金閣寺地図

 永い歳月を風雨にさらされたてきた金銅の鳳凰(ほうおう)を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼(まなこ)を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるいがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかりと踏んでいればよかったのだ。

  金閣寺  三島由紀夫 より
金閣(東南から)と鏡湖池(きょうこち) 
 世界遺産。
 正しくは鹿苑寺。臨済宗相国派。 
応永3年(1397)足利義満が営んだ山荘を、義満の死後、寺にした。
 
京都・世界遺産⇒⇒⇒
金閣寺拝観の手引き⇒⇒⇒
 鏡湖池には葦原島といわれる中島や幾つもの岩島があり、これらの岩には畠山石・細川石と創建時に奉納した諸大名の名が付けられている。
 三層楼閣の舎利殿で、寺の中心にある鏡湖池(きょうこち)の畔にある。屋根は杮葺きで、二層・三層部分は漆の上に金箔が貼られ、屋根には鳳凰が飾られている。
 この建物は舎利殿・重々殿閣・三重殿閣などと呼ばれていたが、文明16年(1484)、はじめて「金閣」の名が見えるようになる。
 一層は法水院(ほうすいいん・鏡堂)と呼ばれ、西側には船着場と池に突き出した漱清(そうせい・釣殿)を持つ寝殿造の阿弥陀堂である。また二層は潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれる書院造の観音堂、さらに三層は究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれる禅宗様(唐様)の仏間、という形式を持ち、住宅と仏堂の様式を併用を併用・統合した建物になっている。創建当初、二層には足利義満筆の「潮音洞」、三層には後小松天皇筆の「究竟頂」の額がかけられていた。
 本来は、寺の中心部にある金箔張りの三層楼閣(釈迦の骨を祀る舎利殿)を指して金閣というが、この建物が大変印象深く有名であるため、現在では寺全体が金閣寺と呼ばれている。
総門 参道
足利八代将軍 義政公遺愛
富士形 手洗鉢
銀河泉 
義満公 御茶の水
金閣寺垣 厳下水(がんかすい) 義満公お手洗いの水
夕佳亭
 現代のものは明治7年の再建。
中央床柱に南天の古木を用い右手に萩の違い棚を設ける古今の名席といわれる。
 萩の違い棚:萩の木の根の方と枝先とを交互に組合わせて中央に鶯宿梅を配す。
 江戸時代の茶道家・金森飛騨守宗和侯が好んだ数奇屋造りの茶席で、
後水尾天皇献茶の聖跡、夕日に映える金閣が殊(こと)に佳(よ)いということから
「夕佳亭・せっかてい」と名付けられた茶席で、正面の床柱が有名な「南天の床柱」である。
不動堂 不動堂内 陸舟の松(りくしゅうのまつ)
 金閣寺の境内に現存する最も古い建物。
 本尊の石造不動明王は秘仏、
二月の節分と大文字の送り火が行われる八月十六日には開扉法要が営まれる。
 足利義満公遺愛の盆栽を移し、
帆掛け舟の形に仕立てたと伝えられる五葉松の松。
樹齢約600年。陸舟(おかふね)の松とも呼ぶ。
 
 屋外に在って、金色の姿が見られる建物は他にない。
 金閣の上方には左大文字が、また、銀閣の上方には大文字が輝く。
金閣
 本堂の西方、南に鏡湖池(きょうこち)をひかえている。金色に輝く三層の楼閣を鏡の様に映し出す。もともと寺でなく、どちらかといえば住宅建築であるが、足利義満は楼閣を建て林泉をととのえて山荘にした。開山に請われたのが禅僧の夢想礎石であったが、実際に庭づくりをしたのは河原者といわれた庭師たちだった。
 昭和25年7月金閣寺炎上である。火をはなったのはその寺で修行する青年僧だったが、それを6年後に三島由紀夫が小説に書いた。
 いまのは昭和30年春の再建。もとの通りの三層で高さ約12.5m、むかしのものは最上層だけが、金箔であったが、再建のものは、全体に金箔をおき、屋根は桧皮葺。一階は寝殿造りに、二階は鎌倉時代の武家造りに、三層は禅宗寺院を模したもの。
 
