銀閣寺向月台と銀沙灘

◆向月台と銀沙灘

·銀閣よりも一層目を引く円錐形の真っ白い盛り砂·向月台である。

向月台は、白川の白砂を用いて盛られ、高さは約180cm,

その向こうには、平たく砂を盛った銀沙灘があり、高さ約65cm。

·月夜の晩には白砂に月影がほのかに映えて美しい。

·中国の「西湖」を模して作ったといわれ、「銀沙灘」とは、「大海」を意味

する。

·銀閣寺は、月の光を浴びるように、デザインされており、月の光を反射し、

反射した光は、銀閣寺の天井にも届き、庭全体を照らすと言われている。


◆石英の入った白川砂

·砂は、「白川砂」を使用し、「石英ガラス」を含んだ「花崗岩」である

·そのため、昼は、太陽の光で輝き、夜は、月の下では、美しく輝く。

·このため、灯りがなくても、部屋を明るくする。

◆向月台と銀沙灘の維持管理

·1月に1回直す。雨が降っても、大丈夫。あまりにも、強い雨だったり、

何日も雨が降り続いたりすると、角がまるくなる。

材料は、白川砂と水のみで作っている。しっかりと固めてあるので、簡単

には、崩れたり、壊れたりしない。修理する時、5~6人が登るが壊れない。

向月台は、約1. 8mの高さがあるので、上に登るには梯子をかける!

人がその上に上って修理するが、壊れない。修理は、6人で、3時間ぐら

いかかる。 








金閣寺拝観の手引きより

 鹿苑寺は左大文字山の南麓にあり、北山と号する

臨済宗相国寺

派の別格地で、境内の舎利殿(金閣)に因んで俗に金閣寺とよばれる。

当地は西園寺公経(きんつね)の北山山荘があったところで、足利義満

が応永四年(一三九七)これを譲りうけ、あらたに殿舎を営

み、林泉築き山荘北山殿を造った。義満が当山荘に移ったの

は応永六年(一三九九)頃で、同十五年(一四〇八)には後

小松天皇の行幸を仰いでいる。また、明国との国交を再開し

て貿易につとめ、毎年明使を引見し、「日本国王」の称号を

うけたのは、この北山殿に於てであった。

義満の死後、遺言によって禅宗寺院にあらためられ、義満

の法号をとって「鹿苑寺」と号し、夢窓国師を開山とした

以後足利歴代将軍は当寺に参詣するのを例とし、とくに八代

将軍義政は毎年十月十五日を恒例の日と定めた。

応仁の乱で建物の大半を焼失したが、相国寺の西笑承兌(しょうたい)が

入寺し、独住の第一世となるに及んで興運の時代を迎えた。

特に第二世となった承兌の弟子鳳林承章は小堀遠州や金森

宗和、千宗旦等と親交があり、後水尾天皇の帰依を得て庭園

の整備や金閣等の修理にあたった。次いで承章の弟子文雅慶

彦(四世)は、延宝年間(一六七三~ 八一 )堂守の修造につとめ、

現在の鹿苑寺はこの頃に完成したものと考えられる。

昭和二十五年(一九五〇)七月二日未明、不慮の災火によ

って北山殿唯一の遺構金閣失ったが同三十年見事に再建さ

れ、同六十二年には五倍の厚さの金箔を張り替え、更に天井

画と義満像を復元した。屈指の拝観寺院として今日に至って

いる。

 お釈迦様のお骨をまつった舎利殿「金閣」が特に有名なため、
金閣寺とよばれていますが、
正しくは「鹿苑寺」と言い、
臨済宗相国寺派の禅寺です。 (1994年、世界文化遺産に登録

されました)

不動堂

 本尊は弘法大師が作られたと伝えられる石不動明王で、

霊験あらたかな秘仏として広く般に信仰されています。

節分と8月16日に開扉法要がいとなまれます。

夕佳亭

 江戸時代の茶道家金森宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で、
夕日
に映える金閣が殊に佳いと言うことから「夕佳亭」と名付
けられた茶席で、正面の床柱が有名な「南天の床柱」

です。その右にある三角の棚が「萩の違棚」、中央の古木が
「鶯宿梅(おうしゅくばい)」です。

1997年、解体修理が行われました。

 茶席の前の石灯籠と富士形の手水鉢は、慈照寺の「銀閣」

を建てた足利8代将軍義政が愛用したものと言われ、茶席横
の「貴人榻(きじんとう)」は身分
の高い人の椅子という意味です。

方丈 延宝六年(一六七八)後水尾法皇の御寄進によっ

て再建、聖観世音菩薩を中心に、梵天帝釈天の三像及び開

山夢窓国師と中興文雅及び足利義満の木像を安置している。

方丈庭園には、後水尾法皇御手植になる侘助椿がある。

方丈襖絵は黒川道祐の遠碧軒記に延宝九年(一六八一)に

狩野外記が描いたと記されている。外記を称する狩野派の画

家は幾人か数えられるが、ここで考えられるのは信政の子、

寿石厚敦信(秀信)であろう。

室中障壁画の一部である四面の画題は、帝尭より天下を譲

るという話を聞いて、耳が汚れたと流れで洗う許由と、その

ような水は牛に飲ませられないと引き返す巣父の二人を描い

たものである。丸味のある筆癖が特徴的であり、比較的、古

風な感じがする絵である。


舎利殿(金閣) は宝形造の三層の楼閣で、初層(法水

院)は寝殿造、中に宝冠釈迦如来像を安置している。二層

(潮音洞)は武家造で観音菩薩像を安置しており, 三層(究

竟頂)は中国風の禅宗仏殿造で室内には仏舎利を安置する。

二層、三層とも漆塗りの上に金箔を押し、屋根は柿葺と

し、その頂上には金銅製の鳳凰が輝いている。

庭園(特央特名)は鏡湖池を中心とし、池中には葦原

島をはじめ、大小八つの島や細川石、赤松石、畠山石等、大

名寄進の石を豊富に配した壮大な池泉回遊式である。また

九山八海石等を配し、池を浄土曼荼羅に画かれた七宝池にみ

たて、極楽浄土の様相をあらわそうとつとめている。













夢想礎石の影響

義政は、月待山の裾に抱かれた好みの庭をまず発想し、その庭の中に、適

当な、小さい建物を点在させ、配置させている。いま残っている、観音堂

や東求堂もその一部である。

その庭の原型となっているのが、西芳寺の庭園である。西芳寺を造営した

夢窓疎石は、自然のすごさをそのまま純粋化し、結晶させたような、透徹

した力感をもって、庭を作った。

義政は、この東山の風光が気に入り、山荘を作って居を移し、ゆっくりと

自ら明け暮れを楽しみながら庭をつくった。

·義政の歌に

「わが庵は 月待山の麓にて かたぶく空の影をしぞ思う」とある。

山に抱かれた自然環境を前提にして造られた庭であり、借景的要素がある

庭である。銀閣·観音殿からは、池を隔てて真正面に前方の峰が、そして

ちょうどその中ごろの程よい辺りから、月が登る、というように設計され

ている。















嫡子問題

◆嫡子問題

·義政は、

14歳で将軍になってから、権力をめぐる葛藤、ちみどろの人間

関係、猛妻·日野富子や世継ぎ争いなど、対立·抗争の焦点となり、一生

もみくちゃにされながらやっといきのびた。

·最初、義政には、実子がおらず、弟の子「義視(よしみ)」を次期将軍と

定めた。そのご、妻の富子に実子「義尚(よしひさ)」がうまれる。

·ここに、後継者争いが勃発した1467年の応仁の乱であり、10年に

も及んだ。

最終的に、義政が、晩年に到り、将軍職を実子の義尚(よしひさ)に譲り

ほっとして、今度は、自分のための、自分だけの世界として作り上げた夢

の山荘である。自分だけの楽園作りに没頭した。

·政治から、妻から逃避し、あくまでも優雅で、静かな観賞用の自然環境を

望んで作り上げた。

これが銀閣寺である。 















作庭の新たな担い手

◆「禅の庭」作庭の新たな担い手

文化·芸術の分野で義政の支えとなったのが、同朋衆と呼ばれた人々

彼らは、足利将軍家に仕える諸芸術·芸能に秀でた人たちで、いわば、

幕府の公式の芸術評価集団ともいえる存在であった。

·彼らが最も活躍したのが、義政の時代であった。

同朋衆は、東山文化の隆盛に大きな役割を果たした。同朋衆は、もとは阿

弥陀如来を信仰する時宗の僧たちで、将軍に仕え、使者を務めるなど身近

なお世話をしたのが始まりといわれる。やがて室町時代に仕えて、職制化

するようになると、必ずしも時代の信徒とは限らなくなる。

しかし、かつて阿弥衆と呼ばれた名残で、同朋衆の技能者たちのなかには、

名前に「阿弥」を付ける、いわゆる阿弥号を持つ人々がたくさんいた。

唐から送られてくる芸術品の鑑定や水墨画の世界で大きな影響を残した

能阿弥、芸阿弥、相阿弥の親子三代はよく知られる。香·茶の道で知られ

る千阿弥、立花の立阿弥、猿楽の音阿弥などもそうである。

義政の庇護のもとで大いにその腕を発揮した同朋衆のひとりが、作庭家

として名高い「善阿弥」であった。

善阿弥は、もとは土木工事や建築の下働き、物資の運搬などの仕事に従事

する山水河原者のひとりであった。こうした河原者のなかから、井戸掘り

や屋根ふきなど様々な職人としてさらには役者や見世物など遊芸の分野

で活躍する人々などが生まれるようになった。

善阿弥は、庭づくりの世界でその才能を認められた。

義政は、善阿弥を「泉石の妙手」と呼び、同朋衆の一人として重用する

ようになった。

当時、作庭家の中心として活躍していたのは、石立僧と呼ばれる禅宗の

僧侶たちであった。もちろん、庭は僧侶一人で作れない。

その指示に従って、石を運び、池泉を掘り、植栽を植えるといった作業に

従事する人々がいた。

·善阿弥は、こうした仕事を経て、庭造りの考え方や技術を習得し、やがて

庭をデザインするところまで到達したのである。 












京都国立博物館表門拝観の手引きs

 京都国立博物館は、明治二十八年十月「恭明宮」の跡地に

宮内省内匠寮の技師を務めた宮廷建築家、片山東熊の設計に

より建てられ、来年(2017)、築後120年を迎える。

片山東熊は、東京駅の設計者である辰野金吾とともにイギ

リスより来日したコンドルに建築学を学び、赤坂離宮、東京

国立博物館や奈良国立博物館など多数の明治建築をてがけた

宮廷建築家である。

 当館は、明治三十年五月「帝国京都博物館」として開館し

その後明治三十三年七月官制の改正により「京都帝室博物

館」と改称され、大正十三年二月昭和天皇の成婚を記念して

京都市に下賜され「恩賜京都博物館」となった。昭和二十七

年四月再び国に移管され「京都国立博物館」となり、「独立

行政法人国立博物館 京都国立博物館」(平成十三年)を経

て「独立行政法人国立文化財機構京都国立博物館」(平成

十九年)として現在に至っている。

この、片山東熊設計のバロック様式建築である「明治古

都館(本館)」と表門は当館のシンボルとなっており、昭和

四十四年に国の重要文化財の指定を受けた。

また、当館は、五年の歳月をかけ行って

いた平常展示館の建て替え工事が終了し

九月十三日名品ギャラリー「平成知新館」

として新たにオープンする。











妙心寺拝観の手引き

 妙心寺は右京区花園にある正法山と号する臨済宗妙心寺派本山

の大本山である。花園天皇は当地の風光を深く愛され、離宮

を造営し萩原殿と称した。天皇は特に禅宗の帰依があつく

文保二年(一三一八)、後醍醐天皇に譲位ののち延元二年こ

の離宮を改めて禅寺とし、関山慧玄(無相大師)を請じて開

ーとした。これが当寺の起源である。

開山の関山慧玄は無相大師といわれるごとく、形式的な読

経や規式にこだわらず、堂宇の荘厳にも心をとどめず、ひた

すら人材養成に努めたため、創建当初は規模も小さかったが

寺門は隆盛した。応永六年(一三九九)大内義弘が足利義満

に反旗をひるがえした時、義弘がときの住持拙堂宗朴と親し

く、また妙心寺の檀越でもあったため、寺は義満によって寺

領を没収され,寺名も竜雲寺と改称した。しかし、永享四

年(一四三二)以降、寺領の一部が返還されはじめ、さらに

日峰宗舜が四世住持となってからは、細川持之、勝元の支援

を得て、伽藍の復興も行われた。応仁の乱によって焼失した

が,文明九年(一四七七)後土御門天皇より妙心寺再興の綸

旨を賜り、寺の住持雪江宗深が復興に力を尽くした。細川勝

元政、元らの援助により次々と塔頭も建立し、雪江の弟子景

川宗隆(龍泉派)・悟溪宗頓(東海派)・特芳禅傑(霊雲派)

東陽英朝(聖沢派)は妙心寺四派を確立して宗風を広めた。
また、戦国武将の帰依をうけ多くの敷地の寄進をうけた。

中でも永正六年(一五〇九)美濃国(岐阜県)

藤利国の室、利貞尼の寄進により寺域を拡大,

が現在の広大な境内地を占めるに至った因である。

江戸時代には将軍や諸侯達が多く帰依し、塔頭子院九十寺

のうち、武将の建立したものは実に三十八寺に及んだ。今日

に伝わる三門や諸堂宇も相次いで建立され、無著道忠、白隠

慧鶴、他多数の傑僧の輩出によって、寺運は隆昌に赴いた。

妙心寺の伽藍は南から北に向かって整然と建ちならび、そ

の中央には南から勅使門、三門、仏殿、法堂、寝堂、玄関、

大方丈、庫裏を置き、東側には浴室、鐘楼、経蔵を配置した

典型的な禅宗伽藍で、その東西及び北方一帯には多くの塔頭

子院がある。これらの建物は主に江戸初期に建立されたもの

が多いが、中には桃山時代に属するものもあって、多くの庭

園とともに建築様式としても見応えのあるものである。

三門(重要文化財、桃山)は山門とも記す。空門,無相、無作門を

三解脱門といい山門はこの略である。求道者が

涅槃に入る三種の方法を象徴した門で、禅宗寺院のシッポ

ルである。五間三戸で二階二重、入母屋造りで左右に階

上るための階段を覆う山廊を付した唐様建築で 慶長四年

(一五九九)の建造である。一階に比べて二階は若干小さいた

め釣り合いもよく、また上の軒の反りが強い。上層正面は全.

て桟唐戸とし、儀式のときは皆開け放される。内部には

須弥壇上に宝冠をつけた観世音菩薩像をはじめ十六羅漢像

安置し、鏡天井や柱等には極彩色の雲龍や天人を描いている。

玉鳳院
 臨済宗妙心寺派大本山の妙心寺は、46

の塔頭寺院をもつ京都最大の禅宗寺院。

花園法皇の離宮を禅寺に改めたのが起こ

りで、玉鳳院は法皇が建てた山内最古の

塔頭寺院である。檜皮葺屋根の寝殿風の

方丈は、狩野永真(安信)や洞雲(益信)の筆と伝わる障壁画「麒麟

図」「竜図」「秋草図」などで飾られている。開山堂「微笑庵」(重文)

は、開山,無相大師(関山慧玄)を祀る山内最古の建物で、室町時代

の見事な唐様建築。また、蓬莱式の枯山水庭園(史跡·名勝)や井戸

「風水泉」、豊臣秀吉の子·鶴松の霊屋がある。


霊雲院
 室町時代末期に創建された妙心寺の塔頭

寺院で、妙心寺四派の一つ「霊雲派」の本

庵。室町時代建立の書院(重文)は、銀閣

寺の東求堂(国宝)「同仁斎」とともに、簡

素な初期書院造の貴重な遺構として知

られ、後奈良天皇が行幸されたことから

「御幸の間」と呼ばれる。また、室町時代に子建西堂和尚(是庵)が作

庭したと伝わる書院前庭(史跡·名勝)は、10坪ほどの極めて小さな

庭内に枯滝と蓬莱山水を兼ねた石組みを配した枯山水庭園である



天球院
 妙心寺の塔頭寺院で、姫路城主·池田輝政

公の妹·天球院殿によって創建された。方

丈(重文)は、玄関とともに江戸時代を代

表する禅宗方丈建築で、方丈内部を飾る

華麗な障壁画(重文,一部高精細複製品)

は、京狩野の絵師·狩野山楽·山雪の代表作として名高い。「竹虎図」、

「梅に遊禽図」、朝顔と鉄線の花を描いた「籬草花図」など、金地に映

える鮮やかで濃密な色彩と垂直の線や曲線を活かした画面構成が

見事な金碧障壁画で、創建当時の絢爛豪華さを今に伝えている。

















万福寺拝観の手引き

 黄檗山萬福寺は寛文元年(一六六一)に中国僧隠元隆琦禅

師によって開創された。禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表

する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺の住

職をしていた。その当時、日本からの度重なる招請に応じ

六十三歳の時に弟子20余名を伴って承応三年(一六五四)に

来朝した。宇治の地で寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を

中国と同じく「黄檗山萬福寺」と名付けた。その後、明治政

府の政策等により、宗派名を黄檗宗と改め現在に至る。日本

でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類さ

れている。

萬福寺の伽藍建築は中国の明朝様式に則って建立されてい

る。美術·建築·印刷·煎茶·普茶料理、隠元豆·西瓜,蓮

根·孟宗竹·木魚の普及なども隠元禅師から日本によっても

たらされたものであり、当時江戸時代の文化全般に影響を与

えたといわれている。中でも中国風精進料理である「普茶

料理」は日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)と

イメージが異なっており、見た目も美しく盛りつけられる料

理の数々は、高タンパク·低カロリーで栄養面にも優れ、席

を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に普茶料理

の意味が込められている。


三門(重要文化財)

三門は空門·無相門。無願門の三つの境地を経て、仏国土

へと至る門、三解脱門を表す。延宝六年(一六七八)の建立

で、三間三戸、二階二重門、入母屋造、本瓦葺の門である。

他の禅宗寺院の三門同様左右に山廊を付しているが、他の三

門が五間三戸であるのに対し、萬福寺三門は三間三戸であ

り、また棟の両端に摩伽羅を上げ、中央に火焔宝珠をのせ

柱の下に太鼓の胴形の礎盤をおくなどは中国風である。上層

中央には「黄檗山」、下層正面には「萬福寺」といずれも隠

元禅師筆の額がある。


松隠堂(重要文化財)

松隠堂は隠元禅師が寛文四年(一六六四)に萬福寺の

住職を木庵に譲ったのちに居住したところで、延宝元年

(一六七三)の禅師示寂後は開山塔院として塔頭の住職が輪

番で守ってきた。

客殿(方丈)は元禄七年(一六九四)現在地に建て替えら

れたもので、桁行二十m、入母屋造、柿葺で、南東隅に突出

した八帖二室の玄関を設け、東面に唐破風の式台を付ける

東側正面は築地塀を巡らせて庭とし、築地塀中央に中門を開

く。内部は禅宗方丈の六室構成を基本に大小七室からなる。

上手の一の間東の襖四面には山水画が、同二の間西と南の襖

四面には花鳥が描かれている。


 庫裏は桁行十一·九m、梁間十m、切凄造、柿葺の建物

で、棟中央に越屋根を付けて煙出しとする。東の客殿とは取

合の間を介して接続する。建立年代は明らかではないが、客

殿と同時期の建立と考えられる。入口は南の正面と北面の中

央にとり、内部は中央土間の左右に六室設ける。







一休寺拝観の手引き

 元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国

師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道

場をここに建てたのが始めである。然るにその後、元弘の戦

火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当たる

一休禅師が康正年中(一四五五~六)、宗祖の遺風を慕って

堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。

禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で大徳寺住職となっ

た時もこの寺から通われたのであり、文明十三年(一四八一

年)十一月二十一日八十八歳の高齢を以って当寺において示

寂され遺骨は当所に葬られたのである。この様に禅師が晩

年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至

ったのである


一休宗純

 室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の禅僧。京都生まれで幼

名は千菊丸。後小松天皇の血を引くともいわれている。六歳

で京都の安国寺に入門し、周建の名前を授かった。幼い頃よ

り漢詩の才能を開花させ、『長門春草』を十三歳のときに、

十五歳では『春衣宿花』を著している。一休の名付け親は

大徳寺の高僧、華叟宗曇。一休の「有ろじより無ろじへ帰

る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」の言葉から、華叟が

道号として授けた。その後、さまざまな人生の紆余曲折を経

て、文明十三年、八十八歳で病没。一休寺で静かに眠ってい

る。


浴室(重要文化財)

 桁行五間、梁間三間、切妻造、妻入、本瓦葺の建物。禅宗

の七堂伽藍の一つであり、本尊は跋陀婆羅である。跋陀婆羅

尊者は入浴時に開悟されたといわれた。内部は蒸し風呂とな

っている、また浴室は東司、禅堂、食堂の三黙堂の一つとし

て静粛さを大切にする厳粛な修行の場である。

戦国時代に寺は荒廃したが慶長十九年(一六一四)大阪冬

の陣において薪村(現京田辺市)に布陣した加賀の前田利常

がその荒廃をみて修復にのりだし慶安三年(一六五○)から

五年をかけて寺観を整えたさいに新築をされたものである。

平成二十五年より屋根瓦の葺き替え及び壁や建具等の部分

修理を行い平成二十六年九月に完成。


虎丘庵(京都府指定文化財)

虎丘庭園(名勝)

