唐招提寺への道 大和路 東山魁夷

 芒の穂の白く揺れる道は、柿と蜜柑畑の段丘を真直ぐに登録っている。行く手には、三輪山

が左右に緩やかに流れる均斉のとれた稜線を秋空に描いて、大和の鎮めの山に相応しい悠然

とした山容を示している。

 道を登りつめると、槍原神社の鳥居の前に出るのだが、私はその手前で、上下の二つの池

に挟まれた堤へと道を外れる。堤の中程に低い自然石に刻まれた歌碑がある。


   大和は

  国のまほろば

  たたなづく

  青かき

  山ごもれる

  大和し

  美し


 倭 建 命東征の帰途、伊勢の能褒野で死を前にしての望郷の歌と、古事記に記されて

いる。日本書紀では、景行天皇の御代になっていて、倭建命の悲劇的な風貌は、かなり薄め

られている。いずれにせよ、遠い古代の深い霧の彼方にある提え難い物語であるが、この歌

には、これ以上、簡明直截に大和の美を歌うことが困難と思われるほどの響きがある。また、

何か心の底からの切実な想いが寵められているようにも感じられる。もともとは、古代の国

讃めの言葉を並べただけの単純なものであるのかもしれないが、古事記の記述のような劇的

な成り立ちを知らないでも、私達を感動させる力を今も持っている。それは、日本人の美意

識の原点とも言えるものに強く触れているからではないだろうか。 緑繁る山々に囲まれた安

らかな自然、温和な気候、稔り豊かな壌土。日本人にとって、永遠に心の故郷としてのイメー

ージを抱かせる呪文でもある。

 「桜井市で、山の辺の道などに、万葉の歌をいろんな人に書いてもらって、歌碑を建てるこ

とになっているのです。 目立たない小さな自然石に刻んで、道端の草叢に、そっと置いてあ

るようにすれば良いと思います。あなたも何か書いて下さい」と、川端康成先生から言われ

たのは、ずいぶん以前のことであった。川端康成 歌碑⇒⇒⇒  東山魁夷 歌碑⇒⇒⇒

 私はいま、三輪山を背に、先生の歌碑に向って立っている。稲田の稔りの明るい大和平野

の彼方に、二上山を正面にして、左に金剛葛城、右に信貴の山並みが、夕暮れ近い光漠と

した色を見せて連っている。まるで小島が浮んでいるかのように、耳成敵傍香具の三山

が並ぶのを見ると、この盆地が太古、湖であったことが偲ばれる。すぐ眼下には、箸墓の黒

黒とした森。

 広潤な眺望を追った眼が、再び足許の歌碑に戻る。先生の揮毫が急逝によって果されなか

ったのは残念であるが、「美しい日本の私」のペン字原稿から文字を集めて刻まれ たもので

ある。歌は勿論、石も場所も、先生自身が選ばれたと聞いている。遠足に来た子供達が、腰

をかけて弁当を食べられるような恰好の石というのが、先生の念願であったらしい。万葉の

歌でなく、この歌を選ばれたことは、先生の心境の何かが語られているように思われてなら
ない。

  香具山は
  畝火ををしと耳梨と
  相争ひき神代より

  かくるらし古昔も
  然なれこそうつせみも
  嬬(つま)を争ふらしき

 この中大兄皇子の歌を反歌(かえしうた)を抜きにして書こう と私は思っている。「かくなるらし」
「かくにあるらし」、「然なれこそ」を「然にあれこそ」と読む人もあるから、原文で書いていたほ
うが無難であろう。丁度、川端先生の書かれた歌碑に近く、池の堤の端に三山を望
見するのに
最も適しい場所があるから、そこへ建ててもらうことになっている。この歌は、

原文では「高山波(かぐやまは) 雲根火雄男志等(うねびおおしと)」となっているが、畝傍雄々
しとするか、畝傍を愛(を)しとするかに問題がある。雄々しとすれば、敵傍は男性であろうし、
愛しとすれば、男女のどち
らとも言えない。三山の性別については、多様な解釈が可能である。
才色兼備の額 田 王
対しての中大兄皇子と大海人皇子の関係が前提となって、どうも、女性
である畝傍山を、男
性である香具山と耳成山が争ったというイメージが湧き易いが、香具山を女
性、畝傍を男性
とする説のほうもかなり多い。

 朝、奈良ホテルを出て、山の辺の道に沿って巡って来た私が、いま、この大和の代表的な

景観を 恣(ほしいまま)にする池のほとりで一休みしているわけであるが、二上山の上へ傾きか
かった太
陽を、時計の針を戻すように、三輪山の頂に帰したとして、爽やかな秋の朝からのこと
を話そう。

 ホテルを出て間もなく、古市の家並みを見下すあたりへさしかかる。この一角に、いつも

私の眼を引く場所がある。白壁の土蔵の前に柿の実る風景である。古市の町中を通る時も、

やはり、黄土色の土塀と倉の好ましい構図に出会うことがある。それは、何処にでもある風

景で、平凡と言ってしまえば、それまでだが、この懐かしさは、私には根深いものがある。

 円照寺を訪れる。雨上りの境内の静けさ、清らかさ、 尼寺の優しさが、庭に咲きこぼれる

萩の風情にも匂う。三島由紀夫氏の「豊鏡の海」に月修寺として出てくる尼寺のモデルであ

ろうと言われている。
 和爾村(わに)。細い坂道に沿う古い村落。南に和爾下神社がある。石段を登ると、小高い
ところ
に桃山期の丹青に彩られた神社がある。小振りではあるが、纏りのよい優れた構えで
ある。
このあたりに住んでいた古代の大氏族である和珥氏の祖を祀る。

 すぐ近くに人麿塚があり、柿本寺がこの辺に在ったと言われている。柿本人麿は和耳氏の

一族の出だという。北葛城郡新庄町にも、人麿の出身地とされている場所があるが、両者は

何か関係があるのだろうか。あれほどの大歌人でありながら、その名が史書に見えないの時
どういうわけか。位が六位以下の身分であったからとの説が長く踏襲されて来たが、近頃、

正史にある柿本臣猨(さる)、あるいは、柿本朝臣佐留が、人麿であるか、または、その近親
者とい
う説が出て来ている。この説を樹てられた梅原猛氏によると、さらに猿丸太夫と人麿が
同一
人物であり、人麿は流罪の果ての刑死、しかも水死というこ とになる。遠い昔の世のこ
とで
はある。


