染色

 奈良時代になると、染織の技術が発達し、さまざまな衣料が生産された。高級織物では、

綾、羅、紗などが精巧な技法でつくられ、貴族階級の奢侈心を満足させた。

絹織物の生産のために、技術指導者が全国に派遣されたりもした。そして、諸国で生産され、
貢納された。
絹、絁(あしぎぬ)、麻布が、官人や庶民の衣料となった。

 染料となる紫草(むらさき科の多年草)の根には、染料だけでなく、防虫、薬用(止血、皮膚病)
の作用もあるので、魔除の植物とも考えられた。

紫色が公服の最高位をあらわす色とされたのも、このためだろう。

 額田王が詠んだ「あかねさす、紫野行き、標野行き 」(『万葉集』巻一・二〇)という歌は、紫草
を栽培する園があったことを示している。万葉集⇒⇒⇒

「あかねさす」は、この歌では枕詞だが、茜(あかね科の多年生蔓草)も、根から緋色の染料がと
れる。

 また, 紫は灰さすものぞ」(『万葉集』巻十二・三一〇)という歌により、紫染めには灰が媒剤に使
用された
ことがわかる。

 紅花も、健康によい効果をもつ植物である。そのほか、茜、山藍、黄蘖(きはだ)、刈安、
(つるばみ)など、
種々の染料植物があった。

 また、「かきつばた衣に摺りつけ」(『万葉集』巻十七・.三九二一)とあるように、菖蒲類の花など
で布を染めた花摺衣もあった。
 刺繍の技術も発達し、
服飾をいっそう華やかに飾った。爪先に花文の刺繍をした沓もあったほど
である。

 綿糸や羊毛の糸などは、染めつけはたやすくできるが、麻などの単立繊維を染めつけるのは容易
ではない。
 麻は一度では染めつかないから、何度も染めつけの作業をくりかえさねばならない。

 とくに、藍染作業などは、二十回も三十回もくりかえし、藍がめに入れて染めつけるほどである。

 日本ではタンニン系の染料が多く使われるが、それは、タンニンの薬用効果により、防虫になると
同時に、
単立繊維でも染めつけが容易になるからである。

 橡みや榛(はん)の木などの樹液には、タンニンが含まれており、その液汁で布を染める歌が
『万葉集』
にも多くみうけられる。 
   樋口清之 装 より
    



団扇(うちわ)

 日本人は、着物の通気性をさらに加算する道具までも発明した。たとえば、団扇(うちわ)や扇子である。

 西洋では、扇風機が発明されるまでは、風を送る道具をもたなかった。中国には団扇(だんせん)があっ
たが、これは主に虫をはらったり、
太陽光線から顔を守るための道具である。

 唐招提寺では,六月に団扇まきの行事が行なわれる。団扇を何万とまいて群衆に与えるのである。

 鑑真は蚊や蠅が飛んできても、決して殺してはいけないという戒律を守って、団扇で顔をあおいだという。
団扇まきはこの故事から生まれた
行事である。

 この故事でもわかるように、団扇は虫を追うものだったと思われる。

 その団扇を、日本人は送風具にしてしまったのである。最初は蒲葵樹(びろうじゅ)の葉で編んで団扇をつ
くった。蒲葵
樹でたためる団扇もつくり上げた。やがて、薄板でつくった扇子になる。その板を糸でとめてあ
るものを,扇という。さらに、軽量でしかも空気抵抗を大きくするために、紙扇をつくり上げた。

 これは重宝な発明品だったので、約六百年前,南北朝の終わり頃から、中国へも輸出されるようになた。
中国はそれをさらにヨーロッパへ輸出した。

   樋口清之 装 より


服装

  繩文時代の服装は土偶によって知ることができる。これは北方系の密着衣服である。弥生時代は、『三国志』
魏志倭人伝」の記述が参考になり、それによると、南方系の貫頭衣や袈裟衣だったと思われる。
 古墳時代には、人物埴輪によって、男は衣と袴、女は衣と裳だったことがわかる。古墳時代の衣服は,朝鮮半
島の影響を受けて成立した、いわゆる胡服系の形
式で、六世紀までに日本にすっかり定着したようである。

 中宮寺の「天寿国繡帳」は、聖德太子(五七四~六二二年)の没後まもない七世紀中頃の作といわれるが、

そこに描かれた人物の服装は、当時の貴人の姿を表わしている。隋の影響がみられるものの、前代の名残

も多分にとどめている。

 高松塚古墳の壁画は、さらに大陸文化流入が著しくなった七世紀末期から八世紀初期のもので、男子は丈の長
い上衣を着てズボン型の自袴をはいている。襟は斜めに合わせる垂領(たれくび)で、腰に細い紐を結んでいる。
上衣の袖口からは内衣の袖があらわれており、上衣の裾は、同色の別生地
で継がれている(これを襦(らん)という)。

 女子も丈の長い上衣を着ている。形は男子の上衣とかなり似ている。袖口から出た内衣や、裾の襴も男子と同じ
であるが、女子の場合は、襴の下に襞(ひだ)のある別生地がみえる。下はひきずるほど長いスカート状の裳
をは
いている。裳の裾には細かい襞の縁飾りがついている。

 胸元の合わせは男女とも左袵(さじん・左前)で,養老三年(七一九)に右袵に改められるまでは、これが古来からの
習慣だった。

 大宝元年(七〇一)の大宝令により、礼服.朝服·制服の三公服が制定された。そして、翌年の正月の朝賀には、親王
および大納言以上の者が初めて礼服を着用した。
 三公服の制定は、官位階級の区別だけではなく、時と場所によって、着用するものが規定されていた。
 礼服とは、天皇·皇族、五位以上の文官、武官、女官が,即位式,元旦の朝賀,大嘗会などの重要な儀式の際に着用
するもので, 一般の庶民には縁の遠い存在であった。
 天平年間に背子(唐衣)という袖のない短衣を上に着て、領巾を肩にかけるようになった。背子は中国の
宮廷女官が
着ていた服装で、それを模倣したのである。その実物も正倉院に残されており、鳥毛立女図屏風や、浄瑠璃寺
吉祥天女像、薬師寺の吉祥天女画像
にも、それをみることができる。

 ただ、背子はあく\でも高位女官が着用したもので、高松塚古墳壁画に描かれた女官も、背子をつけていない。

 朝服とは、官人の出仕服のことである。これにも文官、武官、女官の別があるが、執務着なので実用的な形状にな
っている。

 官人には、冠の着用が義務づけられていた。冠といっても簡単なもので、頭を布で包んで、髷をくるんでうしろで結び、
あまった布を垂らした。
この垂れた布を垂纓(すいえい)という。

 貴族は、糊固(のり)めした冠をかぶっていた。これを幞頭という。幞頭にも纓がついており,文官は垂纓にし、武官は
巻き上げ巻纓(けんえい)にしていた。
 これらは、
あくまでも貴族、あるいは公事の際の服装で一般民衆の日常着は、ずっと粗末なものであった。奈良時代
になっ
ても、彼らが着ていたものは、埴輪に表現された民衆の服装とあまり変わらないものだったということができょう。
 山上憶良の「貧窮問答歌」(『万葉集』 巻五·八九二)に「綿もなき布肩衣」と歌われているものは、麻の袖なし着のことで、
弥生時代以来の貫頭衣的な衣服である。

 貫頭衣は、一枚の長方形の布の中央に穴をあけて、頭を入れてかぶり、身体の前後に垂れた布を腰紐でしばる南方系
の衣服である。この貫頭衣の前身頃の中央を縦に開き、脇下を縫い合わせると袖なし着となる。
 袖なし着や、筒袖をつけた衣服は、庶民の労働着として、後世まで残り、絵巻物にも描かれている。
 庶民は、衣服を何着 もっていたわけではなく、わずかな労働着を長期間、着用した。当時の洗濯には、皂莢(さいかち・
まめ科の落葉喬木)の実を煎じた液や無患子(むくろじ)の果皮を使用していた。サポニンという成分が含まれ、発泡洗浄
作用をもっている。
  役人でも下級の者は、一枚しかもっていない出仕服を洗濯したため、二日間の休暇願を出した者さえあったことが、
正倉院文書によって知られる。
  樋口清之 装 より


 櫛は「奇しきもの」である。もとは一本の棒で、団子の串と同じである。神に供え物をするときに、直接の奉供を失礼と考え、
竹や木の串に刺してあげた。
これを玉串という。

 その串は奇しき神聖なものであるが,髪を梳(す)くときは、その串を何本か横に並べ、結束した櫛を使った。

したがって、櫛は神聖なものとされ、いろいろのタブーが考えられ、それ自身にも呪力があると信じられた。

 こうして、簪や櫛は大切にされた。それらが、やがて信仰的意味から転化して、身を飾る装身具になったのである。

 このように櫛は串から出たものと思われるが、すでに『古事記』や『日本書』の伊邪那岐命の神話にも伝えられているよ
うに、悪霊を祓う呪力をもつものとして、「奇しきもの」「聖なるもの」と信じられていた。おそらく、「クシ」と「クシビ」の相通から、
この信仰が
出たものと思われる。

 斎宮が天皇から髪に櫛を挿されることによって、聖女として俗縁を切られて伊勢に赴いたり、沖繩の花嫁が櫛を挿されること
で結婚式の主宰となったり(俗信では絶縁の櫛と思
われている。)夜間の往来に女が櫛を口にくわえていると災難にあわないと
信じられたりするのは、すべて,櫛の呪力
を信じるからである。
  樋口清之 装 より



髭(ひげ)

 『古事記』によると、須佐之男命は「八拳須心(やつかひげむね)の前(さき)に至るまで」泣いていたという 。
一拳
(一束)とは人さし指から小指までの四本を重ねた長さである。その八倍ということだが、

この表現は常套句で、神代以外にもしばしぱみられる言葉で、八拳(八束)とは「長い」という意味である。

また、全体では、髭が胸元にのびるほどの年齢になるまで、つまり、「成人になっても」という意味の比喩

語である。多分に誇張はあるが、長い髭の習俗が古くから存在したことは確かなようだ。

 しかし、不思議なことに、『万葉集』の歌には、下層民以外、髭のことがほとんど出てこない『万集集』

の歌のほとんどが、七世紀から八世紀にかけての歌である。つまり、当時は、中国の宮廷の風俗の影響で

髭を生やすことが制限されていたのである。万葉集⇒⇒⇒
  樋口清之 装 より






金 銀

 聖武天皇(七〇一~七五六年)は、皇位を孝謙女帝(七一八~七七〇年)に讓って上皇になったとき、勝満と

いう僧名を名乗った。「勝」は「金」の意味である。したがって、年号の天平勝宝の「勝宝jも金という意

味である。

 日本人の金に対する意識は、単に美しいという以前に、仏教的要素が強かった。金色の法勝寺金閣(鹿

苑寺)がつくられたのも、そのあらわれである。

  銀に対しても同じである。仏の色という意識があった。

 その当時に、金や銀に対して成り上がり趣味という意識があったなら、禅を学んだ足利義

満が、金閣を建てるはずがない。

 やがて、千利休(一五二二~一五九一年)などが登場し、わび茶が完成する時代になると わびxの精

神は、金や銀の世界と別であるという意識が生まれてきた。こうして、金や銀をいやしめたり,表面に出さ

ないようにしようとする意識が生まれてきたのである。

 利休の"わび"が、もし金銀と対立する世界のものだったと仮定すると、そのパトロンだった豊臣秀吉の

金銀誇示とはまったく反対のものということになる。利休失脚の遠因には、この両者の世界観の差が潜在し

ていたのかもしれない。

 現代は, "わび“ の精神や慎しみの心がなくなってしまったため、金や銀を表面に出してもなんら抵抗を感じない

人がふえた。
  樋口清之 装 より






鷹狩

 鷹狩りは五世紀以前から行なわれていたと思われるが、権力者の遊びとしての風習が百済から伝えられたという
ことは、考えられることである。

 もともと鷹は寒地性の動物であるから、これを飼いならして狩猟に使うということは、東北アジアの発明で、日本へは、
朝鮮半島を経て伝えられたのであろ
う。『日本書紀』には、朝鮮から鷹が贈られた記事が何回か出てくる。

 古墳から出土した埴輪にも、尾に鈴をつけた鷹を腕にとまらせた鷹匠の姿のものがある。

 大宝令の規定では、放鷹司(主鷹司)は兵部省に属し、職分として、鷹と犬を調教するとされている。

 しかし、『続日本紀』によれば、元正天皇の養老五年(七二一)と、称徳天皇の天平宝字八年(七六四)に、仏教思想
(殺生禁)にもとづいて、
放鷹の禁令が出されている。

 二度とも、狩猟をしない女帝のときだったことがおもしろい。正倉院文書によって、聖武天皇の天平十七(七四五)に主
鷹司が存在したことが確認されるから、養老五年の禁令の後、復活したものらしい。

 しかし、仏教に心酔した聖武天皇が放鷹をしたとは考えられず、『続日本紀』天平十三年(七四一)に、天皇が河南で
狩猟を観覧したという記録があり、これは放鷹であったかどうかは不明だが、当時、高官だっ
た藤原氏一族あたりが好
んで行なっていたのではないだろうか。

 大伴家持の 『万葉集』巻第十九によって、越中守として当地(富山県)に赴任していた大伴家持(?~七八五年)が白い
大鷹を飼っていたことがわかる。

 そこに収録された天平勝宝二年(七五〇)につくった歌で家持は、都から遠ざけられ、うちとけて語り合う人もないめいっ
た気持を、鷹狩りで晴らしていると、心情を吐露している。
 この歌によると、彼は鷹に白塗(銀メッキ)の小鈴をつけ、妻屋の中に鳥座をつくって飼い、それを撫でては目を細めて
いたようだ。

 平安時代は 桓武天皇(七三七~八〇六年)の時代になると、放鷹は再びさかんになったが、鷹を勝手に飼うことは禁止
され、天皇や身分の高い貴族だけに許された。

 とくに、桓武天皇は、鷹狩りを好み、南殿で自分の腕に鷹をとまらせて餌をやったり、自らくちばしや爪の手入れをした
という記録も残っている。

 嵯峨天皇(七八六~八四二年)は鷹の飼育『新修鷹経』を著し、仁明天皇(八一五~八五〇年)も天長十年も天長十年

(八三三)十二月、芦川野、栗隈山で放鷹を楽しんだ。

 そのほか、陽成,宇多醍醐,村上一条天皇らも好んで鷹狩りをした。

 こうして、建て前では、放鷹は最高権力者のみの遊戯とされたが、その間にも、何度も禁令が出されているところをみると、
ひそかに行なう一般人もあったようだ。


  樋口清之 遊 より



秋篠川(あきしのがわ) 地図

 
西の堀川

 秋篠川は、平城京造営時に条坊に合わせ直線化された人工河川です。

佐保川より遡って西市(現大和郡山市九条町)へ物資を運ぶ水路として活用され、「西の堀川」
と呼ばれま
した。唐招提寺·薬師寺及び西市の造営にも利用されたと推測されます。




大嘗祭

 新たに即位した天皇が一代に一度限り行う重要な儀式。稲作農業を中心とした古代社会の
収穫儀礼に根ざ
したもので、7世紀の天武天皇の大嘗祭が最初とされる。中核の「大嘗宮(だい

じょうきゅう)の儀」では、新天皇がその年に収穫された米などを神々に供え、自身も食し、五穀
豊穣
(ほうじょう)や国家安寧を祈る。今回は来年11月14~15日に予定。このために皇居·東御
苑に大嘗宮(前
回は建設費約14億円)が新設され、儀式後に解体·撤去される。

  2018-11-30 朝日新聞

大嘗祭の斎田亀甲で決める儀式

 天皇の代替わりに伴って11月に行われる皇室行事「大嘗祭」で、神々に供える米を作る都道
府県を
選ぶ「斎田点定の儀」が13日午前、皇居·宮中三殿で行われた。

亀朴と呼ばれる亀の甲を焼く占いで、東と西から一つずつ選ばれる。

 アオウミガメの甲羅を将棋の駒形(縦24 、横15 )に加工したものを火であぶり、ひび割れの具

合で吉凶を判断し、「吉」と出た都道府県を選ぶ神事。宮内庁によると、大嘗祭で供えられる米
をつ
くる地方は古くからこの亀卜で定められてきたという。

 東京を中心に東日本の18都道県を「悠紀(ゆき)の地方」、残りの西日本29府県を「主基(すき
)の地方」とし、を作る「斎田」を設ける都道府県
が一つずつ選ばれる。平成の大嘗祭に伴う儀
式では、秋田、大分両
県が選ばれた。

 儀式は13日午前10時ごろ、国中の神々をまつる神殿の前庭に設けた「斎舎(さいしゃ)」の幕
内で始まり、40分
ほどで終了した。天皇陛下は立ち会わず、山本信一郎長官から宮殿で結果
の報告を受けて決裁する。

その後、宮内庁が選ばれた自治体に連絡し、協力を依頼。具体的にどこに「斎田」を設けるか
などを
今後協議していく。
 2019-5-13  朝日新聞(夕刊)

 

亀のお告げ大嘗祭に欠かせぬ秘事

 天皇の代替わりに伴う11月の皇室行事「大嘗祭」で神々に供える米を作る「斎田」が13日、栃
木県
と京都府に設けられることが決まった。その方法は、亀の甲羅を焼く「亀卜」という占い。だ
が、宮
内庁は詳細を明かさず、実態はベールに包まれたままだ。

まず火おこしから

 13日午前、皇居·宮中三殿の神殿前庭に設けられた「斎舎(さいしゃ)」に、古式装束に身を包
んだ一団が入っ
ていった。宮中祭祀を担う掌典職だ。すぐに幕が下ろされ、宮内庁幹部らも外
で待った。和琴(わごん)の音色
と神楽歌を歌う声が聞こえ、40分ほどで終了したという。

 斎舎の中で行われたのが「斎田点定の儀」だ。火きり具でおこした火に上溝桜の木(うわみ
ずざくら・ははかのき)をくべながら、
竹箸で将棋の駒形に加工した甲羅をかざして焼く。熱せら
れた部分
に水をかけ、割れ方で吉凶を判断したというのが宮内庁関係者の説明だ。だが、どん
な割れ方をし
て、2府県を選ぶ根拠となったのか。同庁の西村泰彦次長は会見で、「公にしてい
ない」と語った。

甲羅は8頭分用意

 二つの地方に斎田を置き、それぞれ「悠紀(ゆき)」の地方(国) 、「主基(すき)」の地方(国)と
呼ぶのは古く
からのならわしだ。ただ、占いの実態については諸説がある。昭和の大嘗祭に携
わった川出清彦氏が
書き残した「祭祀概説」によると、あらかじめ両地方の候補として三つずつ
自治体を選び、その中
から天皇がさらに二つずつを選び亀トを行うという。一方、平成の代替
わりの際は、全ての都道
府県が亀卜の対象になったように報道されている。

 祭祀に詳しい皇学館大学の桜井治男特別招聘教授(宗教社会学)は「どんな宗教儀式にも『
秘事』
は存在し、実際にはどのように選んだのか、同時代にはわからないが、それも祭祀の一
つの作法。た
だ、亀卜という占いで重要事を決める儀式が現代まで伝わっていること自体は、
文化的にも歴史的に
も興味深い」と話した。

 宮内庁は多くの協力を得て準備を進めてきた。最初の懸案は、占いに使うアオウミガメの甲
羅の確
保だった。宮内庁は昨年、国内最大のアオウミガメの繁殖地として知られる東京都小
笠原村に協力を
依頼。村ではアオウミガメの保全や研究、漁が行われており、同庁は昨秋、
8頭分の甲羅を購入し、
東京都荒川区の鼈甲(べっこう)職人森田孝雄さん(68)に加工を依頼
した。

 森田さんは江戸時代から続く鼈甲品製造·卸店の6代目だ。甲羅を縦24 cm、横15cm 、厚さ
約1. 5mm
に加工したも を計10枚作った。アオウミガメは甲羅が薄く、割れないように削ること
が難しか
ったという。儀式の終了を知り、「ホッとした。うまく割れたなら ありがたい」と話した。

栃木と京都に決定

 選ばれた両府県では歓迎の声が上がった。京都府の西脇隆俊知事は「農業者のみなさんと
ともに
秋には滞りなくお納めできるようしっかり取り組みたい」。栃木県の福田富一知事は「県
民にとって
大きな励みとなる」と述べた。那須南農業協同組合(JAなす南)幹部も会見し、那須
烏山市内にあ
る240平方mほどの水田を推薦する見通しだと明かしたが、担当農家について
は「防犯上,明かさ
ないように指示されている」とした。前回、田の所有者や斎田の詳細は、収
穫の直前まで伏せられた。
 2019-5-14  朝日新聞
 (長谷文、中田絢子)


折口信夫「大嘗祭の本義」

 大嘗祭は、天皇の代替わり毎に行われる祭儀だ。かつては即位礼と一体であった。「折口学」

と呼ばれた独自の民俗学を展開した折口信夫が、大嘗祭の起源に遡ることを通じて、天皇とは

何かを語ったのが「大嘗祭の本義」である。昭和の大嘗祭の少し前に行われた講演だ。想像力

に支えられた折口の洞察は、文献等で確実に実証できる範囲を超えたところにまで及ぶ。

 折口によれば、大嘗祭の中心的な意義は、新天皇の身体に天皇霊を付けることにある。天皇

霊は、外来魂――天つ国からの外来神(まれびと)のエッセンス――である。 天皇の身体は「
魂の容(い)れ物」
だ。すると、天皇の権威の源泉は、万世一系の天皇家の祖霊にではなく、天
皇が即位した
ときに(古代においては毎年繰り返し)己の身体に入れた天皇霊にある、というこ
とになる。

その天皇霊を付着させるために、新天皇はまず「真床襲衾(まどこおふすま)」等と呼ばれる特
別な衣で身を包
む。衣を取ることが禊の完了を意味した。真床襲衾を除けることで天皇に外来
魂が付くのだ。

 次いで天皇は高御座(たかみくら)から一言葉を発する。それが祝詞(のりと)である。

祝詞は、神の言葉の反復である。普通は天皇の言葉の伝達者を「みこともち」と呼ぶが、天皇

が既に 神の言葉(みこと) の伝達者だったのだ。この 葉が届く範囲が天皇の領土、天皇の
人民である。

 それに応えて群臣は寿詞(よごと)を唱える。寿詞は、自身の魂を天皇に贈与することを意味
し、服従
の誓いである。諸国が米を献上することも寿詞と同じ意義をもっていた。稲穂には魂が
付いて
いるからである

 以上が大筋だが、興味深い細部がある。天皇の禊に奉仕する女性がいた。この女性は、衣
まま湯(=斎)につかった天皇の衣の紐を解く役目を担う。折口は、この「水の女」を重視し、戦

後の「女帝考」では、神の声を受け取るのは一人の男ではなく、女と男の対である、と論ずるよ

ろになる。天皇は男系だと言われるが、折口はむしろ、天皇の秘められた根源に女性的なもの

を見たのだ。
 2019-5-18  大澤真幸 (社会学者)



飛鳥池工房遺跡

 国内最古の貨幣といえばー。40歳以上の人は「和同閞珎」と教わっただろう。
まはどの教科書にも「富本銭と書かれている。

 教科書が変わるほどのニュースは1999年1月、明日香村からもたらされた。
県立万葉文化館の建設に伴う発掘調査で、近世のため池「飛鳥池」 の底から大
量の富本銭が
見つかったのだ。

 万葉文化館の研究員、吉原啓さん( 35 )は当時、中学3年生,高校受験が直前
に迫って
いた。「中学の先生が、高校に連絡して、入試で国内最古の貨幣の名称
が変わるのかを
確認してくれました」と懐かしそうに話す。

 奈良文化財研究所の発掘調査によって、富本銭だけでなく、金や鉄などの金属加
品、ガラス玉や水晶などの宝玉類を作る国家的な工房だったことが判明8千点
を超え
る木簡も出土した。

 世紀の発見に、万葉文化館の計画見直しを求める声が上がった。県は文化庁
などと協
議を重ねた結果、遺構を埋め戻して保存し、建物の位置を重要な遺構か
らずらし、20
01年にオープンした。

 吉原さんの案内で、文化館の中庭に向かった。 工房の遺構を復元している。
2棟の建
物の間に、工房跡が広がっていた。「ドーナツ状の穴の一つひとつが炉跡
です」と吉原
さんが教えてくれた。実際の遺構は約4m地下に眠っているという。

 工房の遺構の北側でも、建物跡や石組みの池の跡などが見つかっており、
一部を復元
している。北側の地区は出土した木簡の内容から、近くの飛鳥寺とも
関係があったと考
えられるという。

 文化館の周囲は庭園も兼ねており、約100種類の花や植物が植えられている。
花を
楽しんだ後、館内に入った。地下の一般展示室は、「万葉の時代」がテーマだ。
古代
の市場や、歌垣を楽しむ様子を人形で表現。富本銭が発掘!調査で出土した
場面を再現し
たコーナーもある。

 隣の特別展示室では「大伯皇子宮物」と轡かれた木簡の複製品を展示している。
天武天皇の娘のだ大伯皇女の宮からの注文を意味するとされる。

大伯皇女は、謀反の疑いで亡くなった弟の大津皇子を思って作った歌が万葉集
収められている。吉原さんは「木簡の文字を見ると、この時代に大伯皇女が生活し
ていたんだと思えて、身近に感じられませんか」と話した。

 出土品はまだ調査研究中のため、万葉文化館では富本銭の複製品しか展示さ
れていな
い。しかし、今なら村内の良文化財研究所飛鳥資料館特別展で、
実物の富本銭を見
ることができる。ほかにも金箔や銀製品、ガラス片などが展示さ
れ、工房の規模の大き
さを改めて実感できる。
   2018-11-16  朝日新聞
 (田中祐也)


一飛鳥池工房遺跡一

01年に史跡指定. 工房の主な操業時期は7世紀後半から8世紀初め。木簡によると、
宮殿や
寺院に製品を供給したとみられる。出土した富本銭は平均直径24.4mm、
重さ4 . 6g。
奈良文化財研究所は約10万5千個の土囊袋に炭や灰などを入れて持ち
帰り、整理作業を進
めた。



 
伊弉諾命の禊の生命力

 博多港から渡船で、海の中道と呼ばれる砂州に沿って25分。「漢委奴国王」と刻まれ

た金印(国宝)が出土した志賀島で、志賀海神社に祭られているのが綿津見三神である。

 <水底に滌(すす)きたまふ時に成れる神の名は底津綿津見。次に底箇之男命
中に滌
きたまふ時に成れる神の名は、中津綿津見神、次に中箇之男命。水の上に滌き
たまふ
時に成れる神の名は、上津綿津見神。次に上箇之男命

 古事記ではこんな記述で の綿津見 神は再生の神々に続いて登場ずる。 そして古事記

はこう続ける。

 <此の三滋の綿津見神は、阿曇連等が祖神と以ちいつく神なり>

 阿曇氏とは、海の中道から東方一帯を根拠地として活動部した古代海人族のことだ。
代当主は同神社の宮司を務め、今は平成21年に先代の阿曇磯和宮司が他界したた
め実
妹の平澤憲子氏が權禰宜として神社を守る平澤氏が言う。

 「神社は今も、海上交通の安全をはじめ、海産物の恵みをもたらす神として信仰されて

ています。

 綿津見三神が海を支配する神であることを古事記が記すのは、天孫ニニギノミコト

子、ウミサチピコヤマサチピコの兄弟げんかのくだりである。

 兄の釣り針をなくしたヤマサチを温かく受け入れる場所が 「綿津見神の宮」。綿津見

神は娘のトヨタマビメを嫁として与え、3年後に故郷に帰るヤマサチに、兄を懲らしめ
呪文と潮の満ち引きを自在
に操れる玉を授ける。

 「もし悵怨みて攻め戦はば、潮盈(み)つ珠を出だして溺らし・・・

兄が恨みを忘れず、戦いを挑んでくれば、潮を自在に操って溺れさせよ、というので

ある実際、ヤマサチはその通りにして、兄を家来筋にしたヤマサチは初代神武天皇

の祖父に当たる神だから,綿津見神は皇室の誕生に大きなカを発揮した存在として,古

事記は描いているのである。.

