第54代 仁明天皇(にんみょう)地図

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嵯峨天皇(第二皇子)
()()()(壇林皇后)
誕生 …810年(弘仁元年)
御名・異称 正良(まさら)日本根(やまとね)()天璽(あめしる)(とよ)布聡尊・深草帝
女御 藤原(じゅん)()(太皇太后)、藤沢沢子(さわし)(贈皇太后)
立太子 …823年(弘仁14年)4.18
即位 …833年(天長10年)2.28
在位年数 …17年
崩御 …850年(嘉祥3年)3.21(年齢41才)
皇居 平安宮
年号 (てん)(ちょう)(じょう)()()(しょう)
皇太子には淳和天皇の皇子(つね)(さだ)親王が立てられた。840年(承和7年)に淳和上皇、842年(承和9年)嵯峨上皇が相次いで崩御すると、伴建岑、橘逸勢らが東国で挙兵、謀反を企てたが、平城(へいぜい)天皇の皇子阿保親王から橘嘉智子太皇太后に宛てられた密書により事件は発覚した。恒貞親王に罪のないことが判明したが、皇太子は廃せられ、仁明天皇の第一皇子道康親王が皇太子となった。伴建岑(けんみね)は隠岐、橘逸勢(たちばなのはやなり)は伊豆に流されたが、逸勢は護送中他界した。(承和の変) 実は事件を工作したのは藤原良房であり、廃太子することによって自分に近い道康親王を皇太子に擁立しようという陰謀であった。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子良房は外戚となり、藤原氏が権力を握る道が開かれ権力をほしいままにした。
東寺講堂の諸仏が開眼し、天皇・皇后ともに仏教を厚く信じられ、慈悲の心が深く、悪人や囚人を哀れみ、すぐ釈放されたので、社会不安を招いたほどであるといわれている。
天皇は「葬送の礼は皆倹約に従い、綾羅錦繍(あやらにしきしゅう)の類は、皆帛(みなはく)を以て之に代え、鼓吹・方相の儀ことごとく之を停む」との遺詔を残している。
陵墓名 (ふか)(くさの)(みささぎ)  方形
所在地 京都市伏見区深草東伊達町
現陵は南面した方形で空濠と石柵を囲す。「延喜(えんぎ)諸陵式(しょみささぎしき)」に「兆域(ちょういき)東西一町五段、南七段、北二町、守戸五烟」と記されている。
御陵も後世荒廃して所在不明となったが谷口町に東塚と称する荒墳が治定されている。
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