万葉歌碑 東山魁夷

 桜井市から、山の辺の道に建てる歌碑が出来たという通知があった。既定の場所への据え

付けも終ったから、奈良へ来た時に立ち寄ってほしいとのことである。この歌碑については、

ずっと前の章で触れているが、万葉の歌から桜井市に関係の深い場所を詠んだ三十数首を選

び、それをいろんな人に書い貰って、野仏のように、ひっそりと草叢に置きたいとの市の

意図によるものである。川端康成先生からも、生前に話を聞き、承諾はしていながら、字を

書くことが何より苦手の私は、長い間、出来ないままになっていた。川端先生のは、一つは

「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し」の、古事記にある倭建命の歌で、

それは三輪山の麓、檜原神社の下に、上下二つの池に挑まれた堤に在る。ここからは大和盆

地の中央に、三山が程よい間隔で立ち並ぶのが見渡される。桃と蜜柑の畑に囲まれた美しい

場所である。これらのことについては、前に書いたし、その時に、私は中大兄皇子の三山の

歌を書いて、この堤の北端の、三山が最もよく眺められる位置に建てて貰うつもりであると

も記している。また、三山の歌には、読み方に問題になっている箇処が、二、三あるから、

原文で書いたほうが無難であろらうということも触れておいた。

 唐招提寺への用件を兼ねて、歌碑を見に行くことにした。市長の池田氏が案内して下さっ

て、夕暮れ近い光の中で、池の傍の碑の前に立った。以前に訪れた時は、芒の穂が白く揺れ

ていたが、こんどは、檜原神社から下りて来る時に、馨しい香りが漂うのを感じて、ふと、

辺りを見廻すと、蜜柑畑の濃縁の葉の間に、白い小さな花が咲いているのに気付いた。

 二上山金剛葛城の山々が、西の空に薄肯く連っている。日没には、まだ、間があるが、

タべの静寂と崇厳が、すでに広大な天地に訪れていた。ここから見える三山は、畝傍を真中

にして、香久耳成が向い合い、古代人のあの歌の発想が、そのまま、私達に伝って来るの

を感じる。

  高山波雲根火雄男志等耳梨与相静競伎      東山魁夷 歌碑⇒⇒⇒

  神代従如此爾有良之古昔母然爾有許曾

  虚蝉毛嬬乎相格良思吉

  かぐやまはうねびををしとみみなしとあひあらそひき

  かみよよりかくにあるらしいにしへもしかにあれこそ

  うつせみもつまをあらそふらしき


 中大兄皇子の時代でも「古昔(いにしへ)も然にあれこそ」と詠まれた悠久の太古の人の心、
二つの山
が一つの山を恋し争う、自然と人間が何の疑いもなく一体となって呼吸し、喜び悲し
分ち合っていた素朴な感情の流露に、私は人間存在の根源的な宿命を見る。万葉の世は、
して安らかな時代とは言えないが、万葉の数々の歌には、自然と人間との深い結び付きを
おらかな格調で伝えるものが多く、私達が心を惹かれるのも、そのためではないだろうか。

 歌碑の傍には一本の山躑躅(やまつつじ)が、ちらほら花を着けている。上の池は、すぐ眼の
前に仰ぐ三
輪山の鬱蒼と繁った山容を映して、静まりかえっていた。

 永い時を感じさせる風景である。ここから眺めている限りでは、万葉の歌の詠まれた頃と、

あまり変っていないのではないかとさえ感じられる。このささやかな碑は、刻まれた文字が

消滅し去っても、石そのものはかなり長く残ることだろう。しかし、現在は山でも断ち截ら

れ、崩されて、野に変る世の中である。石でさえ、長く残るとは言い切れない。いや、「昨日

の淵ぞ今日 は瀬になる」と、飛鳥川の変転を世の無常になぞらえたのは、万葉の時代からそ

う遠くない古今集の歌人である。

 減びるものは減び、永遠に残ると見えるものも、やがて滅ぶ。 



山の辺の道

 ここから、乙木竹之内萱生と道は統く。大和盆地を見下し、遠く近く古墳の丘を望む。

稲田の畦には芒が靡(たなび)き、緩やかな丘に柿が実り、蜜柑が実る。

 竹之内や萱生は、周囲に濠を続らせていた環濠集落の跡が残っている。村も民家も古び、

水に映って美しい。萱生の村の柿や蜜柑の畑の丘に登る。すぐ眼前に手白香皇女の陵の松の

森が迫り、南方には崇神天皇陵が見える。遠く耳成山と畝傍山が重なって望見され、いかに

も大和の国のただ中に来たのを感じる。鳥の声、虫の声がしきりである。

 崇神天皇陵景行天皇陵と並ぶ。松、杉、その他常緑樹の恐しい迄の繁り。その逞しさ、

その静けさ。すぐ傍の道路を絶えず車が疾走しているにもわらず、御陵の森は常に深閑

と静まりかえっている。

 崇神天皇陵は山辺 道 勾 岡 上 陵と呼ぶ。三輪山の麓、磯城に都を営まれた四世紀前半

頃の天皇。三輪山の大物主神の祭祀権を獲得し、天皇家の基礎を固められた人に相応しい
雄大な御陵でもある。
 景行天皇陵は山辺道上陵と呼ばれる。三輪山の北、纏向に都を造られた天皇。戦乱を

