小山廃寺

 明日香村小山の古代寺院跡「小山廃寺」は天武天皇時代の官寺(国立寺

院)である大官大寺(高市大寺)だきだった、との説を森郁夫・帝塚山大教授

(帝塚山考古学研究所長)が近刊の東京国博物館研究誌『MUSEUM 』594号
に発表した。小山廃寺は1973年に発掘され、小字名が「キテラ」だったため、
古代豪族の紀氏の氏寺だったとの説が強いが、明確な裏付けはない。93年
紀寺跡として県指定史跡になっている。

 森所長は東京国立博物館が所蔵する小山廃寺出土の軒瓦20点を調べた。

このうち、直径18 . 7cmの軒丸瓦は鋸歯文(のこぎりの歯形の文様)と複弁
蓮華文(複弁のハスの花の文様)が施され、藤原宮跡から出土した軒丸瓦と
同じ型から作られていた。唐草文の軒平瓦3点も藤原宮跡のと同型だった。

 一方、小山廃寺からは雷文と呼ばれる文様を縁にめぐらせた7世紀後半

の軒瓦も出土。京都府南部の7世紀後半の複数の寺院跡からは、小山廃寺

系の雷文の軒瓦と、官寺である飛鳥の川原寺系の軒瓦が寺ごとに分かれて

出土しており、森所長は「小山廃寺は氏寺ではなく、大きな影響力を持った
官寺の可能性が高い」と主張していた。東京国立博物館の所蔵瓦は、小山
廃寺が藤原宮の製品を使える立場にあったことを物語っており、官寺の可能
性はいっそう高まったと指摘する。

 大官大寺は平城京に移って大安寺となる。奈良時代の大安寺資財帳(縁

起と財産目録)によると、最初の官寺だった舒明天皇発願の百済大寺(桜井
市の吉備池廃寺とされる)が673 (天武2)年に高市郡に移って高市大寺となり、
677(天武6)年に大官大寺(天武朝大官大寺)と号した。さらに7世紀末から
8世紀初めの文武朝時代に壮大な伽藍が整備されたという。

 一方、小山廃寺の南東約800mにある国史跡・大官大寺跡の発掘では、
文武朝時代の遺構しか見つからず、天武朝大官大寺がどこにあったのか
が問題になった。

 森所長が小山廃寺を天武朝大官大寺とする理由は、出土する軒瓦の年代

が7世紀後半で、川原寺や薬師寺など当時の他の官寺の瓦の様式とは異な

っているためだ。

 だが、小山廃寺の伽藍は中門から講堂にとりつく回廊の中に金堂がある

だけ。大官大寺は「おおきつかさのおおでら」と呼ばれ、文武朝大官大寺の
遺構は名前にふさわしい壮大な伽藍だった。小山廃寺は見劣りするため、
藤原京(694~710)の紀寺説も有力だ。

 森所長は 藤原京の紀寺とすると、雷文の瓦の年代が20年も古く、時代が
合わない。小山廃寺は大官大寺と呼ぶには確かに規模が小さいが、まさに
それが理由となって、文武朝に新たに大官大寺を建立したのではないか」と
述べている。2005-3-4  朝日新聞

 





鉄剣

 古代日本におけるこの鉄鋌の流通貨幣としての生命は、そう長くはなかったようである。 

 これらの鉄鋌や鉄片は、すでに五世紀以後、刀剣や甲冑につくり直され、さまざまな鉄製品に形を変えて

流通しはじめたからであった。

 『日本書紀』垂仁天皇紀を見ると、河内国に土師村(茅渟の莵砥川上)という村があって、その河内の土師
に命じて千口(ちふり・千本)の刀をつくらせたという記事がある。

 その刀を,石上の神の神庫(ほくら), つまり石上神宮の蔵にすべて収納したと書いてある。

 石上神宮は、もともと石に宿る神を神体とする神社であった。

  しかし、この石上神社は、物部氏という武技に秀でた名門氏族の氏神になり、剣を主祭神にした。そして

その剣を布都御霊剣とよんだ。

 『日本書紀』神武天皇紀によると、こんな由来がある。神武天皇の大軍が紀州へ向かったとき、熊野浦で疫

病が流行して、全軍が疲弊してしまった。

 そこに、熊野高倉下という人物があらわれた。

 彼は、神武天皇に次のように告げた。

 夢の中で「かつて天照大神建御雷神に命じて、出雲を合併するために大国主命のところに赴かせたこと

かある。

 その国譲りの談合のときに,建御雷神が携えて行った大切な剣をお前に授ける。この剣は布都彻霊剣とい

って好運を開く大切な剣である。

 建御雷神は、この剣を土の上に突き刺して、大国主との国譲りの談判に成功したのである。

 こういう由緒ある剣を、授けるから、それをもって邪気をはらえ」という託宣があった。

 そこで庫を開くと、ひと振りの剣が、確かに底板に突き立っていたという。

 熊野高倉下から、その剣を奉じられた神武天皇の軍は、その後は元気をとりもどし、敵に当たっても連戦

連勝、やがて大和に入ることができた。

 これが『古事記』『日本書紀』にも記されている布都御霊剣の由来である。

 後に、やがて物部氏は霊験あらたかなこの布都御霊剣を、自分たちの氏神様の御神体として、 石上神宮
に祀るようになったという。そのため、石上神宮は、武神的な性格をもつことになった。

 『日本書紀』の崇神天皇垂仁天皇景行天皇など各紀の記事を読むと、各地の神社の神宝(かんだから)
を入れてある神
庫(ほくら)を検校する、つまり検査して武器を調べるありさまがくりかえし書かれている。

 なぜ神社の倉庫を調べるのか。それは古い神社はたいてい武器庫をもっていたからである。

 ことに石上神宮は、日本の最大の武器庫であった。桓武天皇の平安遷都のとき、石上神社の神宝を油で
すっかり磨かせたという記録がある。
神宝は刀剣·甲冑,鏡などであるが、そのすべてを磨かせたうえ、それ
京都へ運ばせたという。

 それは、このような武器庫が大和にあっては、平安の王朝に,て危険だからである。ところが運びこんでみる
と、実際は、ほとんどが錆びていて使用不可能なものばかりであった。記録ではふたたび、石上神社
に返した
と記されている。

