内山永久寺についてくわしく 

 内山永久寺は、天理市杣之内町内山方のわずかな田園の中に当時の面影を残す本堂池と萱御所跡の碑のみが残り、わずかにその存在を示す標識板が、山の辺の道を散策する人達の目に留まるばかりで、中には通り過ぎて行く人々の多いこと、誠に地元の文化遺産としてもったいない話である。
 多くの古文書によって寺運の隆盛が偲ばれるが、この寺は、総院号を金剛乗院といい、真言宗(古義派)に属し、阿弥陀如来を安置していた。
 鳥羽天皇の勅願により創立され、そのときの永久年間であったので内山寺と称え、その地は五鈷杵(ごこしょ)の形をして内に一つの山があったので内山と号したという。
 室町時代には「大乗院寺社雑記事」にしばしば記載されている。寺領は971石で、境内は、五町四方の広大な地域を占め、江戸時代末期まで40有余坊の伽藍があり、上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に石畳が敷かれ、参詣者は常に絶えなかったという。
 元治元年(1864)勤皇派の絵師、冷泉為恭(岡田為恭)も一時この寺に身を寄せていた。
 こうした隆盛を極め、大和の日光といわれた豪華な堂坊や貴重な仏像・障壁画・仏画なども現在では各所に散逸してしまった。
 仏画「四天王図」(広目天像・持国天像・多聞天像・増長天像の四幅)も、日本にあれば間違いなく国宝といわれるわが国仏教美術の粋を示すもので、ボストン美術館が所蔵している。
 明治元年(1868)、日本中に吹き荒れた神仏分離令にともなう厳しい弾圧に内山永久寺とて例外ではなく、この大寺院の混乱も激しく、その寺宝も国内外に散逸。
 いま、「山の辺の道」を訪れる人達も、この寺跡に目をとどめることも少なく、その存在すら知らぬげに静に時が流れて行く。
 この四天王図は、高さ148cm、幅73cmの絹布にあざやかに描かれた仏画で、鎌倉時代を代表する作品で、四天王は、東方を鎮護する持国天、南方を鎮護する増長天、西方を鎮護する広目天、北方を鎮護する多聞天からなっているがただ全体に損傷がかなりあり、持国天、増長天については顔の剥離が激しく痛ましい。
 この四天王図は、明治11年東京大学で哲学を講じたアーネスト・フェノロサの収集したもので、世界三大美術館といわれるボストン美術館に他のすぐれた東洋美術(屏風・絵巻物・浮世絵・仏画など)とともに所蔵されている。
 また柳沢孝氏によって明らかにされた内山永久手寺から流出した美術品には真言八祖行状図、龍猛・善無畏(もうこ・ぜんむい)で、これは真言密教の祖、龍猛・善無畏が、両界曼荼羅のよりどころとなる二大経典、大日経と金剛頂経を感得・相承するという伝承を表した二図である。
 後にこの二幅の図は、永久寺真言堂にあったものとして「両部大経感得図」として公表され、昭和48年に国宝に指定され藤田美術館に所蔵されている。
 龍猛図は、高揚した木々をはじめ咲きみだれる秋草などが風趣を添え、善無畏の図は、満開の桜や若芽のもえ出た柳などの春の風物詩が描かれている。平安時代の大和絵の雰囲気を漂わす傑作である。
また東京国立博物館に所蔵されている「内山置文」に、平安末期、奈良・内山に建立されていた「永久寺」のいわくが書かれており、その真言堂に両界曼荼羅や障子絵、真言八祖像などがあったことが記されているという。

   文章は、平成7年10月末発行 八剣公民館だより 「私たちの郷土を探る まぼろしの内山永久寺 寺宝はどこに」  より

 
五鈷杵(ごこしょ)
ごこ しょ (五▼鈷▼杵・五股▼杵)
金剛杵こんごうしよの一種。両端が五個の
股から成っている。五鈷。→金剛杵
こんごうしょ —がう— (金剛▼杵)
古代インドの武器。のち密教で,煩悩を打
ち砕く仏の智慧を象徴する法具。細長く手
に握れるくらいの大きさで,両端のとがった
独鈷とつこ,両端が三つに分かれている三鈷,
五つに分かれている五鈷などがある。金剛。

