祇王寺地図

真言宗大覚寺派

 大覚寺末の尼寺で、往生院の跡に明治35年に本堂を再興して、
平清盛と尼僧の木像を安置した。
 平家物語で知られる祇王らが隠棲したことにより寺名となった。
 祇王は清盛に寵愛された白拍子だったが、自分がとりなして歌と舞を見せた若い白拍子の仏御前(ほとけごぜん)に、清盛の心が移り、追い出されてしまい、母親、妹祇女ともども髪をおろした。
 親子三人念仏していたところに、竹の網戸をほとほととつちたたく者があった。
 祇王親子がかくれ住む、この寺を訪ねてきたのは、祇王にかわって清盛の寵を得た仏御前である。彼女は涙ながらに、祇王の身の上に起こったことは、いつか自分にも起こるはずだと語り、一緒にここで暮させてほしいと頼むのである。ときに、祇王20歳、祇女19歳、仏御前17歳、仏御前はすでに髪をおろしていた。

 境内に祇王・祇女・その母および仏御前(ほとけごぜん)の木像と墓とがある。また、吉野朝の忠臣新田義貞の首塚もある。
 白拍子は平安末期に登場し、鎌倉時代に流行した。水干(すいかん)をまとい、たて烏帽子に短刀差すいでたちで、男舞という。男装の麗人として人気を呼んだ。
 白拍子は各地を旅して流れていくことが多く、時の権力者がその情報網を政治に利用することもあったとされる。
祇王
 現在の滋賀県野洲市に生まれたと伝わる。郷里が水不足に苦しむのを知り、用水を作ってほしいと清盛に願い出た。掘られた用水路は「祇王井」と呼ばれ、今も田畑を潤す。地元に妓王寺があり、祇王をまつる。
(左)祇王・祇女塚、(右)清盛塚
 女性へのひどい仕打ちを物語の幕開きに盛りお込んだのは、清盛のあくらつさを印象づけるためともいわれ、祇王の祇は地の神の意味を持つ。祇王と仏御前は神と仏を象徴し、清盛はそれをないがしろにした。
 大山祇神⇒⇒⇒