飛鳥寺について
飛鳥について
飛鳥四大寺について
石上について
乙巳の変
畝傍山・橿原神宮について
伽藍配置比較
十一面観音
善光寺縁起
高取城について
谷三山
大官大寺について
長岳寺阿弥陀如来像
定慧
多武峯について
土佐の町について
平城京へ
薬師寺について
薬師寺 西塔・東塔について
薬師寺 薬師如来について
薬師寺 東院堂聖観音菩薩立像
亀形石造物について
山田道
蘇我倉山田石川麻呂
菩提僊那(ぼだいせんな)
磐余の宮
飛鳥の範囲について
うらうらに 照れる春日に
古い太刀
惣神所
練行衆
松明について
絵馬について
仏生会(ぶっしょうえ)
大伴家持
式年遷宮

槻の木の広場




飛鳥寺について

 私は最初に飛鳥寺を訪れた。仏教が印度から中国に入ったのは紀元前後である。ところが中国では、それより数世紀前に孔孟の儒家、老荘の道家があり、中国古代思想は完成していた。それに比べ、仏教が伝来してきた頃の日本は、やっと漢字が入ったばかりの風土であった。したがって、日本における初期仏教を、私は、原始仏教とよんでもさしつかえないような気がする。
 飛鳥寺には、この原始仏教の遺物である飛鳥大仏がある。
 
 昭和三十一年に、奈良国立文化研究所が飛鳥寺の遺跡を発掘したとき、ここにはかって七堂伽藍が存在していた事実が確認されたが、いまは、大仏を安置してある小さな本堂しか残っていない。移ろうのが歴史の常であるとしても、かって六世紀から七世紀にかけて、この飛鳥寺の周囲には、数多くの寺院が建立され、帰化人がそぞろ歩きをしていたことを思えば、歴史はそれほど遠いものではない。現在、各地で出土している古瓦を調べてみると、白鳳時代の寺跡は全国で約二百ヵ所あり、その四分の一の五十ヵ所前後が、飛鳥時代のものと推定されている。これは、日本の仏教が、この飛鳥地方で如何にたしかに根をおろしたかを想像するに難くない。入ってきたばかりの仏教文化は、当時の日本人にとってはこの上なく新鮮だったにちがいない。
 飛鳥大仏は、奈良のほかの寺院にある仏像にくらべ、まことに孤独な表情をしている。あの顔は、あきらかに帰化人がもたらしたものである。そこに天平期の仏像の艶麗さを見ることは出来ないが、その素朴さが、かえって仏教伝来の頃の風土を想いださせてくれる。

 あの飛鳥大仏は、日本人の作品である。帰化人ならもっと美術的な仏像をつくれたはずである。豊臣時代、日本人が、はじめて朝鮮から陶器を学んだように、そして、江戸時代、日本人がはじめてオランダ語を学んだように、当時の日本人は、自らの手で仏像をこしらえた。それが飛鳥大仏である。そして飛鳥時代に終焉を告げたとき、日本人は、推古というかがやかしい自らの時代を迎えることができる。奈良にあれだけたくさんの美術品をのこし得たのは、飛鳥時代のうみの苦しみがあったからである。

 立原正秋 心のふるさとをゆく より
 物部氏だけが、最後まで仏教受容に反対した。武士というものは、だいたいが保守的である。推古天皇が仏教信者になってもまだ賛成しないから、ついに物部守屋と尾輿はほろぼされてしまった。もともと仏教受容に反対だった中臣氏や大神(おおみわ)が連合軍として味方になってくれると思っていたところ、逆に聖徳太子軍についてしまった。これは蘇我氏の陰謀である。
 蘇我氏はまた、物部氏を滅ぼすにあたって、それを祈願するためのお寺をつくった。それが飛鳥寺である。
 飛鳥寺は、のちのちの日本の寺と構造がまったく違う不思議な寺だ。朝鮮の清岩里寺式伽藍配置をまねたもので、一寺四名といって四つの名前をもっている。東の門には飛鳥寺、西の門には法興寺、南の門には元興寺、北の門には法満寺と書いてある。この寺が飛鳥の中心で、仏教文化の中心であった。
 こうして物部氏が滅ぶと、蘇我氏の勢力がたいへんに強くなり、ますます栄えてくる。そして飛鳥には、この6世紀終わりから7世紀にかけて、燦然(さんぜん)たる文化の花がひらくのである。歴代の天皇はみな飛鳥地方に都をもち、板蓋宮、河原宮、豊浦宮などが営まれていく。
 その文化の推進者の蘇我氏は、非常に開放的で進取的だった。そのため、仏教の坊さんたちはもちろんのこと、シルクロードを通ってずっと西の、イランあたりの人間まで日本へつれてきている。
    ・・・ ・・・
 当時の飛鳥は、まさに日本離れしたエキゾチックな町だったにちがいない。それが、いわゆる大化改新で、くつがえってしまうのである。

 樋口清之  足の下の日本史 より  


飛鳥について

 三輪山のうしろ(北)に龍王山巻向山が左右に並ぶのを、鳥が羽を広げた姿に見立てた三山が「飛鳥」の語源という説もある。石神遺跡から少し北にいったところあたりから或いは、もう少し遠く橘寺の近くに歌碑が設置されているが、そのあたりからも飛鳥に見える。 
 歌碑は飛鳥から見た三輪山などの美しさを、柿本人麻呂が詠んだという長歌であり、坂本信幸教授筆による。 
   
 
   柿本朝臣人麻呂、妻が死にし後に 泣血哀慟して作る歌

 うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わがふたり見し
 走出(はしで)の 堤に立てる (つき)の木の こちごちの()
 春 の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど
 頼めりし 児らにはあれど 世の中を 背きし得ねば
 かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲(しろたえ)天領巾隠(あまひれがく)り  
 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば
 吾妹子
(わがもこ)
が 形見における みどり児の  乞ひ泣くごとに
  取り与ふる 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち
  吾妹子と ふたりわが宿()し 枕づく  妻屋のうちに
 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし
  嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
  大鳥の 羽易(はがひ)の山に わが恋ふる 妹は(いま)すと
 人の言へば 石根(いわね)さくみて なづみ来し  ()けくもそなき
  うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる  ほのかにだにも
  見えぬ思へば
                (改行は歌碑の通り)
万葉集巻2 210
        坂本信幸教授筆
 末永く頼んだ妻子であるのに、世の運命に背きえず落日の如く死んでしまったので、妻の形見の幼児が欲しがり泣くのに、与える物もないので脇に抱え、妻と枕を交わした寝室に昼夜を寂しく嘆き暮らしても、逢うすべもないが、羽易の山に、恋しい妻がいると人は言うので、岩根を押し別け、苦しみながら来たところ、少しもよくない。生きていると思っていた妻は、玉のゆらぐような仄かさの中にさえも見えないので。

羽易の山:春日有羽買之山(かすがなるはがいのやま)(10・1827)も高畑町の辺りから、春日山を仰ぐと、御蓋山(みかさやま)が著しく突出して大鳥の首のように、その後の左右に春日山が羽を広げたように見える。同じように、他の地で山の形からの名とされてもよいと考えられる。
大鳥の:大鳥の羽交(はがい)の意で羽易の山の枕詞  (羽交:左右のはねの重なりあったところ)     
「大鳥の羽易の山」
万葉集巻2 210の続きの歌として
  去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせれど相見し妹はいや年さかる   巻2 211
  衾道(ふすまぢ)を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし⇒⇒⇒   巻2 212  

飛ぶ鳥の歌の追加として
  飛ぶ鳥の明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
     元明天皇 巻1 78
 柿本人麻呂が妻を亡くした後に作った「泣血哀慟歌」と称される
長歌末尾に歌われた「大鳥の羽易(はがい)」の山」とは、この碑の北東前方に、三輪山を頭部に龍王山、巻向山を両翼のようにして、
さながら大鳥が天翔るように見える山の姿をいったものである。
 「羽易」は鳥の両翼の重なり合う部分をいう。
 飛鳥は現在、明日香村とよばれている。そして、明日香村のなかに、飛鳥豊浦小山などの地名がある。飛鳥の範囲について⇒⇒⇒
 大和朝廷が確立して日本が統一国家としての歩みを起こしたのは、応神仁徳帝の頃である。そして飛鳥に都をおいたのは、仁徳帝の子の允恭帝(いんぎょう)であった。当時の飛鳥は、現在の明日香村をはじめ、大和三山に囲まれた平野をすべて含めていたらしい。允恭帝の都の所在地は、「古事記」に「遠飛鳥宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とあり、遠飛鳥宮は、いまの高市郡に当たっているらしい。
 これは西暦六世紀の頃であった。そしてこの六世紀から七世紀にかけての二百年間に、日本の古代文化は、飛鳥を舞台にして花開くのである。日本に仏教が伝来したのは欽明帝の七年であるが、このときから大化改新までの約百年間が、いわゆる飛鳥時代にあたり、なかでも聖徳太子が活躍した推古朝の前後が、日本に仏教を植えつける発端となった時期である。そして、六世紀に伝来した仏教が、日本の風土に着実に根をおろし、日本人がそれを理解するまでには、永い年月を要した。日本の仏教が真に日本の仏教とよばれるようになるのは、鎌倉時代である。つまり、法然、親鸞、日蓮の鎌倉仏教である。そして道元にいたってはじめて「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」が和文で書かれる。法然⇒
 最も新しい第Ⅲ期遺構は、内郭、外郭、エビノコ郭と呼ばれる3つの区画でこうせいされている。中心区画の内郭は天皇の宮、外郭は役所などの諸施設が配置された空間、エビノコ郭は大極殿と考えられている。
 この飛鳥の百年は、なんと波瀾にとんでいたことか。仏教が渡来したのは欽明帝の七年(538)で、574年には聖徳太子が誕生している。594年には、馬子が崇峻帝をころしている。595年には高麗の僧彗慈が帰化し、太子は彼を師と仰いでいる。604年には、太子が憲法十七条を作り、607年には小野妹子が隋に行っている。608年妹子再び隋に行き、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵の請安(みなぶちのしょうあん)が随行している。聖徳太子が亡くなったのは622年である。この間、「維摩疎(ゆいまそ)」「法華経疎」が成っている。そして625年には、高麗の僧慈灌が、三論宗を伝えてきている。そして645年には、中大兄皇子が蘇我入鹿を誅している。
 この百年が、私には、明治維新と同じように思えてならない。「古事記」が成ったのは、これより67年後の元明帝和銅五年である。この間に、和銅三年には奈良に遷都している。「日本書紀」が成ったのは720年、元正帝の養老四年で、この時から天平に入る。そして、1175年、高倉帝の安元一年に、法然が浄土宗を開くまで、日本の初期仏教は、原始時代を経て準備時代にいたるのである。欽明帝七年から高倉帝の安元一年まで、じつに630年余を経ている。日本に仏教が根づくまでこれだけの年月がかかっている。その間に、905年には「古今和歌集」が成り、935年には「土佐日記」985年には源信の「往生要集」1053年には「今昔物語」「大鏡」が成っている。法然⇒
 私は、こうしてみると、日本に初期仏教を植えつけた飛鳥時代というのは、たいへんな時代だったのではないか、と思う。飛鳥の百年間は、日本文化を生むための苦しみの百年であった。

 立原正秋  心のふるさとをゆく  より

 - 持統天皇の時代(694)に都は飛鳥浄御原(きよみはら)京から藤原京へ移ったが、それから二度と飛鳥の地が政治の中心になることはなく、代わりに古代の記憶がそのまま残された。-
 飛鳥は春は春で明るく、秋は秋で明るい。飛鳥の地独特の明るさである。ただつつ抜けに明るいのでなく、どこか底の方にひんやりした翳り(かげり)がかくされている明るさである。いうまでもなく、その翳りは歴史の翳りである。飛鳥は歴史の地であり、私たちは無心にその地を歩むことはできない。地上至るところに歴史の欠片(かけら)は顔をだしており、地下至るところに歴史の欠片は埋まっている。飛鳥を歩むということは歴史の中を歩むことである。歴史というものは、特に古代史というものは、それがどんなに花やかなものであろうと、振り返ってみれば、どこかに暗いものを持っている。栄枯盛衰の暗さもあれば、無数の小さい悲劇の埋まっている暗さもある。そうした古代史が投げかける翳りが、飛鳥の春の明るさをも、秋の明るさをも独特のものにしているのである。
 飛鳥を訪ねて、私がまっ先に立ちたいと思うところは古代王宮の跡が散らばっている地帯である。どこでもいい。飛鳥寺付近でもよければ、板蓋宮址付近でもいい。推古天皇の豊浦宮、小懇田宮、舒明天皇の岡本の宮、田中宮、厩坂宮、皇極天皇の板蓋宮、斉明天皇の川原宮、後飛鳥岡本宮、それから天武天皇の飛鳥浄御原宮、そういった王宮の数々が、さして広くない地域に営まれていたのである。孝徳天皇の難波長柄豊碕宮、天智天皇の近江志賀大津宮といった例外はあるが、その場合も次代にはまた飛鳥に戻っている。

 井上靖  歴史小説の周囲  より 
龍王山 三輪山 巻向山

飛鳥の範囲について
 北は飛鳥寺、南は中央公民館、西は飛鳥川、東は万葉文化館の範囲内ともいわれる。
 墓はこの範囲から南側につくられた。飛鳥から藤原京更に平城京に遷ると、墓は逆に都の北側につくられるようになった。