 海にいて、皇室を助ける綿津見神は万葉集にも詠まれている。万葉集⇒⇒⇒

 <ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも我は忘れじ志賀の皇神(すめかみ)>

 古来、遣隋使遣唐使を乗せて那の津(博多港)を出航 した船は、志賀島と能古島
間から外洋に出た。

 「波高い海に乗り出して異国へ赴く官人が、航海の安全を祈り、志賀島の叶の崎を遙

拝して詠じた歌です」

 著書に『海神宮訪問神話の研究』がある福岡県立博多青松高の宮島正人教諭は、
そう
話す。万葉歌は、綿津見神が航海の神として飛鳥·奈良時代に信仰されていたことを
している

 「ただし、本来は漁労の神でした」

 宮島氏がそう指摘するのは、綿津神の子で阿曇氏の祖と伝承される阿曇磯良丸の

存在があるからだ。

 同神社などに伝わる伝説で神功皇后の三韓遠征の際に海中から現れて皇后の舟
舵取りをする。皇室のために尽力する神だが、アワビやサザエが付着した醜い顔を恥
いつもは海の中にいる。

 「海岸の岩場ですなどりする漁夫の職能の神格化で、綿津見神の本来の性格がここに

みえる」

 金印の国名を記した「魏志 倭人伝には、この海域の住民の特徴をこう記している。

 <好んで魚鰒(ぎょふく)を捕え,水浅深となく、皆沈没してこれを取る>

 綿津見三神を祭るのは元々、 こうした海の民だったのだるろう。それをイザナキノミ

コトの禊で現れたことにした古事記。日本にとって海がいかに大切かを示している。


綿津見三神

 イザナキが行った禊で、イザナキから成った底津綿津見神中津綿津見神、
上津綿津見神の
3柱。海をつかさどる神としてはイザナキ、イザナミによる神

生みで、すでに大綿津見神が生まれており、底津、中津ハ止津の3神で海を
垂直に分けて治め
る意味があると考えられる。

 海幸山幸の神話では「綿津見大神一として登場。兄の釣り針,をなくしたヤマ
サチピコのた
め、大小の魚を集め、タイののどに刺さった釣り針を見つけ出す。

 阿曇氏の移住先の穂高神社(長野県安曇野市)などにも祭られている。
    産経新聞




當麻寺西塔

 当麻寺西塔の心柱最上部から、三重の入れ子式となった金、銀、金銅製の舎利容

器が見つかり、同寺と奈良国立博物館などが2018-11-14発表した。舎利容器
は飛鳥時代
後期(7世紀後半)に制作された現存最古級と推測され、仏教工芸史にお
ける貴
重な資料といえそうだ。

 県文化財保存事務所が昨年度、西塔の修理に際して調査したところ、高さ22m
心柱最上部に木製の蓋を
した掘り込みを発見。その中で見つかった銅筒に舎利容器
が収められていた。

 奈良国立博物館による詳細な調査の結果、舎利容器はほぼ球形で、外側から金
製(高さ約9 cm、直径約
10 cm) 、銀製(高さ、直径とも約3cm) 、金製(同約1cm )の3
つの容器が入れ
子式になっていた。最も内側の金製容器には、舎利1粒を紙に包んで
収納容器
はいずれも輝きを残し、美しい姿を保っている。

 仏教を開いた釈迦の遺体は金、銀、銅、鉄製からなる四重の棺に安置されたとされ、
三重入れ子式の舎利
容器はその伝承に基づく。国内では飛鳥時代後期に多く作られ
たとされ,セット
で残っていたのは、法隆寺五重塔(奈良県斑鳩町)や崇福寺塔跡(大津市)
で見
つかったものなどわずか数例。今回確認された容器は、当時の信仰や美術工芸

について知るとともに、謎に包ほれた当麻寺の創建期を探る手がかりにもなりそうだ。

 舎利容器は奈良国立博物館に保管され、来年2月19日~3月14日に公開される予定。
当麻寺西塔には、新
たに制作された複製品が収められるという。

 奈良国立博物館の内藤栄学芸部長は「3点セットである上、きれいな状態で残ってい
る。白鳳期(飛鳥時
代後期)のものとして(国宝の)崇福寺の容器と双璧になるだろう」と
話している。

 寺伝によると、当麻寺は飛鳥時代に聖徳太子の弟、麻呂子親王が河内に建てた

前身寺院が二上山近くの現在地に移されたとされる。古代の三重塔が東西一対で

残る唯一の寺院として知られ、東塔(国宝)は奈良時代西塔(国宝)は平安時代にそれ

ぞれ建てられたとされてきた。

 だが、西塔については心柱と礎石の形状が合わないことから、明治~昭和前期
建築史家、足立康が再建
説を提唱。近年には塔周辺から寺の創建期の瓦が出土

しており、奈良県文化財保存事務所によると、今回見つかった舎利容器は塔の飛鳥時
代創建を後押しする資
料となりそうだ。だら

 寺は現在、本堂(曼荼羅堂)が東を向く伽藍配置となっている。創建当初は南が正面で、
白鳳期(飛鳥時
代後期)の国宝·弥勒仏坐がある金堂を中心に、東南と西南に塔が位置
する
師寺に似た配置だったという。

 西塔の修理を担当している県文化財保存事務所当麻寺出張所の山下秀樹主任は

「飛鳥時代の舎利容器が確認されたことで、寺の創建時には金堂、講堂、西塔が

あった可能性が高まった」と指摘。奈良大の関根俊一教授(日本工芸史)も利容器は
寺の創建期のもの
とみていい。当時から塔があったのだろう」と話している。
  産経新聞 2018-11-15






えべっさん になった神々

【伊弉諾神宮】 
 豊漁や商売繁盛の神「えべっさん」が誕生したのは平安時代以降とされる。
事記
日本書紀でルーツと
される代表格の1柱が伊耶那岐命伊耶那美命の間に生まれた
水蛭子(ひるこ・日本書紀
では蛭児)だが、釣り竿を背負って鯛を抱える福々しいえべっさん
とは、似ても
似つかぬ神だった。

 <くみどに興して生める子水蛭子(寝所で結婚して生んだ子はヒルコ) >

 古事記は、地上に降り立って国生みを始めた夫婦神の第一子誕生をこう記す。

「蛭子」はエピスと読みならわされているが本来「蛭」は、扁平の吸血動物ヒルのことである。

 「国生みをしようとしたのに、とても国になりそうにないものが生まれた。蛭の字を当てたのは、
骨のな
いヒルのような形でイメージされるものだからです」

 大阪市立大の毛利正守名誉教授はそう話す。

 <此の子は葦船に入れて流し去りつ>
 イザナキらはヒルコを、手元に置いておけない子として遇した。

 日本書紀も「蛭」の字を使うが、誕生をめぐる経緯は古事記と全く違う。

 <共に日神を生みたまふ。大日 孁貴(おほひるめのむち)と号(まを)す>

 ヒルコに先立ち、ヒルメという太陽神が生まれたと日本書紀は記す。ヒルメは天照大神である
とも説明し
ている。次に月神が生まれ、ヒルコは3番目に誕生した。男女神としてヒルメ(日の女)と
ヒルコ(日の男)
が対をなしているようだ。

 「文字がなかった時代の日本の神話に、男の太陽神在した可能性を示唆するものです。
アマテラスを
基調とした神話が形成されるなかで、ヒルコは邪魔な存在になり、ヒルに『日』

ではない『蛭』の漢字を当てたとも考えられる」

 学習院女子大の神田典城学長はそう説く。

 <已(すで)に三歳(みとせ)と雖(いへど)も、脚猶し立たず。故天磐橡樟船に載せて、風の順に
放棄てたまふ>

 3歳になっても立つことができないヒルコはやはり捨てられるが、乗せられた船は葦ではなく
クスノキを
使ったものだった。

 「古代には太陽が船に乗って移動するとの考えがおりました。放棄と矛盾するような立派な船
に、古い神
話での位置づけが垣間見えるようです」

 イザナキ·イザナミの国生み伝承がある淡路島(兵庫県)。イザナキが余生を過ごした「幽宮
(かくりのみや)」跡と伝わ
伊弉諾神宮(淡路市)の境内には 捨てられたヒルコを祭る岩楠神社
がある。
2本の楠が根元で合体した 樹齢約900年の「夫婦大楠」がそびえ、その傍らに建つ小さ
な社。イザナキ
イザナミの神霊が宿る巨木に見守られているようだ。

 「エピスではなくヒルコとして父母神のもとでお祭りしてきました。船に乗せて流すのは雛流しの
行事が
あるように、魂を神に返すという意味なのでしょう」

 本名孝至宮司はそう言う。ヒルコが流されたのは古代、茅渟(ちぬ)の海と呼ばれた大阪湾と
考えられる。豊か
な内海と関係深いことも、えべつさんに擬される理由の一つだろう。


ヒルコ伝承

 古事記や日本書紀が記すヒルコについてはアジアや日本各地の説話にも

類例が多い。台湾·アミ族の創世神話は、洪水の際に臼に乗って難を逃れた

兄と妹が山に流れ着いたと伝える。2人の間には最初、ヘビとカエルが生ま

れるが、太陽神の教えを受けて人間の子を産めるようになった。

 鹿児島県霧島市の大隅正八幡宮縁起は、大比留女という中国·陳大王の7

歳の娘が、胸に差し込んだ朝日によって懐妊して出産したが、恐れた王に母

子とも空船に乗せられ、大隅国に漂着したと伝える。太陽神の御子が海を渡

るとの観念が基底にある。
  産経新聞 2018-11-16

【西宮神社】

 <蛭児とは西宮の大明神夷三郎殿是なり>

 鎌倉時代の『神皇正統録』 はこう記す。えびす神総本社、西宮神社(兵庫県西宮市)の主祭神、
えび
す大神は蛭児だというのである。

 「えびす神が文献に見え初めは平安末期の『伊呂波字類抄』ですが、鎌倉時代には、えびす
信仰の広が
リとともに,蛭児神とえびす神が同一神として周知さひていたようです」

 同神社の吉井良英権宮司 はそう話す。

 日本書紀は蛭児(古事記では水蛭子)について、3歳になっても立たなかったので船に乗せて
流されたと
記す。身体が不自由だったために遺棄された点は古事記と同じ。この遺棄が同社
由緒伝承につながる。

 鳴尾(同市鳴尾町)の漁師が沖合の和由岬近くで「神像のようなもの」を引き揚げ、家に祭った。
ある
夜、漁師の夢で「吾は蛭児神なり。この地より少し西方に好き宮地がある。そこに居らんと欲
する」と神託
が下る。

 < 此御神は海を領し給 ふ>
 『神皇正統録』がそう書くように、ヒルコは海上守護神として、漁師らの間で信仰が広まった。
さらに漁
の取引市で市場神となり、商業神へと発展するうちにえびす神として親しまれるようにな
る。

 室町時代以降に普及した「七福神」信仰で江戸時代以降、大黒天、混沙門天、弁財天、布袋、
寿老人、福
禄寿とともに恵比寿が入ると、福の神としても信仰を集めるようになった。七神のうち
では、えびす神は唯
一の日本の神だ。

 西宮神社の北 に住んでいた芸能集団(傀儡子・くぐつし)は、えびす神の人形を操って神徳を説
く「えびすかき」と
いう芸能を行い、えびす信仰を広めた。

 「えびす神は日本の代表的な民俗神です。西宮神社は古くからその有力な中心地ですが、一方
で東日本の
農村部でもえびす信仰が盛んでした」

 成城大の田中宣名誉教授はそう話す。その理由は江戸時代、同神社の本殿が焼失したことに
ある。徳川
4代将軍·家綱が再興し、さらに幕府は維持修復費用に当てるため、同神社の「御神影札
(おみえ)」の版権と独占
頒布を認めた。以降、それを担う「願人(がんじん) 」と呼ばれる人々が各
地に置かれ、東
海、北陸、東北にまでえびす信仰が普及する。その過程で農村では農業神,五穀

豊穣の神としても祭られるようになった。
 「もともとあった田の神(農神)信仰を取り込んで広まったのではないか。ぴす神は福の神、豊か
にな
る神として農村にも受け入れられていったのでしょう」

 同神社は平成12年,船渡御を約400年ぶりに復活し、21年にはみこしの和田岬への海上渡御も
再興させ
「人々の心にある願いが、その時々に形になって表れ神様ではないでしょうか。えびす様
はまさしく
庶民の神様なのです」

 吉井権宮司はそう話す。


えびす信仰

 えびす神は恵比寿、戎などとも表記され、福の神、商売繁盛の神、漁業の

神、七福神の一神としても知られる。関西では「えべつさん」と呼ばれ、左
脇に鯛を抱え、右手に釣りざおを持
つ姿で描かれることが多い。

 漁師から貴族、庶民へと信仰が広がり、貨幣経済の発展に伴って、現在の

ような福神として定着した。「十日戎」(1月10日前後)や「えびす講」(主に10~
11月)といった年間行事が
今も盛んで、神社の社頭では福笹や熊手などの縁
起物が売られ、えびす神に
商売繁盛や家内安全を祈る。  
  産経新聞  2018-11-17


【美保神社】

 「ゑぴす様の総本宮」

 事代主神を祭り、そう言われるのが松江市の美保神である。事代主神は古事記では、国造り
した
大国が、天照大御神の使者、建御雷神国譲りを迫られる場面に、大国主神の子として
登場する。

 「僕はえ白さじ。我が子八重言(事)代主神是れ白すべし」

 父神から返答役に任じられた事代主神は、御大之前(みほのさき)で鳥の遊び、取魚をしてい

たと古事記は記す。御 之前は現在、美保神社が建つ岬、美保関である。

 「この取魚の記述が、日本の文献上で最初の魚釣りです。漁業の祖神としての恵比須さまに
事代主神がな
られた理由でしょう。

 同神社の横山直正権禰宜はそう話す。父神の元に呼び返された事代主神はあっさりと答える。

 「恐し。此の国は天っ神の御子に立奉らむ」 全く争わず、国譲りを承諾した姿も福の神·ゑぴす
にふさわしいとされる点で
ある。

 「もともと地上界にいた国つ神が、高天原からやって来た天つ神の下風に立つた最初の記述が、
この事代
主神の言葉と姿勢です」

 大阪市立大の毛利正守名誉教授はそう話す。天つ神の中でも最高神は天照大御神。その子孫
が歷代天皇だ
とする神話で、天皇が地上界を治めることは自然とする記述の第一歩は,事代主
によって印されたという
指摘である。そのうえで毛利氏は、古事記が書く天照大彻神の君葉に注目
する。

 「此の国に道遠振(ちはやぶ)る荒振る国っ神等の多(さは)に在りと以為(おも)ほす」

 息子に国譲りさせようと思うが、地上界には荒れすさぶ神どもがたくさん居る、という不安の言葉だ。

この認識から天照大御神は, 穏便な国讓りを迫る使者を次々に派遣し失敗。建御雷神は3柱目の
使者だった。

 「状況を考えると、事代主神の役割は大きい。もともと日本を治めていた国っ神も実は、理性的
で平和主
義。後に歴代天皇が勢力圏を広める際、言(こと)向け和平(やは)すという、説得で平和
的に降
す方法を取りますが,それが可能だった理由が、事代主神の神話に読み取れます。」

 美保神社では4月7日柴垣神事が行われる。国譲りを承諾した事代主神が、海中に青い柴垣を
つく
って隠れたという神話にちなんだ神事である。

 「神事の主役は當屋と呼ばれる氏子さんの代表。當屋に決 ると1年間、誰にも会わずに海で身を
清め、
紋付きはかまでお参りを続けるなどの修行をしますそんな神事が続くほど深く、恵比須0まは
信仰され
ています」

 横山権禰宜はそう話す。當屋には鶏肉と鶏卵を食べない禁忌もある。好きだった事代主神は、雄

鶏の第一声で朝帰りしていたが、ある朝、雄鶏が怠けたためにあわてて舟の櫓を落とし、こいでいた
足を鮫
にかまれたという出雲神話に基づいている。

 こんなユーモラスな逸話が残るところも、えぺっさんに擬された理由だろう。
  産経新聞  2018-11-18


【今宮戎神社】

 天照大御神とともに事代主神(命)を祭り、えびす信仰で親しまれる神社が、大阪にもある。毎年1月
開かれる例大祭「十日戎」に、商売繁盛を祈って全国から参拝者が訪れる大阪市浪速区の
今宮戎神社だ。

 創建は33代推古天皇の時代、聖徳太子が四天王寺を建立した際に西方の守護神としたと伝わる。
平安時代
後期になると、この地で「浜の市」が立ち、やがて市場守護の神として崇敬を集めた。

 「鯛と釣りざおを持ったえべつさんの神像は、漁業に携わる人たちの信仰を集めたことを端的に物
語る。
やがて漁業に携わる人の本拠地で市が立ち、海の守り神が市場の守り神、福を授ける神へと
なったのでしょ
う」

 昭和20年代から大阪府内のえびす信仰を調査してきた元大阪府文化財保護審議会委員の原泰根
氏はそう話
す。調査では、大阪府内だけでもえびす社は100社近くあるという。

 「水の都ならではの信仰で、さらに市場の神になったことで庶民信仰の裾野は大きく広がっていった
ので
しょう」

 古事記では最初、事代主神は言代主神という表記で登場する。漁業の始祖から福の神へと、さまざ
まな神
様として変化するえべっさんの原形は、その登場の時からうかがえる。

 「言という文字が当てられているのは、単に言葉の神様という意味ではなく、世の中の隅々まで知っ
てい
る神,判断力の優れた神様という意味だと思います」

 事代主神を祭り、「ゑびす様の総本宮」を称する美保神社(松江市)の横山直正権禰宜はそう話す。
根拠
は、父の大国主神が国譲りを迫られた際、事代主神は御大之前(美保関)で取魚(漁業)とともに
「鳥の遊
び」をしていたと書く古事記の記述である。

 「高天原への国譲りを迫る2番目の使者、天若日子が亡くなった際、雁や鷺、翡翠(かわせみ)や雀、
雉が8日8夜、
歌い舞って葬儀をした記述が古事記にあります。その後に書かれている鳥との遊びで
すから、事代主神はさ
まざまな意見を聞いて熟考し、国譲りを快諾したのだと思います」

 今宮戎神社の十日戎では、参拝者は本殿で拝んだ後,裏に回って備え付けられた銅鑼をたたいて
「えべ
っさん、参りました。頼みます」と、念を押すように拝む。「裏参り」とも呼ばれる風習の由来につ
いて、
松原栄一禰宜はこう話す。

 「かつては社殿のすぐ前まで海岸が迫っており、満潮の時は正面から参拝できなかったので、裏側
からお
参りしたと伝わります」銅鑼を鳴らして参拝を知らせる理由では、「えぺっさんは耳が遠いから」
「い
つも眠っているから」という伝承も残る。えべっさんとして祭られるもう1柱の神水蛭子(蛭児)が身
不自由だったとされることの影響も見て取れる。

 「今宮戎は事代主命を祭神としながら、蛭児系のえべっさん伝承ともつながっているのでしょう」

原氏はそう話す。

  産経新聞  2018-11-19





住吉っさん

 「住吉っさん」

 そう呼ばれて愛されてきた大阪の総鎮守、住吉大社(大阪市住吉区)は、2300に上る全国の住吉神社

の総本宮。境内には、北前船の廻船問屋の船主が奉納、したものを中心に600基余りの石燈籠が立ち
並ぶ。

 (夜走の船が)、闇夜に.方角を失ふとき、住吉大神.を祈れば此燈籠の灯.殊に煌々と光り鮮也(あざや
かなり)とぞ>

 江戸時代の『摂津名所図会』がそう記すのは、同大社に戦後までそびえていた.高さ21mの[高燈籠」
(住
吉公園に復元)だ。

 「かつては海に面したな.ぎさの宮で航海の神として信仰を集めました。高燈籠の灯は住吉大神に捧
げる
明かりであるとともに灯台の嚆矢(こうし)とされます。

 小出英詞権禰宜はそう話す。 同大社のご祭神は底筒男命,中筒男命表筒男命という三神一体の
住吉の神
と、息長足姫命(古事記息長帯日売命(神功皇)である。
  住吉の神は、
黄泉の国から帰ったイザナギノミコトの禊で生まれたと古事記は記す。

  <懸けくも、ゆゆし恐し 住吉の 現人神 船の舳に 領きたまひ・・・>

 奈良時代の遣唐使の無事を祈る万葉集の歌に,住吉の神がそう詠まれている。

人の姿をした現人神である住吉の神は船の舳先に姿を現し海路を導いた。歌は、住吉の神が古代か
国家的な海上守護の神だったことを示している。

 「住吉について詠んだ和歌は膨大な数に上りますが、その過半は松を詠んでいます。住吉の浜に生
い茂
る老松が、王朝歌人を引きつけたのでしょう」

 そう話すのは京都産業大の所功名誉教授である。目の前に白砂青松が広がっていた住吉大社には、
浜辺で
詠んだ和歌を奉納する歌人が平安中期頃から増えていったという。

 時代が下って、 能の「白楽天」 や近松門左衛門「国性爺合戦」には、住吉の神は、和歌の力で国を
る神として登場する。

 <唐の詩人、白楽天が皐帝の命を受けて日本の知力を試しにやってきて、自前の景色を詠む。すると、
吉太神がいやしい釣り人の翁の姿で現れ、たえなる和歌で答える。白楽天は驚いて言葉に詰まり、
唐の国に
帰っていった。

 「白楽天」は、こうしたストーリーで住吉の神の徳を今に伝える。
   産経新聞  2018-10-25





金閣寺謎の池

 世界遺産·金閣寺(鹿苑寺、京都市北区)で、鏡湖池(きょうこち)の南側にあったとされた別の池
の実在が発掘調査で
確認され、室町時代中ごろ( 14世紀末)に造られた可能性の高いことがわ
かっ
た。寺が11日発表した。池では水を張った痕跡が確認されず、未完成のほま造営が中断され
た可能性が指摘
されるなど寺の変遷を考える上で注目されそうだ。

 鏡湖池の南側で現在は雑木林となっている池跡(東西約115m 、南北約80m)をめぐっては、
江戸時
代の絵図「北山鹿苑寺絵(1790年)に「池」と描かれるなどでその存在は知られていたが、
いつ、
どのような目的で造られたかは不明で、「謎の池跡」とされてきた。

 京都市埋蔵文化財研究所が2016年6月~18年8月に池跡を発掘調査。三つ

の島を持つ最大で東西約76m、南北約45mの池が確認された。池の造営時期は室町幕府の3代
将軍足利義満
(1358~1408)が寺の前身で自らの邸宅だった北山殿を造営したころと重なる。
池の北東部では1
棟の礎石建物跡もみつかり、研究所は、義満が現在よりも規模の大きな庭園づ

くりを目指していたとみる。

 一方、池の底に防水対策の粘土層や泥などの水を張った痕跡が認められず、造営当初から水
が張られない
ままだったとみられる。絵図でも鏡湖池の色とは異なっており、空池を描いた可能性
が高いとみている。

