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百穴古墳群

百穴古墳群 (大津市滋賀里町甲)  国指定史跡『崇福寺跡』

百穴古墳群は、今から約一四〇〇年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。
これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋
(横穴式石室)を土でおおったものです。
石の部屋は、死んだ人を納める場所
(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。
表から見ると、この通路の入り口が穴のように見えます。この穴がたくさんあることから、「百穴」という
名前がつけられました。

 石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状に
なっています。石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時にはのイヤリングや銅の
ブレスレットなどで飾られ、木や石の棺桶にいれられました。また石室内には、多くの土器
(土師器·
須恵器
)もいっしょに納められました。この中には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド·カマ·
コシキ
·ナベ)も含まれています。
 古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井
がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪
·奈良·和歌山の一部にも認
められますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。
現在までの研究では、これらの特
徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するので
はないかと考えられています。

 昭和一六(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。
             大津市教育委員会  平成四(一九九二)年三月

     
     
   



滋賀大仏

石造阿弥陀如来坐像(志賀の大仏) 一軀  (大津市滋賀里町)

高さ約三.五メートル、幅約二·七メートルの花崗岩に、厚肉彫に彫出した
高さ約三
.一メートルの阿弥陀如来坐像です。十三世紀頃につくられたと考えられ、
上半身に彫刻の主力をおいたゆったりとした雰囲気のただよう石仏です。

この石仏の横を通る道は、崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川
へぬける旧山中越
(志賀の山越)で、大津側の入り口に位置するこの場所と、
山中町の西教寺門脇、京都の北白川に石仏があり、いづれも山中越を
利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています。

現在、地元で「大仏講」がつくられ大切にお守りされています。

昭和631111

大津市教育委員会

   
   




金仙滝

   



皇子山古墳

皇子山古墳と周辺の遺跡  大津市錦織一丁目

皇子山古墳が造られている錦織、皇子が丘地域は、大津宮が営まれていた地として
全国的によく知られています。しかし、この地は、大津宮遷都が行われるかなり以前から、
人々が定住し、活発に活動していたことが、いままでの発掘調査で明らかになっています。
縄文時代の土器片が錦織や国鉄湖西線西大津駅付近から出土しており、遺構は発見
されなかったものの、すでに、縄縄文時代に人々の活動がはじまっていたことがわかります。

弥生時代から古墳時代にかけて徐々に遺跡が多くなり、古墳時代の初めには近江で最
も古いといわれている皇子山一号墳が琵琶湖を見下ろす皇子山の頂上に造られます。
これに続いて、六世紀後半から七世紀初めにかけて、山手の丘陵一帯に小さな古墳が
いくつも造られるようになります。この付近では、宇佐山の麓一帯に三〇基余りの古墳
(宇佐山古墳群·山田古墳群)が知られていす。当地域を含めた坂本から皇子が丘にか
けての同時代の古墳は大部
横穴式石室をもち、しかもその他の地域とは異なったドーム
状の天井を有したつくりとなっており、それぞれの地域に居住する氏族の違いによるもの
といわれています。すなわち、ドーム状の天井をもつ横穴式石室は、当地域一帯に居住し
ていた渡来系の氏族
(錦織·大友·穴太·三津氏など)が残したものだというのが定説となっ
ています。さらに、この渡来系の氏族たちが、のちの大津宮遷都にあたって大きな力となっ
たことは容易に推測できると思いきす。いま、大津宮については、発見から一〇年、
発掘調査により徐々に建物の配置などが明らかになりつつあります。いまからそう遠くない
時期に、大津宮の全貌がはっきりすることでしょう。

 このように、当地域は、市内でも早くから開かれた地域のひとつとして、皇子山古墳,
大津宮
(いずれも国指定史跡)をはじめ貴重な埋蔵文化財が多く残されてます。我々は、
これらの貴重な文化遺産を大切に守り、永く後世に伝えていかなければなりません。

昭和六十年三月

大津市教育委員会

 皇子山1号墳
   
   
皇子山1号墳

皇子山の頂上に造られた前方後方墳、全長約六〇m,後方部長さ約三五m、前方部長さ二五m,
前万部先端部幅約二八mの大きさをもち、斜面に葺石
(墳丘の土砂の流朱を防ぐために盛土表面を
礫でおおったもの
)がふかれた立派な造りの古墳です。特に、·古墳の東側面は、西側面にくらべて、
葺石がていねいにふかれており、明らかに琵琶湖を意識した造り方となっています。なお、現在見え
ております墳丘斜面の葺石は、古墳築造時の葺石の状況を理解していただくために、墳丘に盛り土
(古墳築造時の葺石を保護するため)を行ったうえに、復元したものです。

発掘調査は、昭和四十五年に滋賀県教育委員会の手で行われ、地面を削り出したうえに盛り土を
した古墳であること、後方部に四カ所、前方部に一カ所の遺体を埋葬した施設があったこと
,などが
判明しました。埋葬施設の詳しい調査が行わていないため古墳が造られた時期は確定できませんで
したたが、葺石の間などから見つかった土器から、四世紀後半頃の築造年代が考えられていま
す。
これにより、皇子山一号墳は近江で最も古い時期の古墳であることが明らかになりました。しかし
,
のような人物が埋葬さているかについては、残念ながらわかっておりません。

        昭和六十年三月
               太津市教育委員会