龍谷山 西本願寺地図
(世界遺産)

 浄土真宗本願寺派の本山で、通称西本願寺といわれている。
 京都で「お西さん」と親しまれている。
 本願寺は文永9年(1272)宗祖新親鸞聖人のむすめ覚信尼が東山大谷に仏閣を建て、
親鸞聖人の御影を安置したことにはじまり、本願寺第八代蓮如上人の時(室町時代)に
教団は飛躍的に発展した。
 しかし、寺地は山科、大坂など各地を転々とし、天正19年(1591)豊臣秀吉からこの地を
寄進された。
 当時の建物の配置と構造は、真宗建築の典型で御影堂が本堂よりも大きく、また堂内には
自由に参拝できるよう造られている(ともに重文)。
 御影堂の後ろには、寛永9年(1632)ごろ建築された書院(国宝)があり、建築や彫刻に粋
をこらし豪華なふすま絵で飾られている。
 飛雲閣(国宝)は、豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構といわれ、桃山時代様式の邸宅建築と
しての特色を有している。
 このほか唐門、北能舞台の建物や親鸞聖人御影(何れも国宝)など、多数の文化財を蔵し
ている。 
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唐門(国宝)
 伏見桃山城から寛永8年(1632)に移して建てられたもので、
彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから、
日暮門といわれ大徳寺唐門・豊国神社唐門などとともに桃山建築の
特色を十分に表した、四脚門で桧皮葺・前後唐破風・側面入母屋造の
彫刻が精巧で美しく、豪壮華麗な唐門である。
 境内の南書院の表門で、南通路に面している。

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 阿弥陀堂(本堂・国宝)
阿弥陀堂内部
 御影堂に向かって右側にあり、本尊阿弥陀像を安置する。御影堂より少し小さい。宝暦10年(1760)の再建で、
東西42m、南北45m、高さ25m。 御影堂とともに真宗仏堂の典型的なもの。

 中央に本尊阿弥陀如来の木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されている。

 
 御影堂(ごえいどう・大師堂・国宝)は寛永13年(1636)建立。(再建)
内陣中央に、親鸞の御真影(木像)が安置されていることから、御影堂といわれる。
 東西48m、南北62m、高さ29m。
外陣には441枚の畳を敷き、1200名を超える人が一度に参拝できる。
227本の柱で11万5千枚の瓦の大屋根を支えている。 
 正面向かって左にある大建築で、寛永13年(1636)の建築。
 2014-9に国宝となった。 
 中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し重要な行事は、
この御堂で行われる。
堀川通りに面している御影堂門(ごえいどうもん)
 門から出ると、正面通りが東本願寺の裏手までのびる。
両脇に仏壇や仏具、念珠を売る店が並ぶ。

 親鸞聖人600回大遠忌を前に、1859 (安政6)年に大阪の講社(こうしゃ)が担当し修理。1960 (昭和35)

年、親鸞聖人700回大遠忌を前に修理されました。

また、2006 (平成18)年から2009 (平成21)年にかけて、親鸞聖人750回大遠忌を前に、築地塀と併せて
石工事・屋根工事・物工
事などが実施されました。屋根工事では瓦の葺き替えを実施し、再用する旧瓦
は南面に
まとめられています。

境内南側に面している大玄関門
海鼠壁 内門、台所へ通じる門である。大名屋敷ほど堅固な造り
 桃山時代の伏見城の遺構といわれ、豪華な装飾彫刻を全体に施した四脚門である。
 唐門の内部、外部すべて黒塗地に華美な金具を盛んに用い、彩色を施した彫刻にも多くの金箔
を用いた跡がある。
 唐獅子、鰭麟、孔雀、牡丹、松竹梅、唐草、飛雲等を透き間なく刻み込んである。
これら建築細部に見られる彫刻は、これを丹念に眺めていると、日の暮れるのを忘れるといわれ、
たとえて「日暮門(ひぐらしもん)といわ建築彫刻の極致である。

 

「唐門」が34年ぶりに1日だけ開けられ

る。豪華な彫刻が施されているのが特徴

で、見ていると日が暮れるのも忘れるほど

美しいとして「日暮らし門」とも呼ばれて

いる。開門は2017-5-21。

高さ8.67m幅5.37m奧行き4.4m

桃山建築の代表作の一つとされ、檜皮

ぶき唐破風造りの四脚門寺によると、装

飾を傷つけないよう, 1983年の儀式で

開けられて以降は閉じられたままだった。

来年6月から2022年3月まで修復工

事をするのを前に、宗祖親鸞の誕生日に合

わせ特別に開門することになった。21日午

前9時〜午後5時で、参拝客も通れるのは

午後1時まで。2017−5−20 朝日新聞(大村治郎) 


