円成寺 地図

  「柳生の里」にほど近い奈 良市郊外の忍辱山円成寺。国 道369号わきから勧請縄を

くぐると、国名勝の幽玄な庭園が広がる。

 山号の「忍辱」とは、仏教の六波羅蜜の一つ。いかなる苦難にも耐え忍ぶ、という仏

くはらみっ道修行上の徳目だ。

 寺の開創は諸説あるが「平安中期に十一面観音をまつられた命禅上人を開基とす

るのが好ましい」と田畑祐弘住職(67)。やがて1153年、京都·仁和寺の寛遍僧正

が東大寺別当などを歴任して円成寺に登り、基礎が築かれた。応仁の乱で伽藍の大半を

失うが、復興に努めた栄弘阿闍梨が朝鮮から高麗版大蔵経を持ち帰り、これを徳川家康

に献上。寺領を235石に加増されて一大霊場となった。

 本堂と楼門(いずれも重要文化財)は1468年の再建。本堂の東には国宝「白山

堂」「春日堂」の2社が立つ。鎌倉初期、奈良·春日大社造営の際に旧社殿を拝領し

た日本最古の春日造社殿だ。

 ぜひ拝観したいのが、多宝塔の本尊、運慶の初期作の国宝。大日如来坐像。宝冠の下

に彫り整えられた毛髪、弧を描く眉と細い眼、繊細な鼻梁と形のよい小鼻·口、胸から

腹·太ももの弾力的な表現など、同寺は「像全体が放つ、はつらつたる精神力は他に比

べるものがない」。

 この多宝塔が財政難の大正期に売却され、本尊の坐像も阿弥陀堂の片隅にあったが

質素倹約に努めた先代住職の思いに約1万人が浄財を寄1990年に再建された。
 「いつお越しいただいても、ほっとしてもらえる場所になれば」。田畑住職の笑顔

が心地よかった。
20111-10-31  朝日新聞

(大脇和明)

1967 (昭和42 )年のこと。神奈川県に住む中学2年

の男の子が、漫画家·石森(石ノ森)章太郎さんの事務

所を訪ねた。小学生のころから漫画少年。自信作を批評し

てもらうつもりだった。

反応は悪くなかった。しかし、偶然その場にいた赤塚不

二夫さんに一喝された。「今から漫画家になろうなんてダ

メだ。もっといろんなことを勉強しなきゃ」。作品にはほ

とんど目を通してくれなかった。そのひと一言で、少年の漫

画熱は急速に冷めた。

それでも美術への志だけは消えず、東京芸術大学で彫刻

史を学ぶ。後に清泉女子大教授となる美術史学者、山本勉

さん( 64 )の、「人生の選択」だった。

大学2年生だった74年秋、山本さんは同級生や上級生約

30人と「古美術研究旅行」に出た。京都·奈良の古寺をめ

ぐって目を肥やす。毎夜深酒が続いたが、奈良·円成寺で

国宝の大日如来坐像の前に立った時は酔いがさめた。

高さ98 . 2 cmの木像。左手人さし指を右手で握って静か

に座っているだけなのに、若々しくて息遣いさえ聞こえて

きそうだ。凡庸な仏像とは明らかに雰囲気が違っていた。

台座天板の裏側には、「運慶承安元元(1175)年十

一月廿四日始之・・・ 大仏師康慶/実弟子運慶」という墨書

がある。すでに奈良の仏師の重鎮だった康慶(生没年不
の子/運慶(?~122
3)のサインだ。運慶は20歳代と推定され、
これがデビュ
作とみられている。その作品を目の当たり
にして、山本
さんは運慶にのめり込んだ。

東京国立博物館の研究員だった2003年、1通の手紙

を受け取った。床の間に鎮座する大日如来像の写真が添え

られ、「胎内納入品を調べたいが、X線写真を撮るにはど

うしたらいいか」とあった。

「サラリーマンにも買えるくらいの値段」で古美術商か

ら手に入れたという写真の像円成寺や栃木県足利市の

光得寺に伝わる運慶の大日如来像によく似ていた。山本さ

んは実物を鑑定° X線撮影も実施して、運慶仏特有の「五

輪塔形木札」などが胎内にあるのを確認し、「運慶作品に

限りなく近い」という論文を発表した。

たちまち注目が集まり、08年には所蔵者が米国の美術品

オークションに出品する騒ぎに。「運慶仏が海外流出?」

と騒がれたが、14億円で宗教団体·真如苑に渡った。

山本さんは今月、小学館から「運慶大全」を刊行した。

B4判392,税別6万円「大著」だ。運慶研究をま

とめる本は、研究者として大きな目標。企画を持ちかけら

れてから1年ほどで書ききった。「新たな運慶仏」として

紹介したかった仏像について、確証を得られなかったの

が心残りではあるけれど。

あの時、赤塚さんに叱られなかったら、運慶の研究はし

ていなかったかもしれない」。

さすがは「天才バカボン」の「パパ」だな。 (小滝ちひろ)