 義満は北山殿に移り住んで約10年後に病死した。鈴木久男·京都産業大学教授(考古学)は「義満
が志半
ばで亡くなり、池に水を張ることばく未完に終わったのでは」とみる。

(小林芷典)

 京都·金閣寺の鏡湖池の南側で、実態のよくわからなかった「謎の池」の遺構が、江戸時代の絵図
に描かれ
ていたのとほぼ同じ場所でみつかった。室町幕府の3代将軍足利義満の時代に造営された
とみられ、研究
者たちは、室町幕府の政治中枢から寺院、そして戦国時代の防御拠点へと変わって
いく寺の変遷をたどる手
がかりになるとみる。

 金閣寺は義満が1397年、西園寺家の山荘を譲り受けて造営した北山殿が前身。幕府の政治中枢
が集約
され、仏教の西方浄土を意識して造営されたとの見方もある。

 調査では、鏡湖池の南に位置する池跡の平坦面や、その北東部の一段高い場所に立つ東西
約5 .4m、南
北約6mの礎石建物跡が出土。早島大祐·京都女子大教授(日本中世史)は、この礎石
(約30cm四方)に
中世では珍しい細工が施されていたことに注目する。「建物は大きくないが、礎石
に瀟洒(しょうしゃ)な細工を施すなど
義満の美意識が貫かれたことがわかる」と指摘する。

 義満は1408年に死去するが、遺言によって1420年ごろ、邸宅から禅寺の鹿苑寺(金閣寺)へと変わ

った。池の周囲の堤についても、今回の調査で義満の築いた北山殿の造期に構築されたとされる堤
の上
(高さ1m程度)に、15世紀後半ごろ(室町時代後半)、土がかさ上げされ、高さ約2mの土塁状に
造り変え
られていたことも判明。応仁の乱(1467~1477 )の時期の土器片もみつかり、空池が戦乱時
の防御施設
として再構築されていたとみられる。鈴木久男京都産業大教授(考古学)は「水が張られな
い『未完の池』だ
ったからこそ、兵を置くなど陣地にすることが可能となった」と指摘。池が未完成だっ
たことが、結果として
防御施設への転用を容易にしたとする考えを示した。
  朝日新聞 2018-10-12(大村治郎、小林芷典)




安徳天皇と6つの御陵

 わずか3歳で即位し、8歳のとき平氏一門とともに、墘ノ浦に消えた安徳天皇(1178~ 85年)。「平家物語」
が語る悲劇の
生涯は多くの日本人に愛惜されてきた。しかし遺骸が確認されなかったため、宮内庁の管理
する
「陵墓参考地」だけでも計6つ存在している。幼帝の生涯をたどり、多くの「墓」が営まれた背景に迫った。

壇ノ浦望む阿弥陀寺陵

 安徳天皇がこの世に生を受けたとき、平氏はすでに衰運へと向かっていた。前年に「鹿ケ谷の変」が起こり、
反平氏の動きは高まり
つつあった。

 治承4(1180)年2月、清盛は外孫である安徳天皇の即位を強行した。そして福原(神戸市)に遷都するが、
内外の反発を招き、
半年後には京都に戻らざるを得なかった。さらに翌年閏2月、清盛自身も亡くなってし
まう。

 寿永2 (1183)年7月、木曽義仲が京へ 攻めのぼったため、平氏一門は宗盛に率いられて都落ちする。
壇ノ浦の悲劇は、その2
年後のこと。天皇は二位尼(平時子、清盛夫人)に抱かれて入水したのだった。

 源義経らの懸命の捜索にもかかわらず、遺骸は発見されなかった。建久2(1191)年、x法皇は壇ノ浦
に面した阿弥陀寺に
仏堂を建立し、孫の菩提を弔った。これが現在の阿弥陀寺陵(k関市阿弥陀寺町)に引
き継がれている。

「陵墓参考地」の存在

 埋葬のない陵だったから後世「安徳天皇は生きのびた」とする伝承が生まれた。従者に守られ落ち延び、
静かに暮らして亡くなっ
たとするものだ。伝承は列鳥の各地に残っている。

 戦前の宮内省はこれらの伝承を調査し、地図の5カ所を「陵墓参考地」と定めた。長く安徳陵の伝えがあり、
住民たちに守られてきたこ
とを重視したのだ。遠隔地なのだが、いまも管理が続けられている。

 その一つ、西市陵墓参考地を訪ねた。現在は下関市に合併され、JR下関駅から車で1時間余り。

日本海側の長門市との境界にも近い、山中のダム湖(豊田湖)のほとりにある。

 ここの伝承は、他と異なり궂皇の遺骸は発見されていた」とする点が興味深い。遺骸ははるか日本海沿岸
の二位ノ浜(長門市)の漁師
の網にかかり、義経のもとに運ぶ途中、乗せた籠が動かなくなったためここで埋葬
したというのだ。

 建立された石碑の一つには、こうした伝承が記されていた。参拝に訪れる人もいて、近くのバス停には
「天皇様」の名称がつけられて
いる。人家もまばらなこの地で,「陵墓伝説地」として守り続けられてきたことに、
深い感銘を覚える。

「ロマン」と史実は別

 他の陵墓参考地についても、天皇が海路はるばる逃れた(佐須、宇倍野,花園) 、徳島県·祖谷地方を経て逃
げ延びた( 越智)などの伝承
に基づいている。佐須のある対馬にいたっては、島主の宗氏が「平知盛の末裔」と
する伝えもある。

 陵墓参考地とは文字通り、天皇や皇族の陵墓の可能性や伝承があると宮内庁が認定した墓で、全国
40カ所余りがある。とはいえ
安徳天皇の5カ所は、例のない多さだ。

 5カ所はどのようにして生まれたのだろう。鎌倉中期以降、平家物語が流布し、平氏や安徳天皇の悲運が
人々の同情を,集めたことが
大きいが、史実かどうかはまた別の話である。

 壇ノ浦以後の平氏一門を研究した歴史家の角田文衛氏は、「平家後抄」(講談社学術文庫)の中で「平家
落人伝説は9割9分までが
史実性を欠いた虚構」と断じている。落人伝承は歴史のロマンに過ぎない、という
ことなのだろう。

 旅の最後に、安徳天皇ゆかりの仏像を紹介したい。壇ノ浦の東約100キロの厳島(広島県廿日市市)にある
浄土宗光明院には、か
って1体の阿弥陀如来坐像(国重文)が伝来していた。高さ84cm寄木造で「安徳天皇
を悼んで、仏
師定朝に彫らせた」との寺伝があった。

 定朝作というのは時代が合わないが、お顔は童顔に見える。像は住職によって大正大学(東京都豊島区)
に寄贈され、大学礼拝堂の
本尊として守られてきた。今年から礼拝堂の建て替えが始まり、像は2年間、
東京国立博物館に寄託
れることになった。
  産経新聞  渡部裕明




建御名方が築いた新王国

 恐(かしこ)し、我をな殺しそ。 (略)此の葦原中国は、天つ神の御子の命のまにまに献らむ」

 古事記は、大国主命が国造りした地上界は、 大国主命の子の建御名方神天照大御神の使者、建御雷神
降伏したことで国譲りされたと書く。これによって大国主命は出雲に隠棲。地上界は、日向に降臨した
天照
大御神の孫ニニギノミコトが治めることになり、ニニギから3代後のカムヤマトイハレビコノミコトが東征して
初代神武天皇となる。

 タケミナカタの降伏は、現代日本の建設につながる重要な神話なのである。
 タ
ケミナカタは諏訪大社(長野県諏訪市)に祭られる。

 <御祭神高志沼河比売神こしのぬなかはひめ)は、諏訪大神(建御名方神)の御生母の神で御本社は新潟、
糸魚川の奴奈川神
社です>

 諏訪大社の境内には子安社があり、説明文はタケミナカタの母が高志国のヌナカハヒメだと書いている。

古事記は、大国主命がヌナカハヒメに通い婚したことを書くだけだが、タケミナカタの母はヌナカハヒメ、とはっきり
書くのは先代旧
事本紀だ。

 「ヒメとの婚姻では大国主命は丶八千矛神として書かれています。大国主命は古事記では何通りもの名前
登場しますが、八千矛神
と書かれている場所では、武力を背景に国造りを進めたことが読み取れます」

 新潟県糸魚川市の長者ヶ原考古館の木島勉館長はそう話す。同市はヌナカハヒメの生誕地で、ヒメの一族

が治めていた地とされる。

 「糸魚川を含む北越は国内で唯一の翡翠の原産地。翡翠は、最高級の勾玉の原材料ですから、大国主命の

結婚は政略的な要素が大きかったと思います」

 ヌナカハ族が大国主命に抵抗したことがうかがえるのが、駒ヶ岳(糸魚川市根知谷)の残る飛び比べ伝承だ。
地元神の根知彦は、駒
ヶ岳山頂からの飛び比べをして勝った方がヒメを娶る賭けを大国主命とする。自らは馬
に乗り、大国主命は
牛に乗ったが、馬が動かなかったために大国主命が勝った。納得がいかずに再戦を挑ん
だ根知彦は、破約に
怒った天の神に岩壁に閉じ込められた

 「伝承はヌナカハ族が大国主命を中心とする出雲族の侵略に抵抗したことの表れでしょう。結婚した後もヒメ
は大国主命を嫌い、
自ら命を絶った伝承まであります」

 郷土史家の土田孝雄氏はそう話す。ヒメの自害説は大正12年発行の『天津神社並奴奈川神社』に載っている。
両神社は糸魚川市の
で、ニニギノミコトやヌナカハヒメらを祭る。

 <奴奈川姫命は此池(稚子ケ池)にて自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命と共に能登へ渡らせたまひしが、
如何なる故にや再び海
を渡りたまひで(略)此池のほとりの葦原に御身を隠させたまひて再び出でたまはざりし
となり>

 「母は最後まで出雲族に抵抗したということでしょう。その子のタケミナカタが後に大和族に抵抗することには
必然性を感じます」


ヌナカハヒメの伝承

 ヌナカハヒメの誕生地とされるのは、糸魚川市能生島道の「岩井口」。湧水があり、

地元では「奴奈川姫の産所」と呼ばれる。

 同市の黒姫山の東麓には、「福来口」という鍾乳洞があり、ヒメがここに住んで
を織り、洞穴から流れ出る川でできた布
を晒したとされ、川は「布川」と言われる。

 古事記では、大国主命はヒメを「賢(さか)し女、麗(くは)し女ありと聞いて」と記され
ていて
才色兼備の姿を連想させる。しかし、『天津神社並奴奈川神社』には、〈御色
黒くあ
まり美しき方にはおはさざりき>とある。
  産経新聞  2018-9-18


 高志国の沼河比売(ぬなかはひめ)と大国主命の子、建御名方神の名が初めて古事記で登場するのは,天照大神
の使者、
建御雷神と大国主命との国譲り交渉の場面である。
 「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びかく物言ふ(ひそひそ話で国譲りを迫る不届者は誰だ)」

 千人力でないと動かない巨岩を手先で持って現れたタケミナカタは、タケミカヅチに力で挑む。しかし、結果は悲惨
だった。タケミ
ナカタがタケミカヅチの手を取った瞬間,勝負はついた。

  <御手を取らしむればすなはち立氷に取り成し、また、剣刃に取り成しつ。故尓(しか)して懼(おそ)りて退き居り>

 タケミカヅチの手が氷柱や剣の刃に変わり、恐れをなしたタケミナカタが退くと、その手を握りつぶすようにして
タケミカヅチは投
げ飛ばした。タケミナカタは逃げ出した。

 タケミカヅチはその名の通り、雷の神。握った手が氷や刃になるのは感電の痛みを表現しているのかもしれません」

 島根県を中心に活動する「風土記を訪ねる会」の川島芙美子代表はそう話す。

 <追ひ往きて、科野国の州羽海に迫め到り…>

 古事記は、タケミカヅチがタケミナカタを、出雲の稲佐の浜から信濃の諏訪湖まで追撃したと書くが、そのルートの
記述はない。

 「大国主命が出雲から来て高志国のヌナカハヒメに求婚したように、その子のタケミナカタもまず高志国に逃げ、
南下して諏訪湖に
向かったと思います」

 ヌナカハヒメの生誕地とされる新潟県糸魚川市の長者ヶ原考古館の木島勉館長はそう話す。木島氏ら地元の史家
が推定するのは糸魚
川から長野県小谷村、白馬村を経て安曇野、松本へと抜け、諏訪湖に至るコースである。

 「この道は縄文時代から翡翠の流通ルートで、後世には塩の道として糸魚川街道、松本街道と呼ばれた。

諏訪湖畔からは糸魚川の翡翠を使っ奢代の玉がよく見つかり、タケミナカタの母の一族の影響圏だったと考えられ
ます」

 「恐(かしこし)し、我をな殺しそ。此の地を除きては、他し処に行かじ」

 古事記は、諏訪湖で捕まり殺されかけたタケミナカタが、信濃から出ないことを約束して命乞いし、国譲りも承諾
したと書く。地上
界の統治権は出雲族から、天照大御神を祖とする大和族へと移ったのである。

 〈出雲国国譲り決戦地島根県出雲市斐川町の鳥屋神社の境内には、そう書いた立て札が立つ。同神社
タケミナカタが置いた
巨岩の上に造営されたとされ、タケミナカタの足跡をしのばせる。

 「タケミナカタは,やすやすと国を渡すまいと抵抗した神として、出雲の人々に親しまれています」

 荒神谷博物館(出雲市)の企画員宍道年弘氏はそう話す。川島氏は地元の心情を踏まえてこう述べる。

 「高天原は、タケミナカタを信濃から追い出すことはできなかった。それで封じ込めたと書くしかなかったのでしょう」


国譲り後の信濃と越

 「唯し信濃国·越国のみ頗る未だ化に従はず」

 日本書紀は、12代景行天皇の条で、日本武尊.(古事記は倭建命)が東征の帰路で信

濃と越(高志)だけが大和王権に従わないとして語り、自らは信濃に入ったと記す。

越には部下の吉備武彦を視察に派遣した。

 信濃では、ヤマトタケルは白い鹿に化身した山の神を撃退したと伝わる。「風土記を訪
ねる会」の川島氏は「国譲り後もヤマ
トタケルが活躍した時代まで信濃や越が独立した
勢力と大和王権に見られていたこ
とがうかがわれます」と話している。 
  産経新聞  2018-9-19

 信濃·諏訪に追い詰められ、この地を出ないと誓って助命されたと古事記が記す建御名方神。その後については
子孫を名乗る諏訪
氏一族による『大祝諏訪信重解状』(1249年)が消息を伝えている。

 <当砌(とうみぎり)、昔は守屋大臣所領なり。大神天降りますの刻、大臣は明神の居住を籞(ふせ)ぎ奉り>

 大神が諏訪に天下りしようとした際、先住のモリヤが反抗したというのである。

 「大神は外来の神で、モリヤがいた諏訪に侵入してきたことを示すものです」

 「諏訪学』の編著者で和光大の山本ひろ子名誉教授はそう解説する。

 『解状』から100年ほど時代が下る『諏方大明神画詞』には「建御名方諏方社神」と記され、仏教の影 響で明神な
どと表記される
神はタケミナカタだとの認識がうかがえる。出雲で敗れたタケミナカタが諏訪では一転、モリヤに
「国譲
り」を迫る側として現れたのである。

 <争論を致し或は合戦に及ぶの所、両方雌雄を決し難し>

 『解状』は、タケミナカタとモリヤの激闘をそう描く。論争が武力衝突に発展しても、なかなか勝敗が決しなかった
のだ。

 <ここに明神は藤鎰(やく)を持ち、大臣は鉄鎰を以て、此の所に懸けて之を引く、明神即ち藤鎰を以て、軍陣の

諍論を勝得せしめ給う>

 藤と鉄をひっかけて引き合い、藤を持つタケミナカタが勝利した。しかし、タケミナカタはモリヤを追放せず、共存
の道を選んだこ
とを後の歴史は示す。

 こうした伝承を背景に諏訪氏は,タケミナカタを祭る諏訪大社上社(長野県諏訪市)で大祝と呼ばれる「生き神」を
明治になるまで
代々務めた。また,モリヤの子孫を称する守矢氏は、大祝の即位儀式など神事司る神長官を世襲し、
土着神
ミシャグジの神威を大祝に授ける要職を担った。

 「諏訪氏は先住の神を取り込んで人心をつかもうとし、一方の守矢氏は祭祀を司ることで実権を握ったといえる
でしょう」

 山本氏はそう話す。

 〈勇猛の御命も地の利を得ずして、止むなく退戦し給い> 諏訪湖と山を隔てた塩尻市の小野神社には、タケミ

ナカタの軍勢がモリヤの激しい抵抗を受けて撤退を余儀なくされ、ここで態勢を立て直した伝承が残る。決戦場は、
諏訪湖から天竜川
が流れ出す所とされ、川をはさんだ両岸に今、それぞれの神を祭る藤島神社と洩矢神社が建
っている。

 諏訪には、大木を引き回高柱祭(諏訪大社)や、 鹿の頭部の剥製を供える御頭祭といった奇祭がある。

 「大和では神の使いともされる鹿を諏訪では供えた後、大宴会に供した。タケミナカタの時代からここには、外から
踏み込めない何
かがあるのでしょう」

 茅野市神長官守矢史料館の田村健館長は、諏訪の反骨の気風を強調する。敗神タケミナカタは、こうした

風土の中で祭られているのである。
   産経新聞  2018-9-20

 「御神渡(おみ)り」

 信濃·諏訪では、諏訪湖が厳冬期に全面結氷し、'大音量をともなって中央部で亀裂がせり上がる自然現象

をそう呼ぶ。諏訪大社上社.(長野県諏訪市)の建御名方神が、諏訪湖対岸の下社 (同県下諏訪町)の妻神の

元に通った跡とされる。

 妻神の名は八坂刀売神。上社の本宮と前宮、下社の秋宮と春宮の四社を総称する信濃国一の宮·諏訪大社

は、この夫婦を主神として祭る

 「信濃には20柱以上の御子神も存在し,信仰の広さと深さがうかがえます」

 下社のお膝元に住む諏訪信仰研究家、石埜三千穂氏はそう話す。

 夫婦の御子神伝承の一つが、諏訪湖から塩尻峠を越えた松本盆地に伝わる民話「泉小汰郎」である。盆地

北部の川会神社(同県池田町)境内に立つ 泉小太郎ゆかりの里」の石碑に,その物語が紹介されている。

大要はこうだ,

 太古、信州安曇郡有明の地は大きな湖だった。泉小太郎は諏訪大明神の化身である母、犀竜の背中にま

たがり,水を押しのけ下流の岩山を破って千曲川筋を越後まで開いた。次第水が引き、ついには広い陸地、
安曇平が生まれた。

 「有明は、北アルプスを水源とする高瀬川と犀川が合流する温地帯。両川は暴れ川でしたので、古くから

治水や開拓が行われ、竜を川に見立てた民話が語り継がれたのでしょう!

 松井秀吾宮司はそう話す。同神社には、民話の元と考えられる社伝が残る。

 <祀海神綿津見建御名方命妃、 蓋海神之女也、太古海水、汎濫国中、建御名方与其妃治水>

 タケミナカタの妃は海神(綿津見神)の娘で、夫婦で治水をしたという内容である。古事記は、綿津見神
阿曇連等が祖神と記す
阿曇(安曇)氏は、北九州の博多湾を本拠にした古代-海人族で、安曇野はその入

植地、社伝は、タケミナカタ の出雲族と海人族が、安曇野を住みやすい地に開拓したことを示唆している。

 川会神社がある池田町からさらに北の長野市には、タケミナカタの妻神、ヤサカトメと大和族との関係を

示唆する伝承もある。伝承を残すのはヤサカトメを主祭神 タケミナカタと彦神別命を配神とする妻科神社

である。

 <彦神別命は、諏訪大神の御長男で御両神の一言い付けにより、妻科姫命と共に北信濃の開発・経営
に当た
られ・・・>

 「ツマシナヒメは周辺の官衙遺跡などから,大和王権に従う科野国造系一族の祭神と考えられる。その

マシナヒメを諏訪大神の子神とする伝承もあります。

 石埜氏はそう話す。長野市周辺の善光寺平は、県内最古最大の前方後円墳、森将軍塚古墳など大和勢力
進出を示す遺跡が豊富、ここを支配したのが 古事記初代神武天皇の御子をルーッと書く科野国造とされ
る。ツマシナヒメの伝承はタケミナカタの新王国建設に 大和族も関わっていた可能性を示唆している。
  産経新聞   2018-9-22




三角縁神獣鏡が出土

 各地の古墳から出土している三角縁神獣鏡は、倭の女王卑弥が中国魏の皇帝から贈られた

鏡の可能性が指摘され、邪馬台国の所在地など古代史の謎を解くかもしれない重要な鏡とされ

る。その鏡が1998 (平成10)年1月、邪馬台国の有力候地とされる奈良県桜井市の向遺跡
近い黒塚古墳(全長約
130m 、天理市)から30枚以上みつかったというニュースが報じられた。
あれから20年。こ
の秋、調査報告書がようやく出版され、黒塚古墳の調査が再び注目されている。

 調査にあたったのは奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所(橿考研)だった。93年から、
箸墓古墳など最古級の大型前方
後円墳が点在する奈良盆地東南部の大和古墳群の古墳を次々
発掘していた。

 橿考研で調査研究部長だった河上邦彦さん( 73 )は「研究所にとって、どうしても必要な調査
った」と説明する。80年代末
から全国各地で古墳時代初めの古墳の石室が次々と調査されたが、
古墳時代の幕開けを告げる
大型前方後円墳が多い奈良県では、初期古墳の発掘調査は30年

以上行われず、橿考研のメンバーにも発掘経験者はいなかった。「古い古墳を掘れる研究員
育てるために今やらないとい
かん、と考えました」

 黒塚古墳の発掘は97年8月から始まった。10月下旬に最初の銅鏡がみつかり、その後も相次

いで出土し、最終的に計33枚の三角縁神獣鏡と1枚の画文帯神獣鏡がみつかった。それまでの

三角縁神獣鏡の最多の出土例は京都府南部の椿井大塚山古墳で出土した32枚だったが、
黒塚古
墳での発見はそれを上回った。

 橿考研が翌年1月9日にプレス発表すると、新聞、テレビ各社は大きく報じた。翌日の朝日新聞
朝刊(大阪本社最終版)
は全30ページのうち6ページを黒塚古墳の記事が占めた。1週間後の

現地説明会には、約2万7千人が訪れた。

 中国の史書「魏志倭人伝は、女王卑弥呼が3世紀半ばに魏に使者を送り、「銅鏡百枚」を贈
られたと伝える。黒塚古墳
での三角縁神獣鏡の発見を伝える新聞記事には、「九州説」と「畿内説」
が対立する邪馬台国
の所在地論争にも影響するのではないかとの見方が多かった。

 三角縁獣鏡が魏の皇帝から贈られた鏡と考える福永伸哉大阪大学教授( 58 )は「これですっき
りした、と思った」と振り
返る。「三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏との交渉で最初に入手し、その後、
邪馬台国勢力が発展し
たとみられる大和政権が配布をコントロールした鏡だったことが明確に
なった」

 一方、三角縁神獣鏡を国産と考える河上さんは「大和政権が葬儀専用の『葬具』としてつくり、
各地に配布したもの」と主
張する。こうした三角縁神獣鏡の製作地をめぐる論争は、あれから20年
たった今も決着してい
ない。

 今年10月、橿考研は創立80周年を迎えた記念事業で寄付を募り、正式な報告書として「愚塚
古墳の研究」(八木書店)を出版した。 
  朝日新聞  2018-11-1(編集委員·今井邦彦)





おだまきの杉

 昔、活玉依姫という美しい乙女のもとに、夜な夜な大そう麗しい若者が通ってきた。姫はほどなく身

こもった。

 姫の両親は、その若者の素性を姫にたずねたが、姫も分からぬまま。そこで両親は、若者が訪ね
てきたとき
に、床のまわりに赤土をまき、苧環(おだまき)と呼ばれる糸巻きの糸を針に通して若
の着物の裾に刺すよう教えた。

 翌朝、糸のあとをたどっていくと糸は戸の鍵穴を通って、三輪山まで続いていた。これによって若者
の正体
は三輪山の大物主大神であり、姫のお腹の中の子は神の子であることが分かった。

 その子は、大田田根子と名付けられた。

 三輪山麓の磯城瑞籬宮におられた崇神天皇の時代、疫病がはやり、多くの人々が亡くなった。

 憂えた天皇の夢枕に、大物主大神が貴人の姿で現れ、「大田田根子に私を祭らせれば、災いも
おさまり、国も
平安になるであろう」と告げた。

 早速、早馬を四方に出して探すと、茅渟県陶邑(今の大阪府堺市あたりか)にいることが分かり、
天皇のも
とにお連れした。

 天皇はその大田田根子を神主とし大物主大神をお祀りしたところ、疫病はたちまち収まった。
五穀は豊
かに実って農民は皆喜んだという。

 三輪山麓にある大神神社では本殿はなく、拝殿から三輪山を拝するという神祀りの原初の形を今
に伝える。
 
 静寂と神々しさに包まれた、わが国
最古の神社とされる。

 大神神社の摂社で、「若宮さん」と呼ばれ、大田田根子を祀る若宮社(大直禰子神社)。石段脇に、
「おだ
まき杉」の古株が今も残る。物語に登場する活玉依姫の苧環の糸がこの杉の下まで続いて
いたという伝説も残
されている。
   奈良のむかしばなし 苧環の糸  山崎しげ子  より

三輪山磐座⇒⇒⇒




法隆寺論争

 

