土舞台・安倍山城跡地図
伝統芸能
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土舞台
推古天皇の御代摂生をされていた聖徳太子がはじめて国立の演劇研究所と国立の劇場を設けられたところで、 我が国の芸能発祥の地である。 推古天皇20年(612)に帰化人百済の味摩之(みまし)により伝えられた呉の伎楽儛を桜井村で、 児童に伝習したと日本書紀にしるされている。 伎楽(ぎがく)とは呉のうたまいともいわれ、中国の呉から伝わったものとされているが、滑稽な仕草で舞う無言の仮面劇は、 奈良時代にかけて寺院の法会などで盛んに行われたとされている。 味摩之(みまし)
雅楽 伝統芸能⇒
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1300年間、宮中、春日大社、四天王寺等に伝えられてきている。 |
暦応4年(1341)に、南朝方の西阿が篭る戒重城を攻めるため、 北朝方の細川顕氏が陣を構えたという。のち、永禄8年(1565)に、 松永久秀が布陣したという小規模な曲輪跡が残る。 この南側は、小字名土舞台から、聖徳太子が少年を集め、 伎楽を伝習させた舞台跡とみなし、顕彰碑を建て、 桜井公園として整備されている。 |
飛鳥時代には、大陸から伎楽(呉楽・くれがく)という芸能が伝わった。伎楽とは、呉国(中国南部)から伝わった芸能だが、もともとは古代チベットやインド の仮面劇であり、西域から中国南部に伝わって散楽(さんがく)と呼ばれ、さらに伎楽として日本に伝わった。 伎楽は、大陸からもたらされた新しい文化であった仏教とも深い結びつきがあった。天武天皇の時代には川原寺の伎楽が筑紫に派遣され、東大寺の 大仏開眼会の際にも、雅楽や舞楽などとともに奉納された。開眼会に使われた伎楽面は正倉院に現存している。 東大寺や法隆寺に伝来する面もある。 |
日本書紀推古天皇20年には、呉に学んで伎楽の舞を習得した百済人の味摩之(みまし)が来朝したことから、彼を桜井に住まわせ、渡来系氏族 の少年たちを集めて舞を習わせたと記されている。 追加⇒⇒⇒ |
伎楽伝来の地と伝える顕彰碑は現在、明日香村と桜井市の2か所に建っている。 和州旧跡幽考(わしゅうきゅうせきゆうこう・1681)や大和名所図会(やまとめいしょずえ・1791)などは桜井市の土舞台に比定したが、 元興寺縁起(がんごうじえんぎ・747)や上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ・10世紀頃)などには、桜井は明日香村の豊浦寺(とゆら) の前身にあたる道場の名として登場する。続日本紀(しょくにほんぎ・797)光仁天皇即位前紀の歌謡にも豊浦の桜井がうたわれている。) |
万葉集にも伎楽にまつわる歌がある。 池神(いけがみ)の力士舞(りきしまい)かも白鷺(しらさぎ)の鉾啄(ほこく)ひ持ちて飛びわたるらむ 巻第16-3831 は、伎楽曲のひとつである力士の鉾を用いた滑稽な仕草を、白鷺が枝をくわえ飛ぶ様子から連想して表現した歌とみられる。 伎楽は中世に廃れてしまい、教訓抄(きょうくんしょう・1233)に不完全な記録が残るだけで、卑俗な無言劇であったと考えられている。 |
能 | 雅楽 | 謡曲 | 舞楽 | 伎楽 | 文楽 | 猿楽 (申) |
神楽 | 東遊 | 細男 (才男) |
和舞 (倭) |
念仏踊 | 白拍子 | 田楽 | 散楽 | 翁舞 | ||
能 |
能楽⇒ | 〇 | |||||||||||||||
雅楽 |
土舞台 雅楽⇒ | 〇 | |||||||||||||||
謡曲 |
謡曲⇒ | 〇 | |||||||||||||||
舞楽 |
春日おん祭り 春日大社 猿田彦 伊勢神宮外宮神楽殿 伊勢神宮内宮神楽殿 伊勢神宮 ワニ氏の実像に迫る 住吉大社 随心院 円教寺 大覚寺 本願寺山科別院 熱田神宮 城南宮 先斗町歌舞練場 氷室神社 三船祭り 年中行事7月 |
〇 | |||||||||||||||