 またこのときに運搬した人足の数が、延べ数万人とも記されている事実から見ても、当時、石上神社に保

管されていた武器や鉄製品の数は、莫大なものであったことがよくわかる。

 五世紀以後の日本では、鉄鋌は別として、鉄製品は物と物を交換する場合の仲介物、すなわち貨幣的な
のとしてよりも、むしろ実用的な武器として使われる場合が増えてきた。

 しかもこのように、神社が武器を貯え、武器の奉納を受ける性格をもつのは、世界的にみてもきわめて珍

らしい。外国では神は平和の象徴であり、神に武器を奉納するという慣例はすくない。しかし日本では、武

器はかならずしも好戦的な攻撃用具としてよりも、呪術的な意味をもっていて、魔をはらい、鎮魂起神の霊

力をもつものとされていた。

 その呪物である武器を皇室が管理することは、祭祀権の統一、すなわち行政的な支配の成立を意味して
いた。これが各社の神宝検校が行なわれるもとになったと考えられる。

 三世紀以降、古代日本の鉄製品の製造は、河内国を中心にして伝えられている。河内国に千本の刀をつく
らせたとあり、朝鮮から日本に入ってきた鉄は、
主に河内国で製品に仕立てあげられたと考えられる。

 しかし、記録としてではなく、考古学上の資料としては、全国、とくに砂鉄や砂に近い状態の酸化鉄の産地付
近には、精錬用の踏韛(たたら)の跡があり、小型の炉が継続して使われていた証拠があるから、全国に鍛冶
集団
が分布していたことは否定できない。

 日本の古代刀剣は、俵国一氏の分析によると、五十五·六パーセントは岩鉄でつくられているという。したがっ
てマンガンを多く含んでいる。平安時代より後に山陽や山陰地方でつくられた、いわゆる備前刀は、
原材が砂鉄
でつくられているために分析しても、ほとんどマンガンを含んでいない。

 これまで多くの人が、日本の古代刀はすべて砂鉄でできていると述べていることは事実に反しているのである。

 その岩鉄の主要な精錬地として記録に残ったのが,河内国であった。

 仁徳天皇陵がある河内は、表面的には日本史の主要な舞台にならなかったようにみえる。しかし事実はその
反対であった。

 まず河内はなによりも、五世紀頃の国家統治の実際の行動力の象徴である武器、鉄製品の製造地であった。

つまり、鉄を背景にして歴史の大変動をひき起こした武器の生産地であった。応神、仁徳などの巨大な陵墓
ここに築かれたという歴史の背景に河内の鉄があったことを忘れるこ
とはできない。

 七世紀から八世紀にかけても、海運の中心は、長く瀬戸内海であった。朝鮮からやってくる船は瀬戸内海を通
り、
大阪湾に入る。

 そのため、その近くの河内には、船で鉄の原料である岩鉄製の原鉄が運ばれる立地条件が備わっていた。

 しかも、鉄の精錬や製造がさかんになるにつれて、大陸から渡来してそこに住みつく技術者も多くなっていく。
河内には、こうした製鉄技術
者が伝統的にたくさん住みつくようになった。 
 こうした多くの金属技術者たちの上に君臨したのが、中臣氏である。
 

 現在河内の一番北に位置している旧中河内郡に東大阪市がある。 この東大阪市には,もと官幣大社であった
枚岡神社があり、御祭神に建御雷
神や、斎主神(いわいぬしのかみ・経津主神)を祀っている。 

 この神社は中臣氏の氏神で、中臣氏が常陸の国から河内の国に移ったときに,その奉仕してきた常陸の香取
下総の鹿島の神を移し、
祭ったのである。

 中臣氏は近在の鉄製造技術者たちの技術を背景にして、大きな勢力を築きあげた。やがて七世紀になると、
この中臣氏は大化改新を可能にする強大な力さえもつようになったと
推定できる。
  樋口清之 金銭 より




和同銭

 八世紀初めには日本でも銭がつくられた。いわゆる和同銭である。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、銀銭、銅銭の鋳造が元明天皇の和銅年間以前に行なわれたらしい
という事実である。すでに、和銅元年(七〇八)より十年前の文武天皇二年(六九八)に
因幡、周防から銅が、伊予、
伊勢から錫が献上されているし、対馬では、従来の銀のほかに金も精錬されて
いる。翌年には鋳銭司もおかれ、
文武天皇四年(七〇〇)には丹波からも錫がでている。

 従来の学者は、元明元年(七〇八)に武蔵国秩父郡から銅が発見され、それが日本の土地から初めて産出した
銅だから和銅といい、そのために年号もそのように改めたと ている。またその銅でつくられた貨幣だ
から、
「和同開珎」とよんだと主張している。

 しかし、これには問題がある。和同の言葉の意味は、等しく同じくなることである。和同開珎の文字は初めから
金偏がなく、「和」と「同」である。「和同」という言葉は中国語の熟語であり、同一文化に同化す
ることを和同といい、
中国文化に同化する大同理想を示す言葉である。

 中国人には、和同になった社会が最も平和で理想の社会であるという社会観(それは政治理想であり、文化理
でもあった)が昔から根強くあった。
和同の完成したものを、大同と表現するくらいである。

 このため中国大陸には、大同という名の地名もある。こうした土地は漢民族に占領され、中国文化に同したからこ
そ、大同と名づけられたのである。

 和同という訁葉は、日本では広く等しくなるという集権国家の成立を意味している。したがって、天智天
大化改新を行なった後に、地方豪族が独立政権でなくなって、天皇中心の国家になったことが大化であ
ったように、
大化、大同,和同は共通に、日本では集権国家の理想を示す用語だった。そしてそのときの貨
幣が、和同銭であっ
たはずである。

 和同という銭文の由来は、本来、金属の銅とは関係なく起こり得るものであり、国産銅の発見(七〇八年)で慶雲
を改めて新年号を立てたのは「和銅」であって、「和同」ではなかった。しかも、それは先に述べたよ
うに日本最初の
銅の発見ではなかった。銅銭は、すでに日本では通用していたことは天武天皇十二年(六八三)
四月、銅銭を用い
銀銭を禁ずる詔が出て、その三日後にそれが解かれているので明らかである。このときの
銅銭はおそらく中国銭
だろう。

 しかし、『続日本紀』によると、まだ藤原京に都があった和銅元年一月、秩父から銅が発見され,同時に年号を和銅
にし、その二月鋳銭司(催鋳銭司)を置き、まず五月、
銀錢の和同開珎をつくり、八月銅銭の和同開珎をつくっている。
翌二年銀銭の私鋳を禁じ、
次いで銀銭を廃した、となっている。

 すると、銀銭のほうが先で、銭文が和同なのは、たまたま銅の発見という慶事と、銅の字が同と音が通じるので,
「和同」としたのであって、銭文の和同は銅を意味して起こったものではないと考えられる。