 世界最古の木造建築、法隆寺の金堂や五重塔はいつ建てられたのか。この問題をめぐる法隆寺再

建,非再建論争が起きて今年は100年になる。創建法隆寺(若草伽藍)は670年に焼失し、現

法隆寺(西院伽藍)は7世紀後半から8世紀初めに再建されたとする再建説が今は定説となり、7

世紀初めに聖徳太子が建立したままとする非再超説は否定された。だが、この流れをくむ「金堂だ

けは670年以前の造営」との見方は残っている。年輪年代法による部材の伐採年の解明など最新

の研究成果を踏まえ、論争のいまを追った。

(沖 真治)

 100年の間には予想もしない発見があって、そのたびに論争は盛り上がった。1926 (大正

15年,五重塔で見つかった心柱の下の空洞もその一つだった。

 五重塔の初層(1階)には釈迦涅槃像などの塑像群が安置されている。心柱は岩の形の
須弥山が
周りを囲っているため、外から見えない。防火工事の機会に調査したところ、心柱
の下3肩が直径1m
の大きな空洞になっていた。礎石は空洞の下に横たわっていた。

 新聞が報じて大騒ぎになったが心柱は下部を地下に埋める掘っ立て柱式で立っていたため、
下部分が腐って空洞化したものとわかった。

 礎石には穴がうがたれ、舎利容器など豪華な宝器が見つかった。再建派は「見つかった銅
鏡が
再建時期と合う」、非再建派は「柱を地下に据える日本古来の様式だ」と、それぞれ自説
に有利
とみたが、決定打にはならなかった。

 「五重塔の心柱の伐採年代は594年」 01年2月、奈良文化財研究所の光谷拓実·古環境研究
室長が発表した年
輪年代法による調査結果も予想外だった。再建説では、五重塔は670年
火災後 20年後に着
工されたとみる。心柱だけが塔の年代と約100年も差がある。今も謎の
まだ。

 だが、光谷室長の調査を聞いて、以前からあった心柱の疑問が解けると考えた研究者がいた。

 空洞が見つかった時、奇妙な石組みが空洞の縁に据えられていた。心柱は地上部分も高さ
約1 .
5mまで中身がタケノコ状の空洞で、外側の縁が石組みに接していたのである。いつの時
代にか心
柱の腐食を見つけて、右組みを腐食部分に入れ、礎石の代わりにする補強工事が
行われていたの

 五重塔が戦中から戦後の42~52 (昭和17 ~ 27 )年に解体修理された時、補強工事が行わ
れた時代
がわかった。解体修理の報告書によると、初層の塑像が造られた711年に須弥壇が
改造されてお
り、心柱の補強も一緒に行われたという。 再建説では、711年の補強工事が
説明しにく
い。仮に五重塔は680年ごろ着工されたとする。心柱は711年までの約30年間で補
強を必要
とするほど地下部分が腐ったことになる。掘っ立て柱は腐りやすいが、心柱は直径
82cmもある太い
ヒノキで、そんなに早く腐るだろうか。

 この疑問は再建説の弱点だった。このため、補強工事は腐食を見越した事前の対策という
苦しい
解釈も出されていた。

 年輪年代法の結果を適用してみよう。594年に伐採されて約90年たった古材のヒノキを心柱
使ったため、約30年で地下部分が腐り始めた.須弥壇の改造で腐食が見つかって補強された
――と
説明できる。

 奈文研の金子裕之·飛鳥藤原宮跡発掘調査部長(考古学)は「補強工事の謎は年輪年代法で
解明
できたといえる」と話す。


法隆寺年表

601 聖徳太子、斑鳩宮を造営

607 この頃、法隆寺創建

622 聖徳太子没す

643 蘇我氏、斑鳩宮を襲い焼く

670 創建法隆寺が火災で焼失

711 五重塔初層の塑像と中門の仁王像が完成 

   朝日新聞  2005-3-15

 法隆寺五重塔は7世紀後半から8世紀初めに建立され(再建説)、心柱のヒノキは594年に伐

探された(年輪年代法)。塔の年代と心柱の伐採年の約100年の差はどう説明したらよいか。
いくつか発表されて
いる説のうち心柱の特性を強調した二つを紹介する。

 「594年伐採」が発表された01年、哲学者の梅原猛氏は「飛鳥寺の心柱転用」説を主張した。

法隆寺の再建は一族が滅亡した聖徳太子の霊を鎮めるためだったと梅原氏は以前,唱えてい

た。この考えに沿って、蘇我系である聖徳太子の鎮魂のため、蘇我馬子が建立した飛鳥寺の
五重塔
の心柱を運んだという説だ。

 飛鳥寺の塔は鎌倉初期の1196年に落雷のため焼失したとする記録がある。飛鳥寺跡を発
掘し
た坪井清足·元興寺文化財研究所長(考古学)は「塔焼失の前にもとの心柱を抜き取り、
別の心柱
を建てた形跡はなかった」と梅原氏に反論した。学界では梅原説に否定的な見解が
多い。だ
が、聖徳太子ゆかりの寺からの転用との見方は魅力的である。

 松浦正昭·東京国立博物館上席研究員(美術史)は昨年春、「相輪塔転用」説を発表した。04

年6月1日付の奈良版でも紹介したが、心柱の特性の視点から、もう一度取り上げたい。

 日本書紀には、蘇我馬子が585年、飛鳥近郊の大野丘の北に塔を建て、柱頭に仏舎利を

納めたと書かれている。日本初のこの仏塔は、排仏派の物部守屋によって切り倒されたと
書かれて
いるので、柱だけの塔(利柱)と見られる。松浦氏は日本の初期には柱だけの刹柱
(せっちゅう)形式の
塔があったとみる。

 一方、法隆寺が皇室に献納した仏像の一つ、押出観音菩薩像(7世紀後~8世紀初め)は背

面の銅板に、たがねで打ち出した点線で塔が描かれている。松浦氏は、この図は塔の壁部
の相輪
が独立して立つ相輪塔で、刹柱形式の塔だという。相輪塔が7世紀に実在した証拠で、
実際に大
津市の比叡山延暦寺には平安時代の相輪塔が今も残っていると指摘し、次のよう
に推論する。

 聖徳太子は594年に法隆寺の造営に着手し,まず刹柱形式の相輪塔を建てた。押出観音菩
薩像
の塔はこの相輪塔を描いたものと考えられる。谷を隔てた若草伽藍に金堂と塔が完成す
るが、67
0年に若草伽藍が焼失。焼け残った相輪塔は聖徳太子の由緒をもつ法隆寺の原点
であるため、再建
の寺地に選ばれ、相輪塔を心柱に転用して五重塔を建立したー。

 心柱は、ほかの柱や梁と違って屋根など建物の荷重を受けず、相輪だけを支えている。梅原、
浦両氏の説はともに、日本古来の「柱信仰」に根ざした心柱の特異な性格を強調した大胆な
仮説で
ある。

 法隆寺の心柱には全面に保護の添え木板がくぎで打ちつけられていて表面が見えない。
転用の
痕跡を改めて確認できないことが残念だ。
   朝日新聞  2005-3-16




三輪山磐座

 この地史的事実をより具体的に説明すると、奈良盆地は地質年代に瀬戸内海の海湾であって、口

を北に開いていたときがあった。それが地殻変動で土地が隆起し、湾口から湾内の水が今の京都盆

地に向かって流出し、そのとき、湾内の水の移動で馬見丘陵、矢田丘陵が南北に長くできた。しか

し、流水は湾口、すなわちいまの奈良山付近にも土壌を堆積させたので、湾口が埋まり、奈良盆地

は孤立した。

 次いで、湾内が淡水化するころ、西の二上山麓の火山灰地の軟弱地を破って西に向かって専ら排

水を行なったが、ここにもまた土砂の堆積ができて通水が止まり、最後に今の大和川の通っている

亀瀬断層線を破って排水しはじめ、大和川のもとができた。これによって、盆地湖の湖面は年とと

もに下がりはじめたが、おそらく、湖面が、いまの海抜六〇メートル線あたりに下がったころに、

縄文文化前期の人達が、東の大和山中や宇陀高原,南の吉野地方からこの湖に下りて住みはじめ

たらしい。

 そして、しだいに湖面が下がって、五五メートル、五〇メートルになると、湖底にあった扇状

や、湖底の高い部分が水面上に姿をあらわし、そのうえに、後期縄文文化から弥生文化の人々が住

みはじめたらしい。そのために、奈良盆地内の前·中期弥生遺蹟や古式前方後円墳まではすべてこ
五〇メートル線より高いところに残されている。

 そして、古墳時代の終わり、およそ六世紀ごろにはまだ湖面は標高四〇メートル線付近にあった

らしく、それ以下に人文活動のみられるのは、八世紀以後である。その八世紀になってもまだ四〇

メートル線以下には地が湿潤で耕作に堪えないところがあったらしく、おそらく舒明天皇の国見歌

に出てくる大和の海原はその沼沢地を指すのではないかと思われるのである。

 右のように考えてくると、奈良盆地の開拓は当然周囲の山麓から、年とともに下にひろがってい

ったと考えなければならないが、この地盤の隆起とともに、大和川を中心とするその支流は、水勢

は急に、川幅は狭くなっていった。要するにしだいに現状に近よったのである。

 しかし、藤原宮を作るころ『万葉集』によって知られるように、近江田上山の用材は、宇治川を

下り、泉川(木津川)を引き上げ、木津で陸上げし、奈良坂を通って佐保川に流し、初瀬川(大和

川本流)を引き上げて、飛鳥川を遡らせて藤原の地に運ぶことが可能なくらいに、河川は水量豊富

であった。そうだから遣唐答礼使は難波から大和川を三輪の海柘榴市まで舟で送られてきたのである。

 また大和川沿いには、各地に一種の陸内港が栄えて、大阪から劒先舟、簗舟で物資が運ばれ、

和からは農産物を大阪に運んだ。この商習慣は幕末まで継続していたのである。


上田  三輪山の中心は磐座でしょうね。

宮司  磐座があるから神威まことに恐るべしとして登ることができないし,登れなかったんではないかと
     思います。

根本  輪の山中には磐座がたくさんありますね。辺津磐座(へつ)、中津磐座、奥津磐座(おきつ),

     あれは自然のものなんですか。それとも人工的な手が加えられたものなんですか。

宮司  あれは樋口清之先生もしかと書いておられますが,やはり人工が加わっておりますね。まこ

      とに不思議で、人工が加わっておりますことは奥津もそうですが、中津磐座でもっとも端的によく

     わかります。中津磐座は四組の磐座群から成り立っていますが、みな同様に西やや南二上山のほ

    うに向いています。だいたい七つ、八つずつぐらいの巨岩が組み立てられている。いちばん奥の奥

    津磐座から尾根づたいに、二上山に向かったような格好で南に四組あるんです。それがきちっと並

     んでいて神々しいものです。

根本  時代的にはだいたいいつごろなんでしょうか。

宮司  三、四世紀ぐらいではないかという説もあれば、いろいろありますが、私はよくわからない

    けれども、もっと古いと思うんです。

上田  岩下さんも京都にたびたびおいでになるでしょうが、京都に岩倉というところがございます。

    あれは岩倉という字ですが、あれはのちの字で、もとは磐座です。いまも石座神社が祀られていま

    す。そこにはいまでも巨石があります。神の鎮まる聖なる岩です。こうした磐座を現在も祀ってあ

    る神社はたくさんあります。 

    三輪山に登らさせていただきましたが、普通の磐座は巨石が一つ、ないし二つなんです。ところ

    が三輪山の場合は磐座群と言うほうがいいと思うのです。これも注目されますね。大神の場合はグ

     ループであるわけです。こういう信仰は非常に古いと思うのです。そして江戸時代でもちゃんと禁

    足地ですから。「禁足榜示定書(きんそくぼうじさだめがき)」というのがありまして、みだりに入っては
    ならん、と取り締まりの
規定の文書があります。

宮司  あります、あります。

上田  地域の皆さんはもちろんですが、ときの藩主たちも守ってきたわけです。その信仰が連綿と

    続いて現在に到っているという、みごとな信仰の伝承です。

    私は神社の調査にもたびたびうかがいます。たとえば京都ですと松尾大社、造酒の神様としても

     有名です。後ろの松尾山がやはり神体山です。社家の方は御鎮座場と言っておられて、だれも
    行か
ないんですが、私は京都市の依頼で調査におもむきましたが、見事な磐座があります。
    高さが約五
   メートル、幅が約十五メートルぐらい。現在の松尾の神主さんたちも朝晩拝んで
    おられるようです
   が、しめ繩も何も張っていない。そういう例は全国にたくさんあります。

    松尾大社の場合は今では注目されない伝承になってしまっているわけでしょう。社の創建は大宝

    元年(七〇一)ですが、神体山の信仰が先在している。松尾の本来の聖なる場所は神社側でおっし

    やっている御鎮座場です。

    大神さんの場合は、その信仰がずっと保たれている。そして三輪鳥居。あそこから奥が禁足地で、

    見事に禁足地の伝統が守られてきていますね。

宮司 京都のあたりでも、やはり上賀茂神社下鴨神社も本来の典型的な形を残しており、やはり磐座で

    す。御蔭祭りとか、御阿礼神事というお祭りがあるのはやはりこれを起源とするものです。だから

    三輪は全国規模において超随一です。

岩下  そうですね。

信者たちに支えられてきた三輪山信仰

根本  それについては私もびっくりしているんですが、毎月一度、神社から許可をいただいてお山

     させていただいているんですが、磐座とか杉の木とか、あちらこちらにしめ繩が張ってあるんです。

    あれは神社で全部されるんですか。

宮司  いや、いっさいしないんです。いっさい関知しないんですが、関知しないというのはほんと

    うにすまないので、いけないんですが、密かにそれぞれの行者さんが信仰しているんです。全部の

    けてしまえばいいようなものですが、一生懸命にやっているものをのけることがいいか悪いか。考

    え考えしているうちにあのようになってしまっています。

根本  本来、道を外れてはいけないんですが、たまに脇の下のほうに下りますね。ほとんど人の行

    かない磐座にもしめ縄が十二月になるとちゃんとされているんです。

上田  お神酒が供えてあったり。

根本  ですから、いまでも行者信仰がそのまま生きているんではないかと思うんです。

宮司  生きてぃるんです。いま不届きな人間が多いから、悪いことをしてはいけないと思い、心配

    るのですが、のけてしまってはどうかと思うし、そっとしてあります。でも気をつけてはいるんです。

根本  いわば信仰者に支えられてきたとも言えるわけですね。いま禁足地という言葉が出ましたが、

      禁足地というのはどういう意味なんでしょうか。

宮司  足を踏み入れてはいけない所という意味です。一番大切な場所ですから、全山禁足地でもい

    いんですが、いま話に出た禁足地というのは、江戸時代中期に,とくに三ツ鳥居の後ろを中心に尾

    根づたいに上へ上がるところが禁足地になっていて、絶対入れないことになっています。

上田  フォーリープレイスですから。これは大神神社だけでなくて、古い社の多くには禁足地

    ります。その信仰がだんだん忘れられてしまっているんです。

    たとえば旧三高の寮歌をよくご存じでしょう。紅燃ゆる吉田山。吉田山というのは神楽丘ともい

    うんです。そのクラというのは磐座の座と同じに、神の鎮まる丘という意味なのです。そこ
    に
吉田神社
    が建立されるわけです。本来,神体山にはみだりに人が入ってはいけないはずなのに、そうい

    う伝統がすっかり忘れられてしまっているんですね。

    しかし三輪の場合はその伝統がずっと続いているということです。聖なる場所だから、よけいお

    参りしたいという民衆の心も起こるわけです。宮司さん、あんまり取り締まらないほうがいいです

    よ。大事にされるのはいいんですが、民衆の心としてはそこに一歩でも近づきたい。もちろん不届

    きなものは締め出さざるをえないんですが、ほんとうに信仰している皆さんはやはりお山に参りた

    い。その気持ちは当然だと思うんです

岩下  禁足地というのは昔から決められているところと同じなんですか。

宮司  全体が禁足地ではあるんです。
   

 万葉集」では,「ミワ」の地名は三輪,弥和,三和、と表記されているが、別名を「ミモロ」と

もよばれている。三諸、三毛呂の字があてられているが、ミは美称、モロはモリと同根で神の降り

る所という説と、神の家、つまり御室(みむろ)であるという説がある。従って必ずしも三輪山と特定する

ことはできないのだが、多くの場合は三輪山と考えてそうまちがいはない。

  三諸は 人の守る山 本ベは あしび花さき 末ベは つばき花さく うらぐはし 山ぞ 泣く児守る山

      (巻十三-三二二二)

 ここには、民衆が親しんでいた山の姿がある。三輪山は、人々がみんなで大切にしている山だ.

といっている。そして終わりに「泣く児守る山」といっているのは、泣く児をやさしく守ってくれ

る山の意にとりたい。「子守り」である。もしかすると、山の讃美であると同時に、実際に子守り

唄であった可能性もあるのではないか、とさえ感じられる。信仰心の厚い老婆などが、孫を背負う

か抱えるかして、あしびの花をみせたり、落ち椿の紅い花を拾ったりして、泣く児をあやして唄う

情景が私には見えてしまう。

 今の三輪山はほとんど杉に覆われていて、山 の咲いている様子は想像しにくいが、三輪山麓

には椿市の地名があり、椿の花は多かったはずである。よくみかける花として、「あしび」と「椿」

が並べられたと考えるべきだろう。「本べ」、「末べ」という並列表現は、この場合は山の麓と頂をさ

しているが、一種の成句のようなもので、実際に山頂に咲いた椿をいったわけではないかもしれな

い。昔から三輪山は永く一般人には禁足の地であったということを考え合わせると、なおのこと、

その方が納得がいく。以前、椿市近くの磯城瑞籬宮跡に立ち寄ったとき、暗い域内に、やぶ椿の花

がいくつもほたほたと地に落ち伏して、あざやかな紅を散らしているのをみた。その印象を思い起,

こしていると、ふしぎにこの歌が子守うたにみえてくるのである。そんなあたたかな口調が、

歌にはある。

  紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰 (巻十二-三一〇一)

  たらちねの母が呼ぶ名を申さめど路行く人を誰と知りてか (同-三一〇二)

 『万葉集』の問答歌には、こんな歌のやりとりが記されている。椿市は大きな街であったらしく、

「八十のちまた」つまり四通八達した道の辻があった。そこで出逢ったおとめに向かって、名をた

ずねたのである。「名乗る」という行為は、古くは婚姻をみとめる行為であった。そこで女の方は、

お母さんしか直接呼ぶことのない名を、言いたくても、どこの誰だか、ただ路で行きあっただけの

人には言えないでしょ、とことわっているのだ。

 椿市は物品交換の場であると同時に、「歌垣」の場でもあった。大神神社の近くであるからこその

歌垣の場であったろう。歌垣は古代の集団婚の場という眼でみられているが、むしろムラという共

同体を守る一方で、近親婚をさけ、新しい血を入れるための、原始社会のルールに基づいていた。

だからこそ神の庭で催されたのであって、乱婚ではない。しかし同時に、好きな人に自由に声をか

けることができたのもたしかで、その「歌垣」の伝統のある場所である故に、こうした行きずりの

問答が成り立つのであろう。女は拒否している。しかし、男が声をかけ、女は一旦拒否する、とい

う形は、王朝の恋でも同じことである。女は決して相手を嫌がっていない。その証拠に、ちゃんと

返事を返している。その初々しい表情まで見えてこよう。

 「紫は灰さすものぞ」は、椿の灰汁が紫の染色に欠かせないので、「椿」の序詞と考えられるが、
万葉集には「紫の匂へる君」という表現もあり、
「紫」はおとめの匂やかさを想像させるだろう。

  三輪山の歌の中にしばしば、「味酒(うまざけ)」ということばが出てくる。これは三輪の枕詞と

して使われているわけで、三輪山がお酒の神様として尊崇されていることを知っている方々には、

すぐに納得のいくところであろう。「味酒」は「三輪」「三室」にかかり、「味酒の」は「三諸」に、

「味酒を」は「三輪」と「神奈備山」にかかる。

 なぜ「ウマサケ」が「ミ,ワ」なのかというと、古くは神酒のことを「ミワ」と呼んだそうなので

ある。しかし、「カム」との関わりの方が大きいのではないか、と私は考えている。「味酒を神奈備

山」のつづき方は「味酒を醸(か)む」の意である。酒を「醸もす」というのはもともと口で噛んで作る

ところから来たというが、酒を「釀む」が「神」(カムはカミの古形)にかかっているのは明瞭である。
大神と書いて「オオミワ」とよむところからも,代表的な神としてのミワに転用されていったようにもみ
えるのだ。いずれにしても古い時代の枕詞であるから真相はわからないが、あの大きな杉玉を目
にすると、文句なく「味酒三輪」を実感してしまう。あの杉の香は味酒の香でもある。神社で頂いた
忍冬酒もまさに味酒であった。

 三輪山の神については, 『古事記』上巻と中巻,神武天皇の条、『日本書紀』神代上、下、崇神天

皇の条および『出雲国造神賀詞(みやつこかむよごと)』に詳しいが、三輪山の神は真に不思議な
神である。神話に登場す
る多くの神々の出自は、それなりに筋が通って明瞭であるのに、三輪山
の神は最初から突然神とし
て現れるのである。しかも大国主神の守護神としてである。

 『日本書紀』によれば、大己貴神(大国主神)が少彦名神とともにこの国上の経営にあたってい

たが、先に少彦名神が突然身罷り、大己貴神が茫然として、今後の心配をしている時、たちまち海

の向こうから不思議な光が海を照らしてやって来て、声がかかった,若し吾あらずば、汝いかにし

て能くこの国を平らげまし。吾あるによりての故に、汝その大造(おおよそ)の績(いたわり・天下経
営の功績)を建つる
ことを得たり」と申された。大己貴神は驚いて汝は誰れであるか」と尋ねたのに
対し, 「吾はこれ
汝が幸魂,奇魂なり」と答えられた。これが三輪山(美和山)の神、大物主神であった。
さらにこ時「出雲国造神賀詞』によれば、
「己 命(おのれのみこと)の和魂を八咫鏡に取り託けて
倭大物主櫛瓱魂命(くしみかたま)
と御名(みな)を称へて大御和の神奈備に坐せ」と、つまり大己貴神
(大国主神)自身の和魂を八咫鏡につ
けて御神体とされ、倭大物主櫛瓱魂命と御名をたたえて、
三輪山に祀れと言ったのである。

 この大物主神のように最初から神であり、しかも幸魂.奇魂.和魂と神の守護神としての存在は

世界でもたいへん稀な例である。ここで幸、奇魂、和魂について説明しておくと,上代にあって

は、神の魂を二つの側面から考えていた。和魂、荒魂である。本居宣長の『古事記伝』によれば、

和魂とは生命を守り幸せにする働きの幸魂と、霊妙不可思議な作用をする奇魂からなっており、そ

れぞれが別々に独立したものではないと述べている。荒魂は別にあらわれ魂とも呼ばれ物事を具

現化していく進取的かつ活動的な働きを言う。

 大神神社でも正面の拝殿で三輪の神の和魂を祀り、奥の院の狭井神社では荒魂が祀られている。

伊勢神宮でも同様に和魂と荒魂を別々に祀っており,俗に行者たちはあらわれ魂の意から祈願事は

荒魂にお願いすることが多いようである。ただ、この四魂の働きについて、詳細は省くが、小生の

体験と観察では、まず和魂に心を寄せ祀ることによって,魂が働き、その幸魂の誘導によって、

さらに奇魂が働くようになり、結果的にあらわれ魂としての荒魂が祈願の成就に向かって動くよう

になると思われる。

こうして最初から神として登場した三輪山の大物主神は、その神威により、いろいろな説話が生

まれた。

(1)蛇の姿を持つ神

 『日本書紀』の崇神天皇条に、大物主神と倭迹迹日百襲姫の説話がある。姫は毎夜通ってくる美

しい男性が夜明けには姿を消してしまうのをうらめしく思い、ある晩、一度あなたのお姿を見たい

と願うと、男はもっともなことだといって、それでは明朝お前の櫛筥(くしばこ)のなかを開けてみるが
よい。

しかし,私の姿を見てもけっして驚いてはいけないと念を押した。姫はいぶかしがりながらも、翌朝、
櫛筥を開けてみると、衣紐(したひも)ほどの長さの小さな蛇が現れた。姫はうっかり驚いて叫んでし
まっ
た。すると大神は恥じて、たちまち人の形となり、あれほど注意しておいたのに、自分に恥をかか

せたと言って、大虚(おおぞら)を踏んで御諸山に登られてしまった。姫は仰ぎみて、悔い、どすんと座
りこん
だ。その時、箸で陰部を撞いて死んでしまわれた。この姫の墓を箸墓といい、その墓は昼は人
が造
り、夜は神が造ったという。

