかんでくる。

 ホトを突いて死んだ女の例は崇神紀に出ているヤマトトトビモモソ姫命のことがある。彼女は
オオモノヌ シ神(オオクニヌシに同じ)の妻となったが、この神は昼はこないで夜だけやって
きた。

――当時、夫が妻のもとに通う通い婚の風習がこの話にはいっている。競志東夷伝高句麗のと
ころに
もおなじような風習が書かれている。

 トトビ姫は夫に、顔を見せてくれという。夫は、それならじぶんは明朝になっておまえの櫛笥(くし
げ・櫛
を入れる函)の中に入っているが、姿を見ておどろくな、という。姫は夜の明けるのを待って
櫛笥を開
けてみると、衣紐(したひも)のようなかわいい、小さなヘビが入っていた。姫がおどろい
て叫ぶと、ヘビは人の
かたちになり、大空を踏んで御諸山(三輪山に同じ。『出雲国風土記』では
「御室山」となって出ている)に 登って
行った。ト   ビ姫は後悔して箸でホトを突いて死んだ。

 その墓は大市 (いまの奈良県桜井市)にある。ときの人はその墓を「箸墓」と呼んだ。この墓は、
昼は
個人がつくり、夜は神がつくった。大坂山 (二上山の北側の山)から石をはこんでつくったが、
人民が列 を
つくって石を手過伝(たごし)にして、つまりリーレー式にはこんだ。


性器を形どった石室
 ホト(女陰)を傷つけた女が死ぬ話としては、さきにみたイザナミが子の火神
生み、その火で
ホトを火傷し死因になったのがある。心臓部を突くなら死にも
しようが、ホトの損傷がどうして死
になるのかというフィジカル (肉体的)な疑問はこのさい役にたた
ない。ホトは生殖の機能であり、
そこに霊力があり、女性のもつ生殖機能の生命源があると信じられ
たのがこの話の前提となっ
ている。

 その器官の損壊は生殖霊力の消失であり、女性としての生命の終わりを意味すると考えられ
たので
あろう。霊力の衰退が、死を意味する例としては、さきに卑弥呼の死のところでいった。

 イザナミやアマテラスが、横穴式石室古墳をモデルにした「黄泉国」や「石屋戸」(紀では「石窟」
)に
入ったというのは、その墳墓の築造平面プランからみてそこに「再生」をねがう意味があるよ
うに想
像できる。

 横穴式石室墳墓基が、入口からの細長い羨道 (通路)と、奥の矩形の玄室 (被葬者の安置室)
とから成って
いることは前にふれた。が、この平面図は、ちょうど女性性器の膣腔(羨道)と子宮
(玄室)を想 わ せ
る。もっとも、副室を多くもつ複雑な形や片袖式のものはこれにあてはまらない
が、基本的な考えは
羨道と玄室であろう。

 神仙思想は、できるだけ長生きしたい希望から、老いもせず、死にもしない願望に発展する。
人間
欲望にはキリがない。たとえ肉体的な死がおとずれても、その再生を願うのが次の発展で
あろう。

 すると、それは、もういちど母胎に入るという考えになるのはしぜんである。が、これをあらわす

中国の文献はみあたらない。しかし、日本ではそれがアマテラスの石屋戸隠りの話となっている。
志東夷伝の韓ノ条にある鬼神(死霊)が洞穴を出入するというのもそれとおなじであろう。

 横穴式石室墳の構造は、女性性器の膣腔(羨道) と子宮(玄室)に模してプランされてつくられた
かもしれない、というのはわたしの推測であって、考古学界ではそんなこ とはいわい。けれど
も、まったくの空想ではないとわたしは思っている。

 縄文時代に多くおこなわれた土偶はすべて女性の人形である。この土偶はことさらに乳部や
の部分や性器を誇張してつくっている。
これを「地母神」にささげるためだという一般の説がある
が、「地母神」というのはこれまた 西
の翻訳くさいいいかたであって、後代の民俗学者のアテ推量
である。そういうものではなく、単に土
偶の性機能に当時の人々が霊力を素朴に信じただけなの
である。土偶が多く破壊された状態で出土す
るところから、人が災害の転移をはかったという説
のほうがまだ地母神説よりもマシである。

 女性性器を表現した土偶があるなら、男性のほうにもそれがなければならない。おなじ縄文時
代の
磨製石器の石棒(せきぼう)というのがそれにあたろう。石棒は棒状 (断面は円形)の一端に
コブ状のふくら みをつ
けているが、それが後期になると意識的に男性性器の亀頭に似せたもの
になって、はなはだリアルで
ある。ふくらみが両端についた両頭石棒というのもある。用途は実用
でなく、宗教的呪術的な意味を
もっていたと考古学者は推測するが、この呪術的意味が女性の
土偶とおなじであることはいうまでも
ない。

 このように縄文時代からつづく性器、とくに女陰にたいする霊力が、『古事記』の話にうけつがれ

ているのは、なんのふしぎもない。いったん死んだアマテラスが天石屋戸 (墓) から再生復活 する
も、アメノウズメが霊力のホトをあらわに出して踊ったことからである。

 アマテラスの隠った石屋戸の前で、アメノウズメ命は、伏せ槽(おけ)を踏みとどろかして、胸乳
(むなち)
を出し、裳緒をホトに押し垂れた、と 『古事記』にあるのは、露出したホトに垂れた紐を
男性の性器に見たててそこに押し当てたかたちである。

 この伏せ槽は、上に乗って足で踏み鳴らすことの行為じたいが、男女の交接行為をあらわす。
され
ばこそ、そこになみいる八百万神が、アメノウズメの裸体を見、そのしぐさにどっと笑いこけ、
手を
たたいたのである。 
 カミと青銅の迷路  松本清張 より



石屋戸は横穴墳墓

 イザナギヨモツ(黄泉の) 平坂(横穴式石室古墳の羨道)を追ってくる ヨモッツ醜女(しこめ)(死
霊)を一時でもしりぞけたのは、
櫛の歯であり、そこから生じた筍であり、あるいは葛を投げて生
じた葡萄であり、または桃の実であった。

 櫛は「奇」に音が通じて霊力をあらわしたのである。クシが朝鮮語のクイシン(鬼神)からきている。

 葡萄はもちろんイラン産の果物である。中国にはシルクロードなどの交易路を通じて、胡椒・·胡
桃(くるみ)
などとともに早くから入っている。その葡萄の文様が中国から七世紀の日本に入って
きているのは、
唐代に流行した中国鏡の図案(海獣葡萄鏡)などからの知識である。美術史で
鳳期
(七世紀後半) の作と
いっている奈良市西ノ京の薬師寺金堂にある薬師三尊像の台座に彫
られた葡萄文様は知られる。その
ころ珍しかった舶来の果物をヨモツ醜女が思わずむさぼり食
べたというところに当時の生活がみえる。
ここでは葛から葡萄のツルが連想されている。竹や桃
に霊力があるというのは中国思想からである。

 さて、以上はイザナミのいる黄泉の国が横穴式石室古墳であることをいったが、アマテラス
石屋
戸隠りもまたその横穴式石室古墳がモデルになっている。

 アマテラスはスサノオの乱暴狼籍に天の石屋戸を開いて中に入り、それを閉じてこもったので、
天原もアシハラの中国(なかつくに)も真暗になった。光明神が洞穴のなかにかくれては暗黒の
悪神がはびこる。「こ
こに万(よろず)の神の声は、さ蝿なす満ち、万の妖悉(わざわい)に発(お
こ)りき」(記)である。そこにゾロアスター教(祆数)的
な影響または発想がみられる。

 八百万の神々はアマテラスが隠った石屋戸の前に集まって歌ったり舞ったりする。これはすで
に記
したように魂志東夷伝の朝鮮の各国のところにみえる「村じゅうの男女がたくさん集まって、
昼夜の
べつなく歌ったり舞ったり、飲み食いする」(原文= 「国中大会、男女昼夜歌舞飲食」)という
宴楽であり、そ
れが日本では歌垣や嬥歌(かがい・東歌=常陸風土記)となった。

 高句魔では、前にふれたように、隧穴 (すいけつ・洞穴)から隧神を迎えるのに男女歌舞飲食す
る。隧穴とい
い、天の石屋戸とそっくりである。

 それでは天の石屋戸は隧穴がモデルだろうか。そうではなく、 それが横穴式墳墓であることは、
屋戸 (入口をふさぐ石)を開いて中に入ったり、閉じたそれをアマテラスが外の宴楽を見ようと
細めに開
けたりするのでもわかる。アマテラスは墳墓のなかに隠っていたのである。隠るとは死
の意味で、万
葉などにみえる「隠口(こもりく)」とは墓所の入口という意味である。まさに、アマテ
ラスは死亡 していたので
ある。

 アマテラスが石屋戸に隠ったという 「隠り」とは 「死」のことで、『万葉集』などに見える「隠口」
は墓地の入口の意味である。奈良時代には三輪山の東麓の「泊瀬(はせ)」と、盆地の西側二上
の南麓と
が「隠口」であり、げんに二上山麓は諸天皇陵と称するものや聖徳太子陵や、群集墳
ある。貴人が死ぬことを「お隠れになった」というのもそれである。
 カミと青銅の迷路  松本清張 より




仁徳陵世界遺産決定

 アゼルバイジャンで開かれているユネスコ (国連教育科学文化機関)の世界遣産委員会は6日、
宮内庁が
仁徳天皇陵」として管理する「大山古墳」など「百舌鳥·古市古墳群」(大阪府)を世界文
化遺産に登録
することを決めた。国内の文化遺産は19件目で、自然遺産とあわせて23件とな
る。大阪府の遺産が登録されるのは初めて。

 登録されたのは、国内最大の前方後円墳の「大山古墳墳」(伝仁徳天皇陵墳・墳長486m)や
2番目の規模
の「誉田御廟山古墳」 (伝応神天皇陵・,同425m)など、4世紀後半~5世紀後半に
築造された49基。堺市
の百舌鳥エリアと羽曳野·藤井寺両市の古市エリアのそれぞれ4km四方
に密集。
形や大きさも多様な古墳は、中央集権的な古代国家へと移行していく過程で、個人の
権力の大きさや身分
差が目に見える形で示されるようになっていった歴史を物語る物証として顕
著な
特徴があると認められた。

 世界遺産委員会では、各国から、古墳が市街地でも保護され、いたすけ古墳(堺市)のように住
民運動
によって開発圧力から守られたものもあることなどを評価する声が相次いだ。

 49基中29基が歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理する陵墓などだ。

      (上田真由美)


 いにしえの陵墓が世界に認められた。アゼルバイジ
ャンで開かれたユネスコの世界遺産委員
会で6日、
「百舌鳥·古市古墳群」の世界文化遺産への登録が決まった。国内審査で3回落選する
など苦労してきた地元
は、待ちわびた吉報に喜びの声を上げた。