方丈南庭の一段高いところにある虎丘庵は屋根にむくりのある

造、檜皮葺の建物で、もとは京都東山の麓に在ったものを一休禅師七十四

歳の時、応仁の乱のためこちらに移築したものである。扁額「虎丘」の字

は禅師によるものである。茶室造りの静寂穏雅な建物で、周囲庭園は禅

院枯山水のもので東部は七五三配石による特殊なもので大徳寺山内真珠

庵の七五三庭園と同一手法によるものである。作者は茶道の祖といわれる

村田珠光と伝えられている。

















相国寺養源院拝観の手引き

養源院の歴史
 臨済宗相国寺派の塔頭寺院。

開祖·曇仲道芳は詩文に優れ、

室町幕府三代将軍·足

利義満·義持父子に寵遇を受けたが、,自ら出世を望まず終生黒衣で通して禅室「養源軒」

に隠棲したという。後に弟子の横川景三が、養源軒を相国寺内に移転して再興した。

幕末の戊辰戦争の際には、養源院が薩摩藩の野戦病院となり、イギリス人医師

のW·ウィリスにより、日本で初めてクロロホルム麻酔を使った外科手術が行われたとい

う。建物の柱には当時の藩士たちが付けた刀傷が残る。


毘沙門天像
 本堂には、本尊·薬師如来像と、「毘沙門天像(多聞天像)」を安置している。鎌倉時

代の慶派仏師の作と伝わる像高約170cmの寄木造で、左手に戟を(げき)掲げ、玉眼をはめ

こんだ眼光鋭い表情が憤怒の相を示しながらも写実的で若々しく印象深い。

長年その存在は知られていなかったが、江戸時代、相国寺近くに住む奈良屋与兵衛

の夢枕にこの毘沙門天像が現れて「我が像を修復して人々に参拝せしめよ」と告げたこと

から像が発見されたという記録が残されている。また、奇想の絵師·伊藤若冲との縁も

深く、この毘沙門天像の法要が相国寺で行われた際に、若冲の代表作として有名な「釈

迦三尊像」「動植綵絵」 12幅が初めて一般に公開された。


書院
 境内には、五摂家の筆頭 近衛家の「桜御所から移築した書院「相和亭」と

茶室「道芳庵」がある。書院から望む美しい池泉式庭園も書院と同様、移築復元

されたものである。



養源院 
 相国寺の塔頭寺院。
秘仏「毘沙門天像」は、写実的で若々

しい憤怒の表情が印象的な像高約170cmの像で、鎌

倉時代の慶派仏師の作と伝わる。長年その存在は知られ

ていなかったが、江戸時代に「我が像を修復して人々に

参拝せしめよ」という夢のお告げで発見されたと記録が残されて

いる。また、五摂家筆頭·近衛家の「桜御所」から移築した書院「相和

亭」や美しい池泉式庭園の眺めもみどころである。薩摩藩ゆかりの

寺でもあり、戊辰戦争の際、藩の野戦病院となり、建物の柱に藩士

たちが付けたという刀傷が残る。


長得院
 相国寺の塔頭寺院。
足利五代将軍義量の菩提寺で、その法

号にちなんで寺名が付けられた方丈を飾るのは、「山水

図」「波涛鷲図」「水辺虎図」「花鳥図」など、幕末画壇で活

躍した岸派の三代目.岸連山(岸徳)による水墨障壁画。

山水花鳥画を得意とし、淡彩を生かし

ながら墨を駆使して描く柔和で装飾的な画風で知られた連山の代

表作ともいうべき障壁画である。また、方丈の南と西には、苔や深

い木々に覆われた庭が広がっている。


法堂・方丈
 足利三代将軍義満
が、夢窓疎を勧請開山として創建し

た臨済宗相国寺派の大本山で、壮麗な大伽藍を誇る名刹

である。特別公開の法堂(重文)は、慶長10年(1605)に豊臣秀頼が再建

した現存する日本最古の法堂建築。狩野光信筆の天井画「蟠龍図」

は、堂内で手を打っと反響音が龍の鳴き声のように聞こえ、通称

「鳴き龍」として知られる。江戸後期建立の方丈には、原在中筆の襖

絵'中国普陀落山図」や「琴棋書画図」などが残り、白砂の平庭と深

幽谷を表した枯庭園の対照的な庭園美も楽しめる。










大徳寺拝観の手引き

 洛北紫野の地に龍寶山と号する臨済宗大徳寺派の大本山

であり、後醍醐天皇より「本朝無双之禅」 の宸翰を賜った

名刹である。夢窓国師と並んで南北朝時代の双璧と称せられ

た興禅大燈国師宗峰妙超禅師は、師の建長寺南浦紹明禅師

の寂後入洛して東山の雲居庵に閑居し、正和四年雲林院の北

のこの地に移って草庵を営んだが以後寺其を拡張して大徳寺

と称した。花園天皇は師に深く帰依して当寺を勅願寺となす

院宣を下し、後醍醐帝も同様の綸旨を給うとともに元弘四年

南禅寺に準じて五山の上位に列せしめた。しかし足利氏の時

代となって幕府の保護をする所とならず,庇護を受ける五山に対して

、徹翁,言外,華叟等が禅本位に徹した独自の禅風

を護持した。

 享徳二年火災にかかり、堺の豪商宋歓が法堂を建て再興

応仁元年の兵火に再び焼失したが、老齢八十一歳の一休宗純

和尚が住持となり、彼の徳望を慕う堺の豪商尾和宗臨が私財

を投じて再建をはかって文明十年方丈、翌年法堂が落成し

た。享禄二年連歌師宗長らの奔走で単層の山門ができあが

ったがまだ閣に及ばなかったので天正十七年千利休が閣を築

造した。金毛閣と呼ばれている。昭和四十年代に解体修理

が施こされ、丹塗りの色も鮮やかにそびえ立っている。

寛永十三年大燈国師三百回忌法要が行われた時に、新たに法

堂·方丈が建立された。当山は足 利時代末頃から徳川時代に

かけても多くの名僧を輩出したので、各時代の大名が多数帰

依し、広大な寺域と壮麗な伽藍、またおびただしい数の寺宝

を今日に伝え、また沢山の塔頭が存立するに至った(現在

二十二ヶ院)。その山容はまさに洛北の偉観といえよう。

方丈(国宝) は桁行(間口) 二九.八五m,梁間(奥行) 一七.○二m.

一重入母屋造りで前述の通り寛永十三年(一六三六)前の方

丈が狭隘となったので、後藤縫殿益勝が新築したもの。通常

六室からなる方丈形式に更に二室を加え八室の大規模なもの

になっている。開山像(重要文化財)を安置する雲門庵は方

丈の背面に突出している。襖絵(重要文化財)は八十三面で

すべて狩野探幽の筆になる。

狩野探幽 名は守信。狩野永徳の次子孝信の長男で、慶

長七年(一六〇二)に生まれた。京狩野といわれた永徳の養

子山楽の系統を残して、永徳の子光信,孝信兄弟の系統は江

戸へ行く。江戸に出て徳川幕府に仕え、御用絵師となって画

壇の勢力をほしいままにした。即ち光信の子貞信は中橋狩

野、孝信長子の探幽は鍛治橋狩野、次子尚信は小梚町狩野と

その所在地に依って呼ばれ、幕府や諸大名の依頼に依って多

くの殿舎や、寺院に大量の絵画を制作した。

それら江戸狩野の中でも、最も中心的な存在が探幽であ

り、すぐれた力量を発揮して、多くの名品を残している。水

墨画はもとより、淡彩画·極彩色、その作品の分野は甚だ広

く、又障壁画、軸物、絵巻物の種類に及び、その嗜好も緻密

なもの、豪華なもの等、種差万別の趣きがある。しかし何れ

の面でも概して成功を納めていることは、当代一流の呼名に

いつわりのないところであろう。当山の水墨画は、寛永十八

年(一六四一)四十才の作品で、一番彼の円熟した時期であ

り、殊に山水画に於いて探幽様式の完成に達した画境を見る

ことができる。

玄関(国宝) も方丈と同じ頃の建築で両者相俟って特有

の景観となっている。

方丈庭園(史跡·特別名勝,江戸時代)は枯山水の平庭

で、東方に遠望する比叡山や東山を、またかつては

鴨川の松並木を借景としている。南東隅に二つの大き

い石を立て、中央

手前に波分石を置いて滝口をあらわし、また立石の背後に椿

の大木を山形に刈り込んで借景の東山に連結させようという

工夫が見られる。寛永十三年天祐和尚の作とされている。東

庭は外域との境に仕立てられた生垣に沿って庭石を配し、俗

に七五三の庭といわれる。

唐門(国宝)は方丈の中門とされ、聚楽第の遺構である。

以前は勅使門の西にあった明智門を南禅寺金地院に移した跡

に移築された。豪華奔放な彫刻が建物をうずめているが、そ

の一つ一つを観賞すれば、長時間を要するので「日暮らし

門」と呼ばれている。

本坊
 松並木の美しい広大な寺域に22の塔頭

寺院をもつ臨済宗大徳寺派大本山。特別

公開される江戸初期建立の方丈(国宝)

は、8室に分かれ、開山·大燈国師(宗峰

妙超)像を安置する「雲門庵」が設けら

れている。内部を飾る障壁画(重文)は江

戸初期を代表する絵師·狩野探幽の代表作で、余白を多く用いた瀟

洒な水墨画である。また、聚楽第の遺構と伝わる唐門(国宝)を望む

「南庭」と、石を七·五·三に配した小堀遠州作庭の「東庭」からなる

庭園(特別名勝·史跡)もみどころである。


芳春院
 加賀藩主·前田利家
の正室まつが創建した大徳寺の塔頭

寺院で、平成28年に400年遠忌を迎えるまつの法号か

ら寺名がつけられた。「呑湖閣」(内部は非公開)は、「金

閣」「銀閣」「飛雲閣」と並んで「京の四閣」の一つとも称される優美
な二重楼閣。
利家の子·利長が、小堀遠
州に依頼して建てたものといわれ、
「飽雲池」とそこに架かる「打月
橋」とともに見事な楼閣山水庭園を
作り上げている。
また、芳春院
の木像や前田家歴代の御霊牌を祀る本堂の前庭は、
「花岸庭」と名
付けられた端正な枯山水庭園である。






北野天満宮拝観の手引き

 北野天韵宮は、学問の神様として崇敬の篤い菅原道真公(菅公)の御神霊をお祀りする全国

天満宮,天神社の宗祀の社(総本社)であり、天神信仰発祥の神社です。

創建は平安時代中期、村上天皇天暦元年(九四七)御神託により京都御所の乾(北西)に位

置する北野の地に神殿を造立し,皇城鎮護の神として奉斎されたのをはじまりとします

以来,朝廷のご崇敬をはじめ、藤原摂関家による大規模な社殿の造営などその御神威は高め

られ 永延元年(九八七)には始めて勅祭として北野祭が執行され、一条天皇より「北野天満

大自在天神」(北野天神) の神号が贈られます。

その後もご皇室の尊崇殊のほか篤く、寛弘元年(一00四) 一条天皇の行幸をはじめ歴代天

皇のご崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。

菅公を仰ぎ慕う信仰は、やがて天神信仰として世の人々に展開していきます。北野天満宮を

発祥としたこの天神信仰は全国各地に広がり、学問・至誠・芸能の神として崇敬されました。

現在、全国におよそ一万二千を数える天満宮・天神社が創建されており、そのうち1万1千

社が北野天神を発祥として、その御神霊が勧請されています。

「文道の大祖 風月の本主」と讃えられた菅公の精神は,現代においても確たる信仰として

築かれ、私たち日本人の感性に連綿と受け継がれているのです。

 当宮は御祭神に菅原道真公(菅公)をお祀りした全国天

満宮·天神社約一万二千社の宗祀(総本社)の神社である。

天神信仰発祥の社として今から千年余り前の村上天皇天暦元

年(九四七)六月九日、御神託により平安京の乾の地「天

門」、北野の地に創建された。

 天徳三年(九五九)右大臣藤原師輔卿が社殿を造営、北野

祭は官祭に与り、朝廷·皇室の崇敬を受け二十二社に加列.

また臣下として初めて官幣中社に列格され国家鎮護·皇城鎮

護の神として崇められた。寛弘元年(100四)、一條天皇

がはじめて行幸されて以来、歴代の天皇の行幸も二十数度に

亘り、将軍家や有力大名の崇敬を受けるとともに、公家や武

家,商人たちの信仰を集め、現在に至っている。

「文道大祖風月本主」と崇められた菅公は、「和魂漢才」

の精神で誠の心を以って学問に勤しまれたことから、学問を

はじめ芸能·農耕·厄除け·至誠·冤罪を晴らす神として奉

祀されている。

 天神信仰は千有余年の長い歴史の中で、人々の心の支えと

なる神として篤い崇敬をうけ、各時代の社会構造と相まっ

て継承されており、「天神さま」として庶民に至るまで親し

まれ、菅公が生涯一貫された「誠の心」は、日本人の感性と

して現在にも生きているのである。

当宮は約四00年前の天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉

公が千利休らに命じて催した空前絶後の大茶会「北野大茶

湯」の舞台であり、日本文化の発信地として親しまれている

場所である。

 現在の社殿は慶長十二年(一六〇七)豊臣秀吉公の遺命を

受けた豊臣秀頼公の造営で、八棟造という豪壮な建築様式を

誇り国宝に指定されている。


茶室「松向軒」

 今出川通から大きな石鳥居をくぐり抜け、正面やや右に

「影向松(ようごうのまつ)」を見て左へ目線を移すと、緑と塀に囲まれた小

さな数奇屋風の建物が目にはいる。これが細川三斎公所縁の

茶室「松向軒」である。利休七哲の一人でもあった三斎は

北野大茶湯にあたり、自らの茶室を菅公ゆかりの影向松の向

かいに建てた。これが名の由来である。現在は増改築が施さ

れ、大広間の書院茶室や玄関、露地や待合と併せいくつかの

社中によって月釜が催されている。

特別展「宝刀展」

 御祭神菅原道真公は、学問の神·文芸の神として崇敬され

ている一方、戦国時代には武運長久を願う大名·武将らの信仰も篤く

多くの刀剣類が奉納されている。

 豊臣秀頼公が慶長十二年(一六○七)、社殿造営に際し奉納した太刀

銘国広(重文)や、加賀前田家が五十年ごとの大萬燈祭に奉納した銘

恒次(鎌倉時代)、銘師光(室町時代)、銘助守(鎌倉時代)などの名

刀を一堂に展示。このうち秀頼公奉

納の太刀については、それを記録した文書が残っていないだ

けに茎に刻んだ慶長十二年の年号や「北野天満天神豊臣秀頼

公御造営之時」の銘は、極めて貴重なものといえる。

 重文以外でも鎌倉から明治にかけての太刀·刀·脇差

刀·短刀などの名刀がそろい、天神信仰の奥深さを感じるこ

とができる。


初公開「北野·東山遊楽図屏風」

 江戸時代前期(十七世紀後半から十八世紀初頭頃)

六曲一双、本間屏風の形態で、右隻に祇園社、建仁寺、清

水寺を描き、左隻には北野天満宮を配置する。それぞれの名

所は遊楽客に溢れ、繁華な京の様子を伝える。とくに左隻

 北野天満宮では、五扇·六扇にまたがり酒宴と輪舞が描か

れ、特徴的にうねる影向松と合わせて本作の主題を明示して

いるといえる。

 北野天満宮の拝殿には回廊がめぐらされており、慶長十二

年の豊臣秀頼公による造営後の姿であることが確認できる。

また人物の風俗、とくに女性の髷の形は寛文美人図のそれをイ

メージさせ、本作が江戸時代前期の京都社会を一つの理想的な

規範として捉えられる。

北野大茶湯図宇喜多一惠筆

 天保十四年(一八四三)天正十五年十月一日の豊臣

秀吉公による北野大茶湯の有様を、江戸時代後期の復古大

(浮田) -惠が天保十四年九月に描いたもの。北野社から経

堂までの広い松原と八百余の二畳敷の茶室で埋もれた光景を

西から眺めている。遠く比叡が望まれる。一惠が本図を描い

たのには、かれが秀吉の五大老のひとりである宇喜多秀家の

七世の孫を自称していたことも関わっていただろう。

御土居(史跡)と青もみじ

 都城の区画整理を矢継ぎ早に実施した秀吉公の命により

普請奉行前田玄以は、天正十九年、洛中洛外の区分と水防を

役割とした「御土居」を完工。周囲約二十二キロに及ぶ「御

土居」の名残は今も京都のいくつかの場所に史跡として断片

的に残されているが、天満宮に残る「御土居」は神域でもあ

るため平時は一部立ち入りを制限している。今回は、紙屋川

のせせらぎに至る「御土居」とその御土居に植わる約三00

本の新緑の「青もみじ」を特別に公開する。









鹿王院拝観の手引き

 南北朝時代、動乱期とはいえ、室町幕府も三代将軍足利義

満の時代になり、世の中は幾分平穏な空気も流れ始めてい

た。南北朝合一を遡ること十二年康暦二年(一三八〇)若

き将軍足利義満が足利家の繁栄と自らの長寿を祈らんと建立

したのが宝幢寺である。開山は義満参禅の師、普明国師.春

屋妙葩。義満はその十年後、相国寺を建てる際にもこの禅師

を招聘している。国師が生前から自らの塔所として宝幢寺内

に鹿王院を建立。

 室町時代も半ば、応仁の乱以降、宝幢寺は寺運退転し、天

正年間(安土桃山時代)以降、本山である宝幢寺の寺務のす

べてを鹿王院が管掌することとなり、江戸時代には当院の末

寺は四十八ヶ寺となる。また、伽藍は慶長の大地震により倒

壊したが、寛文年間(江戸時代初期)に住持となった虎岑和

尚により、諸堂が修理再興され、今日に至っている。


舎利殿とは、釈迦の遺骨(舎利)を安置する,ことであ

るが、この舎利のことを古代インドの言語、サンスクリット

語では駄都とも呼ぶため、舎利殿は別名「駄都殿」ともいう。

 建築様式は唐様を主とする単層宝形造りの江戸時代初期の

建築であり、裳階があるため、外見二層のように見えるが造

りは単層(一階建て)。当初は客殿の東北に建てられたもの

を宝暦年間(江戸時代中期)に現在の地に移築している。

 堂内内陣の多宝塔の中には、珍しい仏牙舎利が安置されて

おり、鎌倉幕府第三代将軍源実朝が宋の都、臨安の能仁寺か

ら請うじた貴重な舎利であり、後、鎌倉の円覚寺から光厳上

皇 夢窓国師、後光厳上皇を経て普明国師に下賜されたもの

であり、後奈良·正親町·後水尾天皇も参拝されている。こ

の仏牙潝が、宋から博多に無事到着したのが、十月十五日

であったことから、現在でもこの日は年に一度「舎利会」と

して、供養開帳されている。


客殿前庭は宝暦年間(江戸時代)、舎利殿の移築と共に作

廷された面積約二千三百平方メートルの広さを誇る平庭式の

枯山水庭園であるが、元あった室町期の庭の面影を三尊石を

中心とする二十数個の石組みに残している。また、嵐山を借

景とし、樹齢四百年の木斛、庭一面に敷かれた杉苔に囲まれ

た舎利殿を見ていると釈迦の母国である北インドの濃密な緑

の木々の様子が連想される。

本堂は桟瓦葺き、三間四方の単層寄棟造りの簡素な造り

で、この堂もまた中興の祖、虎岑和尚によって延宝年間(江

戸時代初期)に再興された。現在は開山堂と仏殿を兼ねる。

客殿と舎利殿を渡り廊下でつなぎ、堂内中央には本尊釈迦如

来坐像と十大弟子像、向かって右には開山である普明国師

像、そして左側には開基である足利義満の衣冠束帯姿の像を

安置する。


客殿は桟瓦葺き、単層入母屋造り、明治の初期の頃の再建

である。庭園に面した南中央に掲げられている額「鹿王院」

は義満の揮毫。印に「天山」とあるのは、義満の法号である。

「鹿王院 天山 道義」これが義満の正式な法号である。玄

関に入る手前、寺の山門の扁額「覚雄山も義満の筆による

 また、この客殿の裏庭からは茶室「芥室」へと続く。「芥」

とは取るに足らない小さな例えであるが、普明国師の号が

「芥室」であったことに由来する。この茶室は映画俳優·大

河内伝次郎が当院に昭和九年に寄進、文化芸術をよく理解

し、篤い信仰心をもつ人であった。嵐山には彼の残した別荘

が今も残っている。







東福寺拝観の手引き

 東福寺の創建は古く鎌倉時代源頼朝公と深い親交があ

り、公家の中でも当時強い政治力を有していた摂政関白九條

道家公が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ又

奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえょうとの念願で、

京都最大の伽藍を造営したのがはじまりである。嘉禎二年

(一二三六)より建長七年(一二五五)まで実に十九年を費

やして完成した。寛元元年(一二四三)には円爾弁円を開山

に仰ぎ、先ず天台·真言·の三宗兼学の堂塔伽藍を配置し

た。鎌倉末期の相次ぐ火災によって大部分を焼失したが、直

ちに復興に着手。貞和三年(一三四七)、前関白一條経通に

より仏殿が上棟され、再び偉観を誇ることとなった。

 開山円爾弁円は弘安三年(一二八〇)十月十七日、東福寺

普門院に於いて齢七十九歳で寂し、後に朝廷より聖一国師

と諡された。弟子である東山湛照"(宝覚禅師)は弁円の寂

後、九條道家公の遺志を嗣いだ1條実経公に請われて東福寺

の二世住持となり、塔頭19寺を創建して北条時宗公の帰依

三世住持の無関普門(大明国師)に至っては亀山法皇

の深い帰依をうけて南禅寺の開山となる等、幾多の名僧が輩

出したが、東福寺の僧は専ら弁円一派(聖一派)によって継

承され、加うるに十方住持の制を布かなかったために室町幕

府の圧迫を受け、辛うじて京都五山の第四の地位を保ち続け

 三門(国宝)は、応永三十二年(一四二五)に再建。時の

将軍は第四代足利義持公であった。現存する三門としては日

本最古にして最大級の三門である。幾度か小規模の部分的修

理が加えられてきたが、昭和四十四年より創建以来実に六百

年振りに全面解体修理が文化庁により実施された。八年九ケ

月の歳月と五億円の巨費をかけ、漸く昭和五十三年三月に解

体修理は終了した。この三門は、解体修理が施される十七年

前、昭和二十七年に国宝建造物に指定されており、その規模

は正面約二十五·五メートル、側面が一○.二メートル、棟高

は約二十二メートル、五間三戸(柱と柱の間が五つ。門扉が

三つ) の二階二重門構造である。また、禅宗の三門としては

珍しく,大仏様(天竺様)様式を取り入れており、初層軒先

細部の木組構造は東大寺南大門のそれと酷似している。

 また楼上(二階)の扁額 「玅雲閣」は室町幕府四代将軍足

利義持公の筆蹟とされ、父である義満公以上に仏教に傾倒

し、「妙」の字の左側を敢えて女偏とせず、「妙」の源字の「玄」

という字を用いたところからも、禅の教えに深く理解を示し

た将軍の学識の深さが窺える。

 天井画は兆殿司,寒殿司の師弟によって描かれた。極彩色

の天上世界である。兆殿司は明兆の名で世に知られた画家で

あり、周文らと共に雪舟以前の一時代を築いた画僧であった。
毎年三月の涅槃会の折、仏殿に掛けられる巨大な涅槃図

も彼の筆によるものである。

ほうかんしゃかにょらい

 楼上内陣、正面の宝冠釈迦如来像をはじめ、脇に連なる

十六羅漢像は大仏師定朝の流れを汲む室町時代の仏師達の作

と云われ、威厳と優美さを湛えたその姿は当時極彩色の天井

画の鮮やかさと羅漢たちの写実的な表情と相まって観るも

のを圧倒する。羅漢とはサンスクリット語で「アラハン」の

漢訳であり、悟りを得るために求道する者という意味である。

日本人に知られた羅漢としては「お賓ずるさん」で有名なビ

ンズルバラダージャ尊者や浴室の守護者として崇められてきた

バツダバラ尊者達がいる。

即宗院

 東福寺の塔頭寺院。関白·藤原兼実の山荘

「月輪殿」の跡地にあたり、深い森を背に

した苔の美しい池泉式庭園は、滝跡の石)

組や「心」の字を形どった池の地割に山

荘時代の名残をとどめている。また薩摩

藩·島津家の菩提寺でもあり、幕末には西郷隆盛と勤王僧·月照上

人がここで倒幕計画を練ったといわれ、明治維新の戦死者を弔う

ために西郷自ら薩摩藩士524名の名を刻んだ「東征戦亡の碑」が

建つ。










下鴨神社拝観の手引き

 当神社が祀 られたのは、崇神天皇七年に神社の瑞垣の修造

がおこなわれたという伝承に始まり、先年糺の森周辺の発

掘調査で縄文や弥生時代の土器がたくさん発掘されるなど

この地の古さを物語っている。また社伝や歴史書に、お祭
社殿、
神宝等の奉納などが記謦れており、『続日本書紀』

文武天皇二年(六九八)には、葵祭に見物人がたくさん集ま

り過ぎるので騎射を禁止するように、という命令が出された

という記事がある。このことから、奈良時代より前から当神
社が大きな社で、盛大な祭礼がおこなわれていたことがわか

る。

 平安時代には王城鎮護の社として、都の守り神,また皇

室の氏神として信仰を集め、式年遷宮や斎王の制度などが定

められていた特別な神社であったことが知られる。そして

『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場する

ように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えて

きた。
 平安時代末期になると全国に六十余箇所もの荘園、御厨が

寄進され神社を支えてきたが鎌倉、室町時代、そして戦乱の

世になっていくにつれ各地の荘園も衰退し,賀茂斎院も廃止

された。

 江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として

寛永六年(一六二九) に大半の社殿を再建し、文久三年

( 一八六三)には本殿の遷宮が行われた。

明治初年には全国神社の代表として官幣大社の首位に

おかれ、今日まで皇室と国家国民のための祈願が日々

行われている。

本殿(国宝)
 文久三年(一八六三)造替時の建造物。

三間社流造の典型的な社殿で左右に東西両殿を擁する。西本

殿には父神である。賀茂建角身命を祀り、東本殿には、その

娘玉依媛命を祀る。平成二十七年四月二十七日、三十四

回目となる式年遷宮が執り行われた。

大炊殿(重要文化財)
 神饌(神様へ供える食事)を調理していた建物(神様の台

所)で井戸屋形と共に公開しており、古代より伝わるお供え

の謹製や調理用具を展示。


神服殿(重要文化財)
 神々の御料となる御装束を縫製する社殿で、玉依媛命には

十二単衣、賀茂建角身命には束帯が御神服として奉られる。

御神服は夏御料と冬御料があり、立冬,立夏の日には御神服

のお取替えを行う更衣祭が斎行される。
 殿内は四部屋に仕切られ、北西の一室のみが格天井とな

り古来より「開かずの間」と称されている。これは御所が炎

上した際などに天皇の避難場所として使用される為であり

嘉永七年(一八五四)の大火には孝明天皇は神服殿に、祐宮

(明治天皇)は細殿、内侍所(神鏡)は舞殿へと御動座になった。

 また歴史上有名な文久三年(一八六三)の孝明天皇の賀茂

社行幸の際には神服殿が行在所となった。賀茂社への行幸に

ついては承保三年(一〇七六)に、四月中申日を行幸の式日

と定められ、以来参拝の次第や順路は制定せられていた

が、文久の行幸は後水尾天皇の二条城行幸より数えても約

二00年ぶりの出来事であった為、本来使用すべき神館御

所,解除御所は退転して既に無く、ために神服殿が御所とな

りその南側を解除所と定められた。
 孝明天皇は御在位中に四十四度に亘って勅使、奉幣使を御差遣

になり四海静謐国民安穏の奉幣祈願をされ、さらに将軍徳川家茂公

を従えての攘夷祈願のこの行幸は近代日本の曙となった大事件であ

った。











真如寺拝観の手引き.