伎楽 |
土舞台 土舞台追加 秦河勝 薬師寺 唐招提寺 難波池神社 伎芸天 年中行事5月5日 仮面芸能 伎楽面 |
〇 | |||||||||||||||
文楽 |
文楽⇒ | 〇 | |||||||||||||||
猿楽 |
秦河勝 秦楽寺 年表1464年 阿国歌舞伎 祭り 神武天皇 勝手神社 作庭の新たな担い手 薪能発祥の地 春日大社 談山神社 寺川と飛鳥川流域 面塚 仮面芸能 |
〇 | |||||||||||||||
神楽 |
土舞台・伝統芸能 春日大社 斎王 秦楽寺 年中行事奈良 神輿 戒算上人 みそぎ池 王権を確立した崇神天皇 皇大神宮(内宮) 豊受大神宮(外宮) 伊勢神宮 率川神社 スサノオがヒーローに 高倉下 近江神社 大嘗祭 三輪山磐座 橿原神宮 大和神社 大神神社 住吉大社 飛鳥坐神社 香具山 春日摂社 諏訪大社 玉前神社 吉田神社 白兎神社 陽成天皇 當麻山口神社 京都年中行事 猿田彦神社 八重垣神社 須佐神社 佐太神社 高千穂神社 春日若宮おん祭り |
〇 | |||||||||||||||
東遊 |
春日大社 鑑真和上 |
〇 | |||||||||||||||
細男 |
春日大社 | 〇 | |||||||||||||||
和舞 |
春日大社 伊勢神宮外宮 神楽殿 |
〇 | |||||||||||||||
念仏踊り |
謡曲「百万」 須佐神社 「大」送り火 一遍 |
〇 | |||||||||||||||
白拍子 |
安珍・清姫の鐘 傾城の局 秦楽寺 石薗坐多久蟲玉神社 神泉苑 祇王寺 上賀茂神社 |
〇 | |||||||||||||||
田楽 |
宇治上神社 拝観 八坂神社 由緒 須佐神社 春日大社 春日若宮おん祭り 年表1096年 仮面芸能 |
〇 | |||||||||||||||
散楽 |
秦河勝 阿国歌舞伎 宇治上神社拝観の手引き 秦楽寺 |
〇 | |||||||||||||||
翁舞 |
奈良豆比古神社 | 〇 |
謡(うたい)、囃子(はやし)、舞(まい)で構成する歌舞劇。せりふ主体、喜劇中心 能の演目は、儀式色の濃い「翁(おきな)」を神曲として別格の首曲に置き、神を主人 公にした脇能(わきのう)、 武将を主人公にした修羅能(しゅらのう)、 女性を主人公 現在は三番立で上演されることが多い。能の役柄は、シテ(主役)、ワキ(シテの相手役)、 能·狂言 中世に成立した芸能。能と狂言は平安時代の猿楽を共通の祖として鎌倉時代 にそれぞれ発展·成立した芸能で、能は謡と囃子と舞によって非日常的な出来 事を描き幽玄の美を追究する歌舞劇、 狂言はせりふを中心に日常的な出来事を 描き主に笑いを表現する科白劇(かはくげき)の特長を持つ。対照的な性格を持つ |
日本で最も古い伝統楽舞で、奈良時代前後に成立した宮廷音楽。一般には 7世紀頃に伝わった外来音楽の唐楽(とうがく)と高麗楽(こまがく)を指すが、 楽器は吹物(ふきもの・管楽器)、弾物(ひきもの・弦楽器)、打物(うちもの・打楽器) として広まり、唐楽の「越天楽」のように広く親しまれている曲もある。現在 は海外公演が行われるなど演奏の機会も増えてきている。 |
能楽に用いられる詞章、 またその詞章を謡うこと。能の謡(うたい)では、 シテ、 ある。総合芸術である能の一部を構成するだけでなく、謡曲として独立した声楽 |
雅楽の演奏を伴奏として行われる舞踊、ま 彫で500点以上が現存している。 |
飛鳥時代に日本に伝わった無言の仮面音楽
