第21代 雄略天皇(ゆうりゃく)地図
父…允恭天皇(第五皇子) 母…忍坂大中姫命 誕生…418年(允恭天皇7年)12 御名・異称…大泊瀬幼武尊 皇后…草香幡梭姫皇女 皇太夫人…葛城韓姫 立太子…━━ 即位…456年(安康天皇3年)11.13 在位年数…23才 崩御…479年(雄略天皇23年)8.7 年令…62才 皇居…泊瀬朝倉宮 年号…━━ ○雄略紀に「天皇、心をもって師とし、誤りて人を殺すこと衆し、天下そしりて大悪天皇ともうす」とあり、雄略天皇をこの世で最大の悪人のように表現している。 恐らく、自分の同母兄をはじめ、皇子4人、さらに安康天皇を弑殺した眉輪王、円大臣達も雄略天皇の手にかかり、あえない最後を遂げたいきさつが影響していると思われる。 ○天皇が葛城山に狩猟に出かけた折、突然身の丈の高い人物が現れた。天皇が問いかけると、その人物は一事主神であると答えた。神と天皇はそののち、ともに譲り合いながら狩りを楽しみ、不思議な時間を過ごしたと「古事記」「日本書紀」に載っている。 ○雄略天皇治政下には大和や河内の豪族らが武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられている。「日本書紀」によれば、吉備氏もその配下に組み込まれ、遠く朝鮮半島南部まで進出したことが知られている。 ○中国の史書「宋書倭国伝」に使者を送ったことが記録されている。「倭の五王」の内、武力で王権の支配範囲を広げたという「武」と推定される。 ○1978年(昭和53年)埼玉県稲荷山古墳出土の鉄製剣に金象嵌された115文字が発見されたが、獲加多支歯大王名もあって、これが雄略天皇を指しているといわれている。
所在地…大阪府羽曳野市島泉八丁目 ○御陵は丸山と称され、径約76mの規模で周濠を有するが、後世に前方部に付加された。前・後の天皇陵は前方後円墳の形態を採るので雄略天皇陵も前方後円墳であったと思われる。 ○現治定陵より、南方に巨大前方後円墳の河内大塚山古墳が陵墓参考地として所在する。これを雄略陵とする説と否定説が出されている。 |
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雄略陵とされる高鷲丸山古墳は、径75mの円墳である円山古墳と一辺50mを測る方形の平塚古墳をあたかも前方後円墳のようにドッキングしたものである。 もともと丸山池とよばれる濠に囲まれた丸山だけが、江戸時代の元禄年間(1688〜1704)ごろから雄略陵と認識されていた。ところが、幕末になって陵を荘厳化するため、丸山から数十m離れた平塚を買収し、これを雄略前陵とした。のち明治前半になって平塚を拡張して、濠をへだてて丸山と一体化させたものである。 探訪に際しては、拝所のある平塚側から見るのではなく、北側の濠沿いに走る古道の長尾街道(大津道)から墳丘を眺めるとよい。丸山と平塚がいびつな形で、くっついている様子がよくわかる。また、反対側の羽曳野市立陵南の森に廻ると、丸山と平塚の接合部分がはっきり見極められる。なお、長尾街道を越えたところに、陪塚となっている伝「隼人墓」もある。 西田孝司氏 |
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