 鹿苑寺は、鎌倉時代に造られた貴族の別荘を、足利義満が応永4年(1397)に譲り受けて粋を尽くした別邸北山殿に造り替え、さらに義満の死後応永29年に、夢窓疎石を開山とする禅寺とされたことに始まります。
その後衰微しましたが、江戸時代に金閣および庭園の修理がなされました。
 庭園は、衣笠山を借景に、既存の池にさまざまの名石を据え、池に向かって三層の豪華な舎利殿金閣を建て、山上に展望所を建てています。金閣は、屋根をこけら葺とし、第二・三層前面に金箔を押すという、北山文化の象徴となる華麗な建築の権威と王朝への憧れが示されています。なお、金閣は昭和25年(1950)に火災により焼失しましたが、昭和30年に復原的に再建されました。
                           京都市
 義満は自分が住んでいた北山殿(金閣寺の前身)に七重塔を再建した。高さの記録はないが、相国寺の塔が落雷焼失してしまい、同規模のものとみられ、110mと推定される。これは、境内の発掘調査で、相輪の破片が見つかり、元は直径2.4mの円形だったとみられ、普通の相輪に比べて相当大きい。そこで、義満が建てたという北山大塔の一部と推定された。相国寺⇒⇒⇒
 この塔も義満の死後応永23年(1416)に落雷で焼失した。
 京都タワー131m、大阪通天閣100m、東寺56m
庭園
 足利義満が金閣その他の殿堂を造ったのち、応永13年(1406)から築造に着手したのが、いまにのこる庭園で、当時の名匠の手になったものと思われ、室町時代を代表する一番の名園になっている。園内には鏡湖池を設け、池畔には各種の名花珍木が生い茂り、北方の丘には龍門滝・銀河泉・安民沢などがある。なお園中にある夕佳(せきか)亭は金森宗和の好みによってできた江戸時代初期の茶室で、南天の床柱、萩の木などを用いた棚がある。
 幻の金閣は闇の上にまだありありと見えていた。それは燦(きら)めきを納めなかった。水ぎわの法水院の勾欄はいかにも謙虚に退き、その軒には天竺様の挿肘木(さしひじき)に支えられた潮音洞の勾欄が、池へむかって夢みがちにその胸をさし出してていた。庇(ひさし)は池の反映に明るみ、水のゆらめきはそこに定めなく映って動いた。夕日に映え、月に照らされるときの金閣を、何かふしぎに流動するもの、羽搏(はばた)くものに見せていたのは、この水の光であった。たゆたう水の反映によって堅固な形態の縛(いまし)めを解かれ、かかるときの金閣は、永遠に揺れうごいている風や水や焔(ほのお)のような材料で築かれたものかと見えた。

  金閣寺  三島由紀夫 より
 新しい時代を切り拓く英雄は、つねに伝統を破壊する。織田信長がそうだが、義満もそうだった。あらゆる権威や因襲をふみ破った。そのことを金閣が象徴しているとは考えられないだろうか。
 義満がつくった金閣は、寝殿造りと中国の元・明風の禅宗建築を取り入れ、金箔で全体を仕上げるという、これまでの伝統にはまったくない奇想天外な建築物である。ひとつ間違えば、邪道といわれてもおかしくないだろう。
 出家して北山に移ってからの義満の生活ぶりと権勢は天皇をしのぐほどだったという。みずから天皇になりたがっていた節さえあるらしい。天皇が公務をするときに使う紫宸殿に似せた建物をつくり、そこで権力をふるっていたようだ。
 通常は天皇のもとでおこなわれるはずの関白や大臣以下の任免も、いつしか北山第で行われるようになっていた。義満と公家の関係は、あたかも君主と家臣の関係のようだったという。このため、北山第は日夜公家の廷臣(ていしん)たちの往来でひしめいていたらしい。都の中心から離れた北山第が、当時の政治の中心となり、かつ情報の発信地となっていたのだろう。

  百寺巡礼  五木寛之  より

金閣炎上⇒⇒⇒