百人一首

番号 作 者 作者・歌と関係する所







秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
 後選集 巻6 秋中・302
天智天皇
かりほの庵:田のほとりに作った仮小屋
苫をあらみ:「あらみ」は「荒み」で荒いので、「苫」茅などを編んで屋根を葺くのに用いる。
ころも手:衣手、袖のこと。









春すぎて 夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山
 新古今集 巻3 夏・175
持統天皇 藤原宮
天香具山
大和三山
きにけらし:「来にけるらし」の縮まった形。
白妙の:白い𣑥(たえ)の布。コウゾ類の樹皮で織った純白の布。
ほすてふ:「干すといふ」の約された形。
あまのかぐやま:大和三山の一つ。





あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
 拾遺集 巻13 恋3・778
柿本人麻呂





田子の浦にうちいでてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
 新古今集 巻6 冬・675
山部赤人 山部赤人の墓





奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋はかなしき
 古今集 巻4 秋上・215
猿丸大夫
6 かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける
 新古今集 巻6 冬・620
中納言家持














天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも
 古今集 巻9 羇旅(きりょ)・406
阿部仲麻呂 御蓋山
 天空を振り仰いで見ると、春日にある御蓋の山に出ていた月が思い起こされる。
 阿倍仲麻呂が遠く唐土から奈良の地を想起こした月なのであった。
 今、眼前にある月は、唐土の月。奈良・春日野の御蓋山の月なのである。そして仲麻呂は生きて御蓋山の月を見る事はできなかった。

ふりさけみれば:遠くはるかに見渡すと
三笠の山:春日大社の後方にある御蓋山(みかさ)。遣唐使出発に際し、麓で無事を祈った。







わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうじ山と人はいふなり
 古今集 巻18 雑下・983
喜撰法師
たつみ:辰巳・巽、東南を指す。
宇治山:「憂し」(つらい、苦しいの意)を宇治に掛けてある。











花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
 古今集 巻2 春下・113
小野小町 随心院
帯解寺
いたづらに:むなしく、無駄に。「ふる」に掛かる。
よにふる:「よ」は世間の意であるが、男女の仲の意を含ませる。
ふる:「経る」と「降る」の掛詞で「降る」は長雨の縁語。
ながめ:「長雨」と「眺め」(物思いにふけること)との掛詞。











10 これやこの ゆくも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
 後選集 巻13 雑1・1089
蝉丸
これやこの:これこそあの、と詠嘆をこめた表現。
行くも帰るも:「行」は逢坂の関を通って東国へ下ること。「帰る」は都へ帰ること。
逢坂の関:地名 「逢坂」が「逢ふ」に掛けてある。
       逢坂は三関(伊勢の鈴鹿、美濃の不破、近江の逢坂)の内の一つ。
       百人一首では2562の3つの歌に詠まれている。








11 わたの原八十島かけて漕ぎいでぬ人には告げよあまのつり舟
 古今集 巻9 
参議 篁 紫式部墓・小野篁墓
五道山十王寺
六道珍皇寺
和田の原:広々とした海。「わた」は海の古語。「原」は広々した場所。
八十島:多くの島々。
あまのつり舟:漁夫の釣り舟を擬人化して呼びかけている。







12 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ
 古今集 巻17 雑上・872
僧正編昭
天つ風:空を吹く風。「つ」連体修飾語を作る格助詞。
雲の通ひじ:天女が地上と天上をとを往来する雲の中の通路。






13 つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
 後選集 巻11 恋3・776
陽成院
淵となりぬる:「淵」は水が淀んで深くなっているところ。「ぬる」完了の助動詞「ぬ」の連体形で
         「ぞ」の結び。




14 みちのくの忍ぶもぢすり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
 古今集 巻14 恋4・724
河原左大臣(源融)








15 君がため 春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ
 古今集 巻1 春上・21
光孝天皇
醍醐天皇の延喜(えんぎ)年間(901~923)から、正月の最初の子(ね)の日に、天皇に若菜を供する年中行事として定着。





16 立ちわかれいなばの山の峰におふる松とし聞かば今帰り来む
 古今集 巻8 別離・365
中納言行平 宇倍神社














17 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
 古今集 巻5 秋下・294
在原業平朝臣 不退寺
業平道
竜田川
三室山
十輪寺
在原神社
十三峠
石上宏高宮
雲林院
玉祖神社
千早ぶる:神の枕詞。
からくれなゐ:美しい鮮紅色。「から」は韓(から)の国から渡来したものに冠する接頭語。
くくる:括(くく)り染め(絞り染め)にすること。
竜田川:地名
18 住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人めよくらむ
 古今集 巻12 恋2・559
藤原敏行朝臣
よる波:打ち寄せる波。「よる(夜)」を導く。
よるさへや:「夜」と「寄る」が言い掛けられている。
住の江:地名
19 難波潟みぢかき芦のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
 新古今集 巻11 恋1・1049
伊勢
20 佗びぬれば今はたおなじ難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ
 後選集 巻13 恋13・960
元良親王
21 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな
 古今集 巻14 恋4・691
素性法師
22 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ
 古今集 巻5 秋下・249
文屋康秀
吹くからに:「から」は、~するやいなや、の意の接続助詞。
しほる:「「しほ(萎)る」は草木がしぼみ弱ること。
むべ:副詞。なるほど、もっとも、の意。
山かぜ:山から吹き下ろす風。
あらし:「荒らし」と「嵐」を掛けている。
23 月みればちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
 古今集 巻4 秋上・193
大江千里