  天智天皇の時代には、無文銭の銀銭が使われていたのではないかと思われる。たとえば、当時の近江国に
崇福寺という寺があった。それは天智天皇の近江の宮の南に建
立されたものである。

 その塔の遺跡を発掘したところ、塔の心礎の下に埋めてあるものの中から,無文の銀銭が数十枚も出てきた。
埋納物には、瑠璃の小壺に舎利
が入り、それを入れる銅、銀の器があって、当時の高い文化を示すが、いずれも
塔建立以前にまず心礎の下に入れられたものである。造塔後、
伽藍工事は進められるから、この銀銭はすくなくと
も崇福寺造営以前
ものである。

 さらに天皇崩御十六年目の、持統天皇元年(六八七)には崇福寺で天智 天皇供養の国忌斎が行なわれているから、
天智天皇のとき崇福寺がまだ
未完成であったと仮定しても、すくなくとも国忌斎には完成していたであろう。このこと
からも和銅より二十年以上前に無文銀銭が使われたこ
とは疑いの余地がない。

 元明天皇の和銅元年(七〇八)の銀銭和同鋳造は、天武十二年(六八三)に銀銭使用は禁じられていたものの、
この従来の慣例を引きついだものと考えられる。このように天智天皇以来、和銅以前の銀銭は、ほとん
どが無文銀銭
であつた。

 元明天皇の頃になると、文字の書いてある銀銭の和同銭がつくられるようになった。そして元明天皇は、同じ和同
という言葉を使った銅貨もつくった。

 日本の貨幣の歴史の上で、元明天皇の和同銭の鋳造は、画期的なことであった。

 しかし歴史の現実は、和同銭に対しても、きわめてきびしかった。和同銭はつくられたが、政府の思惑どおりには
決して通用しなかった。

 その上、翌年には、たちまち私鋳銭が出現するのである。伊賀の国では和同銭を偽造した者が発見されている。

 一般的にいって、貨幣は、少しでも含有する金質をおとして、多くつくれば非常に利益のあがるものである。
そのため、貨幣は発行されるや、すぐさまその偽物があらわれる。見方を変えれば、古代貨幣の歴史は
支配者の
鋳銭と被支配者の私鋳銭との戦いの歴史ともいえる。

 元明天皇の和同元年(七〇八)に貨幣が鋳造されると、翌年の和同二年一月二十五日には、早々と私鋳銭取締りの
詔が出された。
 「ごのごろ奸盗利(かんとう)を追い、私に濫(みだ)りに鋳(い)ることを作して、公銭を紛乱す。今より以後老私(ひそか)
に銀銭を營者は、其の身は官に没し、財は告人に入る。濫に利を逐うことを行う者は、加仗二百、加役は徒に当てん。」

 当時は現物交換の色濃い時代の直後であるのと、中央政府の威令がかならずしも徹底していないので,正貨の流通が、
スムーズにいかなかったことを、よくもの語っている。と同時に、鋳銭司が長門、山城、近江など各地に置かれているので、
各工房ごとに同一質のものができな
かったことも、鋳造後七年(七一四)にして撰剺禁令がでるもとになった。

 政府はこの貨幣流通の停滞を破るために、和銅四年(七一一)に蓄銭叙位令と称して、金銭を貯えたものに位階を授
ける政令をだしたり、納税に金銭を用いることを奨励したりした。
 本来、税は租·庸·調の三税である。庸は労役であるが、貨幣での支払いを許可した。これを徭銭といった。また、調は
調布という布で納めるかわりに、調銭で納められるようにもした。

 しかし、租だけは相変わらず現物の米で納めなければならなかった。

 このように税を貨幣で代納できるようにすることによって、和同銭の流通を極力はかったのであったが、実情は遅々
としたものだった。

 それでも長い努力の結果、ようやく和同銭の流通は相当広い範囲に主で及ぶようになった。その証しとして、奈良時代
の地方の国府からも和同銭が多く出土している。
  樋口清之 金銭 より





大仏に食われた和同銭

 和同元年(七〇八)、和同銭が鋳造されてから、日本では、五十二年後の淳仁天皇の天平宝
字四年(七六〇)に金銭の開基勝宝、銀銭の大平元宝、銅銭の万年通宝が鋳造されるまで新
しい
銭はつくられなかった。この半世紀に余る空白はどうして起こったのだろうか。

 それは、聖武天皇の有名な大仏鋳造の事業がその間にあったからだと考えなければならない。

 天平十二年(七四〇)、藤原広嗣が乱をおこすと,聖武天皇はノイローゼになった。伊賀行幸や
恭仁遷都
計画され、奈良の都を離れようとさえした。

 そのときに、国民の精神的な拠りどころとして、天皇の絶対権の象徴でもある五丈三尺五寸の
大盧舎那仏
をつくろうと企てた。今の滋賀県、信楽(紫香楽)に、大仏の骨組みの立柱式をあげた。
天平十六年十一月十
三日のことである。聖武天皇は、その前年に、全国に金属回収令を発布
している。

 やがて、日本全国から和同銭が大量に都に集められ、鋳直されて大仏の原料になったと思わ
れる。このため日本の経済は、貨幣経済へ一歩足を踏み入れたとたん、三十五年目にして、
その貨幣は大仏鋳造
のために、ふたたび大きく後退させられるのである。 
 後に、徳川家康は豊臣秀頼に、豊臣家の経済力を凝集させる狙いで、京都の方広寺六丈三尺
の銅像を再興させた。

 聖武天皇の大仏鋳造はそれより約九百年前である。政府管理の通貨を非流通の物品に凝集
させて、政府の経済的破綻を招いた。このことからすると、この天皇の偉業の陰にも、
一抹の謀略
の疑いがないでもない
が、これは今日まだ実証することができない。

 ただ、大仏鋳造の大事業がひたすら民衆を疲弊させる一種の暴挙に近いものであることは否定
できなぃ。

 果たしてその結果は奈良時代経済の混乱と国内不安を生んでいった。

 奈良時代から平安時代にかけて、当時の政府は、この自己矛盾におちいりながらも、つぎつぎに
新しく悪い貨幣をつくり変えて、十二種類にも及ぶ通貨をつくっていくのである。貨幣の発行者は政府
である。したがって、権力を背景にすれば、いくらでも貨幣を鋳造す
ることができた。しかし、そのた
めに起こる経済的な破綻は、目にみえて増えていった。

