西大寺地図

本堂(重文)
真言律宗総本山
本尊 釈迦如来立像(重文) 
     興正の発願によって建長元年(1249)清凉寺の三国伝来の釈迦如来像を模刻した。
    文殊菩薩騎獅像(重文) 弥勒菩薩坐像
阿しゅく如来(重文) 宝生如来(重文) 阿弥陀如来(重文)釈迦如来坐像(重文)
吉祥天立像(重文) 大黒天立像(摩訶伽羅天)
行基菩薩坐像(重文)・・・もと喜光寺に伝えられた像。
 西大寺は、称徳天皇が寵愛する道鏡のため建立された。東の東大寺に対抗したともいわれる。
その他百万塔造立手束など、仏教政策に力が入れられた。
 また、称徳天皇が四天王像の造立を発願して建てられた寺と云われている。
東門 四王堂 東塔跡及び鐘楼
 四王堂 現堂は延宝2年(1674)の建立。東西9間、南北7間の重層建築。
本尊 十一面観音立像(重文)像高6m。
四天王立像及び邪鬼(重文) 
 金銅四天王像を祀るため、四王堂という。
 建築は重層に見えるが、下の屋根は飾りの裳階(もこし)である。 
 東塔跡は天平神護元年(765)東西に8角7重の大塔の建立を企画し8角の基壇が造られたが、
これを4角の基壇に改められ、高さ15丈(46m)の五重塔が東西に建立された。
 西塔は平安時代に雷火に焼失し、東塔も室町時代・文亀2年(1507)兵火により焼失した。
現存の東塔跡の4角の基壇は創建当初のものであり、その周囲の8角の敷石は最初に造られた8角基壇跡である。
 西大寺は南都七大寺のひとつであり、平城宮の西に位置する西大寺。

時衰退したが、名僧・叡尊により再興された。

大黒天立堂 愛染堂 護摩堂
 愛染堂
宸殿造の仏堂 本瓦葺 南北11間東西8間 
京都御所近衛政所御殿を移築した(宝暦12年・1762)建物であり、
建立年代は明らかでないが桃山時代(1570〜1600)に建てられたものであると考えられる。
本尊 愛染明王座像(重文 木造)
 鎌倉時代元寇に際し、叡尊上人が行った元軍調伏祈願の本尊。この時、愛染明王の鏑矢が飛んでゆき
 元軍を敗走させた伝説がある。
宋祖 興正菩薩座像(重文)
  80歳寿齢に造られた数少ない生前に造られた肖像。
 護摩堂は方3間堂で右側面中央は正面と同じ桟戸、左側は引廻戸とし、
縁は正面と右側にだけ設けており、当初から左右の構えが異なる建物である。
改造は須弥壇を後退させただけで、小規模ではあるが上質の建物である。
寺に残る棟札から寛永元年(1624)の建立であることが知られている。
写真は西大寺の大茶盛
ポスターより
大茶盛 一口めして皆なごむ
  充伯
謡曲百万の柳
鎌倉時代に西大寺を復興した叡尊上人が
、境内の八幡神社にお茶を献上し、残りを
参拝者にふるまったのが始まりとされる。
能楽二百番中の「百万」は当山の古事を主題にしたもので、
四王堂前の池の端にゆかりの柳が今なお残っている。
謡曲⇒⇒⇒

礎石を支える工夫 
 2006年に奈良文化財研究所が行った西大寺食堂院(じきどういん)跡の調理場にあたる大炊殿(おおいどの)
の建物が確認された。大炊殿は、桁行(けたゆき)4間で、梁間4間で、史料から、瓦葺きであったと考えられる。
 礎石は既に抜き取られていたが、礎石を据えるために掘られた礎石据え付け穴に工夫がみられた。
 まず、礎石を据える位置に一辺1.5〜2mの方形の穴を掘る。そして、土を層状に突き固め、中心部分には
人頭大の石を埋め込んで土を固める。
 丁寧なものでは、石のほかに瓦を敷きこむものもある。
 このように地盤を強固にしてからようやく礎石を据える。
 礎石を支えるためにその下にさらに大きな石を据えた事例もある。西大寺の金堂院跡では、薬師堂とみられる
建物遺構から巨大な石材が出土した。
 薬師堂は、西大寺に二つあった金堂のひとつで、桁行9間、梁間4間の瓦葺き建物である。
 薬師金堂の礎石抜き取り穴を合計7基確認したが、その内4基では、柱穴の底、すなわち礎石の下に据えた
巨大な切石が出土した。
 この切石は、二上山産の凝灰岩で、長さ約1.6m、幅約60cm、厚さ約30cmのものが、一つの柱穴にすき間
をあけて二つずつ並べて据えられていた。この切石が礎石にかかる荷重を受け、さらに切石同士にすき間を
あけることによってその荷重を分散していた。
 切石の表面をみると、ノミなどによる加工痕跡が残っていた。