 アゼルバイジャン ·バクーで開かれたユネスコの世界遺産委員会の会場。日本時間の6日午
後5時36分、
「百舌鳥·古市古墳群」の世界文化遺産への登録決定を告げる木づちの音が鳴り
響くと、場内は歓声と祝福の拍手に包まれた。

 審議はその約15分前に始まり、ユネスコの諮問機関イコモス (国際記念物遺跡会議)が古墳
や埴輪の画像
とともに古墳群について説明。決定を受け、吉村洋文·大阪府知事は「日本の歴史
において大変重要な資産。これからもこの資産を次世代に引き継いでいく」とスピーチ。 日本政
府代表団の
席には祝福の握手を求める各国の代表が集まった。

 百舌鳥古墳群がある堺市の永藤英機市長や、古市古墳群がある藤井寺市の岡田一樹市長
も現地入りして会
場で審議を見守った。終了後、永藤市長は報道陣に「地域の宝として親しまれ
ていたが、人類の宝と認められた。記念すべき瞬間」、岡田市長は「次の時代にどう引き継いで
いくかがこれ
からの誤題だ」とそれぞれ興奮した様子で語った。
  (吉川喬=バクー、坂本純也)


 百吉鳥·古市古墳群の地
元では、市民らの歓喜の輪が広がった。

 堺市堺区のホールで開かれたパブリックビューイングには700人が集まった。 登録が決まった
瞬間、

「やったー」と歓声がわき、拍手が鳴り響いた。堺区の小学2年大和千也君(8)にとって古墳周辺
は遊び場。

「家の近くに世界遺産ができるなんてすごい。大きさを世界の人に見てはしい」。

堺市の公式キャラクター、ハニワ課長は報道陣に、最高と古墳、ファンタスティック(夢のような)
をかけ
た 「サイコーフンタスティック」と表現。「英語を勉強したい」と頭をかいた。

 古室山古墳(藤井寺市)の墳丘上には約200人が集まった。 厚紙でつくった円筒埴輪を立て、
バンザイ
で登録を祝った。 子供たちと会場に訪れた同市の山田歩美さん(8)は「子供たちが普
段遊んでいる場所が世
界遺産に登録されることで、子どもたちに地元愛や「歴史への興味を持
ってもら
えると思う」と話した。
  (加戸靖史、森下裕介)


 アゼルバイジャ ンから吉報が届いた。まずは新しい 遺産の誕生を喜びたい。だが、登録はゴ

ールではない。その巨大さや特殊性のため、保存や活用に課題が山積することを改めて自覚し、
登録は「古
境群」を後世に手渡すためのスタートであることを確認したい。

 構成資産49基の古墳は、国内最大の前方後円墳から小さな円墳や方墳まで様々で、日本列
島での国家形成
期の実像を映し出す。エジプト·ギザのピラミッドや中国の始皇帝陵など墓が権

力の証しとなった世界的現象と、前方後円墳の不思議な形にみられる顕著な地域性の共存。
「古墳群」は、
そんな人類文化の多様性を物語るモニュメントだ。

 一方、保存や管理には課題もある。推薦に向けた構成資産リストの絞り込みの過程で、保存
状態などを理
由にこばれ落ちた古墳も少なくない。歴史を担う重要な断片であることに変わり
なく、いかに一体的な保
存管理を進めるのかが問われている。

 構成資産の過半数を占める天皇家の「陵墓」については、登録後も宮内庁が管理することに
変わりなく、立
ち入り制限は続くとみられる。 だが宮内庁だけによる維持管理は限界に来ている。

との見方も出ている。周辺住民の関心も高まりつつあり、ユネスコも地域コミュニティーの参加を
促す。 住
民の愛着心を育み、どう全国的な保護意識につなげていくのか。国と自治体、地域社
会が一体となった保存
整備の施策が欠かせない。
  (編集委員·中村俊介) 
  2019-7-7  朝日新聞





光明と暗黒

 黄泉国の入口にある「殿のサシ戸」といい、「千引(ちびき)の石」といい、横穴式石室墳の入口

をふさぐ蓋石のことだが、古墳の実例としては石塊を積み上げて横穴の入口を閉鎖しているのが
多い。あとで同じ玄室にほかの遺体を追葬するとき、入口の石積をのけて、新しくまた石塊
を積
みあげたりしている。

 が、この羨道にあたる黄泉平坂を「いま出雲国の伊賦夜坂(いふや)という」と書いているの
は、イザナミ
を「出雲国と伯伎(伯耆) 国との堺の比婆山に葬った」というのに合わせて黄泉国を
出雲に あて たの
である。だが、イフヤ坂は米子市に遺称地があり (出雲風土記)、雲伯の境の
ヒパ山とは位置がだいぶ違
う。記の作者は 「黄泉の国」とする出雲国にイフヤ坂やヒバ山の名が
あるのを聞いてつかったのである。

 黄泉の国、死の国は地下である。大和から見て、根の国・底の国である。地下は光がささない
暗黒
の世界である。

 高天原は大和の天上界にある。天界は、いつも太陽の光が満ち輝いている光明の世界である。

 光明を善とし、暗黒を悪とする考えは世界の原始宗教に多いが、とくに古代のイラン高原で発
達したゾロアスター教にそれが顕著である。

 カミと青銅の迷路  松本清張 より





古事記の成立

 古事記』は元明天皇の和銅五年正月 (七一二)に 太安万侶によってかねて編集さていたもの
が宮廷に呈上された。編集を撰というので、これを撰上といってい
る。しかし、『古事記』はこのと
きはじめてできたのではなく、その前、天武天皇 (六七ニ~六八六)の
ときにいちおう草稿のよう
なものがつくられたらしい。これを「原古事記」と呼ん でおこう。「原古
事記」は何かの事情でおク
ラにされ、和銅五年の撰上まで日の目をみなか った。

『古事記』の本文の前につけた太安万侶の上表文(天皇にたてまつったことば)によると、「邦家
の経緯、
王化の鴻基(こうき)」のために、帝紀 (各天皇のことをしるした皇室の記録)と旧辞(いい
ったえ)の定本をつくりたい
いう天武の意志から、天武が稗田阿礼という抜群に記憶力のよい者
をしてそういう話を語み習わせ
た。それが放置されたまま年月が経ち、和銅四年の秋になって
元明天皇の命令で、阿礼が「語むとこ
ろの旧辞」を安万侶が筆で書き取り三巻にまとめたものを
献上する、というのである。

 そもそも天武のときに、どうしてそういうことが思い立たれたかといえば、壬申の乱のあと、天武
近江朝廷 (天武の甥の大友皇子 =弘文天皇)を実力で倒して名実ともに絶対王権を確立したこ
とと関連する。

 それまでの天皇は諸豪族勢力のバランスの上にのっかっていたようなものであり、きわめて不
安定
な状態であった。天武の兄の天智天皇が最後の大豪族蘇我氏をうちたおした大化改新のあ
とも、まだ
諸豪族の残存勢力があったが、天武がわずか三十人の側近しかいない吉野から起こ
って、伊勢·尾張.
美濃で五、六万の兵力をあつめて近江朝廷側に完全に勝利したという英雄的行
為が、天武による中央
集権制を立てさせた。

「大王(おおきみ)は神にしませばーー」という 『万葉集』の言葉は、天武にだけはじめていわれた
感嘆 詞であ
る。倭の五王の武が南宋におくった上表文の「祖禰(そでい)自ら甲冑(かっちゅう)
をつら
ぬき山川を跋渉(ばっしょう)し」云々といった英雄行為でなければ偉大な部族の首長とは
なれないこととも関連する。

 そういうことで、書紀の編纂時からみて、天武朝は国家意識がもっともさかんになりかけたとき
『古事記』序 文 も天武が「邦家の経緯」(国家組織)と「王化の鴻基」(天皇側の基礎)とをさだめ
るた
「原古事記」をつくったと書く。
「語り」の性格」

 『日本書紀』の編集も『古事記』のそれとおなじように七世紀の終わりごろにすすめられていた。
紀の編纂はだれの意志とも書いてないが、当時の機運によって皇室官僚が思い立ったことで
あろう。

 記では神代の巻、紀では神代紀に、これまで書いてきた外来の習俗のことや古墳のこと、当時
の大和盆地の地形のことが話のモデルとしてとられているし、かたがた
最初の統一国家ができ
るいきさつをどのように説話化しているかをみることにする。

 記は紀にくらべてはるかに民話的な要素がつよい。稗田阿礼のような芸能人がおもしろおかし
く語
ったことがモトになっているからである。

 記の序文にある阿礼の「誦習(よみならう)」という語を、①天武天皇のロ述するとおりを阿礼が
記憶した、②時
が経って、すでに意味のわからなくなった古語を阿礼が解釈した、という説がある。

 わたしはどちらも賛成しかねる。①は天武がそんな物語をじぶんで話したとは思えず、②は古
語の
解釈ならなにも芸能人の阿礼でなくとも知識人の史(ふびと)がたくさんいることだし、それら
が解明するはず
だからである。

 この 「よみならう」というのは、声に出して語るのを練習する意味だと思う。古事記には「上」と
「去」とかの抑揚の記号がところどころ横に付いている。そういうイントネーションが指定されて

るからには、もともと記は 「語り」の性格だったのである。

 阿礼にかぎらず、七世紀末か八世紀はじめのそういう遊芸人は、田の祭りや村祭りや、また宮
廷や
氏族の家での宴会によばれて余興として「昔ばなし」を語っているうちに、だんだん話をおも
しろく
して聴衆をよろこばせるコッをおぼえてきたにちがいない。どっと笑うようなャマを話のなか
にいく
つもつくったであろう。

 そうなると、聴衆のなかで、それにはこういう話がある、ああいう話がある、といって注文や助言

をする者もあらわれる。話し手と聴衆の一体化である。――|いまでも地方の劇場などで舞台と観
客が
一体になる風景がみられるようなものだ。

 この『古事記』成立のいきさつは、のちの『平家物語』ができる順序とたいそうよく似ているよう
に思える。『平家物語』は前信濃国司行長なるものが作者で、琵琶法師の生仏というの が 平曲
(琵琶の
伴奏曲に合わせたリズム)にして語ったという。この平曲の語りにあわせた『平家物語』を
「語り本」と
いうが、『古事記』もまさに語り本であった。

 この語り本的な性格に江戸時代の『太平記』がある。それがまた現代の講談に流れている。

『平家物語』もはじめは短いものだったにちがいない。それが現在の流布本(一般に普及している
本)の
ように巻数がふえたのは、やはり聴衆の参加があって、話がふくらんだからにちがいない。

『古事記』もそれとおなじで、遊芸人が余興として、いまの講談や浪花節や落語のように、おおぜ
の集まりに出てその前で語っているうちに、聴衆の注文や助言によって、おもしろい話がくわ
えられ、
「内容がふくらんだにちがいない。

 『古事記』には「故(かれ)」という一語がしきりと出てくる。これは「そして」「それから」「さ て」「だ
ら」「なのに」などの接続詞にあたる。ということは、『古事記』のもとになっている説話のかたち
しているからである (倉野憲司 『日本文学史』第三巻他)。