 日本では、貨幣を政府自身がつくるのは、この時代とずっと後の明治時代のことである。これは、
日本の貨幣発行の歴史できわだった特色である。

 豊臣秀吉以後は、いわゆる金座·銀座·銭座という商人の同業組合が、請負い事業として貨幣をつくり、
政府はそれを管理するだけで、みずからは貨幣をつくらなかった。

 これに対し、奈良時代以降の皇朝十二銭は、すべて政府がつくり、発行したものである。これは中国
にならったものであるが、
政府が通貨を鋳造するのだから、政府自身が金質を下げようと思えば、
いくらでも粗
悪な貨幣をつくることができた。

 金質を下げれば下げるほど、利益が生まれる。しかし貨幣価値が下がるので、それにつれて物価
は上って
しまう。

 奈良朝政府のこのような安易な貨幣政策は、やがて政府自身にそのはねかえりがあらわれた。

 単にインフレを起こすだけではなく、その経済的威信をはなはだしく傷つけ、自らの評価を下げる
結果と
なっていった。

    樋口清之 金銭 より






桓武天皇の行政改革

 この経済混乱をなんとかしようというのが桓武天皇の試みであった。桓武天皇は平安京に遷都したが、
宮殿の建設工事がその半ばにきたとき、
経済的な理由で宮殿の造営停止令を出した。

 民衆の労苦を救うという美挙や,人心の動揺をおそれてやらなかったということではなく、平安京は、
済的にこれ以上の造営が不可能となったのである。

 平安京は未完成の都で、ただその理想のプランが残っただけなのである。

 桓武天皇は、平安京に遷都の二年後(七九六年)に隆平永宝を鋳造し、その二年後(延暦十七年、
七九八年)
には蓄銭禁止令を出している。蓄銭によって貨幣流通の滞るのを防ごうとする苦肉の策である。
天皇は徹底
的に経済の立て直しを計って、努力を重ねていた。それは即位の直後に、政令の中で
「簡易の化」を宣言し
ていることでもその基本方針は明らかである。これは節約を旨とした、安上りの政府
の創設である。消費を節約して何とか収入を増やそうと、
いろいろな制度な検討するのである。

 地方長官を四年に一回交替させ、賄賂をとらないようにさせたり、内外の文武の官僚について定員以外の

者を辞めさせたりもした。また造営・勅旨の二省、法花(ほけ)・鋳銭の両司を廃止してしまった。
造宮省までも廃
止させたのであるから、財政立直しの前に宮殿の完成などは念頭になかったのであろう。

 桓武天皇は即位した翌年には、戸籍をつくらせ、浮浪人狩りを徹底させ、脱税を防ごうと努力した。
続いて国司に田籍もつくらせている。こ
れらの貧困克服の作業は、そのあとすぐに実施された班田収授令
の前提
として、律令国家としての諸機能を新しく復興させようとした意図から出ていた。

 それは、先に述べた経済上の混乱により、天皇を頂点とした古代的な支配が、ゆさぶられてしょった
現状からなんとか脱却して、豊かな国力
の復活を強く望んでいたからであった。

 桓武天皇は、政治の基本についての改革策を積極的につぎつぎにうちだして、とどまることがなかった。
調·庸の粗悪なことや納入期の違反
や未納に関しては、前後のどの政府よりも厳格であった。

 しかし、その政策に対する反発も、また激しかったのである。重い税からのがれるために、有力者に
頼ったり、また名目的に自分の土地を寺
社に寄進して、その保護を受ける者が続出した。

 当時の有力者とは金持ちではなく、物持ちだったので、有力者はますます力が強くなって、かえって中央
の権力を脅かす強い存在に変わっていった。
   樋口清之 金銭 より





太閤分銅金の知恵

 秀吉の金銭感覚がいかにすぐれていたかを証明するものに、太閤の分銅金がある。

 これは通貨にならない一万両判である。分銅型に固められた備蓄用のもので、一つだけは今でも日本銀行
に現存している。

 秀吉が死んだときは千六百個あったというが,その中の一つだけが残ったのである。この分銅金をつぶすと、
一両判が一万枚とれた。

 ほぼ一両を基準にして、その一万倍を金塊に固めたものである。これは重くて盗難に遭うこともすくなく、
必要なときには、ただちに貨幣に変えることができたのである。
 もっとも金貨は、どのような場合でも純金ではない。純金だと曲がりやすく、通貨に適しないので合金で
なけれ
ばならなかった。
 この分銅金も、すべて合金でつくられていた。だがそれを坩堝(るつぼ)に溶かして、鋳出せば金に戻るのだから、
すぐ貨幣ができる。秀吉は、経済変動に備えて、

貨幣の予備材をもっていたのである。

 秀吉が、天正年間に奈良を視察したとき、松永久秀(弾正)に焼失させられた東大寺をみた。大仏は本体がなく、
台座が残っているだけの姿であった。

 彼は奈良の大仏以上のものを京都に建立しようと考えた。奈良の大仏は五丈三尺五寸であるが、秀吉は六丈三尺
方広寺大仏を建立するのである。

 聖武天皇は、奈良の大仏をつくるときに、ただ大きければ権威が生まれるものとして、大仏の寸法を決めたのでは
なかった。『大日経』(真言密教の根本経典)の中に書いてある寸法によってつくろうとしたのである。

 五丈三尺五寸という寸法が盧舎那仏の寸法なので、そのとおりにしたのである。

 しかし秀吉は、この事実を知らなかった。ただ、奈良時代の大仏よりも大きいものをといった。子供のような単純な
理由だけで六丈三尺の大
仏をつくったのである。しかも、秀吉の大仏は阿弥陀如来であった。

 ところが、そのような大きいものは、金属だけではとても建立できない。そこで基体を木でつくるのである。そのとき秀吉
は、この大仏建立を刀狩りのうまい口実に利用する。刀狩りをやりたいから、町人、
百姓はその刀を出せ、とは決して命
じない。

 死後極楽浄土にゆきたい者は刀を差し出すように、その刀は大仏建立のための尊い釘になって、大仏の体内に入ると
いうのである。
そういって刀狩りのうまい口実にした。

 しかし,なにしろ刀の釘でとめた寄せ木づくりの仏像なので、基底の動揺にはとても弱かった。慶長元年(一五九六)の地震
で、仏像は大仏殿とともに崩壊してしまった。

 秀吉は、地震でこわれた大仏を復興できず、二年後には彼自身も死んでしまうのである。

 家康は秀頼に、大仏殿復興の計画をすすめた。そのとき、今度は壊れないように、奈良と同じ銅の大仏建立を熱心
にすすめるのである。すべては、
豊臣家の財政を疲弊させるように企んだ家康の遠謀であった。