鎮圧に東奔西走されて、近江で莞去されている。たいへんな子福者でもある。

 もう、三輪山は近い。

 ここにもう一つの巨大な古墳がある。倭迹々日百襲姫の陵、俗に箸墓と呼ぶ。三輪の大物

主神と、この姫との恋物語が日本書紀に記されている。夜だけ通ってきて朝になると帰って

しまう大物主神に、昼間、姿を見たいと願う姫に対して、神は翌朝、姫の櫛箱の中に入って

いると告げる。姫が箱を開けて見ると、美しい小さな蛇が入っていた。姫の驚きの叫び声に、

神は己れの姿に恥じて三輪山に姿を隠してしまう。姫は悔いの念に自殺する。

 しかし、この話は、古事記のほうが、より素朴で美しい。活玉依毘売の許に夜な夜な通っ

て来る恋人の素性を知るため、裾に麻糸をつけておき、朝になって、その糸を辿って行くと、

三輪山の神の社に入っていたと言うのである。倭述々日百襲姫のほうは、孝霊天皇の皇女で、

超能力のある巫女であったとみえて、その墓の大きさは驚くべき規模である。「日は人作り、

夜は神作る」と歌われ、遥か大和の西の端の 二上山から、人々が手から手へと石を受け渡し

て造ったと伝えられている。

 巻野内から穴師、車谷と辿る。


  足引の山河の瀬の響るなべに弓月が獄に雲立ち渡る ⇒⇒⇒

  三諸のその山並に児らが手を巻向山は継のよろしき ⇒⇒⇒

  巻向の痛足の川ゆ往く水の絶ゆることなくまた反り見む

  巻向の山辺響みて行く水のみなわの如し世の人吾は ⇒⇒⇒

  ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しも風かも疾き ⇒⇒⇒

  巻向の槍原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る ⇒⇒⇒

 ここで、この章の冒頭の、池の堤へと辿り着くことになる。果樹畑の中の道を、登りつめ

ると、丸太柱に太い注連縄を懸け渡しただけの、朴訥で野趣のある鳥居を潜り、槍原神社

前へ出る。三輪山の深々とした森に向って、三輪鳥居と呼ばれる風変りな鳥居が立っている。

崇神天皇が、宮居の内にあった天照大神の御霊を、ここに移し祀られたと伝えられる。元伊

勢と呼ばれる所以である。

 大神神社へ詣でる。樹々の繁み深い境内は、もう、かなり暗くなってきた。渋い苔の色の

ついた櫓皮葺きの拝殿の屋根は、背後の黒々とした杉の木立ちと、落ち着いた調和を示し、

金色の金具が荘重に光る。この立派な拝殿だけがあって、本殿は無い。三輪山自体が神であ

る。赤松の森の中に辺津磐座、奥津磐座というふうに、岩石の集団が頂上まで数段にわたっ

て祀られていて、その岩に神酒をふり注いで祈るということである。前に円照寺のところで、

三島氏の「豊饒の海」にちょっと触れたが、大神神社や三輪山は、この小説の第二巻「奔

馬」の重要な舞台になっていて、神社の境内や、神の座としての山中の描写は精緻を極めて

いる。第一巻「春の雪」の主人公であった松枝清顕にゆかりのある飯沼勲少年が、神前の剣

道仕合で優勝する。狂言廻しの役の本多が、その仕合で勲少年を見、その後、山の磐座を拝

して、滝に打たれに行く。そこで勲少年に、清顕の転生のしるしである脇腹の三つの黒子が

あるのを見る。勲は勿論、第二巻の主人公であって、割腹して死ぬところでこの巻は終って

いる。

 狭井川辺へ行く。いまは、草葉の繁りの中を僅かに流れる細流となっている。傍に古代の

祭祀の場の趾がある。神武天皇が即位の前に皇妃を決められる時、大久米命の案内で三輪
狭井川のほとりで七人の姫に逢われた。狭井川の名は、山百合が川のほとりにたくさん自
したからという。狭井は山百合の古名佐葦による。天皇は七姫の先頭に立って歩いて来た
伊須気余理比売を選ばれた。
  唐招提寺への道 東山魁夷






海柘榴市(つばいち)

 私は、いま、昔の海柘摺市に辿りついた。今は三輪町のはずれの金屋の部落がそれである。

古い家並みが残っている。灯がともり、うらぶれた淋しい感じである。古代交通の要衝に当

るこの土地の繁栄は、万葉の歌で知ることが出来るのみである。

  紫は灰指すものぞ海石榴市の八十の街にあへる児や誰 ⇒⇒⇒

  海柘榴市の八十の簡に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも 

 古い世の歌垣。踊り合い、歌い合った若い人々の姿が偲ばれる。しかし、影媛とその恋人

の鮪臣、太子であった武烈天皇との三角関係の悲しい物語も、海拓榴市が重要な舞台となっ

ている。これも歌垣の中での三人の息づまるような歌の問答が劇的である。恋に破れて激怒

した太子は大伴連に命じて鮪臣を討たせたと、日本書紀に語られている。

 春日野と三輪山を結ぶ山沿いの古道である山の辺の道には、数々の太古の物語が秘めら
ている。それらは、現在の私達にもよく解るものが多い。つまり赤裸な人間性が出ているも