 こうして、いちおうまとまった話が、宮廷の史官によってさらにかたちをととのえられ台本にされ

た。それが「原古事記」とでもいうようなものだったと思う。その台本を天武天皇が稗田阿礼なる
に読ませ、ロ演にくりかえしくりかえし練習させた。それが、まさに「誦(よ)み習う」の意味で、そ
うして
洗練されたロ演を太安万侶に筆録させて後の世までのこそうとしたのが天武の意志であっ
たであろ
う。その実現がおくれて、元明天皇のときにいま見るような『古事記』として完成したので
ある。

 したがって『古事記』は宮廷用の「私家版」といってもよい。もっとくだいていうなら、宮廷の宴
などで芸能人に語らせる決定稿の台本であったと思う。なお稗田阿礼は実在の人物で は ない
(拙著
『古代探求』参照)。

 『書紀』のほうは、ちゃんとした修史局をもうけた国家的事業の史書編纂であった。だから競志
倭人
伝だとか『百済記』などの外国史料を載せたりする。神代紀の民間説話のほうは大幅に『古
事記』に
ゆずることにもなる。そういう点からすると、わたしは『書紀』の編者は異伝の資料という
よりも、
『古事記』そのものをも見ていたと思う (書紀の編者がその編纂時に『古事記』を見ていた
かどうかは、史学界での間題
なのである)。

 『書紀』が史書であり、『古事記』が宮廷用の「ロ演台本」的なものだったことは、正史の体裁 を
る 『書紀』が奈良朝の半ばから平安朝にかけて朝廷官僚や貴族たちによって、訓みかたなど
のゼミナ
ールがつづけておこなわれたのに対し、『古事記』にはまったくそういうことはなかったの
でもわ かる。

 いまのところ『古事記』の最古の写本とされている真福寺本(名古屋の真福寺宝生院に蔵されて
いる 『古事
記』の写本)でも、やっと十四世紀後半の書写である。『古事記』の重要性がみとめら
れたのは、江戸
時代も中期に本居宣長が『古事記伝』を書いてからである。

『古事記』も皇室の権威を加えているが(太安万呂による潤色)、その根幹は、右にのベたように
民間伝承
の集成であり、その民間説話とはとりもなおさず、七、八世紀ごろの民衆がこれに参加
していること
だと思う。
天上界の風景

 『古事記』の神代の巻は、とうぜんに高天原がおもな舞台である。高天原は天の上にある。

 ところが、『古事記』の作者――そのもとになった「語り」の芸能人は、天上界がどういう風景に

なっているのかわからなかったために、またそれを創作するだけの空想力がなかったために、じ
ぶん
たちのまわりにある風景、つまり大和盆地のそれを天上界にもっていったのである。

 盆地で見なれているのはうつくしいかたちの香具山である。そこでかれらは天上界にも香具山
をつくり、
「天の香具山」の名にした。また、盆地には大和川の支流が飛鳥川をはじめたくさん あ
って川
原が多い。そこでこれを天上界にもっていって「天の安河原」とした。井戸も天上界にある
こととし
て 「天の真名井」とした。

 植物も盆地で見かけるものを天上界にあるかのごとくし 「天の朱桜(ははか)」「天の日影」(苔
の一種)「天の
真折(まさき)」(葛の一種)など、いちいち名詞に「天の」という修飾語を付け、天上
界のこととし、地上にある
現実のものと区別するようにした。

 そのほか、鉱山は「天の金山(かなやま)」であり、岩石は「天の堅石(かたしわ)」で あり、洞穴
は「天の石屋戸(いわやど)」である。

 もっとも、聞く側にはこのほうがわかりやすかったであろう。日常、見なれているものばかりだか

ら、そういう修飾語がつくと、観念的によく区別できる。その意味では、「語り」の口演者や『古事

記』の作者にあながち空想力が貧弱だったともいえないかもしれない。

 ところで、記の「天の石屋戸」は、紀では「天石窟」となっている。石屋戸といい、石窟といい、
れは大和盆地にある自然の洞窟のことだろうか。

 そうではなく、これは古墳時代後期のはじめにおこなわれはじめた横穴式石室墳墓のことであ
る。
大和盆地や河内など、ほうぼうにたくさんある横穴式石室古墳を七、八世紀の人々が見なれ
ているた
めに、その古墳の入口からその奥の石室にいたるまでがまるで洞窟のようなので、
の石屋戸とか天
石窟とかの名をつけた。石屋は石窟のことで、これに「戸」がっいているのは、
横穴の入口をふさぐ
蓋石(ふたいし)のことであろう。

 七世紀の後半になると、もう古墳時代が終わる。仏教が入ってきて火葬が一般化し、遺骨は骨
壷に
おさめられ、墓に埋納される。古墳時代の終末期になると、墓は入口から奥の石室 への羨
道(通路)も
なくなり、ぜんたいが小さくなって、構造もまったくちがったものになる。

 だから、『古事記』に出ている石屋戸は、そのころはすでに「古墳」となって無しまった横穴式石
墳をモデルにしたものだ。その内容構造のことをよくあらわしているのが、イザナギが訪問す
る「
泉の国」のものがたりである。
 カミと青銅の迷路  松本清張 より





修験道の由来

 「坪内道蓬に「役の行者」という戯曲がある。

 これは『続日本紀』の文武三年(六九九) 四月の条にみえる次の記事を材にしている。

 「役小角は伊豆嶋に流さる。初め小角は葛木(城)山に住み、呪術をもって聞えた。外従五位下
韓国
は小角を師としたが、のち止めて、朝廷に小角が妖術をもって惑わすと讒(ざん)した。故に
遠所に配流
(はいる)れた。小角はよく鬼神を役使し、水を汲ませ薪新を採らせた。もし鬼神が云
うことを聞かないとき
、呪術をもってこれを縛った」 戯曲 「役の行者」では、小角である行者は山
中にあって、女魔に誘惑されたり、士官の剣に脅追さ
り、眼の前で老母が殺されたり、あるいは
にわかに地震が起こり岩石が降るなどの試 練 をうけ

る。この場面は、逍遥が小説「杜子春伝」の場面を借用しており、修行から落ちて破門される弟子
広足の姿も子春を写している。

 逍遥のこの戯曲は最初 「女魔神」(大正五年)として発表したさいの世間評を考慮して改訂され
たもの
だが、その評判とは、そのころ逍遥門下の島村抱月が女優松井須磨子との恋愛などで師
にそむいたた
め、作中の行者は逍遥、女魔に迷った広足は抱月がそデルだなどというものであ
った。

 それはさておき、役の小角は後世になって修験道(山伏)の開祖とされ、伊豆から駿河の富士山
に空
中を飛行して往復したなどいろいろな伝説がつけ加えられた。修験道というのは平安朝前期
にはじま
り、はじめは僧が山中で薪をとり、水を汲み、山野を歌渉するなどの修行だったが、のち
密教に付会
して体系づけられた。

 修験道は日本の山岳信仰と神道と、中国からの陰陽道と道教の影響がある。はじめ密教が中
国から
伝えられた奈良朝前期には山林修行が密教寺院僧侶の勤めだった。それがのちに国家
的な組織教団か
らはなれ、 山林修行の一派として独立し、さらに行基のように民衆と接触して民
間宗教となったのが
修験道の成立という。

 密教では大日如来の守護神として南に増長天、西に広目天、北に毘沙門天、東に持国天のい
わゆる
四天王を配する。両部受茶羅 (仏の功徳による諸仏の配置図画)には中央の月輪内に本
尊の大日如来をおさ
めるが、西方に七曜星、東方に十二宮、東西南北には二十八宿中の七星
をそれぞれ配する。西方バビ
ロニアの占星術十二宮と東方中国の占星術二十八宿が混合して
いるところが興味深く、 西方の影響が
知られる。

 この四天王のうち毘沙門天こそメソボタミアのミトラ信仰が東にきたものであるというのが宮崎
定氏の説である(「毘沙門天信仰の東漸に就て」『アジア史研究第二』所収)。

毘沙門はミトラ
 毘沙門天が四天王の一として仏教とともに中国に輪入されたのはきわめて古い時代
であって、
唐代には毘沙門天が北門鎮護の善神として独立し、天王といえば毘沙門
天のことになり、毘沙
門天の画像も多く描かれたが、それをうけて宋代には都城の楼上に安置された
り毘沙門天信仰
の流行となった。

 毘沙門天は西方から入ってきたらしく、西域の于闐(ホータン・タリム盆地南部のオアシス都市)
では毘沙門 天信仰
も盛んで、 中国では唐以後たえずその影響をこうむっている。于闐国の守
護神は毘沙門天王であった。

 毘沙門の語源は梵語ではなくべルシア語のようである。于闐人はイラン種であり、 最初はその
宗教
もイランの拝火教 (ソロアスター教)すなわち祆教で、唐代の于闐では仏教と祆教とがともに
おこなわれ
た。すなわち毘沙門はもとゾロアスター教から出て仏教に摂取された神の一つで、毘
沙門はイランの
ゾロアスター教の中でもっとも勢力のあるミトラ神にちがいない。

 毘沙門は漢語に意訳されるときは多聞となるが、これはもし毘沙門がミトラならば容易に説明
がつ
。すなわちアベスターによればミトラは千の耳をもつ(多くを聞く) 神だからである。さらに 四
天王
の毘沙門以外の天王も、それがミトラの分身であるなら、漢語の訳名はきわめて無雑作に
その意義
がわかる。すなわちミトラは万の眼をもつ神(広天)であり、国家を護持する神(持国天)
であり、生
長を司る神(増長天)であって、三天王はそれぞれの徳をいいあらわしている。四天王
像が多く光背を
もち、ことに毘沙門が光塔をもつのも拝火教の遺物ではなかろうか。

 およそこうまでぴたりとあてはまるのは決して偶然ではない。西域から中国に輸入された毘沙
門天
信仰は、外形は仏教だが、その内容にはたぶんにイラン色がある。


 ここに注目されるのは、大日如来が太陽神すなわちミトラをあらわすことである。密教では、大
如来が不動明王をもってあらわされる。不動明王が背負う火焔は、太陽の光熱線でもあるが、
ゾロア
スター教の拝火でもある。それは毘沙門天が火焔を負っているのと同じである。

弥勒と阿弥陀
 メソボタミアのミトラ信仰が中央アジア、東トルキスタン(タリム盆地)、中国を経て日
本に渡来し
ていたとすればそのかたちはどうか。

 奈良時代前期に流行した弥勅信仰のミロクも、その梵語のマイトレーヤーはミトラの転訛(てん
か)といわれ
ている(R·ギルシュマン著·岡崎敬ほか訳『イランの古代文化』)。弥勅が救世主の性
格をもつのもミトラからき
ている。

