背割堤地図

御幸橋付近にある大きな石三っつは、
木津川・宇治川・桂川の三川合流を表し、
淀川となって大坂湾に流れる。
 「蘆刈」谷崎潤一郎⇒
背割堤は木津川と宇治川、桂川が合流する地点。桜の時期には八幡桜まつりが催される。
1.木津川付け替えで生まれたした。
この背割堤地区は、八幡市の北辺に位置し、府道京都守口線の御幸橋
の下流、木津川と宇治川を分ける細長い堤防のことで、明治の初め、木津

川の付替工事に伴ってできた宇治川右岸堤防の一部でした。明治29年から本格的な治水事業が始まり、大正6年の水害を契機とした「淀川改

修増補工事」が行われ、昭和8年に完成し、現在の姿となって「背割堤」と呼ばれるようになりました。平成元年4月、「淀川河川公園背割堤地区」

として開園されました。※ちなみに「背割堤」は土木用語です。


2、はじめは見事な松並木でした。

背割堤は、昭和50年代初めまで松並木で、別名「山城の橋立」とも呼ばれ、時代劇の撮影で馬が疾走する背景などに使われてきました。その松並

木も害虫被害により枯れる木が多くなり、昭和53年3月、当時の建設省によって桜が植えられました。現在、248本の桜(ソメイヨシノ)の他、
ナミズキ46本があります。

背割堤の桜は全国的に見ても、最大級の背の高さ(樹高)と枝ぶり(枝幅)です。特に、隣の樹に負けずと一様に揃って成長した並木、堤防の坂

の下に伸びた枝、川の流れに沿ってゆっくり曲がっていく並木の列がドラマティックな感動をもたらし、多くの人を魅了しています。その


3.生直環境がとっても良い場所です。

桜の生育にとって、背割堤は次のような点で優れた環境です。

<土の柔らかさ>

通気性(踏み固められていないため、土の中に空気があり、根が呼吸でき、成長が良い)

保水性(両側に大きな河川があるため、生育に必要な水に恵まれている)

排水性(堤防が花崗岩系の土砂でできており、排水性が良く、根が腐らない)

<通風性の良さ>

両側を大きな川に挟まれ、上流・下流とも広々とした河川敷空間であるため、風が通りやすく、害虫などが発生しにくい。

<採光の良さ>

四方が河川であり、日光を存分に浴びている。

<生態系の多様性>

周辺も含めて野鳥や昆虫等の棲家となっていて、いろいろな生物が生息している。

八幡桜まつりとは

全長約1.4kmの淀川の堤防に248本の桜並木が続く、背割堤で毎年開催される桜まつりです桜を見ながら食べ物や飲み物を楽し

めるよう飲食店が出るほか、イベントなどが行われます。今年はさくらであい館のオープンもあり、更なる賑わいが予想されます。 

宇治川と木津川を分ける京都府八幡市の淀川河川公園は、
約1.3kmの堤防の両側に、二百数十本のソメイヨシノ桜が咲く。
動画   背割りの桜⇒⇒⇒ 
 全動画⇒⇒⇒











天王山木津寺 久修園院(こつじ くしゅうおんいん)地図

 
 
 天王山木津寺久修園院

宗派は真言律宗、本山は奈良西大寺、その別

格本山です。本尊は釈迦如来。縁起によれば

霊亀二<七一六>年僧行基による開基で、

神亀二<七二五>年に落慶したとされています。

七堂伽藍(しちどうがらん)と多くの塔頭を持つ広大な寺院で

したが、大坂夏の陣(元和元(一六一五>年)の

兵火で大半を失いました。

のち、江戸時代(延宝年間)に、宗覚律師

(一六三九〜一七二0)が再建しました。宗覚

は久修園院の中興の祖といわれ、宗教活動はも

とより、多芸多才で、宗教学・地理学・医学.

天文学・絵画・工芸 音楽・武術などを極め、

後世に残した業績ははかりしれません。

寺所蔵の天球儀(渾天儀)と地球儀は、とも

に宗覚の製作(元禄十五<一七0二>年頃)で、

枚方市指定文化財です。

2004年10月枚方市教育委








明智光秀本陣跡 地図

 
 

◆境野1号墳

境野1号墳は、古墳時代前期後半の前方後円墳で

世紀後半に当たります。現在まで九次にわたる調

の結果、全長五八m、後円部径三二mを測る規模

に復原されます。斜面は、後円部が二段か三段、前

部が二段に築かれています。斜面には葺石を施し、

平坦面には円筒埴輪を樹立させています。

埋葬施設は不明ですが、後円部の藪土からは、車

輪石,石釧(いしくしろ)などの石製品や鉄刀などが採取されてい

ます。これらは副葬品の一部と思われます。

境野1号墳が立地する下植野の段丘は、南側を見

下ろすことができます。淀川を行き交う人々からの

めを意識して造営されたことがうかがえます。

光秀本陣跡

◆明智光秀本陣跡

境野1号墳は天正一0(一五八二)年六月一三日
夕刻に起こった天下分け目の天王山「山崎

合戦」の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所

ではないかと考えられています。

『太閤記』の記述に御坊塚に光秀本陣が置か

れ、兵力は五千有余とあり、当地周辺の地形を

考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたもの

と考えられます。古墳のある場所は標高二五

二mを測り、周辺と比べるとひと際高く天王

山や西国街道方向に視界がひらけます。羽柴秀

吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮

するのにうってつけの場所が本古墳であったと

言えるでしょう。

当地周辺で行った発掘調査では空掘り跡とみ

られる遺構が複数発見され、合戦前夜から本陣

の準備が進められ、秀吉軍を迎え撃つ準備を進

めていたと考えられます。また火縄銃の鉄砲玉

も出土し、両軍の激戦の様子が窺えます。

合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終

わります。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝

龍寺城から近江坂本城に向かう途上,山科小栗

栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の

最期を遂げたと言われます









西国街道 調子八角 地図

 
  西国街道は、京都の東寺口から兵庫県西宮までの十六里(1里は 約四キロメートル)を結ぶ江戸時

代の幹線道路で、その先は中国地方へつながります。この街道は豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、

整備されたことから「唐街道」とも呼ばれています。

長岡京市域では、一文橋から神足を経て調子八角まで南北に縦断しています。神足は東寺口から二

里目にあたるため、一里塚が置かれていました。

ここ調子八角は、西国街道と丹波街道との分岐点にあたり、長岡天満宮や光明寺、さらに丹波方面

に向かう旅人と京都へ向かう旅人はここでわかれました。

平成二六年七月 長岡京市

 
 西国街道 調子八角之碑