24 このたびは帑もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
 古今集 巻9 羇旅(きりょ)・420
菅家 手向山八幡宮
このたび:「たび」は「度」と「旅」との掛詞。
ぬさ:帑は神に祈る時に捧げるもので、麻・木綿・布・紙などを細かく切ったもの。
手向山:地名、山城・大和の境にある奈良山の一部とも、手向けて越える山ともみる。













25 名にしおば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
 後選集 巻11 恋3・700
三条右大臣
名にしおば:そのような名をもっているならば。
逢坂:三関(伊勢の鈴鹿、美濃の不破、近江の逢坂)の内の一つ。
     百人一首では1062の3つの歌に詠まれている。
さねかづら:多年草の蔓草(つるくさ)、「さ」接頭語、男女が共寝をすることが掛けてある。
くるよしも哉:さねかずらは蔓が長く、それを手で「繰る」に掛けて「来る」と言った。
        歌は「行く」立場の人が詠んだ。
よし:手段
もがな:願望の終助詞








26 小倉山みねのもみじ葉心あらば今ひとたびのみゆきまたなん
 拾遺集 巻17 雑秋・1128
貞信公(藤原忠平) 二尊院
御幸:天皇の行幸(ここは醍醐天皇の行幸)。行幸は天皇のみ。
 御幸は天皇、上皇、法皇に用いる。
小倉山:地名、嵯峨にある紅葉の名所。大堰川を隔てて嵐山に対している。
 









27 みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ
 新古今集 巻11 恋1・996
中納言兼輔(かねすけ) 恭仁京
わきて:「分きて」と「涌きて」との掛詞
湧きて:下の「いづみ川」の「泉」の縁語
みかの原:地名 奈良朝以来離宮があった。聖武天皇は一時ここに恭仁京を営んだ。
いづみ川:今の木津川

みかの原も泉川も当時の人々には風光明眉な憧れの地であった。
28 山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば
 古今集 巻6 冬・315
源宗于朝臣
29 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
 古今集 巻5 秋下・277
凡河内躬恒
30 有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし
 古今集 巻13 恋3・625
壬生忠岑
31 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪
 古今集 巻6 冬・332
坂上是則
32 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり
 古今集 巻5 秋下・303
春道列樹
33 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
 古今集 巻2 春下・84
紀友則
34 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに
 古今集 巻17 雑上・909
藤原興風






35 人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香に匂ひける
 古今集 巻1 春上・42
紀貫之
36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ
 古今集 巻3 夏・166
清原深養父
37 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
 後選集 巻6 秋中・308
文屋朝康
38 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
 拾遺集 巻14 恋4・870
右近
39 浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
 後選集 巻9 恋1・577
参議等
40 忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで
 拾遺集 巻11 恋1・622
平兼盛
41 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしが
 拾遺集 巻11 恋1・621
壬生忠見
42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは
 後遺集 巻14 恋4・770
清原元輔
43 逢ひ見てののとの心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
 拾遺集 巻12 恋2・710
権中納言敦忠
44 逢ふことのたえてしなくばなかなかに人をも身をも身をも恨みざらまし
 拾遺集 巻11 恋1・678
権中納言朝忠
45 あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
 拾遺集 巻15 恋5・950
謙徳公
46 由良のとをわたる舟人かぢをたえゆくへも知らぬ恋の道かな
 新古今集 巻11 恋1・1071
曾禰好忠
47 八重むぐらしげれる宿のさびしきに人こそ見えぬ秋は来にけり
 拾遺集 巻3 秋・140
恵慶法師
48 風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな
 詞花集 巻7 恋上・211
源重之
49 御垣守衛士の焚く火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ
 詞花集 巻7 恋上・225
大中臣能宣朝臣
50 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
 後遺集 巻12 恋2・669
藤原義孝
51 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
 後拾遺集 巻11 恋1・612
藤原実方朝臣
52 明けぬれば募るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな
 後拾遺集 巻12 恋2・672
藤原道信朝臣
53 なげきつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る
 拾遺集 巻14 恋4・912
右大将道綱母
54 忘れじのゆく末まではかたければけふを限りの命ともなが
 新古今集 巻13 恋3・1149
儀同三司母













55 滝の音は 絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
 拾遺集 巻8 雑上・449/千載集 巻16 雑上・1035
大納言公任(きんとう) 大覚寺
滝の音は:滝の流れ落ちる音は。
絶えて:滝の音が聞こえなくなって。
名こそながれて:「名」は評判・名声。「ながる」流れに伝わる、の意で「滝」の縁語。
なほきこえけれ:「なほ」は、依然としてやはり、「きこえ」下二段動詞「きこゆ」の連用形で、
           「(滝の)音」の縁語。「けれ」は詠嘆の助動詞「けり」の已然形で、上の係動詞
           「こそ」の結びである。



56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな
 後拾遺集 巻13 恋3・763
和泉式部 銕焼地蔵尊(かなやき)









57 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かげ
 新古今集 巻16 雑上・1499
紫式部 紫式部墓
蘆山寺
雲林院
千本ゑんま堂 引接寺
源氏物語
見しやそれとも:見たのがそれであるとも。「や」は疑問の係助詞。「それ」は表面は月、
          裏は友達を指す。
夜半:夜更け。
58 有馬山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
 後拾遺集 巻12 恋2・709
大弐三位
59 やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
 後拾遺集 巻12 恋2・680
赤染衛門
60 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
 金葉集二度本 巻9 雑上・550
小式部内侍
61 いにしえの奈良の都の八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな
 詞花集 巻1 春・29
伊勢大輔