のが少くないからである。煩雑な現代から、悠久の夢の世界へ 誘われもするが、人間性その

ものは昔も今も変らないようである。

 このへんで三輪山に別れを告げることになるが、私は、この山を見るたびに、日本人の美

的感覚の原型を感じる。その形は最も単純で豊かな曲線を持ち、左右の均斉のとれた気品の

ある姿とでも言うべきか。また、山即ち自然が神であり、その神は、エホバのような峻烈な

神ではなく、すこぶる人間的な神である。それでいて、人間を超えた力を持ち穀物の豊饒と、

子孫の繁栄を司る神である。

 私は、この山をスケッチしたいと思って、よく近くまで行くのだが、その度に、どういう

のか雲や霞がかかって、はっきり見えない時が多い。大物主神の御機嫌が悪いのだろうか。

  三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや ⇒⇒⇒

                               額田王

  唐招提寺への道 東山魁夷




今井町

 山の辺の古道を辿って奈良から金屋へと来たが、更に桜井から耳成山のすぐ南を西行し、

飛鳥川の流れのそばにある今井という小さな町について語らねばならない。今井という町の

名は、あまり聞き馴れない名であるかもしれない。奈良から大和路を巡る途中でタクシーの

運転手に、この町の名を言っても、知らない場合が多い。知っていても、

「あすこに、何かあるのですか」と怪訝な顔をする。

「古い民家が揃っているので」と言うと、

「あれは江戸時代ですよ。古いものではありません」と、軽蔑の調子で言葉を返す。ここで

は千年以上経たないと、古いということにはならないらしい。

 今井は日本では珍しい町である。西洋では少しも珍しいことではないが、日本では古い町

の姿は急速に変り、消滅してしまったからである。今井の町も極原市の中に在って、その周

囲は、喧騒の巷である。このような環境の中に、静かな古い町が在るとは、誰にも信じられ

ない。しかし、一歩、この町内に入ると隔絶された世界に在る自分を感じる。

 狭い路地を挟んで古い家並が統いている。中には今西家のような八つ棟造りと言われる白

壁の堂々とした建物や、上品寺屋と言う酒倉を従えた大きな構えの造り酒屋等もあるが、多

くは普通のしもたやで、ひっそりと軒を並べている。昔は幾重にも濠をめぐらした町で、こ

こへ出入りするのには、すべて門を潜らなければならなかったが、今は残っていない。僅か

に内濠の跡が見られる。町全体が防禦のための機構を備えていたわけである。ヨーロッパの

ハンザ都市の性格に似ている。

 約四百年前、今井兵部卿という武士が、一向宗の信徒を集めて寺内町を造った。称念寺は、

今井氏の子孫が今も住職を勤めている。堺と共に自治組織を持つ商業都市として栄えたが、

幕末、諸大名に貸し付けていた金が、時代の変動と共に回収が出来なくなり、町全体が衰微
した。
そのために、今日まで昔の姿を留める結果となったと言われる。

 今西家は慶安三年(一六五○) 創建。江戸初期町家の形式がそのまま残り、外観が雄大で、

屋根の造りが複雑であり、小城郭の観がある。太い格子窓の下に、頑丈な駒繋ぎの環が取り

付けられているのも眼を引く。内部を見せて貰ったが、広い土間があり、いかめしい式台を

踏んで部屋へ入る。土間に面して店、中の間、台所と並び、それぞれの奥が、奥店、納戸、

仏間になっている。土間の上は大きく吹き抜けになっていて、太い梁組を仰ぐ。二階へ上る

と、座敷と厨子と呼ばれる広い部屋になっている。隅のむしこ窓から町の古い家並みを覗く。

この窓は物見の役をも持つものであった。

 豊太閤本陣跡で、御茶屋屋敷と呼ばれる家がある。太閤が吉野遊覧の時の本陣の跡であり、

後に代官松村氏の陣屋になったところ。称念寺で住職の今井氏に逢い、この町の保存に努力

していられる話を聞く。古くから住みついている人は少くなり、町に対しての愛着も薄くな

ってきた現在、かなり多くの家々が国の重要文化財に指定されていても、町のこの雰囲気が

何時まで保たれるかは疑問である。今の外観を残して修理することも益々、困難になってゆ

くことだろう。町の中には廃屋になってしまって、崩れ落ちようとする家もある。

 私は古い町が好きで、日本国中をずいぶん観て歩いたほうだが、これほど一区劃の中に、

纏って古い民家の残っている例は稀有のことと思われる。民族の貴重な文化的遺産であるこ

とは言う迄もない。積極的で実質を伴った保存方法を国家で考えてほしいものである。


  唐招提寺への道 東山魁夷



令和と梅花(ばいか)の宴

梅花歌卅二首 并序

 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅

 披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、タ岫結霧 鳥封

 穀而迷林。庭舞新蝶空歸故鴈。於是蓋天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿

 煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以據情。詩紀落梅之篇。古今夫

 何異矣。宜賦園梅聊成短詠。


【読み下し】梅花(うめのはな)の歌三十二首 井せて序

 天,平二年正月土三日に、帥(そち)の 老(おきな)の宅(いえ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)
 く。 時に、初春(しょしゅん)の月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風(やわら)ぎ、梅は鏡前
 (きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を 薫(かをら) す。
 加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は 羅(うすもの) を掛けて蓋(きぬがさ)
 を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は 穀(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には
 新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を 蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきみ)
 とし、膝(ひざ)を促(ちかずけ)け 觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿
 (えり)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら 放(ほしきまま)にし、快然と
 自ら足(た)る。若(もし)し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以(も)ちてか 情(こころ)を攄(の)べ
 む。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す。 古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)
 ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して 聊(いささ) かに短詠(たんえい)を成すべし。

【訳】梅 花の歌三十二首 序文

天 平二年正月十三日に、長 官の旅人宅に集まって宴会を開いた。時あたかも新,好き月、空気
は 美 しく風はやわらかに、梅は美女(びじょ)の鏡の前に 装(よそお)う白粉(おしろい)のごとく白

く咲き、蘭は身を飾った香(こう)の如きかおりをただよわせている。のみならずあけ方の山頂には
雲が動き、松は薄絹のような雲をかずいてきぬがさを 傾(かたむ)ける風情を示し、山
のくぼみに
は霧がわだかまって、鳥は薄霧にこめられては 林 にまよい鳴いている。庭
には新たに 蝶の姿を
見かけ、空には年をこした雁が飛び去ろうとしている。ここ
に天をきぬがさとし地を 座(しきい) と
して、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。

すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつみ)み、大自然に向かって胸 襟を開きあってい
る。淡々とそれぞれが 心のおもむくままに振舞い、 快(こころよ)くおのおのが
みち足りている。
この心 中を筆にするのでなければ、どうしていいあらわしえよう。中 国で
も多く落梅(らくばい)の
詩篇(しへん)がある。古今異なるはずとてなく、よろしく庭の梅を詠ん で、い
ささかの歌を作ろう
ではないか。
  中西進遍 万葉集 講談社文庫

 新元号である「令和」は、天平二年(七三〇)の梅花の宴で詠まれた歌三十二首(巻五・ 八一五
~八四六番歌)の前に置かれた宴の趣旨を述べる漢文から採られた。梅花の宴
は大宰府の長官
だった大伴旅人が主催したもので、当時まだ珍しい植物だった梅をテ
ーマに掲げ漢詩文になぞら
えて和歌を詠む、和漢折衷 の斬新な宴だった。
  奈良県立万葉文化館 井上さやか
 




籠神社(この)

 『丹後国風土記』逸文にあるように、豊受大神は、丹後半島に舞い降りている。その丹後国一宮
籠神社で、『丹後一宮籠神社縁起』によれば、当国籠之大
明 神 (豊受大神)は、日本第一の明
神で、鎮護国家の神であること、その影向
(ようごう・神や仏が人の姿に身をやつして現われること
)は、与謝郡の天 橋立の松の梢の
上で、大きな籠のような形をし、光り輝いていたという。