 インドの仏教が中央アジアから中国に輸出されるときに、中央アジアの居住のイラン人によって
教にゾロアスター教的要素が加わったことは前に述べた。このとき救世主としての弥勒と、軍
神とし
ての毘沙門ほか三天王が成立し、のちにこれが大化改新以後の 日本につたわり、 支配
層や仏教徒がこ
れを体制維持の立場から国家宗教としてとりあげた。当時、尊重された 「金光
明経」も、その経名か
らして光明を善とするゾーロアスター教の要素が強い。

 この弥物信仰と同じような性質にややおくれて出た阿弥陀信仰がある。阿弥陀信仰はイン ド
にな
く、これも西域方面でつくられたらしく中国 から日本に入った。阿弥陀仏もミトラの変形で、
その光
背の放射線も太陽をあらわす。

 弥勒がミトラの救世主をあらわしているので、弥勒はのちに救世観音とよばれるようになった。
れは弥勒信仰が観音を同伴する阿弥陀信仰に敗北したからである。

 阿弥陀はイランのミトラで、観音はミトラに結合する女神アナヒータ(水神)に範をとったという説

もある(矢吹慶輝『阿弥陀仏の研究』)。観音は阿弥陀と同格とされるところから、 観音の功徳が
独立してこ
こに観音信仰の流行となる。これは阿弥陀が再生を浄土(ソロアスター教の楽園)に求
めるという観念的
な功徳にたいして、観音が浄土思想よりも現世利益(げんぜりやく)に重点をお
いていたためである。手が六つ(六臂)
あったり、顔が八つ(八面)も十一(十一面)もあったり手が
千(千手)もあったりするのは、多方面の功
徳を像にそれぞれ具現したためである。

 密教の呪術的な加持祈祷が幽暗(ゆうあん)な内陣でおこなわれる神秘性の効果だが、この外
陣の窓からわずか
に見える内陣は、西方ミトラ教の古い儀式が洞窟内でおこなわれた (そこでは
牡牛を殺して供儀した)のに
似かよっているし、護摩も拝火をうつしたものであろう。

 藪田嘉一郎氏は、山伏すなわち修験者はミスラ(ミトラ)の信徒であって、それの信仰する蔵王
権現
は洞窟出現で、ミス ラ神にほかならず、その好んで護摩をたくのも拝火教の特色で、 山伏
修行はミス
ラの秘儀に通じ、秋葉山三尺坊も京都愛宕山太郎坊も、みな火伏の神として現在で
も大いに信仰され
ている、と述べている(敷田嘉一郎 「四天王信仰の東漸と四天王寺」『日本古
代文化と宗教』平凡社刊所収)。
 カミと青銅の迷路  松本清張 より




古代のお見合い

村落全体の期待を背負っていた古代のお見合い

 『常陸 国風土記』は日本に五つ残っている風土記(地方史)の中でも最古のものと言われ、その
内容も古い神話様式の
ものを含んでいる。

 たとえば、筑波岳(つくばやま)という山があって、ここは春とか秋の気候のよい時に、若い男女
が集
って、娉(つまどい)すなわち結婚の申込みをする場所だという話がある。

 その結婚の申込みとは、飲食物を持参し、そこで飲み食いしながら男女がお互いに思いのたけ
を歌で唱うものである。そして意気投合すると、集まった群衆の中から二人で手を携えて姿を消
す。そこで、男が女に恋の証として、ブレゼントをするが、それを「娉 の
財(たから)」という。
「娉の財」は結婚申込みの証拠物件であり、贈る男の心意気を示するのでもある。

 『常陸国風土記』は、その章の最後を「筑波峰の会(つどい)いに、娉の財を得ざれば、見女と
ず」と書いて結んでいる。父も母も自分の娘間に非常な期待をもって筑波の集いに出すが、

もし娘が「娉の財」すなわち結婚の申込み物件を受け取らずに帰宅すれば、自分の娘と見倣さ
ないという意味で、それぐらい古代の人は結婚に対して家族、時には村落全体が期待
を寄せ、
その日を迎えたことを物語っている。

 そして、この話は、天皇家の国生み神話より古いくらいの伝承内容を持徴つものである。

 書き添えると、『常陸国風土記』は和銅六(七一三)年、朝廷が諸国に風土記 の提出を命じた直
後に編集されている。ちなみに『出雲国風土記』が最も遅く、奈良時代の終わりに
出来上がった
わけだが、この風土記の提出にあたって、全国の地名を「二字」で表現する
ように官命が出され
たことは、注目しなければならない。それまで、 万葉仮名を当てて、
四字、五字で表記していたも
のや、漢字を訓読して一字で表記していたものはほとんど
例外なく漢字二字で表現するようにな
った。ただし、二字であれば、それまでの地名を好
きなように変更してもよいと命じており、それ以
後、日本の国名·地名は、当時の人がま
るで自分の子どもに命名するかのように、縁起のよい字、
意味のある名をつけ、それが後
世に残ったのである。 
  逆・日本史  樋口清之




「国譲り」の神話が教える出雲の勢力

 日本神話の中に登場する地方神話の中で、大和地方を除いてもっとも多いのは、出雲地方の
神話である。その中でも、ひじょうに有名なものは、「国譲り」の伝承である。
高天から日向の
高千穂へ、神々が降りていくという天孫降臨の話の直前に、このエピソード
が語られている。

 神話によると、天孫降臨をして、日本を神の子孫が統治する前に、まず、地上にいる神々に対
して、平和使節とも言うべき天孫降臨族の神が地上へと派遣された。地上にいる
神々とは、伊邪
那岐
·伊邪那美の二神によって「大八洲の国」をはじめとする日本列島の
国土が創造された直後
から存在していたわけだが、時の経過にしたがって、天上の神々を
無視した振舞いをするように
なった。そのため、天上の神々の直系による直接統治が計画
されるようになった。

 使節として派遣された神というのは武甕槌神経津主 神という二柱の神であった。この神々は、
両方とも武力の神様である。彼らは、出雲に降り立って、大己貴 神に、土地
を返すように要求す
る。大己貴神は、その子の事代主 神に相談して、「天の神が降りてい
らっしゃるというのに、どう
してこれに反抗しましょうや」と言って、恭順の意を示した
という。

 これが『日本書紀』の示す「国譲りの神話」のアウトラインである。

 だがこれは、全体の流れからすると、まことにとってつけた話のような印象を受ける。

こんなに簡単に国譲りが終了したのなら、天地開闢という大事件の次を飾るエピソードに、わざ
わざ挙げるまでのこともない はずである。それを、あえて天孫降臨の前 に付け加
えたというの
には、それ相当の意図が働いていた。

 そしてそれは、大和の政権にとって出雲地方の勢力が無視できない大きな存在だったからであ
り、正史の中に「なぜ、大和が出雲に優越した存在か」という理由づけを、どうし
ても明記しておく
必要があったからである。

出雲と大和は兄弟である

 だが、「出雲地方の政権が大和政権に征服された」とする説に賛成しているわけではない。

 というのも、出雲と大和は血を分けた兄弟、つまり両方とも同じ文化圏に属しており、

それは出雲から出土する銅器に、大和とは独立した独自の形式を持ったものが存在しないこと
からも分かる。

 たしかに出雲を含む中国地方からは、多量の遺物が見つかっている。昭和五十九年には、島
根県の荒神谷からは三五八本もの銅剣が発掘され、また銅鐸や銅矛も発見されてい
る。出雲
地方の豊かな経済力を物語る遺物といえよう。この銅剣の量は、これまで全国各
地で発見され
た銅剣の数より多い。とはいえ、出雲独自の文化を示す形式のものは何 一つ
出土しておらず、
大和文化の流れを汲むも のばかりである。また言語の点からいっても、出雲と大和は同系なの
である。

 このことから見ても、出雲と大和は文化的に兄弟の関係にあったことが明確である。つまり、こ
の二つの地方の文化的なルーツは同じであり、それが枝分かれして、大和と出雲
で強大な勢力
に成長した後、兄貴分の大和が弟分の出雲に、「本家はオレなのだから忘れ
るなよ。だから、祭
礼のスタイルにしても、風俗などの文化形態にしても大和の様式を守
り、恥ずかしくないよう振る
舞え」というのが、国譲りの神話の真相であろう。だから
そこに他民族に対するような武力的な征
服があったとは、とうてい考えられない。

 平安時代に作られた「延喜式」の中に、天皇の即位の儀式·大嘗祭の時に、出雲の国造が、天
皇に述べる祝いの言葉が記されている。「出雲国造の神 賀 詞(かむほぎのことば)」というのが

それだが、この慣例も、出雲と大和の友好的な関係を示している。あたかも、お正月に分
家の主
人が本家へお年始に伺うといった 趣 であり、”遠くの身内より近くの他人”とい
う、諺 が示すよう
に、当然、そこには何らかの確執はあったろうが、根底に癒しがたい対
立関係が存在したはずは
ない。
  逆・日本史  樋口清之





伊勢神宮は軍事的拠点だった

 「伊勢神宮は皇室の祖先神である天照大神を祀った神宮であって、崇神天皇の時大和の笠縫
にあったものを、近江、山城、丹波のあたりを転々と回って、方々でお祀りし、
各地で信者を集
めながら三〇年を過ごし、その後、伊勢国へ入り、最後に、今の伊勢神宮
のある場所(三重県伊
勢市)に鎮座するようになったと伝えられている。

 伊勢の地は、地理的に神話の舞台から外れた場所にあるように思えるが、あの場所に重要な
秘密が隠されているとわれる。

 紀伊半島の真ん中に大峰山や大台ヶ原があって、そこから西へ流れる紀ノ川と、東へ流れる
宮川があり、宮川の河ロが伊勢神宮の所在地になっている。だから、大和地方から伊
勢に行こ
うとすると、宮川伝いに下れば、自然に到着する場所にある。また、伊勢から船
に乗ると、簡単に
三河国(愛知県東部)へ行くこともできる。

 このような、地理上の有利さは、中世に、南北朝争乱の際、吉野の南朝が宮川沿いのルートを
必死になって確保しようとしたことにも現われる。このルートこそ、西日本から東
日本語に出るに
は、もっとも効率のよい通路で、日本統一のキイとなる戦略通路だった。

 三河国と伊勢国の関係は濃密で、お伊勢詣りをする時、尾張の人は、今の熱田神宮から七里
の渡しを舟で桑名に渡り、それから伊勢街道を歩いたものであるが、三河の人だけは
舟で宮川
河口へ出るので、歩かなくても容易に参詣できた。

 そういう意味から、伊勢の地(紀伊半島)は畿内から東日本へ出る門戸であり、航海のだったと
言える。だから、あそこに神さまを持っていけば、東日本と近畿·大和の中
点として機能し、大和
朝廷の安全性も高まる。これが伊勢神宮が、今の場所に定まった
であろう。

 日本武尊の説話では、熊襲征伐に西に向かう時も、次の東国遠征に向かう時も日本武尊は、
まず、伊勢神宮へ赴いている。伊勢から熱田に寄って関東へ行くという日本武尊の足
跡は、倭比
売命
に会ったり、宮詣りをするだけでなく、東国に向からルートがあったこと
を示している。当時の
大和朝廷にとって、出雲·吉備などとは契約結婚のような形で結び
つきができており、西は安全性
が高かった。だが、東国は農耕文化の普及が 遅く、すべ
て、これ敵地とみられていたため、戦略
的見地から言っても、あの場所 に伊勢神宮を鎮座
させたのであろう。

