万年山 滋尊院地図

     
 西側の土塀  下乗石  弥堂(重文)
周囲約250メートルの土塀が、東西、、北側にめぐらせてある。  北側表門左にあるが、半分ほど埋められた状態になっている。  本尊木造弥弥勒菩薩坐像(国宝)が安置されている。弥勒菩薩は秘仏で、21年目にしか開扉しない。三間四面の方形造桧皮葺。
     
 拝堂  表門 鐘塔 
 弥勒堂(御廟)の前にある拝堂には、
弥勒菩薩母君と弘法大師の画像が祀られている。 
 紀の川の渡し場から門前町を通り抜けると、一段たかいところに表門がある。
表門より、多宝塔、左手階段は丹生官省符神社(丹生神社)への119段の石段、
手前が石造りの一の鳥居、上に丹塗りの二の鳥居がある。 
  
   
   高野町石
  慈尊院から、高野山根本大塔まで180本の町石が一町(109m)ごとに
建てられているが、第一番目の町石。
現在はハイキングコースとなっている。  
丹生都比売神社     
   
 丹生官省符神社(丹生神社)拝殿
 世界遺産
 丹生官省符神社 御本殿
極彩色で森の緑にはえて美しい。
 816年弘法大師が高野山への表玄関口として創立した寺院。弘法大師の母がまつられ、高野山が女人禁制の時代、
女性が参拝する女人高野として知られた。2004年に紀伊山地の霊場と参詣道の一部として世界遺産に登録された。
木造弥勒菩薩像(国宝)は弘法大師空海母公の廟内に安置されている。
仏身、大きい円光背、八重蓮華座は、ほぼ完全な形で伝えられ、両膝前までを含んで桧の一本づくり、
後頭部、躰部に内刳りを施し背後をあてた色彩像である施無畏・与願印をとる通形の如来形であるが、
雄偉な体軀を表す衣褶の明快な彫り口と頬からあご、大きい耳朶にかけての張りなど平安時代の他の作例の中で異相の表現がされているといわれている。

裳前は後補部分であるが、寛平四年、(891)歳次任子五月十九日造仏事巳了の墨書名がある。
造立年代と考えられている。

御本尊弥勒菩薩坐像は貞観(平安時代)の代表的彫像で、昭和387月に国宝に指定。
安置所の弥勒堂は昔から
21年に一度桧皮屋根葺替の際、ご本尊をお移しのために開扉されていた。
なお、弥勒堂は御母公廟重文指定。
3間(6
.39m)、四面宝形造桧皮葺、内部は鎌倉時代、外部は室町時代の修理とつたえられている。
御廟(弥勒堂)重文
大師の母御前が、承和二年二月五日に八十三才にて入滅によりお墓として御廟を建て、弥勒菩薩を安置した。
弥勒堂は方三間(6.39m)、宝形造、桧皮の低い建物で非常に安定感があって
平安時代末期頃の輪郭をのこしているといわれている。

内部の中央には、一間四方の内陣を構え、この部分は肘木、高欄など鎌倉時代中期頃の形式を残し、
小組入格天井を張り、正面は扉装置になっている。背面は末迎壁となり須弥壇の格狹間ものこされている。

 「神社の草創は古く、弘仁七年(816)空海によって創建されたお社です。
高野登山は神社にて登山の奉告(報告)と道中の安全を祈願しましょう。
空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出立ち各地を行脚区され途中大和国宇智郡に入られた時、
一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。

猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。此の処は実に天下無双の霊地であり、
空海は、此の処を教えて下さった猟師は、
神様が姿を猟師に現し狩場明神となり神託として一山を与え下さったものであると想念の内に感得されたのでした。
狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。
仏教・真言密教の布教の基となった狩場明神との運命的な出会い。
空海はその思いを政所として慈尊院を開いた時、参道中央正面上壇に
丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、
即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の壇と併せて萬年山慈尊院と称されました。空海によって鎮座爾来、
御社号の丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、
県内外を問わず尊崇を官省符荘(荘園)の総社として栄えました。

明治維新後、神仏判然冷(神仏分離令)等により多くの建物は取り除かれ、天文十年(1541 室町時代)
に再建された本殿の内、三棟(重文)が往年の姿をとどめ今日に至っています。」 

   
 真田庵地図  真田庵
 戦国時代最後の武将、真田昌幸・幸村が索を巡らし活動した拠点。
境内には一族の墓や、宝物資料館等がある。鳥居には六文銭旗が掲げてある。
 幸村らは、徳川方についた幸村の兄信幸の嘆願で処刑を免れ、高野山に流される。
秀頼のいる大坂城まで近く徒歩でも2日のところに蟄居させられた。
近いところであったが、高野山は争いに敗れた者が、
世俗とは離れて余生を過ごすことを許される聖域であった。
 幸村は14年間をこの地で過ごし、その間に昌幸は没してしまう。
 豊臣方から加勢の依頼を受けた幸村は九度山を後にする。
大坂城では徳川方を苦しめ、夏の陣ではあと一歩まで迫るが敗死した。
 戦国の地侍屋敷といった感じのする高野山の末寺で、尼寺、正しくは善名称院という。
南海九度山駅より徒歩10分。