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浄瑠璃に合わせて演じる人形芝居。大夫(たゆう)、三味線、人形の三つの役割で構成 する。大夫は進行の主導権を持つ立場で、せりふや人物の心情、情景説明などが書か 特殊な首が24種類、 髪型や顔の塗り方による違いを含めて現在約300種類が使われ、 人形浄瑠璃は慶長年間(1596~1615)初めに京都で成立したもので、平家琵 琶の語り物の流れの浄瑠璃が、散楽の流れの人形回しを採り入れたといわれて いる。貞享元年(1684)に大坂で竹本義太夫が竹本座を創設、竹本が創始した義 太夫節と、脚本の近松門左衛門とのコンビにより大人気を博し、上演形式も完 成された。この頃の人形は一人遣いだったが、享保19年(1734)に吉田文三郎が 三人遣いの人形を考案した。竹田出雲、近松半二らの名作が続出した18世紀前 半には歌舞伎を圧倒する人気を誇った。その後は歌舞伎に人気を奪われ江戸時 代は低迷を続ける。明治5年(1872)、 淡路島出身の植村文楽軒の4代目が大阪松 島に文楽座の看板を掲げ、明治42年(1909)に興行権が松竹に移る頃から人気 を呼び、文楽が人形浄瑠璃の代名詞となった。昭和30年(1955)の文化財保護法 により文楽は重要無形文化財の総合指定を受け、新たに設立された文楽協会に 運営が移り、41年(1966)に東京の国立劇場、59年(1984)に大阪に国立文楽劇 場が開場し、定期公演の体制も固まって今日に至っている。なお文楽では昭和 28,29年(1953,54)以降、太夫ではなく大夫の表記を用いている。また今日の文 楽界では父子相伝や家元制ではなく、実力本位の師弟関係がとられている。 |
能·狂言の母体となった平安·鎌倉時代の芸能。猿楽は広義には呪師、田楽をも含むほか、 明治時代に能楽の名称が生まれるまでは能·狂言を指す語であった(明治になるまで能と いる。 |
神道の祭礼で奉納される音楽や舞。神楽(かぐら)の語 由来する。も と区別して里神楽(さとかぐら)と呼ぶ。 御神楽は天の岩屋戸(あまのいわやど)の前での天鈿女命(あめのうずめ)の舞が起源とさ |
平安時代から行われた歌舞の一種。東国地方(遠江・信濃以東)の民間の歌舞であったが、 朝廷で採用されて形を整え、神社の祭礼にも行うようになった。舞人四人または六人で、 高麗笛・篳篥・和琴などを用い笏拍子を打つ。 |
古舞の一種。〈さいのう〉〈ほそおとこ〉〈くわしお〉とも読み,才男,青農とも記す。 春日若宮の御祭(おんまつり)では白い衣を着し,白い布で顔を覆った6人(笛2 人,腰前に下げた鼓2人,所作2人)によって演じられる。このほか福岡県吉 富町の古表(こひょう)神社では操(あやつり)人形によって神舞,神相撲が行 われる。せいのおの意味は不明で,満珠乾珠の秘宝を神功皇后に送った海人 安曇(あずみ)の磯良の故事によるともいう。 |
雅楽の一種目。倭舞とも書く。その歌を〈大和歌(倭歌)〉という。律令時代には 雅楽寮で教習された(《令集解》)。東遊(あずまあそび)が東国芸能に始まるの に対し,大和舞は近畿の民謡を起源とすることから,しばしば対置され,たとえ ば861年(貞観3)3月東大寺大仏御頭供養では武官20名による東遊と並び, 文官20名の大和舞が奉納されている。平安中後期に,大嘗祭(だいじようさい) の形式が整えられると,久米舞,吉志舞(きしまい),五節舞(ごせちのまい), 田舞(たまい)などとともに奏されるのが慣例となった。 |
太鼓や鉦を叩きながら念仏·和讃に節をつけ ていることからこう呼ばれた。平安中期に空也(903~972)が始めたとされ、空也踊、踊り念仏 とも呼ばれた。踊の語が動詞としてではなく名詞として使われたのはこれが最初といわれる。 室町時代以降、新盆の家を巡る行事として広まり、中世歌謡の小歌などとも結びつき娯楽性を 強め、のちの多くの芸能の源流となった。 |
平安時代末期から室町時代初期にかけて行われた歌舞の一種およびその歌舞を演 じた舞女。白拍子とはもと拍子の一種の名称であったとされるが,これに歌舞がつき, 寺社の延年の一部として舞われるとともに,この歌舞を専業とする遊女も現れた。 この白拍子と呼ばれた遊女たちは,立烏帽子,水干に太刀を差した男姿で舞を舞った ので男舞とも呼ばれた。今様,朗詠などを歌い,鼓で拍子をとった。祇王,祇女, 仏御前,静御前,千手前,亀菊などが白拍子の名手として名を残している。 |