 伊勢神宮の神さまは、言わずと知れた天照大 神であり、農業生産神である。今でも伊雑宮(い
ざわのみや)という別宮は田植え祭りを行ない、そこで神さま の一年分の米を生産している。徹

底した農業信仰であって、その農業開拓が伊勢神宮を起点にして東へ拡がっていった。
  逆・日本史  樋口清之





天皇が自信をつけるための書

天皇が自信をつけるための書『古事記』

 日本の神話を考える大きな出発点となるのは、言うまでもないが『古事記』(七一二年成立)と
日本書紀』(七二〇年成立)である。奈良時代のごく初期にあたる時期である。

 どちらも、神話を中心に、天皇家の由来を明示する意図で編纂されたものだが、それぞれに読
者対象が違うため、二種の歴史書が編(あ)まれたのである。つまり、『古事記』は天皇自身
が読
み、天皇家の正統性に自信を持つために作られ、『日本書紀』は、外国(中国·朝鮮)
と日本のイン
テリ層に読ませ、内外に大和朝廷の尊厳を説くために作られたのである。

 これは、それぞれの文体にも、その差が表われている。『日本書紀』は漢文で書かれ、中国の
文化人でも抵抗なく読めるようになっている。これに対して『古事記』は、
万葉仮と呼ばれる表
音文字で、日本語=大和言葉の発音をそのまま採用している。

 たとえば、日本の国土が創られた時の『古事記』の記述は、"国土がクラゲのように漂っていた"
というものだが、その表現は「久羅下那州多陀用幣流之時(くらげなすただよへるとき)」という形
である。
この部分を中国 の人が読んでも、何のことか理解できるわけはない。大和言葉の発音
と意
味を知らないと読めない文章である(もちろん、全編を万葉仮名にすると読みづらいため、一
部漢文も併用されてはいるが.…)。

 しかし、両者とも共通しているのは、その記述の立脚点で、それは大和朝廷、ひいては、天皇
家を賛美し、その正統性を納得させる点にある。

エピソード集だった神話の物語

 さて、「古代史とは一種の”物語”である」という観点に立てば、『古事記』や『日本書紀』に登場
する「神話」も、唯物史観の歴史家たちが言うような「時の権力が自己の正統
性をでっち上げるた
めに、事実をねじ曲げた創作物にすぎない」ということではなく、 扱
い方によっては、日本民族の
本当の姿を窺(うかが)い知る重要な ”証拠物件"を含んだものだと言
える。

 あらためて指摘するまでもなく、『記紀』にあるような完成されたスタイル、つまり起承転結のメリ
ハリの利いたストーリーが最初からあったわけではない。

 本来は、それぞれ独立した ”地方の伝説””氏族の説話”などの一部が、大和政権の成立に伴
って、あとから組み合わされて作られ、のちに書物としてまとめられたのが『記
紀』のストーリーな
のである。

 それは、 神話の舞台の多くが実在する地名になっており、架空のものが少ない点にもよく現わ
れている。たとえば、神々が住むとされる高天原は、この世に存在しない空想上の
理想の土地の
名だが、これなどむしろ例外である。また、昔話にあるような”昔々、ある
ところに”といった、抽象
的表現にょって書かれているものも、きわめて少ない。

 神武天皇にせよ、大国主命にせよ、神話上の人物が行ったり活躍したりした場所は、そのほと
んどが実際に存在する土地である。そしてそれらの一部は、本来、その伝承が地
方神話であっ
たことを示している、と考えられるのである。

 それを如実に証明するのが、神話の中にたびたび現われる「地名 の起源」を説明するエピソー
ドであろう。

 たとえば神武天皇の東征の話の中に、盾津(たてつ・大阪府東大阪市)という地名が出てくるが、

これは神武天皇がその地で盾を持って立たれたため、そう名づけられたと記されている。

 また、神武天皇の兄・五瀬命が奈良県生駒の豪族である長髄彦(ながすねひこ)との戦いで負
傷した時、
手についた血を洗った海ということで、そのあたりを血沼の海 (大阪湾線の古称) と呼
ぶよ
うになったと書かれたりしている。そしてこのような地名は、そもそもスートーリー全体験の:流
れからすると、それほど重要な要素ではないはずだが、それを一つ一つ丁寧に言及して
いるのは、
これら、神武天皇や五瀬命のエビッード自身、元来は、その土地に伝わる伝承
であった可能性を
示しているのである。

 こうした点を考えあわせると、神話全体のストーリーを、そっくりそのまま歴史事実と信ずるわけ
にはいかないが、一つ一つのエビソードは、後の時代になって、急に創作され
たり脚色されたもの
ではなく、古い記憶が反映されている物語だと言ってよい。そして、
これら個々のエピソードには、
より古い時代の日本人の感受性や考え方、さらには史実が、象徴的な形ではあるが、ちりばめら
れているもの
があると見たほうがよい。

  逆・日本史  樋口清之



引き継ぐ神器

 5月1日の「剣璽(けんじ)等承継の儀」では、新天皇に剣と璽(勾玉)などが引き継がれる。政府
は皇室経済法をもと
に、宗教色のない 「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」と説明する。ただ、
明治時代
に制定された旧皇室典範では皇祖皇宗から伝わる「祖宗(そそう)ノ神器」と明言し、宗
教性を隠
していなかった。

 それにしても、 例えば剣は本来、人を殺傷する武器だ。

それがなぜ―

 金属の武器は弥生時代に大陸から伝わった。まずは銅剣や銅矛、やがて鉄刀がもたらされた。
国学院大学の笹生衛
教授(宗教考古学)はこう読み解く。

 縄文時代にはなかった金属製の武器が、人体を瞬時に切断する。 それを目の当たりにした
古代の人は衝撃を受け
たはず。特別な働きの背後に神の存在を見たに違いない」

 それがさらにヤマト王権の下「権威」と結びついていった、というのが笹生さんの見立てだ。国
家が形成されて
いくなかで、ヤマト王権は中国から入手した刀を各地の有力者に分配。それが
政治的求
心力を生むための重要なアイテムとなる。 神的な威力を持つ刀に政治性が加わること
で、より「神聖性」を帯びるようになったと見ている。

 8世紀の古事記には、武神が初代天皇とされる神武天皇布都御魂という名の刀を与えたと
の記述がある。この刀
は神そのものとして奈良県の石上神宮にまつられた。同じ古事記の天孫
降臨
の場面で
は、剣とともに勾玉、鏡が登場する。いわゆる三種の神器だ。このうち鏡について
照大神が「我が御魂として」まつるよう伝えている。

 歴代の天皇に引き継がれてきた神器だが、その重みは先の大戦の末期に格段に増した。当
時の内大臣・木戸幸一は
1945年7月25日付の日記に、三種の神器を失えば「皇室も国体も護持
<し>得ざるこ
どとなるべし」と記している。

 「東京大学の山口輝臣准教授(日本近代史)によると「国体とは何か」をめぐる議論は、25年に
治安維持法が制
定されると新たな段階に入った。しかし敗戦色が濃くなると、護持すべき国体の
芯と言
うべきものは「万世一系の天皇を戴く君主制」に集約されていく。その象徴が三種の神
で、「国体はそこまで凝縮
した」と山口さん。木戸の記はそれを表す。

 「天皇の正統性を、血統に加えて形で示すのが神器。その継承が、万世一系というつながりを
想像可能にする。 昭
和天皇自身も、そう感じていたのではないだろうか」と山ロさんは話す。

 終戦の半月前、同じ木戸の日記には昭和天皇が伊勢神宮の鏡と熱田神宮の剣について述べ
た言葉が残されている。

「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。(中略) 万一
の場合には自分が御
守りして運命を共にする外ないと思ふ」。124代とされる天皇は命を懸けて
も敵から
神器を守ろうと覚悟した、と受け取れる記述だ。

 山口さんは「国体を崩壊させたと言われないために何としても最低限の責務は果たす、という
思い詰めた印象を受ける

 「終戦秘話」がある。国立公交書館報によると、天皇から国民に向けた終戦の詔書には、草案
段階で「神器ヲ奉シ
テ爾臣民(なんじ)ト共ニ在リ」という言葉があった。 神器を守ることができた
という安堵感が伝
わるようだ。 結局は「朕ハ茲(ここ)二国体ヲ護持シ得テ」。こうして戦争は終わ
った。

 山口さんはこう話す。「昭和天皇は戦時に『天皇とは何か』と必死に考えた。その遺産をいまの
天皇は受け継ぎ、
同じ問いを自らに向けられたはず。その答えの一つが、神器と密接な関係の
ある宮中祭祀
だったかもしれない」  
  2019-3-22 朝日新聞
 (磯村健太郎)















万葉賛歌

「万葉王朝の始祖」高らかに

  
籠(こ)もよ  み籠持ち ふくしもよ  みぶくし持ち この岡に  菜摘(なつ)ます児 
  家告(いえの)らな  名告(の)らさね
 そらみつ  大和の国は おしなべて 
  我こそ居(を)れ

しきなべて  我こそいませ 我こそば告らめ 家をも名をも
                      (巻1-1)

 かごも、よいかごを持ち、へらも、よいへらを持って、この岡で
 若菜を摘んでおられる
おとめよ、 家をお告げなさいな、名を
 名の
りなさいな。(そらみつ)大和の国は、ことごとく私が治めて
 いるのだ、すべて私が支
配しておられるのだ。 私こそ告げよう、
 家
も名前も。 (岩波文庫版 「万葉集」から)


 関西で暮らし始めて40年以上になるが、歴史好きの客を案内する定番コースがある。

奈良市の平城宮跡を起点に南へくだり、三輪山山麓から原宮跡、飛鳥へと足を延ば

す。日本という国の誕生を実感できる旅だからだ。

 元号「令和」によって注目きれている「万葉集」4500余首の歌の冒頭頭は、雄略天皇の長
歌で始まる。

 うらうらとした春の岡、若菜を摘む若い女性がいる。 生命のきらめきの象徴のような彼女に
向かって名を名乗る、
つまり結婚を申し込む「我(われ)」は、大和を治める王者。堂々たる風
格が伝わってくる。

 だが雄略天皇は、5世紀後半に生きた人物である。いわゆる万葉歌が詠まれた7世紀後半
から8世紀の人々にとっ
ては、はるかに遠い昔。しかも、実際に雄略天皇の作である可能性は
眼りなく小さい。

 ではなぜ、この歌が万葉集の冒頭に据えられ、雄略天皇の御製(ぎょせい・天皇の作)とされ
のか。 研究家の多くは「8世紀の人々が今の天皇家の直接の始祖は雄略天皇と認識して
いたからだ」とみる。