 秀頼は秀吉の集めた大量の金を相続しているので、その金を使って中国から銅を大量に買い入れることにした。

 大仏建立のために厖大な量の銅が、中国から日本に運ばれてきた。その銅を運ぶために河川工事が必要になるほど
であった。

 秀頼は加茂川のそばに角倉了以に命じて運河をつくらせた。これが高瀬川で、当時の大仏建築用材を運搬するための川で
ある。

 加茂川とは別に専用運河をつくったくらいであるから、大仏建築にかかった費用のすべては、おそらくはたいへんなもの
だっただろう。

 そこが、また家康のつけ目だった。豊臣家の経済力を大仏に固定して、必要なときまでプールさせ、必要が起これば一挙
に消費してしまおうとしたのである。

 しかも、できた鐘に、その銘の「国家安康、君臣豊楽」は、豊臣家が徳川家を呪う呪文で天下に災いをもたらすものであると、
新たな難癖をつけたのであった。

 やがて、この言いがかりは、豊臣家をつぶす口実に使われていくのである。

  元和元年(一六一五)五月、大坂夏の陣で豊臣家は負け、滅亡する。すべては徳川の治世になった。

 しかし徳川の時代になっても、徳川幕府の治世者たちは、すぐにはこの大仏の銅に手をつけない。
 德川三代将軍家光は寛永十二年(一六三五)に諸侯に対して参勤交代制を命じた。その翌年に寛通宝をつく
った。
 徳川幕府の力が最も充実した時である。そして島原の乱(一六三七~一六三八年)が寛永十五年に終わるこ
の乱の直前に、
徳川幕府は大仏をつぶして、その銅を切断して,すべて江戸へ運んできたのである。
 この銅を利用して、昔の永楽通宝とほぼ同じものをつくったのが、寛永通宝である。銭座は当時、まだ伏見にあったが、
それも江戸に引っ越しをさせた。

 江戸時代に、金をたくさん貯えこそしなかったが、金を使わせることがうまかった人々に

家康に仕えた天海僧正や金地院崇伝(以心崇伝)などの僧侶がいる。

 上野の寛永寺を創建した南光坊天海という江戸初期の天台宗の僧侶は,金を仇敵だと思っているようなふしがある。

土地を大名から取り上げることはできないから、金を何とかして取り上げようとするのである。
 二代将軍、秀忠のとき、各大名に金を出させて、家康を久能山から日光山に改葬する名目で東照宮をつくらせる。

これなど も天海僧正の策謀でである。大名たちに金を多く使わせて、彼らの持ち金を少しでもすくなくさせようとした。
 また、夫役として各地の土木工事を大名に請負わせ、人夫たちへの支払いを金や貨幣で行なう。その結果、諸大名たちは、

土地は所有しているが、手もとの現金はすくなくなってしよった。

 表向きは江戸幕府の政策にみえるが、そのきっかけをつくったのは天海であった。そのためか世間の人々は、天海は理財
に明るい明智光秀の化身だと噂したほどであった。光秀の最期を見届けた者がいないこと
も、この噂のもとだった。

 
   樋口清之 金銭 より




金 お金 手形

  ・金の加工技術は、薄くして張るだけなら、きわめてたやすい。しかし、鍍金はむずかしい技術である。当時の日本人は,金
の消費がすくなくすみ、しかも広い
面積に使える鍍金技術を大陸から学んだ。鍍金技術はすでに漢の頃、中国では盛んに
精巧な鏡や武器ができ
ている。この技術は相当困難なものだがこれを日本人 は修得していた。

 鍍金(めっき)は、なによりもまず金箔をつくらなければならない。金は直接粉末にならないので,金を延ばして箔をつくる。
それを無数に刻んだものが金粉である。

 その金粉を水銀の中に混ぜて、金と水銀の化合物をつくり、それを銅の上に塗り、熱を加えて、水銀を蒸発させると金が銅
に被膜をつくる。これが鍍金である。

 日本にこの焼付け鍍金技術がたいへん発達したのは、日本人が器用であっただけではなく、金が貴重品で日本にはすくな
かった証明かもしれない。

 貴重ですくない金を、いかに経済的に使うかというところから発達した技術が、鍍金の技術である。

 『阿弥陀経』をみると、銀のことは書いてないが、仏の世界は黄金だという。仏自身が黄金の体であって、口まで金口(きんく)
といって、
金色の口をしておられたという。

 そこで阿弥陀如来像は、金箔を塗ったり、金鍍金をするのである。

 さらには建物の中にまで、あるいは厨子の中にも金箔を張るが、これも阿弥陀信仰によるものである。

 日本に出土する金属加工物の中には、中国や朝鮮で産出した金が数多く用いられている。たとえば、埼玉県行田市の
稲荷山古墳から出土して話題になった鉄剣の象限の金には、朝鮮の金が用いられている。

 日本で使用された武器や実用品類は、弥生時代は別として、すべて鉄が主体であった。銅は貨幣の鋳造とか、一部の日常
の食器以外には、
ほとんど使用されなかった。

 火にかける食器は、銅が熱に弱いので、すべて鉄でつくられていた。銅鍋ゃ銅釜はほとんどなく、すべて鉄鍋や鉄釜である。

 このような日本の生活様式から、当然、銅は産出しても生産過剰になる。その上、仏像や皇朝十二銭の鋳造が終わってからは、
造仏や鋳貨のための銅の需要もほとんどなくなり、だぶついた銅の輸出先を、もっぱ
ら中国に求めたのである。

 日本でお金が重要になりはじめるのは、鎌倉時代以後のことである。この頃になってくると、貨幣がたいへん重い意味をもって
くるのである。

 鎌倉時代の武士、青砥藤綱(あおとふじつな)の逸話に、銭十文を滑川に落して、それを拾い集めるのに五十文も人に使った
という話が出てくるが、真偽は不明としても、この話はそれほどお金が大切だという教訓であり、ようやく
お金が使用されはじめた
事実を示している。

 しかも、
この時代のこれらの貨幣も、まだ貿易による輸入銭であった。いわゆる宋銭とよばれる宋のお金である。

 ・室町幕府三代将軍の足利義満が集めた金の出所も、いうまでもなく貿易である。初代将の足利尊氏も、天竜寺船を建造して
貿易をし、その利益で京都、嵯峨の天竜寺をつくった。
 興福寺船、妙楽寺船(多武峯)と、奈良の寺院から寺の名前を借りた貿易船も多く活躍した。

