安楽寺地図
安楽寺 建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、 或は百余衆或は五十衆、皆これ聚頭して仏法を学び、禅を 学び、道を学ばんことを要す云々。これは大覚禅師語録(建 長寺開山蘭溪道隆)の一節である。これにより安楽寺は、鎌 倉時代中期すでに相当の規模をもった禅寺であり、信州学 海の中心道場であったことがうかがわれる。鎌倉北条氏の 外護によって栄え、多くの学僧を育てていたこの寺も、北条 氏滅亡(1333)後は、寺運も傾いて正確な記録も残らないが、 国宝、重要文化財等数多くの鎌倉時代の文化遺産を蔵して、 信州最古の禅寺のおもかげを残している。 また、当寺は安土·桃山時代に勅特賜·大光智勝禅師高山 順京大和尚により、同じく禅を標榜する曹洞宗に改められ 現在に至っている。 |
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国宝八角三重塔 国宝指定、昭和27年3月29日、文化財保護法の規定により「世 界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝」と して国宝に指定された。 塔は本堂の裏を登った山腹にあり、松の緑に 映えて、重厚なたたずまいがどっしりと空間を支えている。建 立年代は従来鎌倉末期、又は室町初期といわれ定説がないが、 安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山が入宋僧、 二世が中国よりの帰化僧であり、共に北条氏との交渉も深いの で、北条氏滅亡後、これ程立派な塔婆の建立の契機を考えにく いことなどから、寺運の最も栄えた鎌倉時代末期に建てられた ものと思われる。 建築様式は禅宗様(鎌倉時代に宋から禅宗に伴って伝来した様式 で唐様(からよう)ともいう)八角三重塔で、初重に裳階(ひさし又は霧よけ の類をつけた珍しい形式であるうえに細部も又、禅宗様の形式 からなり類例が少ない。 内部は8本の母屋柱によって、内陣と外陣とに分かれ、周囲を外 陣とし、化粧屋根裏をあらわし、八角形の内陣は高床を張り、 天井は中央に天蓋をつり、その周囲に小天井を張ったあまり見 られぬ形式である。内陣には建立当時の八角の仏壇をおくが、 この形式も又珍しいものである。塔は印度のスツーパを起源と し、元来仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以降は 特定の人物又は戦死者の供養に建てられた例が多い。資料,, しく造塔の縁起は詳かでないがこの塔もおそらくそのような 目的で建てられたものと思われる。内外共に巧みな意匠と、類 例の少ない形式より出来ているこの塔は、西大寺(奈良)法勝寺 (京都)などの八角塔婆が失われた今日、わが国に残された唯 の八角塔婆であり、且つは、禅宗寺院に残る塔婆としても極め て貴重な遺構である。 |
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国宝八角三重塔の 建立年代について建立年代については、鎌倉時代末 期から室町時代初期までの間といわれてきたが平成十六年、奈良 文化財研究所埋蔵文化財センタ古環境研究室の光谷·大河内両 先生の調査の結果、三重塔用材の伐採年代は正應二年(1289)と 判明、1290年代(鎌倉時代末期)には建立された、わが国最古の禅 宗様建築であることが証明された。 |
西大寺 |
山門 |
庫裏 | 鐘楼 | 本堂 |
鐘楼 明和6年(1769、江戸時代)の建立で和様、禅宗様の折衷様式からなり袴腰鐘楼としては、当地方最 大級のものである。宝歴年間、(江戸時代)の古鐘は、太平洋戦争中金属供出のために応召し、現在の洪鐘 は、昭和32年鋳師香取正彦の鋳造になる平和余韻第16号朝鮮様の梵鐘である。 経蔵 寛政6年(1794、江戸時代)宇治の黄檗山1葛福寺カ·ら購入した鉄眼の一切経を保管するために建 てられた方3間、ぬりこめ、宝形造、銅板葺の経蔵で、この種建物の代表的なものである。
傅大師(ふ)によって考案されたといわれる廻転式書棚のような輪 蔵は、八角形で看経(経を読むこと)の便に造られている。 この輪蔵を廻転すれば、文盲も看経と同じ功徳にあずかることが出来るといわれている。因に輪蔵には古来から必ず傅大師をまつる習慣がある。 |
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