西大寺地図

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  本堂(重文)
真言律宗総本山
本尊 釈迦如来立像(重文) 
     興正の発願によって建長元年(1249)清凉寺の三国伝来の釈迦如来像を模刻した。
    文殊菩薩騎獅像(重文) 弥勒菩薩坐像
阿しゅく如来(重文) 宝生如来(重文) 阿弥陀如来(重文)釈迦如来坐像(重文)
吉祥天立像(重文) 大黒天立像(摩訶伽羅天)
行基菩薩坐像(重文)・・・もと喜光寺に伝えられた像。
善財童子
 西大寺は、称徳天皇が寵愛する道鏡のため建立された。東の東大寺に対抗したともいわれる。
その他百万塔造立手束など、仏教政策に力が入れられた。
 また、称徳天皇が四天王像の造立を発願して建てられた寺と云われている。

 南都七大寺の1つに数えられ平安時代に火災などで一時衰退したが、1235年叡尊上人が再興し、
密・律兼修の根本道場として発展した。現在の堂宇は火災で焼失した後、江戸時代に再建されたも
のである。

弓削道鏡  由緒  建築様式折衷様 
東門 四王堂 東塔跡及び鐘楼
 四王堂 現堂は延宝2年(1674)の建立。東西9間、南北7間の重層建築。
本尊 十一面観音立像(重文)像高6m。
四天王立像及び邪鬼(重文) 
 金銅四天王像を祀るため、四王堂という。
 建築は重層に見えるが、下の屋根は飾りの裳階(もこし)である。 
 東塔跡は天平神護元年(765)東西に8角7重の大塔の建立を企画し8角の基壇が造られたが、
これを4角の基壇に改められ、高さ15丈(46m)の五重塔が東西に建立された。
 西塔は平安時代に雷火に焼失し、東塔も室町時代・文亀2年(1507)兵火により焼失した。
現存の東塔跡の4角の基壇は創建当初のものであり、その周囲の8角の敷石は最初に造られた8角基壇跡である。
 西大寺⇒
 西大寺は南都七大寺のひとつであり、平城宮の西に位置する西大寺。

時衰退したが、名僧・叡尊により再興された。

   
 大黒天立堂  護摩堂
   
 愛染堂  愛染明王 文永・弘安の役に叡尊
が敵国降伏を祈祷した本尊
 愛染堂
宸殿造の仏堂 本瓦葺 南北11間東西8間 
京都御所近衛政所御殿を移築した(宝暦12年・1762)建物であり、
建立年代は明らかでないが桃山時代(1570〜1600)に建てられたものであると考えられる。
本尊 愛染明王座像(重文 木造)
 鎌倉時代元寇に際し、叡尊上人が行った元軍調伏祈願の本尊。この時、愛染明王の鏑矢が飛んでゆき
 元軍を敗走させた伝説がある。
宋祖 興正菩薩座像(重文)
  80歳寿齢に造られた数少ない生前に造られた肖像。
忍性   忍性生誕地碑  夕日地蔵尊  
忍性鎌倉  八十八面観音巡礼   海龍王寺の縁起  
秋篠寺の歴史  清凉寺の釈迦如来  仲麻呂の乱(称徳天皇と道鏡A) 
称徳天皇と道鏡B   西大寺 見えてきた  西隆寺
西隆寺 幻の尼寺      
 護摩堂は方3間堂で右側面中央は正面と同じ桟戸、左側は引廻戸とし、
縁は正面と右側にだけ設けており、当初から左右の構えが異なる建物である。
改造は須弥壇を後退させただけで、小規模ではあるが上質の建物である。
寺に残る棟札から寛永元年(1624)の建立であることが知られている。
写真は西大寺の大茶盛
ポスターより
大茶盛 一口めして皆なごむ
  充伯
謡曲百万の柳
鎌倉時代に西大寺を復興した叡尊上人が
、境内の八幡神社にお茶を献上し、残りを
参拝者にふるまったのが始まりとされる。
能楽二百番中の「百万」は当山の古事を主題にしたもので、
四王堂前の池の端にゆかりの柳が今なお残っている。
謡曲⇒⇒⇒