 雄略天皇(大泊瀬稚武天皇・おおはつせわかたけるのすめらみこと)は系譜上第21代に数
えら
れ、西暦478年、中国の宋に使節を派遣した倭王「武(ぶ)」にあたるとされる。埼玉県行

田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「ワカタケル大王」の名が刻まれ、実在が証明された
最初の天皇でもある。

 日本書紀は雄略天皇について、皇位継承のライバルを次々殺害する「暴虐王」の面と、葛
城の一言主神と語り合
うなど「徳ある王」という相反する性格を持っていたと描く。大和政権の
版図が東国か
ら九州まで拡大したことや官僚制の萌芽も確認でき、歴史家の多くが「雄略朝
こそ古代
の画期」と考えている。

 「龍もよ~」に続く万葉集の2番目は、第34代舒明天皇の《大和には、群山(むらやま)あれ
とりよろふ 天の香真山 登り立~》で始まる、いわゆる「国見の歌」である。

舒明天皇は天智天武両天皇の父で、持統天皇には祖父にあた まさに、 雄略から統く皇統

の正統性を強調した歌の配列といえるだろう。 万葉集は、天智、天武天皇が懸命につくりあ
げた日本の古代国家(律
令国家)の完成を言祝(ことほ)ぐ歌集なのだ。

 新元号の出典となった「万葉集」。ゆかりの地を訪ね、最古の歌集が編まれた時代背景と、
わが祖先が国づくりにか
けた苦闘のあとを探ります。
  令和元年(2019)6-11  産経新聞
 (客員論説委員 渡部裕明)


緊迫「白村江」前夜


   熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば 潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出でな
                                (巻1-1l8)

 熱田津で船に乗り込もうと月の出を待っていると、潮も、船出にちょうどよくなってきた。
 あ、今こそ遭ぎ出そう
(岩波文庫版「万葉集」から)


 「万葉集」には古代国家への産みの苦しみに関連した歌がいくつかある。 中でも最大の苦
難は、第38代天
智天皇の2(663) 年、朝鮮半島西南部の白村江唐, 新羅連合軍と対決して

の大敗戦だろう。

 ここへ至ったのには、4世紀以降の長い歴史がある。 日本(倭国)は国内で産しない「鉄」や
最新の文
化を求めて朝鮮半島に渡り、国々の抗争に巻き込まれていった。 友好関係を結
でいた百済は西暦660
年、唐·新羅連合軍に攻められ、都が陥落する。

 きの斉明天皇と嫡男、中大兄皇子(天智天皇)は長年の友置を重んじ、百済を支援するため
3万近い軍
勢を派遣する決意を固めた。 さらに女帝は68歳の高齢をおして、前線基地の九
に赴いたのである。

 この歌はこの遠征の途中、滞在先の石湯行宮いわゆのかりみや・(松山市の道後温泉付近)
出発するおりに、額田王よって歌われた名歌である。熟田津の場所については諸説があ
るが、戸内海
に面した港湾だったのだろう。
 昼間ではなく、なぜ暗い夜に船出したのか。謎に迫ったのが、今年2月に亡くなった古代史家、
直木孝次
郎さんの論文「夜の船出」である。 瀬戸内海特有の陸風(海に向かう風) が吹き始め
る夜を待って出航した
というのだ。

 何より疑いないのは、この出航が緊迫感にあふれていたことである。 石湯行宮での滞在自
体、約2カ月に
も及んでおり、軍勢の確保にも難航していたのだろう。 歌には、ともすれば不
に駆られがちな兵士らを
鼓舞し、奮い立たせる意味あいが込められていた。

 にもかかわらず、九州に着いた斉明女帝は間もなく体調を崩し、7月には崩御してしまう。
中大兄皇子は
即位式も挙げないまま指揮を執ったが、2年後の白村江の決戦では惨敗してし
まった。

 「唐軍は勢いに任せて侵攻してくるかも…」。中大兄らは恐れ、亡命してきた百済人技術者ら
の指導で、
対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城や蜂火台(のろしだい)を設けた。さらには、
都を近江
(大津市)に移している。

 亡国の危機を脱したのは偶然でしかなかった。朝鮮半島で新羅が唐を追い出す戦争を始め
たからである。
しかし天智天皇は敗戦を重くとらえ、唐にならった中央集権の国づくりに邁進し

た。 そして彼の死後、志は同母弟である天武天皇やその皇后だった持統天皇に受け継がれ
る。
  令和元年ー6-12  産経新聞
 (客員論説委員 渡部裕明)

  岩代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び ま幸(さき)くあらばまたかへりみむ     
                             (巻2ー141)

 岩代の浜松の枝を引き結んで、幸いに無事であったら、また帰って来て

 見ることであろう。


  うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む

                                (巻2ー165)


 この世の人である私は、明日からは、二上山を弟として眺めることでしょうか。
                          (岩波文庫版 「万葉集」から)


 万葉の時代」はまた、政治的な謀略の渦巻く時代でもあった。 とりわけ皇位をめぐる争いは
悲劇的な結
末を生み、のちの世の人々から深く愛惜されることとなる。

 最初の悲劇の主は、有間皇子である。「乙巳の変(645年)のあと即位した第36代孝徳天皇
の遺児。ラ
バルの中大兄皇子は年長の従兄という間柄だ。

 有間皇子の運命は父帝と中大兄の間に確執が生じたときから決定づけられていたともいえ
る。 653年、
中大兄は母、皇極上皇(のち斉明天皇)とともに難波長柄豊碕宮を去り、飛鳥へ戻
った。孝徳天皇は翌」
年、難波で一人寂しく崩御したのだった。

 先帝の嫡男とはいえ外祖父(阿倍内麻呂)も亡くした有間皇子が、政権内で孤立を深めたこと
は想像に難
くない。日本書紀によれば、重祚した斉明女帝が中大兄とともに牟婁湯(和歌山県

の白浜温泉)に湯治に出かけたおり、中大兄の腹心の蘇我赤兄が皇子に近づき、謀反を持ち
かけたという。

 「斉明天皇の政治には、三つの失敗があります…」

 この言葉に皇子は大きくうなずき、「兵を用いるべき時が来た」と答えたとある。ときに有間皇
子、まだ
19歳だった。

 やりとりは中大兄に急報、捕縛された有間皇子は白浜に送られ、中大兄から尋問を受けた。
謀反の理由
を問われ「天と赤兄が知っている」とだけ答えたという。 皇子は藤白坂(和歌山
海南市)で絞首された。

 《岩代の…》の歌は護送の途中、白浜の手前の岩代(みなべ町)で皇子が詠んだ一首である。
松の枝を結
ぶのは旅の無事を祈る習俗だが、彼自身、再びこの松を見るとは思っていなかっ

たのではないか。 みなべ町岩代には現在、「結び松記念碑」が立ち、万葉ファンの聖地となっ
ている。

 この28年後に起きたのが、「大津皇子の変」である。イバルの草壁皇子とともに天武天皇の
息子で、年齢
は大津皇子が1歳年少。「博覧にしてよく文をつくり、力が強く剣戟に秀でていた」
(「懐風藻」)という。

 この事件が一層涙を誘うのは、大津と草壁の母同士が姉と妹(大田皇女と持統天皇) だった
ことである。
天武天皇の在世時、争いは表面化しなかったが、686年9月、天皇が亡くなると対
立は一気に噴出した。

 1カ月もたたない10月2日、大津皇子は逮捕され、翌日、死を賜ったーと日本書紀にはある。
遺体を二上
山に葬ったおり、姉の大伯皇女が《うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟

と我が見む》と詠んで、最愛の弟の死を悼んだ。
  令和元年6-13 産経新聞
(客員論説委員 渡部裕明)

「令和」と大伴の衰運

  天皇(すめろき)の御代栄みよさか)えむと東なる 
    陸奥山(みちのくやま)に金花(くがね)咲く
            (巻18-4097)

 天皇の御代が栄えるであろうと、東国の陸奥の山に、黄金が花の咲き出るように現れた

      (岩波文庫版「万葉集」から)

 「万葉集」の編纂者は、家持(718?~785年)とされる。 収録された歌の多さからも推測され
るが、とい
ってすべてが家持の手になるのではなく、最終段階に近いとろで家持が重要な役割
果たしたということだろう。

 そして万葉集で最も新しく詠まれた歌も天平宝字3(759)年正月の家持の歌である。つまり万
葉歌人としての
家持の生涯は、聖武天皇とその娘、孝謙天皇の治世とほば重なることとなる。

 聖武帝が最も力を入れた事業といえば、大仏 (慮舎那仏)の造立であろう。

 歌は天平感宝元 (749) 年5月、大仏を鍍金するための黄金が東北地方(宮城県涌谷町)で発
見された喜びを表現
したものである。

 家持は当時、越中守で富山県高岡市の館にいた。同時に歌った長歌には、聖武帝のにわざ
わざ
  《海行かば水浸く(みづ)く
屍。山行かば草むす屍、大君の辺(へ)にこそ
   死なめ、のどには
死なじ》
   (海に戦えば水につ
かる屍、山に戦えば草の茂る屍となろうとも大君のおそば

    近く死のう。ほかにのどかな死をすることはあるまい)

(「続日本紀」天平21(749) 年4月1日)という大伴氏の言立(ことだ)て(誓いの言葉)が

合まれていたことへの、感謝があふれている。

 しかし一方で、この時代は大伴氏や佐伯氏といった古来、大和朝廷を支えてきた名族が、新
興豪族である藤原氏
の前に、没落してめく過程にもあたっていた。

 新元号「令和」の典拠として脚光を浴びた「梅花の宴」(730年1月18日)は家持の父、旅人が
大宰府長官とし
て催したものである。詠んだ序文や歌の数々は華やかだったが旅人の内心は
どうだった
か。そもそも、大宰府への赴任自体、大伴氏の家長である旅人を平城京から遠ざけ
る左
遷であった。また前年には旅人を評価した長屋王が藤原氏の讒言で自害し果てている。

 天皇の信任に応えることこそ大伴氏の役割だ。家持も自ら言いきかせて生きた。だが実際に
は、藤原不比等の娘、
光明子が聖武帝の皇后に立ち、一族は多く高官に取り立てられている。
家持の歌には
名門出の矜持(きょうじ)と、大伴氏の衰運に悩む思いが交錯していたのである。
  令和元年6月14日  産経新聞
 (客員論説委員 渡部裕明)

防人の悲しみ

  
今日よりは顧(かへり)みなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我は
                       (巻20-4373)


 今日からは後ろをふり返ることをせず、天皇の至らぬ守備兵として出発するの

 だ、私は。(岩波文庫版「万葉集」から)


   韓衣裾(からころもすそ)に取りつき泣く子らを置きてそ来(き)ぬや母(おも)なしにして
                          (巻20-4401)


 韓衣の裾に取り付いて泣く子らを残して来たのだ。 母親もないのに。


 「万葉の時代」は、飛鳥の宮殿や平城京の華やかさの一方で、東国の名もない農民が国の
守りのために駆
り出された時代でもあった。「防人(さきもり)」と呼ばれる人たちである。