諺真如寺の歴史

 鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)とともに臨済宗大本山相国寺の山外塔頭の一

つ。室町時代には幕府により定められた「五山十刹」の官寺の制において「十刹」の一つ

に数えられた由緒ある禅宗寺院である。

勧請開山は、中国·宋の高僧にして鎌倉の円覚寺の開山でもある仏光国師(無学祖

元)で、その弟子無外如大尼が、師の没後に遺髪や爪を祀るためにこの地に「正脈

庵」を開いたのが始まりである。.

南北朝時代の暦応5年(1342)に、仏光国師の法を受け継ぐ夢窓疎石が、足利初

代将軍尊氏の執事であった高師直の外護を受けて大伽藍が整えられ、以後室町幕府

の手厚い保護を受けた。現在残る建物は、江戸時代の明暦2年(1656)に後水尾上

皇によって再興されたものである。


法堂(仏殿)「大雄脱は、禅宗様の建物で、中二階風の構造になった須弥壇があり、

仙洞御所から寄進された本尊·宝冠釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像の三尊が

安置されている。その奥に続く開山塔に勧請開山·仏光国師(無学祖元)、勧請開基

無外如大尼像、事実上の開山·夢窓疎石像や大檀那であった高師直の位牌などが祀ら


客殿

客殿には、宮家や宝鏡寺の門跡が来寺の折に

入室された三畳の「上段の間」があり、江戸後期

の原在中筆の襖絵「西湖図」「四季花卉図」「松に

猿猴図」「雀朝顔図」などが残っている。







永観堂拝観の手引き

 永保二年(一〇八二) 二月十五日早朝。阿弥陀堂に人影がうごく。夜を徹して
念仏に励んでいる僧侶がいるらしい。

 東の空がしらじらとし始めた。ふっと緊張がとけた一瞬、僧は息をのんだ。
自分の前に誰かがいる。それが誰かが気が付いて、足が止まった。

 「永観、遅し」
 ふりかえりざまその方は、まっすぐ永観の眼を見つめられた。

 永観堂禅林寺のご本尊は、首を左にかしげ、ふりむいておられます。ほんの少

し開かれたお口。お顔全体にただよう穏やかな微笑み。それは遠い昔、永観律師

を励まされた時のまま。阿弥陀さまの慈悲のかたちがこれほど具体的にあらわさ

れている佛さまは例がなく、「みかえり阿弥陀」と呼ばれ、広く知られています。

 
   現代の私たちが、みかえり阿弥陀のお姿に教えられるもの、

  それは、遅れる者を待つ姿勢、思いやり深くまわりをみつめる姿勢、
  そして自分自身をかえりみ、人々とともに正しく前へ進む姿勢。
  それはまた、阿弥陀さまの私たちへの想いなのです。
 

永観律師をさかのぼること、二00年あまり。禅林寺は真言密教の寺として始まりまし

た。八六三年、弘法大師の高弟,真紹僧都が清和天皇から寺院建立の許可をもらい、禅林

寺という名を賜わったのです。

 禅林寺が大きく発展したのは、永観律師の時代です。律師は、境内に施療院を建てるな

ど、恵まれない人々のために奔走。永観律師を慕う人々によって、禅林寺はいつしか、永

観堂と呼ばれるようになりました。
 鎌倉時代に住職となった静遍僧都は、高名真言宗の僧侶でした。お念佛をとなえるだ

けで救われるという教えに反発をおぼえ、自分のほうが正しいと証明しようと、法然上人

の著書を開きました。ところが、いくら読んでも「間違っているのは自分では」と思わせ

られることばかりでした。ついに、静遍はお念佛の教えに深く帰依します。そして

法然上

のまな弟子·証空上人を次の住職として招きました。
 証空上人は、すべてを阿弥陀佛にまかせきってとなえるお念佛の大切さを説き、「白木

の念佛」と名づけて、人々に勧めました。それは、阿弥陀さまが私たちのような者でも一

人残らず救ってくださることへの悦びの念佛といっていいでしょう。のちに、禅林寺は、

法然上人を宗祖に、証空上人を派祖にいただく、浄土宗西山禅林寺派の総本山となりまし

た。
 永観堂禅林寺は、はるか平安の昔から、称名念佛の根本道場として、阿弥陀さまの慈悲

のこころを護り伝えています。


特徴と見どころ

①東山を背景に、阿弥陀堂をはーじめとする古建築が、緑と水に恵まれた庭に調和していま

す。古来、都びとに愛された優美な景観のなかで静かなひとときを過ごしていただけます。

②「もみじの永観堂」は、全国にその名を知られています。

境内を染め上げる紅葉はもちろん、お堂や回廊のすぐ目の前にせまってくる鮮やかな岩垣
紅葉
は、ここでしか見られないものです。

③みかえり阿弥陀のほか、びんずる尊者像など、功徳ある佛さまを拝むことができます。


斬新なデザインと彩色で知られる長谷川等伯とその一門による「竹虎図」「楓雉子図」な

ど、桃山時代の金碧障壁画の傑作が観られます。また、国宝「山越阿弥陀図」や重要文化財
「当麻
曼陀羅図」など、多くの宝物を所蔵しています。


➄「火除けの阿弥陀」や「三鈷の松」「悲田梅」など、永観堂七不思議が楽しめます。






妙円寺拝観の手引き

霊峰比叡山に西南、松ヶ崎山の麓にある、松ヶ崎大黒天(日蓮宗妙円寺)は遠く約四00年前の江戸初期
の開創にして、天恵の風致と京の護りに合致した霊域に位置します。福寿海運の大黒天は、京都・七福神の

第一番の霊場としてご本尊の威徳を慕い、帰依される信者は全国各地多数におよびます。当山は、

関が原の合戦の後、江戶初期の元和二年(一六一六)本化律の鼻祖で六根清浄体得の聖者である。
永仁三年(一ニ九四)白蓮聖人の法孫、
日像上人によって法華経が広められ,徳治元年(一三〇六)に
松ケ崎全村悉く日蓮宗に改宗したというう法華信仰の流れがあり、「松ヶ崎法華」とまで云われるようになりました。

また教蔵院日生上 による、承応三年(一六五四)に創立された「松ヶ崎檀林」(僧侶の学校)が、この近くにかつてありました。
(現在は尼僧の学校である、日蓮宗尼衆宗学林があります。 )

毎年八月十六日に点火される「五山の送り、のうち、当山の背後,両峰に!点火される「炒法」は,約六百年

という歴史ある聖地に当山はあるのです。






























高瀬川と木屋町通り

 江戸時代以前、木屋町通はまだ鴨川の河原であった。

江戸時代初め、政治の中心が江戸に移り京都が衰退することを懸念した豪商の角倉了以は、水運

によって京都を発展させようと考えた。了以は、土倉(金融業、酒屋の複合業)で得た資金と朱印船貿

易で得た海外の先進的知識や技術を用い、河川の開鑿を次々に行なった。了以は慶長十一(一六0 六)

年に保津川を開鑿(かいさく)し、水運によって丹波,丹後の物資を容易に京都まで運べるようにした。その後も

富士川·天竜川に水運を開き、慶長十五(一六一〇)年には京都の大仏殿修復のために鴨川も通船し

た。しかし鴨川は氾濫が多かったため、了以は、京都の物流を支えるには、もっと安全で安定的に物

資を運べる運河が必要であると考えた。

 その頃、大坂から京都への物資は、淀川水運によって伏見まで運ばれ、伏見から京都までは人馬で

運ばれていた。そこで了以は、二条から伏見までの運河「高瀬川」を開き、大坂と京都を水運で繋ぐ

という革新的な事業を構想した。

了以は七万五千両(推定百五十億円ともいわれる私財を投じて高瀬川を開鑿、慶長十六( 一六一一)

年に二条から五条までが開通し、木屋町通もこのとき誕生した。慶長十九( 一六一四)年には伏見

までの約十キロメートル全てが開通した。了以は高瀬川の起点である木屋町二条に屋敷を設けて通船

料を徴収した。

 輸送には平底で水深が浅くても運行できる高瀬舟が用いられ、最盛期には一日百七十艘もの舟が

行き来した。高瀬川の名称はこれに由来する。上りの舟荷として、材木、炭、薪、酒、醤油、米、塩等が

運ばれ、木屋町通に問屋街と藩屋敷が形成されていった。これらの取引商品から樵木町(こりき)、塩屋町、米

屋町、石屋町などの町名が生まれ今も残っている。下りの舟荷として、京の特産品、箪笥、長持、瓦等

が運ばれた。高瀬川はその後も増強され、舟の繋留舟荷の積み降ろしのため二条から四条の間に

は九箇所の「舟入」が設置された。現存するのは国指定史跡「一之舟入」のみで、他の舟入跡には石標

が立てられている。当初の木屋町通は人一人通れるくらいの細い道であったが、延宝二(一六七四)年頃か

ら鴨川に石垣が築かれ、道幅が広げられ、高瀬川と鴨川の間に生洲(料理旅館)や家が認可された。

こうして、高瀬川とともに木屋町通は大いに発展し京都経済の中心となった。

 明治二(一八六九)年、高瀬川の管理は角倉家から府土木課へ移管され、旅客舟の運行も始まった。
明治五(一八七二)
年御所で開催された京都博覧会では早舟が出現し、京都大阪間を明昼夜問わず往来し
旅客を運んだ。

また、鴨川をどりはこの時に始まった。しかし、明治二十三(一八九〇)年、蹴上インクラインが完成し

琵琶

湖疎水

の開通と共に大きな変化が起こった。明治二十八(一八九五)年四月、日本初のチンチン電車京都電

鉄「伏見線」に遅れること二ヶ月「木屋町線」が開業し、大正十五(一九二六)年の河原町線への移行まで
木屋町通の隆盛を担った。

明治末期複線化工事により川幅は1メートルほど狭められ石組みも組み直され橋も架け替え

られた。明治四十三(一九一〇)年の京阪電鉄の開通も重なり、大正九(一九二〇)年、三百年以上の

長きに渡り京都の繁栄を支えてきた高瀬川の曳き舟も歴史の幕を下ろすことになった。現代

までに幾度も埋め立て計画を回避して、その景観を留め、今も京都の観光名所となっている。

角倉宗家十七代角倉吾郎







先斗町歌舞練場

 「鴨川をどり」は毎年五月一日~二十四日まで開催さ朻る。

大火と遷都により荒廃し在京のまちを復興せんと、槇村正直

知事、明石博高らは相次いで政策を立て、京都博覧会の一環として

「鴨川をどり」も始まった。

 明治五年、当初急な計画のため適当 な場所がなく烏須沙摩圖子(うすさまずし)

通り四条上ル東側寄席「千代の家」を借り受け、三組を作り隔日

公演とし、観覧料は一朱(二十五銭)であった。狭い小屋であるため芸表

の桟敷に雛壇を設け、地方と囃子方の席とし、踊妓は常設の花道よ

り出ることにした。北隣の鳥須沙摩明王をまつる大龍寺(右京区梅

ヶ畑高鼻に移転)の客間を借りて楽屋にあてた。歌詞は時の勧業課

長横井雅頌作「雲井の庭」、三味線は目新で知られた杵屋六三郎、鳴

物は杵屋萬蔵、振付はその頃京舞で有名な篠塚文三であった。

 昭和二年今日の洋風建築が竣工し、時代相を加味した洋楽、レビ

ユーなども取り入れ、新しい趣向で人気を博した時期もあった。

 十月には芸妓の伎芸発表会·「水明会」が催され、錦秋の京都を彩る。










土佐藩邸

土佐藩邸(木屋町通蛸薬師下ル)

 江戸初期以来、明治四年まで土佐藩山内氏の京

都藩邸であった。幕末の同藩は藩論が交錯した

ため脱藩者があいつぎ、京都で天誅と称する刺

客としての活動が目立った。又王政復古後も、土

佐藩兵は、鳥羽伏見から会津·北越と転戦した。

土佐藩邸は、明治四年に収公された。 









瑞泉寺縁起絵巻

 瑞泉寺建立が描かれ、秀次死後、約百年過ぎた元禄時代の作

と伝えられている。

瑞泉寺

(木屋町通三条下ル東側)

慈舟山と号し、浄土宗西山禅林寺派に属す。太閤秀

吉の甥·豊臣秀次とその一族を弔うために慶長十六年

(一六一一)今の場所に建立された。豊臣秀次の法名

「瑞泉寺殿高巌一峰道意」に因んで名付けられた瑞泉

寺は、「太閤記」に秘められた戦国の一大悲劇を今にな

お語り伝えている。


天正十九年( 一五九一 )、豊臣秀吉の養嗣子となり、関白の

位を譲られた甥の「秀次」は聚楽第に住む天下人となった。

「聚楽第」全景図




しかし、「秀頼」が誕生すると、秀次は次第に太閤に疎ま

れ安禄四年(一五九五)七月、謀叛の疑いにより高野山へ追放さ

れた。絵は、切腹命令を持参した福島正則らに、抜刀して自刃

の覚悟をしめす白装束の秀次。


はじめに小姓と殉死の僧の切腹を介添えし、やがて秀次は

自ら切腹する。


太閤秀吉見参のため、秀次の首は伏見城へ運ばれる。


その年(文禄四年)の八月二日、秀次の五名の遺児、側室な

ど三十余人の女性は、市中引き回し後、三条河原に運ばれた。


刑場となった三条河原には土壇が築かれ、秀次の首が据

えられた。悲劇的な再会のあと一族全員が公衆の前で処刑
された。


処刑された一族の遺体は、大穴に投げ込まれ、その上に

は塚が築かれ、頂上に秀次の首を納めた「石びっ」が据えら

れた。世に「殺生(摂政)塚」として知られ、「洛中洛外図」

に 描かれた 見せしめの塚である。

それから十六年後、慶長十六年「高瀬川」開鑿を起工した

角倉了以は、荒廃した「塚」に心を寄せ、立空桂叔上人と力

を合わせ、「秀次一族の墓所」を新たに整備して供養し、本来の

「塚」 跡を中心に寺を建立した。すなわち「瑞泉寺」の創建で

ある。(墓所は現在と同位置)

「高瀬川」開鑿工事を指揮する角倉了以。本絵巻におい

ては、了以は僧衣を纏った姿で描かれている。

木屋町通に活気が溢れ、高瀬舟に荷を積み、町衆達が仕

事に精を出す様子が伝わってくる。高瀬川の開鑿が京のまち

交易の力をもたらす。


石組みされた高瀬川の川岸、三条大橋、三条小橋、往来

する人々、そして車道(三条下ル一筋目)を行く牛車(当時荷

車は橋上通行を禁止され、鴨川を横断した)など時代を知

り得る絵巻。





東寺拝観の手引き

 東寺の象徴として広く親しまれている五重塔は、天長

三年(八二六)弘法大師の創建着手にはじまりますが

雷火などによって、焼失すること四回におよんでいます。

現在の塔は正保元年(一六四四)徳川家光の寄進によっ

て竣工した総高55 mの、現存する日本の古塔中最高の

塔です。

全体の形もよく、細部の組ものの手法は純和様を守っ

ており、初重内部の彩色も落着いて、江戸時代前期の

秀作です。


金堂 国宝 桃山時代

 金堂は東寺一山の本堂です。文明十八年(一四八六)に焼失し、今の

堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたも

ので、慶長八年(一六〇三)に竣工しました。天竺様の構造法を用いた豪放雄大

な気風のみなぎる桃山時代の代表的建築ですが、細部には唐·和風の技術

も巧みにとり入れています。


金堂·薬師三尊十二神将

 金堂本尊は薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像です。光背上には七軀の化

仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周囲には十二神将像を配しています。こ

れら三尊像は桃山時代の大仏師康正の作で薬師信仰の形をとどめています。

講堂 重文 室町時代

 講堂は、天長二年(八二五)弘法大師によって着工され

承和二年(八三五)頃には完成しました。

その後大風や地震で大破し、度々修理を重ねてきまし

たが、文明十八年(一四八六)の土一揆による戦火で焼失

しました。

現在の講堂は延徳三年(一四九一)に再興された建物で

旧基壇の上に建てられ、様式も純和様で優美な姿を

保っています。


講堂·立体曼荼羅

 堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来

をはじめ、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の二

十一軀の仏像が安置されています。

これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(密

厳浄土の世界)です。

中でも平安時代前期の十五軀はわが国の密教彫刻の代

表作です。


大師堂 国宝 西院御影堂南北朝時代

 西院は伽藍の西北部にあり、弘法大師の住房で大師

の念持仏、国宝·不動明王像(秘仏)一軀が安置され不

動堂ともよばれていました。

康暦元年(一三七九)焼失しましたが、その翌年には再

建され、さらに十年後の明徳元年(一三九〇)には北側

に国宝·弘法大師像を拝するための礼堂と中門を加

え現在の姿となりました。

堂内には不動明王と弘法大師像が祀られ、弘法大師

信仰の中心となっている御堂です。

入母屋造りの礼堂、切妻の中門、ゆるやかな勾配の総

檜皮葺の屋根がその優美さを際立たせています。


は高野 心は東寺に おさめをく

  大師の誓い 新たなりけり

 延暦十三年(七九四)桓武天皇は、動乱の中に奈良から長岡京を経て平安京へと都を

遷され、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。

現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっていますが、東寺はも

との場所にそのまま残っていて一級史蹟に指定されています。東寺は左寺とも申しま

すが本格的に活動を始めたのは弘法大師の造営以後であります。このお寺にはアシ

ーカ王以来の伝統に従って、仏法によって国の平和が護られ、その光が世界の隅々に

までいきわたるようにということと、それぞれの思想が共に侵さず共存していく原理

を見出し伝え、共々に力を合わせ実現されていくようにとの大師の願いが込められてい

ます。

東寺の伽藍は南大門を入って金堂,講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に

五重塔と灌頂院が配置されています。塀で区別された境内はそのまま曼荼羅であり

密厳浄土であります。我々はそこから様々なメッセージを汲み取ることができます

大師はまた高野山を自らの修禅の場として開かれ、そこで得られた智慧を利他行と

して東寺で実践されました。生老病死に代表される衆生の苦悩の解決法とその生活

への表現が大師の一生でありました。

大師は祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想であるとの信念から、水な

き所に池を掘り、橋なき所に橋をかけ、道なき所に道をつけ、食の乏しき者には食を

得る方法を教え、病む者のために良医となられたのであります。

「弘法さん」は毎月21日、大師の命日に催される京の風物詩。境内には千軒以上の露

店が並び、20万人以上の人出でにぎわいます。これは大師に寄せる民衆の信仰の深さ

を表しているといえましょう。

東寺は創建以来千二百年の間に幾度も台風、雷火、兵火等の災害を受け、堂塔の大

半を焼失しましたが、その都度、一般民衆の信仰の力によりもとの姿に再建され、とく

に五重塔は古都の玄関の象徴として昔の姿をそのままに伝えて今日に至っておりま

す。

また大師の遺品をはじめとする、国宝·重要文化財は国民の宝であります。一人でも

多くの方がご参拝下さって平安文化との出会いを通し今の自分を見つめ直し、明日への

しい糧を得ていただければ幸いであります。


灌頂院

 灌頂院(重文)は、弘法大師空海が東寺創
建時に最初に構想した建造物の一つ。

教の奥義が伝授される儀式「伝法灌頂」や国家安泰·世界平和を祈願する「後七

日御修法」が行われる。
現在の建物は江
戸時代の再建で、「礼堂」「正堂」を「相の間」でつなぎ、壁には真言

ハ祖像が描かれている。

五重塔
 世界文化遺産に登
録された真言宗総本山。平安京造営時に国家鎮護のため

に創建され、のちに弘法大師空海に下賜された。
德川三代将軍家光が再建した五重塔(国宝)は、高さ約

55mで日本一高い木造塔である。特別公開の初層内部は極彩色の

文様で彩られ、密教の根本仏·大日如来に見立てた心柱を囲んで金

剛界四仏が安置されている。また金堂(国宝), 21体の仏像(うち

16体が国宝、5体が重文)が立体曼荼羅を形成する講堂(重文)。




気比神社拝観の手引き

 主祭神伊奢沙別命は御食津大神(みけつおおかみ)とも称し食

物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活

全般を護り給う神として崇められている。神功皇后、応神天

皇はまた漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安

全、大漁祈願が行われ、現に農漁海運業者の崇信が極めて

篤い。神功皇后は安産の神として霊験あらたかである。仲哀

天皇·神功皇后·日本武尊·応神天皇·武内宿禰命は無病息

災延命長寿、また神功皇后·玉妃命は音楽舞踊の神である。

由緒沿革

 伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称

し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の

土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)

の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海

には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住

の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は

御即位(192)の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願

された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉妃命(たまひめ

のみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫

より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅

して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮と

なし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉妃命

を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称

した。明治28年3月26日、神宮号宣下の御沙汰により氣

比神宮と改められた。延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)

に「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、また朝

廷からの御崇敬は特に厚く伊勢の神宮と並び四所宗廟の一

社に数えられた。中古より越前國一ノ宮と定められ、明治

28年、官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなっ

た。当神宮の神領は持統天皇の御代より增封が始まり、奈

良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の

御厨(みくりや)となった。渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本

海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園,日本

三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅

によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校

した。南北朝争乱の延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍

醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて足利軍を迎え奮戦したが利

あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお

二十四万石を所領できたという。元亀元年( 1 570) 4月大神

司憲直等一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して

織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じ

たが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、48%の祠官36坊の社

僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至っ

た。慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営

されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進された。

この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝

に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸

建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和25年御本

殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社之宮の

復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社とし

て御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、

昭和57年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造

営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の

新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御代

に至って御大典記念氣比の杜造成、四社の宮再建、駐車場

設備により大社の面目を一新,更に国家管理時代の社務所

が昭和20年の戦火で焼失し、その後敦賀区裁判所の庁舎

を移築、長く利用してきたが、老朽化により已むなく解体、平

成23年6月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築

落成した。


文化財
大鳥居
(重要文化財指定日本三大鳥居)