曲芸、手品、幻術、滑稽物真似(こっけいものまね)を内容とする雑芸(ぞうげい)。発生は 散楽は伝来当初は雅楽寮の楽戸(がくこ)で養成されていたが、平安初期の782年(延暦1) 『尾形亀吉著『散楽源流考』(1954・三和書房)』 |
伎楽は呉楽(くれがく)とも呼ばれ、推古天皇二十年 (六一ニ)に百済人・味摩之 (みまし)が「呉」 (中国・江南地方 )から学んで日本へもたらしたと伝えられる。 匕から八世紀には法会などに際して盛んにおこなわれたようだが、次第に衰微し、 中世紀にはほとんど途絶したため、内容の詳細には不明な点が多い。 『西大寺資財流記帳』によれば、仮面は①治道(ちどう)・②師子•③師子児 (写真は、 または大孤児 )・④呉公・⑤金剛•⑥迦楼羅(かるら)・⑦崑崙(こんろん)・⑧呉女 (ごじょ)•⑨力士・⑩婆羅門(ばらもん)・⑪太孤父(たいこふ)・⑫太孤児 (写真は、 または師子児 )•⑬酔胡王・⑭酔胡従の 十四種で、師子児二面、太孤児二面、 酔胡従八面をふくむ二十三面を一組とした。 春日人万呂と基永師 天平勝宝四年 (七五二 )四月九日の東大寺大仏開眼では、四組 (前ー・二、後一・ニ) の伎楽が演じられた。このとき使われた伎楽面の作者は判明しており、将 (相 )李魚成 が「前ー」、基永師が「前二」と「後一」、延均師が「後二」の組をそれぞれ制作した。 基永師が作った面〔 4 . 5〕と、彼の作と推定される面〔 6~9〕は、面長で目鼻を大ぶり にあらわしたスケールの大きい作風に特色がある。 一方、春日人万呂が作った三面〔 1~3〕には「天平勝宝四年四月九日」の記載がない ため、開眼会用の面だと判断するには材料が不足している。ただし、彼が作った面は 将李魚成・基永師・延均師の面に迫る水準がうかがえる。また、表面に黒色の漆ド地を ほどこす仕上げ法が開眼会用の血と共通することもふまえると、彼の面も開眼会のた めに制作されたと考えることは可能だろう。とはいえ、人万呂の伎楽面作者としての 輪郭はいまだ明らかではないため、今後さらなる検討が必要である。 |
① 治道 (木彫第二匕号正倉院宝物 )相李魚成作 行列の先導役。山形の帽子をかぶり、ひげを蓄える面が治道に あたるとみられる・ ② 師子 (木彫第三〇号 正倉院宝物 )基永師作 ③師子児または太孤児 (木彫第四四号 正倉院宝物 )延均師作 二人一組の師子児が師子の手綱を引いて行列の初めに翌場する。 獅子舞のような所作を演じたと推測される。 ④呉公 (ごこう・木彫第三〇号正倉院宝物)大田倭麻呂作 呉公とは「呉」 (中国・江南地方 )の国の貴公子。眉目を吊り上げて、 両目を見開き、威厳をたたえた相貌に表される。 ⑤金剛 (木彫第四五号 正倉院宝物) 金剛の所作はよくわからないが、崑崙を懲らしめる力士の手助けを したと考えられる。誓(もとどり)を結い、開口した壮年相に表される。 ⓺迦楼羅 (奈良東大寺 )春日人万呂作 インドの空想上の霊鳥・ガル—ダに起源をもつ。中世の記録によれば 「ケラハミ」とも呼ばれ、虫をついばむような滑稽な所作を演じたのだろう。 |
⑦崑崙 (奈艮東大寺 )春日人万呂作 ⑧呉女 (ごじょ・木彫第一七号正倉院宝物 )基永師作 ⑨力士 (奈良束大寺) 崑崙は美しい呉女にいい寄り迫いかけ回すが、最後には力士に懲らしめ られる。呉女は伎楽のなかで唯一の女性の役柄。力士は閉口する点をの ぞけば金剛に似る。 ⑩波羅門 (奈艮東大寺 )基永師作 波羅門はインドの身分の高い僧侶だが、自身のおむつを洗う滑稽な所作 をともなった。顔は緑褐色で、錦の欠けた老相に表される。 ⑪太孤父 (個人蔵 )春日人万呂作 ⑫太孤児(たいこじ)または師子児 (奈良束大寺 )捨目師作 太孤父は身寄りのない哀れな老人という役柄で、ひげを蓄え、憂いを帯びた 老相に表される。二人一組の太孤孤児を従えた。 ⑬酔胡王 (奈良束大寺)基永師作 ⑭酔胡従 (個人蔵 )基永師作 酔胡王は酒に酔った胡人の王のことで、冠をかぶり威厳にみちた風貌をみせる。 行列の最後に登場し、八人の酔胡従を従え、泥酔した演技で »衆を楽しませたと 推測される。 |