大辞林 第三版

 天理図書館などに「内山之起」「和州内山永久時之縁起」などの記録から、永久寺とは、平安末期の永久2年(1114)鳥羽天皇の勅命により、興福寺の僧の手で創建された由緒ある寺で、内山置文(巻物)をひもとくと、多宝塔のいわくを記した部分に、表面の字以外に裏書きされ、その補足に多宝塔は、前関白の藤原忠実やその娘で鳥羽上皇の妃となった泰子などに奉納された。
 この泰子は、改名前は勲子といい、関白藤原忠実の娘で後に鳥羽上皇に長承2年(1133)に入内、翌年立后、泰子と改名、数年後に高陽院の院号を授かる。
 この泰子立后後の保延2年(1136)真言堂が建立され、藤原忠実は鳥羽上皇との握手の記念碑(モニュメント)として多宝塔、本堂と伽藍の整備に力を尽くし、摂関全盛期を象徴する藤原頼道の宇治の平等院を構想の中に入れ、優雅に豪奢にと望み、そこに多くの仏像や仏画が安置されていた。
 この寺の名に、永久という年号(1113~18)がついていることから、由緒ある寺であったことは確かである。(例えば、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺など格式の高い存在からすると)
 ただ、末法思想が蔓延した時代で、藤原忠実は藤原一族の再興をめざしたが、院政がしかれ、武士の力が台頭してくるときで、貴族はただ宗教にすがることしかできなかったのではないか。(永井路子談)
 しかし、750年余年続いた優雅で華麗な寺院も明治初年(1868)の明治政府が発したこの布告により、「廃仏希釈」行われ、各地で寺院や仏像、仏教美術が破壊され、多くの僧侶は職を追われ、完璧なまでに消滅してしまった。
 現在、わずかに池や突き出した小島に過去の華麗な寺院の面影を残しているが、奈良文化財研究所の調査によると、この池は浄瑠璃寺と同じような浄土式庭園だったとされている。
 鈴木家所蔵の古文書から、文禄4年(1595)の豊臣秀吉の朱印状には、永久寺はいわゆる太閤検地により971石の寺領地が認められ、1000石の寺領地があった法隆寺に匹敵していた。
 また、享保15年(1730)に描かれた永久寺の絵地図からは、永久寺の全貌がわかる。
 それには東山に不動堂をもち、中央に本堂と三社殿、北に池を望んで真言堂、南に智恵光院があり、境内には50を越える塔頭が並んでいたという。
 また、江戸時代には「大和の日光」ともいわれていたと記した版画もあり、また、安産の神として信仰を集めていたという言い伝えもあるようだ。
 また、平等寺には、地元のひとから預かったという香炉(高さ80cm)白磁の高麗犬が装飾された立派なものがあるという。

   文章は、平成7年10月末発行 八剣公民館だより 「私たちの郷土を探る 永久寺の建立 750年余り続いた華麗な寺院」より
 内山永久寺は現天理市杣之内町と園原町の場所に位置し、3つの小丘陵と2つの谷筋に添って、南北550m、東西450mに渡り存在していた寺であった。
 1130年代頃に移築造営されたもののようでその寺院空間はかなりの規模を誇る。本堂付近には伽藍中心部があり、小丘陵先端部に知恵光院、5つの谷筋に子院が存在していた。東京国立博物館遍「内山永久寺の歴史と美術」によればその伽藍の中心部には、本堂・多宝塔・鎮守三寺と白山権現社・真言堂等があり、たくさんの院家と子院が存在していた。門は北 東 南 西と谷から外へ出るところにあり、北と西は内門 外門と二重構造で建てられていた。寺領はというと興福寺や法隆寺 吉野の蔵王堂などの1千石以上の規模を誇る寺に次いで971石と経済的にも豊かな農村基盤に支えられており、すばらしい寺であった。
 しかし明治初年、永久寺は廃仏毀釈の影響を受け、消える運命を辿った。明治元年には、お堂も売りさばかれている。地租改正が(明治7年から9年)行われた時期と、お堂がなくなっていく時期が重なってくる。そして木堂村の地租改正地絵図からも内山村として存在してた内山には村の石高の記録がない。無税地であることから、内山は独立的な村であって一般の人々が住む村ではなく、内山永久寺の為に用意された村であったことがわかる。
 明治元年(木堂・内山・山口)村であったものが、地図が作成される明治12年には杣之村となり、さらに明治41年には丹波市町の一部として杣之内が存在して、もはや地図には内山の表現は出てこない。内山村は一般集落ではなく、内山永久寺のためだけの村名であったことが推察される。内山永久寺の内山は寺の消失と共に消失した村名であった。