飛鳥四大寺について

 飛鳥の四大寺と奈良の四大寺を比較してみよう。飛鳥四大寺は、飛鳥寺(法興寺)、川原寺、大官大寺、薬師寺であった。奈良の四大寺とは大官大寺(大安寺)、薬師寺、元興寺(法興寺)、興福寺である。このうち興福寺をのぞく他の三寺の由来は明らかで、飛鳥の地から移転してきたものである。興福寺だけはちがう。飛鳥四大寺が奈良四大寺になることによって、川原寺が排除されて興福寺がわりこんでいる。これははたして偶然であろうか。他の三寺はそれぞれ奈良へ移転したが、川原寺のみは移転しない。なぜであろうか。川原寺には移転出来ない運命があったのであろうか。
 第一に私は、川原寺が一名弘福寺と呼ばれていることに注意したい。弘福寺は後に「グフクジ」と呼ばれる。しかし「弘」は呉音読みにすればグ、漢音読みにすればコウである。呉音はだいたい僧侶の読み方、漢音は俗人の読み方と考えて差し支えないであろう。弘福寺はまたコウフクジとも読める。つまり弘福寺=コウフクジが、興福寺=コウフクジにとって代わられたのであった。「日本書紀」にはこの寺はもっぱら川原寺と書かれているが、「続日本紀」にはもっぱら弘福寺と書かれている。大宝三年(703)一月五日、前年に死んだ持統帝のために「斉を大安、薬師、元興、弘興四寺に設く」とある。この書き方を、天平七年(753)の「宮中、及び大安、薬師、元興、興福の四寺において、大般若経を転読せしむ」という記事と比べてみるとよい。寺の順序も同じで、ただ興福寺が弘福寺に代わっただけである。



 奈良遷都は、実は大きな宗教的ねらい、一言でいえば藤原氏の宗教的指導権の奪取を秘めていた。そのためにはまず藤原氏の氏寺を国家四大寺の一つとする必要があった。それが興福寺の建設であり、興福寺の四大寺への割り込みは、川原寺すなわち弘福寺(ぐふくじ)の四大寺からの除外の上に成立した。興福寺の建設は、実は藤原氏の宗教政策の大きな山場であった。

 梅原猛  隠された十字架  より



石上について

「それより、大和の石上神宮(いそのかみ)へゆこうか」
 と、私はコトバから話題をそらすために提案してみた。この「街道をゆく」の取材に、かれを同行したかったのである。石上神宮は大和の国中(くんなか)の布留(ふる)の里の森のなかに鎮まっている古社で、古代大和王朝の武器庫であったと想像され、日本であるいはもっともふるい神社の一つである―――と、そのように説明した。
「天理のそばでしょう」
「行ったことがあるの」
「そばを通っただけですけど・・・しかし、いそのかみね」
 と、この熱心な語学者はふたたび日本語のなかにのめりこんでしまったらしく、しきりにくびをかしげている。
「いそのかみの いそ は石の字をあててありますが、石という文字にまどわされてはならないでしょうね」
 と、はじめた。
「いったい、い というのは何でしょう。岩、磯、石・・・」
 とならべて、い というのは鉱物質のなにかを言いあらわしたものではないか、というような意味のことをいった。が、私にはそういうことがわからないから、相槌のうちようがない。しかし素人考えでいえば、この場合の い はむしろ接頭語で、磯(そ)、岩(は)、石(し)のほうに母体があるのではないかと思ったが、しかしこれはきわめて怪しい。
「それとも石上の いそ は、やはり石でしょうか」
「石かなあ」
 と、私は定見もなにもあるはずがなく、こまってしまった。もっとも古代日本人にとって神の馮(よ)りどころは石や岩であることが多く、むろん社殿などができるのは後世のことである。この石上神宮の場合も、その原始形態は磐座(いわくら)といわれるストーン・サークルで、その磐座が神域の奧ふかくになお残っているはずだから、そういうことでいえば石の文字があてられても、べつに奇異ではない。
「しかし」
 と、私は、ロジャ・メイチン君のペースにひきこまれてしまった。
「石上の いそ は、やはり海岸の磯の意味のように思うがなあ」
 と、私は話を彼の専門外のほうにひきずりこもうとした。なぜならば大和盆地は古代にあっては一大湖沼であったからである。古代衆落は盆地のまわりの麓や高地に発達したから、いまでも磯野、浮孔、南浦、磯城島といったふうに磯くさい古い地名が多くのこっており、となれば石上の地形からみてやはりこれは磯ノ上にちがいないと思うほうが、穏当のよな気がする。

 司馬遼太郎  街道をゆく(1)  より
石上神宮の「ふる祭り」
 白河天皇の永保元年(1081)が起源と伝えられている。最も重要な祭りで、10月15日に行われる。
石上神宮の榜示浚神事(ぼうじさらえ)
 大祭(10月15日、ふる祭り)に先立ち、10月1日に斎行されるもので、郷中の清浄を保ち、他からの穢れ(けが)を防ぐと共に、神域の再確認の目的として行なわれる神事。
牓示・牓璽(ほうじ)で、杙(くい)または石などによって領地・領田の境界を標示したものであるが、当神宮では榊の小枝の紙垂をつけたものを榜示榊とよび、円錐型に盛った盛砂に刺している。神職2名が南郷と北郷に分かれ、合計8ヶ所に刺す。
―記紀に記載されている石上神宮―
古事記 中巻 神武天皇
 「天照らす大神高木の神二柱の神の命もちて、建御雷の神を召(よ)びて詔りたまはく、葦原の中つ国はいたく騒ぎてありなり。我が御子たち不平(やくさ)みますらし。もはら汝(いまし)が言向けつる国なり。かれ汝建御雷の神降(あも)らさね」とのりたまひき。ここに答へまをさく。「僕(やつこ)降らずとも、もはらその国を平(ことむ)けし横太刀あれば、この刀を降さむ。この刀の名は佐土布都(さじふつ)の神といふ。またの名は甕布都(みかふつ)の神といふ。またの名は布都の御魂(みたま)。この刀は石上の神宮(かみみや)に坐す。

日本書紀 垂仁天皇39年10月
 五十瓊敷命(にしきのみこと)、茅淳(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかはかみのみや)に居しまして、剣(つるぎ)一千口(ちぢ)を作る。因りて其の剣を名けて、川上部(かはかみとも)と謂ふ。亦の名は裸伴(あかはだかとも)と曰(い)ふ。石上神宮(いそのかみのかむみや)に蔵(をさ)む。是(こ)の後に、五十瓊敷命に命(みことおほ)せて、石上神宮の神宝(かむだから)を主(つかさど)らしむ。・・・この時に、神、乞(こは)して言(のたま)はく。春日臣(かすがのおみ)の族(やから)、名は市河をして治めしめよとのたまふ。因(よ)りて市河に命(みことおほ)せて治めしむ。是、今の物部首(おびと)が始祖(はじめのおや)なり。

日本書紀 垂仁天皇87年2月
 五十瓊敷命、妹大中姫(いろもおほなかつひめ)に謂(かた)りて曰(い)く、「我は老いり。神宝を掌ること能(あた)はず。今より以後(のち)は、必ず汝主(いましつかさど)れ」といふ。大中姫命辞(いな)びて日(まう)さく。「吾(われ)は手弱女人(たをやめ)なり。何ぞ能(よ)く天神庫(あめのほくら)に登らむ」とまうす。神庫、此れをば保玖羅(ほくら)と云う。五十瓊敷命の曰(い)はく。「神庫高しと雖(いへど)も、我能く神庫の為に梯を造てむ。豈(あに)庫に煩(わづら)はむや」といふ。故、諺に曰はく、「天の神庫も樹梯(はしだて)の隋(まにま)に」といふは、此其の縁(ことのもと)なり。然(しかう)して遂に大中姫命、物部十千根大連(もののべのとをちねのおおむらじ)に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまでに、石上の神宝を治むるは、是其の縁なり。昔丹波国(たにはのくに)の桑田村に、人有り。名を甕襲(みかそ)と曰ふ。則ち甕襲が家に犬有り。名を足往(あゆき)と曰ふ。是(こ)の犬、山の獣(しし)、名を牟士那(むじな)といふを咋(く)ひてころしつ。則(すなは)ち獣の腹に八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)有り。因(よ)りて献(たてまつ)る。是の玉は、今石上神宮(いそのかみのかむみや)に有り。
天神庫:神宝を収める倉庫の高いさまをいう。

古事記 下巻 履中天皇
 子伊耶本和氣の王(履中天皇)、伊波礼(いわれ)の稚桜の宮にましまして、天の下治らしめしき。・・・もと難波の宮にましましし時に、大嘗(おほにへ)にいまして、豊の明したまふ時に、大御酒にうらげて、大御寝ましき。ここにその弟墨江の中つ王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著けたり。ここに倭の漢(あや)の直(あたへ)の祖、阿知の直、盗み出て、御馬に乗せまつりて、・・・かれ上り幸でまして、石の上の神宮にましましき。

日本書紀 履中天皇4年10月
 石上溝を掘る。(奈良県天理市布留付近に作られた用水路・幅15m、深さ2m、発掘調査により検出 地図

日本書紀 天武3年(804)8月
 忍壁皇子(おさかべ)を石上神宮(いそのかみのかみのみや)に遣(まだ)して、膏油(かうゆ)を以て神宝(かむだから)を瑩(みが)かしむ。即日に勅して日(のたま)はく、「元来諸家の、神府(ほくら)に貯める宝物、今皆其の子孫に還(かへ)せ」とのたまふ。
 物部氏は古事記・日本書紀などに饒速日命(にぎはやひ)の子孫に始まるとされる。5世紀中ごろから後半ころに台頭、大伴氏と並ぶ最大の軍事氏族として活躍。6世紀末に蘇我氏から軍事対決して敗れる。天武朝頃から復調し、石上氏と改称。石上神宮のある現在の天理周辺と、河内国の八尾・若江周辺を拠点とする。




乙巳の変

 六月十日に入鹿のところに、飛鳥板蓋宮の女帝からの使いが来た。
 「明後日、韓(から)から貢物の披露の式を行うよしです。暑中の折り、大臣にはお休みいただいて、臣(入鹿)にご参列いただきたいそうです」
 「さようか。韓から何が届いていたかな?」
 「よくは存じませぬが。高句麗からは届いているようです」
 「よろしい。伺うと申し上げてくれ」
 入鹿は、このことについて父の屋敷に何も連絡しなかった。たとえ休むことになっても、大臣たる父のもとにこの式が挙行されることは、連絡があったものばかり思っていたのである。
 当の六月十二日、雨もよいの天気だ。梅雨はあがったのに、いやに蒸し暑い。今でいう午前十時をめざして入鹿は板蓋宮に赴いた。
 自分の屋敷より粗末ではあるが、一応塀があり、宮門がある。いつになく兵士が多い。
 (変だな?)
 と思わず、愛剣をしっかりと握りしめた。
 「今日のような儀式に、少しものものし過ぎぬか?」
 入口で、入鹿は武門の佐伯氏(大伴氏の分家)の首領に声をかけた。
 「そうかもしれません。みかどからの指令だそうです。このところ世間はきわめて不穏で・・・・・ご存知の通りですが・・・・・おそらく、それを慮(おもんばか)ってのことでしょう」
 との、あいまいな答えだ。門にはいったとたんに、扉がギーッと締まる音が聞こえた。ますますがっちりと固めたかのようだ。
 正殿の方に歩み近づくほど、薄気味悪いくらいに、シーンと静まりかえっている。人の気配が感じられない。
 (どうも今日は変だ)
 正殿の昇り口にさしかかったとき、一人の男が出迎えのためのようにして現れた。蘇我氏が面倒みている俳優(わざおぎ)の頭だった。
 「お前か――また今日のような儀式に、どうしてここに居る?」
 「お疲れさまにございます。今日の貢物の披露は、品物だけではありませんそうで、高句麗の楽人たちも貢のうちに入れられているのだそで。私どもは、その素人の芸を見せてもらったあとで、御殿の上で演じてみせることになりました。いや私たちだけではない。古人大兄皇子も・・・・・そして、入鹿臣さまも共に舞っていただくのだそうで――」
 「何? わしも。それはまた異なこと・・・・・笑わせるのじゃ無い」
 「いやそれが、その通りの企てだそうです。舞いの達者な太郎臣さまよ。どうぞお気軽に・・・・・」
 「おかしなことをみかどは考えられた。でも楽人が新たに朝貢されたとはたのしみだ。いっしょに習ってもよいな」
 「さようでございましょう。こんあ暑中のこと。儀式ばったことはほんの僅かな時ですませ、あとは愉しくなさるのでしょう。ですからご参集の方々も、正服では無く、あっさりとしたお姿でよいのだそうです。もちろん太刀などは身につけること無しに・・・・・あちらでお預かりさせておきましょう」
 ふだんからよく知っているこの俳優の言葉だけに、入鹿はまんまと欺かれ、衣服はともかく、太刀だけはと、この男に預けた。これをおしいただくようににして、彼は別室に入っていった。
 外では、とうとう驟雨(しゆうう)のような雨が降って来た。その雨の音がやかましいくらいだ。正殿の床に上がって見わたすと、なるほど中大兄皇子たち諸皇族もいない。かわりに中堅の氏が十数名座している。
 やがて玉座へ、一同平伏のうちに女帝が出御して現れた。
 韓からの貢物の披露ということで、例の倉山田石川麻呂が、みかどの前に進み出て立った。
 これはきまりきった内容の文章の、上表文を読むことであった。このような式で、倉山田が文を読むことは初めてではない。なのに・・・・・
 倉山田は、ワナワナとふるえている。入鹿は、
 (なんだ!このくらいの席で、ガタガタふるえているとは、度胸の無いやつだ)
 しかも読みあげていく声は上ずり、時折りかすれて、詰まったように聞きとれない。入鹿はむしょうに腹が立った。思わず、
 「おいっ! どうした。なんでそんなにふるえているのだ?」
 とどなった。石川麻呂は、
 「余りにも間近く・・・・・みかどの御前に立つがゆえ・・・・・不覚にも汗がふき出て・・・・・眼が霞んでなりません・・・・・」
 とぎれとぎれに、それだけこたえた。
 すると、玉座の脇の衝立のかげで、
 「やあ!」
 と声がして、二人の男が剣をふるって入鹿に近づいた。なんと中大兄皇子と佐伯子麻呂の二人が、槍や太刀をもって隠れていたのだ。
 ものも言わずに二人は、入鹿めがけて斬りつけて来た。中大兄は肩に、子麻呂は脚に――入鹿は、左の腰に手をやった。
 (しまった! 無いっ、太刀が――)
 彼は自分の座から立ちあがると、女帝の直前に転がるようにしてひざまずいた。深く斬りつけられた肩口を右手でおさえつけながら、
 「なに、ごとですか・・・・・こ、これは・・・・・」
 と言うと、苦痛を満面にあらわしてそのまま床に伏した。
 女帝もしばしあっけにとられた。一瞬の凄惨な事態に仰天した。しばらくして気を取り直し、槍を抱えて控えている中大兄を見据えると、
 「なにごとですか。このようなところで?」
 と叱りつけるに聞いた。
 中大兄皇子は正殿から地に降り立ち、すぐひざまずいて言った。
 「鞍作(くらつくり)りの奴が――みかどの座を奪わんとするたくらみをいだいていたからです。みかどのために思いきって致しました」
 鞍作というのは、多くの帰化人グループを擁して富強を誇ったがゆえの蘇我氏に対する、反感をこめての俗称であった。
 やがて、どこに潜んでいたのか、中臣鎌子もあらわれ、殿上に侍していたものと一緒になって、入鹿の死骸をおこし、雨のはげしく降り落ちる地上に運び出した。
 扉にしていた席障子(むしろしょうじ)を一枚はずして、その遺体をおおうた。
 おそるべき中大兄皇子のクーデターは成功したのだ。
 この惨事に失神せんばかりに驚いた古人大兄皇子は、あたふたと御殿を出て、いちもくさんにわが屋敷に戻り、だれにいうともなく、
 「韓人が・・・・・韓人が・・・・・鞍作臣をころ・・・・・ころしてしまった!」
 と真っ青な顔でうろたえわめいた。侍臣たちはあっけにとられ、何が何だかわからぬままに、門を固くとざした。皇子は、寝室にはいったきり、しばらくは起きあがれずに過ごした。
 中大兄皇子は、板蓋宮の宮門を固く守らせて、蘇我の兵士がはいりこまぬようにし、心を通わせあった少数のものだけ中に入れて、かねて打ち合わせの通りにこの決行を進めたのだったが、いずれ当然、大臣の蝦夷側の反撃があることを予期した。
 入鹿の遺骸は、蝦夷の屋敷に運びこまれたのである。もちろん、その部下の兵士たちのあいだのざわめきははげしい。
 だが、すぐに板蓋宮に反撃に行くでもなかった。彼らをひきいて統率するようなものがいなかったのである。
 蝦夷は、唖然として、太郎入鹿の遺骸に面した。ついこのあいだの入鹿の訪問が思いだされた。
 (こんなことになるのだったのか。太郎め――だいぶやり過ぎたからな。恨みを買ったのだ。あわれなやつよ) 