西大寺の由緒

 
 西大寺の創建は奈良時代の天平宝字八年(七六四)に
称徳天が鎮護国家と平和祈願のために、
七尺の金銅四天王像の造立
を発願されたことに始まる。
造営は翌天平神護元年(七六五)
からほ 宝亀末年(七八〇)頃まで続けられたが、当時の境域

は東西十一町、南北七町,面積三十一町(約四十八ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の
両金堂をはじめ東西
両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。
文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわし
台大寺であった。しかし、その後平安時代に再三
の災害に遭
い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに衰?した。

しかし、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(一二〇一〜一二九○)がこの寺に
入って復興に当り、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の
根本道場として伽藍を整備された。
いまふる西大寺はほぼこの頃のプランを伝えている。興正菩薩は
鎌倉時代の南都の四律匠の一人で、
当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行
動的に興した人である。
したがって、その後西大寺は室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失っ
たけれども,
興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として、寺宝や宗教

的行事によくその寺格と由緒をしのぶことができる。

〔本堂])(重要文化財)光明真言堂とも言い、毎年秋の光明真言土砂加持祈祷はここで厳修される。
東西
十四間、南北十間,単層四柱造り、土壁を施さない総板壁によっている特異な建物である。江戸

時代宝暦二年(一七五二)の建立

〇本尊釈迦如来立像 一体(重要文化財)興正菩薩の発願によって建長元年(一二四九)に京都嵯峨

清凉寺の三国伝来の釈迦如来像を仏師法橋善慶等十一人が摸刻した霊像。この時代に盛行したいわ

ゆる清凉寺釈迦像のなかでも代表的な名作である。

文殊菩薩騎獅像及四侍者像 五体(重要文化財)興正菩薩の十三回忌に当る正安四年(一三○二)

に遺弟たちによって造られた文殊五尊像。文殊菩薩は興正菩薩が生前非常に信仰した特色ある仏の

一つであったが、現存するものは少ない。その文殊信仰の結晶ともいえる重要な作例。像内に弟子

達の経巻文書類が多く奉籠されていた。

弥勒菩薩坐像 一体丈六の大像で徳治二年(一三○七)の弥勒講堂焼失後、元享二年(一三二二)