山の辺の文化 第43号
 内山永久寺域と杣之内村の景観 奈良大学文学部准教授 土平 博氏より

永久寺の四天王寺
   やまと百景 2014初冬号 
  天理参考館顧問 近江昌司 
一、貴族僧の寺

 天理市から桜井に向かう昔の長谷街道をしばらく行くと浄国寺がある。その左手の道を

川にそって東にたどる、ちょっと風情があるのももっともで、永久寺への参詣路であった。

少し登って行くとやや開けた台地にでる。その中ほどに中島を備えた「木堂池」がある。
山辺道のコースにあたっているからその方が行き易くくもある。この池が内山永久寺の
現場に残る唯一の遺構である。北辺の大きな案内板には、これが寝殿造りの堂宇に伴
う園地であり、周辺には七十を越す堂塔があったと記されている。
その規模・機構は宇治平等院に匹敵するという。
永久寺は、永久元年(1113)鳥羽天皇が 僧頼実の修行を夢告によって知り、年号をとって
寺とされたと縁起は記す。やがて尋範が
俗にいう隠居寺として整備拡大、次に真言僧
亮恵によって真言・修験の大規模寺院として 発展する。しかし明治政府の廃仏毀釈政策
よって全てが廃絶した。いまわずかに鎮守社拝殿が石上神宮に移建され国宝の指定
をうけ
ている。
尋範は関白藤原師実の子で甥の関白忠実の庇護を得て氏寺興福寺の僧となり、本寺一1

乗院・大乗院の別当を兼任した貴族僧である、その隠居寺でもあった永久寺は京の貴族
邸と
同様な寝殿造が採用され、藤原貴族もこれを歓迎援護した。そのうえ亮恵は貴族の
真言祈
祷の寺として活躍し、壮大な伽藍が出現したのである。

園池 園池は伽藍の中軸の位置にある大喜院から見るべく企画されたと見られる。
ほぼ東岸か
ら中島に通じる堤状の細道があるが、これは本来渡橋であったろう、また「釣殿」
の名も
みえるから大喜院から池中に通じる浮殿があった。十四世紀初頭には池の東北部に
滝組も
造られた。

泉水・,園池を含むこの回遊式庭園は森蘊先 生以来、貴族の邸宅寝殿造に擬らえたと考え

られてきた、最近菅沼孝一氏は来迎思想、わけても帰来迎にもとづく庭園説を発表された。
大和周辺は長岳寺・円成寺・浄瑠璃寺な
ど泉水・園池を配した寺院が見られる、これらに
ついて一様に浄土式庭園とおもっていた
が、筆者は浄土と来迎の庭園の違いがまだよく理解
出来ずにいる。

三、四天王像

 廃仏毀釈によって永久寺の壮大な伽藍は消失した、かつて同寺に安置されていた膨大な

仏像・仏画も多くは失われたが,売却されたと思えるいくつかの絵画彫刻の類は所をかえ

て現存する。確認できる範囲では仏像彫刻は十五点、内重文指定が五点ある。その多くは

県外に出たが個人から東大寺に寄贈されて見ることができる二躯について述べてみよう。


1、持国天立像、木造彩色
 高さ201センチ二メートルの大像である、右腕は大部分を失って
いたが二00二年の「東大寺のすべて」
展(於、奈良国立博物館)の際に、寺内で新たに見い
だされた右腕を復して展示されたか
ら、ご覧になった方もおられよう、臂を曲げて前に出し広
げた掌には宝珠をささげ持って
いたのであろう。左手に握っていた剣は失われている。

また保存修理のさいに発見された胎内納入品の文書中に永暦元年(1160) .治承2年(1178)の
墨書が確認された。丁度平
治乱の翌年から南都焼打の前年だから平家の隆盛期にあたる、
この頃は仏像彫刻の歴史か
ら見れば平安期の定朝様式に代表される荘厳典雅な様式が、
次第に惰性に流れ抑揚に乏し
い作品が多くなると言われる。

筆者は主題の像のやや下向きげに見える面貌が好みである、眦(まなじり)を上げて睨みつけ
る憤怒の形相であるが、そんなにいか
めしい怖さはない。いい意味の伊達者の感じそこにむ
しろ親しみさえ覚えるの
ではなかろうか。立っている岩座(本来のものかどうかわからないが)も
小さめに造られ、
右足をほんの少し前に出しているが姿態は全体的に活動的とはいえない、
裾も左後方に翻
っているがそれほど大仰(おおぎょう)には見えない、ある種の品位さえ保とうと
してい
るかに思える。しかしそれでいて内に秘めたようなあふれる力感と抑揚のきいた全体の
現など、やがて次代に成立する鎌倉彫刻の極めて新鋭的で活動的な憤怒の像がやがて生
出される、その前夜の様相を物語っているのではなかろうか。

