円山公園地図
安養寺

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坂本竜馬・中岡慎太郎銅像
円山公園(まるやまこうえん)
 平安の昔、今の円山公園の一帯は一面真葛や薄(すすき)などが生い茂り真葛ケ原と呼ばれていました。
鎌倉時代、慈円僧正が
   「わが恋は松を時雨の染めかねて
            真葛ケ原に風さわぐなり」   新古今集
と詠んでから一躍和歌の名所となり、以来多くの歌にうたわれた。江戸時代に入ると安養寺塔頭の六阿弥
(左阿弥、世阿弥などいずれも何阿弥と称した六坊)が席貸を始め、次第ににぎやかさを増してきた。 
 西行物語で終焉の地とされた西行庵、中には西行の木像がある。
円山公園 の由来

 もと安養寺六坊・祇園感神院の坊舎などが維新で官

収された跡地を, 政府の公園設置の太政官符により1886 (明治19)

年公園とし,円山安養寺にちなみ円山公園と命名したものである。

 安養寺(時宗)には塔頭に連阿弥(幕末),世阿弥 (1886年京都最

初のホテル,のち焼失),左阿弥 (唯一残る)など六阿弥坊があり、

湯茶などを供したので遊楽地となっていた。歌枕の真葛ヶ原もとり

入れて公園の面積は8万6641u,明治時代は人工鉱泉療養所や貸

席・旅館が建ち並ぶ歓楽境であったが, 数次の火災で焼失, 1913 (

大正2)年に小川治兵衛の監督により面目を一新した。中央に池を

おき,花樹を植え,その間に古寺の屋根がみえる。小川治兵衛は「

植治」を称した近代の名庭師で, 平安神宮や山県有朋の無鄰庵,南

櫛寺付近の名士の別荘庭園, 東京の浜離宮などの作庭に従事した。

円山公園の由来 百人一首86  西行法師 
円山公園・八坂神社    
 
 枝垂れ桜
 円山公園のシンボルともいえる近年の枝垂れ桜の姿は痛々しい。この枝垂れ桜は2代目。
初代は1947年に樹齢200年余りで朽ち、後を継いだ。15年ほど前から枝が枯れ始め、傷口の樹液
に群がる虫をカラスがつついてさらに衰えた。
 食い込んだ鉄の支柱を外し、少しずつ根元に養土を入れ、カラスよけの釣り糸を枝の周りに張り巡らせ
、他の木の根っこと地中で支えあう枝垂れ桜の苗木5本を植えた事により、新芽が吹き始めた。



安養寺

 八坂神社に始まる「円山公園」の回

遊式庭園のなだらかな坂を上りつめ

る。寺の門前に「吉水草庵・慈圓山安

養寺」の石柱が立つ。

 この地に浄土宗開祖の法然

が庵を結び、そこへ浄土真宗の開祖の

親鸞も弟子入りしたという。法然の念

持仏と伝わる本尊の阿弥陀如来を中心」

に、その法然と親鸞の像が本堂の開か、

れた障子から見える。

 かつては、六つの塔頭を持ち「円山

六坊」と称された大寺院。元禄十五年

夏、大石内蔵助が吉良の首を討ち取る

ととを決めた「円山会議」を開いた地

でもある。そんな歴史を秘めた公園で

はいま、未来を語り合うかのように肩

寄せ合う若者の姿が絶えない。