 和歌森太郎  陰謀の古代史 より





亀形石造物について

 斉明天皇の時代に造られたユーモラスな亀の姿の石造 物。長さ約2.3m、幅約2m。背中の外径1.6mの円形の甲羅には、内径1.26m、深さ約0.2mの大きな水槽が彫

り込まれています。丸い目をもつ頭が取水口となり、甲羅にたまった水が溝の刻まれた尻尾から流れ出るようになっています。

 中国の道教では水中の亀が「崑崙山」という仙人の住む山を支えるとされる。
 日本書紀によれば、飛鳥の多武峰(とうにみね)の頂上には「天宮(てんきゅう)」、つまり仙人の住居をイメージした道教寺院があったという。亀形石造物は、この仙境を背負うように配置されている。
 仏教にも、仏舎利を納めた塔などが亀の甲羅に載るというモチーフが見られる。聖徳太子が死んだ時に作られた天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)でも、100個の亀が天寿国、つまり極楽浄土を背負っている。
 
 千田稔 2007、5、17朝日新聞より






須弥山石(しゅみせんせき)

 表面に山並みや水波らしき文様を彫り表した花崗岩(かこうがん)製の大型石造物。
 「日本書紀」斎明天皇三年(657)から六年(660)にかけて登場する「須弥山像」に当ると考えられる。
 ところで、この須弥山石の造立された「飛鳥寺西」は、一面に神聖な槻の大木があり、蝦夷(えみし)や隼人(はやと)らの饗宴(きょうえん)や群臣らの誓約が行われた場所であった。神の依り代(よりしろ・槻大樹)の前で行われた服属儀礼が、斎明朝では「須弥山像」の前で実施されたのである。
 その真意は、須弥山上に住むという帝釈天仏法


畝傍山・橿原神宮について、

江戸時代に「大和名所図会(ずえ)」というのが、出ている。この本の跋(ばつ・・・あとがき)に寛政三年(1791)という年号があるから、江戸時代中期のもので「古事記」の研究を最初に行った本居宣長の在世当時である。
 ただし、この「大和名所図会」をながめてみると、作者が「古事記」「日本書紀」を読んだという形跡がまったくないことにおどろかされる。このことは、江戸中期までの知識人の多くが記紀を読まなかったどころか、ふつうその所在さえしらなかったという私の印象に符合する。すくなくとも「大和名所図会」はそのことの有力な証拠の一つといっていい。
 たとえば、畝傍山などというのは、明治国家が記紀の記述により大いに宣伝した建国の聖地といっていい。昭和十五年に私などが橿原神宮の境内地大拡張の勤労奉仕にかり出されたその神宮というのは、畝傍山のふもとにある。畝傍山という大和盆地の野のなかにある199mの小山は、いうまでもなく記紀の神武天皇が、皇紀元年二月十一日に即位した土地として知られる。記紀の神武天皇はその死後、「古事記」によると、この山に葬ったとされる。「古事記」のそのくだりでは「御陵(みはか)は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上に在り」となっている。
 記紀的な大和としては高名な山であるべきだが、江戸中期の「大和名所図会」の「畝火山」のくだりでは、神武天皇の名など出て来ず、「巍然(ぎぜん)として特立し」とその山のすがたをのべ、引用している古典も「談峰縁起便蒙」というあやしいもので、「俗に慈明寺山」と書いている。たしかにそういう寺が近くにあり、中世の大和の武士がこの山に城をかまえて慈明寺氏を称したこともある。さらに「図会」では、
  山に神功皇后の廟あり。
 と書いている。この神功皇后を祭神とする神社は江戸期「畝傍明神」とよばれた小さなお宮で、ようするに畝傍山はそういったたぐいのものがあったにすぎず、世間一般でいえば、記紀などは知らなかったのである。


畝傍山麓に現在ある橿原神宮などは、ひどく古い伝統の神社のような印象をうけるが、、明治二十二年の設立で、それまで神武天皇を祀る神社などは、日本のどこにもなかった。一つの伝説を国家をあげて三十年宣伝すれば古色を帯びるという説があるが、日本史は幕末から昭和二十年までのあいだ、そのことを経験したのである。貴重な経験といっていい。

 司馬遼太郎 街道をゆく(12)より


畝傍山、藤原宮跡より望む。

谷三山

谷三山は、郷里の山にちなんで、号を三山といったのみでなく、大和三山の研究を最初におこなった学者であった。畝傍山は天(あめ)の二上山のことで、ほど(女性の陰部)の山であり、頂上に水をたたえた女の山であることを主張した。こんな説は、ただの珍説としてだれも顧みなかったのに、民俗学の進歩は、彼の説を認めざるをえないことになり、改めてその偉さが評価された。

 松本清張 樋口清之  奈良の旅  より

 谷三山生家⇒⇒⇒   谷三山坐像⇒⇒⇒
○幕末の大和を代表する儒学者であった宇智郡五條村出身の森田節斎は、「高取に過ぎたるものが二つあり山のお城に
谷の昌平」という一首を残している。「山のお城」というのは「日本三大山城」の一つにも数えられている高取城のことで、「谷の昌平」というのは高市郡南八木村(高取藩領)の碩儒谷三山のことである。(三山は、節斎にとどまらず、吉田松陰なども教えを請いにやってくるほどの存在であった。)
○三山は、身体な障害をもちながらも、ほとんど独学で学問を究め、家塾を開いて多くの門人を育成するとともに、高取藩に出仕し、大きな時代のうねりの中で、活発な献策活動を展開した。

○全聾の碩学
* 享和2年(1802)に高取藩領であった髙市郡八木村で米穀商を営んでいた谷家の三男として生まれる。
* 11歳の時にほとんど耳が聞こえなくなり、15歳前後からは全聾となる。
* 商売の手伝いもできなくなったが、裕福な家であったため、家族に支えられ励まされながら、読書三昧の日々を送る。中国の儒学者や歴史書、日本の歴史書はじめ数多くの書物を読破し、思索に没頭する。21歳の時に「淡庵管見(たんあんかんけん)」を起稿、2年後に完成する。
* 文政12年(1829)、28歳の時に兄(厚亭)とともに京都に赴き、著名な老儒者猪飼敬所(いがいけいしょ)と筆談する機会を得る。(この時、敬所は三山の学識に驚き、「清儒の博洽にも勝るべし、老拙の及ばざるところ」と述べたという)。5年後には敬所が三山宅を訪れて4日間筆談して過ごし、その2年後には「相在室」と認めた扁額を三山に贈っている。なお、直接に交わる機会はなかったが、敬所を介して三山は頼山陽と交流するようになった。

○高取藩への出仕
* 天保15年(1844)正月、高取藩(藩主植村家教)から三人扶持を給され、名字帯刀を許されて、士藩に列せられるようになる。(43歳)

○靖海芻言(せいかいすうげん)の起草と提出
* 嘉永6年(1853)6月、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリーが、国書を携え、4隻の軍艦を率いて浦賀に来航→幕府は、朝廷に報告するとともに、諸大名らに意見を求める(大多数は拒絶論)→翌年3月にペリーが再度来航、幕府は開国に踏み切り「日米和親条約」に調印(続いて、他の諸国とも「和親条約」を締結するに至る)。
* こうした状況下、嘉永6年(1853)9月付けで、靖海芻言と題する一万数千語にも及ぶ膨大な意見書を(高取藩ではなく)旗本平野氏に提出。最終的に、幕府に提出されず。
* 開国の拒絶論ではあるが、闇雲なそれではない。
* 現時点での開国には反対だが、西洋の学問に目を向けて優れたところを学び、積極的に活用して国力の充実をはかるべきである。たとえ開国を許されることになっても、兵備をしっかり整えていくことが必用であり、拒絶される場合には、海辺は言うまでもなく内地においても防御の策を講じることが必須であると述べている。
*三山は、書物を通して海外の歴史や地理を学び、さらに欧米列強諸国の現状についてもよく把握しており、その上で立論している。彼は、「相在室」の扁額が掲げられている一室でほとんど時間を過ごしながら、世界の動きを見つめていた。
○吉田松陰の来訪
*「靖海芻言」提出のしばらく前、同年5月2日には吉田松陰(当時23歳)が来訪している。これは、森田節斎の紹介によるものであり、松陰は五條から田井庄村の森竹亭(三山の門人)宅を経て南八木に至り、三山と筆談している。
*その内容の詳細は不明ながら、海外事情によくい通じていた三山の言説が、松陰のその後の行動=海外渡航の企てに影響を与えた可能性は高い。

 山の辺文化会議「地域史講座」
 2013・2・16  谷山 正道 先生


大官大寺について

 九重の塔、それは大官大寺の塔である。大官大寺は天武元年(672)に発願され、天武末年にほぼ完成されていたらしい。その巨大な塔は、人びとに異様な迫力を与えたにちがいない。そこに巨大な塔がある、そこに巨大な権力が成立したと、人びとは思ったであろう。
 しかし、この飛鳥の里にできた塔は、不幸な運命をもった。その巨大な塔は、次々に、徐々に、時の権力者から見すてられてゆく。持統八年(694)、藤原京遷都によって、寺は宮殿から遠ざかる。そして、和銅三年(710)の奈良遷都によって、この塔はますます都から遠ざかる。
 元明女帝は、飛鳥の里を遠く離れた奈良へ都を移転する。巨大な塔は、飛鳥の地に虚しく捨ておかれたのである。そして霊亀二年(716)、この大官大寺は、奈良へ移転することになる。奈良へ移転した大官大寺も、飛鳥の大官大寺にまけないいくらいの巨大な塔をもっていたらしい。しかも、この塔は東西二つあった。東西二つの巨大な塔をもつ寺、その寺が都の東南にあり、飛鳥から都へ来る人に、ここに都ありと語っていたはずである。けれど、この大官大寺の奈良移転は、必ずしも大官大寺にとって幸福な出来事ではなかった。天平十五年(743)、東大寺建立が発願されるとともに、大官大寺は、国家大寺の地位を東大寺にうばわれてしまう。こののち、名を大安寺とあらためたのであろう。大官大寺がはっきり、大官大寺でなくなったからである。そして、大安寺というつつましい名をもつ寺となった。つつましい名をもつ寺となったことは、すでにこの寺の衰退をあらわしている。そして都の平安京への移転とともに、この寺はますます衰退する。その後何度か寺は焼けたが、もうこの巨大な塔を再建する力は寺になかった。朝廷の庇護が失われていたからである。そして、それより早く、奈良遷都によって、飛鳥に残された古い大官大寺は崩壊したらしい。
 この巨大な二つの塔をもった大官大寺は、あとかたもとどめないように、今日、地上から消えてしまった。九重という名のみ残して、むなしく、この寺は歴史のかなたに消えていった。いったいこの寺の意味はなんであったろう。