62 夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
 後拾遺集 巻16 雑2・939
清少納言
夜をこめて:まだ夜の明けない深夜のうちに。
鳥のそらねをはかるとも:「鳥のそらね(空音)は鶏の鳴きまね。「はかる」はだます。
よに:下に打ち消しの語を伴う副詞。
逢坂の関: 逢坂は三関(伊勢の鈴鹿、美濃の不破、近江の逢坂)の内の一つ。
       百人一首では1025、の3つの歌に詠まれている。
63 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
 後拾遺集 巻13 恋3・750
左京大夫道雅












64 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたる瀬々の網代木
 千載集 巻6 冬・420
権中納言定頼(さだより)
朝ぼらけ:夜が白々と明け始める時分。
たえだえに:夜明けととともに、濃霧のところどころが消え薄れ、静かに移動していく様子。
あらはれ渡る:次々とあちらこちらの景色が現れる。
瀬瀬:「瀬」川の流れの浅いところ。
あじろ木:網代の杭。「網代」は氷魚をとるために竹や木で編んで、川瀬に立てる漁具。
宇治の川霧:宇治川の川面に立ちこめた朝霧。
65 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
 後拾遺集 巻14 恋4・815
相模
66 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
 金葉集二度本 巻9 雑上・521
前大僧正行尊
67 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ
 千載集 巻16 雑上・964
周防内侍








68 心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
 後拾遺集 巻15 雑1・860
三条院
心にもあらで:私の予期に反して。はやくこの世を去りたいという自分の本意に反して。
憂き世:つらいことの多い現世。
ながらへば:不本意にも生き永えた将来を仮想し、その時の自分の心を想像している表現。




69 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり
 後拾遺集 巻5 秋下・366
能因法師 竜田川
三室山
70 さびしさに宿をたちいでて眺むればいづくもおなじ秋の夕暮
 後拾遺集 巻4 秋上・333
良暹法師
さびしさに:寂しいので、「に」は原因・理由を示す格助詞。
宿:自分の住んでいる庵。
ながむれば:寂しい物思い気持ちからあたりをながめわたす意で、たんに眺望する意ではない。
71 夕ざれば門田の稲葉おとづれて芦のまろ屋に秋風ぞ吹く
 金葉集二度本 巻3 秋・173
大納言経信
72 音にきく高師の浜のあだ浪はかけじや袖の濡れもこそすれ
 金葉集 巻8 恋下・469
祐子内親王家紀伊
73 高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ
 後拾遺集 巻1 春上・120 
権中納言匡房











74 うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
  千載集 巻12 恋2・708
源俊頼朝臣 長谷寺
うかりける人:私にたいしてつれなかった人。自分が思っても、
         恋する相手がなびてくれなかった状況をいったもの。
山おろし:山から吹きおろす激しい風。
はげしかれとは:憂きことのはげしくあれとは、の意。
いのらぬものを:「ものを」は「・・・のに」の意を示す逆説の接続助詞。
初瀬:地名長谷寺がある。
75 契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり
 千載集 巻16 雑上・1026
藤原基俊
76 わたの原漕ぎいでてみればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
 詞花集 巻10 雑下・382
法性寺入道前関太政大臣
77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
 詞花集 巻7 恋上・229
崇徳院
瀬:川瀬お流れ。
滝川:急流、激流。
われても:「わる」は水の流れが分かれる意と、恋人同士が別れる意を掛ける。
78 淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜ねざめぬ須磨の関守
 金葉集 巻4 冬・270
源兼昌
79 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月の影のさやけさ
 新古今集 巻4 秋上・413
左京大夫顕輔
80 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
 千載集 巻13 恋3・802
待賢門院堀河
81 ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただ有明の月ぞ残れる
 千載集 巻3 夏・161
後徳大寺左大臣
ほととぎす:初夏を代表する歌材。
鳴きつるかた:今しも鳴いた方角。
ながむれば:ながめやると。
ただ:副詞で「のこれる」にかかる。「有明の月」を視野に入る唯一のものとして強調している表現。
有明の月:夜が明けても残っている月。
82 思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり
 千載集 巻13 恋3・818
道因法師
83 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
 千載集 巻17 雑中・1151
皇太后宮大夫俊成
84 長らへばまたこのころやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
 新古今集 巻18 雑下1843
藤原清輔朝臣
85 夜もすがら物思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
 千載集 巻12 恋2・766
俊恵法師











86 嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
 千載集 巻15 恋5・929
西行法師 弘川寺
京都・円山公園
大原野・勝持寺境内に西行桜
吉野・西行庵
なげけとて:(月が人に)嘆けといって、の意。
月やは物をおもはする:月が私に物思いをさせるのであろうか、いやそうではない。
     「やは」は、係助詞「や」「は」の複合形で反語。
かこちがほなる:「かこち」は四段動詞「かこつ」の連体形で、「かこつ」はかこつける、
     そのせいにする。あたかも月のせいであるような様子の、意。
87 村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ
 新古今集 巻5 秋下491
寂蓮法師
村雨:秋のにわか雨
まだひぬ:まだ乾かない
真木:杉・真・檜などの総称。
秋の夕暮れ:体言止め。物悲しく寂しい気分を余情として響かせている。 
88 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき
 千載集 巻13 恋3・807
皇嘉門院別当
89 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
 新古今集 巻11 恋1・1034
式子内親王
90 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
 千載集 巻14 恋4・886
殷富門院大輔
91 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりこも寝む
 新古今集 巻5 秋下518
後京極摂政前太政大臣
92 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかはく間もなし
 千載集 巻12 恋2・760
二上院讃岐
93 世の中は常にもがななぎさ漕ぐあまの小舟の綱手かなしも
 新勅撰集 巻8 羇旅・525
鎌倉右大臣
94 み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
 新古今集 巻5 秋下・483
参議雅経
96 花さそう嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
 新勅撰集 巻16 雑1.1052
入道前太政大臣
97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
 新勅撰集 巻16 雑1・1052
権中納言定家