これが箸墓伝説である。

 蛇神は出てこないが、『古事記』にも類似した話が出てくる。美しい活玉依姫のもとに毎夜、立派

な男がかよってきて、やがて姫は妊娠した。姫の両親は相手の男がわからないので、心配し、相手

を確かめるために、姫にその男の衣のすそに糸のついた針を刺しておくように指示した。翌日、そ

の糸のあとをたどると、糸は鍵穴を通って、三輪山の社のところで止まっていた。それで生まれた

御子が三輪の神の子であるこ忘わかった。この神の子の子孫が、後に疫病を鎮めた大田田根子

ある。また、麻糸が最後に三輪だけ残ったので、この地を三輪というようになったと述べている。

この神始譚を苧環伝説(おだまき)という。


(2)雷神としての三輪の神

 三輪山には正式な祭神として雷神は祀られていない。しかし、『雄略七年

紀』の小子部蜾贏の話や丹塗矢伝説から、三輪山の神には雷神としての神格が備わっていることを

指摘している。丹塗矢伝説とはr古事記』の勢夜陀多良比売(せやたたら)と三輪山の神との神婚譚
である。大物
主神がこの姫を見そめて、姫が厠に入られた時、赤色塗りの矢となって、厠の溝の流れ
の下からか
くれて姫のほとを突いた。姫は驚かれ、急いで家へ帰り、その矢を床の側に置いておかれ
ると、そ
の矢は忽ちに端正な男となり、姫と結婚したという話である。生まれた子が比売多多良伊須
気余理
比売であり、後に神武天皇の后となった。似た話が『山城国風土記』の逸文、賀茂伝説にもあり、

その場合の丹塗矢は火雷神(ほにいかずち)であることから、丹塗矢は雷神の形象化と考えられてい
る。また、
大物主神の最初の登場場面の、「海原を光して来る」というのも雷光を思わせるものがある。 
  三輪山  樋口清之





「オオヤマトの古墳·宮址と三輪山祭祀」

古谷毅(東京国立博物館)   歴史フォーラム2016「大和の中のヤマト」 より

1、「倭」社会の成熟ー,古墳時代の歴史的位置ー

大型墳丘墓の出現 弥生時代終末期の2~3世紀頃、日本列島各地には地域を統合した有力

首長の出現を示す大型墳丘墓が造られた、いずれも限られた人物の墳墓で、日本海側の四隅

突出形墳丘墓、山陽地方の双方中円形墳丘墓や畿内地方の前方後円墳形墳丘墓などの多様な

形態をもち、地方毎にさまざまな葬送儀礼が行なわれたことが窺われる。代表例として、山

陽地方の岡山県楯築墳丘墓(全長約80m)は双方中円形の墳丘をもち、墳丘には古墳時代の埴

輪の起源となる特殊器台·特殊壺形土器が供献されていたことで知られる。

前方後(後方)円墳の成立 やがて、3世紀後半には前方後円(方)墳が畿内·瀬戸内地方を中

心に出現し、4世紀後半までに東北南部から九州南部に分布が拡大した。5世紀末頃には、

岩手県から鹿児島県に至る日本列島の約2000 ㎞にわたる斉一性の高い古墳文化が成立した。

ほかにも短い前方部の帆立貝式古墳や円墳·方墳をはじめとした多様な墳形があるが、格差

をもちつつ緩やかながらも前方後円墳を中心とする地域を超えた共通の基準が形成されたの

である農耕社会が成立した弥生時代以来、成長を続けてきた倭人社会が成熟した段階を迎え

一つの輪郭を見せはじめたすがたと考えられる。

 しかし、日本列島における前方後円墳の出現は、政治的·社会的に統一的な価値基準の創

出と断言することは難しく、次節で述べるような規模等の格差を有しつつ消長しながら著し

い偏在性が存在し、古墳文化と古墳時代社会の多様性を強く示唆しているといえる。

人類史の空間  ところで、このような古墳を人類の活動の中に位置づけてみると、人類史の

基本的な空間としては、主に「居住」(集落·住居)および「生産」(生業·手工業)の空間と、

精神的活動が投影されるいわば異界と交流する「他界」(葬送および祭祀の空間の3つの空

間から構成されていると考えられる。ところが、古墳時代には、これらに加えて一般の居住

空間である集落外に、しばしば周濠などの大規模な区画と広場をもつ有力者(首長)の「居宅」

(居館:宅〔ヤケ]またはミヤ)が成立し、「第4の空間」が出現したことが重要である。第4の空

間は政治的な機能を担った施設とみられ、やがて7世紀の畿内においてオオキミ(大王)がマ

ツリゴトを執行するミヤコ(宮処)に発展し、のちの都城(宮都) ·官衙等に代表される政治的

な装置として成長したとみられる。その変遷は、その後古代~近世を通じて日本列島史にお

ける時代区分に関わる中心的存在として位置づけられている。

 古墳時代は異界と交流する空間(「他界」)と新たに出現した第4の空間(「居宅」)に社会の紐

帯(秩序)が顕著に表れた時代であったと云え、日本列島の農耕社会における発展段階の画期

として位置づけることが可能であろう。


2、前方後円墳からみた古墳文化の展開

総数  古墳文化を代表する前方後円墳は, 230基余の前方後方墳を含めて約5000基が確認さ

れている。約15~20万基とみられる古墳のうち、大多数を占める円墳·方墳に比べればごく

少数であるが、7世紀に大型円(方)墳や八角形墳などに代わるまで、一貫して古墳の中心的

な存在であった。しかも全長約200m以上の巨大古墳は全て前方後円墳であり、5世紀後半

に築かれた最大の大阪府百舌鳥古墳群の伝仁徳陵(大仙陵)古墳(486m)はその象徴的存在で

ある。

分布  一方、地方毎の分布に著しい偏在性があることには注意する必要がある。たとえば、

都府県別では、近畿地方中枢部の奈良県·大阪府の前方後(後方)円墳はそれぞれ225基・ 174

基であるが、最多の千葉県では630基以上が確認されている。他にも茨城県、群馬県では、

それぞれ400基, 300基余りが確認されており、関東地方全体では実に1700基を超え、全国

の約1/3にあたる前方後(後方)円墳が築造されている。これに対し、東北·北陸地方では、

8県を併せてもそれぞれ80基,150基余で、全体の計5%にも満たない。前方後円墳の社会

における位置づけは、時期や地方によって大きく相違あるいは変化していたことが窺える。

規模 次に、全長100m以上の大型前方後(後方)円墳に注目すると、興味深い特徴がみられ

る。大型前方後円墳は全国で約270基確認されている。奈良県·大阪府では各64基·52基

で、これにそれぞれ17基,10基の京都府·兵庫県を加えればおよそ140基余りで、やはり

全国の半数以上が畿内地方に集中している。しかも、畿内以外で最大級の前方後円墳は一部

に全長170mを超える岡山県造山古墳(360m)·作山古墳(286m)、群馬県太田天神山古墳(210

m)·浅間山古墳(173m)、茨城県舟塚山古墳(186m)、宮崎県女狭穂塚古墳(175m)などが存

在するが、大半は全長約100~160mの規模に収まり、やはり畿内地方に比べ規模の格差は大

きいと言わざるを得ない。

 しかし、都府県別にみると、全長100m以上の大型前方後(後方)円墳は群馬県·千葉県

岡山県·宮崎県の27基·15基·13基·10基をはじめ、東北·北陸地方においても宮城·福

島県に各3基、石川、福井県にも各1基が存在し、42都府県のうち23以上にあたる30府

県で確認される。前方後円墳が1基しか存在しない岩手県角塚古墳(60m)等を考えれば、各

地域において大型前方後円墳はほとんどの都府県で築かれたということができる。

変遷  このように前方後円墳の分布数には著しい偏在性が認められるのに対し、大型前方後

円墳は大半の都府県に存在する顕著な特質が認められる。全長約200m以上の巨大前方後円

墳も約40基のうち2基を除き、すべて前~中期に築かれているが、前方後円墳の規模が縮小

する後期における大型前方後円墳は畿内地方·その他ではそれぞれ約30基である。

これらを併せて考えれば、前期から中期における約200基の大型前方後円墳はむしろ日本

列島の広い地域に築かれた共通性をもつのに対し、後期における中小規模の前方後円墳には

横穴式石室の普及と共に著しい偏在性(地方色)の発現を看取することができる。古墳時代社

会における前方後円墳の役割(機能)は、前~中期における斉一性(均質性)から後期における

個別性(多様性)に変化したことが窺える


3,オオヤマトの古墳群と宮址伝承地

奈良盆地の形成 盆地東方のいわゆる大和高原は、南端の三輪山(標高467.1m)付近を最高

地点とする浸食平坦面をもつ隆起準平原で、約200mの比高差で緩傾斜をなし北端の笠置山

(標高324m)へ向かう。この高原部は盆地側からみて笠置山地と呼ばれるが、その西辺には

春日山断層線が走り、大和地方を大きく盆地部(大和国中)と高原部(大和山中)に分けている。

盆地部西方には南北方向に走る生駒·金剛山地があり、奈良盆地はこれらの後

背傾斜地と春日山断層崖に挟まれたいわゆる断層地溝盆地で、かつては古瀬戸内海と一体と

なった山城地方へ向かって開く海湾を形成していた。やがて、地殻変動による隆起でこの海

湾が北方へ後退した時期に、平城山(大和海湾口)付近の堆積作用によって山城地方と区画さ

れたと考えられている。その後、盆地内の淡水化した古大和湖は二上山北麓から西方への排

水するようになるが、この付近(穴虫丘陵)の堆積作用によって、さらに北方のいわゆる亀ノ

瀬断層線に沿った現大和川を通じて排水するようなる。次第に、盆地内は中小河川の堆積作

用によって周囲に湖岸平野を形成し、現在の奈良盆地の原形が形成された。このように,,

盆地は周囲の山地・,高原部から発した中小河川が盆地中央部に沖積平野を形成する一方、こ

の中小河川が西部低地帯に向かって流出して合流し、西方の大阪湾に注ぐ大和川が形成

されたと考えられている(樋口1961 .日下1991)

集落と低地の分布 盆地内の主要な弥生~古墳時代集落は標高約50~70mに立地している。

多くは標高55m付近にあり、この地帯は当該期における水稲耕作の適地であったとみられる

(藤井1980)。一方、盆地各地域から流出した諸河川(北大和:佐保川·富雄川·竜田川等、南

大和:補川·寺川·飛鳥川·曽我川等)が大和川に合流する地点の標高はおよそ40~50mであ

るため、これ以下の標高にある川西·安堵·河合地区から郡山市域にかけての地帯は、古代

前においてはいわゆる低湿地が拡がっていた可能性が高いとみられる(泉1983)

 また、7世紀初め、608 (推古16)年に第2回遣隋使·小野妹子に伴って来朝した隋国使,裴

世清らが、難波からこの大和川を遡って泊瀬で上陸し、海石榴市で飾馬に乗り替えて陸路で

小墾田宮に入ったことや、大和川の舟運を支えた豊かな水量と盆地低地帯における湿潤地の

存在が『万葉集』等にも数多く詠み込まれていることはよく知られている。

オオヤマト古墳群の立地奈良盆地東南部には、巨大前方後円墳を中心とした大型古墳群が

集中するが、このうち桜井市箸墓古墳を中心とした箸中古墳群、天理市渋谷向山(伝景行陵)

古墳,行燈山(伝崇神陵)古墳を中心とした柳本古墳群、天理市西殿塚古墳を代表とする大和

古墳群は総称してオオヤマト古墳群と呼ばれている。これらの古墳群は奈良盆地東

の春日山断層崖に沿うように南北に約4km余りに亘って分布する。春日山断層崖下には数

多くの断層崖から西方に伸びる台地·丘陵地形があり、これらは西方に流下して大和川に連

なる多くの小河川に開折され小支谷を発達させ、また各所に扇状地が発達している。これら

の丘陵地形は沖積地との比高差が約20~30mで、オオヤマト古墳群の多くはこの丘陵地形上

に立地する。万葉集⇒⇒⇒

 また、桜井市外山北麓,西麓には全長200mを超える前方後円墳·桜井茶臼山古墳
メスリ山古墳がある。これを外山古墳群と仮称すると、オオヤマト古墳群と共に奈良盆地東南部

には、古墳時代前期前半において最古の箸墓古墳からおよそ6代(西殿塚→桜井茶臼山→

メスリ山→行燈山→渋谷向山)にわたる200m以上の巨大前方後円墳が築かれた唯一の

地域ということができる(白石2004)。

宮址伝承地の立地  8世紀に成立した記紀および苹安時代の延喜式には、歴代天皇(大王)の

宮址,行宮·離宮などの記録が遺されている(古谷1988),すべては奈良時代までに成立した

伝承地であるが、近年、桜井市脇本遺跡の発掘調査では、古墳時代の大規模建物や手工業生

産跡が明らかにされ、欽明天皇磯城嶋金刺宮伝承地に有力者(首長)の「居宅(居館)」が存

在した可能性を示すものとなった。他にも、石垣をめぐらした周濠をもつ大規模な区画で知

られる天理市布留遺跡(杣之内地区)と共に当該地域における第4の空間の在り方を明らか

にしつつある。

 一方、奈良盆地における宮址伝承地の比定地の分布には、興味深い傾向が窺える。神武お

よびいわゆる欠史八代と比定不詳例を除いて、推古朝までの宮都および行宮(離宮)伝承地は

約80カ所が伝えられている。(天皇と宮の名),このうち、行宮·離宮·湯宮などを除いた71ヵ所中、

奈良県内には32ヶ所あり、伝説的説話や重複例と考えられる例を除けば、実に半数が奈良県

内に所在していたことになる。しかも、分布は吉野郡·北葛城郡にもみられるが、圧倒的に

磯城郡(天理市·桜井市他)および高市郡(明日香村·橿原市他)に集中している。また、これら

の伝承地の標高に注目すると、平野部では高市郡飛鳥地方の遠飛鳥宮(允恭:約100m) ·
隈廬入野(檜垧之入野)宮(宣化:約90m)と磯城郡の長谷朝倉(泊瀬朝倉)宮(雄略:約100m)

長谷列之木(泊瀬列城)宮(武烈:約110m) ·磯城嶋金刺(師木嶋大)宮(欽明:約110m)を除け

ば、おおむね標高60~80mに位置する。これは先に触れた水稲耕作の適地に隣接したと考え

られる弥生~古墳時代集落より僅かに高い位置にあると考えられる。

宮址伝承地をめぐる空間構成  冒頭で述べたように、古墳時代の社会は4つの空間から構成

される。奈良盆地においては、標高70~80mを中心に分布するオヤマト古墳群および外山古

墳群と一段低い位置に宮址伝承地が存在する関係が認められ、さらにやや低い標高50~60m

付近に水田耕作地と集落域が隣接して営まれた関係が想定される。これらは典型的な大型古

墳群と居宅(居館)と考えられている群馬県保渡田古墳群と三ツ寺 I 遺跡および周辺集落の関

係に近似し、両者は小河川を挟んで約1km離れて対峙している。

 このように考えれば、奈良盆地における大型古墳群と宮址伝承地は、古墳時代農耕社会に

おける地域空間の構成「他界→居宅→居住-生産J (→は標高差)を典型的に示していると捉

えることができると思われる。

4、三輪山祭祀の変遷

歴史的位置,地勢 三輪山は、いわゆる笠置山地の浸食残丘の一つで、美しい円錐形の山容

をもつ独立丘である。奈良盆地のいずれの地からも望むことができる神奈備山として、古く

から信仰の対象とされてきた。全山が大神神社の御神体として禁足地とされたことから、自

然的·歴史的景観が良好に保たれている。また、奈良時代の『記紀』『万葉集』の説話,歌謡

などにも数多く登場し、神の坐す山として古代から語られ、7世紀以前の奈良盆地における

歴史的景観にとっても、もっとも重要なランドマークの一つである。西南麓には、7世紀の

飛鳥諸宮に先立つ都宮伝承地が数多く分布する。三輪山祭祀の主体は大和盆地に起源する王

権またはそれと密接に関わる勢力であったと想定され、古墳時代の王権に関わる祭祀の在り

方を示す重要な遺跡である。

三輪山祭祀遺跡群  三輪山に関する祭祀遺跡は、三輪山西麓に広く分布する。大神神社後背

の山麓と巻向川と初瀬川に挟まれた扇状地に拡がっており、現在までにおよそ30ヶ所が確認

されている 。祭祀遺物の年代観はほぼ4世紀後半から7世紀後半までに限られ、弥生時代
と律令国家が成立した奈良時代以降の遺物を含まないことに特徴があり、存続年代は

古墳時代(3世紀後半~ 7世紀)の大半と重なる可能性が高い。まさに、日本列島における古

代国家成立期である古揶寺代の展開とともに形成された遺跡群で、古墳時代祭祀のあり方と

性格を具体的に示す最重要地域と捉えることができる。

山ノ神祭祀遺跡 桜井市三輪(旧三輪町字馬場)字山ノ神茶臼山の比較的平坦な舌状の尾根

上に所在し、初瀬川河床とは約70mの比高差がある。1917(大正7)年、奈良県教育委員会に

よる発掘調査が行われた(高橋他1920)。出土遺物は、小型素文鏡,勾玉(碧玉製·水晶製・

滑石製)類や土器類の他、滑石製模造品(勾玉形·剣形,有孔円板·臼玉)と土製模造品(案〔ツ

クエ〕形·箕[ミ]形·櫛[クシ]形.竪臼[タテウス]形・竪杵[タテキネ〕形.・坩〔ツボ〕]形·柄杓[ヒシャク〕形
·高坏
形)がある。これらの遺物には一定の年代幅が認められ、4世紀後半~6世紀に重層

的に形成されたと考えられている(寺沢1988),。A::小型素文鏡·玉類から構成される4世紀後半

~5世紀前半、B::滑石製·土製模造品·子持勾玉を中心とした5世紀後半~6世紀後半、

C::須恵器片にみられる6世紀後半を中心とした時期である。

 このうち、多様な土製模造品はB期にあたり、平安時代"延喜式に記載される酒造具との

類似が指摘(大場1952)されており、組合せは「酒料(酒造雑器)」とされた道具に該当すると

考えることができる。当時の人々に酒造神として観念されていた三輪山神の性格の

起源を具体的に示す資料として重要である。

三輪山伝承  一方、大田田根子伝承は『筑後国風土記』逸文との類似が注目される。

また、『日本書紀』崇神紀の記事は自然神に対する人間の無力さを語っており,『常

陸国風土記』行方郡条は、自然に立ち向かう開発者(人間)と自然神との関係の変化を如実
に示
す記事として知られる。ほかにも風土記·記紀には、神と人の間にさまざまな

葛藤があったことを窺わせる多数の伝承を伝えている。これらの話型を類型化すると、おお

よそⅠ::荒ぶる神を避ける一方的な関係と、Ⅱ::特殊能力の人物を祝として鎮めさせる場合、

Ⅲ:自ら祝として鎮める場合、Ⅳ:荒ぶる神を駆逐する関係があり、時代の変化と共にこれ

らは荒神伝承Ⅰ→Ⅱ →Ⅲ→Ⅳと展開してきたことが窺われる。これらの伝承の変遷は、古墳

時代における神マツリの手続きの変化を反映していることを示唆していると思われる。

古墳時代の神マツリ 原始·古代社会においては、社会の基盤である狩猟·農耕を左右する土

地の神に対する祭祀がもっとも重要な要件であり、各地域の首長にとっては如何に神マツリ

を成功に導くかが重要な仕事であったことは想像に難くない。「神ー人」の基本的関係は元来

「神一巫覡ー集団」の構造をもっており、日本の奈良時代以降の文献によれば、神は「荒魂・

和魂」の状態が交互に表れると観念されている(小松1977)。このように考えれば、上記の諸

伝承も、次のような基本的関係性の変化に位置づけることが可能と思われる。

    ・「祟り神=荒ぶる神ー祝[ハフリ] (巫覡)ー集団」.

三輪山祭祀の諸段階 このように考えれば、大田田根子伝承の話型は祟り神に対する祭祀が

不能な状態から、神意(「占問」)よって探し出された人物が神マツリ(祭祀)で鎮めるという内

容である。また、神マツリの祭祀を実修する際には、さまざまな模造品の使用や酒造が必要

な要素であったことも注目される。このように山ノ神祭祀遺跡B段階土製模造品群は主

に酒造の過程を表現しているとみられ、また奈良時代に記録された荒神伝承Ⅱ段階に相当す

る可能性が高いと考えることができる。

 その後、三輪山祭祀遺跡群における祭祀の中心は、出土遺物の分布·変遷から見ると次第

に標高を下げて西麓全体に拡大したとみられ、須恵器と子持勾玉を中心とした祭祀に移行す

る。これは三輪山祭祀が神体山の山麓における祭祀から、集落域における祭祀への変化を示

しており、特別な呪力をもつ巫覡による直接的な神マツリ(荒神伝承Ⅰ・Ⅱ段階)から、地域首

長による間接的な神マツリ(荒神伝承Ⅲ・.IV段階)へと変化したことを示唆しているように思

われる。






井真成の墓誌(せいしんせい・現代語訳)

尚衣奉御(しょうらいほうぎょ)を追贈された井公の墓誌の文《序と并せる》

公は姓を井、通称真成、国は日本といい、才能は生まれなが

らに優れていた。それで命を受けて遠い国へ派遣され、中国

に馬を走らせて訪れた。中国の礼儀教養を身につけ、中国の

風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはな

かったに違いない。だから、誰が予想しただろう、よく勉学

し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬ

とは。開元二十二年(七三四)正月□日に官舎で亡くなった。

年齢は三十六歳だった。皇帝(玄宗)はこれを傷み、しきた

りに則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り

葬儀は官でとり行なわせた。その年の二月四日に万年県の滻

河(きんが)の東の原に葬った。礼に基づいてである。ああ、夜明けに

柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立て0

て哀悼の意を表わした。真成は、遠い国にいることをなげき

ながら、夕暮れに倒れ、荒れはてた郊外におもむいて、墓で

悲しんでいる。その言葉にいうには「死ぬことは天の常道だ

が、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋めら

れたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

(東京国立博物館、朝日新聞社編『遣唐使と唐の美術』より一部改変)
 遣唐使⇒⇒⇒

井真成の墓誌は、平成16年(2004)に中国

陝酉省西安市の郊外(郭家灘付近と推定)の

工事現場で発見されました。身と蓋の上端

の欠損はこのときに加えられたものです。

幕誌は石製で、蓋と身がセットになります。

身は縦40.3㎝、横39. 2㎝、厚さ10, 5cmを測

り、中国の墓誌としては小型の部類に属し

ています。表面を研磨し、マス目に罫線を

引き、端正な楷書体で171文字を刻んでい

ます。表面の左側約三分の一は空白が残さ

れ、周縁の装飾も欠いています。

蓋は、縰37.9cm,横37, 3cmの扁平な截頭方

錐休で蔵面に篆書体で墓誌の標邂12文字を

刻んでい决す。



天皇大友

 日本の歴史には皇位を簒奪して天皇になった例はないとされている。それを試みた者はあるが成功

していない。天武にその可能性があったとすれば、「国史上ゆゆしき問題」である。ということから、

学者間に「大友即位·非即位」の論文が多く出され、論争もなされてきたのであろう。
非即位説は絶対か

 これまでの学説を整理すると、次のように分類される。

大友皇子天智の死後すぐに即位した。天皇として近江朝廷に七カ月間在位した。

  徳川光圀編『大日本史』、伴信友『長等の山風』、安積澹泊「大日本史論讚」。ほかに新井白石

  ・湯浅常山(備前岡山の儒者)など。それに明治政府。

②大友皇子は即位しなかった。しかし、近江朝廷の実力者であった。

  江戸中期の谷川士清『日本書紀通証』、明治の久米邦武などのほか、坂本太郎·直木孝次郎
  田中卓·北山茂夫氏など現在の歴史学者。

③天智の死後、その皇后倭姫が即位し、乱後、天武天皇(大海人皇子)に譲位した。

  喜田貞吉。

①は書紀の改冊説と結合し、②は近江朝廷に七カ月の空位説につながり、③は中つぎ天皇説にむす

びつく。

 こうして見ると、①の説は江戸期と明治初期の学者に多く、②の説はとくに戦後の学界に多く、

は明治末の喜田貞吉1人ということになる。

 さらに、現在の学界では①の書紀改冊説は否定し去られ、③の倭姫即位も根拠薄弱として賛成がな

いとなれば、②の「大友皇子は即位しないままに近江朝廷の実力者であった」という説がひとり強力

で、これが通説といっていいようである。①の大友即位説は「学界において信用を失墜」している

(田中卓氏説)ようにさえみえる。

皇位相続の「ルール違反」
 壬申の乱の経過をしめくくっていえば、吉野の大海人皇子がはじめから近江朝廷に
たいして計画的な攻勢に出ていたことがわかる。いまその概観をふりかえる。

 兄天智天皇が死を前にしてわが子大友皇子を太政大臣にし、これをかためるのに左右大臣,御史大

夫の五閣僚による新官制(太政官制度の先駆)をもってしたとき、大海人は自己が皇太子の地位から追放

されるのを予知し、かつは身の危険を感じた。

 異母兄古人皇子は、かつて蘇我入鹿を背景に天智の皇位継承の競争者だった。大化改新直後、古人

は天智による災難をおそれて皇位を辞退し出家して吉野に入った。それでも謀反をはかったという口

実で天智のさしむけた軍兵のために殺された。大海人の吉野隠遁のばあいとまったく同じだ。がんら

い天智には冷酷な血が流れている。皇太子のとき、罪なき功臣蘇我倉山田麻呂を攻めてこれを自殺せ

しめ、他人儳(ざん)を信じての誤りということにした。叔父孝徳天皇難波宮に置き去りにし、その皇后

をはじめ百官をひきいて飛鳥にひきあげ、ために天皇を悶死せしめた。孝徳の子、有間皇子は、中大

兄の嫌疑を避けるため狂気を装って時流から脱れようとしたが、それでもだめで、中大兄は斉明天皇

策してこれを絞殺させた。彼は猜疑心が強く、その処置は非情である。そういう実兄の性格や行動

を、いつもそばについていた大海人は十分に知りぬいていた。.