 高さ36尺(10.9m)柱間24尺、木造両部型本朱漆。寛永

年間旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納した榁樹(むろの

き)で、正保2年(1645)建立した。(初代の鳥居は弘仁元

年(810)境内東側にて創建されたが、康永2年(1343)暴風

で倒壊となり、後に現在の西側の地に再建された。)明治34

年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の

扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)の

御染筆である。昭和20年(1945)の敦賀空襲では唯一そ

の戦火を免れている。他に、敦賀市指定文化財として、能面

尉、猿田彦面、室町時代に描かれた氣比神宮古図(市立博

物館寄託)、昭和11年(1936)当時陸軍関係者が武運を祈

願して献木された敦賀市指定天然記念物ユーカリ樹がある。

慶長19年福井藩主結城秀康造営の国宝本殿(昭和20年

焼失)は、屋根両流造の代表的建造物であった。その虹梁

には、二つに割れた桃の実の中に陣羽織を身にまとった桃2

郎が刻まれ童話の起源を物語る。桃山時代の貴重な作品と

して知られている。


土公[どこう]

 氣比神宮境内全域11 ,253坪。天筒山の方角、神宮北東

部に残る「土公」は氣比大神降臨の地とされ当神宮鎮座に

かかる聖地である。社殿家屋建立の時、「この土砂を其の地

に撒けば悪しき神の祟りなし」と信ぜられる伝説と神秘に富

む神代の述霊。古い時代における多くの祭祀の形態は神籬

磐境(ひもろぎいわさか)と呼ばれ、大きな岩を中心とした山での

祭祀、大木を中心とした森での祭祀など自然の形を損なうこ

となく祭祀が営まれた。仏教伝来による寺院建築の影響も

あり、奈良時代から現代のような社殿を建て祭祀を行うよう

に変化した。当神宮創祀は2,000年以上の神代に遡り、当

初は現在の土公の地で祭神を祀ったと云うが、大宝2年

(702)朝廷御関係の神々を合祀、現在のような社殿の元が

建立され祭祀がなされた。御社殿建立後も土公は当神宮の

古殿地として手厚く護られ、平安時代の名僧伝教大

師最澄、弘法大師空海は当大神に求法の祈誓をかけこ

の土公前で7日7夜の大行を修したと伝えられる。


神水苑

 敦賀は名水湧出の地(大宝2年(702)の神宮造営中に湧き

出た1300年以上の歴史を有す名水である。)、特に境内は

水脈の中心に位置し江戸時代に当宮の亀池は「日本庭園歴

覧」に記された名池でもあった。明治42年東宮殿下(大正

天皇)御参拝のお茶の水に用いられた一井がその由来を語

る。昭和の大造営で亀の池を改修、滝のある神水苑を整備

しお水取りの参詣者でにぎわう。

芭蕉

 「名月や北国日和定めなき」

 「月清し遊行の持てる砂の上」

 俳人芭蕉は「おくのほそ道」の旅において、月を詠む事が目

的の一つであり、杖置きの地敦賀での仲秋の名月を心待ち

にしていた。元禄2年(1689) 8月14日(旧暦9月27日)夕

刻敦賀入りする、快晴。芭蕉は旅籠出雲屋(現敦賀市相生町)

に宿をもつ。「あすの夜もかくあるべきにや(明日も晴れるでしょ

うか)」芭蕉の問いに出雲屋主人は「北陸の天気は変わりや

すい。明日はわかりません。今夜のうちに(氣比神宮へ)参り

ませんか。」と答える。それならばと夜参りに出かけ月見を堪

能する。翌朝(8月15日)は主人の言葉通り雨天、「名月や…」

と句に残す。また、時宗2代目遊行上人が正安3年(1301)

この地を訪れた際、境内西側が沼地で参詣者が往来に苦労

する姿を見、上人自ら海岸より砂を運び水溜りを埋め立て参

道整備した故事を聞く。(現在でも時宗本山の清浄光寺の法主

交代の折には当宮でお砂持ちの儀式が執り行われる)この話に感

銘した芭蕉は「月清し…」と句を残す敦賀で詠まれた5句

の内、この2句は当宮で詠まれ、何れも「おくのほそ道」に数

えられる。中鳥居正面に芭蕉像と句碑が立つ。


氣比大神の神使白鷺と

氣比の松原

 神様にはそれぞれ神使(諸神の使者の意で、多くはその神に

縁故のある鳥獣虫魚の類である)がおられるが、氣比の大神

の神使は白鷺である。聖武天皇の御代、天平20年(748)

10月、異国船襲来の情報がしきりに伝えられ、敦賀にも愈々

賊船(渤海使)が現れた。1 1月11日夜、敦賀の天地に大

鳴動が起り、櫛川の浜辺に数千本の松原が忽然と出現し、

その梢に「白鷺」が群集した。これを見た賊船は大軍の軍旗

と見誤り退散したと云う。<氣比宮社記より〉 この松原とは、

今の氣比の松原のことで往古より氣比神宮の神領であった。

後に渤海使は主に両国の文化交流及び経済活動へと目的

を変えて松原沿岸に来着した為、勅により松原客館が建設

され渤海使停宿の処としてこれを氣比神宮宮司が検校した。






三井寺 伝説竜の姿

 何度も近くを通っているのに、これまで足を踏み入

れたことがなかった。いつか行ってみたいと思ってい

たのが三井寺である。

 草創されたのは、千三百年以上も前のことである。

正式な名称は長等山園城寺天台寺門宗の総本山。

 なぜ三井寺と呼ばれるようになったのかと言えば、

もちろんいきさつがある。境内に霊泉の湧く井戸があ

って、この水を、天智、天武、持統の三帝が御産湯と

して使ったというのである。

 それで、当初は御井の寺と呼ばれていたのだが、智

証大師円珍(*1)が、この霊泉を、三部潅頂(*

2)の法儀に使ったことから、三井寺と呼ばれるよう

になったというのである。

 金堂の西に閼伽井屋があって、その中にある岩の下

から、今も清水が湧き出し ている。

 この閼伽井屋の軒下に竜の彫り物があって、これが

なんと左甚五郎作と言われている。落語の方では、左

甚五郎の彫った鼠が動き出すという噺があるのだが。

 この竜も、毎夜、抜け出しては琵琶湖の水を飲んだり

暴れ回ったりしたという。

 古い話では、三上山の大ムカデを、琵琶湖の主の蛇

に頼まれて、俵藤太(*3)という武士が退治する

という物語があるのだが、その伝説を多少は引きずっ

ているような香りがする。

 この竜、作者である左甚五郎がやってきて、その眼

に五寸釘を打ち込むと、ようやくおとなしくなったと

いうのである。ではどのように怖いお姿をなさってい

るのかと、よくよく見ると「そんなことありましたつけ」

 というような、どこかとぼけた表情であちらの方へ

顔を向けておられるのである。.

 でも夜になると、その眼でこちらをぐいとにらみつ

けてきそうな、みごとな竜のお姿ではありました。

*1=814~891

中国·唐に学んだ天台宗の

僧で天台寺門宗の宗祖。三

井寺にはゆかりの仏像や古

文書が残る。

*2=香水を頭に注ぐ

主に密教の儀式。

*3=平安中期の武将.

藤原秀郷の異名。







恭仁京大極殿痕跡

 奈良時代に聖武天皇(在位724-49年)が740年から都を約

4年間置いた京都府木津川市の恭仁宮跡(国史跡)で、天皇が重要儀式

の際に出御する大棰殿院と、その南にあった政務や儀式の場だった朝堂

院との境目とみられる痕跡が見つかった。府教育委員会が5日発表し

た。恭仁宮の中枢部にあたる大極殿院と朝堂院の規模が初めて明らかに

なり、府教委は、宮殿構造の変遷を考える上で重要な発見とみている。


 朝堂院の北東角付近で等間隔に並んだ5カ所の掘立柱塀の柱穴が出土。大極

殿院(南北約215m、東西約145m )と朝堂院(南北約103m、東西約

115 m)のそれぞれの規模が明らかになった。

 南北方向に延びる大極殿院の構造は、恭仁京遷都の直前に都が置かれた奈良市

の平城宮第1次大極殿院と酷似するが朝堂院については、ほかの都城遺跡でも

例がないほど小規模だったことが判明。平城宮第1次朝堂院の2割ほどにすぎな

かったとみられる。

 また、大極殿院では約1.4mの段差を確認。平城宮にもあった大極殿が立つ

「竜尾壇」と呼ばれる構造が存在したとみられる。
2017-12-6  朝日新聞
 (伊藤誠)







比叡山延暦寺不滅の法灯

 比叡山延暦寺(大津市)に、開創以来1200年ともり続けているほのかな灯明がある。

「不滅の法灯」だ。

 僧侶たちは宗祖最澄がともした法灯と教えを絶やさぬよう、油を注ぎ、日々精進してきた。

 延暦寺は788年に最澄が開いた天台宗の総本山。標高848mの比叡山全域に広がり、百

数十の堂塔がある。1994年に世界文化遺産に登録された。

 国宝の「根本中堂」に、最澄が刻んだと伝わる薬師如来像がまつられている。最澄は像を安

置し、灯明を供え、「明らけく 後の仏の御代までも 光りつたへよ 法のともしび」と詠ん

だという。法とは仏法のこと。仏の光であり、法華経の教えを表す光を守るよう、願いを込め

たのだそうだ。

 薬師如来像の前に高さ約1.4mの六角柱の灯籠が三つ置かれている。その中で「不滅の法

灯」はぼうっとともっていた。

 根本中堂の僧侶、中山玄童執事(4)が灯籠の扉を開き、灯心をひたした灯明皿に菜種油を注

ぎ入れた。灯心はヤマブキの茎を乾燥させたものだ。油を足すのは1日数回。灯心の太さや気

温によっても油の減り具合が異なるという。「常に法灯の状態に気を配り、すべての僧でお守

りしています。法灯は天台宗の教えの象徵。油断して火が消えたら大変なことになります」と

中山執事は話した。

 この「不滅の法灯」、これまで何度か危機に遭った。

 1571年の織田信長の延暦寺焼き打ちで、法灯も途絶えてしまった。だが、14年後に根本

中堂仮堂が造営されたとき、最澄のまな弟子の円仁が開いた立石寺(山形市)から、焼き打ち

前に分灯されていた法灯を移したという。清原浄田住職は「1200年の歴史と文化労力が

込められていると感じます」。

 法灯はいま、岩手県平泉町の中尊寺など、天台宗の寺院三十数カ所に分灯されている。

 明治時代には廃仏毀釈の影響で法灯の油が不足。牛の鼻輪を供養する宗教団体の開祖が、毎

月一斗缶(約18 L)の種油を背負って比叡山に登った。この寄進のお陰で、窮地を救われた。

 延暦寺といえば、厳しい修行でも有名だ。15歳で比叡山に入った光永圓道,大阿闍梨( 35 )

は、比叡山の峰々を1千日にわたって巡拝する荒行「千日回峰行を昨年成し遂げた。中で

も、堂にこもって9日間、断食、断水、不眠、不臥で、10万回不動明王の真言を唱える「堂

入り」は命がけの修行だ。

 最後に「不滅の法灯」について尋ねると、「油断しないということは普段通りでいいという

こと」とのお答え。注意を怠らず精進を積み重ねれば、それがいつか当たり前になる

 大阿闍梨は、深遠なる境地をやさしく説いてくれた。
 2010-8-3朝日新聞 文山根由起子






夏越祓(なごしのはらえ)

 夏越祓とは、6月30日(晦日)に各神社でおこなわれる神事のこと。全国の多くの神

社では、この日はもちろんのこと、早いところでは6月1日から茅の輪を据え、参拝

者はこれをくぐることで半年の穢れを祓ってきた。茅の輪の霊験が伝えられるよう

になったのははるか昔。奈良時代に編まれた『備後国風土記』には、とあることから

腰に茅の輪をつけた厄病除けの神・蘇民将来が難から逃れたとあり、そのご利益に

あやかろうと、いつしか茅の輪くぐりが定着したといわれる。またいくつかの神社で

は茅の輪とは別に、人の名を記した人形(ひとがた)などを川へ流す儀式も行う。い

ずれも、穢れを祓う意味で行われる。

 一方、6月に入ってから町のあちらこちらで売り出されるのが和菓子の水無月。

もともとは、夏に備えておいた氷を取り出す行事「氷の朔日(ついたち)」に想を得た

菓子でありながら、小豆の赤には邪気祓いも伝わるのでやはり食べておきたい。京

都の店では、6月末の3日間だけや、30日のみ販売する店のほか、通年販売してい

る店もある。




平等院 本尊阿弥陀如来坐像について

 鳳凰堂須弥壇上に安置されている本尊阿弥陀如来像

は、藤原時代を代表する仏師定朝の晩年の傑作で、現

在のところ定朝作として確証のある唯一のものです。

その作風は、この時代までの造法から、薄い材をつな

ぎあわせて仏像をつくる寄木造を完成して、身体各部

の調和をとるとともに、貴族の好みにあった親しみの

もてる和様彫刻を完成しました。

 像高約2、5メートル寄木漆箔の本尊は、定印を

結び、相好円満、螺髪は細かく整えられ、伏し目がち

で口は軽く結び、肩はなで形で、衣紋の彫りも浅く

流れるような線で彫られています。その均整のとれた

安定感は、いかにもその時代にふさわしい貴族好みの

優雅で女性的な感じをただよわせています。



平等院


 平等院は、永承七年(1052)俗に言う末法初年、時の関白藤原頼通によって父道長の別荘を寺院に改め創建されました。

 平安時代中期、王朝文化が花開き高い美意識が高揚された時代です。その翌年の天喜元年(1053)阿字池を中心に阿弥陀

如来を安置する阿弥陀堂(国宝)が建立されました。それが鳳凰堂で、経典に描かれる浄土の楼閣をイメージした、優美で軽快

な建物です。

 周囲に広がる(極楽の宝池を模した)阿字池は、宇治川や対岸の山々を取り込んだ雄大な借景とともに、名園として名高い史

跡名勝平等院庭園を形づくっています。創建期は、風光明媚な宇治の地の多くが境内として、阿弥陀堂のほか金堂、講堂、法

華堂、宝蔵などの多く堂塔が立ち並んでいました。

 現在園内には頼政自害の地として有名な扇の芝や、観音堂(重文)、鐘楼、羅漢堂(市指定)などがあります。また、文献や発

掘調査に基づいて鳳凰堂周辺には洲浜が復元され、そこに架かる平橋·反橋や小島も整備されています。

 平等院には、平安時代の多くの文化財が伝えられています。当時最高の仏師定朝のものとして唯一確定出来る阿弥陀如来

坐像(国宝)や、現存する日本最古の大和絵風九品来迎図(国宝)、「天下三名鐘」の1つとして有名な梵鐘(国宝)一口、鳳凰一

対(国宝)などのほか、発掘出土品、日本最古の参詣巡礼札や文書など歴史的遺産が重層的に残っています。

 特に11世紀の仏像群として唯一伝来する国宝雲中供養菩薩五十二躯は、いずれも飛雲上に乗り、頭光(輪光)を負い、

様々な楽器を奏でたり、持物を執ったり、印を結ぶもの、合掌したりしているものなど、伸び伸びと繊細に彫り上げられてい

ます。



平等院 雲中供養菩薩像

 鳳凰堂の内部、長押上の白壁に、五十

二体の雲に乗った仏像が懸架されていま

す。ヒノキの一木彫、座像で40センチ

立像で87センチ程度の大きさがありま

す。琴、琵琶、鼓、鉦鼓、横笛、鞨鼓

大太鼓、笙などの楽器を奏するもの、蓮

台、宝珠、幡、天蓋などを持っているも

の、舞うもの、合掌するもの、印を結ぶ

ものなど、その姿は多種多様です。創建

当時は、漆地に、はなやかな彩色がほど

こされていたようで、本尊の阿弥陀如来

に対して、雲の中で供養讚嘆する有様は、

頼通をはじめ、当時の貴族たちが夢にま

で見た極楽浄土の光景を立体的に表現し

ています。




平等院 鳳凰堂の建築

 平等院の中心的な建造物である阿弥陀

堂が、鳳凰堂と呼ばれるようになったの

は、江戸時代のはじめの頃です。建物全

体が鳥が羽を広げた形に似ていること

や、中堂の屋根の棟飾りとして一対の鳳

凰がとりつけられていることから名付け

られたとされています。

 鳳凰堂は、本瓦葺で、中堂は単層,人母屋造り

正面三間、側面二間の母舎のまわ

りに一間の裳階をつけ、裳階を含めて正

面14·2メートル、側面11 . 8メートル

あります。左右の翼廊は切妻造で、南北

に五間づつのび、さらに東に三間折れ曲

がっています。

この翼廊の二階部分は

実用的な意味はなく、中堂の持つ重量感

を左右にそらし、全体的なバランスの中

で軽快さと優美さを生み出すことに大き

な役割をはたしています。後方に向かっ

てのびる長さ18·4メートルの尾廊は

創建当時には翼廊と同じく土間で、後方

の建物への通路として作られました。後

の時代に改修されて板敷きとなり、花頭

窓が取り付けられて現在に至っていま

す。

 阿弥陀堂の建立は、奈良時代の頃より

はじまったと云われています。現存する

建築には宝形造が多いのですが、鳳凰堂

の場合は、本尊後壁に鳳凰堂に似た建物

が画かれているように、観無量寿経に説

かれた西方極楽浄土の阿弥陀如来の宮殿

を模したものと考えられています。



平等院 浄土庭園

 浄土庭園は頼通の父道長による法成寺にも存在し,

平等院において,完成の域に達した後、これを範として

全国に伝播した平安時代の代表的な庭園様式です。平

成二年から行われた庭園遺構の発掘調査を経て、鳳凰

堂をとりまく浄土庭園の創建当時の姿が明らかになり

ました。平安時代の庭園は、拳大の礫が敷き詰められ

たおだやかな洲浜と浅い池が大きく広がり、宇治川の

自然と一体化した開放的な空間であったようです。北

岸と北翼廊の間には反橋と平 橋の二橋が小島を介して

架けられていたことがわかっています。これらの復元

整備によって、鳳凰堂の建築、庭園、周囲の自然環境

が渾然一体となり、当時の貴族たちが希求した極楽浄

土の光景が再現されています。





高山寺 拝観の手引き

歴史

 後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」で知られる当山は、

七七四年(宝亀五年光仁天皇の勅願によって開創され、神願

寺都賀尾坊といったが、八一四年(嵯峨天皇の弘仁五年) 、栂

尾十無尽院と改称された。その後、八七六年(貞観十八年)に

は後の十三代天台座主となり、天神縁起絵巻で菅公の怨霊を鎮

めたといわれる法性房尊意僧正が、十一才より四年間当山で修

行し、大いに法力を得たと伝えられている。

 鎌倉時代、明恵上人(成弁、後に高弁と改名)が出て、後鳥

羽上皇,近衛·鷹司·西園寺家等の帰依により堂坊を復興し中

興開山した。明恵上人は、後鳥羽上皇の院宣によって南都東大

寺の華厳を根本とし戒密禅を兼ねた寺とし、一二0六年に勅額

「日出先照高山之寺」を賜わったので、寺号を「高山寺」と改称した。

 その後、当山は仏道実践の霊域として護持され、いつの時代

も上下の崇信を受け、特に藤原氏一門には、氏神鎮守社春日明

神とならび氏寺のごとく保護された。室町末期の戦乱にまきこ

ほれて堂坊の多くを焼失したが、江戸時代になり、一六三六年

(寛永十三年)永弁·秀融夫が 堂坊の再興にあたり旧観をや

や回復した。明治維新後、寺運の衰えたこともあったが,昭和

六年、明恵上人七百年御遠忌記念として、茶祖上人の茶恩に報

い、その遺香を後世に伝えるため全国の茶道家の懇志を集めて

茶室遺香庵が建てられた。また、昭和三十四年には、国宝や重

要文化財、史学上の文献等の永久保存のために収蔵庫が建設さ

れ、昭和三十六年には、菩提心の勧発の拠り所として、開山堂

横に聖観世音菩薩像が安置された。昭和五十六年の七百五十年

御遠忌には、春日明神社が篤志家により金堂横に復興された。


石水院

 国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜わった建物で、上人時

代の唯一の遺構である。金堂の東の位置にあったものを、明治二十二年

現在地に移した。簡素な中に優雅さを保ち、きわめて機能的な構造をも

っており、生活の知恵の結晶ともいえる住宅建築の傑作である。「阿留

辺幾夜宇和」の厳しくも合理的な精神が今もなおうかがわれる。南面長

押の上に後鳥羽院の勅額「日出先照高山之寺」、西面に鉄斎の額「石水

院」が掛けてある。

国宝および重要文化財

 当山は古くからの文化財の宝庫といわれ、鎌倉時代き中心として国宝·重要文

化財は一万点余にもおよぶ。著名なものを次に掲げる。

 建築―石水院(国宝、鎌倉時代)

 彫刻―薬師如来坐像(奈良時代乾漆仏) 、明恵上人坐像、白光神像、善妙神

像、神鹿一対、狗児、狛犬四対

 絵画―仏眼仏母像(国宝、鎌倉時代)、明恵上人樹上坐禅像(国宝、鎌倉時

代) 、鳥獣人物戯画四巻(国宝、鎌倉時代)、華厳宗祖師絵伝六查国

宝、鎌倉時代)、将軍塚絵巻1巻

 その他、古経典、古文書、墨蹟、器物、版木などの優品が現存している。

茶の本園

 古くから明恵上人は茶祖、栂尾山は茶の発祥地といわれている。鎌倉初期、

栄西禅師が宋に渡り養生の仙薬、延命の妙術としてこれを広めようと茶種を持

って帰国しこれを明恵上人に贈られた。上人は、栂尾の深瀬三本木にこれき植

え、宇治(跡影園)その他の地にも広く移し植えられた。鎌倉時代、室町時代

を通じて栂尾は茶の本園、その茶は本茶といわれ、天皇への献茶も毎年行なわ

れた。宇治の茶業家は古くから毎年自家製の新茶を上人の廟前に献供(十一月

八日)するのを例として今日に至っている。いわゆるモデル茶園として、宇治

の篤志家により栂尾茶園の維持管理がなされている。

兄弟教会の約束

 一九八六年十月二十六日、アッシジの聖フランシスコ教会と

高山寺が、教皇ヨハネ·パウロ二世の祝福を受け、兄弟教会の

約束をした。同時代に同じような信条を持った偉大な人物が出

現することは歴史の秘密とされているが、明恵上人(一一七三~

一二三二)と聖フランシスコ ( 一 一八一~一二二六)は十二

世紀に同じく生を受け、共に清貧一途の生涯を送ったことで知

られている。その勝縁により世界で初めて異宗教間の兄弟教会

の約束が結ばれ、相提携して世界平和のために両聖人の遺徳を

内外に広く宣揚し顕彰することとなった。ちなみに明恵上人の

「樹上坐禅像」には小鳥やリスが描かれ、聖フランシスコの「小

鳥に説法」と相似して両聖人の慈悲心が象徴されている。


明恵上人御歌

〇あかあかやあかあかあかやあかあかや

    あかあかあかやあかあかや月

〇山のはにわれも入りなむ月も入れ

    夜な夜なごとにまた友とせむ




神護寺 拝観の手引き

文覚上人の再興

 平安時代に二度の災害のため、堂塔のほとんどを焼失しましたが

一世の豪僧、文覚上人がその荒廃をなげいて、寿永三年(一 一八四)

後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって往年以上の復興をみ

ました。

現在の盛観

 応仁の乱では再び兵火をうけ、焼失しましたが、元和九年(一六

二三)龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって楼門、金堂(い

まの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、近くは去る昭和十年山口玄洞

居士の寄進で、昭和の名作といわれる金堂、多宝塔などが新築されて、

今日の美観を整えております。

当山の宝物

 その始まりと、中興の歴史が示しておりますように、寺宝には,

平安時代前期(約一一00年前)と鎌倉時代(七・八00年前)

の二期にわたるものが大部分であり、しかも芸術的価値においては

第一級品に目されるものを数多く所蔵しておりまして、国宝一七点.