98 風そよぐ ならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
 新勅撰集 巻3 夏・191
従二位家孝 上賀茂神社
みそぎ:「御祓」。罪や穢れを祓い落すことだが、ここは六月祓いのこと。
夏のしるし:夏であることの証拠。秋の気配が感じられるが、六月祓が行なわれているのだから
       まだ夏である。
ならの小川:上賀茂神社を流れる御手洗川。「なら」に楢を掛ける。







99 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
 続後選集 巻17 雑中・1202
後鳥羽院
人もをし人も恨めし:「をし」は「愛し」。
あぢきなく:つまらなく。おもしろくなく。











100 ももしきや古き軒端の忍ぶにもなほあまりある昔なりけり
 続後選集 巻18 雑下・1205
順徳院
ももしきや:「百敷」は宮、皇居にかかる枕詞から、皇居・宮中そのものを表わすようになった。
古き軒端:古く荒れた皇居の軒端。宮廷の衰微を暗示する。
忍ぶ:忍ぶ草と忍ぶとの掛詞。
なほ:やはり。
あまりある:いくら忍んでも忍びきれない。

参考資料

小倉百人一首歌碑めぐり

 

百人一首は最初からそう呼ばれていたわけでなく、百人一首という書名が初めて文献に出てくるのは、1406年(応永13年)の「百人一首抄」(応永抄)の序文である。「右百首は京極黄門小倉山庄色紙和歌也。それを世に百人一首と号するなり」(京極黄門とは定家のこと、京極は定家の邸宅があった場所、黄門は中納言)と記されている。当時は「小倉山庄色紙和歌」が正式名で、俗称として百人一首と呼ばれていた。百人一首は鎌倉時代初期の歌人定家の日記「名月記」には、文暦2年5月27日条に、「予、本より文字を書く事を知らず、嵯峨中院の障子の色紙形、ことさらに予、書くべきの由、彼の入道懇切なり。極めて見苦しき事といへども、なまじひに筆を染めて之を送る。古来の人の歌おのおの一首、天智天皇より以来、家隆、雅経に及ぶ。」と書かれている。藤原定家が息子為家の妻の父である宇都宮頼綱(法名蓮生)の求めにより、頼綱の嵯峨中院山荘の障子(ふすま)に貼る色紙に、「古今集」から「続後撰集」にいたる10冊の勅撰和歌集から秀歌を選んで書いて送ったことが由来である。

勅撰和歌集とは、天皇や上皇の勅命・院宣により編纂した歌集で、醍醐天皇朝の古今集(906年・延喜5年)に始まり、後花園天皇朝の新続古今集(1439年・永享11年)まで、21の勅撰和歌集があり、総称して二十一代集と呼ばれ、古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集・新勅撰集・続後撰集・続古今集・続拾遺集・新後撰集・玉葉集・続千載集・続後拾遺集・風雅集・新千載集・新拾遺集・新後拾遺集・新続古今集である。なお、準勅撰和歌集に南朝で編纂された新葉和歌集がある。

平安前期から鎌倉初期まで約300年間に撰進された古今集より新古今集までを八代集と称し、最初の古今集・後撰集・拾遺集は三代集と称されている。そして残りの鎌倉時代から室町初期に及ぶ新勅撰集から最後の新続古今集までを十三代集と称している。

百人一首の成立を考える上では「名月記」、「小倉色紙」、「百人秀歌」が重要な資料といわれている。

「名月記」は定家が19歳から74歳まで書き綴った日記で、安徳天皇が即位した年に始まり、源平の合戦、鎌倉幕府の誕生、後鳥羽院による院政、承久の乱、後鳥羽院の隠岐への配流と朝廷と幕府の勢力関係が逆転していく動乱の時代を感情豊かに記載している。

 「小倉色紙」は定家自身とされる色紙が30枚ほど残っている。ただし、武野紹鴎や今井宗久などが茶会の飾りに用いたことから価値が上り、偽者が出回っている。

 「百人秀歌」は1951年(昭和26年)有吉保氏によって宮内庁書陵部蔵本が発見され、内題に「嵯峨山荘色紙形京極黄門控」とある。その後冷泉家時雨亭文庫からも古写本が発見されている。百人秀歌は百人一首と配列が異なるが、百人一首の歌と作者が一致、このため別の作品・選者とは考えにくく、百人一首の草稿本と位置づけられている。百人秀歌の出現により、百人一首の選者は定家であると確定的になった。百人秀歌は総歌数が101首で、97首が百人一首と一致し、後鳥羽上皇・順徳上皇の歌は含まれず、藤原定子・源国信・藤原長方が加わっている。また、源俊頼の歌が「うかりける・・・祈らぬものを」の歌でなく、「山桜咲き・・・滝の白糸」となっている。後日為家によって補訂されたのが現在の百人一首である。配列は違いが大きく、百人一首が時代順を優先しているのに対し、百人秀歌は二首一対の歌合形式に比重が置かれていると見られている。

家隆の官位が百人一首では従二位、百人秀歌では正三位となっているので、百人秀歌が先に出来ている。

百人一首にわざわざ「小倉」と冠しているのは、後年同じような形式による百人一首の模擬作品が数多く出るようになり、それらと区別するための意味から山荘の地にちなんで「小倉百人一首」と呼ばれるようになった。江戸時代には「かるた」となり、多くの人々に愛され続けている。