 この寺の建造が発願されたのは、天武元年である。飛鳥浄御原に宮を定めた天武帝は、都の真中に国家の寺を建てることを発願した。仏教の国家統制がねらいである。そして、その寺は天武帝の末年にはほぼでき上がっていたらしいが、工事はなお文武帝の頃まで続けられたようである。

 聖徳太子が強く意識されている。仏教が日本に広まったのは、太子と馬子の力が大きい。つまり仏教興隆の皇室側の第一の功績は太子である。しかるに太子一族は絶滅した。その太子一族の犠牲によって、現在の舒明帝の血統を引く政権は確立された。そして、この現政権が、仏教を自己の勢力の下におさめるには、仏教興隆を太子によって委託されたとしなかったならば、衆人を納得さすことはできないであろう。

 天武帝の時代は、新しい国家づくりが行われたときである。新しい都の建設とともに、新しい神、新しい仏の創造が行われたときである。新しい神、龍田、廣瀬神社の建造であり、やがて伊勢神宮の建設になる。天武帝は、伊勢神宮を新しい国家の大社とするとともに、大官大寺を新しく国家の大寺とするのである。そして神と仏を天皇の下に統制することにより、天皇の権力を絶対化しようとする。かくして日本の至るところに八百万の神が、一つの神の下に統制されるのである。しかし、神だけでは不十分である。仏もやはり、一つの仏の下に統制しなければならない。総ての神々が伊勢神宮に、すべての仏たちが大官大寺に従わねばならない。そのすべての仏たちを統制する寺は、やはり聖徳太子と推古帝の意志をうけ、都の真中に九重の塔をもった巨大な寺として出現しなければならなかったのである。

 梅原猛 塔 より


長岳寺阿弥陀如来像他

 奈良県天理市にある長岳寺本堂には、天井の一部に色鮮やかな文様が描かれている。お寺の話では、どうやら家紋らしい。本堂は十八世紀末(江戸期)に、地元の人たちの寄進によって再建された。誇らしげにそれぞれの家紋を残したのだろうか。
 本尊の阿弥陀三尊像の来歴はより古い。中央の阿弥陀如来像の中には墨書が残されており、平安後期(1151)につくられたらしいこと、玉眼を使った最も古い時期の作例であることともうかがいしれる。
 目に水晶を薄く削って仏像の内側からはめ込み、瞳や血走りも描いて写実的に表現したのが玉眼である。鎌倉期の仏師・運慶が始めた、というのが何世紀もの定説であった。それが、明治期にこの像から墨書がみつかったり、運慶説は覆った。
 玉眼は左右の脇侍にも使われている。両脇侍は片方を踏み下ろしてすわる姿で、奈良期の像にはしばしば見られるが、平安後期には珍しい作例という。一方、阿弥陀像の衣のひだは深く彫り込まれ、目も大きめに開けられるなど、鎌倉期の彫像の特色も芽吹いている。
 長岳寺は何度か被災し、明治初期の廃仏毀釈でも打撃を被った。それでも、この像が残ったのは、地元でも親しまれ、敬われたからかもしれない。

 平成18年9月26日付け 朝日新聞(夕刊)より
姿勢菩薩
 阿弥陀如来像 観世音菩薩 増長天
 密教と浄土教が新たに興った平安時代は仏像の種類、数がぐんと増えた。これに伴って寄木造りなどの新技法が開発された。目に水晶をはめ込む「玉眼」もその一つ。平安末期に造られた長岳寺の阿弥陀三尊像は玉眼を用いた最も早い作例として知られる。
 三尊像は本堂にに安置されている。中尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音、勢至両菩薩は片足を台座から垂らして座る。目に注目すると、三尊とも黒い瞳に光沢がある。白目が雲のように白い。彫刻で目を表わす彫眼と比べ、眼球に潤いや輝きがあり、人の目に近く写実的である。
 玉眼は目の部分をすっぽり刳り抜き、像の内側から薄い凸レンズ状の水晶を当てる。水晶の凹面に墨で瞳を描き、後ろに真綿か和紙を当てて白目とする。全体を当て木で押さえ竹釘などで固定する。
 水晶を内部からはめることが玉眼技法の最大の特色である。
 寄木造りは内部の木の芯を刳り取るので頭部は空洞になり、目の部分だけ刳り抜ける。玉眼は寄木造りの普及が技術的な前提となって生まれたと考えられ、ともに日本独自の木彫技法とされる。
 長岳寺の阿弥陀三尊は玉眼を用いた仏像の中で最古となる「仁平元年(1151)」の造像年が中尊と勢至菩薩の像内に墨書されている。平安末期院政期である。当時の京都の貴族達は何事にも華麗で派手な美しさを求めた。仏像も穏やかで華美な定朝様式(じょうちょう)が好まれ、次第に型にはまって類型化していった。
 三尊像は玉眼だけでなく、作風も同時期の京都の仏像にはない清新さがある。作者は不明だが、奈良仏師と考えられる。
 玉眼は写実彫刻が発達する鎌倉時代に真価を発揮した。鎌倉彫刻を代表する運慶の初期の傑作で玉眼が用いられている奈良・円成寺の大日如来は長岳寺の三尊像の25年後に造られる。三尊像は鎌倉写実彫刻の先駆となった。 
  平成26年1月25日 朝日新聞より


伽藍配置比較



日本史年表・地図 より
飛鳥寺 四天王寺 薬師寺 法隆寺 東大寺 七重塔 七重塔



十一面観音

 きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぽったい瞼(まぶた)、ふくよかな唇、鋭くない鼻、―――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼(まなこ)である。豊かに結ばれた唇には、刀刃(とうじん)の堅きを段々に壊(やぶり)、風濤洪水(ふうとうこうずい)の暴力を和やかに鎮(しず)むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆(こくしつ)の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。
 この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりでない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣の皺(ひだ)にも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
 かすかな大気の流れが観音の前面にやや下方から突き当たって、ゆるやかに後ろの方へと流れて行く、―――その心持ちは体にまといついた衣の皺の流れ工合で明らかに現されている。それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。
 肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。
 横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。そのことをこの像ははっきりと示している。

 和辻哲郎 古寺巡礼より


定慧

 定慧は、日本へ帰ってちょうど3ヶ月、23歳でころされている。理由は、あまり詩が上手なので百済人にねたまれたといいますが、これはちょっとおかしい。私は、もちろんこれは推測ですが、その背後になんらかの形で中大兄皇子の意志が働いていたのではないか。中大兄皇子という人は猜疑心の強い人です。だから鎌足のむすことして育てられた定慧が、自分の死後、ほんとうは孝徳天皇の子だという形で鎌足にかつがれた時に、それはやはり自分の子孫たちの有力な敵対者になりうる可能性を、中大兄皇子、のちの天智天皇はやっぱり疑ったのではないか。その辺に私は革命的人間の孤独感というものがあると思います。中大兄皇子は神経質な人で、20歳で政権を奪取したけれど、自分もいつかは、だれかの手でころされるんではないかと不安感を持っていたに違いない。入鹿、蝦夷、石川麻呂、兄の古人皇子、孝徳天皇の子の有馬皇子と次々と消していったけれど、それでもまだ不安があった。いつまでも皇太子の位置にとどまり、なかなか天皇にならなかったのも、そういう不安からだと思います。その背後に、腹心の部下鎌足がいたわけですが、この鎌足さえも、実は信用できないところがあったのではないかと思います。
 鎌足としても、多くの惨さつ事件にもちろん背後にいて中大兄皇子を助けた中心人物だったわけですが、さすがの彼も、その運命が、自分の子供にまでめぐってくるとは思わなかったでしょうね。はたして定慧が鎌足の子か、孝徳天皇の子かわからない。鎌足自身はどう思っていたかわからないけれど、やっぱり自分の子として育てた以上は、かわいくないはずはない。

 中大兄皇子と藤原鎌足は、二人三脚で時代を乗り切ってきた。その鎌足がが死の病の床にある時、中大兄皇子が、当時はもう天智天皇ですが、見舞いにいって、はじめて大織冠(たいしょくかん=のちの正一位)とか、大臣とか、「藤原」の姓とかを授ける。
 実はそれまでは、他の人には全部、冠位を授けているわけですが、鎌足ひとりは、冠位の枠外というわけです。枠外なのに実際は皇太子のふところの中にいて、政治の実権を握っている。それが死ぬ前にはじめて、公の位を授けられたということになる。
 公にその位を授けたら、天智天皇としては不安な点があるのではないかと思われる。

  梅原猛 日本史探訪3 より


 おそらく父鎌足にとって、定慧の死はなんともねざめの悪い事件であったろう。この不幸な死をとげたわが子のことが、いつまでも彼の心を離れなかったにちがいない。定慧の霊はなぐさめられねばならない。
 おそらく、多武峰に定慧を葬ろうとしたのは、鎌足の意志であろう。「多武峰縁起」では、死の前の鎌足が唐にいる定慧の夢にあらわれて、多武峰に寺をたてることを命じることになっているが、実際に寺をたてたのは不比等であったはずである。彼は、この不幸な兄をとぶらったのである。・・・
 彼は伝承を偽造した。親が子を葬るのはよくない。子が親を葬った形にしなくてはならぬ。そしてできたのが、「多武峰縁起」および「略記」にかかれた伝承であろう。伝承はウソであるが、それはやはり作らねばならぬ伝承なのである。鎌足は定慧によって葬られ、ここに彼ら二人を記念する塔が建てられたことにしないと、とても定慧は救われない。そう不比等は思ったのではないか。「多武峰縁起」では、定慧の死の年は、和銅七年であるという。齢七十、定慧を三倍以上も長生きさせているのである。この伝承は興味深い。おそらくその頃、十三重の塔は藤原一族の守り寺のシンボルとしてつくられたのであろう。

 梅原猛  塔 より 



善光寺縁起

 推古天皇十年に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光卿が難波の堀から一光三尊のご本尊様をお迎えしたのが元善光寺の紀元で、その後皇極天皇元年にそのご本尊様は現在の長野市へ遷座され、出来たお寺が善光卿の名をとって「善光寺」と名づけられました。それから飯田の方の当山は勅命によって木彫で同じご尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりました。
 その時、仏勅によって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰りきて衆生を化益せん」というご誓願を残されたとのことで、長野の善光寺と両方にお詣りしなければ片詣りと昔から云われている訳です。
 むかし、天竺の毘舎離国に月蓋長者(がっかいちょうじゃ)という、大変ケチで不信心な大金持ちがおりました。高齢で授かった娘を、如是(にょぜ)と名付けてたいそう可愛がって育てておりました。
 ある時、国中に伝染病がはやり、如是姫の病に伏せてしまいました。ことごとく名医に見放された月蓋は、最後のお釈迦様を訪ね、娘の命乞いをしました。お釈迦様は、西方極楽浄土の阿弥陀如来を信じなさいと説かれました。
 教えに従い、西に向って「南無阿弥陀仏」を十回唱えると、たちまち観音、勢至の両菩薩を従えた阿弥陀如来が現れ、大光明を眉間から放たれました。すると、その光に照らされた如是姫はもとより、国中の病人が全快してしまいました。
 大喜びの月蓋は、三尊仏を造りたいと考えました。お釈迦様は、弟子の目連尊者(もくれんそんじゃ)に、竜宮城から閻浮檀金(えんぶだごん)という金の固まりを持って来させ、鉢に入れ、再び阿弥陀様のおいでを仰ぎました。
 金塊に釈迦と阿弥陀の両如来様から放たれた光が当たると、阿弥陀三尊そっくりの像ができあがりました。月蓋は大きなお寺を建てて如来様を安置し絶えず礼拝を続けました。
 インドの人々を救った後、阿弥陀様は自ら百済に飛び、今度は朝鮮半島の人々の救済を始めました。時に月蓋長者の生まれ変わりといわれる聖明王の時代です。それから九代後の推明王のとき、如来様は、半島での仕事が終わったので日本へ行きたいと言われました。
 推明王は如来様のご意志を尊重して、日本の欽明天皇に仏教を伝えるとともに、阿弥陀三尊仏もお送りになりました。
 天皇は崇仏派の蘇我氏に三尊仏を与え、様子を見る事にしました。しばらくして、日本国中に悪病が流行りました。排仏派の物部氏は、異国の神なんかを祀ったので、日本の神が祟ったのだと、蘇我氏の建てた寺を焼き払ったうえ、三尊仏を難波の堀江に投げ込んでしまいました。
 時が経ち、国司の供をして都に上がった、信濃の国の住人本田善光が、堀江にさしかかると、水の中から突然三尊仏が善光の肩に飛び乗って、信州に連れていくよう促しました。
 こうして善光は故郷、麻績里(おみのさと、現飯田市)に帰り、自宅の西の間に臼を用意して、ご本尊を安置しました。しばらくして、如来様は、「都からもっと離れたい」とおっしゃって、水内(みのち、現長野市)に移るようお告げになりました。
 今度は草堂を建て、家から如来様をお移し申し上げましたが、善光らが自宅に戻ってみると、如来様が戻ってしまわれています。何度やっても同じなので、如来様をそのまま自宅に安置しておきました。そうちに、人々が善光の家を「善光さんのお寺(善光寺)」と呼ぶようになりました。
 ほどなくして、善光の長男善佐(よしすけ)が突然死んでしまいました。悲嘆にくれる善光夫婦を不憫に思って、阿弥陀如来は地獄の閻魔に連絡をとり、善光をこの世に蘇らせてもらうことにしました。
 この世への途中、善光は鬼に引き立てられて地獄へ向う高貴な女性とすれ違いました。なんとそれは、皇極天皇だったのです。生き返った善佐からこのことを聞いた善光は、再び如来様に、女帝の助命を乞いました。
 この世に蘇生した天皇は、善光、善佐親子の手柄をほめ、善光の家の場所に、りっぱな如来堂を建てる勅命を発せられました。善光寺のはじまりです。
 