礎石を支える工夫 
 2006年に奈良文化財研究所が行った西大寺食堂院(じきどういん)跡の調理場にあたる大炊殿(おおいどの)
の建物が確認された。大炊殿は、桁行(けたゆき)4間で、梁間4間で、史料から、瓦葺きであったと考えられる。
 礎石は既に抜き取られていたが、礎石を据えるために掘られた礎石据え付け穴に工夫がみられた。
 まず、礎石を据える位置に一辺1.5〜2mの方形の穴を掘る。そして、土を層状に突き固め、中心部分には
人頭大の石を埋め込んで土を固める。
 丁寧なものでは、石のほかに瓦を敷きこむものもある。
 このように地盤を強固にしてからようやく礎石を据える。
 礎石を支えるためにその下にさらに大きな石を据えた事例もある。西大寺の金堂院跡では、薬師堂とみられる
建物遺構から巨大な石材が出土した。
 薬師堂は、西大寺に二つあった金堂のひとつで、桁行9間、梁間4間の瓦葺き建物である。
 薬師金堂の礎石抜き取り穴を合計7基確認したが、その内4基では、柱穴の底、すなわち礎石の下に据えた
巨大な切石が出土した。
 この切石は、二上山産の凝灰岩で、長さ約1.6m、幅約60cm、厚さ約30cmのものが、一つの柱穴にすき間
をあけて二つずつ並べて据えられていた。この切石が礎石にかかる荷重を受け、さらに切石同士にすき間を
あけることによってその荷重を分散していた。
 切石の表面をみると、ノミなどによる加工痕跡が残っていた。

真言律宗とは

 大和西大寺を総本山に大和・山城

伊賀・河内をはじめ、遠くは福島県い

わき市、西は四国・九州までひろがっ

ている奈良仏教の宗派。これは鎌倉時

代、南都(大和)教学復興の中心にあ

った興正菩薩叡尊(一二○一〜一二九

0) の教え、いわゆる西大寺流を伝え

るものである。

真言律宗寺
元興寺塔跡  白毫寺  添御縣坐神社 
海龍王寺  浄瑠璃寺  宝山寺 
久修園院     





西隆寺 地図
 
 掘込地業が行われた塔の可能性がある建物跡
2023−9−28 産経新聞
 奈良時代に称徳天皇が創建した尼寺、西隆寺の旧境内 (奈良市西大寺東町 )で、
中心部に地盤強化のための土坑 (穴 )のある建物跡が出土し、同市埋蔵文化財
調査センターが 27日発表した。遺構は奈良文化財研究所 (奈文研 )が昭和 46年
に行った調査で小規模な塔跡として報告しているが、新たな開発が計画されたこ
とから記録保存するために再び調査し、より詳細な工法が明らかになった。  
西隆寺は西大寺の対となる平城京の代表的な尼寺で、奈良時代後半に建てられ
たが、鎌倉時代には田畑になっていたと考えられている幻の寺だ。
 旧境内は近鉄大和西大寺駅北側に位置し、奈文研はこれまでの調査で金堂や塔、
東門、回廊の跡などを確認。塔跡は残り続けていたが、開発に伴い保存が困難に
なったため、今年 5月から同センターが発掘してた。
 昭和46年の調査では、ー辺約 6m、深さ約70cmの方形の遺構を確認。塔を建
てるため「掘込地業」と呼ばれる地盤改良を行った跡とみられており、建物の基壇下
に当たる範囲全体を掘り下げた上で小石を混ぜた粘土で埋めて地盤を固めていた。
 今回の調査でさらに掘り進めた結果、新たにこの底面中央に粘土質の土壌と瓦を
入れた穴 (一辺約 2m、深さ約 30cm )を発見。建物中心に当たる部分を入念に強化
していたことが分かり、上部の建物について考える上で貴重な資料という。 ‘  
基壇が削平されていることなどから建物の性格は断定できないが、塔とすれば宇陀市
の国宝?室生寺五重塔 (高さ約 16m )の一辺 5? 6mの基壇に近い規模だ。
 また今回の調査では、南北にひさしがあるさらに古い建物跡が出土。寺になる以前
は貴族らの邸宅があったと推測される。
 奈良文化財研究所の箱崎和久・都城発掘調査部長 (建築史 )は「奈良時代の正方形
に近い遺構は塔跡のほかには考えにくい。西隆寺についてよく分かっていないので、
調査成果は貴重な資料になる」と話している。
 現地は既に調査が終わり、埋め戻されている。 
     
ならファミリー店内1階の中にある門跡の遺構表示。柱跡の場所を
丸井マークで表示している。 
西隆寺 幻の尼寺