に再興された像。

〔塔跡〕奈良時代には東西両塔が建てられたが、そのうちの東塔跡である。創建当初のものはとも

に平安時代に焼失、東塔は藤原後期に再建されたが、これも室町時代文亀二年(一五〇二)に焼失

した。巨大な基壇や礎石は往時の偉容

をしのばせる。壇下の八角の小石列は、先年発掘調査によ

って確認された、創建期に計画され途中変更された八角七重塔の基壇の規模を示す。

[聚宝館]昭和三十六年竣工,当寺の国宝、重要文化財など多くの寺宝を収蔵し、また一部を陳列し

ている。

〇阿?、宝生、弥陀、釈迦如来坐像(四仏像)四体(重要文化財)木心乾漆造、もと塔の四方仏であ

ったもので奈良後期の作風をもつ貴重な作例。

〇吉祥天立像 一体 (重要文化財)木心乾漆、もと四王堂に安置され、奈良時代の吉祥悔過会の本

尊であった遺作。

大黒天立像 一体 別名を摩訶伽羅天といい、興正菩薩が健治二年(一二七六)に感得して、仏師

善春に造らせた尊像。像内に多くの奉籠物が納められていた。

〇大黒天倚像 一体 永正元年(一五〇四)に仏師仙算が造った像。

行基菩薩坐像 一体(重要文化財)もと菅原喜光寺に伝えられた像。

○「矢の根」絵馬 一面宝暦四年(一七五四)鳥居清信画。西大寺愛染明王の江戸回向院出開帳に

際し、二代目団十郎が明王の霊徳を奉讃して矢の根五郎を中村座で協演、奉納した貴重な絵馬。

〔愛染堂〕もと京都の近衛政所御殿を宝暦十二年( 一七六二)に移建した南北十一間、東西八間の宸

殿造りの仏堂。中央は愛染堂、南は霊牌堂、北は客殿となっている。

〇本尊 厨子入 愛染明王坐像 一体(重要文化財)いつもは秘仏として中央厨子内に安置されるが

宝治元年(一二四七)に興正菩薩の念持仏として仏師善円が造った霊像。鎌倉時代の愛染明王とし

ての代表作。

〇興正菩薩叡尊坐像 一体(国宝)弘安三年(一二八0)菩薩八十歳の寿齢に当り、弟子達が報恩謝

徳のために仏師善春に造らせた肖像。さながら生きた菩薩に接するような気魄に満ちた写実的な像

で、像内に弟子達の熱意がうかがえる多くの奉龍物が納められていた。

〔四王堂〕創建期の由緒を伝える唯一の堂。しかし建物は再三焼失し、現堂は延宝二年(一六七四)

の建立。東西九間、南北七間の簡素な重層建築。

四天王立像及邪鬼 四体(重要文化財)本願称徳天皇の発願になる創建当初唯一の造像。再三の災

禍にから、邪鬼だけが当初のもの。その気宇の大きなみごとな造形力は奈良彫刻として見逃せな

いものである。多聞天(木造)を除く三体の天部は後世の再鋳。

〇本尊十一面観音立像 一体(重要文化財)正応二年(一二八九)亀山上皇の院宣によって京都から

移安された本格的な藤原彫刻。長谷式十一面観音像で錫杖を執る。

〔奥の院〕法界体性院 興正菩薩は正応三年(一二九〇)八月廿五日に九十歳の高齢でその生涯を閉じたが、
奥の院で
荼毘にふされてここに葬られた。境内から西へ暫く行った所にある。

〇石造五輪塔 鎌倉時代の一丈一尺に及ぶ立派な石塔で、菩薩没後すぐに弟子達によって建てられた
ことが記録によっ
てわかる。

〔その他の寺宝〕西大寺に収蔵されるその他の寺宝は夥しい数であるが、それらはいづれもその儘当寺
の正確な由緒を
物語る。
絵画では平安初期密教絵画の傑作として有名な絹
本著色十二天画像(国宝)をはじめ、
鎌倉時代の文殊菩薩
画像(重要文化財)など多くの仏画があり、また工芸品としては鉄宝塔(国宝)、
五瓶舎利容器及舎利塔(国宝)、壇
塔(国宝)、勅封舎利塔(重要文化財)など優秀な作品が多い。
さらに経巻文書の類は厖大な量で、なかでも創建当初の百済豊虫筆金光明最勝王経十巻(国宝).

吉備由利発願の大日経七巻(国宝)をはじめ、各種経巻、宗版一切経、綸旨、古文書など重要なも

のが多い。

〔主な行事〕

一、新年祈願会元旦より五日迄

一、星祭祈願会節分

一、初午厄除祈願会三月初午の日

一、大茶盛式一月十五日,四月第二日曜と前日の土曜日 十月第二日曜

興正菩薩が延応元年(一二三九)正月の御修法の結願に際し、鎮守八幡に参詣献茶され、その余服

を参衆に施されたことにはじまる由緒ある茶儀である。尺余の大茶碗で老若男女、信茶一味の妙境

に参ずる独特な茶会で、近年ますます盛んになって多くの人々が境内にあふれる。

一、光明真言会 毎年十月三、四、五日の三日間昼夜不断の修法。

文永元年(一二六四)八月に興正菩薩が始められて以来継続している歴史的な法事で、光明真言の

功徳力によって三界の万霊を救わんという真摯な法会。

〔雑事〕
〇花道松月堂古流 興正菩薩は茶道ばかりでなく、花道に於いても特別な見識を抱かれ、先哲の流れ

を汲み、御自身の創意を加えて、天地生成の自然の原理と密教教理から、深淵な花道を遺された。

これが当山に伝流している松月堂古流の花道で、近年多くの人々に親しまれている。

〇謡曲百万の柳  能楽二百番中の「百万」は当山の故事を主題にしたもので、四王堂前の池の端にゆ

かりの柳がいまなお残っている。

真言律宗とは

 大和西大寺を総本山に大和・山城

伊賀・河内をはじめ、遠くは福島県い

わき市、西は四国・九州までひろがっ

ている奈良仏教の宗派。これは鎌倉時

代、南都(大和)教学復興の中心にあ

った興正菩薩叡尊(一二○一〜一二九

0) の教え、いわゆる西大寺流を伝え

るものである。