 善光寺事務局監修  善光寺参り より


高取城について

 高取城は、植村氏が入部する前に、すでに城普請は完成していたにちがいないが、それでもなお補修し、増築せざるをえなかった。
 植村氏は旗本身分から急に大名になったために、もともとの家来がすくなく、新規に召しかかえねばならなかった。
「城普請にあかるい者はいないか」
 と、八方、手をつくしてさがしたらしい。その結果、本多外記、諸木大膳、清水勘太郎の三人がみつかり、それぞれ高禄でめしかかえた。
 この三人が、石組みの補修や、新規の普請などを担当した。かれらはそれぞれ堅牢に石垣を組みあげたが、できあがってからも、それが崩れはしまいかとたえず心配していた。
「自分たちは、死後も御城を守りたい」
 とそれぞれ遺言し、諸木大膳は岡口門のそとに墓所をきめた。清水勘太郎は壺阪口門外に、木多外記は吉野口門外にといったぐあいに城の三方にそれぞれ葬られたというのだが、城普請というのはそれほど大変なものだったらしい。

 高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。
 その石垣も、数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。それが、自然林と化した森の中に苔むしつつ遺っているさま、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。



 本丸のあとが、頂上になる。
 その四角い平坦地に樹齢五十年以上の樹々が空をおおっているのは、明治のときに城が破却されたあとに実生ではえてきたものなのであろう。
 そのふちに立つと、足もとは暗い谷で、樹間に山が遠近にかさなっていた。北のほうは大きな谷をこえて栢森(かやのもり)であり、東はこの高取山とほぼ同じたかさの芋ケ峠である。芋ケ峠のむこうに、吉野の竜門岳が遠霞みにかすんでいる。
 見わたすかぎりの山々は、杉葉の濃い緑が鬱然としていて、いかにも自然が贅沢にあるという感じである。

 司馬遼太郎  街道をゆく(7)  より




多武峯について

 その名さえ奇妙だが、この山の名はすでに、「日本書紀」の斉明紀二年(656)の記述にあらわれている。このあたり、奈良県の”有史”の古さに感じ入らされる。文字のないむかし、土地の者が、この山を「たむ」という音(おん)でよんでいたのであろう。「日本書紀」には、その昔に、田身嶺(たむのみね)という漢字をあてた。「万葉集」ではちがう。巻九には多武(たむ)と当てている。のち、談武(たむ)などとも当てられた。
 右の斉明紀二年の記述には、妖しさがただよう。この田身嶺(多武峯)に、冠(かんむり)のように垣(かき)をめぐらした、というのである。山城は山の中腹に鉢巻を巻いたように石垣をむぐらすものであったが、この垣とはそういう軍事施設だったのか、あるいは宗教的な意味をもつ垣だったか、よくわからない。さらに、当時、この山上に槻(つき)の木が二本(ふたもと)はえていた。おそらく神木だったのだろう。斉明女帝はその槻のほとりに「観(かん)」を建てた、という。観とは、中国では、上代もいまでも道教寺院を指す。道教の観を建てたのか、とおどろかされるのだが、しかしこの簡単すぎる記述からは判定しがたい。
 要するに、「たむ」という山は、斉明紀以前から、土地では神異を感じさせる山だったのだろう。それがやがて藤原氏の祖の鎌足(かまたり 614~69)が葬られ、その廟所になった。
 なまみの人間を神社の祭神にする例は、当時の神道思想には乏しかった。まして、鎌足を仏にして建物を寺に仕立てあげるという思想もなかった。である以上、神道・仏教以外の「観」ができていた。
 ただ、上代日本は、中国の土俗信仰である道教を、思想の破片としては自然に入れはしたが、体系的には受容しなかった。このため、多武峯はには「観」の建物のような高殿(たかどの)はあったにせよ、道教僧である道士は存在しなかったと想像する。
 ――多武峯は、観か、神社か、寺か。
 というあいまいさは、千数百年つづく。
 鎌足を祀る多武峯の創始は、七世紀後半である。唐に留学していた鎌足の子の僧定慧(じょうえ)が、木造の十三重の塔を造営した。いま存在している塔は1532年の再建(さいこん)だが、朱塗・檜皮葺の色調といい、十三重のつりあいのうつくしさといい、破調がほしくなるほどの典雅さである。
 本殿についても、同様のことがいえる。藤原氏は華麗を好み、その氏神をまつる奈良の春日大社の社殿(春日造り)も、桃色に息づく少女のようなはなやぎをもっている。この多武峯は、春日造りである上に、桃山形式が加わっていっそう華麗になった。

 司馬遼太郎 街道をゆく(24)より


 大和には「金の司は多武峰」というふしぎな諺がある。多武峰とは、談山の別名で、いまの談山神社は、むかしの妙楽寺のことである。
 どうしてここが金の司なのかというと、江戸時代、妙楽寺は所領三千石の寺であったが、寺じゅうの坊はいずれも金持ちで、付近の町家や山林業者に高利の金貸し、南大和第一の大資本家であった。いっぱんに、民衆の支持や信仰のあった寺々では経営が楽であったが、多武峰のように、大織冠藤原鎌足を祭るといったいかめしい寺では、藤原氏の信仰をのぞいては、庶民の信仰に期待がもてなかった。そこで考え出したのが、一種の金融業であった。

 松本清張 樋口清之  奈良の旅  より




土佐の町

 徳川初期に譜代大名の植村氏がここに入って、わずか二万五千石の身代ながら徳川氏の命で高取城という、分不相応な山城をつくった。
 その城下町の名が、土佐の町なのである。壺坂とか高取とかいう地名のほうが世に知られているのだが、土佐という地名が上代からあったため植村氏も変えなかったのだろう。
 この付近には、薩摩という村の名もある。兵庫もあるし、ほかにも、旧国名をもつ村の名があるが、その理由がわからず、いろいろ当推量がる。土佐や薩摩の連中が貢物をもってきて、そのまま住みついたのだろうかとか、逆に、大和の地名を国名にしたのだろうかとかいうが、ともかくも、上代のことは霧のむこうのようで、わからないのは高松塚の被葬者の正体だけではない。
 司馬遼太郎 街道をゆく(7)  より




平城京へ

 藤原京はわずか十六年間の短命の都だった。
 文武天皇はわずか二五歳で亡くなった。慶雲四年(707)六月であった。
母親の阿閉(あへ)皇子が即位した。元明天皇(707~715)である。
 
 大藤原京の京城は、平城京のそれにほぼ等しい。それなのになぜ平城遷都が行われたのだろうか。藤原京が手狭になったから、とは言えない。実は藤原京内では、藤原宮の場所が最も標高の低い所であった。汚水が集まりやすい。慶雲三年三月に出された詔には、「京城内外に穢臭(えしゅう)多し」の言葉がみえる。また藤原京は低い所にあったから、例えば香久山山麓の高燥地に立つ建物からだと、宮内が見下ろされることになった。
 さらに、水運に恵まれたいなかったことが決定的だったと思う。京内を流れる飛鳥川は、夏・冬の渇水期には極端に水量が乏しい。そのため六世紀以来、平城遷都に至るまで、初瀬川に臨む海石榴市(つばいち)の河港が利用されていた。飛鳥諸宮の段階では、海石榴市の河港でも十分に機能した。しかし大藤原京となり、京内に住む人口が増え、集散する物資の量も増大すると、対応できなくなったと思われる。わが国最初の条坊制に基づく藤原京が短命に終わったのは、以上のような理由からである。
 平城遷都後は、以前にもまして飛鳥は寂れた。飛鳥に残っていた寺院も、平城京に新たな寺院を建立して、寺籍を移す事例が多くなった。飛鳥寺・大官大寺・本薬師寺・小懇田寺・紀寺(小山廃寺)・葛城寺などである。飛鳥寺は平城京の元興寺に、大官大寺は平城京の大安寺に、本薬師寺は平城京薬師寺に移った。小懇田寺・紀寺・葛城寺は、平城京内に同名の寺院が建てられた。飛鳥には、飛鳥寺は本元興寺として、また本薬師寺はそのまま残るが、衰勢は否めない。飛鳥とその周辺地域にあった大寺院で寺籍を移さなかったのは、川原寺(飛鳥四大寺について⇒⇒⇒)や山田寺くらいであった。
 八世紀初頭になると逆に、飛鳥の岡寺山の中腹に龍蓋寺(りゅうがい=岡寺)が山岳寺院として創建された。

 和田萃 飛鳥 より



薬師寺について、
白鳳説・天平説について、
東塔相輪について、

 「薬師寺縁起」においていつも強調されるのは、夫婦の結びつきである。夫は妻の病気全快を祈って寺を建てる。おかげで妻の病気はいえたが、今度は夫が病気になって死ぬ。その夫のために寺を建てる。
しかし、愛の物語も、一つの国家的仕事となるとき別の意味を持つ。なぜ、大官大寺や飛鳥寺の外に、薬師寺なる寺を建て、それを四大寺の一つに加える必要があるのか。
 われわれは、この時代の歴史をその終点において見ることが出来る。奈良遷都の後に、薬師寺も、大官大寺も、奈良の地へ移ったが、遷都は大官大寺にとってもっとも苛酷であったようである。それは、ちょうど薬師寺と対称的に左京の六条の地に置かれたが、薬師寺が今も続いているのに、この大官大寺はひどく衰えた。この運命は必ずしも偶然ではないと私は思う。やがて大官大寺の地位を奪ってしまうような薬師寺が、なぜ持統帝の時代に建てられたのか。なぜ、ことさらに天武帝と持統帝の愛の物語が強調される必要があるのか。
 天武帝の死は朱鳥元年(686)九月であったが、それから一月もたたないうちに、持統は継子、大津皇子を死に追いやった。
それは、自分と天武帝との間の一人息子、草壁皇子を皇位につけようとして、競争相手を除くためであった。
その後三年もたたないうちに草壁皇子は、安閇(あべ)皇子、後の元明帝との間に一人の息子と二人の娘を残して死んだ。息子は後の文武帝、娘の一人が後の元正女帝である。己れの血を引く子孫に皇統を伝えようとする持統帝の第一計画は挫折したわけであるが、この沈着にして冷静なる女帝は、このような挫折くらいで、己れの意志をあきらめるような女性ではなかった。自ら帝位につき、己れの孫文武帝の成長を待とうとしたのである。そしてついに皇位をねらうもう一人の競争者であった高市皇子の死と共に、彼女は無事、孫、文武帝を皇太子につけ、すぐに帝位をゆずったのである。
 私は薬師寺建設はこのような持統帝の意志と密接に関係していると思う。つまり、ここで天武帝と持統帝の二人の愛を強調し、その愛の思い出の寺を造り、それを国家の大寺とすることは、己れの権威を強めるのにはなはだ好都合なのである。大官大寺は推古ー舒明ー斉明ー天智ー天武と伝わる寺である。天智、天武の皇子はここではすべて平等である。この父の権利の下では、天智帝と天武帝のどの皇子が皇位についても差支えない。そのことは川原寺についても飛鳥寺についてもあてはまる。川原寺は天智、天武のいずれの皇子にとっても遠い母の寺であり、飛鳥寺は前代の政治的支配者、蘇我氏の寺である。どの寺にも持統帝及び彼女の子孫の特権はない。
 ここでの持統帝のねらいは、平等の原理ではなく、差別の原理である。多くの天智、天武帝の皇子の中から、自分の血をうけているもののみが皇位につくことの出来る特権を確保することが、正に持統帝の最大の望みであった。