重要文化財二、八三三点があります。

これらの主要なものを 毎年五月初旬の「宝物虫払い」行事には、

順次展観いたします。

弘法大師の宗教

 堕落した奈良仏教にあきたらず、入唐求法によって弘法大師が

請来,開宗された真言宗は、従来の仏教、すなわち顕教からは

秘密仏教(密教)といわれますが、この真言密教の旨といたしま

すところは、「真言陀羅尼には神秘の力があり、その一字一句には

百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修すること

によって、災を退け、福を招くことなどができるし、凡夫の身で

もすみやかに仏になることができる」と、現世において利益をう

けることができることを説いているものであります。

 平安時代には、当時の権力者であった朝廷や公卿·貴族の信仰

が厚かったため、世に貴族仏教のように言われておりますが、そ

の本旨とするところはすべての人びとに通じる、最も普遍的な教

義であります。

神護寺重宝もくろく(抄)

国宝

金堂本尊木造薬師如来

多宝塔安置木造五大虚空蔵菩薩

紫綾金銀泥絵両界曼荼羅

絹本著色釈迦如来画像

絹本著色源頼朝外二人肖像画

絹本著色山水図六曲屏風

潅頂暦名(弘法大師筆)

文覚上人四十五箇条起請文

銅鐘儲藤原敏行筆)

■重要文化財

大師堂

日光月光菩薩像

乾漆造 薬師如来坐像

板彫弘法大師像

木造 毘沙門天立像

木造 愛染明王像

尊勝曼荼羅

絹本著色 十二天画像

絹本著色 真言八祖像

絹本著色真済上人画像

絹本著色足利義持画像

神護寺絵図一舗

神護寺々領絵図 四舗

高山寺絵図一舗

紺紙金泥一切経二二七三巻

付経帙ニ○二枚

経箱 四四合

後字多法皇宸翰寄進状一巻

二荒山碑文一巻

文覚上人書状案 一巻

神護寺略記一巻

神護寺文書 二七四通






吉峯寺 拝観の手引き

 当山は、平安中期の長元2年(1029)、源算上人によって開かれた源算上

人は、『往生要集』を著した恵心僧都(源信)の高弟で、因幡国(鳥取県に生ま

れ、比叡山横川で顕密の蘊奥(うんのう)を究め、47歳の時、当山に入られ小堂を結び、

十一面千手観世音菩薩像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。長元7年9月

には、後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、善峯寺の寺号を賜った。

御詠歌は

 "野をもすぎ 山路にもむく 雨の空 よし峯よりも 晴るる夕立ち”


 以来、歴朝の御崇敬篤く、長久3年(1042),後朱雀天皇の時に、洛東鷲尾

寺の仁弘法師作·十一面千手観世音菩薩像を当山に遷して本尊とし、先の

観音像を脇立とされた。そして、白河天皇によって諸堂が建立された。

 鎌倉時代には、『愚管抄」を著した慈円大僧正や、浄土宗西山派の祖·証

空上人が当寺の住職を勤められた。また、京都青蓮院門跡の宮様(覚快、道

覚、慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寳、各法親王)が代々当寺の住

職を勤めたため、西山宮門跡と称された。

応仁の乱の兵火は免れず、焦土と化した。
 その後、江戸時代に、徳川5代将軍綱吉の生母·桂昌院が当山を復旧され

200石及び山林425,000坪を寺領として、明治に至った。

 室町時代には、後花園天皇が伽藍を改築され、僧坊52の多きに及んだが、 

 重要文化財として、多宝塔(江戸時代)、大元帥明王軸(鎌倉時代)。
その他文化財多数あり。
 








観音寺 拝観の手引き

 此の寺は今より千三百年前,天武天皇の勅願により義淵僧正が開基され、次いで聖武天皇御願に

より良弁僧正が伽藍を増築した寺であります。良弁僧正の高弟で、有名な奈良のお水取りを初められ

た実忠和尚を第一世とします。法相三論華厳等を兼学し、世の尊信を集め、息長山普賢教法寺と称し

て、その盛んなを見た人は筒城の大寺と申しました。

 御本尊十一面観世音菩薩はこの普賢教法寺の御本尊で、古記録によりますと天平十六年(七四四)

安置されたものであります。天下泰平と国民豊楽の祈願をこめられた御霊像で、その後千二百余年の

間、世の変遷につつがなくいまし、今にその御霊徳をおわかち下さって居るのであります。この十一

面観音様は四種功徳、十種勝利と申しまして、我々の苦難をお救い下さる観音様のうちでも、特にす

ぐれた御利益がお経にとかれて居ます。要約致しますと、常に我々と共にあって、無病息災に、不時

の災難をのがれさせ、種々の祈願を成就せしめるとの御誓願であります。

 本日御参詣の皆様、我が国有数の天平仏として拝がまれます前に、静かに古人の願に想を致し御本

尊の麗容からする無限の光に浴され、皆様のお 心深く御誓願をおうけ下さい。

 今や往時を偲ぶ何物も残って居ません。数々の地名に寺ゆかりの名を残し、古塔の跡には僅

かに数個の礎石を残すのみであります。しかし古図によりますと諸堂十三、僧坊二十余を数え

ます。所領も近隣はもとより、河内交野に迄及んだ様であります。これら結構な建物も永亨九

年(一四三七)冬の火事に殆ど失われた様です。それ迄は度々の火災にも延暦十三年(七九四)

の時は藤原良房公を本願とし、治承11年(11七八)の時は普賢寺関白基通公により、弘安11

年(一二七九)の時は高山寺関白家基公により再建されました。このように藤原氏の外護を受

けましたのは、当寺が藤原氏の氏寺興福寺の別院であったからでもありましょう。この藤原氏

の外護を離れてからは当地方の古刹として小さ い乍ら尊厳を保ち続けて来たのであります。

 古く仁徳天皇の頃に開けた土地、大らかな天平の名残りをとどむる古刹、近くには一休寺

蟹満寺等もあります。1日の御参詣は、きっと皆様に満ちたりたものを与える事でしょう。再

度の御参詣をお待ちします。 






宇治上神社 拝観の手引き

【創建】

神社としての創建年代は不詳である。

現在の宇治上、宇治神社を合わせて、平安時代には、宇治鎮守明神、

離宮明神、離宮社とも称され、拝殿に収める江戸時代の棟札には、応

神天皇を祀る故か離宮八幡とも称されていた。

「離宮」の名を冠されるについては、平安時代初期、天皇の離宮「宇

治院」の鎮守社として祀られていた事からか,或は、又より古い時代

の菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」のあったところから由来するのか

も知れない。

離宮社として文献上正確な記録の上に初めて現われるのは、治暦三年

一0六七)後冷泉天皇、平等院より神社に行幸の後、離宮明神に神

位を授けたとあることである。

藤原氏が平等院を建立の後、その鎮守社として崇敬の実が大いに加わ

り?隆盛を極めてゆくのである。

五月に斎行される祭は「離宮祭」と称され藤原氏から幣帛、神馬乘

尻を奉り、宇治辺の村々からは田楽、散楽が奉仕され、競馬十番が行

なわれ見物の雑人、群集し喧躁を極めたことが「中右記」(藤原宗忠

の日記)に詳しく記されている。

いづれも平等院と密接な関係において現われ、宇治の地が鳳凰堂完成

の後賑いを極めるようになり、祭儀が整えられ、現在の本殿三社が建

築されたものと思われる。

《蟇股》

 本殿、左右両殿の正面頭貫上にある蟇股は、奈良

時代の板蟇股、いわゆる棟木や天井桁をうける構

造材としてでなく、その輪郭を残し中を刳り抜い

た様に、小木片を二つ合わせ造ったもので、もは

や荷重に耐える力はなく、構造上には役に立たず、

斗拱において装飾用として用いられるに至った。

刳抜式蟇股の発生を示す重要な実例であり、京都

醍醐寺薬師堂、平泉中尊寺金色堂と共に藤原時代

の三名蟇股と称せられる。


《扉絵》 高さ約95 cm 幅約50 cm

 本殿、左右両殿の内陣扉に各1対計四面の絵が描

かれている。

左殿には翳をもつ唐装の童形像が現される。

背面に立て廻された屏風には、松林と流水を配し

た装飾画が描かれ、当時の優雅な調度装飾を偲ば

せるものがある。右殿には束帯姿に笏を持つ隨身

の姿が現わされる。いづれも本殿内部の主神を守

護する為に描かれたもので、大和絵の人物を主題

とした稀有の作品であり、社殿建立時の作風と考

えられる。

【祭神譚】

祭神

中殿 応神天皇(父君)

左殴 菟道稚郎代(弟君)

右殿 仁徳天皇(兄君)

応神天皇の末の皇子、 菟道稚郎子は幼くして学を好み博く典籍に

られ 明徳なるを以って天皇素より愛され遂に立てて皇太子とされた

が..天皇崩ずるに及び、太子義を重んじ敢て位につかれず、兄君:

(後、仁徳天皇)に位を譲り、、宇治の地に離宮を建てられ遜れ

られた。しかし兄君も「皇位のことは先帝の定め給うところ、今如何

に軽々しく之を変える事得んや、且弟の命衆望あり速かに位につかる

べし」と、為に御兄弟位を譲り合うこと三年,人民惑い、天下大いに

乱れた2を憂いて弟君「久しく生きて天Fを煩らわさむ」と、自ら

命を絶たれ、兄君を皇位に即かせられた。

時に大鷑鷯尊,菟道稚郎子薨じ給うを開いて、驚き雞波より馳せ

逍の宮に致り手厚く葬むられたのである。

これが後お社が創建される濫觴である。






文楽 二月堂の段より 石山寺建立の謂れ
及び良弁杉

《二月堂の段》

 大聖人として世に聞こえも高い東大寺の良弁僧正は、

二月堂に礼拝するのが日課となっています。今日も礼拝

を済ませると、二月堂の前に聳える杉の大木の前に佇み

我が身の上に想いを馳せるのでした。良弁は幼いころ鷲

にさらわれ、この杉の梢に引っかかっているところを当

時の僧正に救われたのでした。師の恩に感謝するにつけ

ても、まだ見ぬ父母のことが偲ばれ涙を流すのでした。

 ふと傍らの木の幹を見ると、何かをしたためた紙が貼

られています。良弁は紙を貼ったのは何者かと、近習に

辺りを探させました。すると、みすぼらしい姿の老女が

一人いました。我が身の上に近い内容の文面を読んだ良

弁は、老女に身の上を尋ねます。老女は、自分は官家の

旧臣水無瀬左近の妻渚の方であること、亡き夫の忘れ形

見の息子を鷲にさらわれ、三十年間探しさまよっている

ことを詳しく語ります。話を聞き、他人事に思えない良

弁は涙を流します。そして老女に、その子に後の証拠と

なるようなものを付けておかなかったかと尋ねます。渚

の方は如意輪観音像をおさめた守り袋を光丸に持たせて

いたことを思い出し、それを聞いた僧正が、この品では

ないかと錦の守り袋を取り出します。それは、光丸の衣

にさげていた守り袋に間違いありませんでした。二人は

三十年ぶりの再会を喜び、人目も憚らず泣くのでした。

 良弁僧正は、志賀の里に寺を建て、この如意輪観音像

を納めることにします。渚の方は故郷へ帰って尼となり、

夫の菩提を弔うことにしました。僧正はせめてしばらく

の間だけでも孝行をしたいと、母を自らの輿に乗せ二月

堂を後にするのでした。


 思はず知らず僧正も、御手を取って縋り付き嘆

 き給へば

 渚の方、人目も恥ぢず抱だき付き、喰ひしばり

 てぞ、泣き給ふ

 僧正母の御手を取り、頭に戴き御背を撫で

 もったいなや冥加なや、長の年月我ゆ

 ゑに御身を苦しめ奉り、故郷の空の御住居も

 迷ひ出でさせ津々浦々、乞食非人となり給ひ、

 人の軒端や野に山にさ迷ひ給ふ夢にだに、知

 らぬこととはいひながら、現在母は物貰ひ、

 子は僧正の聖のと人に傅き敬はれ、網代の輿

 よ緋の衣,錦の袈裟を身にまとひ、これが大

 寺の権者のと、いはれうものか浅ましや。如

 来のお目に見給はゞ、野末の庵の痩せ法師,

 軒端の非人法師にも、劣るといふはまだなこ

 と。鳥獣に劣りたる不孝の罪は幾重にも御赦

 しあれ」

 と大僧正両手を土につけ給へば

 共に付き添ふ人々も敬ひきやうじ奉る

 僧正重ねて

 「母の慈悲にて我が生国たゞいま知れる上か

 らは、江州志賀に一宇を建て、ありがたき尊

 像を大像如意輪観音の、御腹中に納め奉らん。

 ガ今日親子対面は、私ならぬ仏の導き、 仏の

 誓ひと母の恩、重きを以て、石山寺と号くべ

 と仰せは今に近江路や夢あらたの御寺はこの

 僧正の建立なり

石山寺⇒⇒⇒
東大寺⇒⇒⇒
如意輪観音⇒⇒


 







式内社

 旧暦の仲春(二月)四日に、宮中の神祇官で行

なわれた律令国家最大の祭祀、祈年祭に際し、

国家から全国各地の三一三二座におよぶ神々に

幣帛(へいはく)を奉った。後にふれる祈年祭の祝詞では

より具体的に皇御孫命(すめみまのみこと・歴代の天皇)が
全国津々
浦々の神々に奉幣すると表現していて
、注目さ
れる。

 神々は「~ 柱」「~座」と数える。日本の基層

信仰では、神々は巨木のみならず小枝にも降臨

すると観念されているので「~柱」。また祠に

納められた形代(かたしろ・鏡や石など)にも、神は依りつ

くとされるから「~座」。大半の神社の祭神は

一座であるが、なかには数座の神を祀る大社もある。

 一0世紀前半に編纂された『延喜式』は、律

令や格の施行細則である式をまとめた法令書。

その巻九·十に、祈年祭に際して、神祇官から

奉幣する全国の神――具体的にはその神を祀る

神社 が列挙されている。その神社のリスト

というべきものを、一般に神名帳と呼び慣わ

している。「延喜式』の神名帳に登載された神

社を、延喜式内社あるいは単に式内社という。

 神名帳は一0世紀前半の式内社の状況を伝え

るが、そうした状況はさらに古く遡る可能性が大きい。

例えば天平五年(七三三)の「出雲の国風

土記」にみえる官剺総数と、延喜式神名帳の

それは、ほぼ同数である。したがって全国各地

の式内社の大半は、奈良時代前半にはすでに鎮

座していたとみてよい。

 祈年祭の和訓は「トシコヒノマツリ」。その

年の穀物の稔り、とりわけ稲の豊作を祈る祭り

であり、さらに皇室の安泰や国土の繁栄をも祈

った。「年中行事秘抄」に引く「官史記」によれば、

祈年祭は天武四年(六七五)二月に開始されたと

いう。同年四月から龍田風神祭や広瀬大忌祭も

開始されており(『日本書紀』)、祈年祭祝詞の詞

章からみても、そのように判断できる。祈年祭

を頂点とする律令国家祭祀は天武天皇が
天武二年二月に即位
して間もない同四年二月
から開
始されたのである。なお龍田風神祭は、
龍田大社(奈良県生駒郡
三郷町)で行なわれる
風害除去
の祭り。
広瀬大忌祭は、広瀬神
社(奈良県北葛城郡河合町)
で行な
われる穀物の豊穣を祈願する祭りである。

「延喜式」巻九の神名式の冒頭総記とでも言うべき
部分に、次
の記載がある。

 天神地祇惣三千一百卅二座

  社二千八百六十一處

  前二百七十一座

 大四百九十二座

  三百四座[並びに祈年·月次·新嘗等の祭の案

  上官幣に預かる。なかんずく七十一座、相嘗

  祭に預かる。)

  一百八十八座【並びに祈年の国幣に預かる】

 小二千六百四十座

  四百卅三座[並びに祈年の案下官幣に預かる〕

  二千二百七座〔並びに祈年の国幣に預かる]


 神名帳にみえる神々について、アマツカミ

(天神)とクニツカミ(地祇)の区別はみえないが

祈年祭に際し神祇官から奉幣する神々は全国で

三一三二座におよぶ。「社二千八百六十一處」は

奉幣を受ける神社の総数。二座以上の神を祀る

神社もあるので、例えば三座を祀る神社であれ

ば、「一社一座」と「前二座」として数えられて

いる。したがって天神地祇惣三一三二座は、社

二八六一處と前二七一座を加えた数となってい

る。

その後の式内社

 律令国家体制の衰退とともに、祈年祭も次第

に形骸化するようになり、神祇官の内部で行な

われる祭祀となった。案上官幣・案下官幣を受

ける大社,小社の神主·祝部らが神祇官に参会

しなかったり、官人らの懈怠(けたい)が顕著と
なったか
らである。
祈年祭については(延喜式)に詳し

い施行細則がみえているが、当時、すでに律令

制は変容しつつあり、細則がそのまま運用され

ていたわけではない。平安中期以降、祈年祭は

天皇が天照大神に奉幣する祭祀としての色彩を

帯びるようになり、変質していった。

 古代の神社(弐内社)には、その地域に住む氏

族の祖神(氏神)や土地の神(地主神)が祀られてい

たから、人々が個人的な祈願をすることはなかっ

た。中世になると神仏習合の色合いが濃くなり、

現世利益的な個人祈願が信仰の中核となってゆく。

そうしたなかで八幡·熊野·天神などの霊威ある

神々が各地に勧請されるようになり、式内社であ

った神社も社名を改称するようになった。そして

いつしか、式内社であったことが記憶されなくな

り、式内社の所在地が不明に帰したのである。

宮中で行なわれていた祈年祭も、室町後期にな

ると戦乱のため、他の宮中祭祀と同様、断絶し

た。

 慶応三年(一八六八)十二月九日,王政復古の

大号令のもと、幕府と摂関の廃絶、三職(総裁

議定·参与)の創設、神武創業への復古、開化政

策の採用などが宣言された。明治元年(一八六

八)閏四月に施行された太政官制は、明治二年

七月の職員令制定により二官(太政官·神祇官)六

省に改正され、古代の大宝令制と同じく太政官

と神祇官が設置された。

 明治四年五月十四日、神祇官のもとで神社の

社格が決定された。神社の社格を大きく官社と

諸社に分類し、九七社を官社に列格した。官社

には、官幣(神祇官から奉幣する)の大·中·小社と

国幣(地方官から奉幣する)の大·中·小社があり

官幣·国幣の名称は『延喜式』に基づく。また

諸社には、府社・藩社・県社・郷社が置かれた。

神祇官では、伝統的な神社祭祀に加えて、新た

に皇霊祭祀や大教宣布(「惟神之大道・かんなが
らおおみち」を国民に教
化すること)をも所掌する
ようになり、政治と密
接な関わりを生じるように
なったため、明治四
年八月の官制改革で太政官
所属の神祇省とされ
た。







大社と小社

 式内社は大社と小社に区別される。大社のう

ち三0四座は、祈年祭のみならず六月、十二月

の目次祭や十一月の新嘗祭にも、神祇官の斎庭

に置かれた案(小机)の上に幣物が並べられた

(案上あんじょう官幣という)。したがって大社の神主や祝(はふり)

らは、祈年祭に際して神祇官に出頭し、案の上

に置かれた幣物を受け取った。一方、小社のう

ち四三三座については、神祇官の庭で案の下に

幣物が並べられた(案下あんげ宣幣という)。

 このように祈年祭に際し、神祇官から案上官

幣・案下官幣を奉る神社を官幣社という。一方、

各国の国衙(こくが)において、国司から幣物を奉る神社

を国幣社と称する。したがって七三七座官幣

を、二三九五座は国幣を受けたことになる。

 総記の記載では、案上官幣と率嘉につい

て、右のことが判明するにすぎない。「延喜式

巻一の四時祭(上)には、祈年祭の当日、神祇

官の庭で案上官幣を受ける神三〇四座と案下官

幣を受ける神四三三座の内訳が記されており、

神名帳と照合すると、まことに重要な事実が浮

かび上がる。

  宮中・・・ 大社三0座 小社六座

  京中・・・ 大社三座

  山城国・・・大社五三座 小社六九座

  大和国・・・大社一二八座  小社一五八座

  河内国・・・大社二三座 小社九○座

  和泉国・・・大社一座 小社六一座

  摂津国・・・大社二六座 小社四九座

 小計 大社二六四座 小社四三三座


 宮中・京中と五畿内
(山城·大和·河内·和泉.摂津国)の
大社二六四
座は全て案上官幣であり、右の三○四座の内

に含まれる。一方、小社の総数四三三座は、案下官幣の
四三三座と
一致する。どういうことかと言うと、宮中と

五畿内の小社四三三座は全て案下官幣であって、七道諸国
の小社は
含まれない。天武四年に祈年祭が律令国家最大

の祭祀として開始されたが、神マツリの体系における畿内の
優位性は際立っていたとみてよい。

とりわけ大和の大社一二八座は群を抜いて多く諸国第一位
である。




八阪神社 由緒

創祀

 当社は慶応四年(一八六八)五月三十日付の神祇官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社

と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇11年(六五六)に高麗より来朝した使節の伊利之が,新

羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。

 また、一説には貞観十八年(八七六)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、 その年六月十四日

に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。

 伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨に降られたことは,ともに「日

本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡來人「八坂造」について、その祖を「狛

国人、之留川麻之意利佐lと記してある。この「伊利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられてい

る, 伊利之の子孫は、代々八坂造となるとともに 日置造 ·鳥井宿祢.栄井宿祢,吉井宿祢祖造·日置倉人

などとして近畿地方に繁栄した。

 天長六年(八二九)紀百継は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の

まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を承継したといわれ、その

後裔である行円は、永保元年(一0七四)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による

世襲の廃止まで続いた。

朝野の崇敬

 元慶元年(八七七)疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。そのため各社に祈り奉幣

が行われたが、一向に治まらなかった。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣祈った

ところ疫病の流行が止んだ。これが祇園社の発展の契機となり、僅か二年後の元慶三年(八七九)には陽成天

皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、また同地の材木商人三百六十人は神人に補せられ、経済的基

盤が早くも確立した。

 また、藤原氏の崇敬もあつく基経(昭宣公)は、その邸宅を寄進、感神院の精舎としたと伝わるし、道長もたびた
び参詣した。藤原氏全盛時代の中心人物の崇敬は、当社の地位が次第に高まることにむすびついた。

 円融天皇は、天延三年(九七五)六月十五日に走馬·勅楽·御幣を奉られ、これ以後、祇園臨時祭が六月十

五日に継続執行されるようになったと考えられている。

 そして、長徳元年(九九五)には、王城鎮護の社として尊崇された二十一社のうちの一社となり(のち二十

二社)、延久四年(一0七二)三月二十四日には後三条天皇が行幸された。当社への天皇行幸の最初であり、

以後、天皇,上皇の行幸·御幸はたびたびあった。

 いっぽう武家の崇敬もあつく、平清盛の田楽奉納、源頼朝の狛犬奉納、また足利将軍家も社領の寄進·修造

を行うとともに社務執行は将軍家代々の祈祷もつとめた。豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し、焼失して

いた大塔を再建するとともに、1万石を寄進し戦国期に荒廃した当社の再興が進んだ。江戸時代には徳川家も

当社をあつく信仰し、家康は社領を寄進、家綱は現存する社殿を造営、数多くの神宝類も寄進した。

 明治四年(一八七二)に官幣中社に列格、大正四年(一九一五)には官幣大社に昇格した。


和歌神

 「古事記」には素戔嗚尊が櫛稲田姫命と結婚の折、ようやく落ち着かれた心を「我が心すがすがし」といわ

れ、その後に、「八雲たつ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」と詠まれたことが記されて

いる

 この歌はわが国最初の三十一文字の和歌とされており、紀貫之は「古今和歌集」仮名序にちはやぶる神世には

すさのをの命よりぞ歌の文字も定まらず三十文字あまり一文字はよみける言の心わきがたかりけらし

と記し、歌人たちは素戔鳴券を歌聖と仰ぎ、当社には多くの和歌が奉納された。

有名なものとしては、元久元年(一二0四)に藤原俊成が奉納のために詠んだ 「祇園百首」がある。

 また、祇園の神の託宣歌としては、鎌倉時代後期の勅撰歌『「玉葉和歌集』に、「わが宿に 千もとの桜花

さかばうゑおく人の 身もさかヘなむ」、鎌倉時代の仏教説話集『撰集抄i』の「祇園示現」の項に、「ながき

世の くるしき事を 思へかし仮のやどりを なになげくらん」がある。


御神木

 『日本書紀』神代巻には「一書に曰く。素戔嗚尊曰くo 。・・・. .