定家が百人一首を選定したと伝える「時雨亭」(定家山荘跡)の伝承地は、「名月記」によれば、小倉山山麓にあったと伝えられ、現在、二尊院、常寂光寺、厭離庵の三ヵ所が「時雨亭」があったところと想定されている。

常寂光寺の多宝塔の左上奥に藤原定家・家隆の木造を祀る歌仙詞があり、これは「山州名跡志」に定家小祠は仁王門北側にあったのを、当寺創立の時、山上に移転したとあり、1890年(明治23年)定家650年祭にあたって祠堂を改築の時、富岡鉄斎が命名した。現在の建物は平安遷都1200年事業として改築した。その左横に「時雨亭跡」と書かれた石碑が建立され、松の若木が植えられている。

常寂光寺の仁王門側には歌番号26貞信公(藤原忠平)「小倉山峰のもみじ葉心あらば今ひとたびの御幸またなむ」の石碑の上に丸い穴のあいた歌碑や「藤原定家山荘跡」、「小倉百人一首編纂地」の石碑もあり、常寂光寺は別名「軒端寺」とも呼ばれている。

二尊院本堂の右奥上中腹にある法然の弟子湛空上人廟の左奥より南に約100mの山道が続き、京都市外が望める開けた場所に、数個の小岩を階段状に三段に並べた上に平たい岩があり、隣に「時雨亭跡藤原定家卿選定の遺跡」の説明板が建てられている。また、本堂前には「軒端の松」が植えられ、「忍ばれんものともなしに小倉山軒端の松ぞ馴れて久しき」の定家の歌説明板がある。法然⇒

厭離庵は、以前訪れたときのパンフレットには「皇都西嵯峨、小倉山の麓なる厭離庵は京極黄門定家卿が住みし山麓の旧跡で、小倉百人一首を編纂した処である。その後、久しく荒廃せしを冷泉家が修復し、霊元法皇より「厭離庵」の寺号を賜り、1772年~1781年(安永年間)より・・・・。高台寺の傘亭に似た茶室が作られている。定家は京極家、為家は冷泉家、孫の為氏は二条家、そして「十六夜日記」を詩した阿仏尼は為家卿の後妻にあたり・・・・。」と載っている。現在、茶室時雨亭があるが、1923年(大正12年)の建築である。また、定家が筆を洗ったといわれる「柳の井」や定家塚もある。

厭離庵は通常非公開であるが、一年に1回、紅葉の季節に公開している。

大堰川(保津川)の対岸に嵐山を望む亀山公園の一角に、小倉百人一首の殿堂「時雨殿」がある。

時雨殿は小倉山の麓にあった藤原定家の山荘「時雨亭」にちなんで命名されている。

小倉百人一首文化財団は商工会議所120周年記念行事として、2006年(平成15年)11月17日に設立された。この財団は小倉百人一首を通じて、文化・芸術・産学などの分野の更なる発展や観光の振興に貢献することを目的としている。中核となる「時雨殿」の運営をはじめとして、小倉百人一首の歌碑建立や芸術文化事業の開催など、小倉百人一首の普及・発展のための活動に取り組んでいる。2013年(平成25年)4月1日に「公益財団法人小倉百人一首文化財団」に移行した。

 時雨殿は、2007年(平成19年)10月につくられた。

 2011年(平成23年)4月1日休館、9月からリニューアル改修工事を行い、2012年(平成24年)3月12日にリニューアルした。

 最初の時雨殿は当時のデジタル技術などハイテク機器を使用して、「ニンテンドウフロアビジョン」で、百人一首や空中写真が表示してあった。フロアビジョン上のカルタを探したり、京都市内の観光名所を空中散歩が出来るようになっていた。正面のスクリーンに、紫式部や清少納言など女歌人と、向かい合って対戦するようになっている「体感カルタ五番勝負」、円筒の上が球状になったスクリーンで五つのクイズに挑戦するようになっている「謎解きの井筒」がある。二階には120畳の大広間に平安歌人達の人形によるかるた大会の様子がわかるように設置されていた。

 リニューアルした時雨殿は、百人一首の多用な世界を体感できるミュージアムとしている。常設展スペースとして、百人一首の世界を「見て」「感じて」「学ぶ」をテーマに、貴重な資料、百体の歌仙人形や歌詠みするシーを再現するジオドラマなどがある。二階は、120畳の大広間に、平安時代の王朝文化を体感できる平安衣装を着て記念撮影が出来るコーナー、百人一首にまつわるワークショップや講演会などの企画展のほか、近隣の寺社の宝物展なども開催できるようになっている。

桜満開の一日、小倉百人一首歌碑めぐりをして、百首全部の歌碑と解説の写真を撮ることにした。

 歌碑は企業・団体などの寄付で全国の著名な書家などに歌を揮毫、建立した歌碑である。嵐山・嵯峨野地域は、山紫水明の地として古来より王朝人や文人をはじめ多くの人々から愛されてきた。嵐山・嵯峨野の五地区(嵐山東地区・亀山地区・長神の杜地区・野々宮地区・奥野々宮地区)に100個の歌碑が建立されている。歌碑の横には出典勅撰和歌集・歌番号・和歌・歌意・作者・書家名及び携帯用QRコードが書かれた陶板が建てられている。

  阪急嵐山線「松尾駅」より、桜満開の松尾大社へ参拝の後、嵐山東公園に向かった。この公園は嵐山の中の島公園と松尾駅の中間に位置した桂川に面したところにある。この「嵐山東地区」には、池の廻りに、金葉集、千載集、続後撰集より歌碑に書かれた和歌が選出されている。