 大宰府から南に約60km。熊本県北部の山鹿市と菊池市に広がる山あいに国指定史跡
「鞠智城跡(きくちじょうせき・地図」がある。
7世紀後半、白村江の戦いに敗れた日本が、唐軍
の侵
攻に備えて築いた古代山城(こだいさんじょう)のひとつである。

 昭和42年から発掘調査が進み、貯水池のほか建物跡、百済様式の仏像などが見つかった。
このうち八角
形の楼閣(鼓楼)や兵舎、米倉などが復元されている。 また中心部分には、シンボ
ルとして防人などのブ
ロンズ像が立つ。

 「広さなどから兵舎は1棟あたり50人ほどが生活できたようです。 東国からの防人がどれほ
どいたかは、
よく分かりません」

 長く調査を担当してきた熊本県教委文化課の矢野裕介主幹は言う。

 防人は律令制のもと、17~65歳の成年男子に課せられた課役で、奈良時代を通じて続け
られた。 主に東国
の男たちで、国ごとに都へのぼり、難波津から船で北部九州の各地に送ら
れた。
任期は3年だが交代が来ず、そのまま命を落とす例も少なくなかった。

 防人の悲劇は当人だけではない。残された家族も働き手を失い、飢えに苦しむこととなる。

歌は、信濃国小県郡 (長野県中央部)の他田舎人大島という人物が詠んだものである。 妻は
つい最近、亡く
なったのだろう。 故郷に残してきた、 母のない子供たちの暮らしを気遣う思いが

あふれている。

 こうした防人の歌が収録されたのは、家持が兵部省の役人として難波津で彼らの管理にあた
ったからであ
る。防人の歌には拙劣なものが多かったが、家持の心を打つものもあったことが

よくわかる。

 万葉集にはこのほか、《今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ我は》のような、
明らかに地
域のリーダー格の詠唱と分かる歌も交じる。

 都の貴族や僧侶ら教養人だけでなく、東国の庶民まで自らの思いを歌で表現していることは
感動的であ
る。まさに、日本は古代から「言霊(ことだま)の国」だったのだ。
  令和元年6月14日  産経新聞
 (客員論説委員 渡部裕明)




王陵なぜ大阪に

 ヤマト政権の王陵がなぜ大阪へ移ったのか。「奈良に用地がなくなった」「大阪に造る理由が
生じた」
「権力者の交代があった」

一など数々の見解がある。戦後の一時期には、大阪平野を本拠とした新政権の勃興を説く「河
内王朝論」が
脚光を集めた。

 だが同じような前方後円墳が造り続けられること、また歴代の都は奈良盆地に置かれるケー
スが多いこと
などから、王朝交代説は成り立ちがたい。 むしろ、この時代の政治情勢が大阪を

選ばせた、と考えられるようになっている。

 つまり、4世紀後半から5世紀にかけ、倭(日本)にとって、朝鮮半島や中国との外交が重要な
課題とな
ったことが大きい。当時の日本列島は水田開発が進み、人口も増え続ける「高度成長
期」。支えていたの
は、鉄製の農具や工具の普及だった。

 鉄器はそれまでの石器に比べ、作業効率が飛躍的に向上する。ところが鉄は国内で産出せ
ず、朝鮮半島か
ら輸入するほかなかった。鉄を安定的に入手するためヤマト政権は朝鮮半島
まで
出向き、かの国々との複雑な抗争に巻き込まれていったのである。

 海外交渉の拠点となったのが、大阪湾沿岸だった。この地の重要性は急速に高まり、大陸へ
の水運を担う
豪族の地位も向上した。 大阪湾岸の巨大古墳は、この地を行き来する人々に、
権の力の大きさを見せつけるモニュメントの役割も果たしたのだった。
半島緊迫 中国へ使節派遣

 百舌鳥·古市に巨大古墳かれた5世紀は、「倭本)の五王の世紀」ともわれる。 情勢が不安定
な朝鮮半島諸国との関係が
緊迫するなかで、ヤマト政権は中国南部の強国·宋に、後ろ盾を求
めた。 宋の
歴史書(宋書)には「讃(さん)珍(ちん)·済(せい)·興(こう)·武(ぶ)」を名乗る5人の
王が、使節を派遣し
たと記している。

 宋書はほば同時代に書かれた書物で、史実性も高い。遣使は讃による西暦421年を筆頭に、
478年
の武まで最低10度にわたって繰り返された。

 「遣使の利点は、大きく2つありました。 中国王朝の権威を借りて国内支配の維持·安定を図
るととも
に、朝鮮半島の国々との戦争への体制づくりを進めてゆくためです」

 著書「倭の五王」(山川出版社)のある森公章,東洋大教授(日本古代史)こう話す。

 とくに大王(天皇)の代替わりにあたっては、必ず遣使したようだ。先代を古墳に葬り、大王位
継承の儀
式を済ませたことを告げ、宋王朝から日本の支配者(倭国王)などの地位を認めても
らっている。

 当時、朝鮮半島の国々で最強だったのは、北部の高句麗。逆に南西部を治める百済は、高
句麗の侵攻に悩
まされていた。 このため百済は、海を隔てた日本に救いを求めた。むろん、
見返
りを用意しての要請だった。このころ日本に伝わってきた仏教などの文化や、先進技術が
それだったと考
えられている。

 これに応えて、日本は百済に軍事支援、つまり兵を送った。この事実は、中国東北部・集安
市に残る高句
麗の広開土王(こうあん・好太王、在位391~412年)碑の「碑文でうかがうこと
ができる。

 高句麗は精強な騎馬軍団で知られ、馬を持たなかった日本は大敗したようだ。

以後、馬の導入に力を注いだことが5世紀以降、古墳から馬具の出土が急増することで裏付け
られる。

 では、「倭の五王」とはいったいだれか。古くから、天皇系譜と見比べて推定する議論が行わ
れてき
た。最後の武が雄略天皇指すことに異論はなく、興安康大皇、済が允恭天皇であ
ることもほぼ確実視さ
れている。 問題は讃と珍だ、讃は仁徳履中、珍は反正とする説が強
い。
 令和元年7月8日~9日  産経新聞
 (客員論説委員 渡部裕明)


  
王権を確立した崇神天皇

神々を祭り国家の平安を祈る
 <御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)、
師木(しき)の水垣の宮に坐して、
天の下治らしめしき>

 10代崇神天皇は、現在の奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社の辺りで天下を治めた。と
ころが、その御世
に疫病が流行し、国民が絶えてしまうほどだったと事記は記す。

 く尓(しか)して天皇愁歓(すめらみことうれ)へたまひて、神牀(かむとこ)に坐す夜に、物主
大神(大物主神)、御
夢(みいめ)に顕れて日りたまはく、「是(こ)は我(あ)が御心ぞ。 故意冨
々泥古(かれおおたたねこ)を以ちて、 我が前
を祭らしめたまはば、神の気起(けお)こらず、
国も安平(やすら)かに
あらむ」とのりたまふ>

 古事記は、事態を憂えた天皇が神託を受けるために神床に就いたと書く。すると、夢に大物
主神が現れて
「疫病はわが御心だ。 オオタタネコによって、私を祭ってくだされば、疫病は収

まり、国も安らかになるでしょう」と告げた。

 オオタタネコは大物主神の子孫だった。天皇は、オオタタネコを神主として、御諸山(みもろや
ま・三輪山)に大三輪
大神である大物主神を祭った。

 〈此れに因(よ)りて役(え)の気悉(ことごと)く息(や)み、国家(くにいえ)安らかに平らかなり〉

 古事記は、天皇の行動の結果をそう書く。

 「神(大物主神)は、オオタタネコによって祭られることを求めた。 そうすれば『神の気』は起こ
らない
であろうと。自分の子孫が祭ることによって初めて国は平安になるとして、正しい祭り方
を求めたのです。

 東京大の神野志隆光名誉教授はそう話す。大物主神は、初代皇后、伊須気余理比売の父と、
古事記が書く
神だ。 崇神天皇の御代に起こった疫病を従来、大物主神の崇りと考え、大物主
を祭ることで収まったーとする解釈が多かった。しかし、神野志名誉教授は「大物主神はす
でに祭られてい
た」と話す。

 「正しく祭られていないから、疫病が起きたというのであって、疫病をこの神の崇りというのは
正当では
ない。 崇りという言葉はどこにもないのです」


 三輪山をご神体とする神神社(奈良県桜井市)で行われる「大神祭(おおみわまつり)」は、
オタタネコを神主として祭神を祭ったところ、平安が戻って国が富み栄えたことが起源とされ
ている。「現
在まで2千年続くといわれ、春は4月、秋は10月に営まれます」と同神社の山田浩之
権爾宜は話す。 故事
に基づき、大直禰子命(オオタタネコ)を祭る大直禰子神社(若宮社)から分
を本社に遷すことから、祭りは始まる。

 大神神社の拝殿のすぐ隣には崇神天皇を祭る末社「天皇社」がある。「昭和8年には崇神天
皇聖徳奉讃
会が組織され、磯城の水垣宮址で大祭が行われました。崇神天皇をお祭りする
宮を創立しようという計
画もあったようです」と山田権繭宜は話す。

 大祭は戦中に途絶えたが昭和47年、「崇神天皇二千年祭」が大神神社に近い崇神天皇陵
(同県天理市)で
行われ、それを機に「崇神天皇奉讃祭」が営まれるようになった。 1月14日に
われる祭典では、天皇社前で神楽「磯城の舞」が奉奏される。

 神々を祭り、国家の平安を祈る天皇の始まりを崇神楽天皇に見ることができる。


大神神社

 奈良県桜井市三輪にあり神として大物主大神を祭る。大己貴神少彦名神
配祀する。三輪山をご神体とし、
本殿を持たない原初の神祭りの形を伝え、古事記、
日本書紀にその創
祀が記される日本最古の神社。

 古事記によれば、大物主大神は出雲の大国主神の前に現れ、国造りを成就させ
るために三輪
山に祭られることを望んだという。国造りの神として産業·エ業·商業全
般のほか、崇神天皇
の御代に疫病をしずめたことから医薬の神、杜氏の祖神に援
して美酒を醸したことから酒造りの神としても信仰を集める。

将軍派遣 説いて平定

 吉備国は初代神武天皇東征で最大の8年間、滞在して懐柔した国だ。 そこに崇神天皇が
将軍を派遣した
ことは、吉備国に不穏な動きがあったことを示す。 その地を「言向け和す」、つ
まり武力制圧でなく、言葉で説いて人心を和らげられたことは大功名だった。

 「吉備国は大和を支える」重要な存在でしたから」と元岡山市文化財専門監で「古代吉備国を
語る会」の
出営徳尚会長は話す。岡山県内では製鉄遺跡が30、製鉄炉跡は100基以上が確
認され、古代から武器となる鉄器の主要生産地だったことがわかる。 また、瀬戸内の交通の
要衝地で、留学
生として唐に派遣された吉備真備を生んだ土地でもある。