 また、神代のこと、丹後の粉河という清流に八人の天女が降りてきて、水浴びをしていたという。
塩土老翁という人物がひとりの羽衣を盗み、ひとりの天女
塩土老翁と夫婦となって、酒をつくっ
て暮らすようになったという。天女は常
に光を放ちながら虚空を飛び、それはまるで鳥籠から光を
放つようであったとし
ている。

 このように、丹後国の一宮の籠神社は、豊受大神を祀る神社である。すでに触れたように、豊受
大神は伊勢外宮で配られる神として名高いが、はじめこの地に
降臨し、のちに伊勢に勧 請された
ということになる。したがって、籠神社の別
名は、「元伊勢」とも呼ばれ、その祭神を「豊受大神宮之
本宮籠宮大明神」と呼
ぶのである。

 各種の伝承によれば、第十代崇神天皇の時代、天照 大神がこの地に神幸し、また、雄略 天皇
のとき、天照大神の神託によって、豊受大神が御饌の神(みけ・朝夕
の食事の世話をする神)として、
伊勢に遷された、とする。つまり、豊受大神の問
「トヨ」とは、穀物などの「豊穣」につながる「豊」で
あったことが分かる。
  天孫降臨の謎 関裕二




天孫降臨の最大の問題

 天孫降臨神話の最大の問題は、なぜ皇祖神が、南部九州(日向の襲の高千穂峰・宮崎県と鹿児島
県の県境の霧島、或いは宮崎県西臼杵郡高千穂)に舞い降りたのか、と
いうことである。

 この地は縄文色の強い土地柄であり、ヤマト朝廷、東国の蝦夷と共に、「夷狄」とみなしていた者た
ちである。

 なぜ皇祖神が、自ら「野蛮人」のレッテルを貼った、その隼人の真っ只中に舞い降りたことにしなけ
ればならなかったのだろう。

 だいたい、天孫降臨の直前、天照大神高皇産霊尊たちは、「出雲」に国譲りを強要していたので
あって、その奪った地·出雲には目もくれず、なぜ唐突に日向が登場したのか、まったく理解できない
のである。

 なぜ八世紀の朝廷は、天皇家の祖神たちを、 わぎわざ南部丸州に降臨させたのか、という疑問が
浮かぶのである。

 北部九州に降臨してもよかったのだし、それよりも、ヤマトに真っ先に降臨すべきであった。

 それだけではない。『日本書紀』は、「神武以前」、すでにヤマトには物部氏の祖·饒速日命なる人物
が降臨し、土着の首 長と手を結び、ヤマトを統治してい
たとする。

 この 「饒速日命」 は、天皇家の正統性を述べるうえで邪魔な存在でしかない。それを放置したまま、
なぜ皇祖神は南部九州に舞い降りたのであろう。

 少なくとも、『日本書紀』は、歴史時代の南部九州の熊襲(隼人)を、征討される立場の人々として描
いている。そのもっとも有名な例が日本武尊の熊襲征
伐で、 また神功皇后も、熊襲征伐を目的に北
部九州に陣を張っている。

 「作り話」としては、『日本書紀』の神話はあまりに不自然である。もっとまともなストーリーを展開す
ることもできたはずなのである。


隼人の地に残された不思議な古墳群

 ところで、天孫降臨神話の地日向の国には、不思議な古墳群が存在する。それが、宮崎県西都市
西都原古墳群である。

 ここには約三百三十基におよぶ三世紀半ばから七世紀半ばにかけての古墳(うち、三十一基が前
方後円墳、その他、円墳、方墳、地下式横穴墓、横穴墓といった様々な型式の墳墓が揃っている)が
密集している。

 西都原古墳群の特徴のひとつは、長期にわたって、同じ場所に古墳群がつくられたということ、また
一方で、ヤマトの前方後円墳とそっくりな形をした遺構が揃っている、ということなどである。

 たとえば、西都原古墳群のなかでもっとも古い前方後円墳は、八十一号墳で、これは纏向遺跡の発
生期の前方後円墳として名高い「石塚古墳」と形がよく似ている。また、纏向遺跡でもっとも有名で秀
麗な箸墓古墳とそっくりなもの、それから時代が下がり、天理市の西殿塚古墳、同じく天理市の伝
崇神天皇陵の行燈山古墳、伝景行天皇陵の渋谷 向 山古墳といった、天理市、桜井市を中心とする
ヤマトを代表する前方後円墳とそっくりな前方後円墳が、西都原の一か所に揃っているのである。

 また、木花之開耶姫の墓とも伝えられ(もちろん伝承の域を出ていないが)、宮内 庁の御陵墓参考
地に指定されている墳長一七六メートルの西都原最大の前方後円墳·女狭穂塚(めさほづか)は日本
全国を見渡しても四十八位という大きさであり、九州のなかでは最も大きい。

 最大の問題は、ヤマト建国の象徴である継向の前方後円墳とそっくりな墳墓が日向の地に造営され
たということであろう。

 このことは、ヤマト建国の前後から、ヤマトと日向の間に盛んな交流のあったことを示している。また、
それだけではなく、「夷狄=隼人」の地、「日向 (ここでは九州の東南海岸だが)」が「ヤマト建国」を支持
していた疑いさえ出てくるのである。これはいったい何を意味しているのだろう。 ここに天孫降臨の謎
を見みる思いがするのである。


  天孫降臨の謎 関裕二  




日本書紀が蘇我氏を隠匿

日本書紀』が蘇我氏の系譜を隠匿した理由

 物部氏や大伴氏、また中臣(藤原)氏といった古代の有力豪族は、みな『日本書紀』によって、出自
が明らかにされた。仮にそれが根拠のない伝承として
も、出自を「保証」「承認」されたことはたしかで
ある。これに対し、蘇我氏
なぜか無視されるのである。

 その『日本書紀』を編纂したのが藤原不比等であり、藤原氏は蘇我本宗家を叩きつぶすことで権
力を手 中にした。そして、『日本書紀』のなかで、蘇我氏を
こき下ろしたのである。

 したがって、もし蘇我氏が渡来系とすれば、『日本書紀』は、これを隠す必要はなかった。むしろ、
蘇我氏を罵倒する材料として、積極的に活用しただろう。

 「日本の王家を乗っ取ろうとしたのが渡来人だった!」

 と叫ぶことができたはずである。

 だが、『日本書紀』が選んだのは、系譜を「無視」することであった。蘇我氏の出自を公にはしなか
ったのだ。それは、蘇我氏の出自が分からなかったからと
考えるよりも、彼らの出自が「思いのほか
正統」だったからと考えると、辻褄(つじつま)が
合ってくる。