大友非即位説

 大友皇子が天智の死後に即位していたかどうかは、戦前では天皇制にかかわる問題と

してタブーであり、あまり大きな声でいうことができなかったが、戦後はその遠慮が

とれて論文が多く出るようになった。解禁から研究が活発になったのはいくらか「邪馬台国」論に似

たところがある。明治三年に新政府は大友皇子を正式に天皇に加え、天智と天武のあいだ(六七--~六

七二)に一年足らずの在位をみとめて「弘文天皇」と諡号(おくりな)した。 

 これで「論なし」といいたいところだが、いまだに学界に異論が多いのは、明治のこの弘文天皇決

定が、徳川光圀が編した『大日本史』などに拠るだけであって、根本資料の『日本書紀』には大友皇

子が天智のあとに即位したとは書いてないからである。

 私見をいえば、大友皇子の即位を記すのは、平安時代皇統が天智系にかえり、天智天皇の功業を強

調するようになった風潮のもとに、大友皇子に対する同情の高まったことの所産ではあるまいか。真

相は書紀の記すように、即位しなかったのであろうと思う。きわ立った即位の式を行うような心のゆ

とりはなかったにちがいない。即位はしなかったが、実際の大権が大友皇子にあったこと、したがっ

て近江朝廷の主が存在したことは、認めなければなるまいと思う」(坂本太郎r日本全史』2)

 明治二十年代の教科書に載っていた「壬申の乱」が、その後、国定教科書からどうして消えたのか。

喜田がまだ文部編修官として国定教科書にあたったとき、壬申の乱が教科書から削除された。

喜田はその事情を『喜田貞吉述·国史之教育』(明治四十三年)で述べている。その要旨はこうである。

 普通教育上タメにならぬ歴史上のできごとは教えてはならない。

児童の頭へよけいなことを多く注入する必要はない。国史教育の真髄は、善良な国民を作るのが目的
であるから、善いことだけ学んで
十分我が国の善美ないわれを知り、これを顕彰する義務のあることを
自覚させるところにある。した
がって普通教育に従事する人は、歴史上の事情を熟知していても、
教育の目的に照らして授業しなければならず、普通教育と研究上の問題とはきびしく別に分けなけれ
ばならない。こうした立場から、
国定教科書は、たとえば壬申の乱のように教育上有害無益の心配のある
ものは削除してある。

 喜田は、壬申の乱について「此の出来事を精しく説明し様ならば甚だ都合の悪い訳合のものとな

る」といっているが、これは、つきつめてゆけば大海人皇子が叛乱をおこして大友天皇から皇位を篡

奪したことにつきあたることをさす。壬申の乱は「児童の頭へ余計なことを多く注入する」代表例だ

ったのである。

 喜田のこの考えは、天武天皇による皇位簒奪というのを児童だけにかくしたのではなく、彼が新し

くとなえた「倭姫即位」説によって学界や国民からもかくした、といえるのである。

 そこで、天武篡奪の姿を消す方法として用意されているのが自説の倭姫即位説である。その女帝が

いたなれば、「前皇太子大海人皇子と、現皇太子大友皇子、否寧ろ大友皇子の臣僚との戦争」である

から「大海人皇子が天皇を弑したと云ふ訳にはならぬ。その間に余程理屈が違ってくる」という理屈になる。


  壬申の乱  松本清張




崇仏・排仏

 蘇我物部氏らの対立の背後には両者の勢力争いのほかに、百済と親しい蘇我·大伴氏、新羅と親

しい物部·中臣氏らの外国結合による相剋があった、とするのは歴史家で仏教史に通じている辻善之

助氏である。

 蘇我・大伴氏らが「親済党」であったのは理解できるとしても、物部·中臣氏らがなぜ「親羅党」であった
かは、辻氏の所論ではその経過がはっきりしない。蘇我·大伴との対立という結果からそう
決めてしまった
ようなところがある。

 だが、渡来人が多くなって、かれらが政局を背後から動かす力になってきたことは、官界への登用

(技能者の採用などで)などから考えられることだし、かれらが百済·新羅の南朝鮮を二分する勢力の影

響をうけていることも首肯できる(これをさらに一歩すすめたのが、七、 八世紀の日本の歴

史をこの朝鮮移住民の二大勢力の抗争とみる説である)

 これにたいして、蘇我·物部氏らの崇仏·排仏論争は有名だが、この書紀の記事は実際ではなく、

たぶんに書紀の編者があとから造りあげたものである。したがって蘇我·物部氏の勢力抗争などはな

く、書紀の記載にもそれが見えない。との説を出しているのが、蘇我氏の研究に精力をそそいでいる
日野昭氏(龍谷大学教授)である。

 では、蘇我氏と物部氏の抗争はまったく存在しなかったかというに、それは仏教問題とはべつに書

紀は政争を述べている。すなわち蘇我稲目の次女小姉君と欽明天皇との間に生まれた穴穂部皇子が皇

位を狙って失敗した事件がある。馬子は穴穂部も倒し、その弟の崇峻天皇も殺しているので、彼は自

分のすぐ下の妹の堅塩媛を可愛がり、末の妹の小姉君を排していたようだ。これ

は何らかの事情で堅塩·小姉両派に対立があったことを想わせる しかし、物部守屋は直接にはここ

に登場していない。

 このようにみてくると、「蘇我氏と物部氏との抗争の記載は、奉仏の可否をめぐる記事と、穴穂部

皇子の皇位覬覦をめぐる記事との、二つの系統において述べられているのみであって、両氏の抗争を

それ自体に伝えているものは全く存在しない」のであるから、仏教と神道の「いわば一種の宗教戦争

ということは事実でなく、そのように伝えたのは破仏の罪を強調し、かようなことのないように教化

しようとした仏家の所伝が、書紀の資料とされたためと解さざるをえない」と日野氏は述べこのよ

うに、蘇我氏にとってはその政権樹立のための、もっとも華やかにして重大な意義をもつ、物部氏と

の内乱に関する書紀の記載が、かくも貧弱であり、その史実性を立証するに足るものの乏しいのは、

「これらの記載が蘇我氏自身に出るところの資料によらなかったことを示すものであり、それはまた

そうした資料のなかったことを意味する。書紀の編纂されるころには、すでにこの大化前代の重要な

内乱を伝える確実な記録はほとんどなく、それが畵紀において表面的に多彩にみえる叙述をえたの

は、上に述べたような次第によるほかはなかったと考えられる」

 この所論はかなり説得力があり、示唆されるところが多い。穌我・物部氏の争いを受仏の可否から

発する「一種の宗教戦争」との見方が多い歴史観に強い反省を与えている。

日野氏の論文を長く紹介した所以である。

抹殺された蘇我氏の事蹟
  はじめに述べたように、強力な諸豪族を倒していったのは蘇我氏と天皇家の共同作戦で、物部守屋
を河内の渋川に攻め殺したときなど、その連合ぶりがよくわかる。天皇家のほうは、白瀬部皇子(のち
崇峻天皇)·竹田皇子(推古女帝の子)・厩戸皇子(聖徳太子)・難波皇子(敏達の子)・春日皇子(同)など
諸皇子を総動員させている。

 物部守屋を最後にして有力な諸豪族のほとんどが滅亡すると(大伴氏は金村のときに勢力失墜)、

あとは蘇我氏と天皇家だけになる。共同の敵がなくなれば対立だが、この関係はすぐにはそうならなかった。

さきにもいうとおり、蘇我馬子が完全に天皇家を押えこんでしまったからだ。
 だが、この実態は書紀が伝えていない。蘇我氏の資料が湮滅し
たからではなく、反逆者にしたた

め、天武系の書紀編纂者によって抹殺されたのである。物部氏との抗争に書紀が語ることの少ないの

も、「蘇我氏自身に出るところの資料によらなかったことを示すものであり、それはまたそうした資

料のなかったことを意味する。書紀の編纂されるころには、すでにこの大化前代の重要な内乱を伝え

る確実な記録はほとんどなく」という前掲日野氏の論も、じつは蘇我氏側の記録や資料が、書紀の編

者に故意にとりあげられなかったといえるのである。

 このことは書紀の壬申の乱の記事に、弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷の記録·資料がいっさい抹殺

されていることと共通している。

女帝の誕生

 蘇我馬子は、姪の炊屋姫(稲目の長女堅塩媛と欽明天皇との間に生まれた。敏達天皇の皇后)を敏達天

皇の没後に即位させた。日本最初の女帝推古天皇である。

 敏達には、妃の広姫が生んだ押坂彦人大兄皇子と、炊屋姫の生んだ竹田皇子との二子がいるが、敏

達のあと、どちらを即位させるともきめかねているあいだ、暫定的な天皇として炊屋姫の推古天皇と

いう実現になった。いわゆる中継ぎの天皇である。皇極(斉明)持統元明・,元正・,孝謙(称徳)の諸女帝
みなこれに倣う。ただし、推古のばあいは、二皇子とも早く死んだので、三十八年間もの長期在位とな
った。

 大臣馬子のやりかたを見ると、彼の意志で推古を天皇の座にすえて国政をとっている。馬子はこの

姪の天皇をロボットにして自在に執政をおこなっているが、両者の間はきわめて円滑であった。この

ことから「この二人の関係は伯父と姪との間をこえて、奈良時代の藤原仲麻呂と孝謙天皇、僧道鏡

天皇(孝謙の重祚名)のような特殊な関係にまで進んでいたかもしれない。そこまでいう証拠は何

もないのだが、形としてはそのような関係を思わせるものがある」(直木孝次郎『日本の歴史』第二巻)とい

う推測は興味深い。

 馬子が死んだ(推古三十四年,六二六)翌々年に推古が病気になって没したのも、大黒柱とたのむ執政

を失った気落ち以外に、そうした「夫」を喪ったような落胆悲哀が原因したのかもしれない。

 厩戸皇子を立てて摂政にしたのも馬子である。幼にして聡明だったから推古の意志で天皇代行の摂

政にしたというのは聖徳太子を神格化した見方で、それはのちに僧侶団が

太子信仰をもりあげるために太子を超人化したのである。

 厩戸皇子が推古のもとで摂政になったのは、この皇子が、堅塩媛の子用明天皇と、小姉君の娘穴穂

部間人皇女との間に生まれた、いわば対立した姉妹の同じ孫という「結び目」にあったからだと解さ

れている(直木孝次郎氏前掲書)。

 だが、もう一つの見方からすれば、馬子は、その排していた小姉君の陣営を物部守屋敗死を機に掃

滅したので、あと彼に敵するものはなく、ここで小姉君派の残存勢力(微弱なものになっていたが)の宥和

のために厩戸皇子を摂政に立てたのではあるまいか。とすれば、ここにも馬子の政治的手腕をみるこ

とができる。

「逆臣」馬子の業績
 聖徳太子がその歴史上の名声にもかかわらず、その実体がきわめてうすいこと、そうして太子の業績
といわれるものの大部分が、馬子の執政の転化であ
り、それは書紀の編者の「逆賊」馬子の業績抹殺
からおこっている。

任那問題というよりもむしろ百済援助の目的にあった新羅出兵計画の「外交」が、

百済系の渡来人を総轄していた馬子の強い意志とみることによって、そのへんの事情がはじめて理解

できるのである。

 馬子が造立した寺とされているのは、四天王寺・飛鳥寺(のち法興寺) ・坂田寺・蜂岡寺(ほうこう・のち
広隆寺)
などだが、このあと蝦夷の代に豊浦寺·大官大寺(のち大安寺寺丶)が造られる。書紀には、推古
二年に、
天皇が三宝興隆の詔を発し、臣・,連らが競って仏舎(寺)を造ったと書いてある。これらの臣·連が
どのような名の寺を造ったかはよくわからない

 豊浦寺(尼寺)を勅願寺としたのは書紀の編者があとから書きかえたのであって、蘇我蝦夷の造立に

なることは強く推定される、と日本建築史の福山敏男氏はいっている。

「毛人(えみし・蘇我蝦夷)の名がこの寺の縁起に密接な関係をもってあらわれないのは、前記のように、
後世
の縁起作者が、この寺を推古天皇の勅願寺であるとして主張せんがために、それ以前の、この
主張に
支障をきたすようなあらゆる古伝を抹消したものと思われる。毛人が皇極朝に没落してから朝敵
とし
てみられたことも、毛人の名を隠すことがそれ以降の時代にあっては有利であったに相違なかった」

(『日本建築史研究』)。 

 このことは、もちろん蝦夷についてだけでなく、蘇我馬子の功績が「逆臣」にみなされて抹消さ

れ、そのことごとくが聖徳太子の功として転移された、とする考えに通っている。

 ただ、蘇我氏が率先して仏教を輸入したことは知られすぎている事実だから、仏教が国教的になっ

た書紀の編纂当時でも、これだけは抹消しようがなかったのである。

 もう一つ、寺を多く造った原因として考えられるのは、蘇我氏がその隷下の帰化人技能者たちに仕

事を与えることであったろう。これらの技能者いわゆる工人の数がどのくらいあったかはもとより不

明だが、あとからあとからとつづく渡来の工人は溜りに溜って一万人以上にも達していたであろう。

 蘇我氏はこれらを全部抱えこんでいなければならなかった。かれらを遊ばせておくわけにはいかな

い。そのための寺院建築であり、土木工事(開鑿工事が爆発的にふえているの)であったろう。人を遊ばせ

ないために仕事をつくるというのはいまも昔も変らないのである。

 書紀は敏達六年(五七七)十一月の条に百済王が僧尼ととに「造仏エ·造寺工」などを贈ったとあ

り、同じく崇峻元年(五八八)には寺工.鑪盤博士(仏塔の相輪を造る工人)・瓦博士(瓦造りのエ人)が贈られ

たとある。これは国際間の公式ルートで来たものらしいが、そういう工人は前々から民間ルートで続

続と渡来していて、前述のように蘇我氏のもとに多く集まっていたにちがいないのである。
   壬申の乱  松本清張




近江京の址

 朝廷軍は瀬田の最後の防衛線を破られて総くずれとなった。『書紀通釈』の著者は、朝廷軍が瀬田で東軍と
対峙しているとき、しめし合わせた別働隊が東軍の背後にまわるは
ずだったが、その約束を違えて来なかった
ためにむざんな敗戦になったといっている。
はたしてそのとおりかどうか確証がないのでわからない。

 なおついでながら、この乱の経過に柿本人麻呂の長歌を随所に入れたのはこの『書紀通釈』にはじまる。

 朝廷軍が総敗退したので、東軍の先鋒村国男依の部隊は、橋渡して粟津岡に陣した。

 戦闘はかたづいたが、あと敗兵の捜索と処分の仕事がのこっている。粟津岡は大津市膳所だ。

 近江京があとで述べる遺跡候補地だとしても膳所からは北約十キロの湖岸西にある。東軍はすでに天智

らいの新京を押えたのである。

 近江京も東軍によって焼かれたと思われる。火を放ったとすれば、やはり終始、名誉ある先鋒隊だった
村国男依の軍隊だったであろう。敵の本拠を灰燼にすることは、すなわちそのまったき絶滅を意
味する。
―近世の大名が自城をみずからの手で炎上させて逃げるのは、敵による滅亡宣告の恥辱を
まぬがれるため
である。

 近江京の湮滅(いんめつ)は、柿本人麻呂が乱からわずか二十年後にこの地を訪れたときすでに「大宮は
此処と聞けども大殿は此処と言へども春草の繁く生ひたる」(『万葉集』二九)のありさまだったから兵火に

よると考えるほかはない。

 近江京址は二つの候補地がある。一つは宮殿跡とおもわれる南滋賀町廃寺跡で、宮殿あとに寺が建てら
れたという推定で、そこから発掘される瓦は、その瓦の文様から「サソリ文瓦」とよばれ、寺院
につかわれた
瓦とはあきらかに異なるので、これが寺の建てられる前にあった宮殿の瓦ではないかと
いうのがその根拠で
ある。もう一つはその近くの崇福寺跡で、出土した舎利容器などの見事さからい
って近江京址につながりが
あるとみられている。いずれも『扶桑略記』『続日本紀』などのわずかな
史料から推測したものである。
候補地は何回も発掘調査されたが、いまだ確たる宮址が判明しない。

ほかに穴太説がある。

 二十三日(七月)、村国男依らは、朝廷方の将犬養連五十君らをとらえて粟津の広場で斬った。

 天皇(大友皇子)は、逃げたがよるべきところもなく、 山前に隠れて、自経(縊死)した。 

 山前については諸説があるが、いまの京都府乙訓郡大山崎町が有力視されている。天皇は西へ走ろ

うとしたが、大和から西北方面にまわった吹負部隊に前面をさえぎられ、ここで進退を失ったという推測
からである。

 しかし、天皇ははたして「自経」だったのか。大海人軍の部隊がその行方を捜し出して捕え、殺害したのでは
ないだろうか。その首は高市皇子が不破に持参して、大海人皇子の実見に供したと思え
る。敵将の首を見ない
では、その死の確認ができない。だがそれは皇位簒奪につながるから、書紀は
そうは書けず、「自経」にしたと
わたしは考えている。

戦犯処分の虚実
 
二十四日、大海人方の将軍(部隊長)らはことごとく大津に集合した。
左右大臣、大納言(御史大夫)以下諸高官
を捜索して逮捕した。

 二十六日、将軍らは、大海人のいる不破の大本営に向かった。「戦犯」の処分と戦後処理について大海人の
指示を仰ぐためだ。

「大友皇子の頭を捧げて、営の前に献ず」

と、書紀はわずか十一字(原漢文)でかたづけている。それ以上は何もつけ加えない。

 一ヵ月後の八月二十五日、大海人は高市皇子に命じて朝廷群臣に判決を下させた。

 重罪八人は極刑である。右大臣中臣連金に斬罪をいいわたし、浅井の田根(滋賀県東浅井郡北部の地)で

処刑した。金は藤原鎌足の従兄弟という(延喜本系帳)。

 左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等、ならびにその子と孫、それに中臣連金の子、蘇我臣果安

(七月二日、山部王を犬上川畔で殺して自殺)の子などはことごとく流罪とした。その他の者はすべて罪をゆる

した。

 これでみると、右大臣の中臣連金は近江朝廷側の「主謀者」に仕立てられたらしい。かれは第二の藤原鎌足
たらんとしたという説があるくらいである。大海人方の大義名分からすると左右大臣、大納
言ともに「君側の奸」
の五重臣ということになる。

 他の者をことごとく赦免したのは一見「寛大な処置」に見えるが、その底には、大海人が皇位を武力で奪ったと
いう後ろめたさがあったのではあるまいか。

 このように一ヵ月も裁判にかけたのだから、訊問は不足なくおこなわれたと思う。「被告」らの供述も十分に得ら
れたに相違ない。それら訊問調書や供述書の内容を書紀が伝えてないのは、前に何回
となくふれたように、

それを出すと大海人による天皇篡奪の事実関係が明るみに出るからであろう。

 もう一つ考えられるのは、書紀が編集されるころには、それらの記録が保存されてなかったことである。つまり
同じ理由によってそれらが焼却されたことだ。新しい権力側による証拠の湮滅である。

 もしそうであるなら掲載しないのは書紀の罪でないことになるが、それもいえない。なぜなら、壬申の乱に関する
近江朝廷側の内幕が編纂時にまったく伝えられなかったとはいえないのであり、記録が
なくても書紀は他の記事
に風聞や他人の談話を資料として豊富に使っているからである。

  壬申の乱  松本清張







風水説による都城

 持統天皇藤原宮でつくったという「春過ぎて夏来たるらし白栲の衣乾したり天の香具山」(『万葉集』二八)
はあまりにも有名である。持統は満ちたりた気持ちで宮殿から大和の季節の移りかわりを眺めた。
この歌の次に柿本人麻呂の「近江の荒れたる都を過ぐる時」の歌(二九・三〇・三一)がならんでいるのは
『万葉集』編者(大伴家持という説が強い)の皮肉か。

 人麻呂はこの長歌のなかで都を大和から淡海(近江)に移した天智の気持ちが「いかさまに思ほしめせか」
と疑問を抱いている。天智による近江遷都の原因には、白村江の戦いに日本軍が敗れ、南朝鮮
での発言権
を失ってからの国際危機(唐軍が来攻するかもしれないという危惧)にそなえたこと、旧蘇我氏の勢
力が強く残
っている飛鳥を避けたこと、飛鳥地方の百済系帰化人(蘇我氏と結びついていた)よりも近江地
方の新羅系帰
化人の勢力地をえらんだことなどの諸説がある。だれもが「いかさまに思ほしめせか」
と天智の意図をはかり
かねるところだ。

 が、人麻呂のいう「いかさまに思ほしめせか」はそういう理論的な疑問ではなく、天智への批判がこめられて
いる。これが天武体制にすっぽりとはまった宮廷歌人人麻呂の立場なのである。

 なお、万葉学者吉永登氏は「宮廷歌人」の存在に否定的だが(吉永登「宮廷歌人の存在を疑う」)、それは

その名称が官職制度にないだけで、歌づくりの熟練者が天皇·皇子らの代作や挽歌をつくって奉仕した点では
「宮廷歌人」の名でよんでよいと思う。

 また、人麻呂の作ではないが「藤原宮の御井の歌」というのがある。これは藤原宮が東西南北に山をひかえ
た地形をいっているのだが、それは「天の御蔭(みかげ) 天知るや
 日の御蔭の 水こそは  常(とこしへ)に
 
あらめ 御井の清水(きよみず)」の字句で終わっている。

 この「御蔭」について流布本、たとえば岩波版日本古典文学大系本の『万葉集』の頭注には「天の陽を避けて
蔭となる所。殿舎をいう」とあるが、これはあまりに常識的な解釈である。この「井戸」や「清水」は風冰説にいう
「水を得る」ことであり、御蔭はミホト、つまり女陰(ほと)の意である。風水説による地形がそもそも女陰をあらわ
しているのだ。この地想が墓にも家宅にも都城にも適用された。
 「御蔭」がミカゲでなく、ミホトと読むことでは安寧天皇陵を「御蔭井上陵」(みほといのうえのみささぎ)とよぶ例が
ある。この陵は畝傍山の西南にあって、まさにホトの地形になっている。山城国の御蔭山、播磨国神崎郡の御蔭
郷もいまはミカゲとなっているが、もとはミホトといったにちがいない。後者には御蔭の曾坂山(そさか)に毘沙門窟
という岩洞がある。岩洞は女陰をあらわす。
 御蔭のミホトがミカゲに読まれ、これによって文字が「御影」(神戸市など)にかえられた。こうした呼称や文字の変
遷を普陀落(ふだらく)→二荒(ふだら)→二荒(にこう)→日光(にっこう・下野国)などの例に見ることができる。

  壬申の乱  松本清張



文楽 壺阪観音霊験記
 沢市内より山の段

 語り出しの 「夢が浮世か浮世が夢か」は『ままの川』、次の 鳥の声、鐘の音さへ身に沁みて」は

沢市が口ずさむ『菊の露』というように、思うようにならない遊女の身を嘆く地歌で、自らの不遇や

お里への負い目や嫉妬など沢市の複雑な胸中を暗示します。これに対し、お里は 
 「三つ違いの兄さん
と…」と、一心に夫に尽くしてきた身の上をクドキによって訴えます。己の卑しい
心を恥じた沢市は
ある決意を心に秘めてお里とともに観音堂へと参ります。


口説きの部分、

 「エエそりゃ胴欲な沢市様。如何に卑しいわたしぢやとて、現在お前を振り捨て 、
ほかに
男を持つやうな、そんな女子と思うてか。そりや聞こえぬ聞こえぬ、聞こ
えませぬわいな。
モ父様や母様に別れてから、伯父様のお世話になり、お前と
一緒に育てられ,三つ違ひの
兄さんと、言うて暮らしてゐるうちに、情けなやこな
さんは、生まれもつかぬ疱瘡で、目
界の見えぬその上に、貧苦にせまれどなん
その、一旦殿御の沢市様。たとへ火の中水の底,未来までも夫婦ぢやと、思ふ
ばかりかコ
レ申し。お前のお目を治さんとこの壺坂の観音様へ、明けの七つの
鐘を聞き、そっと抜け
出でただ 一人、山路厭はず三年越し。切なる願ひにご利生
のないとは如何なる報ひぞや。
観音様も聞こえぬと、今も今とて恨んでゐた.わし
の心も知らずして、ほかに男があるやう
に、今のお前の一言が、わたしは腹が立
つわ
いの」

 と口説き立てたる貞節の涙の、色ぞ真なり初めて聞きし妻の真,今更なんと沢市
が詫びの詞も涙声。文楽⇒⇒⇒    壺阪寺⇒⇒⇒  お里 沢市の墓⇒⇒⇒




茅原大墓古墳 盾持人埴輪

 初期ヤマト王権の発祥の地、纒向遺跡(桜井市)は3世紀初め~4世紀初めにわたって営まれた。遺跡内には
墓古墳を始め、最古級の前方後円墳が点在する。

 箸墓古墳から約600m南東にあるのが茅原大墓古墳(国史跡)だ。前方部が極端に短い帆立貝式古墳(ほたて
がい)で、4世
紀末~5世紀初めごろに築かれた。市教育委員会文化財課副主幹の福辻淳さん( 41 )は「王権の
中枢部がほかの地域
に移った後も、人々はこの辺りで生活し、古墳も造られました」と話す。

 福辻さんと一緒に墳丘の上をめざした。茅原大墓古墳は築造時,後円部は3段の階段状で、墳丘には石が葺か
れて
いた。だが、近づくと3段のはずの後円部が、5段ぐらいに見える。「後世に段々畑として利用されたためです。
畑の
石垣には古墳の葺石が使われていますよ」と福辻さん。時が流れるにつれ、古墳も生活の一部に取り込まれ
たようだ。

