薬師寺(やくしじ)地図

中門
 
法相宗(奈良仏教)⇒⇒⇒ 天武天皇⇒⇒⇒  本薬師寺⇒⇒⇒ 藤原京⇒⇒⇒ 白鳳時代⇒⇒⇒
薬師如来⇒⇒⇒  日光菩薩⇒⇒⇒  月光菩薩⇒⇒⇒ 聖観世音菩薩⇒⇒⇒ 吉祥天女⇒⇒⇒
 若草山を背に東西両塔のこの姿も暫くの間見納めとなる。
 大池を前景にするアングルは1950年頃入江泰吉が
見つけたとされる。
2010-5-1撮影 撮影ポイント地図
西塔 東塔(国宝)
 2009年7月から10年間の解体修理に入る。2010年2月まで解体に向けた調査を進め、その後本格的な修理にかかる。解体は1898〜1900年以来1世紀ぶり。 
 約110ねんぶり7の解体修理が進む。塔を支えた創建当初の基壇の全体が姿を現した。(2015−2−27)
 極めて丁寧に土を突き固めた版築(はんちく)工法が施されているという。
 基壇は一辺約13m四方。約25層(1層あたり厚さ2.5〜6cm)にわたり土固め、直径4〜5cmの棒で突き固めた跡が残っている。非常に丁寧に固めた
版築と言われる。
 基壇下部の石(地覆石・じふくいし)について、平城京の他の寺院の大半が加工しやすい凝灰岩なのに対し、東塔では飛鳥時代の寺院と同じ花崗岩を主に
用いられていた。飛鳥の様式を色濃く引き継いだとみられる。
 「塔はインドの古いことばでストゥーパといい、本来釈尊の舎利(御遺骨)を祀る墓を示した。
中国ではそれが卒塔婆と音訳され、やがて日本にも「卒塔婆」として伝来した。
 その後一般には墓標を「塔婆」と呼びならわし、寺では塔とのみ呼称するようになった。
 塔は一寺に一基あれば足りる訳であるが、白鳳時代薬師寺において初めて二基を相対して配置する伽藍様式として建立された。」
西塔縁起より
続き⇒⇒⇒ 
 「東塔は天平二年(730)平城京(現在地)に建造された薬師寺の堂塔のうち、千二百五十年の風雪に耐え、
火災や兵火をまぬがれて残る事を得た唯一の建物である。(藤原京694〜710年からの移築説がある)
 東塔は薬師寺の縁起そのものを物語っている。すなわち天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒祈願のため、
薬師寺伽藍を創建(680)され、効あって皇后は本復されたが、その六年の後天皇が不豫を得、やがて崩御された。
 持統天皇は先帝の意志を継いで造営を進められ、前後十八年を費やして文武二年完成を見た。
以降いくばくもなく平城遷都に伴って、創建の様式・規矩に則り改めて此地建設されたものである。
 美しいたたっずまいで知られるこの古塔について 凍れる音楽 という形容詞が固定しているが、
むしろ蒼古とした姿の中に躍動する余韻があり、白鳳時代の文化消息が窺い知られる。」東塔縁起より

 高さ34m各層に裳階(もこし)があり、大小の屋根のリズミカルな様式美から「凍れる音楽」と評される。
頂上の水煙(すいえん)には飛天の透かし彫りがある。
 東塔については、奈良時代の730年ごろに建てられたことが年輪年代測定によって分かった。
 東塔をめぐっては、飛鳥時代の藤原京(694〜710)からの「移築説」と平城京遷都後の「新築説」があった。
     薬師寺藤原から平城へ、寺の移転の実態、問題点⇒⇒⇒
     続き⇒⇒⇒
東塔相輪について⇒⇒⇒
東アジア塔の規模⇒⇒⇒
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當麻寺西塔⇒⇒⇒
金堂 大講堂
 裳階(もこし)をつけた美しい堂で、籠宮造りと呼ばれている。
堂には藥師三尊像(国宝・奈良・金銅)即ち、薬師如来(国宝 銅造白鳳時代)
を中央に、脇侍(わきじ)として、向って右が日光菩薩(国宝・銅造・
白鳳時代)、
左が月光菩薩(がっこう・国宝・銅造白鳳時代)が安置されている。
 金堂の前にある灯籠は、伽藍の中軸を示すシンボルとされ、
東西両塔の中心線と、金堂の中心線が交わる場所に設置されている。
 「大講堂は、正面41m、奧行20m、高さ17mあり、
伽藍最大の建物です。
講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、
これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して、
経典を講讃(こうさん)したためです。
 大講堂の本尊には弥勒三尊像(重文)後堂(うしろどう)には
仏足石・仏足跡歌碑(国宝)が安置されております。」
仏像について
 天武天皇が皇后野讚(うののさらら・後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願し、後持統天皇によって
藤原京内で造営が進められた。
 平城遷都にともなって本尊も平城薬師寺に移されたとの説(移座説)と、平城京で新たに製作されたという説(新鋳説)がある。
 