 これはお寺の名義をつけて、寺の経営のためだという名目をつけると、出航が許され、しかも、税金が免除されるからである。
船は堺から出航した。

 日本からの輸出品目は、相変わらず高価でない織物や漆器、刀剣、扇であった。中国からは、金と銅貨と薬品,その他いろいろ
な高級な織物、文房具、陶器,美術品を買って帰った。そのときに大量の金が日本に
輸入されている。金閣寺に使用された金も、
この輸入品の金ではないだろうか。

 中国は中華思想の国である。少し品物を買って信用されると、金をくれたのである。中国貿易ではヘりくだって、いつも臣下の礼
さえとっていれば、最高の商品を渡してくれたといわれている。このことを証明す
る公文書も残っている。

 ・京都の公家の家の中は、ほとんど唐紙で仕切られていた。唐紙というのは、本来、中国から輸入した紙のことをいうのであるが、
この頃になると、箔押し模様のある紙をとくに唐紙というようになった。

 日本の貴族は、金が好きであった。この金愛好癖を徹底的に装飾に生かしたのが、足利義満の金閣寺である。

 足利義満は、藤原道長の法成寺(京都御所の東側に跡がある)の話を聞いているし、彼も得度して僧侶になっていたので、

阿弥陀の宝殿に自分が入るつもりで黄金の建物をつくったと考えられる。

 しかし、この金閣寺は一階は禅建築で、金を張った二階,三階は浄土教建築である。

 金を利用した建築で、現在その様式を伝えているのは今の再建された金閣寺だけであるが,当時はこれと同じものが各地に数多
く建設されていた。

 千葉県にも、戦前主では黄金張りの御堂が残っていたように、地方にも散在していたらしい。

 当時の浄土教寺院の仏殿はすべて金ずくめであることが原則だったらしい。

 その影響が、今に残って、浄土真宗の仏壇は全部金箔が張られている。

 ・普通,お金という言葉には、金属貨幣と、紙幣(古くは土符、板符などもあった)が含まれている。

 江戸時代には両替問屋(為替問屋) 、飛脚問屋が発行する切手や手形などの証文も、あった。

 これは資金にも抵当にもなり、通貨に近い扱いを受けた。

 手形には、証文の最後尾に自分の名前を署名するが,そのとき、名前のそばに自分の左の人差し指を紙の上において、筆で指の
長さを線で書き、
それに関節を示す点を打つ。

 つまり、自分の肉体の一部である指の寸法を写し、指関節の距離を仕切る。

 昔はこの指の長さと関節の距離は各人みな異ると思われていたので、今の指紋と同じく、当人の印となった。

 これを書いた証文が切手証文で、これを手形ということになった。画指法と切手は同意語である。

 このようにした古い証文類は、今でも数多く残っている。約束切手、小切手、郵便切手などの切手の語源も、みな画指のある証文
という意味だった。

 ・打出の小槌で金が出る話が、日本の昔話にある。ところが、この打出の小槌からは、金銀が出る前に、まず米が出る。米が出て、
それから隠れ蓑がでて、いろんな宝物が出
て、最後にようやく金銀が出るのである。

 これを見ても、江戸初期の日本人の意識ですら、まだ金や銀が宝物の第一位ではないことがわかる。

 金銀の意識が今のように大切な財宝となるのは江戸の中期、それも元禄になってからのことではないだろらか。

 それ以前の金銀の伝説や、それにまつわる説話は、『竹取物語』にもなかったように、『古今著聞集』や『今昔物語り集』を調べても、
一つもない。

 もしも日本に金があったり、日本人が金に何ものにもかえがたくあこがれていたとすれば、当然、これらの説話集に姿をあらわすは
ずである。

 ・こうした中国の話を、日本人自身は昔から信じてはいなかった。またこのように日本に金があるとも、決して思っていないのである。

 神功皇后の託宣に「たくぶすま新羅の国は黄金白銀花咲く国」とある。古代日本人は、初めから金銀は朝鮮にあるという、強いあこ
がれをもっていた。

 このように、日本には金銀がないということを、神功皇后ははっきりと歌っていたし、多くの古代日本人は日本の国を蓬莱島とも思って
いないし、金銀島ともよんではいない。

・ところで、賽銭を上げるという日本人の発想も、おもしろい。現金を奉納する習慣は、仏教圏には広く行なわれているが、日本の賽銭
もその影響だと考えられる。

 中国人は賽銭をあげても、楮銭(ちょせん)といって、紙でつくったお金型の模型をあげる。

 お盆のときでも、中国では紙にお金を印刷したものを焼くし、墓にも死者のため楮銭を入れた。

 日本では、現金を賽銭として神仏にあげる。

 賽銭の賽という字は、奉納という意味で、神仏にお礼や祈りのために奉納することである。このことは見方によると、神や仏のめぐみを
金ですべて計算していくということにもなる。
 日本人のお金についての意識の変化の歴史で特徴的なものをみると、お金に対する精神的な意識が、きわめて低いことがあげられる。

 儒教の立場から、お金を不浄物と考え、金銭な非常に卑しめる風潮があった。それは、土地経済による封建制のもとでは、支配階級の
資力は土地、貨幣は町人階層の資力だったという、階級意識の産物から生まれたのかもしれない。

 しかし,神仏という儒教とはったく関係ない場では、公然と自かの誠意を表現するバロメーターとして、ものにかわる金銭を盛んに奉納
する。

 建て前としては、社会構造の性格上、土地を第一経済物件としながらも、江戸時代以後、実質的には貨幣経済が成長して、貨幣のほう
が力を増してきたことと、貨幣の便利さによって、賽銭習慣が何の抵抗もなく行なわれていたといえる。

 賽銭の実現は、貨幣経済成長の証しだったのである。



     樋口清之 金銭 より




藩札

 藩札の中では、赤穂藩の札が最も信用があった。これは藩札をほとんど回収したからである。赤穂藩がつぶされる直前に、
江戸明石町の下
屋敷では江戸に出ている藩札のすべての銀札を回収して銀に換えた。
 次に、京都や大阪や堺や赤穂で藩札を回収したので、最後には二枚しか藩札が残らなかった。やがて主家
が断絶して、
榊原采女が赤穂城を受け取りに行くと、現金は七十両未満しかなかったのである。
 大石内蔵助は利口な家老である。どうせ幕府にとられるくらいならと早くから覚悟を決めて、藩の負債に