 墳丘に登ると、奈良盆地を一望できた。大和三山や遠く二上山まではっきりと見えた。築造時は周濠が巡っ
てお
り、西側のため池はその名残だ。

 古墳の範囲確認や整備のため、市教委は2008年から発掘調査を行った。

 10年から11年の第4次調査で、古墳のくびれ部から人の顔のような埴輪が見つかった。ただ、人物埴輪が作ら
るのは5世紀中ごろ以降で、茅原大墓古墳の築造時期とあわない。

 その後、一緒に見つかった埴輪の破片をつなぎあわせ検討を重ねた結果、盾持人埴輪(たてもちびと)の可能性
が高いことが分かった。

 埴輪は、すげ笠のようなものをかぶり、口が開き、笑っているようだ。目やほおの周りは顔料で赤く、ユーモラス

な表情に見える。ただ、実際は冑(かぶと)をかぶり、盾を持った武人の埴輪で、被葬者を邪悪なものから守るた
め置かれたと
みられる。

 盾持人埴輪の出土はほかの地域でも報告されていた。とくに5世紀に巨大な前方後円墳が造られた古市古墳群
(大
阪府)で多く見つかっている。福辻さんは「茅原大墓古墳の被葬者は、最新の埴輪の祭祀を採り入れることが
でき
た有力者だったのでは」と推測する。

 多くのハイキング客が訪れ山辺の道が古墳のすぐ近くを通っている。ルートを変更し、纒向遺跡の古墳群を通
ても、再び山辺の道に合流できるので、古墳が好きな人におすすめだ。

  朝日新聞 2019-1-11 (田中祐也)



駅鈴を乞う 壬申の乱より

 六月二十四日、大海人が東国(ここでは美濃方面)に行こうとすると、兵なくしては危険だ、

といさめる者があり、大海人はこの忠告にしたがい、男依らを返すため、大分恵尺・黄書大伴・逢志摩ら舎人

三人を留守司の高坂王のもとにやって、駅鈴をもらってくるように命じた。

 駅鈴は駅馬の首につける鈴で、留守司が保管している。この鈴を駅家に示せば馬を供給してくれる。いわば
通行の公認を意味する。

 東国に先発した村国男依らの道中危険を大海人が考慮して、その呼び戻しのため駅鈴を乞わせに恵尺らを
留守司のもとへ遣ったという解釈では話の筋が通らない。これは大海人一行が馬で美濃へ行く
使用のために
駅鈴を取りにやらせたという説(直木孝次郎『壬申の乱』)が合理的である。駅鈴は国衙(地
方官庁)に備えられて
いた鈴で、使者はこれにより、各駅から駅馬と食糧の支給をうける。道途の治安
維持のためだ。

 さらに恵尺らを留守司のもとへやる前に大海人はいった。

「もし鈴が得られなかったら、志摩はすぐにここへ戻ってそのことを報告せよ。恵尺はそのまま近江へ直行して
高市皇子·大津皇子を呼び出して、
伊勢でわれらと逢うようにせよ」

 高市皇子は大海人の長子、大津皇子は第三子だ。

 近江朝廷には、大海人の娘十市皇女(額田王との間にできた娘)が大友皇子の妃となっている。息子の大津皇子
も高市皇子もそこにいるのだから、
これが近江方を安心させたのかもしれない。

 じっさいに近江朝廷が美濃·尾張で兵をあつめ、早くから吉野を襲う準備をしていたなら、妃の十市皇女はともか
くとして大津·高市の大海人皇子の二子は幽閉するであろう。それがなかったこと
は、恵尺がこの二子の連れ出し
に成功したのでもわかる。このへんは書紀の造作がシリを割ってい
る。

 さて、恵尺ら三人は大海人のいいつけどおり、留守司高坂王のもとに行って、「皇太子の命令だ」といって駅鈴を
渡すように要求した。もちろん留守司はこれを拒否した。留守司は、たぶん飛鳥あた
りにいて吉野方の監視もかね
ていたろうから、皇太子の命だといっても吉野方の三人に駅鈴をわたす
わけはない。

 大海人は吉野に退くとき、天智の前ですでに自ら皇太子を辞めている。それなのにいま皇太子をふりかざして
駅鈴を役人から取ろうとするのは欺瞞行為である。
留守司が従う道理はない。

 駅鈴をことわられた恵尺は大海人にいわれたとおり近江へ直行する。志摩は吉野にもどって、鈴は得られなかった
と大海人に復命した。駅鈴を出させようとしたことから、大海人の吉野脱出の意図は
留守司高坂王に知られた。
警報はたちまち近江朝廷へとどくだろう。もはや、一刻もぐずぐずしては
いられなかった。

 この日、大海人の一行は吉野を出発した。あわただしいことで、大海人は駕がくるのも待てなかった。

吉野出立
 大海人皇子は「事にわかにして駕を待たずして」吉野を出立した。「駕」とは中国
流に天子の乗物になぞらえた
表現で(すでに大海人を天皇扱いにしているのは、かれを天皇と書いた記事に合わせるためか)、
このばあいは馬の
ことである。さいわいにも県犬養連大伴という者の鞍置いた馬に遇ったので大海人はこれを借り
た。妃の鸕野皇女
は輿に乗って従った。「輿」も中国流に皇后の乗物にたいしての表現で、ここも馬
のことである。

 このとき従う者は男二十数人と女(女孺=侍女に同じ)十人あまりであった。男は舎人が多いが、そのなかには
大海人の第二子草壁皇子と幼い第四子忍壁皇子とがいた。草壁皇子こそは鸕野皇女が腹をい
ためて生んだ子だ。
彼女はこの子がいちばん可愛い。

 一行はその日のうちに菟田(うだ)の吾城(あき・奈良県宇陀郡大宇陀町、『万葉集』安騎の野)に着き、地元民の好意
で食事にありついた。ついで甘羅村(かむら・大宇陀町の東方)をすぎるころに、猟師二十数人に会ったのでこれを
従者にした。また、土地の美濃王をよびよせて、これも従わせた。美濃王といっても小豪族である。

 菟田の郡家の近くで、湯沐の米を運ぶ伊勢の荷駄五十頭をつれる連中と遇った。荷駄の者はみな米を捨てて、供の
歩行者たちにその馬を提供した。

 大野(宇陀郡 生村大野)までくると日が暮れた。山道は暗く、前に進むことができない。村の垣をこわして取り、その先
に火をつけて松明のかわりとして先を急いだ。休憩もとらなかった。

 夜半になって隠の郡(なばりのこおり)に着いた(いまの三重県名張郡の西。)そこの駅家(近世の宿場にあたる)に放火
して
焼き、舎人らは村じゅうに「天皇がこれから東国に入られるところじゃ、者ども参れ」とわめきまわった。一人もくる者
がなかった。

 横河(名張川)に着くころに、黒雲があらわれ、その広さ十余丈にわたって天に横たわった。大海人は式(ちく・陰陽道の
道具)をとって占い「いまや天下二分のときであるが、わたしに天下を取れるらしい」と
いった。

 また急行して伊賀郡に着き、駅家に火をつけて焼いた。

 密集した民家の放火は味方の士気をふるいたたせる効果がある。と同時に住民たちに非常事態の起こったことを知
らせ、人心不安をあおり立てる。

 はたして中山(伊賀上野か)までくると、その国の郡司たちが数百人をひきつれて帰属した。

 夜明けごろに莿萩野(たらの・上野付近か)に着き、ここではじめて大休止となり、食事をとった。

 吉野を発ったのが二十四日(六月)の午後三時ごろと仮定して、それから翌朝まで、ほとんど休みなしの徹夜の行軍
だった。

   壬申の乱  松本清張






恭仁京 海住山寺

 京都府には長岡京·平安京の都の他、恭仁京という都が

西暦七四〇年に聖武天皇によって造営されました。その都

が置かれたのが現在の木津川市です。木津川市やその周辺

には奈良仏教の影響を受けた寺院が数多くあり、海住山寺

もその一つで、南山城屈指の古刹です。

海住山寺は国宝の五重塔でも有名です。現在、全国に五

重塔は六十基近く存在しますが、鎌倉時代に建てられたの

は、全国広しいえど、海住山寺の五重塔たったひとつなの

です。山の中腹に建つ海住山寺五重塔は山城国分寺や恭仁

宮跡、木津川や大和の山並を、また遠くには金剛·葛城山系

を見渡す位置にありますが、古代からの悠久の歴史を見渡し

ているかのような、そんな古刹でもあります。

天平七年(七三五)聖武天皇の勅願により、奈良東大寺の

良弁僧正によって開創されたと伝えられています。

その後保延三年(一一三七)灰塵に帰し、一山ことごとく
焼失しましたが、鎌倉時代の初め、承元二年(一二〇八)に
興福寺にいらっしゃった解脱上人貞慶により再建されました。
境内には国宝の五重塔、重要文化財の文殊堂、本堂、本坊、
奥の院などが建ち並び、その本尊の十一面観音菩薩立像
(重要文化財)は厄除の観音様として信仰を集めています。
かつて海住山寺は南都興福寺の末寺でしたが、
現在は真言宗智山寺派の法灯を護持しています。
 

 





阿古屋琴責の段続き(壇浦兜軍記より)

 なんと、優雅な拷問であろうか。

 きらびやかに簪をさした遊女独特の伊達兵庫の日本髪.色とりどりの刺繍を施した豪

華絢爛たる打ち 掛け。しかし遊女、阿古屋の心は沈んでいた。

 源頼朝を暗殺しようとしにいる平家の勇将、悪七兵衛景清の行方を鎌倉方に尋問され

るため、お白洲に引き出されたからだ。

 源平の合戦を背景に平家の残党景清の悲劇的な運命を描く 「壇浦兜軍記」。なかで

も「阿古屋琴責」は、景清の恋人で、京の五条坂の遊女阿古屋の尋問が描かれた場

面。現在、歌舞伎でも文楽でも、この場だけ上演されることがほとんどだ。

 「知らぬことは是非もなし。この上のお情けにはいっそ殺して下さんせ」と、とんと投げ
出す身の覚悟

 知らないと言い通す阿古屋。そこで鎌倉方は驚くべき拷問を考える。

 琴、三味線,胡弓の三曲を阿古屋に目の前で演奏させ、音色に乱れがあるかないかで、

景清の行方を本当に知っているかどうか判断しようというのだ。いわば、うそ発見器。

 古今東西、さまざまな拷問が行われてきたが、これほど美しくも優雅な拷問はほかに

ないであろう。古典芸能の美学である。

 遊女は金で売り買いされる悲しい身分だ。だが、そんな苦界にいるからこそ、阿古屋

には貫かねばならぬ女のまことがあった。景清という平家を代表する勇将の恋人で、そ

の子をおなかに宿しているという矜持もあっただろう。

 阿古屋は三曲を見事に演奏し、放免される。

 実は「阿古屋 」は、歌舞伎でも文楽でも、女形の特別な大役といわれている。

 歌舞伎ではここ20年ほど、人間国宝、坂東玉三郎のみが阿古屋を演じていた そこに

昨年12月、東京の歌舞伎座で、玉三郎の指導を受けた若手女形、中村梅枝と中村児太

郎が初役で挑み、注目を集めた。

 一方文楽でも、戦後は人間国宝の二世桐竹紋志が長く勤め、近年では、吉田簑要方
が持ち役としている。

 今月、大阪·国立文楽劇場で3度目の阿占屋を遣う桐竹勘十郎はいう。「自分が文楽

に入った当初は紋十郎師匠の独断場で、師匠に楽器を渡す役がついたとき、怖くて手が

震えたのを覚えています」

 歌舞伎の場合、阿古屋役の俳優が実感に舞台で琴 、三味線、胡弓を演奏しなくてはな

らない。文楽は人形なので演奏こそしないが、三味線や 琴、胡弓の演奏と合わせて、

いかに そこから音色が聞こえてくるよう演じなければならない。

 だが、阿古屋が、演じる人 を選ぶのはただ、演奏技術だけではない。音色の調べで心

中を表現 るという演技、そして、ほぼ「ひとり舞台」という状況で、舞台全体を支配

するオーラやカリスマ性も必要である。

 女形の夢の象徴、阿古屋。伝統が受け継がれていく姿を目の当たりにできる特別な役

といえる。

 夕暮れ、京都の五条坂を歩いた。閑静な大谷本廟を右に見ながら り五条坂を上がっ
ていく。ふと見上げると
薄暗い空に半月が白く浮かんでいた。この月は、阿古屋の悲しみ
を慰めていたのだろうか。  
   2019-1-6  産経新聞  古典の夢見る 亀岡典子  


 「コレサ女、その琴弾け。重忠がこれにて聞く」
と刀を杖におとがいもたせ
 「岩永殿もお聞きあれ」
と打ちとけて見えければ

 「コリヤなんぢや興がるわ、責め道具〱となんぞ厳しいことかと思へば,アヽ聞こえた。

 拷問に事寄せ自分の慰み気晴らしをやらるゝな。天下の政道を取り捌く決断所での
 琴三味
線、神武このかたない図なほたへ、実(げ)に誠世界の有様、天に口無し人を
 もって言はしむと
は今思ひ当たった。阿古屋めが懐胎、もしもやこの子が女の子なら、
 琴でやぐわん〱三
味線で。アヽなんとやらと京中が諷ひしはこの前表。この上のばれ
 ついで、ちよ〱げな
んどもよござんしよがの。ハ丶丶丶」

と嘲弄(ちょうろう)す

重忠耳にも入れ給はず

 「ヤレ阿古屋なぜ始めぬ。琴を弾かねば景清が所在を、言ひ明かす所存か」

と詞もしげき重忠の

底の心は知らねども、ぜひなく向かふ爪琴の、行方をなんと岩越すに糸も心も乱るゝば
かり。
声も枯れ野の船ならで、甲斐なき調べかき鳴らし
  影といふも、月の縁。清しといふも、月の縁。かげ清き、名のみにて映せど、袖に宿らず

重忠耳をそばだて給ひ

 「いま弾ぜしは蕗組の唱歌を我が身の上に取り、景清が行方知らぬとな。マア知らずん
 ば知ら
ぬにせよ、シテ景清とその方が馴れ初めしは いつの頃、如何なることの縁により
 深い契り
の仲とはなりしぞ」

 「これはまた思ひも寄らぬ変はつたことのお尋ね。何事も昔となる恥づかしい物語。
 平家の
御代と時めく春、馴れにし人は山鳥の、尾張の国より長々しき、野山を越へて清水
 へ日毎
日毎の徒歩詣で。下向にも参りにも道は変はらぬ五条坂、互ひに顔を見知り合ひ、
 いつ近づ
きになるともなく、羽織の袖のほころび、ちよつと時雨の傘お易御用。雪の朝の
 煙草の
火、寒いにせめてお茶一服、それが高じて酒一つ、こつちに思ヘばあちからもくど
 くは深
い観音経。普門品第二十五日の夜さ必ずと戯れの、詞を結ぶ名古屋帯。をはりなけ
 れば始
めもない。味な恋路と楽しみしに寿永の秋の風立ちて、須磨や明石の浦舟に、漕ぎ
 放れ行
く縁の切れ目、思ひ出だすも痞(つかえ)の毒。ア、疎まし」

と語りける

 「オヽさもありなん情けの道。聞き届けしが詮議は済まぬ。この上は三味線弾けい」
 「エゝ」

 「イヤサこの方の尋ぬる子細を聞かぬうちはいつまでも」

となほ望まる 三味線のどうなることか知らねども、思ひ込んだる操の糸今さらなんと鉄刀木
(たがやさん)、
心の天柱(てんじ)引き締めて

 翠帳紅閨に、枕並ぶる床のうち。夜すがらも、四つ門の跡夢もなし。さるにても我が夫の、
 秋より先に必ずと、あだし詞の人心。そなたの空よと詠むれど、それぞと問ひし人もなし

 「アゝもうよいわ、三味線やめい。斑女が閨のかこちぐさ、絶えし契りの一節。時に取って

 の一興ながら言ひ訳は暗い〱。西海の合戦に命を逃れ、都に折々紛れ入る景清。そちは

 度々会はうがな」

 「平家御盛んの時だにも人に知られた景清が五条坂の浮かれ女に、心を寄すると言は
 れて
は、弓矢の恥と遠慮がち。ことさら今は日陰の身。わたしはもとより河竹のあるが
 中にも
つれない親方。目顔を忍ぶ格子先,編笠越しに、健(まめ)であったか、アイお前も
 無事にとたつ
た一口言ふが互ひの比翼連理、さらばと言ふ間もないほどにせはしない別
 れ路は、昔のき
ぬぎぬ引き替へて、木綿々々と零落(おちぶれ)し、身の果て哀れな物語。
 アヽおはもじ」

と差し俯(うつむ)く

 「如何さまこれはかくもあらん。景清ほどの勇士なれども、実に色は思案のほか。どう
 思案
仕直してもこの通りでは済まされぬ。ソレ胡弓擦れ胡弓擦れ」

 「アイ」

と答へて気は張り弓,歌は哀れを催せる。時の調子も相の山

 吉野竜田の花紅葉。更科、越路の月雪も。夢と覚めては跡もなし。あだし野の露鳥辺野の、

 煙は絶ゆる時しなき、これが浮世の誠なる
誠を顕す一曲に、重忠ほとんど感に堪へ
 「阿古屋が拷問たゞいま限り。景清が行方知ら
ぬと壁に偽りなきこと見届けたり。この上

 は構ひなし」

仰せに

阿古屋は忝け涙。尽きぬお礼を伏し拝めば

岩永は拍子もなく調子に乗らぬ三味線の、天柱替へたる蕗組も冥加にあまる御情け。
つど〱お礼ものべ棹に、
長居は畏れこのまゝに直ぐに御前を三下がり秩父は正しき
本調子
撥利生ある糸捌き、直ぐなる道こそぞありがたき 
 

 六波羅蜜寺⇒⇒⇒ 文楽⇒⇒⇒ 
 坂⇒⇒⇒ 清水⇒⇒⇒ 
 吉野⇒⇒⇒ 竜田⇒⇒⇒ 
 あだし野⇒⇒⇒  

  




冥土の飛脚

冥途の飛脚』

 近松門左衛門の世話物の代表作です。正徳元年(一七一一)七月以前に大坂竹本座で初演されたと

推定されています。梅川·忠兵衛を題材にした芝居としては、他にも改作物の『傾城恋飛脚』や『恋

飛脚大和往来』がありますが、その大きな違いは、近松の原作では登場人物に悪人が登場しないとい

う点でしょう。一方、改作では丹波屋八右衛門は忠兵衛と梅川を取り合う仲で、忠兵衛を貶めるため

に廓で悪い噂を流し、罠へと追い込んでいく敵役として描かれていますが、原作では、廓で悪口を言

うのも忠兵衛を思う友情による忠告であり、それが逆に災いしてしまい、短気な忠兵衛を公金の封印

切へと追い込んでしまうのです。

 また、実説では忠兵衛の刑死の後に尼となって忠兵衛の菩提を弔ったとも、新町の廓に返り咲い

たともいわれる梅川ですが、近松は忠兵衛にどこまでも寄り添ってゆく一途な恋に生きる遊女とし

曾根崎心中』のお初や、『心中天網島』の小春とともに、色里の中でも誠を貫こうとする遊女の理想

として描かれています。文楽⇒⇒⇒





持統 直孫への執念

 持統十年(六九六)七月十日、高市皇子は死去した。書紀には「後皇子尊薨ず」とある。この尊号は
三年四月に死んだ「皇太子草壁皇子尊」に対応していったもので、書
紀のべつのところでは
「草壁皇子尊·高市皇子命」と出ている。「尊」 上位で「命」は次位である。

「後皇子尊」は高市にあとから贈った追称だ。その翌十一年八月一日、持統は天皇の位を皇太子に
禅(ゆず)
った(書紀)。「禅」と書くのは中国皇帝譲位の「禅譲」からとっている。

 皇太子とは、草壁皇子の遺児軽皇子で、十五歳であった。草壁が死んだときはまだ七歳で立太子
できなかったが、十五歳になれば資格がある。

 書紀には軽皇子がいつ皇太子になったかは明記してない。ある史料には十一年二月とある。いずれ

にしてもその立太子は高市皇子の死とそうはなれていなかったろう。持統がこの直孫(じきまご)の成長
を辛抱づ
よく待っていたかいがあったというものだ。

 その持統は孫に譲位の二ヶ月前から病気となり、六月には公卿百寮がその病平癒を祈願して薬師

寺に入れる仏像をつくった。薬師寺は彼女がまだ鸕野皇后だったころ、やはり病気にかかり、その回

復のため天武天皇が発願建立にかかった寺である。公卿百寮がつくった仏像を本寺におさめて七月
十九日に開眼の会(え)をしたのも、このたびの病気祈願からである。本尊は白鳳仏の粋といわれる
聖観音
であろう。

――こうすらすらと書いてくるとなにごともないようだが、ここで持統の策多い性格を考慮してみるとき、
どうも気持ちにひっかかることがある。右の経過を表にしてみる。

 十年七月十日 高市皇子死去。

 十一年二月某日 軽皇子、皇太子となる。

 同六月ごろ 持統天皇病にかかる。

 同八月一日 持統譲位。軽皇子、践祚して文武天皇となる。

右のように軽皇子の立太子が可能な十五歳になる七ヵ月前に高市皇子が死去したのは、持統にとっ

てあまりに都合よくゆきすぎていないか。

 何度も出したように、高市皇子は、天武がもっとも頼りにした皇子だった。前出の直木説にならうと、
漢の高祖が温順な太子孝恵に期待しなかったように、天武もおとなしい草壁皇太子にはあまり望
みを
かけていなかったろう。草壁を太子にしたのは鸕野皇后の切なる願いによる。壬申の乱での高市
皇子
の武勲は諸臣のよく記憶するところ。立法·行政の才能があり、君臣の人気はかれに集まってい
た。
草壁の遺児軽皇子を立太子させたとき、この弱年の皇太子をもっともおびやかすものは高市皇子
である。
――それまで高市を利用していた持統の目算がここで違ってくる。

 前に述べたように、持統は軽皇子が立太子できる年になるまで、高市皇子を太政大臣にしてこれを使
ってきた。それは高市の母が非貴族のため、
かれに皇位継承の資格がないという安心からであった。

 ところが、孫の軽皇子が立太子できる年齢に近づいてくると、高市にたいする現実的な不安が持統

に起こってきた、と考えても不自然ではなかろう。高市の武勇と政治手腕にたかまる群臣の評価は
の卑姓の問題を超えてきたのである。

 それに、十何歳かではまだ能力がわからないとはいえ、のちの文武天皇の業績からみても、軽皇子

は俊敏な資性ではなく、おとなしいだけの子供であったろう。こういうのが皇太子になったとき、四十すぎ
の男ざかりで、手腕·人格ともに円熟した高市皇子の前に、文字どおりコドモとオトナであ
り、高市に押し
きられるにきまっている。太政大臣の高市がさきに天皇に即位して、年少の軽皇子は
皇太子のままで
すえおかれて、棚上げされるおそれがある。げんにかつて天智が太政大臣大友皇子に
皇位をつがせる
ため、弟の皇太子大海人(天武)にたいしてそれを試みたではないか。

――このような心配を猜疑心の強い初老の女帝持統がもったと推測してもあたらないとはいえまい。

このとき持統は五十一、二歳であったはずだ。頭脳よりもカンのいい女であった。

 軽皇子は、いわゆるオバアチャン子である。とくに実子草壁皇子にすべての希望を託していた持統

としては、こんどはその遺児である孫に執念のような望みをかけていた。この孫の将来に障害となるもの
は、
じぶんの瞳の黒いうちにぜひともとりのぞかねばならぬ、と持統は思ったであろう。

 それに持統は近ごろ病気がちとなった。病平癒のために公卿百察仏像を刻み、神祇に祈願したの
もう少しあとのことになるが、それは病が重くなってからのこと、不調はその前からはじまってい
たろう。
健康がおとろえたとなると、さきざきのことを心配するのが老女の常である。と、ここまで
書くと、もはや
わたしの推測による結論は知れる。

高市は暗殺された?
 高市が死んですぐに 軽皇子が立太子したことは、高市の死が外力による疑いの強いことである。あえて
直木説の漢の呂太后との比にならっていえば、高祖の
死後、呂太后が愛子の恵帝を守るために異腹の
ライバル趙王如意をよびよせて毒殺したとおなじ方法
が、持統によって高市皇子に行なわれたと、わたし
は思うのである。

 軽皇子が立太子できる十五歳になって高市皇子が都合よく死んだことは、それがあまりに持統ことって
都合よくいきすぎているため、高市の死を偶然とのみは考えられないのである。

 高市皇子の死は、あるいは偶然かもしれない。しかし、わたしはそれが持統にとってあまりに好都合であ
ったことから、そこに人為的なものを感じる。とすれば、持統の手によるしかない。毒殺とす
れば、持統自身
がそれを実行したのか、他の者をしてさせたのか、こまかな推測になるといっさいわ
からない。

 それでは高市皇子に「高市皇子命」や「後皇子尊」など草壁皇子と対 する尊号を書紀が書いたのはどう
なるかということになる(天武の他の皇子にはこの尊号がついていない)。

「日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の長歌(『万葉集』一六七)に付した

反歌二首は、じつは高市皇子の殯宮の時につくられたのだともいう。

 このようにさきに死んだ皇太子草壁皇子に準じた高市皇子特別待遇と、彼が持統天皇に暗殺されたという
わたしの臆測とは、ちょっとみると矛盾するようにみえる。

 だが、わたしの推測をさらに伸ばすなら、当時の宮廷では持統天皇による高市皇子暗殺は公然の秘
だったのではあるまいか。人麻呂もそれは聞き知っていたろうから、高市への同情がその歌にあら
われた
と思われる。例の壬申の乱での成功をよみこんだ高市皇子の殯宮の時の挽歌もそれであろう
(注)。
 右の反歌二首は
 