 「金葉集」約700首は白河上皇が院政をしいていた時代に、源俊頼が撰したものである。数回の奏上返却を経て、1126年(大治元年)ようやく嘉納された。その書名はすぐれた和歌の意味で、白河上皇ゆかりの人達が多く採用され、摂関政治から院政への過渡期を表すように、新しい方向へと示している。源俊頼などが革新的で新鮮な情景歌を詠み、田園的な風趣、新規な用語等、特異な歌風を生んでいる。

 60 小式部内部 「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」

 71 源経信    「夕されば門田の稲葉おとづれてあしのまろやに秋風ぞ吹く」

など五首の歌碑が作られている。

 「千載集」は定家の父俊成が1183年(寿永2年)に後白河上皇の院宣を受けて、1188年(文治4年)に選集したものである。一条天皇からの約200年間を対象とし、約1300首の歌を収録している。その特徴は、金葉・詞花時代の趣向のおかしさや奇抜さを抑え、古典的抒情を旨としつつ、新しく余情幽玄を志向し、述懐的詠嘆的な調べが中心となっている。なお、この歌集には、平清盛末弟忠度が都落ちの際に俊成に託した歌が読み人知らずとして採録されるなどのエピソードがある。

 83 藤原俊成 「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」

 86 西行法師 「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」

など十四首の歌碑が作られている。

 「続後選集」は定家の息子為家が、1248年(宝治2年)後嵯峨上皇の院宣を受け、1251年(建長3年)に選定したものである。後嵯峨上皇の治世を讃える念が顕著で、温雅平坦な歌が多いことが特色といわれ、後の世に花実相応の和歌集と評された。ただ、この和歌集は1241年(仁治2年)の定家の死後に選定されたもので、為家が定家の意をくんで新勅撰集からはずされた後鳥羽上皇、順徳上皇の歌を選んだと考えられている。

 99 後鳥羽上皇 「人もおし人もうらめしあじきなく世を思う故にもの思ふ身は」

100 順徳上皇 「百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」

など二首の歌碑が作られている。

 嵐山中の島公園に向かったが大変な人出であった。渡月橋を渡るにも、途中で写真を写す人で混雑している。その中を亀山公園に向かった。「亀山地区」には、古今集、拾遺集、後拾遺集より歌碑に書かれた和歌が撰出されている。

 「古今集」はわが国最初の勅撰集で、醍醐天皇の勅命を受け、905年(延喜5年)紀貫之ら四人を選者として奏上された。万葉集以後約一世紀間にわたる約千百首の歌を収録し、後の和歌集の規範となった。古今集の歌は、歌の中で結句以外で意味や調子が切れる句切で、初句切・三句切が多く、調べが流麗といわれている。古今集の歌風は、理知的で技巧的といわれ、賀茂真淵は、万葉集を「ますらおぶり」と表現し、古今集を「たをやめぶり」といっている。

  9 小野小町 「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながませしまに」

 35 紀貫之  「人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」

など二十四首の歌碑が作られている。

 「拾遺集」は約千三百五十首の歌を収め、花山院が近臣の藤原長能などの協力を得て、1005年(寛弘2年)から1007年(寛弘4年)の間に撰したといわれている。藤原公任の「拾遺抄」の歌を全て収め、構成も踏襲されており、「拾遺抄」を増補して成立したとの説が有力である。花山院の文芸趣味から成立した私撰集的性格を有し、紀貫之や柿本人麻呂が高く評価され、優雅で穏やかな歌語と趣向によって、優美平坦な余情美の世界をかもし出している。

  3 柿本人麻呂 「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」

 55 藤原公任  「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」など十一首の歌碑が作られている。

 「後拾遺集」は白河天皇が側近の藤原通俊に命じて奏上させたものである。1075年(承保2年)選集の命を受け、1086年(応徳3年)に出来た。藤原道長・頼道父子の摂関家の黄金時代を中心に、村上天皇以降十一代約百三十年間の歌約千二百首を収めている。歌風は拾遺集をおおむね踏襲しているが、和泉式部や赤染衛門などの女流歌人が多く採用され、絢爛華麗な傾向を強めている。

 59 赤染衛門 「やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月をみしかな」

 62 清少納言 「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」

など十一首の歌碑が作られている。

 次いで、二尊院隣の「長神の杜(小倉百人一首文芸苑)」に向かった。この文芸苑には、新古今集、詞花集より歌碑に書かれた和歌が撰出されている。

 「新古今集」は、後に承久の乱で破れ、隠岐に配流された後鳥羽上皇が選定させたもので、約二千首の歌が収録されている。その奏覧は1205年(元久2年)だが、成立後も上皇が積極的な手を加えている。その歌風はしみじみとわきあがる余情を象徴的に表現した新古今調として、高く評価されている。技巧的に古歌の言葉の一部をそのまま取り入れて新たな歌を詠む本歌取や句の終わりを名詞・代名詞・数詞で止める表現の休言止め、三句切などの技法を縦横に駆使し、華やかな中に寂しさのある美しさを詠い、以後の和歌の世界に多大な影響を与えた。なお、余談であるが、「体言止め」で有名な「三夕の歌」がある。これは「新古今集」の秋上に並ぶ三首(361寂蓮・362西行・363定家)のことで三句の末尾「けり」と結句「秋の夕暮れ」が共通している。結句を体言止めにすることでよりしみじみと余韻を残している。

  2 持統天皇 「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」

 57 紫式部  「めぐり逢いて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな」など十四首の歌碑が作られている。

 「詞花集」は、後に保元の乱で讃岐に配流された崇徳上皇が藤原顕輔に撰させたもので、1151年(仁平元年)撰進された。金葉集を範として部類され、収録歌数は勅撰集中も少ない約400首(精選本)となっている。この和歌集は成立後さまざまな反響を呼び、藤原為経(寂超)や藤原教長が論難書を出して非難している。その歌風は、清新な情景歌と詠嘆述懐的な「あはれ」な歌とに特色があるといわれている。