 「吉備国人は軍事、外交の専門家として大和で重用されていた。 軍備を整える適地だったの
でしょう」

 吉備津彦は現在、吉備津神社(岡山市)で大吉備津彦命として祭られる。 社伝では、吉備国
平定の後、吉
備国の中心の中山 (同市北区吉備津)の「茅葺宮」に住み、殖産を教え、仁政を

行ったという。 281歳で没後、中山山頂の茶臼山古墳 (全長130mの前方後円墳)に葬られ、現
在、宮
内庁が「大吉備津彦命墓」として管理する。

 「神社の創建は、大吉備津彦命の徳をしのんだ16代仁徳天皇によると伝わりますが、地理上
は大化の改新
以降に本格整備された旧山陽道から参道が敷かれており、それ以前からあった
考えられます」

 同神社の上西謙介禰宜はそう話す。 畿内から九州につながる全国随一の大路(主要道)とさ
れた旧山陽
道が、吉備津彦の仁政で治められたことは、大和政権には大きかった。

 <尓(しか)して天の下太平(たひ)らかに、人民富み栄ゆ〉

 4将軍の派遣後の様子を古事記はそう記す。崇神天皇の武断は、王権を不動のものにしたの
だ。


吉備国

 現在の兵庫県西部から岡山県、広島県東部、瀬戸内海島興部まで広がっていた古代
国家。岡山県南
部の牛窓湾など良港に恵まれ、西は九州、朝鮮半島、北は出雲への
衝だった。大化の改新後、全国
の五畿七道のうち「大路」とされたのは旧山陽道のみだっ
た。

 律令体制以降、備前、備中、 備後、美作の4国に分割された。古代においては物流拠
点で、製鉄、
製塩は全国有数だった。こうした隆盛ぶりを示すように、全長350mの造山古
墳(岡山市、全国 4位)
282mの作山古墳(岡山県総社市、同10位)など前方後円墳が多い。

税制導入
 4将軍を各地に派遣して
朝廷の勢力圏を広げ、天下を平定して民を富み栄えさせた、と古事
記が書く崇神
天皇が次に着手したのは、国家体制の整備だった。その様子を古事記はこう記
す。

 〈是(ここ)に初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつき)、女の手末(たなすゑ)の調を貢(たてま
つ)らし
めたまふ>

 男が狩猟で得た獲物や、女が手先の仕事でつくった糸や織物を、初めて税として納めさせた。
制の始ま
りである。

 古代の税は租、庸、調で知られる。このうち国家にとって最も重要なのは調だと、岡山大の
今津勝紀教授
はいう。

 「調とは王に対する奉を意味し、天下公民が負うべき義務とされた。 国家財政の中心であり、
これを納
めることは政治的な服属も意味します。 納税者が自ら荷を担ぎ、都に運ぶことが求め
られていました」

 米を納める租は、地方にとどまって中央に届かず、庸は都で労役につく人々への仕送りだっ
たので、その
まま国家運営には活用されなかった。しかし、調はそのまま国家財政に組み込ま

れた。こうした土台は崇神天皇が創始したという。

 〈是(こ)の御世に、依網池(よさみのいけ)を作り、また軽の酒折池を作る〉

 古事記は天皇が、ため池を築造したことを記している。民から集めた税で公共事業を行った
のだ。 日本書
紀にさらに、池の用途を天皇の指示として、はっきり説明している。

 「農(なりはい)は天下の大本(おほきなるもと)なり(中略) 今し河内の狭山埴田(はにた)水
少し。是を以ちて、
其の国の百姓(おほみたから)、農の事(わざ)に怠る。 其れ多(さは)に池·
溝(うなて)を開(ほり)り
て、民の業を寛めよ」

 農業の重要性を強調し、水が少なく百姓が農事を怠)っている土地に池や溝をつくって水を通
せと命じたの
だ。 大和王権を支える穀倉地帯だった大阪府南東部の河内地方には、いくつも
ため池が築造された。

 大阪市住吉区の大和川近くには現在、依網池跡の碑が立つ。 江戸時代半ば、大和川の流
路付け替えで分断
される以前は、堤を含めた面積約46万平方m、甲子園12個が入る大きな
池だった
という。

 「具体的な記述がある最古のため池で、5世紀中期ごろの築造でしょう。 ため池は水圧も考
慮して堤を造
る必要があり、古墳より高度な技術を要しました」

 四天王寺大の元准教授、川内眷三氏はそう話す。

 日本書紀は、天皇が租税徴収のために戸籍調査を行い、荷を運ぶための船を造らせたこと
も記し、多大な
事績に賛辞を惜しまない。

 ほとんど系譜しか記されていない2~9代の歴代天皇と比べて、10代崇神天皇の存在感は傑
出している。

 く故(かれ)、称(たた)へて御肇国天皇(はつくにしらすすめらみのみこと)と謂(まを)す(はつく
にしらす天
皇と申し上げる)〉

 古事記も「初国知らしし」天皇と呼ぶ。この「はつくに」という修辞が、初代神武天皇との関係で
議論
を呼んだこともある。

 しかし、大阪市立大の毛利正守名誉教授はこう話す。

 「はじめのころの国を治めたという意味であり、初代ということではない。 大和王権をしっかり
固めた功
績をたたえたのです」

  2019-7-10~13 産経新聞 この連載は北村理、坂本英彰、正木利和、安本寿久、
  山上直子が担当しました。


租庸調(そようちょう)

 中国の制度にならって大和政権が取り入れ、大宝律令(701年)で整備された古代
の税制。租は、
人民に割り当てられた口分田の収穫高の一定割合を地方役所に納

め、地方だけで使われた。庸は本来、都で労役につく人に地方から送った生活費だ
ったが、 後には国
に繊維製品を代納した。

 調は、地方から中央への貢ぎ物であり、納税者が都までの運搬義務も負った。関
東や九州からは徒
歩で片道1カ月ほどかかったとされる。絹や麻など繊維製品のほ

か、海産物の加工品や獣肉、 発酵食品、塩、鉄などさまざまな特産物が納められた。




大津市坂本 比叡山

  「比叡山の麓にある日吉大社の大鳥居のわき広い駐車場があり、「本家 鶴喜そば 店は角か
ら三軒目 →」
という看板がかかっていた。 休日の午後、駐車場は満車だった。

 すくなくとも40年ほどまえには、この看板はなかったのではないだろうか。 駐車場を出たところ
の「角」には、旅宿屋ふうの風情が
ある建物があり、「坂本名物 日吉そば」の屋号をかかげてい
た。「角から三軒目」に向
かわず、まちがってこの店に入ってしまう客もいたらしい。

 『街道をゆく』を連載中の司馬遼太郎の一行も昭和以年初秋、この駐車場に車をとめ、「鶴喜
そば」だと思いこんで「日吉そば」の
ほうに入ってしまった。シリーズ「叡山の諸道」の「そば」とい
う項によると、司馬は店
の娘さんと、こんなやりとりをした。

 「ここは鶴喜ですか、とわかりきったことをきくと、/『ちがいます』/おそらく似たようなあわて者が
とびこむことが多いらし
く、彼女は石でものみこんだように不快げな表情をけなけにも維持してい
た」

 さすがに「恐縮」してそばを食べたうえ、「まことに日吉そばに対して失礼なことをしてしまった」
とつづく。だが当時でも「日吉
そば」の看板やノレンは出ていたはずだから、屋号くらいは確認す
べきであろう。

 「角から三軒目」の、これまた風情のある木造建築の「鶴喜そば」に向かったが、店頭には30
人ほどの行列ができていた。 店の娘さ
んに待ち時間を訊くと、「30分ほどです」。

あきらめて「日吉そば」にもどったが、こちらも満員だった。

 文芸評論家·小林秀雄のエッセー「無常といふ事」の一節を思いだした。 昭和10年代後半、日
吉大社を訪れたとき、鎌倉期の法語
「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の一節が突然、浮か
び、「坂
本で蕎麦を喰つてゐる間も、あやしい思ひがしつづけた」と書いている。この「蕎麦」は
こで食べたのだろうか。

小林秀雄と司馬遼太郎

 風情のある穴太衆積(あのうづ)みの石垣がならぶ区画を抜け、「日本一長い」がキャッチコピ
ーら
しいケープルに乗って、延暦寺にむかった伝教大師·最澄が延暦7 (788) 年、ここに草庵を
むすび、その後、元号の「延暦」を
寺号にした。弘法大師,空海の高野山(和歌山県)とはことなり、
仏教の総合大学(ユニ
バーシティ)の役割をはたし、法然親驚日蓮ら鎌倉仏教の「祖」をはじ
め、多くの名
僧を輩出した。

 平安京に近いこともあり、苦難の歴史を、寺そのものの側にも責任の一端はあったが、なめつ
づけた。 平安期には山法師らが神輿を
かついで洛中になだれ込む強訴がたびたびおき、白河
天皇
(在位1072~1086年)を
して、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなはぬも
の」と言わしめた。

 だが織田信長には「わが心にかなはぬもの」などはなかった。 元亀2(1571)年)9月、全山焼き
討ちを命じ、根本中堂をはじ
め、多くの堂宇を焼きはらった。 信長の一代記『信長公記』には「僧
俗·児童,智者.上人
、一々に頸をきり、信長の御目に懸くる。

(略)御扶(たす)けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖(いえど)も、中々御許容なく、一々に顕を
打ち
落され、目も当てられぬ有様なり」とあり、数干人が殺された、とつづく。

 ケーブルの窓から、木々につつまれた深い谷あいをぼんやりと見おろしていると、「大正末期、
ケープルを建設中に、土中から25
0体の石仏が見つかり……」という車内アナウンスが流れてき
た。眼下の谷は「死の谷
(デス·パレー)」だったのだ。

 「無常といふ事」には「死んでしまつた人間といふものは大したものだ。 何故、あヽはつきりとし
つかりとして来るんだらう。まさ
に人間の形をしてゐるよ」と、知人の川端康成に喋った、というくだ
りがあった。

 司馬は歴史小説について問われると、「完結した人生,をみることがおもしろい」という趣旨の発
言を繰りかえした。「完
結した人生」とは「死んでしまつた人間」にほかならない。

 『街道をゆく』シリーズとしては、ちょっとミスマッチな「そば」の項は、名エッセーとして知られる
「無常といふ事」を意識し
た、小林へのオマージュ(敬意、賛辞)のように思えてならない。小林は
「思想」を紡ぐた
めに、司馬は「物語」を紡ぐために、「死んでしまつた人間」ばかりを好んで取り
あげた。

 ――ケーブルからおりてふりかえると、薄青い琵琶湖がパノラマのようにひろがっていた。 山上
の人々の人生を 「完結,させるため
に、血走った兵(つわもの)どもが鬨(とき)の声をあげながら、

オンナ子供までも容赦なく虐殺していく 「目も当てられぬ有様」を貼りつけることなど、とてもでき
そうもないほど完結, した眺め
であった。
  2019-1-29  産経新聞
(客員論説委員 福嶋敏雄)


























/