 すなわち、蘇我一族は怪しい素 性の人物群 ではなく、由緒正しい家系であり、だからこそ、『日本
書紀』はあえてこれを抹殺せざるを得なかったと考えら
れる。そうしなければ、蘇我氏を倒した藤原氏
の正当性が失われるほどの、正しい家系である。

 三世紀、纏向建設に向けて多くの地域が集まっていた。ところが『日本書紀』は、このヤマト建国前
後の歴史の主役や脇役たちの活躍を無視し、「出雲神話」
と「天孫降臨」そして「神武東征」という説話
にすり替えてしまった可能性が高
い。つまり、ヤマト建国の様相を、『日本書紀』は「天皇家の祖神と
出雲神の相
剋」という単純な構造に焼き直してしまった、ということである。

 たとえば、考古学的には、ヤマト建国にもっとも貢献したのは、瀬戸内海の吉備地方と考えられる
ようになった。それはなぜかというと、纏向に集まった土器
の中で、吉備の物の「質」「レベル」が、他
を圧倒していたからだった。多くの
土器が「生活用品」であったのに対し、吉備のそれは、宗教儀礼に
用いる代物だ
ったのである。

「具体的には特殊器台形と特殊壷形と呼ばれる土器で、前方後円墳に並べ、首長霊祭配を行うため
の儀器である。

 政治が「マッリゴト」といわれていた時代の「吉備の特殊器台形土器」は重大な意味を持っている。
また、前方後円墳の原形は、纏向出現の直前に吉備に生ま
れた楯築弥生墳丘墓であった疑いが強
くなってきている。

 三世紀のヤマトに突出した強大な王が出現したとは考えられないが、継向の中心勢力は吉備だっ
た可能性は高くなるばかりなのである。


『日本書紀』の第一の目的は蘇我氏を悪役に仕立て上げること

 『日本書紀』は藤原氏の政敵·蘇我氏をとことん悪く書いている。藤原不比等の中臣鎌足は蘇我氏
の横暴を憎み、天皇家の行く末を憂い、蘇我入鹿暗殺と
クーデターを起こしたと記している。蘇我氏
は自分勝手に皇室の民を使い、王位
をうかがっていたとするのである。そして、蘇我本宗家を倒すこ
とによっ
天皇を中心とした律 令 国家の整備に着手(大化改新)することができたのだとする。

 しかし近年、このような『日本書紀』の示した勧善懲悪の図式に、いくつも疑問が投げかけられてい
る。

 蘇我入鹿は聖徳太子の子·山 背大兄王の一族を滅亡に追い込んでいるが、この凶行の背後には
黒幕がいて、それが中臣鎌足だったのではないかとか、ある
いは、律令制導入に積極的だったのは
むしろ蘇我氏のほうで、その功績が横取り
されたのではないか…..…などなど。

 問題は、その藤原氏が潰した飛鳥の蘇我の政権のことである。

 藤原氏が心血を注いだのは、いかに蘇我氏の正止体を抹殺するかにあったはずで、そのいい例
が、蘇我氏の祖の名を『日本書紀』が無視している点である。

 『古事記』には、蘇我氏の系譜が明記されている。それによれば、第八代孝元天の皇子·比古布
都押之信 命が木 国 造(紀伊の国造)の祖,宇豆比古の妹,
山下影日売を要って産んだ子が建 内 宿
禰(武内宿禰)
さらに建内宿禰の子·蘇賀石 河宿禰は蘇我臣等の祖であったという。 したがって、『古
事記』にし
たがえば、建内宿禰が蘇我氏の遠祖であったことになる。

 ところが、『日本書紀』を開いてみると、次のように記されている。

 第八代孝元天皇と物部氏出身の伊香色謎命との間に彦太 忍 信命がいて、武内宿禰の祖父にあ
たる、とある。しかし、武内宿禰が蘇我氏の祖であるとは、ど
こも書いていない。

  
  天孫降臨の謎 関裕二




朝廷が神話構築した不純な動機

 これまで通説は、『日本書紀』の神話が「天皇家の正統性」を証明し、また「王権獲得の正当性」を、
誇張をもって説き明かしたものと考えてきた。
しかし、そう決めつけることは早計であろう。

 少なくとも、『日本書紀』編纂の中心に藤原不比等が座っていたとするならば、『日本書紀』が単純
な「天皇家のための歴史書」だったかどうか、じつに怪
しいといわざるを得ない。

 藤原氏は天皇の妃に自家の女人を送り込み、その腹から生まれた皇子を即位させることで、権力
を掌握していた。しかも、藤原氏のいうことを聞かない皇
族は、有無をいわさず抹殺したのである。

 藤原氏にとって天皇とは、権力を維持するための「道具」であり、彼らにとって、天皇の正統性とは、
要するに藤原氏の天下を保証するためのフィクションに
すぎなかったわけである。

 したがって、『日本書紀』の神話とは、「天皇の正統性」を主張するのが最大の目的ではなく、「藤
原氏の正統性·正当性」を主張する、という 「裏」の動機
目的こそが大切だったことに気づかされる。
そういう視点で神話を読み直せば、
新たなヒントを得られるのではあるまいか。

   天孫降臨の謎 関裕二





実際の神武東征

 『日本書紀』のなかで「神武東征」と華々しく描かれたヤマト建国も、実際には征服劇ではなかった
ことは、老考古学的にほぼ立証されている。

 ヤマトは、ひとりの独裁者の征服劇によって成立したのではなく、いくつもの首長層の緩やかな連
合体であった可能性は高くなる一方なのだ。

三世紀のヤマトには、前代未聞の政治と宗教の都市·纏向が建設され、また、新たな宗教観を示す
前方後円墳が造営されるに至る。しかも、纏向も前方後円墳も、どちらも吉備、出雲、北部九州、
ヤマトという当時の巨大化した勢力のそれぞれの文化をもち寄った代物だった可能性が高く、その
なかで吉備が優位性を保っていたようだが、唯一突出した存在というものがなかった。したがって、
三世紀のヤマトの 「大王」は、征服者でも独裁王でもなかったと考えられるうになったのである。