 61 伊勢大輔 「いにしえの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな」

 77 崇徳院  「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」

など五首の歌碑が作られている。

 次に、野々宮神社近くの「奥野々宮地区」に向かった。後撰集より歌碑に書かれた和歌が撰出されている。

 「後撰集」は「梨壺の五人」と称される大中臣能宣・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城を選者とし、951年(天暦5年)に村上天皇の勅命を受け、昭陽舎(梨壺)に撰和歌所が置かれた。955年(天暦9年)前後に成立し、約千四百首の歌からなっている。歌の配列順など古今集を基準にしているが、古今集に比べ、日常的でくだけた感がある。恋の贈答歌が多く、藤原氏を中心とする公達たち、当時の社交界の花形たちが女房たちとさまざまに交わした恋の語らいや逸話が多彩に記されている。

  1 天智天皇 「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ我が衣手は露に濡れつつ」

 10 蝉丸   「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」

など七首の歌碑が作られている。

続いてここもまた、野々宮神社近くにある「野々宮地区」に向かった。新勅撰集より4首の歌碑がある。

 「新勅撰集」は1232年(貞永元年)後堀河天皇からの勅命を受け、1235年(文暦2年)に定家が選定した歌集で、約千四百首が収録されている。承久の乱後の最初の勅撰集であったことから、後鳥羽・土御門・順徳三上皇の歌を一首も載せないなど、政治的配慮から選者の意向はかなり屈折させられたものであった。その歌風は平淡優雅な歌を主としており、妖艶華麗な新古今集とは異なる定家晩年の好みが反映しているといわれている。

 97 定家 「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」

 98 家隆 「風そよぐ楢の小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける」

など四首の歌碑が作られている。

 

 

 

 

その他参考資料

 

※王朝時代には「草合」「鳥合」「絵合」など左右に分かれて優劣を競う「物合」が流行した。「歌合」もこれらの教養ある風雅な遊びの一つで、中でも「天徳内裏歌合」が有名である。

   歌番号40平兼盛の「忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思うと人の問うまで」

   歌番号41壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそおもいそめしか」

   この二首は、歌合において「恋」という題で競い合った名歌中の名歌で判者が勝敗を決められなかったので、村上天皇の意向で、平兼盛の勝ちとなった。兼盛・忠見共に36歌仙の一人である。

方人(かたうど)と呼ばれる参加者(後宮女性)を配し、左方を赤系、右方を青系の対照美に調えており、その規模や豪華さなどから後世の歌合の規範とされている。

 

※後鳥羽上皇と定家の二人を結びつけたものは、和歌の世界であった。上皇21才、定家39才、上皇は定家の和歌の世界に強く心を引かれ、定家は上皇によってその才能を世に広く認められるようになった。上皇は定家の才能を見出し、定家は上皇の芸術上の師となった。ところが、和歌に政治的なものを求めようとする上皇と、和歌を純粋に文学として捉えようとする定家とでは、根本的に和歌観が違うのである。二人の確執は、上皇が起こした承久の乱の直前に決定的となる。1220年(承久2年)2月13日の内裏の歌会で、定家が場所柄をわきまえない言葉を使ったことに対して、上皇の怒りが炸裂し、定家は宮廷の歌会からボイコットされてしまった。宮廷で歌を詠むことを禁じられたのだから、宮廷歌人にとっては失脚同然であった。承久の乱に敗れた上皇は隠岐へ流罪となった。低家は後鳥羽上皇と仲たがいしていたことも幸いし、歌詠みとしては異例の出世とも思える権中納言に任じられる。しかし、彼は1年でその職を退き、小倉山の麓にこもってしまった。一方、配流の身となった。上皇は、隠岐での19年間を和歌の世界に没頭した。上皇が隠岐で編纂した「時代不同歌合」には、時代を超えて選ばれた万葉以来の100人の王朝歌人の歌が三首ずつ掲載されていた。その中には藤原定家の名前が入っていた。定家が編纂した百人一首には後鳥羽上皇に対する定家の思いが隠されているという。しかし鎌倉幕府に対してのジレンマがある。「沖つ白波、おきまどわせる、あまの小舟、あまのつり船」など「隠岐」や「海士」の言葉を入れている。

 

※定家はもともと「定家八代集」「八代集秀逸」「秀歌Ⅹ大略」などの勅撰和歌集秀歌選をまとめていた。それをさらにしぼって今度の色紙和歌の草案本「百人一首」とでは、前者に後鳥羽院・順徳院がなく、源俊頼の歌も違うかわり、皇后宮定子、国信、長方の歌があって、改訂されたことが判る。その改訂の理由・時期・改撰者などについては、ミステリー風邪に何人もの学者から推理が提出されているが、つまりは定家自身、公式の著述では鎌倉幕府の権力をはばかってきたが、私的な染筆のさいには、自分の信念をかくさなかった、という事情がひそんでいたのだろう。つまり、現在の「百人一首」は、小倉山に近い中院山荘に書いた色紙和歌そのままだったろうと思われるのである。中世の歌学者の一つは、「小倉色紙」が歌仙絵を伴っていたと伝える。ことの真偽は不明だが、定家の選び方には、当時流行していた。歌仙歌合を頭に置いていたふしがある。作者の二人一組の組み合わせに、親子兄弟、ライバル、身分などを考慮したようだ。鎌倉時代には、公任撰「三十六歌仙」や、後鳥羽上皇撰「時代不同歌合」など、有名歌人の画像を和歌に書き添えることが起こって、独得の肖像が文化を成り立たせ手いる。当然歌仙絵は百人一首とも結びついて、色紙・画帖・版本・絵物語・扁額など、多種多様な百人一首絵を生み出してきた。現在のカルタに直結する百人一首絵の傑作として有名なのは、九条家伝来の緒形光琳の「小倉百人一首」である。読札に歌仙絵、取札に花鳥山水を描いた琳派大和絵の装飾様式は、歌・書・絵の三位一体ともいうべき芸術品である。また、それより時代の古い。寛文ごろの製作といわれる近衛家陽明文庫「百人一首」も近年紹介されて脚光を浴びた。絵師・筆者とも不明ながら優品である。