ひさかたの天(あま)見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも」(一六八)

 「あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」(一六九)
をいう。

 皇子の御門が「荒れる」とか「夜渡る月が隠れる」とかの字句もなんとなく不吉で、暗殺による死を感じさせ
るようだ。

 また、持統も高市を暗殺したとなれば、それをかくすためにも高市の尊号の追贈を惜しまないはずだ。
どのように飾り立てようと死者はすでに競争から消え、現実の不安や危惧にはならぬ。書紀の編
者もその
意をうけて書いたろう。持統紀は書紀の最終巻であり、編者の記憶がもっとも新しい部分
だ。そうして編纂
局総裁は天武の第四皇子舎人親王(親王は持統朝になってからの皇子の改称)であり、母は持統の妹
(新田部
皇女)である。舎人親王が伯母の持統とよかったことはその順調な経歴からもうかがわれ、 その
第七
子大炊王は淳仁天皇となっている。舎人親王は持統体制側にすっぽりとはまりこんだ人だから、書紀

をしてr高市暗殺」の抹殺はできたろう。

――以上が、わたしの推測である。

 (注)万葉学者吉永登氏は、献呈挽冰は殯宮で歌われたものではなく、それより後の作欲という(『万葉-
文学と歴史のあ
いだ』)。
  松本清張 壬申の乱 より




大津皇子の刑死

 人事関係で大きいのは大津皇子の刑死である。大津皇子の母は、天智の娘の大田皇女で、鸕野皇女(持統)
の姉にあたる。その大津皇子には姉がいて大伯皇女といい、伊勢
神宮の斎宮(斎女)にいる。天智が皇太子
(中大兄皇子)として斉明天皇に従って百済救援に筑紫に下ると
き、妃の大田皇女·鸕野皇女の姉妹もいっしょだ
ったが、その船の中で、大田皇女が産気づいて生ん
だのが大伯皇女だった。したがって大伯皇女は持統の姪で
あり、大津
皇子は甥にあたる。

 天武は在世中に草壁皇子を皇太子にし(天武十年)、その二年後に大津皇子を朝政に参与させた。異母兄弟を
同母兄弟のごとくに一視同等に見るという吉野の盟いを実現させたわけだ。大津皇子は朝政に
参与したというだけ
で太政大臣とは書いてないが、史家は実質的にはそれと同じにみている。これは
天智皇太子に大海人皇子
(天武)が存在するため、
大友皇子を太政大臣に任じたのと似ている。

 だが、両者の似て非なのは、天智が大友を太政大臣にした目的が大海人の皇太子の地位を骨抜きするにあっ
たのにたいし、
大津の参政は天武が彼をして皇太子草壁を輔弼させるにあった。

これによって草壁の地位を補強し、草壁が天皇になったとき大津を正式に太政大臣に任じる肚であったろう。
が、皇后はそうは考えなかった。彼女は異腹の子が朝政に参加したのをみて、わが子草壁の将来に不安を感
じはじめた。

 草壁皇子がどういう資性をもっていたかはわからない。かれが早く世を去った(持統称制三年。六八九)ところをみ
ると、日ごろからあまり身体が丈夫でなかったらしい。 それだから
「器宇峻遠」で「武を愛し、性頗(すこぶ)る放蕩
にして、法度にしばられず、辞を低うして士を礼遇したため大津のもとに多くの人材が集まった」(7懐風藻」)という
大津皇子に、
皇后が皇太子草壁のため大きな憂いを抱いたのはわかる。

 彼女の危惧は、天武の死後、さっそくにその禍根をとりのぞく実行にうつされた。天武が死んで一ヶ月もたたない
朱鳥元年十月二日、大津皇子の謀反が発覚したということから、かれに死を賜っ
た。年二十四。

「謀反」は粛清のさいにいつも口実にされる。

 謀反といっても、処刑は大津一人である。しかも十月二日に逮捕して翌三日には死を命じている。

有無をいわせぬ殺し方だ。裁判にかけると審理の段階でデッチあげのボロが出るからだろう。他の「連累者」三十余
人は逮捕されたが、側近二名の流罪以外いずれも処罰されず、そのなかの壱伎博徳・.
中臣臣麻呂(一説に意美麻呂
と同一人ともいう)・巨勢多益須など、その後みな昇進している。

 「謀反」は一人ではできないから、一時これらの人々の名を借りて「共同謀議者」にでっちあげたのであろう
中大兄皇子〈天智>が有間皇子を謀反罪 で刑死させたときは 蘇我馬子の孫·赤兄をして有間皇子の「盟友」
に仕立て、
その罪を捏造した。赤兄は天智朝のもとで左大臣となった)。

 その傍証となるのが『懷風藻』の河嶋皇子の小伝にある。「河嶋皇子ははじめ大津皇子と仲がよかったが、大津が
謀反をくわだてるにおよんで河嶋はこれを朝廷に告げた。朝廷はその忠を嘉した」と
いうのである。

 これをみても河嶋皇子が大津を煽動しておいて密告したことがわかる。河嶋皇子は天智の第二子で大友皇子の弟
にあたる。壬申の乱で近江朝廷がくつがえされ、大友皇子が自滅していらい、天武朝廷
で冷やメシを食わされてきた。
で、この際、姉持統のトリックを手伝ってゴマをする気になったので
あろう。

大津皇子と大伯皇女

 姉といえば、大津は「謀反発覚」の前に伊勢神宮にひそかに行き、斎宮にいる

実姉の大伯皇女に逢った。そのときのことが『万葉集』の彼女の歌に出ている。

  わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし(一〇五)


  (弟を伊勢から大和へ帰しやるとて見送ってたたずんでいると、夜がふけていつのまにかあけがたの露にわたしは
  濡れてい
た。そんなにも長いことわたしはそこに立ちつくしていた)

  
 
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(一〇六)

  (二人で行っても淋しくて行けそうもない秋の山を、いまごろあなたはどのようにして一人で越えているのだろうか)


 姉が弟を思う真情の歌だが、そこには姉弟の感情を越えた愛情めいたものがうけとれないでもない。そのことは、
大津皇子の刑死を聞いた彼女が伊勢から大和へ帰った行動でもうなずける。

 大津皇子の処刑にその妃の山辺皇女(天智の皇女)は髪をふり乱し、素足で夫のそばへ駆けつけて自殺した。
大伯皇女には二上山を見ての歌がある。

  うつそみの人なるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む(一六五)

  磯のうへに生(お)ふる馬酔木を手折(たお)らめど見すべき君がありと言はなくに(一六六)

 大伯皇女のつくった歌二首の意は「この世の人であるわたしは、あすからは二上山を弟(いろせ)と思って眺めよう」
「岩のほとりに生えている馬酔木を手折っても、それを見せたいあなたはもうこの世にいな
い」

となる。イロセは兄弟にももちいるが、セコ(背子)と共に恋人や夫にたいしてもつかう。

 前に出した大伯皇女の「わが背子を大和へ遣ると」「二人行けど行き過ぎ難き」はさながら伊勢国から大和へ戻り行
く恋人を見送っていっまでも立ちつくしている歌のようだし、あとの二首にも恋人
に死なれた女の虚脱状態がみえる。

 大伯皇女と大津皇子の姉弟間には、木梨軽太子と同母妹軽大娘皇女の近親相姦(允恭紀)にも似た恋愛感情があっ
たように読みとれる。

 この推測をつよめるものが『歌経標式』の中に出ている。『歌経標式』は奈良朝の従三位藤原浜成のあらわした最古
の歌学書だが、歌体を論じて例を示したなかに「大伯内親王が大伴親王を恋する歌
に曰う」というのが見えている
(「寧楽遺文(なら)」下巻所収)。「大伯内親王」は大伯皇女のこと、「大伴親王」
はあきらかに大津皇子の書き誤りである。

 そういえば大津皇子が「謀反」事件の前に「ひそかに伊勢神宮に下りて」(大伯皇女の作歌二首の題詞)姉に会ったと
いうのも、臆測を伸ばせば、このとくべつな感情からといえなくもない。

 大津のこの行動が、姉に謀反をうちあけるためとは信じられない。天武の死後、わが身にせまりくる危機を予感して
相談におもむいたというのがまだしも自然な解釈だが、事は姉と相談してもどうな
るものでもなかった。これを恋愛感情
からとみれば、大和に帰りゆく大津を大伯皇女が深夜に見送っ
て未明の露に濡れるまで立ちつくしたことや、
「二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越
ゆらむ」といった、まるできぬぎぬの別れのような歌の意味、
あとの歌からは「君と二人でいっしょ
に山を越えたい」という女性の願望を感じとったほうがよい。

 大伯皇女が伊勢から大和へもどったのは大津の刑死を聞いてみずから願い出たとも考えられる。前出「うつそみの
人なるわれや」「磯のうへに生ふる馬酔木」の二首をよむとそうも思えるが、もしか
すると彼女は朝廷に召喚されたので
はあるまいか。謀反人大津皇子の姉ということではなく、大津と
実姉との不倫な関係を朝廷に知られたからではあるま
いか。古代から大王家に近親相姦的な慣習があ
った。

 無垢であるべき伊勢の斎女に男女関係ができたとき、これを「姧(たわ)けり」と表現し、それらの斎女を

斎宮から追放した例を書紀はいくつか載せている。
性すこぶる放蕩

 また大津皇子にはおもむきの少し変わった歌がのこっている。

  「大津皇子窃(ひそ)かに石川郎女と婚せし時津守の連通其の事を占ひ露しぬ、 皇子の御作 一首」の題詞の歌。
 

  大船の津守の占に告らむとはまさしに知りて我が二人寝し(『万葉集』一〇九)
 この意味を日本古典文学大系本では「津守のう
らないに出て分るだろうとは、前からはっきり知っていながら、私は二人
で寝たことだ
となっている。これは普通の解釈。
 国文学者の吉永登氏は、
この歌から持統が大津皇子の行動監視に津守通なる占い師(陰陽師)をスパイとして使ったと
推理している。

 石川郎女には草壁皇子も想いを寄せて歌を贈っているが、彼女からの返歌が残っていないところをみると片想いであった
ようだ。しかし、大津と石川郎女との間には相聞歌があるのでこの両人には恋愛が成立していた、とみて吉永氏はいう。

 「皇太子草壁皇子は大津皇子と石川郎女を争っている。だからこの勢力によってまず(大津と石川郎女の間が)発見せら
れ、津守通が皇后(持統)・皇太子の意を体してか、もしくは、その意を迎えて独自の力
によって察知して、これを占いの形で
発表したと考えることもできるのではなかろうか。わたくしは
むしろ後者ではないかと思っているのであるが、いずれにしても
事件の明るみに出たことが大津皇子
の立場を不利にしたことは疑いない。ここで大胆な想像が許されるならば、津守氏は
今日の秘密警察
のような機関を持っていたのではないかとさえ考える」(吉永登『万葉ー文学と歴史のあいだ』)

 吉永氏は陰陽師が諜報機関だったことを他の平安時代の例を出していっている。

 そうなると大津皇子の右の一首は普通にいわれる意味とは大いに変わってきて、いうなれば、「密偵の津守が占いにことよ
せて(皇后や草壁皇子に)わたしの行動を通報するの
はわかってはいるが、わたしは石川郎女と寝ずにはいられなかった」

 となろう。「告らむ」には「告げむ」という訓みかたもある。

 実姉の大伯皇女にも近親相姦的な愛情関係をもつ一方、石川郎女をも愛人にするという大津皇子は、『懷風藻』の小伝に
あるように
「性すこぶる放蕩にして法度にしばられ」ない自由恋愛人であったらしい。

 だが、彼がたんなるプレイボーイでなかったのは、その小伝につづいて、漢詩をよくし、武を愛し、節を屈して士を礼したため、
多くの人がその下に集まったとあるのでもわかる。こんな「男らしい」
若者だと女たちが魅力をおぼえるのは無理もないの
かもしれない。当時の恋愛の自由さは後世の道徳
観では「不倫」に入るのである。
皇后のカ
 大津皇子の
「大船の津守の占に」の一首を前記のように解釈しても不自然でないのは、持統天皇の性格が父天智ゆずり
の権謀に長けていたからである。

 持統は、天武が草壁皇子を皇太子にしたが、その二年後に大津皇子を太政大臣にしたことには不満だった。しかし、
天武の在世中は彼女もさすがにその不平をかくしていた。天武が死ぬと、さっそく
に「大津謀反」の謀略にとりかかる。

わが実子草壁の禍根となるのは大津だけだ。

 天武は高市皇子を皇位の継承者にしたかったにちがいない。もし天武に勇断があれば、天智が采女の子大友皇子を事実
上の皇位継承者にした先例にならって高市皇子を指名できたろう。しかし、天武
にはそれができなかった。皇后鸕野の
はげしい反対をおそれたからである。天武も性格の強い妻に圧
されていた。彼の恐妻の血を曽孫の聖武天皇がひいている。

 もっとも皇后鸕野は、吉野の隠棲から東国脱出まで、壬申の乱では終始、夫の天武と苦労をともにしている。天武には
この古女房の苦労も無視できなかった。

 また、この苦労の「実績」があるから、皇后は自信と実力をつけたといえる。「糟糠の妻」の強さである。しかも鸕野は
天智の女として父のやりかたを見てきたし、天武の妃·皇后となってからは夫
のやりかたを見てきていた。大津皇子殺しなど、
天智が皇太子だったころの有間皇子殺しの手口に似
ている。

 ところが、あれほど大事にした皇太子草壁皇子は持統称制三年四月に病死した。二十八歳の若さだった。世の中はまま
ならぬものである。
持統のなげきはいうまでもない。

 しかし、いっぽうでは二年前に大津皇子を処刑しておいたからこそよかったのだ。でなかったら、草壁の死のあとは当然に
太政大臣大津皇子が皇太子になり、やがては即位する。そうなったときは、
いままでなにかと圧迫してきた大津にこっちが
仕返しされるにきまっている。持統が打っておいた
はここで生き、彼女を安泰にしたのである。
 草壁の子軽皇(天智の娘阿陪皇女との間に生まれたの娘陪陪女はのちの元明天皇)はわずか七歳である。幼少の者に
即位させるしきたりは天皇家にまだなかった。

 そこで天武未亡人鸕野がこの孫の成長するまで天皇になることになった。即位は翌四年(六九〇)正月。正式にはこれか
らが持統天皇である。
太政大臣·高市皇子尊

 持統天皇は四年正月に即位すると、その年七月に高市皇子を太政大臣に任じた。

 大津皇子はたんに朝政に参与した(書紀)だけだが、じっさいは皇太子草壁皇子 補佐する太政大臣の役に相当していた
ろうといわれている。だが、高市のばあいは、草壁の死によって皇太子を欠き、
しかも太政大臣と明記してあるので、ちょっと
見ると皇太子に相当するように思える。

 しかし、これは持統が望みをかけている草壁の子の軽皇子(のちの文武天皇)が七歳の幼少のため皇太子に立てることが
できず、その成長を待つあいだの持統の措置であった(軽皇子の立太子は持統十一年に月)

 大津皇子に血の粛清をおこなった持統が高市皇子を太政大臣にしたのは意外のようだが、これは孫の軽皇子の成長待
ちのほか、
高市皇子の人気を無視するわけにはゆかなかったからであろう。

 もし、草壁皇太子が健在なれば、大津皇子の次の犠牲者は高市皇子であったかもしれない.高市は亡き夫天武が最も望
みを託していた長子だ。それなのに持統が第三子の大津のほうからかたづけたの
は、大津の濶達な性格と、その母がじぶ
んの実姉(天智天皇と蘇我山田石川麻呂の女遠智娘との間に生まれた))なので、甥の大津
皇位継承の資格が十分備わって
いることが懸念だったからだ。

 そこへゆくと高市皇子は問題が少なくなる。高市の母が地方豪族(胸形君)の娘という卑姓の故に皇位をつぐ資格はない。
それに高市もそのへんを自覚していて、万事謙虚にふるまっていたようだ。こ
うした理由から、高市は大津処刑のあともまず
無事に生き残った。また、いくら持統でも大津にひき
つづいて高市を「謀反」にひっかけて粛清するわけにはゆかない。

 高市は有能だった。官制の整備充実、儒学の優遇、食糧政策、藤原京移転など、みな高市の太政大臣のときだ。
壬申の乱で武功第一の彼は、予定された新京の地形をも軍事防御
的な立場で見て歩いたのであろう。藤原京は、北に耳成
東に香具、西に畝傍の三山の間にある。香
具山のさらに東には笠置山地が南北に伸びる。畝傍山を北端とする西の山
つづきは南の多武峰、東南
の倉梯山などの連峰をもって内側に彎曲し、東の三輪山に接続している。

 藤原京の南は飛鳥とのあいだが平地となっている。この立地条件は、あとの奈良ほどではないにしても、玄武(北)・青竜
(東)・白虎(西)・朱雀(南)の「風水説」にまず合致する。いわゆる「四神相応の
地」である。地形は軍事防御面からも合理的
である。風水説による地相をそのまま北に移動させ、も
っと理想化したのが元明天皇による平城京の造営である。

   松本清張 壬申の乱 より







鉄剣銘文の発見

 稲荷山古墳が発掘されたのは、今から十年ほど前である。そのとき、

鉄製品や鏡がたくさん出てきたので、それを県で保存していた。

 鉄製品は空気に触れると、酸化がどんどん進む。酸化を防ぐためには、いっぺん冷凍して真空

のなかに入れ、合成樹脂をしみこませる冷凍含浸法というのがある。冷凍含浸法の設備が埼玉
県庁にないので、それをもっている奈良の
元興寺にある文化財研究所へ頼んで錆どめをしてもら
ったところ、鉄の錆のなかに金粉が見つかった。

 そこはさすがに研究者で、金粉が遊離して存在するわけがないから、鉄の表面にあった金粉が
浮きあがったのだと考えた。とすれば、まだ剣の鉄地に金が入っていはしないだろうか。そこでとう
とう錆を落とさずに、レントゲン撮影をしてみた。この、錆を落とさなかったのは正しい研究法だ。

錆を落とすと、象眼のなかの金がとれてしまう。研究者の、そうした細心の配慮のおかげで、鉄剣
の錆にかくれていた銘文が、闇に消えずにすんだのだ。

 ただ、レントゲンは透視光線だから、裏側もいっしょに写ってしまう。つまり表側に書いてある字も
裏側に書いてある字も、同時に一枚の写真に写った。これを、別々にするにはどうすればいいか。
そういう技術はまだ世界にないから、研究者はまたたいへんな苦労を重ねて工夫した。結局、両面
を撮って濃く写った表側だけを残して薄いほうを消してしまう、という方法を考え出したのだ。その結
果、撮った写真を組み合わせて、表裏ともに読めるようになった。これが、有名な稲荷山鉄剣の銘
文を発見したいきさつである。

 したがって銘文の発見者は、鉄剣の発掘者ではなく、文化財としてそれを保存する技術者だっ

たのだ。発掘者である前線の考古学者としてはまことに情けないことだが、技術者と協力してや

ったというのが結果として非常に幸運だったといえる。このことによって、今後も考古学者がい

ろいろな学問といっそう協力研究しなければならない、という教訓が、たいへん痛烈な形で示さ

れた感じがする。

 それはともかく、問題の銘文は、第二十一代の雄略天皇に仕えた人が書いたものだった。百十五
の文字がつづるその内容は―――自分のうちは代々,天皇家に奉仕していること、自分は雄略天皇
の側近奉仕(今でいう侍従か護衛兵)を果たしたので、この剣をその記念に、ひとに見せろといっても
らったものであること、ざっとそんなふうな意味だが、それだけだったらなにも問題は起こらなかった。

 銘文の主、雄略天皇(ワカタケル)に仕えた人は、オワケの臣という。当時は姓がない時代だ

から、ただオワケなのだが、奉仕の功労によって、おそらく高い処遇をうけ、前方後円墳もつくること
を許されたのだろう。

 そのオワケの臣が、鉄剣に自分の家の系統を書いている。それによると、オワケのいちばんの祖先
は、オオヒコとなっているのだ。

 オオヒコノミコト(大彦命)といっても、何者かわからないかもしれないが、『日本書紀』を見ると出てくる
人物で、しかも崇神天皇のおじさんにあたる。

 第十代の崇神天皇は、記紀によれば四道将軍を派遣している。その時に天皇の代わりに派遣され
たのが、オオヒコノミコトである。

 オオヒコノミコトは、今の北陸道を通って福島県に入り、東海道をいったトヨキイリヒコとそこ

で会った。だからそこを会津というのだと、これは地名伝説になっている。会ったか会わなかっ

たかはわからないが、ともかく北陸を通って、今の福島県を東へやってきたのは事実らしい。そ

こからまた後戻りしたという記録はないので、たぶんその子孫がこんどは太平洋岸に出てきて、

今の埼玉県あたりに土着し、あの辺を開拓したのだろう。

 というのは、宇都宮の二荒山(男体山)神社などの伝説を見ても、関東地方はだいたい崇神天

嚣皇のときの開拓で、その天皇家の血統が各国々の国造になったと書いてある。それからすると
武蔵国にオオヒコノミコトの子孫がいて、しかもいちばん中心の行田付近に住んでいることはありえ
ていいと思う。

 従来の歴史家は『崇神天皇紀』を『神武天皇紀』などと同様、あてにならぬ話だと疑ってい

た。しかし鉄剣には、その記事に出てくる固有名詞がちゃんと書いてある。天皇のワカタケルと

いう名前はニセモノではつくれないし、しかもその鉄剣が当時のものであることはまちがいな

い。後世に上から入れたものなどではなく、古墳がつくられたとき埋められたものを、考古学者

が掘り出したのだ。そればかりか文字は、あとで入れることのできない錆の下にあった。結局、

歴史の資料としては一等資料といえる。

 一等資料のなかにオオヒコノミコトの名前があるからには、当然その甥である崇神天皇も実在

しただろうということは想像がつく。そうすると、崇神天皇の伝えた事実が日本書紀の材料に使

われ、そのなかの開拓説話となったのだ、ということを認めていいのではないだろうか。

証明された古代史

 稲荷山鉄剣銘文の発見は『日本書紀』という天皇家の古い伝承を疑う学者に対して、

に大きな打撃だった。

 それまでは、第十六代の仁徳天皇あたりからはまあ正しいだろう、それ以前はだいたいだめだ

ろう、といわれていた。崇神天皇までさかのぼって認める人は、文献史学者で一人しかいなかっ

た。私は認めていた。私は『崇神天皇紀の研究』という本を書いたが、それは崇神天皇は実在し

た。とする説だ。しかしほかの学者の方々は、たいていみな否定論をとなえていた。

 ところが、稲荷山鉄剣の銘文というたった一つの発見で、文献史学者の考え方がすっかり変わ

ってしまった。とにかく、崇神天皇からあとは信じていいだろう、ということになったのである。

 そこで、これまで見つかっている字の書いてあるものを見直すと、各天皇紀など、どれもほぼ

正確らしい。しかもよく読んでみると、いろいろな興味深い事実がわかる。

 崇神天皇は日本書紀には、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と書いてある。御肇国

天皇というのは、はじめて天皇になった方という感じだ。神武天皇にもそう書いてある。それば

かりでなく、神武天皇と崇神天皇の伝承というのは、よく似た点が多い。

 第一に、淡海三船という人が天皇に贈名するときに、神武と一方でいい、一方は崇神と、両方

とも「神」をつけた。「神」のついている天皇は、日本では非常に少ない。そのうえ日本書紀の

御肇国という言葉からすると、はじめて国をつくった天皇が二人いることになる。二人いては困

るから、一人の開拓説話が二つに分かれたのだろう、という説もあるくらいだ。
 しかし、分かれたものであろうとなかろうと、いちばん初期の天皇家にまつわる開拓説話は、

まぎれもなく史実だったのである。この経験からいえるのは、日本の伝承はすべてが創作ではな

く、稲荷山鉄剣銘文のように、それを証明するものさえ現れれば、事実として裏づけられるもの

もあるということだろう。

 考えてみると、稲荷山鉄剣銘文のばあいは、たまたま中国の漢字で書いてあったのが幸いだっ

た。漢字以前の人が残したものだったら、後世それをいくら発見しても、なにもわからない。日

本に漢字が入ったのは、かなり遅い。三世紀に書かれた『魏志』の「倭人伝」には日本へ手紙を

もってくるとあるが、そのころにしても中国から見ればはるかに遅れている。中国は、四千年前

から文字のある国だ。

 そういう点で、日本にはまだ文字がなかったため、証明できない遺物がある。しかし今は見え

なくなっているが、ひょっとすると当時、あるいは字が書いてあったのが消えたのかもしれな

い。それを考えれば、文字の証拠がないから古代史は偽作だ、といちがいにはいえないだろう。

 その意味からしても、稲荷山古墳の鉄剣銘文は、文字だけに頼りがちな文献史学者に対して、

非常な警告を与える発見だったということができる。

 そこにもってきて、前方後円墳は年代がほぼわかる。銘文によればオオヒコノミコトはオワケ

より六代前だから、一代を三十年として約二百年近い祖先だ。稲荷山古墳はだいたい六世紀のも

のと推定されるので、オオヒコノミコトは四世紀のころにいることになる。それはちょうど崇神天皇
にあたるころ大和の神王朝にあたるころで、やはりほぼ矛盾がない。

 その点からしても、日本古代史はあんがい正確だ、という一端が証明されたような感じがする。
    足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之

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