 梅原猛 隠された十字架 より
白鳳説・天平説について
 薬師寺には本尊の銅造薬師如来制作時期をめぐり、藤原京の本薬師寺 からの移座とみる白鳳説(7世紀末)と、平城京への遷都後の新造とみる天平説(8世紀初め)の大論争がある。水煙の時期をめぐっても両説で見方が分かれるが、飛天の表現が古様であることは天平説の学者も認めていると云われている。
ただ本薬師寺の水煙の木型を使ったとすれば天平説と矛盾せず、論争の決着にはつながらない。
東塔相輪について
 「凍れる音楽」と言われる東塔(高さ34.1m)の、屋根から突き出た部分の相輪(高さ10.3m)が塔の解体修理地上に降ろされている。
 相輪は塔の中心を貫く心柱に取り付けられている。箱型の露盤、半球形の伏鉢(ふせばち)、輪を九つ上下に連ねた九輪(くりん)などの上に水煙がある。水煙は火焔(かえん)形の意匠が多く、火の字を字を嫌ってつけられた名前である。
 東塔の水煙は同じ図像の4面が直交して固定され、東西と南北方向の各2面で外縁が半楕円状(高さ1.8m)で左右対称の図形を作る。木型を原型に銅で鋳造し、鏨(たがね)で細部を仕上げたものとみられる。
 各面とも、リボン状にちぎれた飛雲の中に天衣(てんね)を風になびかせた飛天が3体刻まれている。上段の飛天は両脚をそろえて手に花を捧げ、真っ逆さまに下降する。中段の飛天は片手に花かごを持ち、ひざを曲げて泳ぐように下降する。下段の飛天は雲に片ひざをついて笛を吹く。天女を思わせる上の2体は上半身裸形で腰から下の衣を体に密着させたしなやかな肢体、鼻筋が高く通った横顔が優美である。下の飛天は童顏の少年で「笛吹童子」とも呼ばれる。1300年近い年月で表面は緑青に覆われているが見た目の保存状態はよい。

わたくしたちは金堂と東院堂との間の草原に立って、双眼鏡でこの塔

の相輪を見上げた。塔の高さと実によく釣り合ったこの相輪の頂上には、

美しい水煙が、塔全体の調和をここに集めたかのように、かろやかに、し

かも千鈞の重味をもって掛かっていその水煙に透かし彫られている

天人がまた言語に絶して美しい。

  (和辻哲郎「古寺巡礼」岩波文庫)


すゐえんの あまつをとめが

ころもでの ひまにもすめる

あきのそらかな

  會津八一




薬師寺 西塔・東塔について

西塔縁起続き
「創建当初は塔の内部に釈尊の生涯を物語塑像が安置されていた。すなわち東塔には因相として前半生を示す四相(入胎・生誕・受楽・苦行)が、西塔には課相として後半生を象徴する四相(成道・初転法輪・涅槃・分舎利)が荘厳されていた。
 その西塔は、1528年、金堂・講堂・中門等とともに兵火にかかって焼失し、以来数百年にわたり礎石のみが空しく往古の壮美を偲ばせる有様であった。
 近年に至り百万巻写経勧進に呼応して全国よりよせられた佛心がここに凝集され昭和五十六年遂に白鳳時代さながらの塔が復元したものである。
 西塔の建築は塔高三十六米、総桧造り東塔の綿密な調査と古記録の研究に基づいた設計による完全復元であって、東塔に並ぶ美しい諧調に加えて鮮やかな丹青が施されている。塔の心礎には平山画伯の将来された佛舎利が奉安されている。」


東塔縁起続き
 「三間三重塔、各層裳階付、本瓦葺造営が天平初年としても構造形式から見ても法隆寺の塔に次ぐ古格をもつとされる。
 三重の塔であるが、五重の塔と同じ高さを持つ高塔で、それぞれ層に裳階があるので屋根は六重となり、その広狭・高低の変化の妙は薬師寺のみに見られるもので、白鳳時代の典型といえよう。
 各層の裳階の壁面を見るに、初層の柱間は五間、二・三層は三間いずれも白壁で窓がない。しかし当初は連子窓が造られていた痕があり、新しい西塔の姿がそれである。
 初層内には心柱を囲んで中心柱が直立し、かってはその内陣に釈迦八相のうち釈尊の前半生を象徴する因相(入胎・生誕・受楽・苦行の四相)の塑像で荘厳された須弥檀があった。現在ではそれらの塑像はなく、四天王に護られた四方四佛が安置されている。」



東院堂より東塔(右)と西塔(左) 
 東塔は高さ34m。最上部にそびえる銅製の相輪が約10mで、3分の1を占める。相輪は、球形の飾りである宝珠と竜舎の下に飛天像を刻んだ水煙があり、さらに輪状の飾りを9層重ねた九輪が連なる。
相輪は約3トン。塔全体を上から抑えるおもりの役目も果たしている。
東塔解体修理
 明治期以来、約110年ぶりの解体修理が進む。創建当初の基壇が姿を現した。
 塔中心を貫く芯柱を9月に移動し、貴壇上の石材を外して確認した。基壇は東西12.7m、南北12.4m、高さ1,1m以上。
2.5~6cmの厚さで何層にも丁寧に土を突き固めた版築工法(はんちく)がみられ、縦に割れ目が生じていた。東塔は西側が沈下して東西の礎石に最大20cmの高低差が生じており、割れ目との関連を調べる。
2014-12-2   朝日新聞
 2009年からの解体修理が進行中。
 奈文研は年輪年代測定の実施した。
 取り外された初層(1階)の天井板2点 伐採年は729年と730年(外側の樹皮がのこっていた為年輪を調べられる)
 中央の心柱719年、720年代に伐採された可能性が高い。
 平城遷都の710年前に本薬師寺で建てられたものを移築した可能性はなくなる。
 本薬師寺に立っていた塔と同じスタイルを踏襲された。本薬師寺と薬師寺の建物の配置が同じであった。
 白鳳彫刻の傑作とされる薬師寺金堂の本尊、薬師三尊についても藤原京から移されたものか、平城京で新たにつくられたものか
については、白鳳期の古い表現があり結論づけられない。
  大小六つの屋根が出たり入ったりするリズム感が音楽的で、「凍れる音楽」と例えられる。実際に音楽を奏でている像が東塔の水煙に彫られている。
 天衣を翻して空を舞ったり、横笛を吹いたりしている飛天12体の透かし彫りがある。


薬師如来坐像




薬師寺東院堂聖観音菩薩立像






山田道(地図

 奈良盆地南部に設けられた、大和王権の宮殿があった磐余(いわれ)と飛鳥を結んだ古代の幹線道路。
 上ツ道と横大路の交差点から、阿部丘陵に沿って南西に斜行する。
南北道の上ツ道から南に続いて西におれ、東西道として西に向って下ツ道に交わる。道路沿いに安部寺や山田寺雷丘がある。
 山田道の道路面と西側側溝に推定される石敷と石組溝が検出された。石組溝は、幅60cm、深さ20cmを測り、溝壁に人頭
大の河原石を積む構造である。
最古級ため池跡 山田道側溝も

 明日香村飛鳥,東山で、飛鳥時代の幹線道「山田

道」の側溝とみられる溝と、6世紀前半に造られた

とみられる人工のため池の跡が見つかった。奈良文化

財研究所(奈文研)が29日、発表した。ため池の跡

は山田道の側溝跡のそばにあたり、専門家によると、

発掘されたため池の中では最古級になるという。

 山田道は宮殿が営まれた飛鳥と現在の桜井市を結ぶ

古道. 7世紀中ごろに整備されたと考えられ、万葉集

などにも登場する。

 ため池は少なくとも東西15m 、南北10mで、範囲は

さらに広がるとみられる。深さは2 . 1 m。池底の地

層の特徴から、6世紀前半に谷だった地形を利用して

造られたとみられる。

 7世紀初めには岸をかさ上げしたり、池の水を排出

する溝を造ったりした形跡があった。過去の調査で、

5世紀ごろには付近に渡来系集団などの集落があった

ことがわかっている。

 山田道の側溝とみられる溝は東西方向に5.7m

で、幅1 . 8m 、深さ70cm。山田道の整備が始まる

と、ため池の排出溝が埋められ、山田道が完成した後

になってため池全体も埋められたとみられる。

埋めた後の地層から、珠流河(するが・現

在の静岡県東部)や伊委之(魚のイワシ)と読める荷

札木簡が見つかった。

 古代の治水や灌漑に詳しい奈良大学の小山田宏一教

授(考古学)は「国内でも最古級のため池になる。土

技術を持った渡来系集団によって造られた可能性が

ある」と話す。

 調査した奈文研都城発掘調査部の諫早直人研究員は

「古墳時代から飛鳥時代にかけて、この一帯の土地利

用の変遷や人々の営みがわかる遺構」と話した。

 現場はコンビニエンスストアの建設予定地。すでに

埋め戻されており、現地説明会はない。 (田中祐也)
2017-11-30 朝日新聞

 
磐余の道⇒⇒⇒
 チマタ⇒⇒⇒ 






蘇我倉山田石川麻呂

蘇我氏の傍系倉麻呂の子で、蘇我馬子の孫。乙巳の変のとき、中大兄皇子側に味方し、変後その功により右大臣に任じられる。しかしのちに冤罪を着せられ、山田寺にて自害。持統天皇は孫にあたる。





磐余の宮/磐余の名

(石根・いわね・地盤が固い)

歴代  天皇名  即位年  宮名/名  よみかた 
西暦  元号 
 1 神武天皇 前660  神武天皇元年  神日本磐余彦尊
神日本磐余彦火火出見尊 
かむやまといわれひこのみこと
かむやまといわれひこほほいでみのみおこと
  神宮皇后      磐余に都をつくる。若桜宮。 わかさくらのみや 
17 履中天皇 400 履中天皇元年 磐余稚桜宮磐余若桜宮 いわれわかざくらのみや
22 清寧天皇 480 清寧天皇元年 磐余甕栗 いわれみかくりのみや
26 継体天皇 507 継体天皇元年 磐余玉穂宮 いわれたまほのみや
30 敏達天皇 572 敏達天皇元年 磐余訳語田宮 いわれおさだのみや
31  用明天皇 582 敏達天皇14年 磐余の地 池辺雙槻宮 いけべなみつきのみや
用明天皇 587  用明天皇2年 磐余池双槻宮 いわれのいけのへのなみつき
磐余の範囲
 東は東光寺、西は御厨子神社・妙法寺の東あたりの磐余池推定地(池之内説) 

 最も多くの宮が営まれた「イワレ」と呼ばれる地域は、現在の桜井市西南部あたりに相当する。
しかしこの地のどの場所に宮跡が存在するのか、これについては「イワレ論争」とも言うべき論争がある。

石寸山口神社と若桜神社・稚桜神社の関係について、
 現在「イワレ」という地名はほとんどつかわれていないが、わずかに式内社の名称などに残っている。
桜井市にある石寸(いわれ)山口神社はその一つで、その近くには式内社である若桜神社が存在し、
神功・履中の「磐余若桜宮・稚桜宮」の推定値となっている。
しかしここで問題があり、桜井市にはもう一つ、式内社とされる「ワカザクラ神社」が存在する。
それは桜井市池之内の稚桜神社である。
 延喜式に記された若桜神社は一つであり、両者のどちらかが式内社となる。
この若桜神社と稚桜神社の位置関係をみると、石寸山口神社と若桜神社は近いところにある。一方の稚桜
神社は石寸山口神社とは遠いところにある。従って稚桜神社を式内社とするには少し無理がある。

 イワレの宮跡を推定する手がかりとなるのは、履中紀などに見られる「磐余池」の存在がある。
用明の磐余の地 池辺雙槻宮は池のほとりに営まれたと考えられ、池の所在地の確定が大きな鍵を
握っている。磐余池の存在は明確ではないが、地名や地形環境などから考えると、桜井市池之内に
存在した可能性が高いといわれている。こうなると稚桜神社は池之内に存在するので、推定値とも考えられる。
発掘調査などで明らかにされるのが待たれる。
宮の名⇒⇒⇒
石寸山口神社⇒⇒⇒



菩提僊那(ぼだいせんな)

バラモンそうじょう —じやう【婆羅門僧正】人
(704〜760)奈良時代の僧。名は菩提僊那ぼだいせんな
(Bodhisena)南インド出身。五台山の文殊菩薩の霊験を
慕って中国に渡り,736年,遣唐使の要請で来日。751年
僧正となり,翌年,東大寺の大仏開眼供養の導師と
なった。
大辞林 第三版


うらうらに 照れる春日に

 空にはヒバリがさえずり、春の光がうららかにあふれています。だのにひとりで物思いに沈んでいるとかなしい、作者はそういいます。
 なぜでしょう。
 じつはこの時、彼は中国の一遍の詩を思い出していました。
「とつぜん反乱がおこった。そこで村から男たちが戦争にかり出され、女は別れを悲しむ。だが幸いなことに平和がおとずれ、無事男たちは帰って来た。いまうららかな春日を迎えてヒバリもさえずる」という詩です。
 つまり作者をとりまく春の風景は詩と同じです。ところが政情は大ちがい。反乱も起こりがちで平和ではない、といって嘆いたのです。
 風景とひとしい、ほんとうの平和を作者は願っています。
 風景が美しいだけに、人間どうしの争いがよけいに悲しみをまします。争いとは、春の楽しみまでうばうものでした。
2010-5-1 朝日新聞 夕刊  奈良県立万葉文化館長 中西進 より





古い大刀

出土又は伝わった所 東大寺山古墳(とうだいじやま)より出土 石上神宮(いそのかみ)に伝わる 稲荷台1号墳  江田船山古墳  稲荷山古墳より出土 元岡古墳群G6号古墳 箕谷2号墳
上記地名 奈良県天理市東大寺山古墳(地図 奈良県天理市石上神宮蔵(地図 千葉県市原市稲荷台  熊本県玉名郡和水町  埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳(地図 福岡市西区(地図) 兵庫県
大刀の名称・種類 中平銘鉄刀(ちゅうへい)・
金象嵌(きんぞうがん)の大刀 24文字
七支刀(しちしとう)国宝 稲荷台1号墳出土鉄剣
金象嵌銘文 12文字
江田船山古墳出土大刀 
銀象嵌銘文75文字
金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)国宝
金象嵌銘文 115文字
銘文入り刀剣 銘文入り刀剣
出土時期 1961~62     2011-8-末
大刀にある銘文 中平□年五月丙午、造作文刀百練清剛、上応星宿、下辟不祥 表 泰「和」(始)(初)四年「五」月十六日丙午正陽造百錬鋼(銕)(釦)七支刀□辟百兵冝供供侯王□□□□(永年大吉祥)作
裏 先世以来未有此刀百済(慈)「王」世□(子)奇生聖音(晋)故為倭王旨造「傳」□(示)(不)□(後)世
表 王賜□□敬□