(中略)・・・

及ち鬚髯を抜きて之を散つ。即ち杉に成る云々。」とあり

素戔嗚尊の鬚が杉になったことが記されている。また、先の『祇園百首』の中には「あふ

さかの、杉より椙に かすみけり 祇園精舎の 春のあけぼの」、さらに「梁塵秘抄』には「祇園精舎のうしろ

には よもよも知られぬ杉立てり昔より山の根なれば生ひたるか、杉神のしるしと見せんとて」とあり、

当社は杉の木との関わりが深い。元徳三年(一三三こに描かれた社蔵の重要文化財「元徳絵図』(巻頭)には

本殿の後方に杉の大木が描かれており,江戸時代の「祇園社年中行事」また諸地誌には、杉葉をお守りとして

授与していたことも記されている。


御旅所

 四条御旅所 西御殿(素戔嗚尊·櫛稲田姫命)東御殿(八柱御子神)

   祇園祭中の七月十七日から二十四日迄の間、八坂神社の神輿三基が奉安される場所。
   天正十九年(一五九二)に豊臣秀吉が大政所御旅所と少将井御旅所を統合移設したのが現在の御旅所。
   四条寺町にある。

大政所御旅所旧跡

   四条寺町に御旅所が移設される以前、大政所(素戔鳴尊) ·八王子(八柱御子神)神輿を奉安した御旅所。
   現
在は七月二十四日の神輿還幸の途次、かつての由緒にもとづき神輿を一時奉安し、拝礼する。

少将井御旅所旧跡

   四条寺町に御旅所が移設される以前、少将井神輿(櫛稲田姫命)を奉安した御旅所。かつては現在の
   車屋町
通夷川上ル少将井町,少将井御旅町辺りにあった。現在は、小祠が京都御苑内宗像神社境内に
   祀られている。

神事·行事

をけら詣り

 十二月二十八日の午前四時、本殿御神前にて白朮祭に用いる浄火を鑽り出す。白朮祭は元旦の午前五時
 に斎
行される新年最初の祭典であり、折敷十三膳(祭神座数分)に削掛(桧箸を作るときに生ずる削屑)と乾燥さ

 せた白朮の根を混合して盛り、それに浄火を点じ本殿正面から境内に向け撤する。かつてはこの火を火縄(竹

 繊維を編んだ縄)に受け、火が消えないようにくるくると回しながら持ち帰り、その浄火をもって1年の種火

 を新年の種火に改めた。

  近年では、大晦日の午後七時に斎行される除夜祭の後、境内二箇所に設けられた白朮灯籠にあらかじめ
 氏子
中に頒布した白朮木(祈願札)と白朮をくべ、夜を徹して焚き上げる。参拝者がこの火を火縄に受けて持
 ち帰
る風景は、京都の大晦日から元旦にかけての風物詩となっている。

  なお、白朮とはキク科の多年草でその乾燥させた地下茎を焚くと、その強い匂いで邪気を祓うとされる。

祇園祭

 延暦十三年(七九四)桓武天皇は都を山背(山城)に遷し「平安京」と名づけ、この都は以後千余年にわたっ

て日本の中心となった。都では疫病の発生がたびたびで、当時の人々はその原因高霊の仕業と考えた。御霊

とは無実の罪により処刑されたり、政治的に失脚した人々の怨霊、また疫病をおこす疫神など様々にとらえら

れていた。そして、その慰撫鎮霊の行事が都の近郊各地で執り行われた「御霊会」であり、祇園御霊会もその

一つであった。

 祇園御霊会の始まりは貞観年中(九世紀後半)とされ、十世紀後半には六月七日の神輿迎え、十四日の御霊

会、十五日の臨時祭という祭儀が定まったと考えられている。祇園御霊会は時代と共に盛衰を繰り返したが、

特に応仁の乱(一四六七~,一四七七)では、それまで五十八基あった山鉾のほとんどが被害を受け、神輿の巡

行も途絶えて、祭そのものも一時中絶した。

 明応九年(一五00)には再興、以後様々な困難を克服し現在に至るが、明治時代になり太陽暦が採用され

ると、幾度かの変更を経て、かつての六月七日の前祭は七月十七日に、十四日の後祭は二十四日に各々行われ

ることとなった。

(九基)

長刀鉾·函谷鉾·鶏鉾·菊水鉾·月鉾,放下鉾·船鉾.綾傘鉾·四条傘鉾

(二十三基)

岩戸由,保昌山·孟宗山,占出山·山伏山·霰天神山·郭巨山,伯牙山·芦刈山·油天神山·木賊山.太子山

白楽天山,蟷螂山,北観音山.南観音山.橋弁慶山,鯉山·浄妙山、黒主山·役行者山·鈴鹿山·八幡山


主な建物

本殿 正保三年(一六四六)に焼失し、承応三年(一六五四)に再建された。

 独立した本殿と拝殿をさらに大屋根で覆った形で、祇園造と称する。神社本殿建築としては最大規模であり、
 重要文化財に指定されている。

 平成十一年三月から十四年三月にかけて屋根の桧皮葺替え、内外塗装の塗替え等の修理工事を実施した。

南楼門 八坂神社の正門。慶応二年(一八六六)に焼失し、明治十二年(一八七九)に再建された。

西楼門 四条通に面する。応仁の乱により焼失し、明応六年(一四九七)に再建された。永禄年閥に桧皮葺か

 ら瓦葺に改められた。大正二年に四条通の拡張にともない東に六メートル、北に三メートル移動し,その時に

 左右に翼廊を建て現在の姿となった。(中央の楼門部分は重要文化財に指定されている。)左右に坐す随身像
 は安永三年(一七七四)
の製作。江戸後期の彫刻作品としては、高い写実性をもった優品との評価がある。

 平成十九年二月から十二月にかけて瓦の葺替えや朱の塗替え等の全体修理を実施した。


石鳥居
 正保三年(一六四六)に建立された明神鳥居。寛文二年(一六六二)地震で倒壊、同六年(一六六六)

 補修再建された。重要文化財に指定されている。

常磐殿 元は光照院門跡(常磐御所)の殿舎であり、明治になり尚徳小学校に移築、講堂として使用された。

 後に新町通六角ドルの三井家に、さらに昭和三十一年(一九五六)六月に八坂神社に移築された。




西本願寺 拝観の手引き

 本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山です。正式

には龍谷山本願寺といい、一般には西本願寺とも

呼ばれています。

 浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人(1173~

1263)によって開かれました。

 親鸞聖人は1173 (承安3)年に京都日野の里でお

生まれになり、9歳で青蓮院にて出家得度されま

した。その後、比叡山で学問修行に励まれました

が、29歳の時、師である源空(法然)聖人のお導

きによって阿弥陀如来の本願を信じ「南無阿弥陀

仏」という念仏の教えに帰依する身となられまし

た。35歳の時、念仏弾圧により越後に流罪となった

後、妻の恵信尼さまと共に関東に移って念仏の教

えを弘められ、晩年は京都で『教行信証』等多く

の著述に力を注がれ、1263年1月16日(弘長2年

11月28日に90歳で往生されました。

 親鸞聖人の滅後、娘の覚信尼さまは、聖人の遺

弟たちと共に京都東山大谷に廟堂を建て、聖人の

遺骨と影像を安置しました。やがてこの廟堂が本

願寺となり、宗門の礎となりました。

 その後、中興の祖である第8代宗主蓮如上人

(1415-1499)の時には教線が拡大され、さらに第

11代宗主顕如上人(1543-1592)の時には、本願寺

の寺基が現在の京都堀川六条に定められました。

 境内には、阿弥陀堂、御影堂の両堂をはじめ

唐門や書院、飛雲閣などの国宝や重要文化財がぁ

り、1994(平成6)年12月に「古都京都の文化

として、「世界遺産」に登録されています。

御影堂(ごえいどう)<重要文化財>

 内陣中央に、親鸞聖人の御真影(木像)が安置されている

ことから、御影堂と称します。両脇には本願寺歴代門主

の影像を、両余間には十字名号(帰命尽十方無碍光如来)と

九字名号(南無不可思議光如来)を奉献しています。

 現在の御影堂は、1636(寛永13)年に創建されました。大

きさは、東西48メートル、南北62メートル、高さ29メー

トルで、外陣には441枚の畳を敷き、1,200名を超える人が

度に参拝できます。227本の柱で約11万5千枚の瓦の大

屋根を支えている世界最大級の木造建築物です。

 2011 (平成23)年から修行される親鸞聖人750回大遠忌法

要に向け、1999(平成11)年より10年間にわたる大修復工事

を行いました。


飛雲閣<国宝>

 飛雲閣は、三層柿葺の楼閣建築で、聚楽第の移築と伝え

られる。外観は,唐破風や入母屋など変化に富んだ屋根を

巧みに配し、左右非対称の妙を保つ瀟洒な傑作建築である。



対面所(鴻の間) <国宝>

 二〇三畳の大広間。上下両段に分けられ、その境の欄間
雲中飛鴻の彫刻があるので「鴻の間」ともいう。上段.

上々段の床を設け、違棚·附書院,張台構など華麗重厚な

この書院は、わが国の書院建築を代表する大書院である。

唐門<国宝>

 桃山時代の伏見城の遺構といわれ、豪華な装飾彫刻を

全体に施した四脚門である建築細部にみられる彫刻は

これを丹念に眺めていると、日の暮れるのを忘れるとい

われ、たとえて「日暮門」といわれている。

大谷本廟

 大谷本廟(京都市東山区五条橋東6丁目=五条坂)は、親

鸞聖人のご廟所であり、本願寺発祥の地であるとともに、
全国のご門徒のご遺骨
をお納めするところでもあります。


円山公園の由来

 平安の,今の円山公園一帯は真葛や薄(すずき)などが生い茂り真

葛ヶ原と呼ばれてい扎た。

 鎌倉時代、慈円僧正が「わが恋は松を時雨の染めかねて真

葛ヶ原に風さわぐなり」(新古今集)と詠んだことから一躍、和

歌の名所となり、以来多くの歌にうたわれました。

 江戸時代に入ると安養寺塔頭の六阿弥(左阿弥、也阿弥な

どいずれも何阿弥と称した六坊)が席貸を始め、次第に賑やか

さを増してき扎た。この頃から「慈円山安養寺」の『円山』がこ

の辺りの呼名となったと伝えられています。

 明治19年10月、京都府は円山一帯を公園地に指定し、同22

年12月に市制が施行されると同時に京都府から京都市の管理

に移されました。その後何度か拡張工事を行い、大正2年に平

安神宮神苑をはじめ、無鄰菴、碧雲荘などの名園を創り出した

造園家小川治兵衛の手により、中央に池を配した回遊式日本

庭園に造り変えられたのが現在の円山公園の姿です。

京都市



大覚寺縁起

大覚寺縁起

 大覚寺の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、

真言 宗大覚寺派の本山で、心経写経の根本道場·いけば

な嵯峨御流の総司所でもあります。

 門跡寺院とは、天皇または皇族が住職に就かれた寺院の

ことです。遠く平安の昔、嵯峨天皇の離宮嵯峨院が建立

され、弘法大師(空海)も幾度も立ち寄られました。その

後、嵯峨天皇の皇女正子内親王(淳和天皇皇后)が清和天

皇に上奏して大覚寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂

法親王が初代の住職に就かれました。南北朝時代には南

朝の御所となり、ここで争いに終止符を打つ媾和会議が

開かれました。また、現在では、近畿三十六不動尊霊場

の第十三番札所として、全国各地から参拝者が訪れます。

宸殿

 江戸時代(延宝年間)に後水尾天皇より下賜された寝殿造
りの建物。前庭には
古式正しく「左近の梅、右近の橘」が配

され、部屋の襖には狩野山楽筆の「牡丹図」「紅白梅図」を
はじめ、桃山時代を
代表する金碧画が飾られています。

勅封心経殿

 嵯峨天皇をはじめ、六天皇の写経が奉祀されています。
現在のお堂は、
大正十四年に再建されたものです。

五大堂

 嵯峨天皇が天下泰平穀豊穣を祈念して建てられたもので、
現在のお堂は江
戸時代(天明年間)に再建されました。
五大明王をお
祀りしている心経の本山大覚寺の本堂です。

御影堂(心経前殿)

 嵯峨天皇·後宇多法皇,恒寂法親王·秘鍵大師(弘法大師)

の尊像をお祀りしています。

正寝殿

 十二室もある桃山時代の潛院造りで、各室に狩野山楽、
渡辺始興など日本を代
表する画家たちの絵が飾られてい
ます。上段の間は後
宇多法皇が院政を執られたところで、
僧侶であった法
皇が御冠を傍らに置かれたところから「御冠
の間」と
呼ばれています。

式台玄関

 江戸時代の建造で、関正面を飾る「松ニ山鳥図」
狩野永徳筆とされ、大
きな松に山鳥のつがいが描かれて
います

大沢池(庭湖)

 境内の東に位置し嵯峨天皇の離宮·嵯峨院の庭池で、
周囲·キ
ロの日本最古の庭苑池です。中国の「洞庭湖」

を模して造られたところから庭湖とも呼ばれ、池には天神島、
菊が島
と庭湖石があり、この二島一石の配置は華道

嵯峨御流の基本形に通じています。池の畔には茶室
「望雲亭」、心
経宝塔、石仏、名古曽の滝跡があり国指定の

名勝地になっています。







下鴨神社 歴史他

歴史

原始·古代

●緩靖天皇(BC581年頃)の御世より御生神事が行われたという伝承があります。(社記)

●崇神天皇七年(BC90)に社の瑞垣が造替された、とのご遷宮がはじめられた記録がみえ

  ます。垂仁天皇二十七年(BC2)には御神宝がたてまつられました。(鴨社造営記)

●欽明天皇五年(544)四月から賀茂祭(葵祭)が行われました。(『本朝月令』『年中行事抄』)

奈良時代

●文武天皇二年(698)以降、再々葵祭に大勢の見物人が集まるので警備するよう命令が出さ

  れました。(『続日本記』)

平安時代

●式年遷宮や斎王の制度などが定められました。

●『源氏物語』『枕草子』など王朝文学にしばしば登場します。

●全国に六十余箇所もの荘園、御厨が寄進され神社を支えていました。

鎌倉~戦国

●国民の信仰が神社を支えていくようになり、国家の重要な出来事には必ず祈願が行われました。

江戸時代

●国と国民の幸福を祈願する神社として、幕府より領地が寄せられました。

明治時代S現代

●明治初年、全国の神社の代表として官幣大社の首位に置かれ、今日まで国と国民のための祈願を

  日々行っています。


賀茂御祖神社の名前の由来

古代から、賀茂大神宮(かものおほかみのやしろ)と明治初年、今日の神社の制度が定まるまで公称さ

れ、明治四年(1871)に賀茂御祖神社との名称に定められました。鴨,賀茂とは、神ということ。

御祖とは、親のこと。親神をおまつりしているという意味です。また、鴨川の上流にまつられている

上賀茂神社と下流にまつられている下鴨神社と通称され、鴨社と略称して呼ばれています。


糺の森

鴨川と高野川の合流地にまつられている下鴨神社の社叢で、太古の原生林の植生を残す貴重な森林です。現在の総

面積は十二万四千平米(三万六千坪甲子園球場の約三倍)で、樹齢六百年の巨木が多数生い茂り、国の史跡に指定
されていま
す。数々の社殿とともに世界人類の宝として世界文化遺産に登録されています。


■糺の森の語源

「糺の森」の語源には古来よりいくつかの説があります。

①鴨川J高野川の合流点を「只洲(ただす)」と呼ばれることから。

②清らかな泉が絶えず湧きでる「直澄(ただす)」に由来する

③御祭神の「多多須玉依姫命(ただすたまよりひめのみこと)」のお名前に基づく。

④「神様の前で偽りを糺す」という説。『源氏物語』『枕草子』にその歌が記さ

れている。


賀茂御祖神社の式年遷宮(かもみおやじんじゃ)

当神社は、長元九年(1036)宣旨(せんじ)を賜わり、二十一年ごとに御本宮以下のご社殿を造替する

という国家的事業として制度化されました。現在は、すべての社殿のうち五十五棟が国宝,重要文化財

に指定されているため、大修理をもって遷宮とされています。


○西御本宮(にしのごほんぐう)[国宝]

  賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られています。玉依媛命の父神様です。厄除け·開運の神様です。

○東御本宮(ひがしのごほんぐう)[国宝]

  玉依媛命たまよりひめのみこと)が祀られています。縁結び、安産·子育ての神様です。

○霊璽社(れいじしゃ) [重要文化財]

  印鑑、契約守護の神様で、さまざまな約束事をお守りくださいます。

○叉蔵(あぜくら)[重要文化財]

  当神社に伝わるご神宝が収蔵されています。

○御料屋にりょうや) [重要文化財]

  神饌(しんせん)の盛り付けや準備が行われる建物です。東西に1棟ずつあり、現在東御料屋は祓殿となっています。

○幣殿(へいでん)[重要文化財]

  宮中からの幣帛(へいはく)を奉る社殿です。入母屋造、軒唐破風の檜皮葺です。


言社(にとしゃ)[重要文化財]

  7つのお名前を持つ大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る社です。7つのお名前ごとに社殿をもうけ、
  干支の神としてまつられています。

三言社

○志固男神(しこのおのかみ)を祀り、卯年·酉年生まれの守護

○大己貴神(おおなむちのかみ)を祀り、寅年·戌年生まれの守護

○八千矛神(やちほこのかみ)を祀り、辰年·申年生まれの守護

一言社

〇顕国魂神(うつしくにたまのかみ)を祀り、午年生まれの守護

〇大国魂神(おおくにたまのかみ)を祀り、巳年未年生まれの守護

二言社

〇大物主神(おおものぬしのかみ)を祀り、丑年·亥年生まれの守護

〇大国大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀り、子年生まれの守護


中門(ちゅうもん)[重要文化財]

  御本宮への門で、葵祭などの祭事がおこなわれます。

三井神社(みついじんじゃ)[重要文化財]

  御本宮の西に祀られる摂社で、媛神様とそのご両親の神がまつられる社が東西に並んでいます。

〇四祭神:伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)賀茂建角身命の妻神

〇四祭神:賀茂建角身命

〇四祭神:玉依媛命 賀茂建角身命と伊賀古夜日売命のお子神末社3社が南北に並ぶ

〇諏訪社(すわしゃ) :建御方神(たけみなかたのかみ)を祀り、農耕の神

〇四小杜社にもりしゃ) :水分神(みくまりのかみ)を祀り、水をつかさどる神

〇白髭社(しらひげしゃ) :猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀り、すべての物事を導かれる神様です。

〇大炊殿(おおいどの)【重要文化財]

  神饌の煮焚き、調理を行う台所です。また、庭は双葉葵が自生し、「葵の庭」「カリンの庭」とも呼ばれています。

〇囚印納社(いんのうしゃ)

  古い印鑑をお納めし感謝の誠を捧げる社です。

〇愛宕社稲荷社(おたぎしゃ)(いなりしゃ)

  1棟の社殿に2社が祀られており、もとは賀茂斎院蓹所におまつりされていた社です。

〇供御所(くごしよ)[重要文化財]

  内部は3つの部屋に分かれ、「供御所」「贄殿(にえどの)jf侍所(さむらいどころ)」となっています。

〇出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)[重要文化財]

  御祭神は建速須佐乃男命(たけはやすさのおのみこと)で、開運·厄除けの神様です。通称を比良木社·柊社といい、
  「なんでも柊」は鴨の七不思議の
一つです。

岩本社(いわもとしゃ)

  橋本社と共に和歌の神様として有名で、文芸の上達をお守りくださいます。

〇橋本社(はしもとしゃ)

  岩本社と共に和歌の神様として有名。文芸の上達をお守りくださいます。

神服殿(しんぷくでん)[重要文化財]

  元は神様の御神服を調製する社殿でした。近世は天皇行幸の際の玉座となります。また、
   蓹所が非常の際に臨時の御座所と定められています。

舞殿(まいどの)[重要文化財]

  葵祭には勅使が御祭文を奏上し、歌舞陳游(あずまあそび)」が奉納されます。

橋殿(はしどの)[重要文化財]

  みたらし川にかかる社殿で、その名があります。現在は名月管絃祭や年中祭事の際に芸能などが奉納されます。

細殿(ほそどの)[重要文化財]

  御所の緊急時、御動座される社殿。向拝があり、折り上げ、格天井の様式が保たれています。
  また、東面の御庭は、「桔梗の庭」と言い、神仏に帰依するこ
と、自然を畏敬し御身を自然におくと言う帰敬の意を
  もって「桔梗の庭」とさ
れています。

解除所(げじょのところ)

  みたらし川の清浄域で、葵祭に斎王代御禊にけい)の所としてお祓いが行われます。

直会殿(なおらいでん)

  歴代の天皇御即位の時、大嘗祭の殿舎を紫極(しきょく)(天子の座)として下賜されました。お庭には紫珠が植栽
  されていたので「紫式部の庭」として
再現されています。

楼門(ろうもん)[重要文化財]

  高さが13mあり、左右に延びる廻廊の西側「剣の間」は葵祭のとき、勅使が剣を解かれる間です。

鴨社神舘御所(かもしゃかんだちでしょ)(社務所)

  承和十一年(八四四)十二月二十日、太政官符により古代から領有した地域を鴨社四至と制定せられ、
  その域に所在した蓹所。神舘蓹所は賀茂祭等の
官祭、行幸等の御座所とされました。現在なお、
  行幸御親拝時の御座所、勅使
殿となっています。もとは、境内糺の森西方、鴨川までに所在していました。

鴨社公文所(かもしやくもんじょ)

  宮中及び、山城国をはじめ全国各地に所在する当神社領地の国庁との関連の役所であったところから鴨社政所
  (まんどころ)とも称されていました。ま
た、役所には、当神社の全ての機能を備えた組織が所在していました。

〇相生社(あいおいしゃ)連理の賢木(れんりのさかき)

  神皇産霊神かみむすびのかみ)を御祭神とし、縁結びやさまざまな良縁を授けてくださる神様です

〇鴨河合坐小社宅神社(かものかわあいにますおこそやけのじんじゃ)

  日本国家をたてられた神武天皇の母神玉依姫命を祀り、女性の守護神·美麗の神として崇敬を集めています。
  一般には河合神社と呼ばれています。

〇貴布禰神社(きふねじんじゃ)

  高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、祈雨,止雨に霊験あらたかな神様です

〇任部社(とうべしゃ)

  御祭神の八咫烏命(やたからすのみこと)は賀茂建角身命の化身の神様です。

  また、「けまり」やサッカーの神様として知られています。
  八咫烏⇒⇒⇒

〇諏訪社(すわしゃ)
  御祭神の建御方神(たけみなかたのかみ)は、勇猛果敢な神様。
勇気と力を与えてくださいます。

〇衢社(みちしゃ)