 西塔
奈良・世界遺産⇒⇒⇒
東院堂(国宝・鎌倉) 回廊は復廊  玄奘三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)・大唐西域壁画殿(だいとうさいいきへきがでん)

 「玄奘三蔵院伽藍中央の玄奘塔は、法相宗の始祖・玄奘三蔵の頂骨を真身舎利(しんじんしゃり)として奉安し、須弥壇(しゅみだん)には玄奘三蔵訳経像(やっきょう)をお祀りしてしています。また、大唐西域壁画殿は、平山郁夫画伯が三十年の歳月をかけ完成された玄奘三蔵求法(くほう)の精神を描いた壁画を絵身舎利(えしんしゃり)としてお祀りするものです。」 秋季・春季に一般公開される。
 第43代 元明天皇のために皇女吉備内親王が養老五年(721)ごろ建てたもので、弘安八年(1285)再建されている。
ここ東院御本尊(銅造)聖観世音菩薩像(国宝・奈良・金銅)が、(木造)文殊菩薩坐像(重文)、(木造)吉祥天立像(重文)等が安置されている。
服装⇒⇒⇒
 写真の回廊は東側南北に通じる中心に壁のある復回廊であるが、講堂の両脇、東西に通じる回廊(48m)は同じく復廊となっているがあが、壁を北側に寄せ、単廊風にし、催事などに使える広い空間を確保してある。
 南門をくぐった境内の東西の隅に龍王社と若宮社が向かい合って建っている。冷たい風が松を揺らすと、忍び泣きのように聞こえる。これは大津皇子の無念の泣き声といわれている。
 龍王社のご神体の龍神像は、躍動感があり眼下をにらんでおり、大津皇子の怒りを表している。
 龍王社も若宮社も皇子の鎮魂のために建てられたといわれている。

食堂(じきどう)
 中世に失われた(8世紀前半)食堂を2017年に
再建される。
境内図  伽藍配置比較⇒⇒⇒
鐘楼
若宮社 龍王社
 3月30日から4月5日に行われる修二会(花会式・はなえしき)は、先導役である管主はじめ練行衆10人が参籠する。
 午後3時ごろ、練行衆が薬師寺の鎮守である休ヶ丘八幡宮に参拝し、行の無事を祈願する。夕方からは参籠所となる地蔵院に場所を移し、行中に守らなくてはならない五つの戒めを授かる授戒の儀式がある。夜には金堂の薬師如来の前ですべての罪を悔い改め、国家繁栄や五穀豊穣など祈る悔過法要の行を営む。
 薬師寺の修二会は嘉承2年(1107)、堀河天皇が、皇后の病気が治った感謝をこめて椿や梅、ユリなど10種類の造花を修二会に供えたのが始まり。
修二会(花会式)⇒⇒⇒
最勝会(さいしょうえ)
 平安時代に日本三大会(え)のひとつとされた法要。5月4日雅楽が奏でられ、参列の僧侶たちに勅使役がお香を配る儀式。
 天長7年(830)に始まったが、その後途絶された。
 大講堂で、金光明経の教義について僧侶たちが論じる講問論議や参列者全員の読経がある。
 日本三大会には宮中の護斎会(ごさいえ)、興福寺の維摩会(ゆいまえ)がある。
玄奘三蔵会大祭
 5月5日玄奘三蔵院伽藍で法要。三蔵法師の西域行の伎楽の奉納がある。
玄奘三蔵坐像
 木造、鎌倉時代、高さ88cm、右手の親指から中指までの三本を立て、左手にはインド経典を持つ。持ち帰った経典を翻訳する姿を表現している。
 中国唐時代の僧侶・玄奘(げんじょう・602〜664)は、西遊記に登場する三蔵法師のモデルになった人物である。シルクロードを越えて仏教の聖地
 天竺(てんじく・インド)で学び、数多くの経典を持ち帰って漢訳する事業を進めた。
 法相宗の開祖である慈恩大師(じおん)を弟子として教えたことから同宗の始祖とされ、大本山の薬師寺では分骨をまつる。
 