冠.髷.獅子噛み(ベルトのバックルを噛む)両腕の左右に翻る衣などは別材で作って貼り付け、
布貼りに漆を被せ彩色を施す手法であ
るという、胸甲.腹甲・ベルト金具などの装飾具はあまり
目立たないようであるが、よく
見ると精微な作法で彩色もよく残る、そこには王朝美とまではいえ
ないが、その華麗な要
素が固定しながらもなをその遺風を語ってくれているのではなかろうか。


2、多聞天立像
 木造彩色 高さ186.5センチ

 右手を高くあげているが腕先は欠けてない恐らく掌に宝塔が乗る、多門天によく見る形であろう、
兜をかぶった顔はその宝塔を見上
げるようにやや右にのけぞっている、左手は垂下して人差し
指で大地をさしている、両足
が台座にふんばっているが少し右足に重心を乗せている、持国天
とは鎧の構成が似ている
が細部の装飾が随分違う、その装飾各部分は貼り付けではなく本体か
ら彫りだしていると
いう。したがって持国天とは一具のものではないとするのが大方の見解である。

頭部、頸部。右肩矧目の各内部のほか胎内に木札・経筥が納入されていて、それらにみな墨書
が見られる、それには「平治元年
(1159)」「永?元年(1160)」「文永11年(1268)」「同九年」などの
年紀がみ
られるが、文永五年に法橋慶円が修理をした際に書き入れた様子もあって、其の頃に
寺伝
の平治元年造立説があったのであろう。様式的にいっても同時代の製作である。筆者は持

国天とは異なってやや萎縮の趣はあっても、闊達な力強く重厚な天部の姿がまた好ましく

感じられる。そして興福寺藏木心乾漆の四天王中の多門天からはじまる形相を継承したよ

うな主題像の姿態に、南都寺院の伝承・伝統の強さの在り方に驚きもする。

このほか文永四年(1267)運慶の孫とみられる康円作の四天王眷属像四躯が大変興趣に富む、
三十センチの小像ながら何しろ珍
しいもので他に類例がなく、うち二像は黒人白人を意識した
作例というが、なるほどそれ
らしく見える、残念ながら東博.靜嘉堂・MOA両美術館に分蔵されて
いる、筆者はMO
A美術館開館記念展で見ることが出来たが是非四像そろった所を観賞したい
ものであ
る。

美術史にはとんと不案内な学徒の漫言とおぼしめしくださいましょう。  

 内山永久寺の残像::

 杣之内町から圜原町にかけて所在した内山永久寺は、山麓の谷間に広大な境内をもつ寺院でした。平安時

代末期の永久2 (1114)年に鳥羽天皇勅願によって創建され、当時の年号から永久寺と呼ばれていました。
江戸時代には「大和の日光』
とまで言われ、堂塔が並ぶ伽藍と庭園、周囲には多数の坊舎を伴う壮大な寺院
でした。しかし明治の廃仏毀
釈によって伽藍や坊舎は消滅、優れた仏像、仏画、歴代の建造物、さらには境内
の石垣や階段、瓦一枚に至
るまで流出し、今は庭園であった池だけが当時の面影を留めるばかりです。

 平成26 (2014)年は天理市制60周年であるとともに内山永久寺の創建900年目にあたります。
これ
を記念して展示会を開催し、今は無き内山永久寺の文化財をご紹介いたします。.


伽藍と庭園

 江戸時代の絵図には、内山永久寺の中央に亀の形をした中島をもつ庭園「本堂池」があり、一段高くなっ
池の東側に壮大な伽藍が描かれて
います。

 伽藍の中心をなす大型建物である「本堂」には阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀三尊と多聞天,持国天の二天像
を配し、本堂の南側にあった「
観音堂」には結崎から建物とともに移したという十一面観音が安置されていました。
庭園を見下ろす「多宝
塔」には釈迦、薬師、弥陀、弥勒の四仏が配され、弘法大師像を安置する「徇影堂」は高野
山御影堂を参考
に築いたとされています。金剛乗院と呼ばれ真言宗を象徴する「真言堂」は、保延2 (1136)年に築
れた内山永久寺では最古の大型建物で、真言密教の儀式の場として仏画大日如来を本尊とし、ボストン美術
に残る仏画四天王像も真言堂にあ
ったものと言われています。阿弥陀如来を安置し西を正面にして築いた本堂、
その西方には庭園である本堂
池の水面が広がり、さらに向こうには街道へつながる西門、盆地に向かって西方に
真っすぐ伸びる参道など
 奈良の東山麓を背景に西方浄土の庭園を築いた内山永久寺の風光明媚な姿がうかが
えます。

