一休寺地図
薪神社
(薪能発祥の地)地図
棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)地図

総門

 正式寺名を酬恩庵と呼び、通称一休寺として親しまれている。

1506年に建立され、京都、奈良の禅宗建築としては最古の

ものです。

 一休禅師は伝説のとおり聡明で優しく、81歳で大徳寺の住職

となりました。

 そして、酬恩庵(一休寺)を愛し、酬恩庵から京まで通ったそ

うです。

 一休さんが京田辺市薪の酬恩庵に住まわれたのは、室町時代

中ごろの、1456年(康正2年)の、63才のころでした。

 そして、同じく室町時代の1481年(文明13年) 11月21日

88才で亡くなられるまでの約25年間、一休寺は晩年の住み

寺となりました。 

本堂(重文) 庫裏(重文) 開山堂 唐門(重文)
本堂
 室町時代6第目将軍、足利義教の帰依により建てられた。
入母屋造り檜皮葺きで、内部には釈迦如来文殊菩薩普賢菩薩を祀り山城・大和の唐様仏殿としては一番古い遺構の建造物である。
庫裏
 慶安3年(1650)前田家が当時再建時新築された。樹齢400年のしだれ松がある。
開山堂
 大正時代に改築されたもので内陣には大応国師の木像が安置されている。
唐門
 慶安3年(1650)前田家が当時再建時新築された。欄間には獅子と鳳の彫刻がほどこされている。
参道 浴室(重文) 一休禅師墓所 東司(重文)
参道
 モミジ、白萩・紅萩の植え込みが続いている。
浴室
 慶安3年(1650)方丈等再建時に修復したものである。当時は蒸し風呂で、薬湯であったといわれている。
一休禅師墓所
 一休禅師は後小松天皇の皇子であるので墓所は宮内庁が管理している。
東司
 慶安3年(1650)前田家が当時再建時新築された。お手洗いのことをいう。        
一休禅師像
一休禅師木像(重文)右端
 方丈中央に安置されている。
 禅師88歳の時高弟墨斎禅師に命じて彫刻させた。
 頭髪、髭は自らのものを植えさせた。
一休禅師⇒⇒⇒
拝観の手引き⇒⇒⇒
方丈庭園
 南庭、北庭、東庭の三面からなる方丈庭園は江戸時代の代表的な庭とされている。
 石塔や石燈籠、手水鉢などを配し、石組みで枯れ滝を表現した蓬莱庭園(写真中)。
方丈(重文)
 禅宗寺院における住職の接客や、私事に使う建物で、居間となるところ。
 加賀城主前田利常公が大阪の陣の時、木津川に陣をしき当寺に参詣したおり、寺の荒廃を歎き、再建されたもの。
 内部襖絵は江戸時代初期の画家狩野探幽斎守信の筆によるもの。 

酬恩庵
 当時の元の名は妙勝寺といった。臨済宗の高僧大応国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び帰朝後禅の道場をこの地に建てたのが始めである。
その後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを6代の孫にあたる一休禅師が康正年中(1455〜6)宋祖の道風を慕って堂宇を再興し恩師にむくいる意味で酬恩庵と命名しここで後半の生涯を送り、81歳で大徳寺の住職となったときもこの寺から通われた。
文明13年(1481)11月21日88歳の高齢を以て当時において示寂し遺骨を当所に葬ったのである。
建造物としては足利義教公寄進の本堂(永享年間1429〜40)、慶安3年(1650)加賀城主前田利常公の寄進による方丈、庫裏、唐門、鐘楼、浴室、東司等また、一休禅師が住まわれた虎丘庵墓所である御廟所がある。
庭園としては虎丘庭園(室町時代)方丈庭園(江戸時代)がありともに禅院枯山水の庭で名勝指定を受けている。
諸悪莫作(しょあくまくさ・諸の悪を作すことなかれ)
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう・衆の善を奉行せよ)

 これは一休和尚の筆になる七仏痛戒(ひちぶつつうかい)の偈(げ)の中の詞白でお釈迦様の弟子である阿難尊者(あなんそんじゃ)の作といわれ意味は数々の悪行をすることなく多くの善行をすれば自然に心が清く美しくなるというお釈迦様の教えである。


<薪神社(薪能発祥の地)>地図

   
地図 

 一休寺総門前の一休坂を西へ1 00mほど歩くと薪神社(たきぎじんじゃ)がある。
能役者金春禅竹(に
んぱるぜんちく1405-1570年)が一休禅師のために猿楽を演じたと伝えら
れる場所で、「薪能(た
きぎのう)」の名称はこの地で野外能を演じたことから起こったと云われ
ている。