 

※天智天皇を祀る近江神宮は、近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社である。滋賀県西部琵琶湖西岸の山裾に位置している。旧官幣大社・勅祭社である。社殿は近江造り・昭和造りといわれ、昭和の神社建築の代表として登録文化財となっている。漏刻(水時計)・百人一首かるた・やぶさめで知られ、開運・みちびきの神・産業文化学問の神として崇敬されている。

 

※中国の唐歌に対し、日本の大和絵を和歌といい、五音と七音の言葉で後世されていることが特徴である。

 

※平安時代には貝の内側に絵を描き合う一対を探す「貝合せ」から発展した「歌貝」は、貝に描かれた上の句を読み、同じく貝に描かれた下の句を取るという現在のかるた遊びのきげんとなる。

 

 ※毎年1月3日に八坂神社で、平安装束を着た人々が「かるた初め式」を行っている。日本で初めて和歌を読んだと伝わるスサノオノミコトにかるた取りを奉納する神事である。

 

 ※定家二十才の時、後白河院の娘・式子内親王に恋心を感じ、四十八才の内親王の病死で四十才の定家は驚き悲嘆に暮れた。能「定家」は式子内親王の墓にまとわりつく「定家かずら」が彼のX悩・執着心を表す。式子内親王の歌は低家でなく法然への思慕だと解釈する説がある。

 

 ※厭離庵補足・・・明治43年白木屋大村彦太郎が仏堂と庫裏を建立し、山岡鉄舟の娘素心尼が住職となり尼寺となった。

 

※嵯峨慈眼堂・・・清涼寺から二尊院方面西へ延びるこの慈眼堂前の道は愛宕街道で、この両側一帯が中院である。12世紀末、定家は中院に山荘を構え、嵯峨の自然を愛してしばしばこの地を訪れた。慈眼堂の本尊である木造千手観音立像は付属する古文書によると定家の念持仏で定家の没後、為家が伝領し、為家からこの地の人々に与えられたものと伝え、長くこの地の豪農浜松屋善助屋敷内の堂に祀られていた。像は寄き造り、漆箔、彫眼の技法によって製作されており、もの静かな面相と程よい肉身に、小作りの脇手を配している。保存状態は良く、天衣の体から遊離した部分や、微細な脇手持物の一部までも残っている。本像は、1241年(仁治2年)80才で亡くなった定家の念持仏とする伝承にふさわしく、12世紀後半の洋風を美作として貴重なものであり、昭和60年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。なお、慈眼堂では中院の人々が毎年正月14日の夜から15日の日出まで「日待」の行事を行い、定家、為家の法要も営んでいる。(慈眼堂・中院観音)・・・京都市看板より

 

※中院山荘跡(小倉百人一首ゆかりの地)・・・京都市看板より・・・・厭離庵参道の入口の横にある

   鎌倉時代の初め、この辺りに、僧蓮生の中院山荘があった。蓮生は俗名を宇都宮頼綱といい、下野国の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。(この時郎党60余人も同様出家した。)の地に上洛し、法然上人、ついで善惠上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山荘に山荘を構えていた定家とも親交があり、彼の娘が為家に嫁いでいる。1235年(嘉禎元年)、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の撰歌に、後世、後鳥羽・順徳両院の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。

 

※為家の墓

   中院山荘を蓮生から受継いだのは為家で、このため家の墓が、厭離庵東側の小さな公園の際にある。為家は1275年(建治元年)に死去し、この厭離庵東に埋葬されたと伝えられている。「中院入道大納言藤原為家卿之墓」の石標があり、その数m先に、石柵で囲まれ、両側に小さな石灯篭、中には小さな石と長い木がある。石灯篭にも、石標と同じ墓名がある。横の方には「定家卿墳遥拝所」とかいた石標がある。

 

※猿丸太夫

   三十六歌仙の一人でありながら、確実に詠んだとされる歌は一首として残っていない。不思議な人物である。この歌は「寛平御時后宮歌合」で詠まれたものだが、作者は「よみ人知らず」となっているし、「古今集」でも「題知らずよみ人知らず」と出ており、猿丸太夫の作である根拠はない。家集「猿丸集」もいわゆる古歌集で、はっきり猿丸作とわかっている歌はひとつもないのである。藤原公任や定家は、歌そのものを評価して選出したと思われる。

 

※伊勢・・・美貌・才能・性格と三拍子そろった完璧な女性

   紀貫之と並び称されるほどの一流歌人である一方、恋多き女としても有名だった。宇多天皇の中宮温子に仕えていた伊勢は、温子の兄、仲平と恋仲になるが、身分の違いから、仲平からふられた。慰めようと多くの男性が言い寄ったが、心に決めたのは宇多天皇であった。天皇との間に皇子をもうけた。温子とライバル関係になったが交遊は続いた。宇多天皇退位後は天皇の第四皇子敦慶親王に寵愛され、娘の中務(三十六歌仙の一人)を産んだ。