 考古学の証言によれば、はじめヤマトには吉備 · 出雲·東海· 北陸の土器と理関葬文化が集まり、
最後の最後に北部九州勢がやってきたという。とするならば、
まず「出雲神 ·大物主神」がヤマトに舞
い降り、さらに饒速日命がこれにつづ
いてヤマトの基礎を築き、最後の最後に「九州の大王」神武が
迎えられたという
話の骨格は、「纏向と前方後円増墳の完成」の考古学と奇妙に重なってくるわけで
ある。

   『日本書紀』にしたがえば、神武がヤマトに君臨するはるか以前、出雲神·大物主神
   は 、ヤマトに住みたいといいだし、遷し祀られたといい、またヤマトを造
成した神
   と讃えられたという。また、その後、神武天皇がまだ九州にいたころ、
ヤマトの地
   にはすでにいずこからともなく饒速日命なる人物が舞い降りてい
て、土着の首長
   ·長髄彦の恭順を得て、この地域を統治していたとする。神武天
皇はこの話を聞き、
   「ヤマトこそ都にふさわしい」と確信し、東征を決意する。

   ちなみに饒速日命はヤマト最大の名門豪族物 部氏の始祖に当たる。

    神武天皇は長髄彦の抵抗にてこずるも、饒速日命の子の可美真手命 (宇摩志
   麻
遅命)の王権禅譲によって、ヤマトの王位を獲得するに至るのである。

 
   天孫降臨の謎 関裕二
 



隼人

 天皇家の祖と隼人(熊襲)の祖は繋がっていたと『日本書紀』はいう。だがその一方で八世紀の朝
廷は、隼人を蔑視し、まつろわぬものという路印を押して
いるのである。この矛盾をどう考えればい
いのだろう。

 たとえば『日本書紀』は、太古以来、隼人は造反を繰り返し、ヤマト朝廷は盛んに征伐を繰り返し
てきたと、記録している。

    海幸山幸神話(二人は天津日高日子番能邇邇芸命の子)のなかで、隼人の祖·
    海幸彦(火蘭降 命)
は山幸彦に対し、これからは「俳優の民」になりましょう、とい
    っている。
また、一書第二では、隼人たちは天皇のもとを離れず、代々「吹ゆる狗
    (いぬ)して奉
る者」になったという。狗吠のはじまりである。


   呪術に長けた隼人を重用したャマト朝廷

    隼人は大嘗 祭でも特別な役割を担っている。

    大嘗祭式の開始は、隼人の吠声からはじまり、また、大嘗祭では隼人のつくっ
    竹製品が使われる。たとえば、「竹製の目籠」が神座(かみくら)に置かれ、死と
    復活の重
要な役割を果たしている。

    「目籠といえば、山幸彦が塩土老翁の用意した無目籠(まなしたま)に乗せられて
    海神(わたつみ)の宮に
連れて行かれたことを思い出す。宮島正人氏は、『海神
    宮訪問神話の研究』(和泉
書院)のなかで、この無目篭について、次のように指摘
    している。

    無日堅間の小船を造り、火遠理命(彦火火出見尊)を海 神 営に導いたのは塩椎
    神(塩土老翁)であり、同時にこの神は、紀一書によれば、川雁に変じ
た航海神で
    あった。(中略)一種の儀礼的死であるとすれば、ここにこそ、死
者の霊魂を「鳥船」
    が冥界に運ぶとされる鳥船信仰、及びこの信仰と密接に結
びつく舟葬の観念が、
    この物語の背後に存する、と断じてよいかもしれない。

    このように、隼人は、生と死の境界における呪能力を期待されていたことがは
    する。

    それだけではない。六世紀末、敏達天皇十四年八月の条には、敏達天皇が崩御

    され、残 宮が営まれ、隼人が警護にあたったと記されている。

    さらに、隼人は天皇の死と祭配 にも深く関わっている。
  天孫降臨の謎 関裕二





本薬師寺跡

 奈良市の薬師寺の前身寺院が建てられたとされる本薬師寺跡(7世紀末、特別史跡)で、南門跡が
つかった。橿原市教育委員会が5日発表した。薬師寺の伽藍建設をめぐっては、飛鳥時代の
原京
(694~710)
に築かれた本薬師寺からの「移築説」と、平城京遷都後の奈良時代の現在地での
「新
築説」があった。 南門の規模や構造が異なる可能性が高いとみられ、新築説をさらに補強する
成果となりそうだ。

 薬師寺は680年、天武天が皇后(後の持統天皇)の病気快復を願って藤原京内に創建され、710
年の平城遷都
に伴って奈良,西ノ京の現在地に移されたとされる。近年の奈良の薬師寺東塔に対す
年輪年代測定で奈良時代前半の建立が明らかとなり、東塔新築説が確定的となった。

 市教委は今年2~3月、中門跡の南の約118平方mを発掘調査。中門の約20m南から柱の礎石
が設置されたとみ
られる穴三つがみつかった。

伽藍中央を軸に対称に並んでいることなどから、南門跡の可能性が高いとみている。


異なる規模·構造

 南門の規模は東西約15m、南北約10mとみられる。中門より大型だった。一方、奈良薬師寺の
創建時の南門は東
西約10m、南北約9.5m 。

 小澤毅,三重大学教授(考古学)は「新築説をさらに裏付ける成果だ。 飛鳥時代の主要寺院は南
門より別の門の方
が大きいが、奈良時代は南門が大きくなる。本薬師寺はその最初の事例ではな
いか」と
話す。 (田中祐也)


 奈良·西ノ京の薬師寺のルーツとされる本薬師寺跡で、大きな南門が存在していた痕跡が初めて
確認された。薬師寺
は約1300年前の飛鳥時代末期、日本初の本格的な都だった藤原京内に創建
、平城京遷都に伴って現在地に移されたとされる。

南門跡の発見は「移築説」と「新築説」とで対立してきた論争をほぼ決定づけ、古代都城と寺院の
歴史を考
える上でも注目される。

 発掘調査した橿原市教育委員会によれば、南門跡では東西に柱が4本並んでいたとみられ、その
柱の問隔
は奈良時代と同じV尺(約5げ)だった。一方、 奈良の薬師寺の当初の南門は柱が6本で、
規模も構造も異
なっていた。