  交通安全·旅行安全などをお守りくださるハ衢毘古神(やちまたひこのかみ)とハ衢比賣神(やちまたひめのかみ)が祀られている
  導きの神のお社です。

〇稲荷社(いなりしゃ)

  衣·食·住をお守りくださり、商売繁盛のご利益で有名な宇迦之御魂神(5かのみたまのかみ)をお祀りしています。

〇竈神(かまどのかみ)

  御祭神は奥津日子神(おくっひこのかみ)、奥津比賣神(おくつひめのかみ)。

〇竈(台所)をお守りくださる神様です

〇印社(いんしゃ)

  霊璽(れいじ)をおまつりするお社。

  印鑑守護、さまざまな約束事をお守りくださる神様です。

〇由木社(ゆきしゃ)

  あらゆる病を治してくださる病気平癒の神様、少彦名命(すくなひこなのみこと)をお祀りしています。

〇三井社(みついしや)

  玉依媛賣命、賀茂建角身命、伊賀古夜日賣命を祀り、家族の平安守護の神様です。三塚社とも呼ばれています。

〇井上社(いのうえしゃ)
  人々の罪穢れを祓い、心身を清浄にしてくださる神様です。

  蓹祭神·瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)。

〇御蔭神社(みかげじんじゃ)

  蓹本宮の神様、賀茂建角身命と玉依媛命の荒魂(あらみたま)が祀られています。






京都三大狂言演目

演目一覧

1·嵯峨釈迦堂

土蜘蛛 羅生門 大江山 熊坂 橋弁慶 舟弁慶 大仏供養 道成寺 紅葉狩り

夜討ち蘇我 百萬花盗人 愛宕詣 釈迦如来 とろろ 縛り坊主 大黒狩り 大原女

蟹殿 餓鬼相撲(20演目)


2·壬生寺

愛宕詣り 安達ケ原 大江山 大原女 桶取 餓鬼相撲 蟹殿 熊坂 賽の河原

酒蔵金蔵 節分 大仏供養 大黒狩 玉藻前 土蜘蛛 道成寺 ぬえ 橋弁慶 花折

花盗人 舟弁慶 ほうらく割 堀川御所 本能寺 棒振 紅葉狩り 山端とろろ 湯立

夜討蘇我 羅生門(30演目)


3·千本えんま堂

えんま庁 芋汁 花盗人 でんでん虫 二人大名 末廣 神崎渡し 雷 鬼の念仏

伯母ヶ酒  いろは  ほうらく割り 悪太郎 舌切雀 にせ地蔵 福釣り 寺譲り

うつぼ猿 牡丹獅子 紅葉狩り 土蜘蛛道成寺 千人切り (23演目)

「えんま庁」 あらすじ 

千本えんま堂で公演期間中、きまって最初に演じられる狂言です。

現在復活している狂言の中では、この狂言と「芋汁」の みが笛·太鼓のはやしにのって
無言で演じられています。

またこの狂言は本尊閻魔法王への奉納、感謝の気持ちを あらわしたもので、他には
ない当狂言特有の演目です。

ちなみに、16世紀中頃の狩野永徳筆、上杉家蔵「洛中洛外図屏風」にも、現在最古の
狂言図としてこの狂言が描かれています。

鬼が鉄杖を持って登場し、閻魔法王と帳付(記録係)を迎えます。そして鬼は縛つた亡

者を引き連れて再登場し、亡者を座らせて色々といじめて喜びます。ですが、鬼は亡者

の持った巻物の不思議な力に、逆に負かされてしまいます。そこで鬼は、亡者から無理

矢理に巻物を取り上げ、帳付に差し出します。

鬼から巻物を受け取った帳付は、内容を読んで亡者が善人であることを知ります。そこ

で閻魔法王に許しをもらい、「閻魔帳」にそのことを書き留め、逆に亡者を解放して鬼を

懲らしめ、縛り上げて亡者に番をする様に言いつけ、閻魔法王と共に退場します。

最初は大人しくしていた鬼でしたが、閻魔法王や帳付が去ったと知ると急に強くなり

また亡者をいじめようとしますが、やはり巻物の力には叶いません。そこで鬼は、亡者

から巻物を受け取る代わりに、亡者を背負って極楽へと案内して行きます。





安珍・清姫の鐘

【安珍清姫の鐘】道成寺

 「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入
れられています。

その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で妙満寺に伝わりました。

正平14年(1359) 3月31日、道成寺では安珍·清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し
鐘供養を盛大に
営みました。すると、その席に一人の白拍子が現われ舞い終わると鐘は落
下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。
その後、
近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れられた鐘は山林に捨て去られました。

それから200年あまり経った天正年間、その話を聞いた「秀吉根来攻め(1585)」の大将.

仙石権兵衛が鐘を掘り起こし京都に持ち帰りました。そして、時の妙満寺貫首日殷大僧正の

法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となったと伝えられます。

妙満寺では、例年の春に鐘供養を営み安珍·清姫の霊を慰めており、道成寺を演じる芸能人は

この鐘に芸道精進を祈ります。




仏舎利 妙満寺

【仏舎利】

妙満寺仏舎利大塔は、宗祖日蓮聖人のみ教えそのままに、法華経に明かされた久遠本仏釈

迦牟尼仏の実在を信じ、そのご精神に帰れという妙満寺の信仰を象徴するものとして昭和

48年(1973)インド·ブッダガヤ大塔をかたどって建立されました。

インド·ブッダガヤ大塔は、お釈迦さまが悟りを開かれた地に建つ高さ52メートルの大

塔で、その原型は紀元3世紀にアショカ王によって建てられました。全世界の仏教徒にと

って 最高の聖地であり、全人類にとってもかけがいのないものとしてユネスコの世界文

化遺産にも登録されています。

この塔の最上階には当山に古くから伝わる仏舎利をおさめ、一階に日蓮聖人の顕されたご

本尊と久遠本仏釈迦牟尼仏のご尊像をおまつりしています。またこの塔は全国檀信徒の

納骨室にもなっており、豊田佐吉翁以来の豊田家一門を始めとする多くの篤信者の遺骨が

安置されています。

建立33周年にあたる平成18年(2006)から3年をかけ、全国の末寺並びに檀信徒の寄進

により外壁にお釈迦さまの仏像486体を奉安し、併せて内外の荘厳を整えました。



雪の庭 妙満寺

俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~16 53)の造営した枯山水の庭です。

貞徳は寛永6年(1629) 11月25日、妙満寺を会場に正式俳諧興行として「雪の会」を催
しました。
れにより俳諧は、それまでの連歌から独立した文芸として認められるところとなり、
後に松尾芭蕉や与謝蕪村な
どを輩出して確立し今日に至っています。妙満寺は俳諧

(俳句)の地といえます。

妙満寺の塔頭·成就院の時の住職日如上人は貞徳の門下であり、その縁からこの
「雪の庭」を
造営した。清水寺本坊の「月の庭」、北野(一説に祇園)の「花の庭」
(現存しない) ととも
に、いずれも成就院にあったことから成就院「雪·月·花の三名園」
と並び称されていた。

昭和43年妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際、石組みをそ
のままに
移築し本坊の庭として復興しました。

その名の通り、冠雪の比叡山を借景とした眺望が最も美しい庭です。














実相院

 実相院は元天台宗の寺門派(天台宗には山門派と寺門派があります)の単立寺院で、ご本尊は鎌

倉時代に作られたと伝えられる木造立像の不動明王です。

実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれています。

その理由は実相院が門跡寺院であるからです。

門跡寺院とはその寺院の住職を天皇家の血を引く方々が務められていた、格式の高い寺院のことで、

代々皇室から大きな支援を受けて栄えていました。

とくに室町時代から江戸時代にかけては、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされて

いました。門跡寺院となったのは、静基(じょうき)僧正が開山された、寛喜元年(1229年)

のことで、そのころは北区の紫野にありました。770年以上前のことです。

その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであった

と言われています。

その後、義周(ぎしゅう)法親王が門跡となられたとき、京都御所から大宮御所「承秋門院(じ

ようしゅうもんいん)の旧宮殿」の一部が下賜されました。

それらが、正面の門「四脚門」、玄関横の「御車寄」、中の建物「客殿」です。

とても大掛かりな工事をして移築したことがうかがえます。

当時はここで、格式高い家柄の人々が集い、和歌の会や、お茶会などを開いていました。

そのころの様子のわかる古文書の数々が今も残っています。

また、岩倉具視もここを借りていて住んでいた。池の前の部屋で密談をした様子などが記され

た日記もたくさん残っています。

その他にも幕末の倒幕·佐幕両派と繋がりがあったと言われています。

また実相院には、狩野派の画家たちの描いた襖絵等がたくさんあり、普通では見られない素晴

らしい作品が襖や戸、障壁画として使われています。










圓通寺続き

 国の名勝に指定されている枯山水庭園は、約40もの大小の石を配置、比叡山を借景にしています。

雄大な比叡山を向こうに眺める庭園は、正に絶景の一言に尽きます。

円通は、特に紅葉の名所として有名ですが、春(椿·キリシマツツジ·サツキ)、夏(サルス

ベリ·蓮)、秋(サザンカ·キンモクセイ)、冬(南天·千両·ロウバイ)四季を通じて草花が楽しめます。

かつて、時の建設大臣であった河野一郎氏が、国際会議場建設計画時、選挙区内の箱根との声

が地元よりあがったが、『日本で国際会議場にふさわしいところは京都である 』との考えで京

都市の宝が池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くな

っている。地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

この河野一郎氏が、ここを訪れ比叡山を借景にしたこの圓通寺の素晴らしさを述べられていた。











蘆山寺鬼の法楽

 毎年節分の日に悪疫退散を祈って行われる年中行事の一つで、「貪(どん)=むさぼって飽くことを知らない」

をあらわす赤鬼が松明と宝剣を持ち、「瞋(しん)=怒り」をあらわす青鬼が斧を持ち、「痴=言っても仕方のな

いことを嘆く。愚痴」をあらわす黒鬼が大槌をもって現われ、太鼓と法螺に合わせて足拍子をとり、群

集の間を踊り回る。そこへ追儺師が出てきて豆を投げると鬼はたちまち退散するという趣向で、鬼を追

うことで一切の厄難を追い払うとされる。この行事は、元祖元三大師が福寿増長の修法中、邪魔をした

三鬼を三鈷で退散せしめたという故事によって近年に創始されたものである。






,

東寺について

 8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら

2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺と

いう意味合いを持った官立寺院であった。

 南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年),

藤原伊勢人が造寺長官となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見え

ないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから

二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。

この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。

  東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として

皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河天皇/後白河法皇の皇女

であるきん子内親王/宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。中世

以後の東寺は後宇多天皇·後醍醐天皇·足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18

(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家·徳川家などの援助により、金堂,五重塔などが再建さ

れている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門·金堂·講堂·食堂(じきど

5)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。

【国宝建築】

教王護国寺金堂(桃山)、五重塔(江戸前期)、大師堂(西院御影堂·室町前期)、蓮花門(鎌倉前期)観智院客殿(桃山)





永平寺追加

東司(とうす・お手洗い)

 正面には「鳥枢沙摩明王」が祀られています。

道元禅師は御著書「正法眼蔵」の中において,

用を足すことは大切な修行であり作法に従い、み仏として

行わなければならないと説かれます。

法堂(はっとう)

 住持が法を説く道場であり正面外にはそれを表す

「法王法」の額が掲げられています。

中央には聖観世音菩薩がお祀りされており現在は、
説法のほかに
朝課などの各種法要儀式が行われています。


浴室

 正面には「跋陀婆羅菩薩(ばっだばら)」が祀られています。

「沐浴する者千人なりとも、その湯浄きこと元の如し」

の言葉の通り、自分だけ良ければいいのではなく、

湯を大切に扱い、次に入る人に心を配り入浴します。

入浴は身も心も清浄となるための修行なのです


大庫院(だいくいん)

 地下一階地上四階の木造建築で昭和五年(一九三○) の改築です。

一階には食事を司る典座寮があり正面には「韋駄尊天」が祀られています。

道元禅師は食事を作る側の心構えとして「典座教訓」をいただく
側の心構えとして
「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」をお書きになら
れています。

祠堂殿·舎利殿((しどうでん・しゃり)

 祠堂殿では宗派を問わず、一般の方々の納骨や供養などの法要が
毎日つとめられています。

奥は舎利殿になっており舎利殿正面には「地蔵菩薩」が祀られています


瑠璃聖宝閣

 展示室と収蔵庫を兼ねた宝物館です。

国宝の「普勧坐禅儀」をはじめ重要文化財や書·絵画.書籍·器物などの

永平寺に伝わる宝物数千点のほか古文書も多数収められています。


寂光苑

 出家の志を立てた道元禅師の姿を現す「稚髪像」、共に中国に渡った

明全和尚を慕った「明全塔」、師匠如浄禅師の恩に報いる「如浄塔」など
道元禅師の御一代が
偲ばれる像塔が並んでいます。

また奥には永平寺歴代住職のお墓や祠堂殿で納骨供養をされた

お骨を納める御堂があります。

※苑内の鐘楼「寂照の鐘」は一般参拝者が誰でも自由に撞いて

道元禅師の遺徳を偲ぶことができます。






「大」送り火

大文字送り火 「大」の蜂の筆者には空海、あるいは相国寺(現上京区)の僧横川景三( 一四二九~九三)の指導で

足利義政家臣 賀掃部が設計したなどの各説がありますが、近衛信尹(一五六五~一六一四)説を主張しています。
江戸初期では、杭を打って火床をつくり、その杭に松
明を結びつけていましたが、寛文,延宝(一六六一 ~八一)

の頃より現行の積木法にかわりました。現在では、山の斜面に土盛りをし、大谷石を設置、その上に薪を井桁に
組んで積み重
ね(約一 ·三メートル)、その間に松葉を入れ、火床をつくっています。火床は七十五基、大の字の
一画目の長さ八十メート
ル、二画目百六十メートル、三面目百二十メート ,「大」の中心を金尾と称して、特別大き

く割木を組んで点火します。

■大文字山 左京区浄土寺七廻り町標高四百六十六メートル。

「大文字送り火」は銀閣寺近辺の旧浄土寺村の人々が大文字保存会を組織し維持しています。

 保存会では、八月十五日より銀閣寺山門の前で、一般市民から先祖の供養や現存する人々の利益を願う護

摩木を当日十六日午前中まで受け付け、集められた護摩木は、送り火の点火材料として山上にある火床へ上げ
られます。

 午後七時になると、金尾の部分にある弘法大師堂に灯明がともされ(大文字寺と呼ばれる麓の浄土院の住職と
保存会員
によって般若心経が唱えられます。その後、午後八時になると、竹に麦わらを結びつけ、松葉を先につ
けた松明で灯明
の火を金尾にある親火にうつし、合図によって一斉に点火されます。

 また、この旧浄土寺村では、江戸時代に送り火に合わせて念仏踊が行われていました。この送り火は、荒神橋
から御薗
橋までの賀茂川(鴨川)河岸でよく見えます。






「妙・法」送り火

松ヶ崎妙法送り火
 「妙·法」の字は、涌泉寺(松ケ崎堀 町)の寺伝によると、徳治二( 一三〇七)年松ヶ崎の村民が日蓮の法孫である日像
に帰依し、法華宗に改宗、その時
日像が西山に「妙」の字を書き、下鴨大妙寺の日良が東山 に「法」を書いたと伝え
られています。江戸時代の中頃
には、杭の上に松明を結んで点火したり、掘った穴に石 を置いて火床がつくられて
いました。現在は、鉄製の受
皿火床に割木を井桁状にして積み上げ点火されています。

「妙」の火床は百三基で縦横の最長は約百メートル、「法」の火床は六十三基で縦横の最長は約七十メートルです。

■妙法山左京区松ヶ崎西山·東山

 西山は標高百三十三メートル,東山は標高百八十七メートル。「松ヶ崎妙法送り火は、松ヶ崎妙法保存会によって維

持されており、地元で法華宗(日蓮宗)の信仰が非常に強いと言うことと密接な関係があります。前日の十五日に薪が
火床に上げられ、
当日の十六日午後八時十分に点火されます。この点火の際、「妙」の山では、松ケ崎堀町にある
涌泉寺の住
職や松ヶ崎立正会会長らが読経し祖霊を送ります。

 また、涌泉寺では、送り火が消えた午後九時ごろかしら、境内で題目踊が催されます。この題目踊は、村民が法華宗
に改宗した折に歓喜踊
躍して太鼓を打ち、法華の題目を唱えたのに始まるといわれており、現在では,輪になった男女が
音頭取りの太鼓の合
図で「南無妙法蓮華経」を繰り返しながら、団扇を上下に回転させ、体を屈伸しながら踊るもので、
送り火前日の夜
にも行われています。この送り火がよく見える場所は、北山通の地下鉄松ヶ崎駅付近です。





「船形」送り火

船形万灯籠送り火

 「船形」の舳先は西方浄土を指していると言われ、精霊船の意もこめられていると伝えらえれています。かつては割木を
大松明の形に束ねて燃やしていま
したが、現在、火床は山の斜面に石組をし大谷石を設置、その上に薪を井桁に組む
やり方に変わっています。火床は
七十九基、横約二百メートル、帆柱の高さ約九十メートルです。

■船山北区西賀茂

 標高は三百十七メートル。「船形万灯籠送り火」は、麓にある西方寺(浄土宗)と船形万灯籠保存会が中心に維持されて

います。

 この「船形」は、西方寺開山の慈覚大師円仁が、承和六(八三九)年、唐からの帰路、暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と名

号を唱えたところ無事おさまり帰郷できたという故事にちなむと伝えられています。

 「大文字送り火」同様に、八月五日から十五日まで、西方寺で護摩木の受け付けを行っており、当日は午後八時十五分
点火され、
その後、境内では六斎念仏が行われます。

 六斎念仏は、鉦や太鼓を打って囃し、念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。西方寺の六斎念仏は、左京区にある

干菜寺の六斎念仏の系統で、本来の踊り念仏の型を比較的保っているといわれています。六斎念仏は、お盆の行事と

して各所で行われています。この送り火は、北山通の北山大橋からよく見えます。






「左大」送り火

左大文字送り火

 この山は、岩石が多くて火床が掘り難いところから、以前は篝火を燃やしていましたが、現在は山の斜面に栗石をコンク
リートでかためた火床(三十センチ
三メートル)に松割木を井桁に約1メートル重ねます。

火床五十三基、一画四十八メートル、二画六十八メートル三画五十九メートルです。

■左大文字山 北区大北山

 標高は二百三十一メートル。「左大文字送り火」は、左大文字保存会によって行事が維持されており、送り火当日と

その前日には、金閣寺境内に張られたテントで、護摩木の受け付けを行っています。

 当日の午前中に、北区衣笠街道町にある法音寺(浄土宗)の本堂の灯明の火によって、当寺にある親火台(鉄製で蓮華
模して作られた台)への点火が行われます。一方、若い会
員を中心に薪や護摩木は山上に上げられ、暗くなる頃には
法音寺住職の読経があり、大松明に親火から火が移されま
す。午後七時にはこの大松明を中心に行列を作り火床を目

指します。点火時間は午後八時十五分で、大文字が一斉点火なのに対して、左は筆順通りに火を付けるのが特徴です。

この送り火は、西大路通沿いの金閣寺付近でよく見えます。





「鳥居形」送り火

鳥居形松明送り火

 以前は、親火より松明に火を灯して、各火床である青竹に突き刺していましたが、現在では、鉄製受皿が各火床に設置
され、その尖った芯に松明を突き刺
して点火しています。火床百八基、鳥居の笠貫が約七十ㄨートル、左右の脚は
約八十メートルです。

■曼荼羅山 右京区嵯峨鳥居本

 標高は約百メートル。この山は別に水尾山と呼ばれ、「鳥居形松明送り火」は、松明で燃やしているため、保存会の

名も鳥居形松明保存会と称しています。

 昔は特に宗教的行事は伴わなかったのですが、現在では他の送り火と同様に、八月十三日から十六日まで、化

仏寺の駐車場にて護摩木の受け付けを行っています。これら護摩木は、化野念仏寺において供養された後、山上へと

運ばれ、送り火は午後八時二十分に点火されます。

 この送り火は、他のものとは異なり、親火より火を移した松明を持って一斉に走り、各火床に突き立てます。その

ため鳥居の柱に当たる火床は縦の走りとよばれ、ベテランの担当する部署であり、笠木と貫の部分は横の走りとい

若い人が担当します。この送り火がよく見える場所は、松尾橋や広沢池などです。







近江大津宮錦織遺跡について

 西暦六六七年、天智天皇は新羅·唐の連合軍と対戦した白村江の戦いが敗北に終わった後

突然都を飛鳥から近江に移しました。この近江に営まれた宮が大津宮です。天智天皇は律令

制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしましたが、遷都後わずか五年でこの世

を去り、その後に起きた壬申の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまいました。わずか

五年五カ月の短命の都でした。

 大津宮の位置については錦織説、南志賀説、滋賀里説等があり、その位置については容易

に明確にすることができませんでしたが、昭和四九年にここ錦織二丁目で行われた発掘調査

により、東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が十三基発見されました。この遺構は東西に細長

い建物跡と推定され、発見された地層や建物の規模などから、宮に関連するものとしか考え

られず、ここが大津宮の有力な候補地として注目されるようになりました。その後、昭和五

三年に、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見され

たことにより、この部分は、内裏南門と宮の中心を囲う回廊とこれにつながる柵の跡と判断

され、この部分が大津宮のまさに中心部分であることが明らかになりました。

 ここに、長年追い求め続けられてきた大津宮の位置が確定され、昭和五四年に建物跡の見

つかった部分が国の史跡に指定されました。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構

がある場所も順次史跡に追加指定されています。

ー―――――――――


 663年の白村江の戦いの後, 667年3月中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都します。そして翌年1

月に天智天皇として即位しました。遷都の理由は諸説あります白村江の戦いで敗戦しているため唐·新羅連

合軍に攻め込まれたときのため、飛鳥の有力豪族との関係,琵琶湖西岸には大友皇子が養育された大友郷があ

り6世紀後半頃から大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいたからなど様々です。天智天

皇は天皇を中心とする中央集権国家を目指しましたが,遷都5年でこの世を去り,この後に起こった壬申の乱

によって都は再び飛鳥に戻されました。

 大津に都があったのはわずか5年間でした。そのため,大津京の場所を特定することが難しかったのです

が,昭和49年と53年の調査によって,錦織二丁目地域内に古代の建物の柱跡が見つかり,その配列や規模

からここが大津宮の中心部分とされました。昭和54年には柱跡が発見された場所を「近江大津宮錦織遺跡

(おうみおおつのみやにしこうりいせき) 」(この読みは遺跡案内板-滋賀県教育委員会設置による)として

国の史跡に指定されています。今後の発掘による成果を待たねば大津京の全容を見ることはできないでしょう

が,現在この地には住宅や商店が密集しており発掘調査は容易ではありません。

―――――――――――――


 飛鳥から未知の土地大津へは大海人皇子,鵜野讃良皇女,大友皇子,額田王,中臣鎌足らも移っていった。
飛鳥の有力豪族の不満も聞き入れ
ず,中大兄皇子の強い意志が遷都を実現した。






