浄土寺地図

 播州浄土寺の浄土堂は、柱や垂木、虹梁(こうりょう)は鮮やかな朱色、天井のない化粧屋根裏や壁は真っ白。その中央に、雲に乗って来迎する巨大な金色の木造阿弥陀仏(国宝)三尊聳え立つ。中尊は5mを超す丈六立像、脇侍の観音勢至両菩薩も4m近い立像である。 
 浄土寺は重源が造立した。
 浄土堂は、3度中国へ渡った重源が宋から伝えた外来建築法の大仏様(だいぶつよう・天竺様)仏殿である。純粋な形で残る大仏様は東大寺南大門とここだけで、とくに浄土堂は宋からの直伝色が濃いとされる。
 建物は柱間三つ四方の西方形。やや低い三角屋根の宝形造(ほうぎょう)りだが、内部は屋根板や垂木が丸見えの豪放な造りである。長くて太い円柱や柱の間に渡した虹梁、挿し肘木(ひじき)、円形束柱などの大仏様構造部材が観察できる。
 板張りの広い床は、真ん中の柱4本(内陣柱)を基準に9分割でき、九品(くほん)の弥陀浄土を思わせる。三尊はその中央区画の須弥壇に。中尊はピラミッド状屋根裏の増田に収まり、光背の放射光が屋根板に届きそうになるという。
 三尊像も宋風である。重源伝来の画像に倣って仏師快慶が制作、1197年に南部仏教界の名僧・解脱上人貞慶が導師をつとめて開眼した。通常の阿弥陀立像は右腕を曲げ左手を垂らすが、この像は左右逆の宋様式になっている。

浄土堂(阿弥陀堂)

 鎌倉時代の初頭は、 浄土宗,浄土真宗、禅索などの新宗派が

つぎつぎと起り,,宗教界に清新の気風を注入した時代ですが,

それと同時に,仏寺建築においでも、唐様、大仏様(天竺様)

が伝えられはなはだ多彩となった時代です。中でも、大仏様

(天竺様)建築は、構造力学的な原理に即した合理性を尊重し、

それ!徹しようとするものであったため、建築の美を実用に求

め、真の建築美を構造の合理性に発見しようとする近代建築観

とは、最も符合するものといえます。浄土寺の国宝、浄土堂は

奈良の東大寺南大門と並んで,大仏様(天竺様)建帑 代表す

る最も大切な建物です。

 この浄土堂は、桁行三間、梁間三間、単層、屋根宝形造,本

瓦葺の堂々とした建物で、柱間の隔りはニ〇尺という広いもの

です。

 鎌倉時代のはじめ、東大寺の再建工事が始められた際、大勧

進職となった俊乗房重源上人は、領所として与えられた大部荘

に壮大な寺院を興しましたが,そのとぎのままに残っているの

がこの浄土堂です。創建の建久三年(一 一九二)から昭和三二

年まで約七七0年の風雪に耐え、 一度も解体されずに持ちこた

えて来ただけでも偉大です。 つくり方が大仏様(天竺様)とい

う特異な様式で、 東大寺南大門とともに全国にただ二つしかな

い点も重要です。我が国建築史の上から、かけがえのない大切

な建物とされているのもそのためです。雄大な円柱から何本も

突き出ている挿肘木,,木鼻と,この挿?木とを結ぶポリューム

に富んだ虹梁,天井を張らずに化粧屋根裏を高いところまで見

せている雄大さ、重源上人の雄渾な気魄と、大陸風のおおまか

な雰囲気に,見る者は圧倒されてしまうほどです。主にエンタ.

スをもっていること、斗の下に皿を付けていること、捶の配

りかたが四隅だけ扇?としていること、?鼻に鼻隱板をうちつ

けていることなど、純粋な天竺様の建築手法は、ごの浄土堂の

研究に俟たねば,到底解明されません。

 昭和三二年三月より始められた解体修理工事は、三千五百万

円のエ費と、二年半の歳月を経て、三四年秋、めでたく嫂エし

ました。修理前の荒廃していた姿を知っている者でも, 創建当

初の美しい姿に復原されたこのお堂の前に立つとさ 源上人

建立当時のはつらつとした意気と感激を覚えずにはいられない

でしょう。.