現存する建物

 多数の堂塔が解体され130年以上の歳月が経過しましたが、移築され現存する建物もあります。石上神宮の
「摂社出雲建雄神社拝殿」は
中央に通路をもつ割拝殿と呼ばれる独特な檜皮葺建物です。創建まもなく内山永久寺
本堂の北側に鎮守拝殿
として建てられていたものを、正安2 (1300)年に現在のような割拝殿に増改築されたものです。
廃仏
毀釈後もしばらく内山永久寺跡に残存していましたが、大正3 (1914年に石上神宮へ移築され、現在は国宝に
指定されています。九条町
の浄福寺「本堂」、杣之内町の「薬師堂」は、内山永久寺の院家子院(いんけしいん)に

あった護摩堂や持仏堂を移築したものです。豊田町の森田家住居は、内山永久寺威徳院の坊舎を移築したと

言われています。この他、南六条町光明寺山門、兵庫町神護寺山門も内山永久寺から移築したものと伝えら

れています。その他、川原城町長慶寺にあった旧本堂や勾田町善福寺の旧山門も内山永久寺から移築した建

物であったことが知られています。

奈良市杏町(からもも)の光楽寺本堂は、五間四方の大型建物で内山永久寺から移築したものです。.本堂内には、
永久
寺にあった仏像一躯が厨子に納められ、本尊阿弥陀如来立像とともに安置されています。もともと檜皮葺の

建物でしたが、瓦葺に変わっています。廃仏毀釈のあと現存する唯一の大型建物で、本堂の階段上の庇(ひさし)の像

や龍の飾りつけ堂内の欄間に、往時を偲ぶことができます。

内山永久寺創建900周年
天理市制60周年

内山永久寺関連遺構·遺品

種別      名称                       指定  所在                時代

建築     石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿      国宝  石上神宮(天理市杣之内町  鎌倉

        浄福寺本堂                        天理市九条町(地図)      江戸

        杣之内町薬師堂                     天理市杣之内町(地図)     江戸

        光明寺山門                        天理市南六条町(地図)     江戸

        神護寺山門                        天理市兵庫町(地図

        光楽寺本堂                        奈良市杏町(地図

彫刻     持国天立像、多聞天立像          重文   東大寺

        不動明王坐像                  重文  正寿院 奈良国立博物館

        聖観音菩薩立像                重文  東大寺               鎌倉

        愛染明王坐像·厨子               重文  東京国立博物館ほか

        如来坐像                                   光楽寺 (奈良市杏町)

絵画     密教両部大経感得図             国宝  藤田美術館            平安

        大威徳明王像                       岡山県立博物館        南北朝~室町

石造物    丁石                            天理市西井戸堂町
        手水鉢                          教願寺(川西町下永)
伝世遺物  扁額                             個人蔵               鎌倉
        香炉                            平等寺(桜井市三輪)
        香炉                            光楽寺(奈良市杏町)
        防火用具                         石上神宮(天理市杣之内町)

その他の主要な内山永久寺関連遺構·遺品
種別     名称                     指定   所在              時代
建築     善福寺山門                      天理市勾田町         江戸
       庫裏                          天理市豊田町(個人宅)
彫刻    不動明王及び八大童子像         重文   世田谷山観音寺(東京都)  鎌倉
       四天王眷属立像               重文   東京国立博物館ほか    鎌倉
       毘沙門天立像                     不明              鎌倉か
       持国天立像、増長天立像               出光美術館           鎌倉
       不動明王及び二童子像                個人蔵              鎌倉~南北朝·江戸
       不動明王踏下像                    個人蔵              南北朝~室町
       小野小町蔵                       藤田美術館           桃山~江戸
       弘法大師坐像                     個人蔵
       厨子入弁財天及び眷属像              個人蔵
       五大力明王像                     正暦寺(奈良市)
絵画    真言八祖行状図               重文  出光美術館           平安
       四天王像                        ボストン美術館         鎌倉
       亮恵上人蔵                                         鎌倉
工芸    鰐囗                           秋篠寺(奈良市)          鎌倉
       笙銘子信貴                      彦根城博物館          鎌倉
       朱漆盆                         東京芸術大学芸術資料館   南北朝
石造物   丁石                           天理市合場町

 












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