 かつて本薬師寺跡を発掘調査したことのある花谷浩·出雲弥生の森博物館長(考古学)は「考古資
料と
しての新築説の新たな裏付けがみつかった。 都城制での寺院構造を考える貴重な成果だろう
」と話す。

 南門跡は藤原京の主要な東西道路に面し、長さは約15m。長さ13m余りの中門より大きいこと
が分かっ
た。大脇潔·元近畿大教授(歴史考古学)によれば、飛鳥時代の寺院は、国内初の本格的
寺院とされる飛鳥
寺(奈良県明日香村)で西門が大きいように必ずしも南門は重視されなかった。

 一方、奈良時代は、都が中国の都城にならって碁盤目状に区画された都市計画(条坊制)に基づ
いて造ら
れ、寺院の立地も大通りに面するようになると、正面となる南門が重視された。

「本薬師寺は都の条坊を意識した最古の事例になるのではないか」とみる。
  2019-9-26  朝日新聞



本薬師寺跡に南門

 奈良市の薬師寺の前身寺院が建てられたとされる奈良県橿原市の本薬師寺跡(7世紀末、特別史
跡)で、南門跡がみ
つかった。 橿原市教育委員会が5日発表した。薬師寺の伽藍建設をめぐっては、
飛鳥時
代の藤原京(694~710)に築かれた本薬師寺からの「移築説」と、平城京遷都後の奈良時代
の現在地での「新
築説」があった。南門の規模や構造が異なる可能性が高いとみられ、新築説をさら
に補
強する成果となりそうだ。

南門重視、最古例か

 薬師寺は680年、天武天が皇后(後の持統天皇)の病気快復を願って藤原京内に創建され、710年
平城遷都に伴って奈良·西ノ京の現在地に移されたとされる。 近年の奈良の薬師寺東塔に対する

年輪年代測定で奈良時代前半の建立が明らかとなり、東塔の新築説が確定的となった。

 市教委は今年2~3月、中門跡の南の約118平方mを発掘調査。中門の約20m南から柱の礎石が
設置されたとみ
られる穴三つがみつかった。伽藍中央を軸に対称に並んでいることなどから、南門跡
可能性が高いとみている。

異なる規模·構造

 南門の規模は東西約15m、南北約 10mとみられる。 中門より大型だった。一方、奈良· 薬師寺の
創建時の南門は東
西約26m、、 南北約9. 5m.。
 小澤毅·三重大学教授(考古学)は「新築説をさらに裏付ける成果だ。 飛鳥時代の主要寺院は南門
より別の門の方
が大きいが、奈良時代は南門が大きくなる。 本薬師寺はその最初の事例ではない
か」と
話す。
   2019-9-26  朝日新聞(田中祐也)



日本書紀の神話



神話は政治的目的で書かれた?

 神話は純粋に、「歴史を残たい」から書かれたものではないという一事である。『日本書紀』の神話
は、
あくまで八世紀の朝廷の正統性·正当性を述べるために書かれたのであって、ここを見落とすと、
分かることも分からなくなる。

 津田史学の申し子を自称する直木孝次郎氏は、

 神話といえば、民衆の思想、民族の信仰をあらわすものと思われやす いが、

また神話とは本来そうしたものであるが、「記紀」にまとめられている日本神
はそうではないのである。天皇家による日本統一の確立という政治目的に奉

するように改作された政治的物語なのである。(『日本神話と古代国家』講談

学術文庫)

 と語り、天皇家が神話を提造したと考えるが、じつはこれは間違いで、もっと別の者たちの思惑を想
定しなければならない。上山春平氏は、『日本書紀』編纂
の中心に八世紀の権臣·藤原不比等がいて、
「自らの手でつくり上げた律令制
をたくみに利用しながら、旧来の氏姓制度のもとでは、とうてい太刀
打ちできそ
うにない名門の豪族たちを圧倒する地位に藤原家をおし上げるための素地をつくった」
(『神々の体系』中公新書)として、その不比等が、藤原氏の正当性を証明
するために、神話を記したの
ではないかと推理し、以下のように論を進める。

 まず、神話(『古事記』)には、明確な図式というものがあって、アメノミナカヌシを頂点に、二つに分か
れた「高天原系」と「根国系」の神々が対置され、最
後にイワレヒコ(神倭伊波礼毘古命=神武天皇)でつ
ながり、ヤマト朝廷誕生
に結びつけられている、とする。

 では、なぜこのような図式が描かれたかというと、八世紀、藤原不比等の時代に出現した「律令制の
原理と氏姓制の原理の矛盾葛藤とその解決の筋書き」
( 「続·神々の体系』中公新書)にほかならないと
するのである。

 つまり、旧態依然とした氏姓制に安住するヤマトの豪族層を、藤原不比等や藤原氏が律令制をもっ
て駆逐したのであり、このような経緯が、神話における出
雲国譲り大国主神建御雷命や高皇産霊
尊 (高御産巣日神)
の姿に投影されている、とするのである。

 さらに、権力を握った藤原氏の野望は、自家の女人の産んだはじめての皇子·首皇子(第四十五代
·聖武天皇)の即位であり、しかし一方で、首皇子の即位
が父子相 承の皇位継承という慣習を打ち破る
ことにつながるから、「女帝」から孫への皇位継承という図式を、天照大神から孫の天津彦彦火瓊瓊
杵尊
への統治権の禅譲という新たな神話を構築することによって、正当化しようと図った、というので
ある。

日本書紀と古事記と違い
 『日本書紀』には、たしかに天照 大神が女性であったと記されているが、『古事記』では性別が逆に
なっていて、『古事記』のいうところの天照大御神は、「女帝」なのではなく、乙巳の変蘇我入鹿を殺し
天智天皇(中大兄皇子)にほかならない、とするのである。八世紀の朝廷が記したのは『日本書紀』で
あって、かたや『「古事記』は、『日本書紀」を編纂した朝廷とは相反する勢力が記した文書であったと
考えられる。たとえば、『日本書紀』は朝鮮半島の百済を重視し、百済寄りの文書であるのに対し、
『古事記』はむしろ新羅を尊重しているが、この差の意味するところは大きい。.

 
 天孫降臨の謎 関裕二