奈良・薬師寺で再建工事が終わった「食堂」内部の壁画は、
東京芸術
大名誉教授で日本画家の田渕俊夫さん( 75 )が、
4年が
かりで仕上げた大作だ。
平山郁夫さんの弟子でもある田渕さんは「薬師寺には

平山先生作の『が唐西域壁画』があるだけに、
自分ら
しさを出そうと頑張らせていただいた」と話した。

食堂は僧侶の食事や儀礼の場。薬師寺によると、
建当初の食堂は973年に焼失。1005年に再建さ

れたが、その後、再び失われていた。
今回の食堂は南
北約16m東西約41m高さ約14メ10建築家の
伊東豊
雄さんが内部をデザインした。
落慶後は法話などの場
になる。
2017−5−10 朝日新聞
 (佐藤圭司)

 

奈良市の薬師寺で、僧侶の食事や儀礼の場だった

「食堂」の復興工事が完了し、26日、落慶法要が開か

れた。招待者約1700人が参列した。27、28日にも営まれる。

復興資金には写経の納経料があてられ、法要では納

経者代表から村上太胤管主にお堂の鍵が手渡された。

正面扉が開くと、ほの暗い堂内に6m四方の本尊「阿

弥陀三尊浄土図」が浮かび、村上管主が長さ約1M

の開眼筆で入魂の作法をした。参列者も筆に結ばれた

五色のひもを持って加わっ創建当初の食堂は973

年に焼失。1005年に再建されたが、その後、再び

失われた。2017−5−26 朝日新聞 (吉沢範英)

石神社⇒⇒⇒
小山廃寺⇒⇒⇒ 
   
 稲荷孫太郎社
 
師寺休丘八幡宮緑起

 日本人は奈良吟代より仏菩薩を本

地とし諸神を垂述として、両者が表

一体となり、互 に利益をほどこし

ながら衆生済度さ れるものとする信

仰に生きてきた.

 薬師寺は寛平年中(八八九〜八九

七)に、別当の栄紹大法師が寺の鎮
守としてこの八幡宮の祭神である僧

形八幡神・神功皇后・仲津姫命(い
ずれも国宝)を勧請した。.

 現在の社殿(重要文化財)は幾

虔かの天炎・人災によう破壊、焼失

された後、慶長八年( 一六〇三)に

豊臣秀頼によって新造されたもので

ある。他に瑞垣門,楼門,中門等も

新造されたが地震で崩壊した。

本殿は三間社流造で,両脇に脇殿が

接続している。脇殿は十九明神の板

絵(宝蔵殿に安置)が祀られている。

南北の細長い建物は座小屋と呼ばれ

寺僧の加行場としても使用されたが

本来は古くから存した宮座の座隶

が座すところで、明治以後残ってい

る例は少ない。また両脇に脇殿が付

属する社殿は少なく、しかも座小屋

まで残っている点で歴史的に重要な

建物とされているのみならず、明治

以後は神仏が分離され、一寺院が神

社を管理している例は少ない。

 将来はさらに神域を整備し、楼門

などの復興.と含め、本地垂迹、神仏
習合の日本古来の信仰の姿にかえす

よき信仰の道場として復興したいと

念願している。



























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