唐門
大徳寺  大徳寺拝観の手引き  秀吉の橋琵琶湖に移築  宝厳寺 
一休寺  西本願寺拝観の手引き  北野天満宮  醍醐寺 
後光明天皇  桃園天皇  後桜町天皇  六条天皇 
西本願寺  泉涌寺  仁和寺  仁孝天皇 
明正天皇  智積院  豊国神社  後桃園天皇 
永観堂  高台寺  瑞峯院  霊元天皇 
後水尾天皇  光格天皇  二条城  後西天皇 
後花園天皇  二条城よみがえる門      
飛雲閣(ひうんかく・国宝・非公開・国宝)
 境内の東南隅にある名勝滴翠園に建つ飛雲閣は、三層柿葺(こけら)の楼閣建築で、聚楽第からの移築とも、
本願寺の御亭(おちん)が発達したものとも伝えられている。
 外観は、唐破風や入母屋など変化に富んだ屋根を巧みに配し、左右非対称の妙を作り上げている。
一階は招賢殿や八景の間・舟入の間などからなり、二階杉戸には歌仙の間と呼ばれ三十六歌仙が描かれている。
三階は摘星楼で、星を摘む楼閣という綺麗な名がつけられている。
 金閣銀閣とともに京都の三閣と称せられる。 
    飛雲閣及び鐘楼の写真はH・S様ご提供。
飛雲閣(ひうんかく)

 金閣、銀閣と並んで「京都の三名閣」のつに数えられる建物です。秀吉が建てた聚楽第の一部で、三層からなる楼閣建築

である。建物全体の景観が、左右非対称に配置され、見る位置によってその姿が様々に変化し、見るものを楽しませてくれる。

 豊臣秀吉が造営した聚楽第(じゅらくだい)の一部を移遷されたもの。
 新撰組は、「池田屋騒動」(元治元年・1864)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(1865)3月10日、屯所を壬生から本願寺に移し、境内に「新撰組本陣」の看板を掲げ、北東にあった北集会所と太鼓楼を使用していた。
 本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊王攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士たちが、何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、新撰組は本願寺のなかに本拠を移すことによって一石二鳥の効果をねらったものであった。
 新撰組は、境内で大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、乱暴を繰り返したため参拝の門信徒や僧侶らを震撼させる毎日であったそうである。新撰組の活動期間は6年ぐらいであり、大部分が暗さつされていった中、結成時からの元隊士、島田魁が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、終生お念仏を喜びながら太鼓番をしていたという話が伝わっている。明治6年(1873)、北集会所は姫路市の(亀山)本徳寺に一部移設されたため、現在の本願寺に新撰組の足跡を見るのは太鼓楼だけである。
太鼓楼(重文)
 寺は、戦国時代に織田信長と戦った石山合戦で毛利家の支援を受けた縁から親長州派だった。池田屋事件や禁門の変(蛤御門の変)で名を上げた新選組が境内北側の北集会所(きたしゅうえ)に駐屯したのは、1865年3月〜67年6月の約2年3か月。
 寺と長州藩との関係を警戒する幕府が壬生から移らせたともいわれる。
 6月22日の記事によると、北集会所が1畳に1人が寝るほど手狭であった。土方から南隣の阿弥陀堂の一角を無理なお願いだが拝借したいと訴えがあった。

 新選組は寺の後、近くの不動堂村に移ったが、移転を実現した寺侍の家臣に褒美が贈られた。
 太鼓楼は、旧来より時を報せたり、法要の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。
 時を報せる太鼓は、山科本願寺において使用されていたことが知らており、江戸時代初期には境内の南東隅に太鼓を吊るした建物があったようである。その後、宝暦10年(1760)の親鸞聖人5百回忌に際して境内の大規模な整備が行われており、現在の太鼓楼はこの頃に建立されたものと考えらている。なお寛政元年(1879)に第17代法如上人の時に修復が行われ、この修復の時に新たな太鼓がそなえられることとなり、現在は二つの太鼓が残されている。なお古い方の太鼓は、胴部がツツジの木で作られたものとして著名で、奈良の西大寺の遺品と言われている。

 幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が今も残っていると伝えられえています。

 上人は、ただ念仏の一義だけでよいとし、僧俗の別さえも不要とするほど、徹底した宗教にした。
それまでの仏教は一種の多神教であった。それを、阿弥陀如来の一尊に絞り上げてしまった。諸仏諸菩薩は不用の木偶漢にすぎないことになった。
 それでは、旧仏教のすべてが、否定されることになる。旧仏教徒から言えば、凶悪無道に見える。
 南都北嶺禅苑のすべてから、排斥され、京都を追放、越後に流刑された。
 やがて赦免され、弘長2年(1235)90歳の寿命を全うした。旧仏教徒は、ここぞとばかり、親鸞門徒に圧力を加えて、葬儀の儀も行わせなかった。
   
