第65代 花山天皇(かざん)地図  地図

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冷泉(れいせん)天皇(第一皇子)
藤原懐子(かいし)(藤原伊尹(これまさ)の娘)
誕生 …968年((あん)()元年)10.26
御名・異称 師貞(モロサダ)・入角
女御 藤原?子(シシ
即位 984年(永観2年)
在位年数 2年
崩御 …1008年(寛弘5年).8(年齢41才)
皇居 平安宮
年号 (えい)(かん)寛和(かんな)
摂政伊尹が没して、有力な後見人を失った。しかし、当時九条流では伊尹の後がまをめぐって兼通(かねみち)兼家(けんいえ)兄弟が争い、これに小野宮流の(より)(ただ)も加わり、互いに牽制している中で、984年(永観2年)8月践祚した。
治世2年と短いため長期政策は打ち出せなかったが、即位3ヶ月で物価安定策のために破銭の法を定めた。破損した銭は不人気のため銅の元値での取引を禁止したことであるが、米や絹で取引されることが多かったので、あまり効果はなかった法である。また、902年(延喜2年)新設荘園を禁止、その後田租不納特権を与えられた荘園が増加したので、これを禁止し、経済的安定を図った。
986年(寛和2年)寵愛していた藤原?子が病死、悲嘆にくれていた時、これに乗じて、兼家が子の道兼(みちかね)を使って、御所から元慶寺(花山寺)に連れ出し、剃髪、出家させておいて、道兼は逃げ帰った。天皇は「我をハカルナリ」と、泣かれたという。⇒⇒⇒
宮中では、兼家の外孫懐仁親王が位についた。一条天皇である。
花山上皇は道心をかためて修行に励み「往生要集」や「拾遺和歌集」にも関係された。
宝殊寺三重宝筐印塔⇒
陵墓名…(かみ)()川上(がわのほとりの)(みささぎ)    円墳
所在地…京都市北区衣笠北高橋町
兆域の周囲は約140m、陵上に菩提樹ありと伝えていて、「日本紀略」に紙屋上、法音寺の北ということから、地元では、菩提塚と呼ばれている。
元禄年間(1188〜1704)の検討では、その所在地はつかめなかった。「前王廟陵記」は大報音寺(千本釈迦堂)を昔の法音寺と理解して、探索したが判明せず、「山稜志」は、紙屋川の上の東岸の甚兵衛開と推定している
現陵は「山陵私記」にいう紙屋川の西に、法音寺跡があり、今竹林となっている艮角にある小円墳を比定している。
径約39m、高さ約1.2mの規模で、南面して治定されている。





藤原兼家(かねいえ・929〜990)
 天皇家と婚姻関係を築き、これを足掛かりに宮廷で権力をえた貴族・藤原家の一員であった。
兼家は、花山天皇をだまして出家させ退位に追い込んだのち、入内させた娘・詮子(せんし)
の子を一条天皇として即位させ(寛和の変・かんな)、さらにその補佐役である摂政となり、朝廷貴族に君臨した。
 夏のとある公事(公務や儀式)の日、公卿たちが紫宸殿の北側の露台のあたりで涼をとっていた。そのとき、
幼少の一条天皇の摂政であった兼家が、服の襟元を緩めて、天皇をかかえていた。いあわせた公卿たちは
うやまいひれふした。当時の人々はひそかにこの光景を「あまりあってはならないことだ」とささやいていた、という。
 この話は、一条天皇の外祖父として、摂政となった兼家が、まわりの貴族に自らの政治上の絶対的な優位を
目に見えるかたちで示したものといえる。天皇を自らが摂政として支え、政に臨むという決意の表明である。
その際、胸元の襟を緩めていた。
 佐多芳彦 服装の歴史学 より