第102代 後花園天皇(ごはなぞの)地図

()崇光(すこう)院(北朝三代崇高(すうこう)天皇の孫(さだ)(ふさ)親王)(第一皇子) 
幸子(こうし)(藤原経有の娘)
誕生 …1419年(応永26年)6.17
御名・異称 (ひこ)(ひと)・円満智・後文徳院
女院 大炊御門(しん)()
立太子 … ――― 
即位 …1428年(正長元年)7.28
在位年数 …36年
崩御 …1470年(文明2年)12.27(年齢52才)
皇居 平安宮
年号 (しょう)(ちょう)(えい)(きょう)()(きつ)(ぶん)(あん)(ほう)(とく)(きょう)(とく)(こう)(しょう)(ちょう)(ろく)(かん)(しょう)
持明院統の後小松天皇が皇子称光天皇に譲位したため、南北朝合一の約である両統迭立を破るものとして大覚寺統(亀山天皇の系統)の貴族らが各地で蜂起した。乱はほどなく鎮圧されたが、皇子のない称光天皇の後継者問題が依然残されていた。この機を狙って大覚寺統が再び蜂起すると、後小松上皇はすばやく伏見宮の彦仁王を御所に迎えて猶子としたうえ、称光天皇の崩御とともに親王宣下もないまま即位させた。
天皇の治世中は度重なる土一揆や嘉吉の乱(1441年)など大きな騒乱や政変が相次いだ。依然南朝の残党が暗躍して各地で蜂起し、宮中に侵入するなど不安定な政情が続いた。又、飢饉と悪病が流行し、死者が多く出た。この困窮の最中将軍足利義政は遊興にふけり、奢多に流れたため、天皇から諫言を加えられる有様であった。
天皇は後小松上皇が亡くなると、30年以上の長きにわたって親政を続け、皇子の成仁親王(後土御門天皇)に譲位し、院政を続けた。
陵墓名 ()(やま)(くにの)(みささぎ)  (ほう)(きょう)(いん)(とう)
所在地 京都府北桑田郡京北町大字井戸字丸山常照皇寺内
泉涌寺境内悲田院の傍らで火葬に付され、御骨を悲田院の仏前に奉安された。遺詔に葬儀厚くすることなく、広い野に火葬し灰骨を納めて常照寺の祖堂に安置せよとある。
後花園天皇の後山国陵は後土御門天皇の分骨所と同域である。山腹に位置するため、三方は石垣で南面する。正面は檜皮葺平唐門があり、透塀をめぐらしている。中央の東西に並ぶ宝篋印塔二基が後花園天皇陵である。常照皇寺境内で管理がよく荒廃もなかった。東側の小円墳が光厳天皇陵(山国陵)で、西側の小五輪塔が後土御門天皇の分骨所である。