吉備塚古墳地図

 奈良市高畑町の奈良教育大校内にある吉備塚古墳(6世紀前半)から出土した

長約93cm、幅約3cm)に刻まれた人物などの象眼は、中国·南斉の神仙図をルーツにした

日本の作品という見方を、同大学の山岸公基助教授(美術史)が明らかにした。両方にある

翟の絵柄の共通性に着目した。国内に類例のない図柄だけに大刀の制作地をめぐり様

々な見解があったが、絵のモチーフを通した考察は初めてだ。
   編集委員·小滝ちひろ)2006-4-28  朝日新聞(夕刊)


 この「三累環頭大刀(さんるいかんとう)」は、X線調査で刀身の表裏に仙人らしい人物像
や竜虎、「花」のよう
な文様が銀で象眼されていることがわかっている。人物像は冠をつけ
立ち姿で、表側の像は
背中に羽があった。これまで、朝鮮半島の新羅や百済で制作された
という見方が出ていた。

 山岸さんは、先ごろ発行された調査の中間報告書「吉備塚古墳の調査」で、象眼文様に
関す
る論文を発表、中国江蘇省丹陽市にある、南斉の王「和帝」(502年没)や「明帝」
(4
98年没)の墓を飾る壁画と、象眼との共通性を中心に論じた。
 塼(せん・れんが)に型押しされた
壁画は「羽人戯竜図」と呼ばれ、羽人(羽のある仙人)が
と戯れる姿が描かれている。この仙人が高々と掲げるのが、光の尾を長くたなびかせる
「花」だ。

 山岸さんは、大刀の刀身に刻まれた人物が羽人、その後ろにいるのが竜(裏は虎) 、
さらに
後ろが光の「花」と考えた。特に、波状の線がたなびく「花」の尾の表現がよく似てい
る。

「南斉の図柄が日本に伝わり、国内の技術者が大刀に刻んだのだろう。壁画に比べて絵
が稚拙
なのはそのためだろう」と見る。

 大刀の時期についても、古墳の築造より数十年前と推定。倭王武(雄略天皇)が南斉の
高帝
から「鎮東大将軍」の称号を授かった年(479年)を含む5世紀後半とした。「6世紀に途

絶える日中交渉が、5世紀後半はまだ盛んだった。大刀の刀身もそのころ制作され、古墳
築造
の6世紀まで伝えられたのではないか」。やはり金や銀の象眼で文字が彫られた
稲荷山古墳(埼玉県行田市)の鉄剣や江田船山古墳(熊本県和水町)の大刀などが5世紀
後半に登場するのも、時期推定の有力な証拠と考えている。

 山岸さんの推論は、日本が6世紀に仏教を受け入れた背景にも及ぶ。「5世紀後半まで、
本の神は人の姿をしていない存在だった。しかし5世紀後半に、羽人のような姿の神を
受け
入れた。その履付き』が、仏像の受容にも影響したと考えたい』
古い太刀⇒⇒⇒

 
 
南斎和帝の墳墓に記された羽人と竜。羽人が手 に持って掲げる
「花」の
図柄が吉備塚古墳の「花」に似る