裏 此廷□□□□
 治天下獲□□□鹵辞典曹人名无(利)弓、八月中用大鐡釜併四尺廷刀、八十練(九)十振三寸上好(刊)刀、服此刀者長壽子孫洋々得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太(和)、書者張安也 表 辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弓巳加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弓比
裏 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為枝刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉根原也
長さ75cmの刀身の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練?)」 戊辰年銘大刀
銘文の意味及び状態 大刀の背に金象嵌した銘がある。錆びて読めない部分もあるが、「中平□年五月丙午の日にこの刀を造作した。百回も練りあげて
造った清く強い鋼鉄の刀であるその際に天上の星座のあり方にしたがい、地上の縁起の悪いことは避け遠ざける威力がある」
石上神宮の祭祀は物部氏によって司られた。物部氏の拠点は河内、そこに百済よりもたらされた七支刀が物部氏と共に石上神宮に伝わった。
七支刀は両刃で一本の刀身には左右各三本交互の枝となって小刀がでている。
表裏合わせて六十余字の銘文が良質の金象嵌銘(きんぞうがんめい)によって表わされている。
表には「泰和四年五月十六日、鍛えぬいた鉄でこの七支刀を造った。敵の兵力ことごとく打ち破る霊力で候。王に捧げる。
裏には「昔からいまだこのような刀はない。百済王および世子の奇生がわざわざ倭王のために造ったものである。願わくば後世に伝えてほしい」
百済と新羅の戦いの時に、日本より援軍を送り、百済から勝ったお礼に372年に倭王に送られたのであろう。
    全長73.5cmに金象嵌を施した文字が表面に57字、裏面に58字存在している。
「オホヒコの8代の孫にあたるヲワケ臣(おみ)の家系では、世々杖刀人(じょうとうじん)の首として奉仕してきたワカタケル大王(雄略)の斯鬼宮(しきのみや)にも、ヲワケ臣は杖刀人の首として出仕している。それで祖先以来の功業を記念して」、この百錬の利刀をつくり、その由来を記しておく」
19文字が、たがねで彫った文字に金や銀を埋め込む象眼という技法記されている。
―庚寅の年の正月6日庚寅の日に、この刀を作った。12回練り鍛えた―と読める。
年の干支と日付の干支を照らして570年と判断された。年と月日を組み合わせて表記した古墳出土刀剣で、暦が使われたことを示す国内最古の例。6世紀半ばに暦が伝来したとする「日本書紀」554年、暦が朝鮮半島にあった百済から暦博士が来日した、との記述を裏付ける。伝来から十数年後には国内で暦が使用されていたと考えられる。
刀が製作されたのは、570年正月6日だが、古墳が造られたのは7世紀中頃である。古墳に納められるまで70~80年たったことになる。
大歳で始まる表記は、中国古来の決まり文句となっている。
年号を示す文言が刻まれている。
年代 中平□年(184~190)
後漢時代の年号
泰和4年(369) 5世紀 5世紀 辛亥年・しんがい(471) 西暦570年 西暦608年
古墳の築造 4世紀末    
   
  金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)国宝
 
  頭椎大刀(かぶつちのたち)
 
 銀象嵌銘鉄刀(ぎんぞうがんめいてっとう)
 




惣神所(そうのじんじょ)

 11人の練行衆は1日未明、和上から戒めを授かり、開白の法要に臨んだ。二月堂が新たな年を迎えるにあたり、今後1年ともされる浄火が火打石で切り出され、堂内を照らした。
 堂下の参籠宿所に戻って仮眠をとると、すぐ朝の気配。娑婆(世間)の人たちのお見舞いを受け、昼までしばらくくつろぐ。
 昼の行が終わって夕刻。夜の法要を前に、堂舎を囲む遠敷神社(おにゅう)、飯坂神社(いいみち)、興成神社の鎮守三社に参った。「惣神所」呼ばれる儀式だ。無事、満行を神に祈る姿には、神仏習合の影が色濃い。
 休む間もなく、松明が二月堂の舞台に上がった。日付が変わるころまで続く。長い祈りの始まりだ。
     2000-3-2 朝日新聞 朝刊 編集委員・小滝ちひろ   より

薬師寺 修二会(花会式)

 薬師寺金堂の修二会、別名花会式。本尊の薬師三尊(国宝)の回りを、梅、桃、桜、山吹、椿など10種類、約1000本の造花であでやかに飾ることに由来します。
 3月30日に始まる法会はなんとも春らしく、華やかな雰囲気に包まれます。春はまだ浅い3月上旬のお水取り(東大寺)の厳しさとは、だいぶ印象が違います。
 未明から夜まで、1週間にわたって1日6回の法要を繰り返します。薬師如来に罪汚れを懺悔し、天下泰平、五穀豊穣を祈ります。唱える声明(しょうみょう)が実に豪快。「ナムヤー、ナムヤー、ナアアムヤーーッ!」読経を先導する時導師(じどうし)の声がだんだん大きくなり、続く練行衆の声も堂内いっぱいに響く。正確には「南無薬師如来」と言っている。お薬師様に帰依しますという呼びかけですが、おとなしくては祈りが届かない。精いっぱい「ヤー様あっ!」と絶叫するわけです。
 2011ー3-9 朝日新聞より

花会式の締めたいまつ回し
 薬師寺の修二会(花会式)は5日、すべての行が終わった。
 午後7時前、10人の練行衆(れんぎょうしゅう・こもりの僧)は金堂を出て、北側の大講堂前に整列。神道作法などをつかさどる咒師(しゅし)のおはらいに続き、全員がたいまつをぐるぐる回し、高々と放り上げた。神供(じんぐ)と呼ぶ作法で、本来は金堂の基壇で営むが、修理中の東塔を囲う素屋根がすぐ隣にできたため、場所を変更した。
 2012-4-6 朝日新聞より


練行衆

 練行衆の11人は2月20日から寺にこもり、俗世との関わりを絶つ。差縣(さしかけ)という履物を作ったり、節のついた声明(しょうみょう)と呼ばれるお経を稽古したり、26日からは大広間で寝食をともにし、外出は禁止。私語もゆるされない。
 3月1日から本行が始まると、毎日6回、本尊の十一面観音菩薩に一年の罪をひたすら懺悔し、新たな一年の平和や幸福を祈る(六時の行法)。行が終わるのは早くて午前1時、遅い時は午前4時頃までかかる。13日未明には二月堂下の井戸「若狭井」から「香水(こうずい)」をくみ、本尊に供える。

2011-2-27 朝日新聞 田中祐也氏 より




松明について

 心棒の竹は、京都府田辺市観音寺から出発される「竹送り」といわれる行事によって、長さ7.5m直径11cmの真竹を、担いだ時のバランス維持に、根ごと掘り起こされたものが運ばれる。

 穂先の檜は、三重県名張市から、「松明調進(ちょうしん)」といい、松明用檜板を運ぶ。檜板は板を束ね重さ25kgあり、名張市からの行程は32.5kmとなる。(三重県名張市赤目町一ノ井地区760年前から続く)

 竹材をくくる蔓は、滋賀県甲賀市信楽町の一心講により、燃え尽きるまで松明を支えることができる、水分の多い河川敷から調達される。





絵馬(えま)について

え ま ゑ— 1【絵馬】
①祈願または報謝のため社寺に奉納する絵入りの額や 板絵。生きた馬を奉納する代用として馬の絵が描かれ たものが多い。
上部が屋根形になっており,額絵馬・ 小絵馬などの種類がある。
②能の一。脇能わきのう物。伊勢神宮で節分の夜, 白・黒の絵馬を斎宮の扉に掛けて農作を占うことに, 天の岩屋戸の神話を結びつけたもの。
喜多流では「え んま」と呼ぶ。
  大辞林 第三版
(むらむら)
日本書紀 巻24 皇極天皇
「村村
(むらむら)
祝部(はふりべ)所教(をしへ)(まま)に、或いは牛馬(うしうま)をころして(もろもろ)の社の神を(いの)る。或いは(しきり)に市を移す。或いは河伯(かはのかみ)を祈る。既に所効無(しるしな)し。」
  祝部:村々にいて人々の信仰を指導していた者。
  牛馬:中国の習俗。我が国でも行われ、延暦10年(791)禁制がしかれた。
  頻に市を移す:雨乞いのための中国式行事。市場を異処に移して、市の問を閉じ、人を入れないで祭を行うこと。
  河伯:河の神、水神。
  既に:全くの意。






軽のチマタ(地図

 丈六の交差点付近は、古代では軽のチマタと称され、定期的に市(軽市)が立ち、人々で賑わう豪華な場所であった。軽のちには柿本人麻呂の妻も住んでいた。その妻が突然亡くなったことを使者から知らされた人麻呂は、雑踏する軽の市にたって、妻の面影を追ってさ迷い、泣血哀慟(きゅうけつあいどう)して挽歌を歌っている。長歌⇒⇒⇒   
     衾道を⇒⇒⇒
     チマタ⇒⇒⇒
丈六交差点 南方向、169号(中街道・下ツ道)丸山古墳
至る。孝元天皇陵の石碑。
東方向、阿部山田道






軽寺跡(春日神社)・応神天皇軽島豊明宮跡・法輪寺

地図

春日神社 本殿 おかげ灯籠 歌碑
軽寺跡
 寺の創立年代は明確にされていないが、寺跡から飛鳥時代後期、或いは白鳳時代前期と思われる
古瓦が発見されている。
日本書紀には天武天皇朱鳥元年(686)に軽寺という記事があって、寺の存在がわかる。
 創立者は、賀留大臣玄理(かるのおおとくろまろ)で、推古天皇の時、唐から持ち帰った
薬師如来像を本尊として
軽寺を建てたといわれている。
 寺観(じかん)などは全く不明であるが、平安時代中期、関白藤原道長が吉野詣りをしたとき、
この寺を宿としている。
当時付近には久米寺、大窪寺などの大寺があるのにもかかわらず、この寺を宿としたほどであるから、
相当な規模をもって栄えていたものと思われる。
 天飛(あまと)ぶや 
  (かる)の社の齊槻(いはひつき)
   幾代まであらむ隠妻(こもりづま)そも
作者不詳(巻11-2656)
「軽の社の槻(ケヤキの古名)のように、いつまで人目をはばかって隠しておかねばならない妻なのであろうか」
奈良女子大名誉教授 小清水卓二 筆
春日神社祭典 2月8日 6月23日 10月8日 12月8日
法輪寺 応神天皇軽島豊明宮跡
 下ツ道の南端に奈良県下で最大の古墳、丸山古墳の前方部を間近にみることができる。169号線は、橿原市小房町まで古代の下ツ道を踏襲している。左側の旧道を少し進むと、左手に軽寺の後身である法輪寺があり、その北側に接して春日神社があって軽寺跡と考えられる。拝殿脇には「太神宮」「おかげ」「文政13年(1830)庚寅年」と刻んだ「おかげ灯籠」がある。












芋洗い地蔵尊

今昔物語では、久米仙人は神通力を失って吉野川の辺りに落ちたとなっているが、地元では芋洗川に落下したと語り伝えられ、いつ頃からか地蔵尊が祀られるようになり、芋洗地蔵尊と称されるようになった。現在は数本の樫の巨木と地蔵尊を安置する祠がある。久米寺は平安初期に弘法大師も一時滞在した。奈良時代初めに創設された寺で久米氏の氏寺だと思われる。




仏生会(ぶっしょうえ)

 お釈迦様の誕生日を祝う花まつり(仏生会・ぶっしょうえ)が4月8日、各地の寺院で営まれる。灌仏会(かんぶつえ)とも呼ばれ、日本書紀によると推古14年(606)から始まった。仏事のなかでも盂蘭盆(うらぼん)とともに最も古い。
 釈迦誕生の様子は多くの経典に同じようなパターンで述べられている。現ネパールのルンビニーの園で母の右腋から生まれ、立って7歩歩むと、右手をあげて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」(私は世界で最も優れたもの)と宣言したという。この伝説に基づき、童子の釈迦が右手をあげた姿の誕生仏が古くから造られてきた。
 東大寺の仏生会は真っ赤なツバキや白いアセビで飾った花御堂(はなみどう)を大仏殿にしつらえ、誕生仏摸像に参拝者らが甘茶をかけて祝う。
 本物は東大寺ミュージアムに安置されている誕生釈迦仏立像。高さ47cmの小像だが、誕生仏は10cm前後が多い。東大寺では巨大な大仏にふさわしく誕生仏も大型に造られている。
 2012-4-7 朝日新聞















大伴家持

 天平宝字2年(758)、因幡国守として赴任した。其の翌年正月元旦に、雪が降り積もる国庁で万葉集最後の歌を詠んでいる。
 
 新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
  巻20-4516
万葉集⇒⇒⇒



槻の木の広場(つきのきの)