 境内社殿前には薪能発祥の碑があり、「能楽は薪能即ち金春流に初まり、次に宝生能観世能
は大住に、金剛
能は大和に発祥」 と彫られている。

 一休寺山門前の「薪能金春芝旧跡」という碑文はやはりこの付近で金春禅竹が一休禅師に猿
楽の
能を演じ観覧に供したことを伝えている。金春禅竹(1405一1570年)は室町時代の能役

者,能作者で,大和四座のひとつ円満井座(えんまいざ 金春座)の太夫金春弥三郎の子。能楽の

大成者世阿弥(ぜあみ1363-1443年)の娘婿となり,世阿弥の能を発展させ,金春流隆

盛の基礎を固めたとされる。応仁の乱(1467-1477年)の際, 一休が酬恩庵に難を避けて

いた間禅竹も薪の多福庵に移り二人の間に交流があったとされる。一休も禅竹の影響で能に関

心を示し,謡曲の「山姥(やまうば)」「江口 (えぐち)」は一休の作との説もある。一休禅師は

応仁の乱で荒れる世の中で薪能という日本の大切な文化を育成した功労者でもあるのだろう。



棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)

   
天香古山命(別名高倉下命。手栗彦命)をまつる式内社で 大社に位置づけられていた。
『日本三代実録』の貞観元年(八五九)
正月従五位上に叙せられた諸神に「棚合孫神」と記されている。

現在の本殿(京都府登録文化財)は桃山時代の再建でー間社流造、屋根は檜皮葺である。
本殿脇に天正二年(一五七四)の
銘をもつ石灯籠がある。

元禄十五年(一七〇二)には、淀藩主石川憲之から、石鳥居石段・石橋の奉納があり、毎年御供料の寄進
を得た。
広い
境内には拝殿、絵馬殿、宮寺(現社務所)など江戸時代の建物がよく残り、絵馬殿には多くの絵馬が
掲げられている

   
瑞饋神輿 (京田辺市指定文化財)

 秋に収穫される二十六種類ほどの野菜や穀類で飾られる神輿で、屋根は瑞饋
(サトイモの葉柄) で葺かれる。明治時代
の中ごろから造られるようになった。
昭和四年(一九二九)で
中断していたが、昭和五十年(一九七五)に,部の模型を製作。

昭和五十三年に「瑞饋神輿保存会」結成、以後は隔年で製作十月体育の日に田辺
区域内を巡行する。

   
     

 祭神は、大永6年(1526年)の棚倉孫神社紀によると、推古(すいこ)天皇31年(623年)9月に

相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請するとある。別名を天香古山命(あ

めのかごやまのみこと)、また手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも申しあげ、天照大御神(あま

てらすおおみかみ)の曾孫(ひこ)で、天神(あまつかみ)の直系である。

古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨(てんそんこうりん)に父命(饒速日命)と共に降り紀

州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功をたてられた

とある。

 『日本三代実録』の清和(せいわ)天皇、貞観元年(859年)正月27日に畿内七道諸神進階及び新

叙があり、267社の中に「棚倉孫神」が従五位下から従五位上の神位を賜った。

〇畿内七道は大宝律令で大宝元年(701年)制定。

山城国・大和国・河内国・摂津国・和泉国(京都付近の五か国)

東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道

延喜式内の棚倉孫神社 旧社格は郷社(昭和6年2月に列せられる)

延喜5年(905年)に着手し、延長5年(927年)に完成の『延喜式神名帳』に掲載されている神社

であり、創建が延喜以前であることがわかる。

松寿院跡京田辺市田辺棚倉一五番地

 本寺は天満神社を祀る式内棚倉孫神社の神宮寺として建てら

れ、真言宗に属し智積院の管下にあった。設立された年代は明

らかでないが、寛文年間(一六六一〜一六七三)あるいは享保

年間(一七一六〜一七三六)の記録が残っている。淀城主の鳥

居寄進についての古文書に宛名が社僧松寿院と記録されている。

当時は天満宮を松寿院が管理していたことがわかる。

 本院は、天保十四年(一八四三)現在のものに建てかえられ

明治初期に神仏分離政策によって、本院は廃寺となった。ま

た、安政五年(一八五八)から明治四年(一八七一)まで寺小

屋として子どもの教育の場に使用され、明治五年の学制発布に

より田辺小学校開設準備が始まり、その間、本院が田辺小学校

の仮校舎として使用され、明治六年五月、田辺小学校校舎が田

辺烏本一〇二番地に新築完成と同時に本院は棚倉孫神社の社
所となった。

京田辺市教育委員会

京田辺市文化財保護委員会