なる藩札を町人にすべて銀と引き換えにして回収した。そのためにも、大石たちは後に義士として好評だったのである。

 豊かな赤穂藩に、現金がどうしてそんなにすくなかったかというと、それは藩札を現銀ですべて回収してしまったからである。

 幕府はそのような事情を知らずに,現金を回収できると思って榊原を行かせたのだが、藩の金はそれ以前に出てしまって
いた。

 しかも赤穂藩は、時の将軍、綱吉が犬好きだというので、犬を大事にして、赤穂城内に犬の特別の小屋までつくって犬の
台帳も完備していた。榊原采女が、犬を大事にしているそのありさまを見て、それを綱吉に
報告すると、綱吉は、何とか赤穂藩
を助けようと思いはじめるのである。

 城受け取りの目当ての現金こそ幕府の手に入らなかったが、犬を大事にしていたことから好意を抱き、大石たちが討入りを
果たした後も、その命だけは助けてやりたいと綱吉は思って、輪王寺宮を動かして助命運
動をしようとしているほどである。

 それを柳沢吉保や荻生徂徠などが、大石たちは秩序を損う罪を犯しており、彼らの義を生かすためにも、当然切腹させる
べきだと盛んに主張したので、とうとう切腹させられることになったのである。このために、
柳沢吉保と荻生徂徠は江戸の庶民
にたいへん嫌われてしぼった。

     樋口清之 金銭 より




忠義も恩賞次第

 武士も領土をたくさんもらえるとわかっていれば、一生懸命に忠義を尽くすのであった。

もらえないとわかると、たちまちに背く。
 後醍醐天皇が、その志を達することができずに敗北してしまうのも、もっている土地を足利尊氏などにやってしまったから
である。
 たとえ天皇でも、もうもらえるものがないとわかったら、だれも後醍醐天皇に寄りつかない。楠木正成など一部の者だけが、
つき従っただけである。
 しかし、これも楠木正成の支配していた摂津·河内·和泉などが後醍醐天皇の領内であり、そこで自分の所領の主君である
天皇に従っていただけの話である。

 もし、摂津·河内·和泉が後醍醐天皇領でなかったとしたら、楠木正成も南朝に忠義を尽くさなかったかもしれない。

 武士は所領の主に対して忠義を尽くしたのである。大義名分などというものは、江戸時代後期に儒学者の

頼山陽などがつくったものである。この当時には大義名分の意識など一般にはなかった場合のほうが多い。
   樋口清之 金銭 より






浮浪者の餓死

  ひとたび飢饉でもあって、都市の食糧が乏しくなると、たちまち無数

の浮浪者がその被害者として、無惨なその死体を道端にさらすことにな

ってしまう。

 奈良時代の平城京にも、同じような飢饉があり、地方から税をもって

きた奴婢たちが、帰りに食糧がなくて数多く飢え死にしている。その死

体がごろごろころがっているありさまを、柿本人麻呂が歌に詠んでいる。

ほどだから、都市の住民は悲惨な状態だった。

 たとえば、平安京にしても、飢饉で死者が路傍に満ちたと記録に残っ

ている。

 平安京には浮浪者がたくさん集まり、飢饉が起こると、かならずみな

路傍に死者となってころがるのである。京都の千本通りというところ

は、いつも死者がごろごろし、それを供養する板塔婆が千本も立ってい

たから、千本通りとよばれたという中村直勝氏の説さえある。
   樋口清之 金銭 より
 







応仁の乱

 日野大納言家に生まれたたいへんなインテリ女性であった。結婚した晩か

ら、夫の義政が無学で教養が低いと知って、馬鹿にしていたという怖い女房であった。

 そのため、義政は家がおもしろくないので、側室を二十数人もおいて乱行三昧で日をすごす。その果てに

妾腹にできた子供の出産費用がなく、将軍のくせに鎧を質屋にもち込んだりしている。

 義政は、将軍職に嫌気がさしていたので、出家していた弟の義視を還俗させて将軍の跡目にすえ、自分は

隠居しようと考えた。

 この義政、富子夫妻の共通の悩みは、跡継ぎがいないことであった。子供は、女の子一人だけしかいなか
ったのである。

 ところが、妻の富子に男の子が生まれた。義尚である。今度は富子のほうが義尚を将軍にすえようと力を
尽くした。そのため、将軍の跡目相続の内紛はやがて、全国を巻き込む応仁の乱(一四六七~一四七七年)

まで発展するのである。

 応仁の乱は延々と続いた。この長期の戦乱の中で、富子の生活力への執念がすさまじい力でくりひろげら
れる。
 まず、関所をつくって関税をとり、その金を一人占めにした。関所は、おもに木津川の周辺につくられた。

 次には米を買い占めて、相場をつりあげて売り、巨額な金を儲けた。

 またこの時期は、戦乱で家を焼かれた浮浪者や、没落した公家、武士などの間に、中国から伝わった樗蒲
(ちょぼ)一
とよばれる博打が流行した。

 富子はそれを見逃さず、そんな連中相手に高利で元手を貸しつけた。高利貸まがいのことまでして金を儲
たのである。

 富子には、戦争を利用してもうける死の商人のおもかげさえあった。いわゆる売官という、位階を金で買える
ようにしたのも富子である。富子は、
金銭で位階を売った最初の人ともいえる。

 富子のこのような行為は、時代がようやく貨幣経済の入口に立ったという証拠でもあった。

 富子は、じつに奔放な女性であった。後土御門天皇との浮名の噂など、真偽は別として数えあげればきりが
ないほど、勝手気儘な振舞いに満ちている。
 日野富子は、
よくいえば近代的な女といえる。今の女性にも、この富子に似ている女が多い。義政にすすめて
明に銅銭を求めさせたりするが、見方によれば、利殖についても、さとい時代の先駆者で、万事金銭の
力にす
がって、
封建社会の殻を破ろうとした女だったともいうことができる。
 応仁の乱で、
山名宗全が南朝天皇の子孫と称する小倉宮の王子を奉じて西に陣どる。それに対して細川勝元、
赤松政則が東陣をはり、後土御門天皇を代表にして戦う。
 日野富子は義視を排して自分の子を将軍にしようと山名宗全側につくが、やがて山名宗全は病気で死んでし
まった。戦さが長びき、両方ともにくたびれ果て、双方とも戦さに益なしと思いたって、戦いをやめてしまった。

 富子にとってさいわいしたことは、足利将軍家がまだ残っていたことである。その後彼女は、義尚が九歳で運
よく将軍職につくことができ,その六年後には明から銅銭を贈られた。しかし、すでに昔日の面影はな
かった。
一方、義政は、義尚十九歳のとき東山山荘(銀閣寺)に入って、茶の湯三昧にふけり、義尚が二十
五歳で死ぬと、
翌年五十六歳で自分も死んだ。