経蔵(きょうぞう・重文)   鐘楼(重文)

経蔵に納められている『大蔵経(一切経)』は天海僧正の開版されたもので、寛永12 (1635)年、江戸の寛永寺で発起

し、12ヵ年をかけて完成した。天海版または寛永版とも称される。幕府の要請と本願寺第13代良如宗主の希望によ

り慶安元(1648)年9月に銀27貫目で購入した。
 中央にそびえる回転式書架がある。転輪蔵(てんりんぞう・高さ6m、直径4m)である。八角形の各面に
計360個の引き出しがある。中身は6323巻のぼるにも大蔵経である。
 転輪蔵を一回転させると、大蔵経はすべて読んだことになる。この仕組みを考案したのは中国の傅大士(ふだいし)
誰もが仏の教えに触れられるようにとの願いが込められている。   

イチョウ(京都市指定保存樹)
円形の樹形をしたイチョウ。
 境内南側の通路であるが、この奥に唐門、
大玄関門がある。この通路の左側(南)は
興正寺となっている。
 境内にはイチョウが比較的多く植栽され、古くから火災時の類焼を防止する防火樹
の役割を果たしてきた。

 まるで根を天に広げたような形から「逆さ銀杏」と呼ばれる樹齢約400年の大銀杏

で、京都市の天然記念物に指定されている。本願寺に火災があった時に水を噴き

出して消し止めたという伝説から「水吹き銀杏」とも呼ばれている。

本願寺の歴史

 本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山でその所在(京都市下京区堀川通花屋町下ル)する位置から

西本願寺ともいわれている。

浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたがその後、室町時代に出られた蓮如上人

によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在ではわが国における仏教諸宗の中でも代表的な
教団の一つとなっている。

もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。

親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりベの)の北、大谷に石塔を
建て、遺骨をおさめた。
しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の
覚信尼(かくしんに)や、聖人の遺徳を慕う東国の門弟達は寂莫(せきばく)の感を深めた。
そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の
廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。 これが大谷廟堂である。

この大谷廟堂は、覚信尼が敷地を寄進したものであったので、覚信尼が廟堂の守護をする留守職

につき、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった。

大谷廟堂の留守職は、覚信尼の後に覚恵上人、その次に孫の覚如上人が第3代に就任した。
覚如上人は三代伝持(でんじ)の血脈を明らかにして本願
寺を中心に門弟の集結を図った。
三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然聖人か
ら親鸞聖人へ、そして聖人の孫の如信上人
へと伝えられたのであって、覚
如上人はその如信上人から教えを相伝 したのであるから、
法門の上からも
留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明らかに
した
ものである。

本願寺の名前は、元亨元年(1321)ころに公称し、覚如上人の晩年から次の善如上人にかけて
親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置
した。
これを御影堂(ごえいどう) と阿弥陀堂の両堂に別置するのは
第7代の存如上人のときである。
5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿
弥陀堂を南に並置して建てられた。

室町時代の中頃に出られた第8代蓮如上人は、長禄元年(1457)43歳の時、法灯を父の存如上人
から継承すると、親鸞聖人の御同朋(お
んどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり
平座(ひらざ)で仏法を談合
され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれた。
また本尊
を統一したり、「御文章」を著して積極的な伝道を展開されたので、教えは急速に近江
をはじめとする近畿地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆
をみることになった。

しかし上人の教化(きょうけ)は比叡山を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は
比叡山衆徒によって破却 さ
れた。難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津
の近松坊舎
に安置して、文明3年(1471)に越前(福井県)吉崎に赴かれた。

吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明5年には「正信偈(しょうしんげ) ・和讃(わさん)」
を開版(かいばん) し、朝夕のお勤めに制定された。

上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装
して一揆を起こすに至った。
文明7年、上人は争いを鎮
めようと吉崎を退去され、河内(大阪府)出口 を中心に近畿を教化。
文明10
年(1478)には京都山科に赴き本願寺の造営に着手、12年に念願の御影堂の再建を果たされ、
ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えられた。
上人の教化によっ
て、本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まり多くの人に慕われたが、
明応8
年(1499) 85歳で山科本願寺にて往生された。