 背面の透かし蔀戸からさし込む西陽が化粧屋根裏につかえん

ばかりの阿弥陀三尊様を西方極楽浄土よりの来迎の姿として浮

かび上がらせる、まさに浄土思想の建築的表現の究極とでもい

うお堂でもあります。

薬師堂(本堂)

 桁行五間,梁間五間、単層 屋根宝形造(本瓦甚。 浄土堂と

ほぼ同形同大の建物で、?土堂と相対し、浄土寺の根本道場と..

なっています。もと浄土型と同様に,重源上人によって建立さ

れ、天竺様の堂々とした姿を示していましたが、室町時代の中

頃に焼失し)その後、、永年一四年(一五一七)に再建されたの

が今の建物です.したがって、 天竺様の建て方をしていても浄

土堂ほどの純粋性 様や唐様の手法を混じているのを惜しまれ
ています。


木造阿弥陀如来及両脇侍立像(三躯)

 浄土堂の本尊で、浄土堂創建当時につくられ,安置されたも

のです。阿弥陀如来の高さ五三〇センチメートル,観音・勢至

の両菩薩はそれぞれ三七〇センチメートルあり、鎌倉初期の名

仏師快慶の作であります。丈穴の坐像は諸地方に多く残ってい

ますが、立像は珍しくその上、安定に細心の注意を払い、特殊

な据え付け方をしています。

 作風を見ると、鎌倉初期の写実風がかなり濃厚にあらわれ、

且つ、雄渾な気魄に満ちています。しかし、宋朝風の影響も見

のがすことはできません。これも、堂宇と同様,当初より大き

な修理をせずにいる優秀なもので、昭和三九年春新国宝に指定

されました。

 いづれも雲形の台座に立たれ朱色の屋根裏いっぱいまでの重

量感で西陽に浮かび上がる来迎の御姿は重源上人や仏師快慶そ

して多くのお弟子様達の阿弥陀信仰の篤さを物語っているかの

ようです。


開山の重源上人

 重源上人は,もともと、紀季重の子として保安二年(一 一 二一)

に生まれ、俗名を刑部左衛門尉重定といいました。一三歳のと

さ、山城の上醍醐に入り、名を重源と改め、真言の修行に専念

されました。同時に建築, 工芸,支度等の造旨も深く中国(当

時は宋朝) には早くから渡り、明州の阿育王山が建立されると

きは、周防の国から材木を渡し、重層で中央間の広さ三丈(九.一

メートル)という大規模な舎利殿を建てたこともありました。

上人が単に宋文化の愛好者であったばかりでなく、その技術に

ついても習熟していたことは、大いに注目せねばならぬところ

であり,この技術に対する自信が、東大寺再建にあたって天竺

様という新しい建築様式を採用する根底となり,東大寺再建の

大事業を成し遂げられたのでした。重源上人のこの新技法を最

もよく残した建物として,広く内外から注目されています。

 建永元年六月四日(一二○六) ,上人は東大寺?土堂におい

て、八六歳の生涯を閉じられました。 活動家であった上人の興

された寺院は,夥しい数にのぼったことと思いますが、東大寺念仏

堂・高野山新別所・播磨浄土寺・醍醐旧住道場・伊賀大仏道場・大阪

渡辺道場,周防阿弥陀寺は、特に七箇の念仏道場として,その

後も長く栄えました。


八幡神社拝殿・本殿

 大和の東大寺に鎮守の手向山八播宮があるように、同寺の末

寺には鎮守八播の建てられているところが少なくありません。

浄土寺でも鎌倉後期の嘉禎元年(一二三五)に八播宮を建てた

ことが寺記に載せられ、現存の拝殿と本殿はその遺構とされて

います。