 富子はさらに六年も生きて五十七歳で死んだが(明応五年、一四九六年)、その晩年は戦乱の中で、一路衰微

の道をたどる斜陽の足利家を支えて寂しく死んでいったのである。
 富子は土地よりも、
もっぱら金銭をもとうとしたのだから、この時代のあり方よりもすこし前に進みすぎていた。
 この点では富子は後醍醐天皇と同じである。
後醍醐天皇も乾坤通宝をつくろうと、土地経済を放棄して、自分
の大覚寺統の土地を武士たちに与えた。そして自
分は貨幣を鋳造して,金の所有者になろうとするのである。

 経済理論としては正しくとも,金銭が通用しない足利時代以前に貨幣をもっていても、権力の座にすわれないし、
武士団も土地のない主人のところには集まらない。時代に先がけて、貨幣をあえて集め、それを使う政策を考え
だしたのだから、後醍醐天皇は理想主義で失敗した経済家といえなくもない。

 後醍醐天皇が京都から大和へ行った理由も、大和の吉野の蔵王堂が熊野水軍は中国との貿易を行なって金
をもっていたから、吉野に行けば、熊野水軍のお金の力が手に入ると思ったのである。
 後醍醐天皇は確かに金を手に入れたが、物や土地の保証のない金だけでは誰も物を売ってくれないのである。
物と交換できない貨幣など、単なる地金にすぎないのである。
 南朝失脚の原因の一つは、交換できない貨幣に執着したことである。後醍醐天皇が、土地経済の次は貨幣経
済だ、と予想したのは正しかったが、その予測は三百年以上も早く、彼は自分の予測に敗れ去ったといえるので
ある。
   樋口清之 金銭 より



















iPadから送信

 
     



 
     
 

 

     

かね



iPadから送信
 
     

     

このような形態も、中世になると技術者が神社仏閣の拘束から飛び出してしまうようにな

る。そして、「座」とよぶ組合をつくるようになった。

一座は技術者

の集団

独立した技術者たちの集団になると座となっ

神社仏閣に属しているときは、

た。

その単なる構成員であるが、

かならず神社仏閣に対して営業税を払った。自分たちの身分を保証し、保護してもらう礼

しかし、

すなわち1種の税を出すわけである。それが座金である。

政治力さえ

もつ座

この同業組合なのである。初めは興福寺のための芸人が、

座は、

およそ六十あまりの座をもった奈良の興福寺は、

後には、遊芸人である能楽士集団までも座とよんでいる。観世座や金春座などは、

この座金で経営していた。

かんぜ

こんぱる

みな

独立して組合をつくったのであった。

奈良に油座があった跡を、

油座は、

いまでも油坂という。近鉄奈良駅を降りたところに油座があった。

それが後に戦国時代になって、

その大和の

斎藤道三が淀川沿いの油座を

さいとうどうさん

近畿の油の専売権をもっていたから、


背景に強大な力を手中に収め、美濃国を奪うことになる。

座がこのように大きな政治力さえもつようになるのは、

方の経済を動かす力をももつことができるからである。

座が強力になると、

その専売権によって、

その地



iPadから送信
 
     

五行な

かいき しょうほう

たいへいげんぼう

まんねんつうほう

和同銭 字四年(七六0)に金銭の開基勝宝銀銭の大平元宝、銅銭の万年通宝が鋳造されるまで新

しい銭はつくられなかった。この半世紀に余る空白はどうして起こったのだろうか。

しょうむ

それは、聖武天皇の有名な大仏鋳造の事業がその間にあったからだと考えなければならない。

天平十11年(七四0)、藤原広嗣が乱をおこすと,聖武天皇はノイローゼになった。伊賀行幸や恭仁磊が

てんぴょう

ise ters、ひろつぐ

詐画され、

奈良の都を離れようとさえした。

そのときに、

国民の精神的な拠りどころとして、天皇の絶対権の象徴でもある五丈三尺五寸の大盧舎那仏

るしゃなぶつ


しがらき

をつくろうと企てた。今の滋賀県、信楽(紫香楽)に、

大仏の骨組みの立柱式をあげた。天平十六年十一月十

三日のことである。聖武天皇は、その前年に、全国に

金属回収令を発布している。


鋳直されて大仏の原料になったと思われる

やがて、

日本全国から和同銭が大量に都に集められ、

のために、ふたたび大きく後退させられるのである。

させた。

経済的破綻を招いた。このことからすると、この天皇の偉業の陰にも、

このため日本の経済は、貨幣経済へ一歩足を踏み入れたとたん、三十五年目にして、その貨幣は大仏鋳造

後に、徳川家康は豊臣秀頼に、豊臣家の経済力を凝集させる狙いで、京都の方広寺六丈三尺の銅像を再興

聖武天皇の大仏鋳造はそれより約九百年前である。政府管理の通貨を非流通の物品に凝集させて、政府の

一抹の謀略の疑いがないでもない

が、

これは今日まだ実証することができない。

ただ、大仏鋳造の大事業がひたすら民衆を疲弊させる一種の暴挙に近いものであることは否定できなぃ。

果たしてその結果は奈良時代経済の混乱と国内不安を生んでいった。


政府の貨幣 奈良時代から平安時代にかけて、当時の政府は、この自己矛盾におちいりながらも、つぎ

発行は

奈良朝と

明治以降のみることができた。しかし、そのために起こる経済的な破綻は、目にみえて増えていった。

つぎに新しく悪い貨幣をつくり変えて、十二種類にも及ぶ通貨をつくっていくのである。

貨幣の発行者は政府である。したがって、権力を背景にすれば、いくらでも貨幣を鋳造す

日本では、貨幣を政府自身がつくるのは、この時代とずっと後の明治時代のことである。これは、日本の

豊臣秀吉以後は、いわゆる金座·銀座·銭座という商人の同業組合が、請負い事業として貨幣をつくり、

これに対し、奈良時代以降の皇朝十二銭は、すべて政府がつくり、発行したものである。これは中国にな

貨幣発行の歴史できわだった特色である。

政府はそれを管理するだけで、

みずからは貨幣をつくらなかった。

政府が通貨を鋳造するのだから、

政府自身が金質を下げようと思えば、

いくらでも粗

らったものであるが、

悪な貨幣をつくることができた。

金質を下げれば下げるほど、

利益が生まれる。

しかし貨幣価値が下がるので、

それにつれて物価は上って


しまう。

奈良朝政府のこのような安易な貨幣政策は、やがて政府自身にそのはねかえりがあらわれた。

単にインフレを起こすだけではなく、その経済的威信をはなはだしく傷つけ、自らの評価を下げる結果と

なっていった。




iPadから送信
 
     


















,