「妙」の字 |
五山の送り火 | 「妙・法」送り火 | 送り火「い」 |
松ヶ崎西山(万灯籠山)山頂上から望む。 |
頂上に貯水池がある |
火床、鉄製の火床で、その上に松割木を井桁に約1m積み重ねる。 数は103個で縦横の長さは最長約100mある。 |
点火の起源 寛文2年(1662)に刊行された『案内者』には、次のように書かれています。 『山々の送り火、但し雨ふればのぶるなり。……松ヶ崎には妙法の二字を火にと もす、山に妙法といふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をともしたるもの なり。北山には帆かけ船、浄土寺には大文字、皆かくの如し。大文字は三藐院 殿(さんみゃくいんでん)=近衛信尹(このえのふただ)の筆画にて、きり石をたてたり 近衛信伊は慶長19年(1614)に没していて、著者の中川喜雲は寛永13年(1636)の生まれ なので、あまり年代的に離れていない為、かなり信憑性が高いと考えられ、船形 と共に、寛文2年以前の創始は間違い無いが、正確な年代は不明と言われています。 麓の涌泉寺の寺伝によれば、 鎌倉末期の徳治2年(1307)に日像上人の教化により、天 台宗から法華宗に改宗した際、 日像が西山に「妙」の字を書いて点火したものだ、 と言 われていますが、1回目の鳥居、2回目の左大文字、最終回の大文字にも伝承されてい る弘法大師説同様、後世に付け足された起源説と考えるのが妥当で、前出の『案内者』 から考察して、やはり起源は戦国時代末期(1500~1602)から江戸時代初期(1603~1650) であろうと考えられています。 「法」の字は、涌泉寺の末寺、下賀茂大妙寺の二祖·日良上人(1590~1660)が、東山 に書いたのが始まりで江戸時代初期と言われており、妙·法の2字が同時に作られたも のではないとされています。 これは、当時の読み順(書き順)は右読み (右書き)でなければならないのに、 現代 の左読みのように、『妙』の字が左にあり『法』 の字が右に画されている事と、『妙』 の字のある西山(万燈籠山)が共有地なのに、『法』のある東山(大黒天山)は区画毎に所 有者が決まっている事は、山林所有権の発達史から見ても、『妙』の字の方が古いと言 われています。 地元の松ヶ崎には、古くから新宮神社を中心にした宮座があり、この宮座の座員が主 体となって、この送り火が長年にわたって維持されてきています。 保存会 会長 会員数 81戸 山の位置 京都市左京区松ヶ崎西山(万燈籠山)・東山(大黒天山) 京の北東、宝ヶ池の南側、京都市地下鉄「松ヶ崎駅」で下車、 北山通側出口に出ると すぐ北側に妙の字がある西山で、京都市民の水瓶·京都市水道局の松ヶ崎配水池がある 標高152メートルの山です。 ここから東へ1キロメートル余り行った北側が法の字の東山で、松ヶ崎の大黒さん、 と呼ばれて親しまれている妙円寺のある標高186メートルの山です。 |
「法」の字 |
東山(大黒天山)山頂上から望む、 妙の頂上とほとんど変わらないが、山は異なる。 |
火床、法も妙と同じ鉄製の火床。数は63個、縦横の長さは最長約70mある。 |
松崎山妙圓寺 日蓮宗 本尊 大黒天 当寺は妙法二字の送り火を点ずる。 拝観の手引き⇒⇒⇒ |
妙圓寺への参道 | 寺の横を通り山頂に行く | 火床の松割木 |
妙法(松ヶ崎 ー西山・東山ー)午後8時10分点火
涌泉寺及び妙円寺の各寺の檀家の人々は、当日朝墓 参し送り火の点火により先祖の精霊を送るのである。 なお点火の際「妙」の山で読経が行われる。送り火終了 後、午後9時頃から1時間涌泉寺で「題目踊」「さし踊」 が行われる。なお「妙」「法」とも鉄製の火床を使用して いる。 妙の火床103,縦横の最長約100m, 法の火床63,縦横の最長約70m。 |
点火方法 16日の朝早くより、 割り木を山に運び上げ、火床に積み上げ、点火の準備が行われ ます。点火時刻になると、以前は麓の田圃に火小屋があって、そこで燃やす火を合図に 点火していたが、現在は簡易保険局の協力により、屋上からの合図で点火され、その際 妙の山では涌泉寺住職と松ヶ崎立正会々長による読経が行われます。 尚、送り火終了後、涌泉寺では題目踊·さし踊が催されますが、前日の午後8時から も、松ヶ崎立正会々員と、その家族による題目踊が約30分行われ、続いて地元の人々 が混ざって、さし踊が約1時間にわたって行われます。 |
火床
鉄製受皿火床を山斜面に埋込む(高さ約1m)その上に |
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