 日本書紀によると、飛鳥寺西側に大きな槻の木(ケヤキ)が茂った広場があり、大化の改新のきっかけとなった乙巳の変(いっし・645)を成し遂げた中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会ったとされる。
 飛鳥寺西方で、「槻の木の広場」の一部とみられる、飛鳥時代の石敷き遺構が見つかった。(2013-1-30明日香村教委発表)
 東西約15m、南北約24mにわたって、約3~25cm大の石や砂利が敷き詰められていた。石敷きの一部が直径1.9mの範囲で楕円形状に欠落しており、
内側に直径約1.5m、深さ約40cmの穴が掘られていた。 
 西門跡と飛鳥川に挟まれた東西約120m、南北約200mの範囲が飛鳥寺西方遺跡にあたる。
 古代の人々は槻(けやき)を神の宿る聖なる木と認識し、大化の改新のきっかけとなった乙巳の変(645年)の直後、孝徳天皇が槻の木の下に群巨を集めて誓約させるほど、特別な意味を持っていた。
 日本書紀の644~695年の記述には、大化改新の立役者、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会った場所や、壬申の乱(672年)で近江朝廷側の軍営地になった逸話など、槻木の広場が10回あまり登場する。
 遺跡の北側には水時計遺跡、更に北側には石神遺跡、がある。中国大陸や朝鮮半島も激動していた斉明の時代、水落、石神両遺跡を含めた飛鳥寺の西側一帯が、天皇中心の中央集権国家を作り上げる過程で大規模に再開発され、政治儀式を行う宮殿の付属施設としての性格が強まっていったとみられる。
 2013-3-13 朝日新聞 夕刊
 飛鳥寺の西門跡から西へ約100m離れた田んぼの下を調査。東西約17m、南北約4.8mほぼ同じ規模の2棟の建物跡が見つかった。同遺跡で初めて確認された飛鳥時代の建物跡とされる。
 近くの石神遺跡や水落遺跡の同じ時代の建物と比べると規模や柱の構造が小規模で、やや粗雑な印象がある。常設の施設ではなく一時的に造られた仮設建物ともいわれている。
 槻の木の広場は、日本書紀の644~95年に10回余り登場。特に斎明天皇以降は、蝦夷や隼人といった辺境のの人々に対する饗宴の記録があるが、明確に建物があったとする記述はない。
 
 一方、672年の壬申の乱の際には、近江朝廷側が槻の木の下に運営をおいたと記す。
 建物は戦闘で失った可能性もあり、その後、天武天皇時代石敷きの広場として再整備された可能性がある。












ikazutinooka
雷の丘

日本書紀 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
 七年の秋七月の甲戌の朔丙子に、天皇、少子部連蜾蠃(ちいさこべのむらじすがる)に詔して日はく、「朕、三諸岳の神の形を見むと欲ふ。汝(いまし)、膂力人(ちからひと)に過ぎたり。自ら行きて捉て来」とのたまふ。蜾蠃、答へて日さく、「試に往りて捉へむ」とまうす。乃(すなは)ち三諸岳に登り、大蛇(おろち)を捉取(とら)へて、天皇に示せ奉る。天皇、齋戒(ものいみ)したまはず。其の雷虺虺(かみひかりひろめ)きて、目精赫赫(まなこかかや)く。天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入(かく)れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍(よ)りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。
 
蛇(ながい)⇒刀(ひかる)⇒雷、一緒になる。
日本霊異記
 少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)は、泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に、二十三年天の下治めたまひし雄略天皇の随身にして、肺脯(しふ)の侍者なりき。天皇、磐余の宮に住みたまひし時に、天皇、后と大安殿に寐(ね)て婚合(くながひ)したまへる時に、栖軽知らずして参ゐ入りき。天皇恥じて輟(や)みぬ。
 時に当たりて、空に雷鳴りき。即ち天皇、栖軽に勅して詔(のたま)はく、「汝、鳴雷を請け奉らむや」とのたまふ。答へて白(まう)さく、「請けまつらむ」とまうす。天皇詔言(のたま)はく、「爾(しか)らば汝請け奉れ」とのたまふ。栖軽勅を奉りて宮より罷(まか)り出(い)ず。緋(あけ)の縵(かづら)を額(ぬか)に著は、赤き幡桙(はたほこ)を擎(ささ)げて、馬に乗り,阿倍の山田の前(さき)の道豊浦寺の前の路とより走り往きぬ。軽の諸越しの衢(ちまた)に至り、叫囁(さけ)びて請けて言(まう)さく、「天の鳴雷神(なるかみ)、天皇請け呼び奉る云々」とまうす。然して此(ここ)より馬を還(かへ)して走りて言さく、「電神(なるかみ)と雖(いへど)も、何の故にか天皇の請けを聞かざらむ。」とまうす。走り環る時に、豊浦寺と飯岡との間に、鳴電落ちて在り。栖軽見て神司を呼び、轝籠(こしこ)に入れて大宮に持ち向ひ、天皇に奏(まう)して言(まう)さく、「電神を請け奉れり」とまうす。時に電(いかづち)、光を放ち明(て)り炫(かがや)けり。天皇見て恐り、偉(たたは)しく幣帛(みてぐら)を進(たてまつ)り、落ちし処に返さしめたまひきと者(い)へり。今に電(いかづち)の岡と呼ぶ。
 然る後時(のち)に、栖軽卒(う)せぬ。天皇勅(みことのり)して七日七夜留めたまひ、彼が中信を詠(しの)び、電の落ちし同じ処に彼(そ)の墓を作りたまひき。永く碑文の柱を立てて言はく。「電を取りし栖軽が墓なり」といへり。此の電、悪(にく)み怨みて鳴り落ち、碑文の柱を踊(く)ゑ践(ふ)み、彼の柱の析(さ)けし間に、電楪(はさま)りて捕へらゆ。天皇、聞(きこ)して電を放ちしに死なず。雷慌(ほ)れて七日七夜留りて在りき。
 天皇の勅使、碑文の柱を樹(た)てて言はく、「生きても死にても電を捕れる栖軽が墓なり」といひき。所謂古時(そのかみ)、名づけて電(いかづち)の岡と為(い)ふ語(こと)の本(もと)、是れなり。

にほんりょういき —りやういき「日本霊異記」
説話集。三巻。景戒編。822年頃成立。因果応報の仏教思想に基づいて,雄略天皇から嵯峨天皇の頃までの説話を漢文で著す。各段末に付する訓釈は,平安時代の国語資料として重要。正称,日本国現報善悪霊異記。霊異記。にほんれいいき。

大辞林 第三版




















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奈良の山口神社

飛鳥山口神社  あすか  地図  延喜式内社山口神社は、全部で14社内13社まで奈良県下にある。なかでも式祝詞(しきのりと)に示す飛鳥・
石寸(いわれ)・忍坂・長谷・畝火・耳無の6山口社が最も大切にまつられてきた。

 
石寸山口神社 いわれ  地図
忍坂山口神社 おっさか  地図
長谷山口神社 はせ  地図
畝傍山口神社 うねび  地図 
耳無山口神社 みみなし 地図   山口神社のことは、式祝詞(しきのりと)の祈年祭(としごのひまつり)の頃に「山口にます皇神たちに申さく。
飛鳥・石寸・忍坂・長谷・畝火・耳無とみ名は申して遠山・近山に生ひ立てる大木・小木を本末打ち切りて持ち参来て」とあるように、
六ヶ所だったのがのち十四社となってほとんど県内にまつられている。 
山之坊山口神社 やまのぼう 地図 
當麻山口神社  たいま 地図 
生駒山口神社 いこま  地図 
鴨山口神社  かも  地図 
夜支布山口神社  やしゅう 地図 
巨勢山口神社 こせ  地図 
大坂山口神社  おおさか  地図 
吉野山口神社  よしの  地図 
   都祁山口神社  杣之内町  つげ  地図
地図
都祁山口神社  都祁小山戸町  つげ

















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観音寺十一面観音

   木津川沿いに緑豊かな田園風景が広がる京都府南部の南山城地方は、奈良の影響を受けた古社寺や遺跡が多い。その一つ、観音寺は今は小さな寺だが、本尊の十一面観音立像は奈良時代特有の技法、木心乾漆造りの天平仏。傑作として有名な聖林寺の十一面観音と技法が同じうえ、姿もよく似た美仏として知られている。
 両像を比べると、頭に頭上面を載せ、左手に水瓶(すいびょう)をとるのは形式上の一致だが、両肩から垂れる天衣(てんね)や着衣、衣のひだの線など細部もそっくりで、流麗な曲線を描く。豊かな胸と引き締まった胴部の写実的で明朗な表現、全身の均整がとれ、気品があるのも天平仏の特長を示している。
 しかし、顔立ちや全体の印象は異なる。聖林寺像は堂々として威厳がある。像高は36cm低い観音像はきまじめで若々しい。両像は奈良時代後半、同じ平城京の官営工房で、観音像が少し遅れて制作されたと考えられる。






写真 文 とも2013-6-15朝日新聞 探訪古き仏たち より










式年遷宮

伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)
 20年ごとに社殿を新しく建て直す行事。
持統天皇の690年に始まったとされる。戦国時代に120年以上途絶えたり、敗戦で4年延期になったが、62回目である。
 常にみずみずしさを尊ぶ神道の常若(とこわか)という考えに基づく。朝廷や神宮の権威を高める狙いもあったという見方もある。
 内宮や外宮の正殿(しょうでん)や14の別宮(べつぐう)の社殿、橋や板垣、鳥居なども造り替えられる。祭事用の装束など1576点も新調して新しい社殿に納める。
 2005年5月に檜の切だしの無事を祈る山口祭でスタートされる。宇治橋の渡始式(わたりはじめしき)など行事は30以上ある。白い敷石を奉納する行事が市民もかかわって営まれる。神体を移す「遷御(せんぎょ)の儀」は内宮で10月2日、外宮で10月5日にある。
 費用の総額は約550億円で、前回1998年の約1.7倍である。
 昔は税や寄進に頼ったが、明治以降は国の運営になった。戦後は国家の手を離れ、宗教法人になった伊勢神宮が自己資金に加え、全国から寄付金を集める。
 神宮所有の山では大正時代から200年計画で遷宮用檜を育てている。今夏の用材の約25%はこの間伐材を使い、残りのほとんどは木曽の天然檜を使う。
 20年ごとに行うのは、技術を継承するために適当な期間だとか、穀物貯蔵年数に対応しているとか、諸説ある。
  
 新正殿(しんしょうでん)に神体を移す内宮の「遷御(せんぎょ)の儀」が行われる。真新しい檜の新正殿は、隣接する現在の正殿とともに「神様のお引越し」の
時を静かに待っている。式年遷宮の始まりは持統天皇が在位した690とされ、1300年以上の歴史がある。内宮に続き、外宮でも遷御の儀はある。
2005年 5月  山口祭  式年遷宮最初の祭事。造営に使う用材の伐採と搬出の安全を祈る。
  6月  御杣始祭り(みそまはじめさい)  木曽の御杣山(檜を切り出す山)で用材の伐採を始める。 
2006年 4月  木造始祭(こづくり)  造営のための木取り作業の安全を祈る。 
  5~7月 お木曳行事  伊勢市民らが御用材を宮城に引き入れる。内宮は五十鈴川を川曳を川曳きし、
外宮は陸曳する。翌年5~7月にも同様の行事があった。 
2008年 4月  鎮地祭(ちんち)  新宮を建てる新御で最初の祭事。造営の安全を祈る。 
2009年  11月  宇治橋渡始式  架け替えられた宇治橋を、渡女を先頭に全国から選ばれた3世代夫婦が渡る。 
2012年  3月  立柱祭  社殿の柱を立てる小工(こだくみ)が打ち固める。 
    上棟祭  正殿の棟木を上げる。一般家屋の棟上げにあたる。 
  5月  檐付祭(のきつけ)  正殿屋根の萱(かや)をふき始める。 
  7月  甍祭(いらか)  正殿屋根の萱ふき納め、屋根最頂部の萱覆いや千木などに飾り金物を打つ。 
2013年    第62回式年遷宮   
  7,8月 お白石持行事  神宮の御敷地に敷き詰める白石を伊勢市民らが奉納する。
  9月  御戸祭(みと)  正殿の扉を造りまつる。 
    洗清(あらいきよめ)  完成した新宮のすべてを洗い清める。 
    杵築祭(こつき)  神宮の柱の根元を白杖で突き御敷地を固める。 
  10月  後鎮祭(ごちん)  神宮の完成をよろこび、平安を祈る。 
    御装束神宝読合
(おんしょうぞくしんぽうどくごう) 
新調された御装束神宝を神宮におさめるにあたり照合する。
    遷御の儀  正宮から新宮に神体を移す。 












小堀遠州

こぼりえんしゅう —ゑんしう【小堀遠州】人
(1579〜1647)江戸前期の武将・茶人・建築家・作庭家。遠州流茶道の開祖。近江の人。本名,政一まさかず。号,宗甫・孤篷庵こほうあん。遠江守に任ぜられ遠州と称する。江戸城・御所などの作事にあたり,茶室・庭園を造る。また,茶器の鑑定もよくし,国焼きの製作指導ならびに改良を行なった。
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mizutori
水取り

 13日未明に、修二会の別名ともなっている「水取り」がある。二月堂下の閼伽井屋(あかいや)にある井戸から聖水の「香水(こうずい)」をくみ、本尊の十一面観音に供える。
 午前2時。神道・密教作法をつかさどる咒師(しゅし)の上司永照さんを先頭に、練行衆らが松明に先導されて二月堂下の閼伽井屋へと石段を下りて行く。雅楽が奏でられている。
 水をくむ場面は秘儀。練行衆が閼伽井屋の前で警護し、参拝者が見ることができない。くみだされた香水は、お堂まで3往復して運ばれる。
 2014-3-14 朝日新聞より引用 












































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