この後、山科本願寺は次第に発展したが、天文元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われた。

そこで蓮如上人が創建された大坂石山御坊に寺基(じき)を移し、両堂など寺内町を整備して発展の
一途をたどった。

しかし、天下統一を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害
となったので、ついに
元亀元年(1570)両者の間に戦端が開かれた。

本願寺は、雑賀衆(さいかしゆう)をはじめとする門徒衆 とともに以来1 1年にわたる、いわゆる石山戦争
を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため
仏法存続を旨として天正8年(1580)信長と和議を結んだ。

顕如上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊(和歌山)鷺森に移られ、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺
を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受け
て大坂天満へと移られた。

天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は
七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められ
た。

阿弥陀堂、御影堂の両堂が完成した文禄元年(1592)、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。

長男・教如上人が跡を継がれたが、三男の准如上人にあてた譲状があったので、教如上人は隠退して
裏方と呼
ばれた。これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と信長との
徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。

その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長 7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、
翌年ここに御堂を建立した。これが大谷派本願寺の起源
で、この時から本願寺が西と東に分立したの
である。

これより先、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れた。
翌年に
御影堂の落成をみたものの、元和 3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失した。

翌年阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永 13年(1636)に御影堂が再建された。このころ対面所などの書院
や飛雲閣、唐門が整備さ
れた。
ところが元和4年に建立された阿弥陀堂は仮御堂で
あったので、宝暦(ほうれき)10年(1760)本格的な
阿弥陀堂が再建され、
ここに現在の本願寺の偉容が整備されたました。

対面所(鴻の間) (国宝)

 203畳敷きの大広間。上下段の境の欄間に雲中

飛鴻の彫刻があるので鴻の間ともいいます。上段の床には張良

が四賢人を率いて恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれています。

この障壁画は狩野派の渡辺了慶筆。華麗で重厚な趣が深い間

です。 

雁の間(国宝)

 襖と壁面には飛翔する雁の群れや水辺に遊ぶ雁を描いて

秋の風趣を表しています。また隣接する菊の間との間の欄間に

は雁を透し彫りにし、隣室の月が眺められます。

菊の間(国宝)

 対面所の西に続く菊の間は、襖に濃彩で種々の垣根と秋花や

菊を描いて、清楚で華麗な趣きが漂っています。 

雀の間(国宝)

 対面所の西にある雀の間には、竹林の中を活き活きと飛び回る

雀が描かれていますが、68羽描かれたとされているのに実際は

66羽。あまりにも活きが良すぎて2羽抜け出したのでしょう

か?別名「抜け雀の間」とも呼ばれています。

白書院(国

 対面所の北裏にある賓客を迎える正式の書院。

ーの間、二の間、三の間からなります。一の間は紫明の間とも

いわれる最重要の間で、上下段に分かれ、壁面や襖等には中国

古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に関する故事が描かれています。

また、三の間は華麗な孔雀を描き、「孔雀の間」ともいわれています。

畳を取り除くと能が演ぜられるよう工夫されています。

黒書院(国宝)

: 黒書院は粗木を用いた私的な室で、歴代ご門主が寺務をとられた所。

ーの間(門主室)二の間を中心に、茶室、鎖の間、広敷などがあります。
幾何学絞様の欄間や、狩野
探幽筆の襖・貼附の墨絵等は清楚な趣きを漂わせ、
一の間の床・
違棚の配置、釘隠の意匠にも特殊な考慮がなされています。
江戸初期の数奇屋
風代表的書院です。

南能舞台(重文)

 対面所前の南能舞台は、現存する日本最大の能舞台で

毎年5月21日の宗祖降誕会に祝賀能が演じられます。 

北能舞台(国宝)

 白書院前の北能舞台は、懸魚(げぎょ)に天正9年(1581)

の墨書紙片があり、日本最古の能舞台とされています。

虎渓の庭(特別名勝)

 中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られた江戸初期の枯

山水庭園。御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れ

ています。

阿弥陀堂門(重文)

 昭和期の阿弥陀堂修復事業を機縁とし19832(昭和58)年、
檜皮の一部葺替、飾金具の修正
金箔押などの補修が行われ、
創建当初の美しい姿が再現され
ました。
また、2009 (平成21)年に御影堂門・築地塀
修理の際にあわせて修復工事が
行われました。

総門(重文)

 現在地までに三度移築されています。一度目は蓮如上人450回

忌の明治31年、二度目は親鸞聖人650回大遠忌を控えた明治44年。
三度目は昭和34年に交通量の増加に対応した堀川通りの拡張が計画され、

京都市の要請で現在地に移転しました。
虹梁(こうりょう)に大柄な二組の蟇股(かえ
るまた)を配しています。
平成23年に修復されました。