広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像

 見事な仏像がある。弥勒菩薩半跏 思惟像。折にふれて訪れるが、見れば見るほど美しい7世紀初め

秦河勝が聖徳太子から授かったとされるもので、国宝第1号だ。が、ここはいまだ世界遺産に登録

されていない。

 言われてみれば不思議だ。実は、国宝の生みの親とも言うべき聖徳太子は、古代ロマンの主人公

であると同時に、今なお多くの謎に包まれている。

 社会科の教科書では「太子は神道派の物部氏を排し、蘇我氏とともに仏教を積極的に取り入れた」

と習うが、なぜか太子が建てた大阪·四天王寺には鳥居がある。なぜか太子一族は蘇我入鹿によって

殺されている。

 作家の中山市朗さんたちが、この謎解きの会を開かれたことがある。私も参加し、中山さんが共著

で出された歴史ミステリーを読んで、わくわくした。定説とは全く違う。以来、自分でも時間を見つ

けては、古代史に関する本を手に取るようになった。

 この弥勒様、「百済伝」とされるが、新羅から伝わったという説がある。弥勒菩薩とは、釈迦入滅

後56億7千万年後の世に再臨し、民衆を救済する「救世主」だ。太子が生きた当時、新羅には弥勒を

信仰し、政治改革を目指した青年結社があったという。

 さらに、弥勒信仰は、名や形を変えて、西アジアや古代ローマにまで通じてしまうのだそうだ。

 広隆寺には「牛祭」という奇祭がある。これも、ペルシャあたりの形を変えた弥勒信仰」ミトラ

の神事と似ているのだとか。

 中山さんたちは、そこから太子が伝えたかったのは、百済伝来の仏教ではなく、新羅経由の原始キ

リスト教的なものではなかったかと推理している。そういや、四天王寺には石の牛「牛主尊」をまつる

お堂があるし、法隆寺の夢殿には「救世観音」がまつられている。

 学者の方たちからすれば荒唐無稽な解釈とおしかりを受けるかもしれない。でも、1400

年も前に、世界がやはり深くつながっていて、政治や宗教に熱く思いを注いだ若い太子らの姿をあれ

これ想像するのはとても楽しい。

 世の移ろいを静かに見続けてきた広隆寺の弥勒様。その表情はとても穏やかだが、鋭いメッセージ

を秘め、真実に迫ってくる人を待っているような気がする。

 私の中では、半跏思惟像はとらに世界遺産なのである。
  2005-1-6 朝日新聞  桂小米朝


 永遠の微笑とうたわれる弥初菩薩半跏思惟像。「ホオずりしたことを友だちに自慢する

つもりだった」( 60年8月20付本紙)。そう話す京大生が右手の薬指を折ってしまった

事件はあまりにも有名だ。

 赤松で作られたこの国宝1号は広隆寺霊宝殿にある。同寺は603年建立。聖徳太子

建立の七大寺の一つ。「なぜ世界遺産じゃないのかとよく聞かれます」と副貫主。「でも弥

勒様をお参りして心静かになっていただくことが大切。指定にはこだわりません」

 中山市朗さん共著の「捜聖記」を読み、京福電鉄嵐山線に乗って冬空の寺を訪れた。

1400年前どんな人間模様が繰り広げられたのか。「権力闘争を憂え、世界の平和を

目指した国際人」。中山さんは太子像をこう描くが、諸説紛々ナゾに包まれている。

 ネット書店のアマゾンで「聖徳太子」を検索すれば200冊を超える。それほど研

究者魂を刺激し、ファンを魅了する。かつては日本のお札のカオだった。「長身でハンサ

ムだったようです。お札に復活してほしいなあ」と中山さん。本当に。
(河合真美江)






三井寺

 正式名称は長等山園城寺だが、三井寺の名で親しまれる。古来、修験道が盛んで、この寺

の僧、行尊と覚忠による平安後期の巡礼が、記録に残る最古の西国三十三所巡礼という。

 天智天皇が置いた大津宮にほど近いこの地に、その孫、与多王が686年に創建したと伝

わる。9世紀の第5代天台座主円珍が再興した。が、後に比叡山との対立、抗争が激化し、

平安·鎌倉時代にたびたび延曆寺の僧による焼き打ちにあった。

 広大な寺域の南端に札所の観音堂がある。ふもとから約170段の石段を上がると目の前に

広がるのは琵琶湖の風景。寺内に弁慶の引きずり鐘、三井の晩鐘など見どころは多いが、景色

はここが一番だ。

 観音堂は1686年に火災で焼失、3年後に再建された。難を逃れた本尊の如意輪観音坐像

(重要文化財)は6本の腕をもち、ふっくらと優しい顔立ちだ。10世紀末の作とみられる

開帳は33年に1度だけ。ふだんは御前立を拝む。堂内には江戸時代のにぎやかなご開

を描いた絵もある。「当時は、お伊勢参りのような感覚だったようですね」と福家俊彦執事。

 円珍が唐から帰国して1150年を記念した催しで、ほかにも黄不動尊、円珍を彫った御骨大師、
尊大師の2体、新羅明神坐像(いずれも国宝)など名宝がそろう。  
  2008-9-5  朝日新聞
(佐藤千晴)





六角堂

 京都市街、ビルが並ぶ烏丸通のすぐそばにあるが、境内にはハトが戯れ、参拝客の読経が響

く。六角の本堂にちなみ「六角さん」「六角堂」の名で親しまれてきたてらは、正式には紫雲山頂法
寺という。

 寺伝によれば587年、聖徳太子の創建。四天王寺建立の用材を求めて訪れた太子が、美し

い池を見つけて水浴した際、護持仏をそばの木にかけたところ離れなくなった。そのままそこ

で一夜を過ごし、夢にみたお告げに従って堂を建てたと言う。 秘仏の本尊は、太子の護持仏

とされる身丈には約5 . 5cm、金属製の六臂の如意輪観音像。本尊と同様の形で、江戸期の作
とさ
れる身丈約80cmの木造の御前立(おまえだち)がある。右ひざを立ててひじをつき、少し首
をかしげた
姿は「どうやって参拝者の悩みを解決しようか、と考えておられる様子」と田中良宜
執事は説
明する。

 本堂は創建以来、幾度も火事に遭い再建を繰り返した。今の本堂は1877年建造。

 寺は、華道家元池坊の発祥地として知られ、代々住職が家元を務めている。寺伝では本堂建

造の後、太子は本尊の守護を小野妹子に命じた。妹子が池のほとりに坊を建て、花を供えたの

を、代々の住職が伝えたのが生け花の始まりという。

 本堂の裏が池の跡とされ、一時、井戸になっていたが、約15年前に池に整備し直された。今

もすぐそばに池坊の本拠である池坊会館が立つ。
  2008-9-12  朝日新聞
 (高橋真紀子) 




石山寺

 源氏物語の存在が初めて文献に現れて、今年でちょうど千年。作者·紫式部は石山寺にこ

もり、源氏物語の構想を練ったといわれる。

 縁起によれば、寺の創建は天平19 (747)年。聖武天皇の勅願によって、良弁僧正が如意輪

観音像を安置し、奈良·東大寺大仏のための金の産出を祈願したのが始まりとされる。

 平安時代には、観音信仰の霊場として、皇族、貴族らが数多く「石山詣で」をするようになった。
文学者も多く、「蜻蛉日
記」の作者·藤原道綱の母、「更級日記」の作者·菅原孝標の女らもいた。
明治時代には島
崎藤村も訪れた。

 琵琶湖から流れ出る瀬田川が近く、近江八景の一つ「石山の秋月」でも知られる古刹である。
多宝塔や月見亭などに、今
も文学者の想像力をかきたてるような、優雅な雰囲気が漂う。

 本尊の如意輪観音像は平安時代の制作で、国の重要文化財。その内部から02年、飛鳥~
天平
時代の4体の胎内仏像が見つかって話題となった。秘仏である本尊の代わりに、いつもな
らば
淀君の援助を受けて造立されたという桃山時代の御前立にお参りするのだが、取材時は
東北地
方へ「出張中」だった。対面した「代理」の御前立のおおらかな表情に心が和んだ。

 鷲尾遍隆座主は「紫式部をはじめ、多くの文学者をひきつけた石山寺で、心に安らぎを持つ

ていただければありがたい」と話している。
  2008-9-19  朝日新聞 (大村治郎)







行願寺

 京都徊苑の南東、寺町通りに面した静かな一角に丶革堂・行願寺はある。「革堂」という風

変わりな通称は、平安時代に寺を創建したとされる行円上人の逸話にちなんだものだ。

 行円はかつて、狩りが好きな若者だった。しかし自分が射た雌鹿が死の間際に子鹿を産み落

とすのを目にして、それまでの殺生を深く後悔する。行円は出家し、その雌鹿の皮を常に身に

着けて各地で仏道を説いて回ったため、人々からは「革聖(わひじり)」と呼ばれたという。

 本尊は、賀茂の霊木から行円自らが彫ったと伝えられる八尺(約2 . 4m)の千手観音像

毎年1月17、18日に開帳される。お前立ちの観音像は二尺八寸(約86cm )と小ぶりだが、
福々しい表情が美しい。

 1815年に建てられた本堂を始めとする立派な建物群も、終戦後、しばらく荒廃していた

時期があった。69年に尼僧の中島湛海さんが住職となり、建物を次々と修理、戦時中に供出し

た釣り鐘も、寄付を集めて再現するなどして復興した。湛海さんは天台宗の尼僧では初めて最

高位の大僧正となり、06年に91歳で亡くなった。現住職とともに寺を守る中島秀海さんは「西

国三十三カ所の中でも最も荒れていた寺がここまで立派になったのは、すべて湛海さまのおか

げ」と遺影に手を合わせる。

 「都七福神めぐり」の寿老人をまつる寺としても知られ「寿老神堂」には仏師·西村公朝氏が
刻んだ木像が安置され
る。若い女性の幽霊が描かれ、お盆に公開される「幽霊絵馬」も有名だ。
 2008-9-26朝日新聞
 (今井邦彦)




近江神宮の案内

 近江神宮は第三十八代天智天皇をお祀りし、天智天皇の古都·近江大津宮跡に鎮座しています。全

国十六社の勅祭社の一社であり四月二十日の例祭には天皇陛下の御名代として宮中より御勅使を御

差遣頂いています。

 御鎮座は昭和十五年十一月七日であり、神社としての歴史は新しいのですが、滋賀県·近江国の発

展は大津宮に都をおかれたことに始まるとして、古くから湖国では天智天皇に対する崇敬が厚く、一

三五〇年の歴史に立脚する神社といえます。明治三十年ころより滋賀県民の間から天智天皇を祀る神

宮の創建運動が高まり、昭和に入って昭和天皇の御勅許を賜わり、滋賀県民を始め全国崇敬者の真心

の奉賛により創建されました。

 境内地は約六万坪。社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿·内外拝殿を回

廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、国の登録文化財に登録されています。

 御祭神·天智天皇(御神名,天命開別大神 あめみことひらかすわけのおおかみ)は第三十四代舒

明天皇の皇子で、中大兄皇子と申し上げ、一三七○年の昔、皇太子として藤原鎌足と共に蘇我一族の

専横を除去なされ、大化改新(六四五)を断行されました。大陸からの圧力により存亡の危機に直面

していたわが国を、偉大なる英知と勇気をもって雄大な建国の理想を実現せられ、古代国家確立の大

本を打ち立てられた御祭神です

 特に天智称制六年(六六七)都を奈良の飛鳥より近江大津宮へ遷され、その後の内外の施策は目覚

ましいものがあり、わが国法律の源をなす「近江令」を制定、学校制度を創始して国民教育の道を開

かれ、また戸籍の制定(庚午年籍)土地制度の改革(班田収授)、当時最新の科学技術を駆使して産業振

興を図られるなど、次々に新時代に向けての政策を推進せられ、政治経済の改革·学芸文化の創造発

展に寄与されました。

 なかでも漏刻(水時計)をお造りになり、社会生活の基本である時報を始められたことはよく知ら

れています。六月十日の「時の記念日」は近江朝廷で時報が開始された日を記念して大正九年に制定

されたもので、毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、

賑々しく漏刻祭が斎行されています。境内には「時計館宝物館」が設けられ、和時計をはじめ各種の

古時計などを展示しています。また境内に設置された水時計や日時計は、時計業界からの献納による

ものです。

 また天智天皇の御製「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」は小倉百人一首

の巻頭歌として国民に親しまれ歌かるたの祖神としても仰がれています。近年は百人一首競技かる

たが漫画や映画でも取り上げられるなど、ことに正月の名人位クイーン位決定戦はよく知られると

ころとなってきました。境内には奉納された板かるたの額も展示されています。

 天智天皇の都·近江大津宮は壬申の乱の悲劇に遭って五年半で崩壊し、その後その跡は歴史のな

かに埋もれて幻の大津京とも語られ、万葉集やその後の歌人たちにより数々の歌が残されています。




淳仁天皇

 梅原猛 著『海人と天皇』の一節である。奈良時代の半ば過ぎ、孝謙天皇と道鏡との仲を批判した淳仁天皇

は、上皇との不和が決定 的となる。ある日、上皇はこう 宣言する。

 「恒例の祭事など小さなことは今の天皇に任せるが、国家の大事と群臣に対する賞罰は私が行う」

 問答無用とばかり政治の実権を天皇から取り上げたのだ。梅原さんは「中年女のドスのきいた啖呵」と書い
ている。

 後ろ盾だった藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こして殺されたのちの淳仁は惨めだった。

謀反のかどで天皇をクビにされ、淡路島に幽閉された。「淡路廃帝」といわれるゆえんだ。

 幽憤に耐えられず、垣根を乗り越えて逃亡したが、捕らえられ、翌日亡くなった。

 続日本紀はそう記している。33歳だった。

 地元ではどんな風に語り継がれているだろうか。早春の淡路島へ車を走らせた。

 明石大橋を渡って島を縦断する高速道路を西淡三原インターで降りる。レタスのハウスが並ぷ平坦地の真ん
中に大炊神社(おおい)が
あった。大炊王とも呼ばれた淳仁天皇を祀る社である。

 02年につくられた案内板が立っている。

 「天皇は配流された翌年、この地で亡くなった。ご遺体はここ天皇塚に埋葬されたと伝えられている。住民は
今も、霜よけ
の『こも』を編み、埋葬場所と伝えられる杉の木の根本にかけ、天皇の霊をお慰めしている」

 本殿の横に石柱で囲った一角がある。楢や楠の大木の中に、竹で四隅を支え、『こも』をかぶせた場所がある。
ここがそろ
だろうか。

 誰かに聞こうと探したら、お宮の隣の家の庭に男の人の姿が見えた。仁里久男さん( 73 )。昨年、農業をやめ
たという。

 「杉は昔に枯れた。毎年五月のお祭りのときに新しい『こも』をかける。霜や夏のお日さんから守るためだ」。
悲憤の死
をとげた貴人への村人たちの優しい心遣いである。

 近くの畑の中に廃帝が殺された場所がある、というので案内してもらった。そこは何を植えても育たないという言
い伝えが
残っている。

 乳牛の牛舎の裏手のその場所には石のかけらや古い墓石が乱雑に重なっているだけだった。

「あれっ淳仁天皇と彫った石柱が以前あったのに、ないわ」と仁里さんは旧跡の変わりように驚いた顔をした。

 淳仁天皇の「埋葬地」や「ゆかりの地」は淡路のあちこちにある。

 とりわけ、南あわじ市の市十一ヶ所あたりには仮埋葬された地といわれる「丘の松」、野辺送りをした場所と伝
えられる
「野辺の宮」、淳仁天皇の古い位牌を見せていただいた宝積寺などが集まっている。廃帝の最後の地
だったのだろう。

 淡路の旅の終わりに、宮内庁がここだとする「淳仁天皇陵」を訪れた。国道28号を福良の港に向かって進むと
左手に見え
る、樹木がうっそうと茂った細長い丘である。

 とにかく大きいが、本当にお墓かどうか専門家も首をかしげる。私には巨大墳墓より、一枚の「こも」をかけた
場所のほう
が、悲運の貴人の奥津城にふさわしく思えた。
  2006-4-21  朝日新聞 桐村英一郎


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 淳仁天皇 天武天皇の孫

で舎人親王の子。藤原仲麻

呂や孝謙天皇の母、光明皇

太后のバックアップで皇位

についた。孝謙は譲位に不

満だったようだ。不満は母

の死後に爆発し、仲麻呂と

淳仁ともに死へと追いやら

れる。

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 琵琶湖の北端、滋賀県西浅井町の菅浦という集落に天皇の御陵があり、里人に守られてきたという。

 淡路島のはずが、何でまた湖北に?

 菅浦には「つづらお荘」という名の国民宿舎がある。支配人の大橋延行さんに電話したら、淳仁天皇を祭神とする
須賀神社
の大晦日祭にいらっしゃい、と勧められた。夜のお祭りで雰囲気があるそうだ。

 夜祭なら一泊して、と思ったがあいにく予約で満室とのこと。夜中に奈良に帰る強行軍になった。

 湖西の道をひたすら北上、海津で国道と別れ、右に湖、左斜面には残雪がいっぱいの道を走った。行き止まりが
菅浦であ
る。三方を山に囲まれたひっそりとした集落で、白洲正子さんが「かくれ里」に選んだ理由もわかる。

 もの心ついてからずっと菅浦という西川喜善さん( 72 )ので話を聞いたあと、夕刻ほで須賀神社と、その本殿裏に
ある御
陵を案内してもらった。

 湖畔から石畳の参道がまっすぐ山に伸びる須賀神社は、明治の合祀まで保良神社といった。

続日本紀に、淳仁の時代に「保良宮」を造らせた、というくだりがある。

 「学者先生は保良宮は石山(大津市)にあるというが、わしらは平城京を修理する間、天皇はここにいらしたと信じ
てい
る」と西川さんはいう。石段わきの平地の小字名は「ゴジガト」。御地が跡、つぼり宮跡というわけだ。

 淳仁天皇は配流先の淡路島で亡くなった。しばしの縁を大切にした里人たちは、廃帝の遺体を掘り起こし、葛籠
(つづら)に入れて船
で菅浦に運んだ。

 葛籠尾崎は陸揚げしたところだと聞いて、国民宿舎の名前の由来がわかった。

 本殿下の石段の脇に「土足禁止」と書いた石板がある。地元の人はそこから、はだしで登る。観光客はスリッパに
履き替
えるが、冬場は危ないので靴のままで許された。

 御陵は山に向かって舳先(へさき)のよろに石を積んだ不思議な石組みだった。近づこうとしたが、雪がびてあきら
めた。

 天皇の宮があった。遺体を奪い、ここに埋葬した。どちらも真実かどうか、それはわからなでも私には、ここに暮ら
人々がそう信じて、敬虔(けいけん)な祈りをささげてきた事実があれば十分だ。

 菅浦のようなところをよく「陸の孤島」というが、それは鉄道や自動車に偏した見方だと思う。目の前に広がる湖面
は開
かれた交通路でもあった。そう考えれば、伝説を荒唐無稽と切り捨てられまい。

 食事をしてから、大晦日祭に出かけた。ところどころ凍りかけている参道を足元に気をつけながら登る。

 須賀神社の祭事は菅浦を東西に分け、毎年交代で受け持つしきたりだ。本殿で応対する人.お神酒係、稲穂に小石
をくくり
つけた「年の実」配り、とそれぞれの仕事を三人ずつでこなす。

 拝殿にも、本殿前の賽銭箱にも菊の紋章がついているのが目を引いた。

 本殿は、さや堂の中に二つのお堂が並ぶ二重式。その一方に淳仁天皇像が祀ってあると い伝えられてきたが、
だれも見た
ことがない。「見たら目がつぶれる」からだ。

 「よりによって、力のなかった天皇さんをずっとお祀りしてきた。ここの住民の性格か、判官びいきなのか」

西川さんがぽつりと語った一言葉が耳に残った。
2006-4-21  朝日新聞 桐村英一郎
 



斎王

 葵祭の行列に斎王代が参加するようになったのは、1956年から。そのモデルともいうべき斎王は、平安時代

初めの810年にできたとされる。背景には、嵯峨天皇が兄の平城上皇と争つた薬子の変(810年)があったという。

 平城上皇の寵愛を受けた藤原薬子が、兄·仲成らと乎城京への遷都や上皇の復権を狙った。対して嵯峨天皇

は、京都の上賀茂下鴨両神社がまっる賀茂の神に祈願して勝ち,お礼に娘の有智子内親王を両神社に奉仕さ
せる
ことにした。これが斎王だった。鎌倉時代初めに廃絶されるまでの約400年間に皇女と女王合わせ35人が
選ばれた。

 実は斎王の歴史はもう少しさかのぼり、きっかけは壬申の乱(672年)という説がある。天智天皇の死後、弟の
大海人皇子(後の天武天皇)
と長男の大友皇子が争った古代の戦乱だ。

 大海人皇子は伊勢神宮に戦勝を祈願。勝利した礼として、娘で万葉歌人としても知られる大来皇女
伊勢神宮
に送ったとされる。以後,南北朝時代初めまでの約660年間に60人以上が選ばれた。上賀茂、
下鴨両神社に遣わ
された斎王よりも、伊勢神宮の斎王の方が歴史が長い。

 どちらの斎王も未婚の皇女か女王から選ばれ、2~3年の潔斎生活を経て、それぞれ賀茂斎院、伊勢斎宮
すした。このため、京都の斎王を「斎院」と呼んで、伊勢の斎王を「斎宮」と呼んで区別することもある。

 斎院が上賀茂、下鴨の両神社に赴くのは年1回、斎宮が伊勢神宮へ行くのも年3回にすぎなかった。なのに、
院や斎宮にはそれぞれ役所も設けられ、多い時で,女官ら500人以上がつとめていたという。いったい何のた

めに斎院や斎宮の制度が設けられたのだろうか。

 「斎宮、斎院はいわば神のセンサー役でした」と話すのは、三重県立斎宮歴史博物館の榎村寛之·学芸普及
課長
だ。博物館は伊勢斎宮があったとされる三重県明和町にある。「天災があっても斎宮や斎院が無事であ
れば、神の
怒りはいつかおさまる。そう信じられていた存在だったのではないでしょうか」とみる。

 斎王は巫女(みこ)とも異なり、神楽を舞わないし、祈禱もしない。平安時代中期までは託宣をした記録もない。

 著書『京都の三大祭』で葵祭などを紹介している京都産業大の所功教授は、斎王を神の「御杖代」と説明す

る。神の杖の代わりとなるような存在という意味だ。何もしなくても、神の近くに「いるだけでありがたい女性」

とみられてきた。

 奈良、平安時代には、神が国家や王権を守るという考えが根強かった。斎王を遣わすことは神への天皇の
誠意の
表れであったようだ。斎王を通して伊勢神宮や上賀茂神社、下鴨神社に国家が深くかかわってきたとも
いえる。

 斎院の行列の華やかさは「源氏物語」や「枕草子」などに紹介されているが、伊勢へ向かった斎宮の列も
壮麗だっ
た。京都御所の大極殿で、天皇自らが60cmほどの黄楊(つげ)の櫛を斎宮の髪にさし、別れの含葉
を述べた。斎宮の行列は群
行(ぐんこう)と呼ばれ、500人を超えた 5泊6日の大移動だった。

出発は深夜。葵祭の斎院の行列とは対照的である。

 ほかにも、両斎王には違いがあった。斎宮は天皇の即位ごとに選ばれたが、斎院は必ずしもそうではなかった。
安時代の律令の施行細則である延喜式によれば、斎宮のしきたりは斎院の約3倍もあり、自由度が少なか
った。

 ただ、食事は海の近くで暮らした斎宮のほうが恵まれていたかもしれない。新鮮な魚介類が手に入りやすか
ったか
らだ。平安貴族の宴席料理では生魚がごちそうとされ、塩、醬(ひしお)、酒、酢をソースのように使い、
刺し身やしゃぶし
やぶにして食べていたとみられる。

 でも、なぜ伊勢に加えて、京都にも斎王を置いたのだろう。榎村課長は「天皇を守護する神社を複数定め、
遠隔地
にだけ置くリスクを小さくしたのではないか」とみる。そして、斎院の行列や斎宮の群行は、天皇や朝廷
の権威を示
す絶好の機会でもあった。だからこそ、武士が政権を担うようになると、廃れる運命にあったといえ
る。
  2009-5-9  朝日新聞(夕刊)




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